音海(おとみ)
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福井県大飯郡高浜町音海 福井県大飯郡内浦村音海 |
音海の概要《音海の概要》 音海半島の先端部、高浜原発の先にある集落で、どうしても原発を見なければならない。 以前はイヤでもクソ原発のゲートの真ん前を通らないと音海へは行けなかった、最近こんな橋とトンネルが手前に作られて、ゲート前は通らなくてもよい。しかし50メートルばかり離れただけのハナシで、冷却水取り入れ水路に架かる橋が落ちるとかトンネルが崩れるとかの危機には備えられるが、被爆の危険には何ほどの効果もあるまい。新しい道と言っても歩道がない、街路樹もない、パーキングがない、歩く人はどう避難しろと言うのか、ペンキが新しいというだけのもので、時代遅れでコバンしか頭にない人間無視のドクソ道である、仮にも人様がお通りになる道だとは一度も考えてみたことはないようである、今の時代によくもまあこんなクソを作ったものだ。もうチイとらしい仕事をしろや。おトクで健康に良いとかいう原発を見たいという見上げたお人もあろうかも知れない、アホくさいの人も多かろうが、危険でない原発がよく見渡せる場所に大きなパーキングと展望台をつくってくれよ、それとも税金と電気料金取るだけのクソか。コバンボケどもは再稼働反対の方が多いという世論を忘れているようである。原発に明日はない、原発は過去のものである。 原発は音海の手前、田ノ浦という所にあるが、ここは元々は音海や周辺の浦々村々の出作りの田畑があった所である。 築46年の1号炉、その奥に2号炉、奥に見える円いドームは3号炉、その奥に4号炉。1、2号は当初設計想定を大幅に超えた超老朽炉、3、4号も老朽炉だが、プルトニュウムを燃やしている。新しそうに見えるのは表面のペンキだけである、原発はみなヤバイが、ここもたいへんにヤバイ原発群である。機械設備だけでなくこれを稼働させる人間まで腐っている、コバンなど何らかの金品を密かに受け取った幹部は70名を越えて、総額3億円以上にのぼるという、狂った企業である。とうとう飼い犬に手を噛まれて被害者面をさらすまでに落ちぶれた。世には知られていないクソ犬をオマエら一体何匹飼っているのだ、ワシらの税金と電気料金でウジャウジャ飼っているのか、いよいよヤミ世界の反社会勢力になっか。腐った国家の特別の保護を表裏で受ける国策事業としてもう50年も癒着そのもので絶対安全ですとヤシ放題を続けているだから、どうしてもかくも深刻に腐敗することになってくる。3.11以来世間の目が厳しくなっているなかでもこれだから、甘い態度でいると何をさらすかわかったものでない。 冷却水路を海水が川のように流れているから、3、4が稼働しているのだろうか。 12号の右下に緑かがった箇所が見えるが、そこが12号用テロ対策施設入口トンネルだそうで、この写真を撮ったすぐあとで死亡事故が発生したそうである。安全二の次で工期をせかせたためであろう。何か起きねばいいが、と心配していていたところだ。地元作業者を何人殺す気でいるのだ、コバンさん。これも原発の恩恵か。 「恩恵」を受けるはずの周辺の小さな村村は、表の道路が多少よくなったくらい、無力感、荒廃感が漂い、花咲く家などはまずない、桜咲く道もない、そんな余裕すらないのか、あのへん原発でいかれてしもうたんか村の人間もかなりすさんどるな、なげやりやなと舞鶴あたりの人が指摘する向きもある。元々の寒村が救われたの感じは見なれない。原発は村々を救うのか、それとも村々に最後を告げるものなのか。トクに原発周辺の村々だけの問題ではなく、日本全国のすべての村々町々を見てみれば、わかることである、経済最優先策のたどりつく先の姿を見ることができるところかも知れない。民間研究機関によれば、20年後には全国半分の自治体が消滅してしまう危険性があるという、人口減で自治体としての機能が果たせなくなるというである、人間を大事にしない政府の大宣伝とはまったく異なる未来図である、軍栄えて国が亡んだ、次は原発栄えて村亡ぶ、国亡ぶのか、愚策の道を進んではいないかと考えてみる場所かも知れない。 「高浜原発」 「高浜プルトニウム原発」 音海は内浦湾を抱く東側の腕・音海半島の先端、県道149号(音海中津海線)の終点の漁村。音海漁港と木材の輸入とその関連工場のある内浦港の2つの港を持つ。 今は村先の海面が埋め立てられて広くなっているが、もともとは南北3間とあり、後は山、前は海で、その間の人が住む場所は6メートルもなかったという。内浦湾に南面して東西方向には長い。 音海村は、江戸期~明治22年の村。小浜藩領。古来漁業が盛んで慶長7年6月16日の若狭国浦々漁師船等取調帳には「一般三人乗り刀禰 他二かわ,さば・いわし網惣中 〆二十六般大小共音海浦」とある。道路は高片山(たかへらやま)越えの山道が通り、途中に殿様の休場と呼ばれる景色の良い場所がある。 明治4年小浜県、以降敦賀県、滋賀県を経て、同14年福井県に所属。「滋賀県物産誌」によれば戸数67・人口351、反別93町5反余、産物に甘薯4,000貫・櫨実250貫・桐実15石などのほか、鰯86貫余・烏賊80貫などの漁獲物。同22年内浦村の大字となる。 音海は、明治22年~現在の大字名。はじめ内浦村、昭和30年からは高浜町の大字。明治24年の幅員は東西8町・南北3間、戸数67、人口は男175 ・ 女172、学校1、大船1・小船64。 九州出身の日高亀市は明治39年高浜漁業組合と協同で鰤大敷網を行い、以後地内は繁盛し、字小泊~高浜間を1日数回連絡船が往来した。昭和13年火災が発生し集落の80%が類焼した。 《音海の人口・世帯数》 116・64 《音海の主な社寺など》 音海断崖 内浦半島の突端にあり、北向き海岸で船で外海へ出ないことには見えない。壮大な海食崖という。「若狭国志」に「巌壁高サ数十丈、鷹鳥巣ヲ為ル。其下ニ巌洞有リ、大師洞卜称ス。広大宛モ大堂ノ若シ」とあるように、押回鼻と今戸鼻の間約2㎞にわたって最高260mの断崖が続く。安山岩質の岩石海岸が荒波により浸食されたもので、崖下には大師洞・十二艘洞など海食洞も多い。中でも十二艘洞は巨大で、高さ20m ・ 奥行60mもあるそう。 『高浜町誌』 今戸鼻 今戸鼻は音海の北側一・五キロ、今戸鼻より押回鼻まで約二キロ、高さ約二〇〇メートルの断崖曲折で、福井県の名勝に指定されている。今戸鼻の高い所を鷹巣山といい江戸時代大野東氏が毎年雌雄の鷹を捕獲して藩主に貢進したという。 伴信友故郷百首 音にきく音海崎の岩根松 たか行鷹の巣をつくるてふ 押回鼻には洞穴があり大師洞という。洞中に三つの岩壷があって醤油壺、醋壷、酒壷と海水の味がかわり泰澄大師が祀ってある。. 音海古墳群 『高浜町誌』 音海古墳群 内浦湾に面する音海集落の中ほどに郵便局があり、その前面はかなりの急斜面を形成している。昭和四五年五月県道拡幅工事で斜面を削り始めた際遺物の出土をみたようで、斜面に張りついた土器が小中学生によって採集されたのが遺跡発見の端緒であった。大森宏氏の教示によれば、二~三基の古墳が群集していた痕跡があったという。 出土した須恵器の形態から、六〇〇年を前後するころから七世紀の第1四半期に属する形態のものを含んでいる。数次の追葬の結果と考えるか、古墳ごとの時期差と考えるかは判断できない。須恵器を一見して感じることは、製品としては不良品が多いということである。生焼け、器体に焼成時の付着物(須恵器片)がくっついた製品などがある。 気比神社 集落の一番高い所に鎮座。 『高浜町誌』
気比神社 創建の伝承 昔敦賀の漁民が漁に出て暴風雨にあい漂流してここに住みついて開拓した。そのためもとの氏神である気比神宮をお祀りしたという。 神事伝承 御的式 昔から音海だけで行ってきた元旦の神事であるという。うすく剥いだ杉板幅一寸二分(約三・六センチ)長さ一尺余(三〇センチ)九枚を組合して、これを元日ないぞめの縄でくくり、別に去年の御的を黍殻で焼いて作った炭で、新しいお的の中央に印を付け、元旦に氏神の社頭でこの御的を所定の場に据え、祝部(ほうりべ)は古来から伝わっている弓に矢をつがえ天地東西南北を射て、最後にこの御的を射る。その御的をけがれにふれない男子にいだかせて袮宜の屋上に置き、。その年の一二月一三日の夜、人の見知らぬ中に袮宜とさきの男子と一緒にこれを下し、氏神の社頭に持っていって定まった所に置くのである。この御的をつくるのに用いる板は、毎年小浜から求めることになっている。また祝部は区の年長者の男子が一年交替で氏神のお守りをする。 『大飯郡志』 指定 村社氣比神社 祭神仲哀天皇応神天皇神功皇后 音海字岩ヶ崎に在り 社地二百九十九坪氏子六十七戸永續資金一千二百五十圓 社殿二間二尺二寸 一間五尺一寸 拜殿三間一間四尺 本社上假屋三間四間 籠舍二間半四間 舞臺二間半四方神饌所二間一間半 鳥居一基(大正四年一月十六日指定 同元年上-三月に悉く改築又は新築 〔若狭郡縣志〕 氣比大明神社在昔海村爲産神九月十八日祭禮。 (傳ふ、敦賀の漁民漂着し、此を開く、故に此神か祀れりと。境内に八幡社あり。) 臨済宗相国寺派滝谷山洞昌寺 『高浜町誌』 臨済宗相国寺派 滝谷山洞昌寺 一 所在地 高浜町音海字向山 一 開 創 天正元年三月(一五七三) 一 開 基 安寂忍公和尚 一 本 尊 聖観世音菩薩 一 檀家数五六戸 一 由緒沿革 開山安寂忍公和尚、天正元年三月神野村に桃源寺を開いた折、同和尚此の地に仏縁あり、続いて同年この寺を創建したという。 天保五年(一八三四)二月音海大火の折罹災し、古記録を失って詳細不明である。 “若州管内社寺由緒記”には、次のように記している。 「京相国寺末洞昌庵本尊阿弥陀開基忍公座元禅師永仁年中建立と申伝候」 『大飯郡志』 (瀧谷山)洞昌寺 同(臨済宗) 同(相國寺派)音海字向山に在り 寺地百二十六坪 檀徒六十五人 堂宇八間五間半 本尊聖觀世音 由緒 同前 (元禄年中改帳) 同前(天保五年二月罹災、古記録を失へりといふ) 《交通》 《産業》 音海漁港(高浜町) 『角川地名辞書』 音海にある第1種漁港。内浦湾に臨む音海と若狭湾に臨む小泊の2地区からなる。漁協・荷捌所のある中心音海は西寄りの卓越風に対する自然の遮閉が不完全で,防砂堤・消波堤・防波堤(長さ130m余)に守られて船揚場・物揚場(長さ145m・水深2~2.5m)があり,西方の朱竹にも物揚場(同32m ・2.3m)がある。小泊の物揚場(同60m ・ 2m)・船揚場は西方の遮閉は良いが,集落から離れ,補助として利用。7t2隻と5t以下66隻の地元漁船が根拠地とし,昭和61年の陸揚量112t,うち64%は大型定置網, 30%は小型定置網(ともにイワシ・ブリ・アジほか)によるもの。ほかにイカ釣り・刺網などを営む。陸揚量の9割は舞鶴・高浜・小浜へ出荷。 小泊へ一度は行ってみたいのだが、関係者以外はムリのよう。 内浦港 大飯郡高浜町北西部、音海地先にある地方港湾、昭和44年指定。天然の良湾内浦湾に臨み、港湾施設皆無のまま木材輸入量が増加。昭和51年以来-5m岸壁・物揚場を修築、同57年に供用を始め、さらに-7m岸壁130mを造成中。1.8万余tを最大に年間70~80隻の木材船が入り、同61年約27万t、同62年約20万tの原木を輸入。相手国は昭和61年はソ連(13万3,000t)・マレーシア・米国、同62年はマレーシア(6万4,000 t )・米国・ソ連の順であった。 《姓氏・人物》 音海の主な歴史記録音海の伝説・民俗『大飯郡志』 御的式(オマトシキ) 古来音海區のみに行ひ来れる元旦の神事なり。先づ薄く剥ぎたる杉板の巾一寸二分長一尺餘のもの九枚を組み合せ、これを元旦綱ひ初めの繩にて括り、別に去年の御的を黍殻にて焼き、黒く炭となれるものにて新しき御的の中央に印をつく、元旦氏神社頭にて御的を所定の場に据え祝部は古来より傳はれる弓に矢を番へ、天地南北を射、最後に御的に向つで射るものとす、かくてその御的を忌服汚穢にふれざる男子いたゞきて、禰宜の屋上に置き、その年十二月十三日の夜、人の見知らぬ内に禰宜はさきの男子と共にこれを下し、氏神の社頭に持ちゆきて定れる所におくなり。この御的を作るに用ふる板は、例年小濱より求むるものとす。祝部は區の年長者の男子、順々一年づ丶氏神の御守をなすものなり。 『若狭高浜むかしばなし』 音海のはじまり 音海には、古くから続く屋号の家が二つある。それは〝源右衛門〟と〝東〟という家で、音海の人々はこの二人をご先祖に分かれてきたという。 今から、三百五十年も昔のこと。敦賀あたりの漁師が、いつもいつも内浦の沖へ漁にやって来ていた。たくさんの魚が獲れる格好の漁場だったからだ。 そんなある日、漁師は大嵐にあった。 「こんな嵐では、もう帰れまい。どこかで、嵐が去るのを待つとしよう」 近くの丘にあかって、漁師はなぎになるのをひたすら待っていた。ところがそのうち、 「こんなにいい漁場が近くにあるなら、ここに住むのもよかろう」 と、漁師はここに住みついてしまった。その漁師の名は源右衛門といった。 それから何年かがたった。今度は神野の東という漁師がこの音海の入江を見つけ、住みついてしまった。 「おや、人がやってきたぞ」 隣人を得た源右衛門は、この東と一緒に漁をしたり田畑を拓いたりして、仲良く暮らすようになった。 やがて家族が増え、村人が増え、あたりはだんだんにぎやかになってきた。そして、今日の音海ができたという。). 音海断崖の十二艘 その昔、高浜に向かう十二艘の大船があった。穏やかな波に揺られ、航海はずっと順調だった。 ところが今戸鼻まで来ると、突然風が吹き荒れ波は恐ろしく高くなってきた。まるで海は巨大な怪物のようだった。 「だめだ、先には進めない。さっき通った断崖に戻ろう!」 波に飲み込まれそうな十二艘は、今戸鼻の裏側にある音海の大断崖に避難することにした。そこには、大きな大きな洞窟があったからである。 一艘、また一艘。十二艘の船は、大急ぎで洞窟に入っていった。そこは、雨や風も入ってこない、波静かな洞窟だった。すっかり安心した船頭たちは、長い航海の疲れが出たのか、いつの間にかぐっすりと眠りについていった。 最後に洞窟に入った船には、一人の信心深い商人が乗りこんでいた。この商人が眠りにつくと、夢の中で誰かの小さな声がかすかに聞こえる。 「この洞窟は、まもなく崩れる。すぐに逃げなさい。今なら命は助かります」 それは、日頃信仰している仏さまだった。 驚いて飛び起きた商人は、すぐさまみんなをたたき起こし、他の船にも逃げるように大声で叫んだ。 「逃げろー、崩れるぞ!」 天井からは、次第に岩石が雨のように降ってきた。恐ろしい轟音が洞窟に響く。疑っていた人々も、あわてて次々に奥の船に知らせていった。 外へ外へ、逃げようとする船。けれど、二艘目の船が外に出るのを待たずに、入り口の天井岩は崩れてしまった。激しい震動が海をさらに大きく揺らし、洞窟からはものすごい轟音が聞こえてくる。 「助けてくれー!」 やがて、洞窟の中から聞こえる悲鳴もいつしか静かになった。見ると、あれほど大きかった洞窟が、すっかり岩石でふさがれてしまっていた。 一艘だけ無事に脱出した商人たちの船さえも、荒れる高波に粉々になっていった。ただ商人ひとりが九死に一生を得て、海岸に漂着したのだった。 今でもその洞窟跡からは、打ち寄せる波にこだまして人々の悲しい叫びが聞こえるという。 今戸鼻の亡霊 ある晩のこと。父親と息子が、漁をするために音海から今戸鼻に向かって、一艘の小舟を漕いでおった。暗く静かな海には、いくつもの夜光虫が青白く光っている。ギイーギイー。しいんとした海には、櫓の音だけが低く響いていた。 やがて小舟は、音海の大断崖へと近づいてきた。魔の海と呼ばれるこの辺りは、昼でも陽があたらない不気味なところ。父子は早く通り抜けようと、話すのもやめて懸命に櫓をこいだ。 ところが漆黒の闇の中、二人は突然背中に冷たい水をかけられたような悪寒を感じた。恐くなった父子は、いっそう櫓をこぐ手を速めた。そのとき、 「うっ!」 舟のへりに出していた息子の手を、冷たいものが握った。 「出たど! 出たど!」 今度は父親が、かすれた声で叫んだ。見ると、豆絞りをした青白い顔が、ずるりずるりと舟にぶらさがっているではないか。そして、舟のへりには、いくつもの白い手が不気味に並んでいた。 「早く、お茶供せい!」 父親は念仏を唱えながら、何度も何度も叫んだ。 お茶供というのは、海底に沈む海の犠牲者たちの霊を慰めるために行なう供養のこと。昔から、高浜の漁師は海で不思議なことや海難に遭うと、お茶を海に供えるという。真青な顔をした息子は、カタカタ震える体でお茶を海中に供えた。 すると、どうだろう。ひとつ、またひとつと舟にぶらさがっていた手や顔が、ゆっくりと海の中に消えていくではないか。 父親と息子はしゃがみこみ、いつまでもいつまでも念仏を唱えていた。静かな海には、夜光虫が美しく光っているだけだった。 音海の大ダコ 今から、どのくらい昔のことだろうか。海は青く澄み、天気のよいのんびりとした日だった。 一人のおばあさんが、音海の岩場に岩海苔を採りにやってきた。ざぶーん、ざぶーん。波が真っ白に砕けると、そこは美しい緑色をした岩海苔が、おいしそうに張りついている。 「どれどれ、今日はここいらの海苔を採るとしようかね」 おばあさんは、よっこらしょと腰をかがめると、岩海苔を採り始めた。夢中で仕事に精を出して少し疲れたおばあさんは、腰をのばしてトントンとたたいた。すると、 「おや?」 隣の岩に目をやると、軟らかそうな何か動いているのが見えた。おそるおそる近寄って見ると、何と海の中からぐにゃりとのびたタコの足だった。 「こんな大きな足は見たことない。よっぽっど大きなタコに違いない」 おばあさんはそう呟くと、腰にさげたカマで一本だけ岩にのっている大ダコの足を切り落とした。しゅるしゅるー。大ダコの足はびっくりして、海の中に潜っていった。岩の上には、まだぐにゃぐにゃと動いている足の先っぽが残った。おばあさんは、それを篭の中に入れ、大急ぎで家に帰った。 あくる日、おばあさんは今日も岩海苔を採りにやってきた。すると、また岩場に大ダコの足がのっているではないか。 「今夜も、タコのごちそうや」 おばあさんはにこにこ顔で、またその足を切り落とした。 そんな日が一週間続き、おばあさんの家で は七晩も思いがけないごちそうが続いた。 「さてと、今日は最後の一本だ」 少し残念に思いながら岩場にいってみると、やっぱり今日も大ダコの足はぐにゃぐにゃとそこにあった。 おばあさんは、いつものように足めがけてカマを振りあげだ。ところがその時、 「うわぁー」 大ダコの足はおばあさんの足に巻きつき、ものすごい力でおばあさんを海に引きずりこんだ。ばっしゃーん。あっという間に、おばあさんの姿は見えなくなってしまった。) 殿さまと音海の娘 音海半島の付根に、殿さま屋敷と呼ばれる高台の平地がある。かつてここは、若狭の殿さまが領内を巡視するときに使う休憩所だった。 何しろ、海と陸が一望に見渡せる絶景の地。今日も殿さまは、潮風に吹かれながらのんびりと風景を眺めていた。 「おい、茶を持て!」 殿さまがそう命じると、接待役の娘がお茶を持って現われた。一目見るなり、殿さまは息をのんだ。 娘の黒い髪はしっとりと濡れたように輝き、瞳はすっきりと澄み、唇は優しげに微笑んでいる。それはそれは、気立てのよさそうな美しい顔立ちをした娘だった。 「どうぞ」 お茶を差し出す仕草も美しかったのだが、何より殿さまを驚かせたのは、そのお茶のおいしさだった。 「どのようにすれば、このようにおいしいお茶が入れられるのだ」 殿さまの質問に、娘は静かにこたえた。 「心をこめて、お入れするだけです。」 すっかり感心した殿さまは、娘にほうびとして音海に一つしかない田んぼを与えた。広さは、一反八畝ほどだろうか。けれど、急勾配の山地しかない音海では、実に貴重な田んぼだった。 娘はその田んぼを耕し、幸せな一生を送ったそうだ。 『高浜町誌』 殿様屋敷 音海の小泊の西南方五○○メートル、標高八六メートルの台地がある。 江戸時代歴代の酒井藩主が管内巡視の際、高片山の稜線道を登られここで休憩された所で若狭湾の眺望によく、羊歯の下水という茶の名水がある。 当時は現在の海岸道はなかった。 『大飯郡志』 殿様屋敷 音海高片山上の平地をいふ、領主巡錫の際の休憩所なり、海陸の勝を眸中に收め得、明治の初年酒并忠道伯も來逍せられしといふ。 酢壷・酒壷・醤油壷 音海の大断崖の端に、大師洞と呼ばれる場所がある。そこには、弘法大師がつくったという三つの岩穴があり、いつもいつも澄んだ水をたたえていた。 その岩穴の水をなめてみると、一つは酢の味が、一つはお酒の味が、そして最後の一つはお醤油の味がする。 「これで、煮るとうまいかもしれんぞ」 漁師たちはこの水を使って、とったばかりの魚や海草を料理した。すると、海草は今までに食べたことのないくらいおいしい味がするではないか。 「うまい、うまい。」 漁師たちはあっという間に、海草をたいらげた。ところが、 「なんやーこれは!」 魚の方はまったく味が変わっていた。一口も食べられたものではなかった。 これは、殺生を嫌ったお大師さんの仕業なのかもしれない。 御浅(みせん)の人魚 宝永年中(一七〇四)のころというから、今から三百年ほど前のことだろうか。 音海の漁師が海で漁をしていると、岩の上に奇妙なものが寝ている。そろりそろりと近づいてみると、頭は確かに人間だった。しかし、衿もとには鶏のとさかのような赤いものがひらひらと付いている。そして、そこから下はびっしりとうろこが貼りつき、どこからどう見ても全くの魚だった。 「ふーむ、けったいな者がおるもんじや」 不気味に思った漁師は、持っていた櫂を振り上げ、ひと打ちにたたきつけた。すると、その奇妙な生き物はころりと死んでしまった。 「あれあれ、簡単に死によった」 漁師はぽいと海へ放り投げると、そのまま家へ帰ってしまった。 海に異変が起こったのは、その後だ。急に大風が吹き始め、海は荒れに荒れて七日間静まることがなかった。それだけではない。轟音とともに大地震が起こり、御浅ヶ岳のふもとから海辺までの地面が大きくさけてしまった。人々が叫び声を上げる中、音海の村はその下に落ちていったのだった。 御浅ケ岳は、有名な魔所だ。山の八分目あたりから上へは、誰一人登った者がいない。この山の御浅明神の使者は、人魚であると伝えられている。 音海が地中深く消えてしまったのは、今だに謎である。 『大飯郡志』 大師洞 〔若狭国志〕 昔海崎-音海村山崕出于海處曰笠崎曰比多崎曰今戸崎總稱之音海崎巌壁高数十丈鷹鳥爲巣其下有巖洞稱大師洞廣大宛若大堂洞中?躋巖牆則平處有鑿窪三各相並海人其在右者曰醤壷在左者曰醋壷在中者曰酒壷皆有水似有其味占弘法大師老鑿之故稱大師洞云盖石工欲傳大師之妙何時設爲之何足恠哉 笠竹山の北崕に在り、洞中泰澄の像を安置す。 其附近今戸鼻の高處は鷹巣山と稱し、大野東氏毎歳雌雄の鷹を捕獲し貢進せしと傳ふ。 (若狭郡縣志)…其窪中外常有水…和野菜海藻之類食之則與造釀之者偶煮魚鳥 而喫之則其眛必變… 『若狭高浜むかしばなし』 高浜の人魚 むかしむかし、音海の漁師が沖で魚をとっていた時のことである。だんだと空が曇りだし、波も荒れてきたので。 「もうそろそろ引き返そう」 と言って、魚の網を引き上げようとした。しかしこの日に限って、なかなか容易に網が上がらない。それに何となく、手ごたえあるようだ。 「さては、何か獲物がかかっているのかも」期待に胸を膨らませた漁師は、今度は思いっきり力をふりしぼって網を引き上げた。「よいしょ」 引き上げた網の中から出てきたのは、なんと上半身が人間、下半身が魚の姿をした美しい人魚だった。 「はあ、これまた珍しい」 漁師は初めて見た人魚にびっくり仰天し、しばらくもの珍しそうに眺めていた。 ところが漁師は、人魚を食べると長生きができるという話を思い出した。そして迷うことなく、持っていた櫂で人魚をたたき殺し、ペロッと食べてしまったのだった。 その後数日間、波は荒れに荒れて、漁にで出ることさえもできなかった。おまけに、人魚の残骸を埋めたところから火が吹き出し、漁師の家は大火事になったと言う。 また、これは別の人魚の話である。よく晴れた波静かな日、高浜の砂浜に大きな魚が打ち上げられていた。 「見たこともないような大きな魚だ」 別の漁師はおそるおそる近寄っていき、まじまじと見つめていた。やがてその大きな魚は、かねてからうわさに聞いていた人魚だということがわかった。 「こんなところに打ち上げられて、かわいそうに」 漁師は、自分の好物の酒を家から運んできて、人魚に惜しみなく呑ませた。そして人魚が元気を取り戻すのを見計らって、海に逃がしてやったのである。 それからというもの、不思議なことに高浜では豊漁が続いていた、訳を知らないほかの漁師たちは、 「こんな大漁は、この村始まって以来じゃ」 「毎日、魚の大ごちそうだ」 と大喜び。 「これはきっと、あの時逃がしてやった人魚のおかげだろう」 漁師は心の中で密かに感謝し、海での人魚の無事を祈るのだった。 『高浜町誌』 御浅の人魚(音海) 御浅嶽は有名な魔所とされている。山の八分目あたりから上へは誰も登った者がない。この山の御浅明神のおつかいしめは人魚であると、昔から言い伝えている。昔、宝永年中(一七〇四)に音海村の漁夫が、海で漁をしていると岩の上に奇妙なものが寝ている。近か寄ってよくよく見ると、頭は確かに人間であるが、襟もとに鶏のとさかに似た赤いものがひらひらとまといっき、それより下は全くの魚体であった。けったいなものがいるものじやと、漁夫は持っていたかいを振りあげてひと打ちにたたきっけると、もろくもコロリと死んでしまったので、ポイッと海へほうりなげてそのまま家へ帰ってしまった。 すると急に大風が吹き出し、海は荒れに荒れて七日間というものは少しも静まらず続いて今度は、大地震がおきて御浅嶽のふもとから、海辺までの地面が大きくさけ、音海村は残らずその下に落ちてしまった。これは明神様のたたりだと言われている。 ※御浅は青葉山のことで、弥山と普通は書かれる。 音海の小字一覧関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『大飯郡誌』 『高浜町誌』 その他たくさん |
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