鐘寄(かねより)
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福井県大飯郡高浜町中寄鐘寄 福井県大飯郡高浜村鐘寄 |
鐘寄の概要《鐘寄の概要》 国道27号線がもっとも海岸よりを走る所の山側にある集落。西隣の中津海とはくっついていて、その堺目は地図でもみないとわからない。海のすぐそばだが農業地域、JR小浜線、国道27号がそれぞれ東西に通る。 蝓蜊神社縁起の鐘にまつわる地名伝承によれば、南北朝時代の延元元年8月11日暴風雨の翌朝、下蝓蜊村の浜辺に釣鐘が打ち寄せられていた。村人はこれを村の鎮守へ納めたが、種々怪異が起こったため惣社である佐伎治神社に納めることにし、同時に鐘が打ち寄せられた下蝓蜊は鐘寄、海水が打ち上げ中海となった上蝓蜊は中津海とそれぞれ村名も改称したという。 鐘寄村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。製塩業が盛んであった。明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て同14年福井県に所属。同22年高浜村の大字となる。 鐘寄は、明治22年~現在の大字名。はじめ高浜村、明治45年からは高浜町の大字。明治24年の幅員は東西2町・南北50間、戸数11、人口は男39・女28。 「蝓蜊神社縁起」(「大飯郡誌」所収)は次のような伝承を記している。 延元元年丙子八月十一日風濤の為め一鐘両字境に打 寄す、之を曳揚蝓蜊社に納めしに鐘楼の釣木折れし 故、神告を請ひしに、此鐘は雌なれば佐一彦 男佐伎治社 へ納めよとの神示を得、永和元年三月三日之を納む、 又云延元の風濤に村民疲弊困怨せしかば神告を乞ひ しに社名を村名とするに由ると、依て上司に願ひ、 鐘の寄りし地、下蝓蜊(しもゆり)を鐘寄と改め、風濤の為め中 海となりし地、上蝓蜊は中津海(なかつみ)と改称せしなりと 今も旱魃になると佐伎治神社の社宝の梵鐘をかつぎ出し、鐘寄の海岸で海水につけるという。 その蝓蜊神社はもうないようである。 鐘寄は「金蝓蜊」の転訛かも知れない。「蝓蜊」とは何とも嫌な字を当てたもので、「蝓」はかたつむり、なめくじの類、「蜊」ははまぐり、あさりの類という。ユリという地名はあちこちにあり、由利とか百合とかいくらでも好字の当字はありそうなものだが、虫偏をわざわざ付けていて、地名には佳字二字を当てる大原則に反して、卑字二字を当てている。 古い中国史書が周辺蕃国には卑弥呼とかいちいち卑字を当てているようなことで、気にするようなことでもないのかも知れないが、どこかの自称ご立派なクソどもに卑賤視されていた遠い過去があったのであろうかと想われる。 当地は、とうの昔にそうしたことは忘れられたようで、この文字を別に気にしているようでもないので、通りがかりの者が言いたてることもなかろうが、少し気になっただけのことで、こうしたところにバンザイ歴史やガッコ歴史にはない真実の歴史が潜んでいるからワタシなどは面白がるのである。今の行政地名では使用していないようである。 左は南山手道、新道のようだが、便利な道である。右手に水車小屋が作られている、周辺散策用の地図まであり、所要時間まで書かれている。 皆が器用で気の利いたオモテナシ精神をお持ちのようである。皆で集まってポンポンポンと手作りできる。農民は言ってはわるいが、こうしたことは出来ない。舞鶴の市民もできないが、できるかのように思っているだけ、税金をアホほど使うのでなく、自分らの手でココロ込めて作れよ、それがオモテナシであろう。 過去が違うのであろうか。と言っても何も資料が残ってはいないので、想像するしかない。以下は勝手な愚者の憶説。 天皇律令時代の貴賤観念に基づいた身分制度は、当時の国の基幹であった農業に従事していない者は、すべて「賤」の身分に置かれた。 大きくは貴-良-賤に分けられ、貴種というのは天皇トップに戴いた貴族連中であり、良民は一般の農民で平民のこと、その下に置かれたのが賤民で、昔の奴婢に発していた、奴婢は西洋でいう奴隷で、人ではなく家畜扱い牛馬と同じで所有者は官(官奴婢)や寺社(寺奴婢)(公奴婢)、あるいは有力者(私奴婢)などであった。こうした奴婢は奈良時代には全体人口の1~2割くらいはいたのでなかろうかという。いにしえの奈良の都は奴隷制の都でもあった。あったというか、そうした過去に目を向けないままでは、今も意外とその形骸を引きづった無意識の奴隷の国なのかも知れない… 賤は班田が貰えなかったが養老の頃から官奴婢は良人と同じ口分田が貰えた。班田が貰える良人は租庸調の重税でガンジカラメ、奴婢は無税だし兵役もないから、ワシも奴婢になりたいとの良人もあったというが、寺社などの興隆も、世界に誇るという有形無形の文化も実はほぼすべて彼らの手で製作されたものであった。貴の手になるものと言えば、文学くらいか、農に至っては棚田くらいかも。 身分制度と呼ばれる差別制度は、固定されたもので、貴の子は貴、良の子は良、賤の子は賤であり、各個のデキフデキは関係しない。バカでもチョンでも貴の子なら貴、いくら優れた人であっても賤の子なら賤であった。 記紀には賤民といった記事は見られないが実際の当時の社会では奴婢はあったであろう。『続日本紀』になると「賤民」などの言葉や記事がよく見えて、この間に飛鳥浄御原や大宝、養老とかの律令が発布されている。その原本は残っていないので、何が書かれていたかの全容は定かではないが、そうした身分制がここで確立したものと見てよい。天皇制と賤民制があったというか、作られていたということで、当時の国家権力によってデッチ上げられていたということである。何にも特に合理的根拠があるわけではない。 律令は後には形骸化して、ないようなものになったが、こうした律令とそれに基づく身分制度は公式には一度も廃止されたことはなく、明治まで続き、つい最近まで古代奴隷制を引きづった国であった。 封建制度は固定された差別制度で、江戸期になると厳しくなる、貴-士農工商-穢多-非人となる。従来の中国式の貴賤観念にプラスして、インドのカーストに似た浄穢観念が加わる、下の方はもうアンタッチアブルな穢れた民であり、フツーの民には触れたり見たりはできなかった。ちょうど対極の天皇さんを直接見れば目がつぶれるとか、触れるなどは絶対にしてはならなかったのと同じであった。奉安殿に納められた「ご真影」を見たりすれば目がつぶれると小学生たちはほんの少し前まで教えられていた。 令和天皇の大嘗祭の報道番組だったと思うが、「天皇制はやはりいわれない差別制度と関わりがあるものですから、ワタシ達もよく考えてみないといけないことかと思います」だったか、若いアナウンサーがそうしたことを言う、解説者とかはそんなカシコイ事は言うまいから、アナウンサー氏だろう、もっともな話だが、オイオイそんなこと言って大丈夫か、クビになるぞ、とか心配したが、どうなったことやら…。天皇制は賤民制も含めて差別の体制として成り立つもので、天皇だけを残してあとは民主主義ですというわけにはいかないものである。頭隠して尻隠さずで、身分差別を残す国であることを宣言しているようなことで恥かしいものである。原発と同じで「安い」(実際は超高い)電力だけを生み出すわけではなく、処分のしようがない死の灰や、小判とか50万円スーツの仕立券とか社会腐敗もまた多量に生み出すようなものである。見過ごすことがでない負の側面がある。原発は何も良い面がないが、天皇制もまた同様である。 天皇No.2氏ですら、それらは国事行為でなく天皇家の私事だから、ドハデは控えろ、エエカゲンにしろとおっしゃるくらいだが、宗教と政治が未分化のガタンガタン日本政府国民はそんな声に真摯に向き合うことは今の世ですら少ないおおかたである。 今の日本なら農業就業者は5%に満たないから、国民の95%以上は「賤民」となり、すべて地名には虫偏を付けねばならないことになろうか。手先の器用な虫偏あっての今のスンバラシイ日本経済であり、日本文化である。 後は牧山、前は海で、耕地はほとんどない。農ではなく、鉄と塩の集落だったのであろうか、大過去の悪しき遺産に無批判に迎合したどこかの藩士か御用ガクシャ大センセかクソ坊主の類がこんな字を当てたものであろうか、そうした者こそマコトの賤でなかろうか。 蝓蜊の字面を見ていると坊主の所作かとワタシには想われるが、宗教者と言っても万民平等とか民衆の救済とかいった観念すらも持たない時代のことである、権力ベタベタで迎合するのはアタリマエ、賤人や悪人、エゾなどクソ食らえ、オマエラが悪いからそうなんだくらいのアタマしかない。今だってこんな者がどの分野にも腐るほどもいる国のことだから、過去はさらにひどいものであったと思われる。寺と言っても牧山の寺しかなかろうから、その寺奴婢に発祥するものかも知れない。 牧山の寺は朝鮮渡来の鋳造金工を売買で手に入れた、そうしてここに住まわせ、寺に入用な金属備品を製作させていた。雨乞鐘も当地で作られたものか… つい最近まで奴隷が合法であったアメリカ合衆国を見てみればこのあたりの事情は理解しやすい。1865年憲法修正で一応は奴隷制はなくなったが、差別は今でも決してなくならない。大統領になる人もあったが、これはアメリカ民主主義のきわめて優れた所だが、しかしI have a dreamのキング牧師がいたように、やはり根強い差別がある。ワタシらの子供のころまでトイレや水飲み場まで白人用と黒人用に分けられていた、黄色いのはまあどっちでもエエが、面と向かっては言いにくいがまあ黒の方だろ、ということであったという。大きな何波もの公民権運動の盛り上がりによって次第に消えていったが、差別はウハウハの侵略者、支配者の観念だがなかなかに消えるものではないということも理解できよう。アジア人などは牛か馬程度にしか見ていないから、ナンボ殺しても何とも感じないのである。クソインベーターのアホげな呆けた差別観念などは決して許してはなるまい。差別の主敵を見間違えると権力金力側のたいへん立派な偉い飼い犬になったりしてしまう。差別者のナゲカワシー番犬にワレラはなってはいないだろうか。 坊主が蝓蜊とかこうした文字を当ててみたりして自分のニセ「教養」を誇ったつもりかも知れない。そうした幼稚精神のクソではアっと言う間もなく寺も潰れる。もう跡形も定かでない。この当時民衆と共に道を作り橋を作り続けたのは行基だけのようだが、仏教者といえどもこうでないとならない。別にどんな団体であってもそうである。偉そうにふんぞり返っていて、民衆を見下しているようなクソでは未来はない。未来を手に入れたければ役にもたたぬクソ論議ではなく民衆と共に民衆のための道を作り続けるしかない。 ユリという地名はあちこちにあるが、その由来はわからない。柳田国男の「水の動揺に由つて平げた岸の平地を由良とか由利とか云つて居る。即ちユラグ、ユルなどゝ云ふ言葉が転じたのである。」がよく知られている。 単にそうした自然地形を言った地名かはワタシは疑問に思う。「淘金」というのは、砂鉄を淘(ゆ)りて採るの意味だそうで、淘は〝よなぐ〟と読む、淘汰のことで、どちらも水で洗っていい物と不用な物を分けることである。お米を〝とぐ〟、とワタシらの所では言う、淘ぐのことであろうか。水の中で揺すって砂鉄を撰び出す作業場をユリ、あるいはカネユリ、カネヨリと言ったかも知れない。ここにも牧山水源の小川はある、両岸も川底もコンクリートなので、砂鉄が採れた川なのかはわからない。 中津海川、鉄の色のようにも見える… 《鐘寄の人口・世帯数》 (中津海との合計)95・38 《鐘寄の主な社寺など》 牧山と古寺 蝓蜊村の背後の(南側)山が牧山で、遠い昔、壮大な伽藍があったと伝える(槙山寺、一乗寺、福願寺、福満寺などと呼ばれる)。舞鶴鹿原の金剛院の本尊、浪切不動尊像や重文の快慶仏とされる深沙大将像、執金剛像も元は当寺にあったものという。 『高浜町誌』 高浜中央部の南側に牧山(まきやま)・宝尾(たからお)と称する山嶺があり、そこには、弘法大師が高野山へ赴く以前に真言寺院を創立したとの伝承を持つ。かつては壮大な伽らんがあったとし、高野山との勢力争いの結果焼打ちされ消滅したという。弘法大師云々は別としても山頂で平安期と思われる須恵器も出土していることから何らかの遺構が残存すると推察され、加えて、牧山に所在したとする仏像が牧山・宝尾の山裾集落に点在することも合せて考えねばならない。牧山がどの年代まで持続したか明らかでないが、北側山麓の坂田(高浜町坂田)金蔵寺には平安末期の地蔵菩薩立像があり、西側の畑(同町畑)に鎌倉末の毘沙門天、北東の笠原に阿弥陀如来がある。また、牧山の尾根続きの南に位置する宝尾山裾の川上(大飯町川上)では阿弥陀如来、懸仏があって牧山伝説を裏付ける資料が数多く残されている。牧山山上の寺院は一乗寺或いは福願寺とも称され、松尾寺金剛院(舞鶴市)とともに大きな勢力を持っていたというが定かでない。現中山寺は一乗寺の後身とするが、享禄三年(一五三〇)一一月一五日付一乗寺本堂修覆勧進帳『飯盛寺文書』にはもともと中山寺であったものを再興して一乗寺に改めたと記す。 以上のように、当町の仏教文化は青葉山を中心にする地域と、牧山・宝尾を中心とする地域の二つに分播されるが、青葉山は青郷、牧山は木津郷の範囲に求められ、原始・古代を通してこの区分が存続したと推考されるのである。 槙山寺(牧山) この寺は、その伝によれば「空海、勅願を奉じて草創し」とあるところから真言系統寺院であることは、ほぼまちがいない。しかし古くに廃絶して確たる伝承がないので、山号寺号等も明らかにしない。伝えによればこの寺は紀州高野山の前身で、開祖空海はここを真言根本道場に擬していた。後世故あってその地位を紀州に移してから、双方は互いに地位の上で争いの絶え間がなかったが、遂に紀州宗徒のため廃絶の憂き目に追い込まれたものだという。 古書に、(「若狭国史」)「永正二年菊月二十二日若州生守村福満寺は、牧山頂に遺跡を留むる古寺にあらざるか」とあり、また「牧山は弘法大師(空海・八六三)開基になり七堂伽藍塔堂百坊の寺あり、谷々峰々に連廻り恰も魚鱗の如し、然るに中頃北国に大々兵乱起こり神社仏閣焼失す」云々とある。 現在は町の南方にそびえ立つ牧山には、その寺の礎石と思われるものを多少は見かけるが、かつての槙山寺の遺跡としては確たるものではない。現在は、その辺りに小堂を建て石不動尊一躰が祀られているにすぎない。 しかしかつての槙山寺の遺物と伝える仏躰を町内の寺院や仏堂で数多く拝することが出来る。それらを思うとき、当時槙山寺がいかに隆盛をきわめていたことか、そこには七堂伽藍いらかをならべ、衆僧が修する「国家鎮護」経文読誦の音声今にしてなお耳にあるかに思えて、その当時が偲ばれる。 子生区では毎年六月二八日の早朝より区民挙って登山し、不動尊にみあかしをあげ、供物を献じ、区内の安全と五穀豊饒の祈願が行われている。 牧山寺趾 伝ふ空海勅願を奉じて草創し、堂宇輪興高野山と盛を競ひ しが中世彼僧兵の燹略に遭ひ廃残せりと。山上小池の畔、 断礎両三と石刻不動尚存せり。又伝ふ佐伎治神蔵の雨請鐘 彼条下に写出(小池の水を撹拌し、或は之を汚す時は風雨を起こすと伝へ、古来雨乞此山頂に行ひしと云ふ、此或は之に関る乎)佐伎治神社所蔵の大般若経、笠原阿弥陀堂の本尊は共に其遺物にして、青郷日置の太郎坊次郎坊は隆盛当 時の附属寺院なりと。 (其他毘沙門畑地蔵 坂田観音 元興寺等此山寺の遺物と称するも の町内処々に現存す) 牧山寺は福満寺? 按に龍蔵院旧佐伎治神社所蔵大般若経 第三百十巻奥書に永正二年菊月二十二日若州生守村福満寺常住也願主施入景正六郎奉国と奥書せり。生守村は或は現今青郷村の一部にあらざりし乎。(遠敷郡今富村にも生守あれど、青郷村の南半が、遠敷郡なりし考説は全郡沿革章下に試みあれば、経の奥書に遠敷郡生守村とあるも青郷の一部を認得る) 若狭国誌「生守山 在関屋村青郷以南山嶺版巌窟」云々に 拠れば青郷村在るも生守の称ありて、其の所在も大らかな りしと可想 こうした寺院が何のためにあったのか。人民救済とかは無縁であろう。もしそれならもっと人里にあろう。宗教的修行の道場であり、高価な仏像など買えるのだから、何か富を産み出す事業所でもあったと思われる、山であるものと言えば、木、まさかそんな物ではあるまい、金属でなかろうか。金属を生産する場でもあったのではなかろうか。 雨乞鐘 『高浜町誌』 和鐘 一口 佐伎治神社 総高九三m 口径五一㎝ 鎌倉時代 若狭最古の梵鐘で、同社神庫につるされている。銘文はないが、上帯にある飛雲文及び竜頭の形状から鎌倉時代の初期に鋳造されたものと考えられる。鐘身鋳型の外型が上下二段からなり、乳の形状が短円柱形である点から、平安時代から鎌倉時代にかけての頃に造られたものであろう。乳は四段四列、上帯に飛雲文が陽鋳され、池の間(二八・〇センチ×六・五センチ)に舟型光背を背負う不動明王らしい像容が各四面に陽鋳されている。 社伝によれば、延元元年(一三三六)八月一一日中津海の海岸に漂着し、永和元年(一三七五)に神告によって佐伎治神社に奉納されたものであるという。通称雨乞鐘と呼ばれている。伝説によると、この鐘のほかに今一つの鐘が海底にあると伝えられ、それが姉鐘で、打ち上げられたのは妹鐘だという。残っている姉鐘を引き揚げようとこの鐘を海に入れると、海中はたちまち暗黒に濁り、今猶引き揚げられていない。それで、旱魃の際、この鐘を海中に入れ雨乞いをしたのだと伝えている。 この鐘は佐伎治神社の宝庫に納められている。 《交通》 《産業》 製塩業が盛んで、「若狭郡県志」などに当村のほか和田・岩神・薗部三松・宮尾・中津海などで製造、その味は他郡産と比べてやや淡いと見える 《姓氏・人物》 鐘寄の主な歴史記録『大飯郡誌』 鐘寄と中津海の区名 鐘寄と中津海は昔時連続し、上蝓蜊(ユリ)下蝓蜊と称せしが、同地の蝓蜊神社縁起に據るれば、延元元年丙子八月十一日一風濤の爲め一鐘両宇境に打寄す之を曳揚蝓蜊社に納めしに鐘楼の釣木折れし故神告を請ひしに此鐘は雌なれば佐一彦 男即佐伎治社神 へ納めよとの神示を得永和元年三月三日之を納む又云延元の風濤に村民疲弊困憊せしかば神告を乞ひしに社名を村名とするに由ると依て上司に願ひ鐘の寄りし地下蝓蜊を鐘寄と改め風濤の爲め中海となりし地上蝓蜊は中津海と改称せしなりと 按にヨリとユリに何か関係あらむ. 鐘寄の伝説『大飯郡誌』 雨乞鐘の傳説 (一)千餘年の昔、暴風雨の翌朝、海波今の鐘寄区の海辺へ一鐘を打寄す、住民引揚げて其地の祠に納む、故に其地を鐘寄といふ。其鐘即ち現社蔵の物なりと。 (二)昔時朝鮮に姉妹鐘有り、如何なる故ありてか、其一鐘此地に漂着す、之れ社蔵の物なるが、他の一鐘妹鐘を恋ひて亦来りしも、着陸するを得ず、尚海底に在り、故に社鐘を撞けばアネゴーンと悲鳴すと、之を曳揚げむとて近づけば、海水忽ち黒暗々に濁るを常とす。 或云之は烏賊の群棲して人舟の影を見れば例の墨汁を吐くくなりと。(按に鐘の伝来不明なるも、韓鐘説あるは朝鮮役の鹵獲物乎、領主従軍せり、此地の人何ぞ渡鮮せざりしを保せんや、此種の物各地に多く存せり) (三)姉鐘海底に在り、故に旱魃の時には、社鐘を鳥居浜に運び水中に浸せば 或云七日間海中に沈めて喧騒雨を祈るなりと 姉鐘其妹に会晤し得ると悦び雨を降らすと。 (四)昔時事代沖に三沈鐘を発見す、村人其二を曳揚げ、一を社に蔵め、一を馬居寺 和田村 に奇す、他の一鏑は 径約一尺 如何にするも揚げ得ず、今尚晴朗の日には之を認むるを得るも、近づけば海水黒変所在を失ふと、又数十年前に之に綱を掛けしも、一挙に断れ了りしと。 (五)牧山僧坊の物を、彼等廃頽の際海に沈めしなりと。 社蔵の大般若経の伝説と合考すれば、夫或は然らむかと首肯さる。 (六)鐘寄の傳説にては延元元年打寄せしを神告に由り永和元年此社に納むと 彼伝説参照). 『若狭高浜むかしばなし』 雨乞鐘 高浜の佐伎治神社には、大嵐ではなればなれになった姉妹鐘のうち、妹鐘が納められている。姉鐘は今もなお、鐘寄の沖合に沈んでいる。長い間干ばつが続き、どうにもならなくなった時には、妹鐘を海辺に運び出し、七日間海にひたして姉鐘と対面させれば、必ず雨を呼ぶと言われている。そんなことから、この鐘を〝雨乞鐘〟とも呼ぶようになった。 昭和十四年の夏のことである。四十日間雨が一滴も降らない日々が続いていた。 「こんな大干ばつは初めてだ」 「何とか雨が降ってくれないものか」 困った人々は、神社やお寺にお祈りをした。しかし、そんな必死の願いも天には通じず、雨はいっこうに降らなかった。 「もう最後の手段を出すしか手がない」 「雨乞鐘を海につけよう」 一刻も待てなくなった農民からは、そんな声があちこちから持ち上がった。最初は役場の人も、 「それは単に伝説であって、何の根拠もない話だ」 と言ってなかなか認可しなかった。しかし農民たちの熱意でもって、ようやく許可をとり 七月十日。いよいよその日がやってきた。うだるような暑い日だった。妹鐘は純白のサラシに包まれ、鐘寄の浜へ運ばれた。そして多くの群衆が見守るなか、厳かに海中に沈められていった。 「伝説にしても馬鹿げている」 「こんなのは迷信に違いない」 なかには冷やかに笑う人もいた。しかしほとんどの人は、雨乞いのお祈りをしながらその様子をじっと見守っていた。 するとまもなく、内浦湾から紫黒の雲がムクムクと湧き上がり、青葉山麓を呑み込んでしまったかと思うと、またたく間に大粒の雨が降り始めたのである。 「伝説はやはり本当だった」 人々は、霊験あらたかな現実をまのあたりにして、伝説の恐ろしさと信仰の尊さに、ただただ驚くばかりであった。雨はその夜もはげしく降り続け、高浜全域に恵みをもたらしたのである。 あれから約五十年たった今では、高浜でこの事実を知る人は少なくなったという。 この鐘は、昭和三十一年三月十二日福井県指定文化財となり、若狭地方最古の梵鐘と言われている。鐘の丈九十三センチ、鐘回り百六十センチ、口径五十一センチで、そのほか胴回りの文様などに梵鐘としては珍しい特徴が見られる。 月いづこ 鐘は沈める 海の底 芭蕉 鐘寄と中津海 延元元年(一三三六)八月十一日のことである。その日は朝から、高浜一帯に激しい風波が吹き荒れていた。その風波は、夕方になってもなかなかおさまる気配がなかったので、村人たちは心配になり、浜に出て様子をうかがっていた。 その時である。ひとつの大きなつり鐘が上蝓蜊、下蝓蜊両村の境界の海岸に流れてきた。遠くから見ていた村人たちは、 「むこうの方に、何かつり鐘のようなものが打ち上げられたぞ」 と言って駆け寄っていった。 「ほう、これは立派なつり鐘じゃ」 「いったい、どこから流れてきたのだろうか」 村人たちは、このつり鐘をどうしたものかと迷っていたが、結局みんなで引き上げ、蝓蜊神社に納めることにした。 後日そのつり鐘は、村人たちによって蝓蜊神社まで運ばれた。そしていよいよ、鐘楼につるそうとした時のことである。ポッキンという音とともに釣り木があっけなく折れてしまったのだった。その釣り木がなくては、どうしてもつり鐘をつるすことはできない。困った村人たちは、とうとう神にお伺いをたてた。 すると、 「この鐘は女の鐘なのでき、男の神の佐一彦(さいちひこ、佐伎治神社)へ納めよ」 とのお告げがあった。 そうして永和元年(一三七五)三月三日、その鐘は佐伎治神社に無事納められたという。 また、もうひとつ別の言い伝えがある。やはり同じ延元元年の八月十一日、高浜の海が荒れ狂い、蝓蜊村の人たちは漁に出られず困り果てていた。そこで神にお伺いをたてると、 「蝓蜊神社の名を、村の名にしているからである」 とのお告げがあった。 さっそく、村人たちは役場に願い出た。下蝓蜊村は鐘を引き上げたところなので鐘寄村と、上蝓蜊村は神が荒れて風波のため海の中のようになったので中津海と改めたのである。 鐘寄の小字一覧関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『大飯郡誌』 『高浜町誌』 その他たくさん |
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