日引(ひびき)
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福井県大飯郡高浜町日引 福井県大飯郡内浦村日引 |
日引の概要《日引の概要》 日本の棚田100選に選ばれている美しい棚田↑がある集落。内浦湾に面し、海岸斜面にある漁業地域。南北に通る主要地方道舞鶴野原港高浜線(県道21号)から東向きに下った日引漁港との間に集落がある。 日引村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。古くから漁業が行われ、慶長7年6月16日付の国中浦々漁師船等取調帳には「日引 〆拾艘、二かわ、いわしアミ」と見える。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。産物には粳・大麦などの農産物のほか、鯔200貫・鯖200貫・鰯5,330貫・烏賊70貫の漁獲物もあった。同22年内浦村の大字となる。 日引は、明治22年~現在の大字名。はじめ内浦村、昭和30年からは高浜町の大字。明治24年の幅員は東西2町・南北3町余、戸数26、人口は男76 ・ 女75、小船24。明治36年日引漁業組合(現内浦漁協)設立。 《日引の人口・世帯数》 74・27 《日引の主な社寺など》 日引製塩遺跡 『高浜町誌』 日引遺跡 県内では最も西に位置する製塩遺跡であり、その発見は昭和三○年代後半で、同志社大学による分布調査で明らかにされた。船岡式製塩土器(奈良時代)が知られる。 気比神社 石燈籠や狛犬のふるさとは背後の大谷山で、ここから切り出された日引石でつくられている。日引村の人々はみな石工を兼ねていたという。 『高浜町誌』
氏子、区伝承 日引と上瀬とは、昔から同一氏子で八幡宮を奉斎していた。明応五年(一四九六)八月一五日の麗天に宇佐八幡宮を勧請したもので、御神体は浜の丸石に本地の種子をほりつけたものであった。この時筑紫からいただいてきたという。後元禄一一年(一六九八)改築の時、青石の御神体に改めたが、これは三郎兵衛の所願で石屋文右衛門に奉刻させたものであった。いつ分かれて気比神社と山神神社とになったか明らかでない。 『大飯郡志』 村社 氣比神社 祭神仲哀天皇神功皇后応神天皇 日引字村中に在り 社地四百廿一坪 氏子二十六戸 永續資金壹千圓 社殿一間四方 拜殿二間半四方 神樂殿四間二尺二間半 〔若狭郡縣志〕 気比大明神社在日引村爲産神十一月五日有祭禮 〔神道八所卷〕 本地大日 御身體本地垂迹二尊 上瀬-古来ヨリ氏神在日引同氏子棟札寫享保十四己酉歳十二月吉日八幡宮棟札 明應五丙辰年八月十五日麗天奉勧請宇佐正八幡宮御祠一宇裏御神體ハ濱ノ丸石ニ本地ノ種子ヲ書キホリ付タル也此時筑紫ヨリ來ル卜也又元禄十一中寅年五月廿一日奉建立八幡宮御社…御神尊ハ青石也此時三郎兵衛御願ニテ御神體ヲ當所ニテ奉作往古ノ神體ハ本地トシテ今御座ヲ垂迹ト奉仕石屋文右衛門又享保九甲辰年卯月廿七日奉御上葺八幡宮 末祉愛賀天明神 一称戸床大明神疱瘡守護神 三寶荒神 享保二年九月造 若宮八幡宮 享保二年九月上葺 歳徳大善神 一称波利賽女寛政年中 熊野大権現 水神 自然石合龍中素戔嗚尊牛頭天王 山神 文化始 真言宗高野山派正知院末普門山正楽寺 『高浜町誌』 真言宗高野山正知院末 普門山正楽寺 一 所在地 高浜町日引字地ヶ中 一 開 創 天平年中(七二九~) 一 開 基 行基菩薩 一 本 尊 聖観世音菩薩 一 檀家数 二一戸 一 由緒沿革 永享三年記述の縁起書(別掲)によれば、天平一八年(七四六)六月一七日行基菩薩によって田井村の別所に開山されたとある。 本尊聖観世音菩薩は、寺の伝えによれば、行基菩薩、当寺を開くに当たり、山中に霊木を得て自ら聖観世音菩薩像一体を刻んで安置したという。 斉衡二年(八五五)に大地震があり、諸堂尽くを失い、一時中絶したが、寛平元年(八八九)六月一八日寛広法師大空山々麓の今の地に再建して中興開山と仰がれている。 また江戸中期、真言宗の名僧といわれた等空上人が隠棲し、寺門の高揚につとめたともいわれ、当寺境内の一隅にある『等空尊者供養塔』がそれを物語っている。現在は、わずかに残る観音堂を以て本堂となし、本尊聖観世音菩薩のほか、脇侍の諸仏像数体を安置し、山門に掲げる扁額は、小野道風の筆ともいわれ古刹の面影を残している。 当寺所蔵、阿弥陀如来画像一軸は、本尊聖観世音菩薩立像(御身丈一五五センチ)とともに、昭和四七年九月二三日の町指定文化財である。 なお当寺は現在“宗教法人法”上は単立寺院に属し、高野山正知院等と本末関係はない。 (縁起)永享三年癸三月雲締誌 …普門山正楽寺本在丹後田井村別所古老相伝曰在昔天平年中行事…遊化此地之頃或人告曰山中有不思議巨材…知其霊木…自彫御長四尺七寸聖観世音尊像尚以余材造阿弥陀薬師寺…營構七間四面…堂建五重宝塔…斉衡二年城中大地震此時山崩地裂伽藍破却於是諸堂寺院併移転于当地…廃替今見所残正間本堂三間薬師堂鐘楼堂仁王門七ヶ寺院而已…. 『大飯郡誌』 (普門山)正樂寺 眞言宗 高野山正知院末 日引字地ヶ中に在り 寺地三百六十九坪 境外所有地一町三反九畝十三歩 檀徒百四十一人 本堂三間半四間 土蔵二間一間半 鐘楼一間一間 門一間四尺 〔明細帳〕 本尊聖観世音菩薩 由緒 永享三年靈諦著述の縁起并古記寫に日本丹後田井村の別所に在り古老相傅て曰天平年中行基菩薩此地へ遊歴の時山中不思議の大樹あり其霊木なるを知で自ら其樹を以て御長四尺七寸の聖観世音を彫み 創立あり其後百余年を經で齊衡二年大地震の砌堂塔不殘破損し將に中絶せんとす寛平年中廣寛法印寺及伽藍を此浦大空山の麓に轉移再建すと有り 故に此人を中興と云ふ 今や時勢の變は、此古名刹を廢頽せしめ、僅に観音堂を存ずるのみなるも、其庫中には足利時代の年號ある古佛書、徳川時代初期の刊本山積せり。之を整理し公開するを切望す。(序に文學士朝日融溪は此寺の出身なり) 〔縁起〕… 〔古記寫軸〕… 『方丈記』に、 昔、.齊衡のころとか、大地震ふりて、東大寺の仏の御首落ちなど、いみじき事どもはべりけれど、…とある。 斉衡2年5月5日、奈良の大仏の首が落ちたという大地震の時だったのだろう。次の大地震で目の前にある原発の四つの原子炉や燃料プールの首が落ちねばいいのだが、もしそうしたことがあれば、この村も消滅だろう、いや地球消滅ということになろう… 「田井の別所」は、今は舞鶴市田井の水ケ浦の一番南で、県堺沿いの山手にある小字。こんなところにも別所があったのかと思える急斜面の場所で、地名から見れば鉱山があったのかも… 日引小学校 統廃合になったようである。 《交通》 《産業》 日引石 日引石はこのあたり足元にもゴロゴロしている。だいたい灰色で、元々が火山灰だから灰色なのだが、グリーンタフとも呼ばれるように少し青っぽいのも見られる。舞鶴の大浦地域の古い石燈籠も日引石が多い。しかし舞鶴どころのハナシではない、九州や対馬などでも多く見られるという。「日引石」 『高浜町誌』 日引石 青葉山若丹の国境より産する日引石は安山岩質凝灰岩及び石英粗面岩質の複成凝灰岩で黒色微密で建築用材に供せられて日引石の名があり、この石の靭軟なものは大理石と称してもよいのもある。立石の石地蔵も日引石であるとされている。 日引漁港 《姓氏・人物》 日引の主な歴史記録日引の伝説『大飯郡志』 佛礁 日引の海濱にあり、應永の頃丹後由良の人三莊太夫正樂寺觀昔像を盗み。海上を漕ぐこと終夜、而るに翌暁に及ぶも尚當區の海濱に在り、大に恐れ佛像を棄去りし故地なりと傳ふ。 『若狭高浜むかしばなし』 日引の仏礁(ほとけぐり) 日引の海岸に、〝仏礁〟という岩礁がある。そのむかし、応永のころ(一三九四ころ)、丹後由良に住んでいた三荘太夫というものが、行基というえらいお坊さんがつくったといわれる正楽寺の観音像を盗みだした。この観音像をもって浜へと下り、舟に乗せて海を渡って逃げようとした。夢中で舟をこいだが、夜どうしこいでいたのに、あくる朝になっても舟は日引の浜を離れていないことが分かった。 「こりゃ、どうしたことか。あんなに舟をこいだのに、まったく進んでいない」 三荘太夫は驚くと同時に、恐ろしくなってしまった。 「ええ~い、こんな仏像、捨ててしまえ」仏像を岩の上に投げ捨てて、逃げ去った。 その後、岩のところにある仏像を村人が見つけた。それでこの仏像が見つかった岩礁を 〝仏ぐり〟と呼ぶようになった。〝くり〟とは岩礁、つまり、水中に隠れている岩、かくれ岩のことをいうのである。 日引の観音堂 日引の地ヶ中に正楽寺という寺があった。その寺にまつわる話である。 むかし、天平年間(七二九~七四八)のころのことである。行基という名のえらいお坊さんが諸国めぐりに出られた。そのおり、この地にも立ち寄られた。天平十八年、行基は山の中を歩いているとき、不思議な大木を発見された。この木は霊木であると知った行基は、自分の手で木にむかって刀をふるった。そして一気に、高さ四尺七寸(約一メートル四十センチ)の観音像を刻まれたのだった。そして、この観音像を本尊におまつりして、寺をつくられた。その寺が正楽寺である。 その後、斉衡二年(八五五)のとき、大地震があり、寺の堂、塔などが残らず壊れてしまい、正楽寺は途絶えようとしていた。村の人びとはそれを惜しんで、日引浦の大空山(おおぞらやま)に寺をつくりなおしたのだった。それは、寛平元年(八八九)のことだったといわれている。 江戸中期に、真言宗の名僧といわれた等空上人が寺に住まわれ、寺が盛んになるよう努めたそうである。ご本尊の聖観世音菩薩は、現在高浜町の文化財に指定され、今も古刹の面影を残している。. 日引の小字一覧関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『大飯郡誌』 『高浜町誌』 その他たくさん |
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