青海神社(せいかいじんじゃ)
附:柴の実入れ神事 |
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福井県大飯郡高浜町青 福井県大飯郡青郷村青 |
青海神社の概要《青海神社の概要》 青(あお)の東端、日置(ひき)との境付近の関屋川のほとりに鎮座する。国道27号が参道を横切るので、車で来ればすぐわかるところ。 左が国道27号、こんな案内板がある↑。 日置村との境に鎮座するため、地元では「日置の大森さん」と呼ぶのだそう。 祭神は青皇女・椎根津彦命。旧村社。「延喜式」神名帳に載る「青海(アオウミ)神社」、享禄5年(1532)の神名帳写(小野寺文書)にみえる「青海(アヲウミノ)神社」と考えられるが、式内社「日置神社」に比定する説もある。「若州管内社寺由緒記」は「日置村」として青海神社をあげ、御神体は阿弥陀如来と記す。青皇女が社殿の裏にある池で禊をして青葉山を遥拝したという伝説があり、禊池が現在も残る。 「青海」をどう読むのか、辞書類や報道などでは一般に「セイカイ」とすることが多いので、とりあえずここではそれに習っているが、延喜式には「アオウミ」の訓註がある。当社自身も「アオウミ」としている。どう読むのかとか祭神とか来歴とかは昔から各説があるナゾ深き古社である。。 当社の案内板 式内 青海(アオウミ)神社由緒 御祭神 椎根津彦命 合祀神 倉稲魂神(稲荷大神) 応神天皇(八幡大神) 神功皇后 比(口偏に羊)大神 青海神社の御創建年代は不詳なれど、醍醐天皇の御世、延喜年間(西暦905年頃)に撰上された延喜式神名帳に記載された古社(式内社)であります。 御祭神 椎根津彦命は、古事記、日本書紀によると、神武天皇東征の砌、海道を導かれ、建国に際し拓殖興業に御尽力されたと伝えられており、第十七代履中天皇の皇女、飯豊青皇女が海部を御統治になられ、御名代の御料地青郷の人々(青海首)の御先祖であり倭直部の祖、椎根津彦命を御祀りになったと伝えられています。又御本殿後方の川岸に近い窪みの池で皇女が禊(沐浴)をなされたと伝わっております。古き書物には、昔の阿遠郷、現在の青郷、内浦、丹後の大浦辺一帯の総鎮守宮であり、若狭・丹後の海の守護神であったと伝えられております。 本殿のまうしろには青皇女の禊池がある。 禊池 人皇第十七代履中天皇の御息女青海皇女(別名飯豊天皇)が青海の首の御祖神である青海神社御祭神椎根津彦命を御拝礼される時、青葉山を仰ぎ見つつこの池で禊(潔斎)をされたと伝えられています。毎年七月一日の池替神事に際し御祓を受けた人に限りこの池に入る事を許されて、年に一度の清掃を行う慣例になっております。青海神社。 案内板はこれだけだが、「栞」があったようで、(Web上の青海神社より) 鎮座地伝承 飯豊青皇女(第十七代履中天皇の皇女。水鏡には第二十四代飯豊天皇と記載) は忍海皇女とも申し上げ、海部を御統治になり、青郷の海部(丹後地方を中心に海部があった)も、皇女の私民であり、その御名代の御料地であったと、旧事本紀並びに帝王系図に書かれております。 皇女が御名代わりとまで、御慈しみになった青の地に、その青の人々(青海の首)の御先祖の椎根津彦命をお祀りになったと伝えられていることは、無理のないことであると思われます。 しかも、その境内に禊(みそぎ)をなされた地があったと伝えられ、現在、御本殿後方の川岸に近い所の窪みの池がそれであると言い伝えられています。 古き書物には、昔の阿袁(あお)郷、現在の青郷、内浦、丹後の大浦一帯の総鎮守の宮であり、若狭・丹後の海の漁場守護神であったと当地を伝えております。又、舞鶴市の森の弥加宜(みかげ)神社(大森さん)、余保呂の神社、当社の三社は兄弟神さんだと言われ、当社も大森さんと言われております。 ワタシはその「余保呂の神社」の氏子のハシクレで、特に興味を引かれる。 『高浜町誌』
青の東端、日置との境付近の関屋川と日置川のほとりに鎮座する。祭神は青の皇女・椎根津彦命。旧郷社で「延喜式」神名帳にのる。「青海神社」享禄五年(一五三二)の神名帳写『小野寺文書』にみえる「青海神社」と考えられる。 「若州管内社寺由緒記」は「日置村」として青海神社をあげ、御神体は阿弥陀如来と記されている。青の皇女が社殿の裏にある池で禊をして青葉山を遥拝したという伝説があり、禊池が現在も残っている。青という地名も皇女の名に由来するという。昔は青の郷・内浦一帯の産土神、現在は青・日置・関屋・横津海・出合五地区の氏神で一〇月一七日の祭例には五地区の囃子山が出て神楽舞・奉納余興などがあり賑かである。一般に青の明神と唱えているが伴信友は阿乎乃和多乃神の社と訓むべしといっている。 『大飯郡志』 青海神社 〔若狭國神名帳〕 正五位青海明神 〔若狭郡縣志〕〔若狭国志〕 在青村斯邊関屋村横津海村日置村之産神也未知祭何神延喜式-青海神社 〔稚狭考〕 飯豊天皇 …本國大飯郡青の郷青海大明神是也 延喜式神名式に青海神社 日置村青村横津海村関屋村いつれも此明神を祭り十一月三日中樂の輩仮面の式あり昔は田樂躍といふ事ありしとて白髪天皇五年十一月飯豊青尊崩すと史にあり三日の事はしれされども十一月叶へり… 〔神社考〕 今青海大明神と字音に唱へ又青大明神とも稱へり日置青横津海関屋四村の生土神とす日置村にも青海大明神の祠ありこは青村なるを祭來れるなり(〔大田文〕青郷の條に日置宮三町とありて青海宮の事見えぬば青海のは日置宮よりも衰へしか)按に青海神社阿乎乃和多乃神乃社と稱す可し青に坐す海の神なら青大明神と申すをもおもふべし。 〔地名辭書〕 青の海神を祭る書紀通證古事記傳等にアマミと訓み履仲帝の青海皇女一名飯豊皇女もしくは姓氏録なる青海首と相干係するやに説きたり。 指定村社 青海神社 祭神椎根津彦命外四神(合祀)青字中道通に在り 社地千百二十九坪 氏子百七十二戸 社殿二間三間 拜殿二間二間 神饌所二間五間 鳥居壹基 由緒〔明細帳〕神祗令よの神位正一位の染筆有 〔延喜式〕 青海神社 (明治四十四年五月六日指定)明治四十三年七月廿八日左の二社を合併せり。 無格社八幡神社 祭神応神天皇比メ大神神功皇后 横津海字宮ノ原 同 稲荷神社 祭神倉稲魂命 同字備中谷 (祭神従来不詳を維新後〔神名帳考証〕伴信友 に據り青海首の祖神と定めしなりとぞ) 当地一帯ばかりでなく日本全体の古代史のカギを秘めていそうな社で、先人達も目を向けている。 「青海」を何と読むか。セイカイと読むのは何とも小学生的で、当社は元々は上流の「横津海」にあったが、洪水で現在地へ流されたてきものといわれる、ならばその横津海が本来の呼び方ではあるまいか、今はヨコツミと読むが、オウツワタだったかも知れない、北になる「小和田」も今はコワダだが、オウ和田に対して小和田と言ったものか、あるいはオワダで、小和田と書いてオワダという苗字は舞鶴にもある。 「青海」はだいたいは、オウツワタ、オウノワタとかオウワタとか呼ばれていたのではなかろうか。「和田」という所は当町の東部にあり、JR「若狭和田駅」がある、そこと区別するために当地は「オウの和田」「おうワタ」と呼ばれていたのかも知れない。中津海(ナカツミ)というのは「中の和田」の意味で、オウ和田と和田の真ん中、今の高浜あたりをナカツワダと呼んでいたのかも知れない。東から和田、中津和田、オウの和田と並んでいたかも知れない。 オウ、オオ、オフ、オホとかオ、ヲとか文字は違うが耳で聞けばみなオーに似ていて、区別はつけられない。これらの発音があればおなじ意味があるのかも知れない。だいたい大飯郡とか青葉山とか、丹後側の舞鶴市大浦とか大波、大丹生、凡海郷、青井、大君、名神大社大川神社、さらにオケヲケ、みなつながりがありそうな、大変な神社のようである。柴の実入れが行われる日は今でも栗田田井や栗田小田(おだ)からも参列していた、これらの地名がはまったくの偶然事で、過去の歴史とは関係はないとも言えないように思える。 しかし確たる歴史資料はなく、先学達も関心を向けて調べいろいろ考えてきているので、それらも参考に広く周辺と全国各地を見て考えいくしかなさそうである。 このあたりの歴史が動くのはだいたい5世紀頃、古墳時代中期~後期、雄略の前後であろう、土器製塩の時代くらい、それよりも古いかも知れない時代であろうか。中央の権力が当地一帯にも及び始め、塩と鉄の経済が動き始めるころか。 それ以前から人は動いているが、5世紀でも手掛りがないのに、そんな昔のこととなれば、もう妄想に近いかも知れないような話になってくるが、そこへも挑んでみたいと思う。。古墳や神社はそうたいしたこともないが、その後の平安寺院の時代になると当地の一帯は抜きんでてくる。松尾寺、中山寺、槇山寺が鼎立するその真ん中になる。 当社の祭神は椎根津彦、あるいは飯豊青皇女とされている。 飯豊青皇女は、別の呼び方がたくさんあって、()内はだいたいの読み方。 飯豊皇女・飯豊王女(いいとよのひめみこ)、飯豊女王(いいとよのひめみこ)、飯豊王(いいとよのみこ)、飯豊郎女(いいとよのいらつめ)、青海皇女(あをみのひめみこ)、青海郎女(あをみのいらつめ)、忍海郎女(おしぬみのいらつめ)、忍海部女王(おしぬみべのひめみこ)、忍海飯豊青尊(おしぬみのいいとよあをのみこと)。一時即位していたと見られていて飯豊天皇ともする。 飯豊あるいは飯富は多氏の本貫とされる大和国十市郡飫富郷の飫富(オフ)で、その書き違えか書き替えで、彼女の氏族名、本貫地名をこのような好字を当てたものと思われる。忍海は彼女の宮(忍海角刺宮)(大和国忍海郡)のあったところで、ともに大和にある地名だが、ところが青、青海は大和には見当たらない。 これらがセットであるのは、全国探しても当地当社しかない。当社にも彼女の伝承があるので、これらの名は当地当社でなかろうかと言われる。 青もオウと読める、東京都青梅市はオウメと読む、青梅と青海、偏が違うだけで字面はよく似ている、当地の青もオウと読める。 「稚狭考」が気づいたことで、さらに彼女の弟君(甥)になるオ・ヲのつくオケ・ヲケへと推測を広げていく、もう驚きの天才だが、彼女の名にすらなっているくらいだから彼女と当地当社には強固な関係があるというのは、だいたいは史実なのかも知れないと認める史家は多い。 丹後国与謝郡、加佐郡の「オケヲケの伝承地」(よく知られたところのみ) 飯豊青皇女の父親か祖父になるのか、履中は与謝郡須津の須津彦姫神社に祀られている。 彼らの父になる市辺押磐皇子の墓と伝える皇子塚が名田庄村虫鹿野挙原にある。 継体前夜で、後のその王朝の修史家たちが都合の良いように改竄したりしていることも考えられ、わからない時代である、各説咲き乱れだが、継体の前王朝の根拠地がこちらにあったかもとも見られる。記紀では知ることができない、マコトの歴史が、当地あたりにも埋もれているかも知れない。 『新撰姓氏録抄』に、 右京神別下。地祇。 青海首(アワミノオビト)。椎根津彦命之後也。 とあり、伴信友もこれを言うのだろうが、椎根津彦は大和宿禰(大和国造家)の祖神で、青海首はその一族ということになる。椎根津彦(しいねつひこ)は珍彦(うずひこ)とも神知津彦ともいう。記では槁根津彦とされている。 『新撰姓氏録抄』 大和国神別。地祇。大和宿禰。 出レ自二神知津(シリツ)彦命一也。神日本磐余彦天皇。従二日向地一向二大倭洲一。到二速吸門一時。有二漁人一乗レ艇而至。天皇問曰。汝誰也。対曰。臣是国神。名宇豆彦。聞二天神子来一。故以奉レ迎。即牽二納皇船一。以爲二海導一。仍號二神知津彦一。(一名椎根津彦)。能宜二軍機之策一。天皇嘉レ之。任二大大和国造一。是大倭直始祖也。 ところで飫富に鎮座の名神大社、通称多神社、正式には「多坐彌志理都比古神社」であるが、 『青銅の神の足跡』は、 若狭に青という地名があって、そこに青海神社を祀る。青海神社の祭神の椎根津彦は『古事記』では槁根津彦(しまねつひこ)、『新撰姓氏録』では神知津彦(かむしりつひこ)となっている。大和の多神社に祀るミシリツヒコは神知津彦であり、したがって、椎根津彦と同一神である。 そうしたことで、彌志理都比古=椎根津彦で、多氏もまた椎根津彦の裔、大和宿禰の一族になるのであろう。また彌志理都彦命は神八井耳のこととも言われる。何もかも一緒くただが、遠い過去のことはそうしたことである。 また『郷土誌青』は、 青海神社に祭祀される「青媛皇子」は、地下鉱脈を探り当てることができる不思議な力をもっていた神と崇められており、山岳信仰を集めた青葉山と何か深い繋がりを推定させてくれる。また、当社には、天日槍が立ち寄ったという伝説があり、この天日槍の集団は、民俗学者の谷川健一氏が「金属鉱脈の探査に特異な才能を発揮した集団」であったといい、大飯町父子の靜志神社の祭神「天日槍」と野尻銅山との関連からも、その事が伺えるとしている。このことから、当社の周辺にも「地下鉱脈」の存在を想定させるが、鉱山の由緒にかかる場所はない。 青海神社は天日槍と金属に関係深い社でありそうである。 ここまでは先学達がやってくれているので、ワレラのお仕事はこの先にあるのだが、大和宿禰や多氏といえども元々から大和にいたわけでなく、どこかから大和へ入ってきたのだろうが、多氏などの元々の本貫地は大和ではなく、阿蘇君も同祖というからあのあたりか、あるいは当地当社の一帯(若狭・丹後)ではなかったか、と見る向きがある。 『古事記』は、「神八井耳命は、意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫の三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、長狭国造、伊勢の船木直、尾張の丹羽臣、島田臣等の祖」とある。当地あたりの氏族は何も見当たらない。伊勢の船木直は丹後の船木が本貫かも、尾張の丹羽臣はタンバと読むのかも、とかゴニョゴニヨ言うくらいしかできない。 丹後側には面白い資料がある。 丹後一宮籠神社に伝わる国宝・勘注系図に、始祖彦火明命-児天香語山命-孫天村雲命-三世孫倭宿禰命-…とあって、倭宿禰に付けられた註文には、 亦の名は天御蔭命、亦の名は天御蔭志楽別命、母は伊加里姫命なり。神日本磐余彦天皇の御宇に参赴て、祖神より伝来りし天津瑞の神宝(息津鏡・辺津鏡是なり)を献じ、以て仕え奉る。(弥加宜社、祭神天御蔭命は丹波道主王の祭り給う所なり)此の命、大和国に遷坐の時、白雲別神の女豊水富命を娶り、笠水彦命を生む。(笠水は宇介美都と訓めり)(原漢文) とある。何もかも一緒くたで、当時の幅のある時代の多くの事蹟が一人にまとめて詰め込んであるように思われる。 始祖の三代は「天孫本紀」(尾張氏系図)と同じで、そこから引っ張ってきて当系図の最上部に加上してモッタイを付けたものか、あるいは天皇家にソンタクして、天皇家とワシラははじめから関係はなく、天皇氏とは別の物部系統の者だとしたのかも知れない。 倭宿禰は天孫本紀には見えず、「倭宿禰」こそが当氏族の本来の始祖かも知れない。 籠神社境内には彼の銅像が建っている。それは浦島太郎さんというか浦島太郎の原像のような、あるいはもう一人の浦島太郎さんと呼ぶべきような姿をしている。 浦島太郎さんが亀に乗るのは江戸期になってからのことで、本来は舟に乗っていたのだが、そうすれば、倭宿禰も元々は亀ではなく「艇」に乗っていたのであろう。 この倭宿禰像は「倭宿禰命 〈別名 珍彦 椎根津彦〉」の説明があって、像の横に立てられた案内板には、 倭宿禰命 別名・珍彦・椎根津彦・神知津彦 籠宮主祭神天孫彦火明命第四代 海部宮司家四代目の祖 神武東遷の途次、明石海峡(速吸門)に亀に乗って現われ、神武天皇を先導して浪速、河内、大和へと進み、幾多の献策に依り大和建国の第一の功労者として、神武天皇から倭宿禰の称号を賜る。外に大倭国造、倭直とも云う。大倭(おおやまと、だいわ)の字音は、後の大和の(やまと)の国号に深い関係があると云われる。亀に乗ったお姿は応神朝の海部の賜姓以前、海人族の始原の一面を語り、又海氏と天系との同一出自をも示唆するようである。 御神徳 人生先導、事業成就、健康長寿、平和招来、海上守護 元伊勢 籠神社 八十二代宮司 海部光彦 地元研究者は、この倭宿禰こそが「神武」であり、大和を開いた人だと言う。 『海部氏勘注系図』は、天火明命の三世孫が丹波より大和に入ったことを明記している。時は紀元前の20年から紀元後の10年迄の間である。 丹波から大和へ入った天火明命の三世孫が、実は〝神武〟といえよう。 (「海部氏系図から邪馬台国の謎を解く」金久与市 『丹後文化圏』) この「浦島太郎」さん像は、玉手箱ではなく「玉(ぎょく)」を持っている。邪悪を祓い生成の呪具かと想うが、ギョクと言えば天皇でないか、倒幕派か青年クーデター将校かのようなハナシだが、この玉を手にしていることによって始祖天皇像となっているものか。天から降った来て三種の神器を持つ者でなく、海から来た海神の玉を持つ者とする伝えるものか。槁根津彦のシマは浦島太郎、嶼子のシマのようにも想える。 神武は架空の天皇だし、天火明命も借り物だったとすれば、丹後・若狭の勢力が弥生期に大和を開いたのかも知れない。その祖神は椎根津彦とか神八井耳とか、名はいろいろある。特に最初から大和にネライ定めて移動したとか言ったものでなく、あちこち行っていて、たまたま大和へ移動した分派の地がのちに日本の中心と発展していったものであろう。 天皇さんは天から降ってきたのではなく、浦島太郎さんこそが始祖である、ありそうなことと言えるかも。亀を助けたと童話になっているが実際はそうした卑小な者ではなかったのであろう、建国の英雄であったのかも知れない。。 尚、同系図の十三世孫に志理都彦命、十四世孫が川上真稚命と見える。志理都彦も神知津彦=彌志理都比古=椎根津彦=倭宿禰とすれば、久美浜王朝もこの〝神武〟系統であったとわかる。 ついでに考えてみれば、ミは美称だろうから、本名はシリツヒコ即ち「シリの彦」「シリの男」といった意味になるが、そのシリとは何だろう。吉備津彦、襲津彦などと言うのと同様の言葉の用法と思うが、シリという所の男の意味でなかろうか。「シリ、知る」とは領知することかも知れない、シリアか? ワタシは新羅のことでなかろうかと思う。新羅はシンラ、シラと読むが、日本では村を意味するキをつけてシラギと読んでいる、「辰韓(しんかん)の斯盧(しろ)国」が発展したものとされる。シン、シロ、シラと呼ばれていた、ラロは国のことででなくてもよいので、シの国といった意味だが、発声上シリとも呼んだかも知れない。サブリ、セブリなどという地名もあるので、もしそうなら、こうした系列に連なる人々は新羅渡来の人々であったということになる。シリツヒコとはだいたいは一般言われる天日槍を意味するのではなかろうか。 シリツヒコはシイネツヒコ、ウズヒコと同じで、籠神社の倭宿禰像の案内板にもそう書かれているし、『姓氏録』大和宿禰にも、宇豆彦。神知津彦一名椎根津彦とある。 若狭や丹後など日本海側から大和へ入った海人・天日槍の勢力は後に大和国造家や多氏などとなり、大和のヌシとなったと考えてみると、… 神武の長子は多氏等の祖とされる神八井耳なので、本来なら彼こそが、天皇家というか当時の大和大王家になるはずのものである。ところが実際に天皇になったのは次男の綏靖(神渟名川耳)であった。ミミ、ミは朝鮮語とも共通する尊称、『魏志倭人伝』にも「投馬国に至る水行二十日。官を弥弥といい、副を弥弥那利という」とあり、同国の南に耶馬台国があったと伝える。耳は尊とか尊者の意味の尊称で、その言葉から判断すれば彼らも又元々は朝鮮渡来の人であったのであろうか。 綏靖以降の天皇家は次男家筋の者である。だからこれは分家筋ではなかろうか。 丹後側から言えば、大和へ入った丹後本貫の本家筋が大和国造家や志幾大県主家や多氏などであり、その分家筋が後の歴史の流れのなかで力を得て、大和大王家→天皇家と名乗るようになった。天皇家の最初の本当のところは、大和へ入った丹後王家の分家であったことになってくる。 あとは考古学的に裏付けがとれると当説確定だが、それは難しいかも… 物的証拠は時の流れのなかで、あるいは意図的にシュレッダーにかけられ、役人どもはソンタクで真実を語らない、国民には「おとぎ話」が用意される。 21世紀になった今でもそうした国のことだから、遠い過去の権力の大本の本当のところはヤミのなかになるのかも。「よくもよくもそんなおとぎ話を」と我慢ならない人はぜひともさぐっていただきたい社である。 柴の実入れ神事2月11日の11:00~12:00くらいに執り行われる民俗神事。県の無形民俗文化財。 写真はそのクライマックスのシバタタキと呼ばれる行事。横津海の宮の頭が勤める柴神主が宣詞を3回読みあげるたびに、参席していた各区の禰宜がいっせいに立ちあがり、「ウォー」と歓声をあげて柴神主におそいかかり、柴で背中をたたく。強くたたくほど、葉が多く落ちるほど、荒天でも良い実が入り豊作になると言われている。 『金枝篇』の「殺される王」の世界を彷彿させられそうな行事である。柴神主は「叩かれ王」、叩けば叩くほど実入りがよいという。叩いて叩いて叩き殺ろせばもっと実入りが多いのかも。。 王や司祭は太古のそもそもはそうしたものであったのかも知れない、何かの時には世の犠牲となってもらわねばならぬ、三度殺しになるまでのしばらくは生かしておくから、せいぜい威張っておれ、とか考えられていたのかも知れない。 「江戸時代より伝わる」とかいったものではなかろう。文献初出がそうであるかも知れないが、その時代の思想や信仰ではない。おそらく稲作の発生、稲王稲司祭の発生にまでさかのぼれそうな行事で、稲作と同時に伝来したものではなかろうか。シバには稲穂もついているが大部分はシバなので、稲作以前の畑作までもいかない段階、狩猟採取時代の伝統呪術祭事も引き継ぎ習合したものかも。 飯豊天皇の性格ともかかわりそうなことであろう。 動画はカメラ構えるスペースなく撮りづらい、拝殿正面の1間くらいしかなく、そこは賽銭箱や錫緒が垂れていて、さらに同好諸氏で超混み合っている。マナーある良識ナミ範囲の根性ではムリ、どうしても動くものをという方は↑ こんなお酒までいただいた。 今の世はこの叩き役がクソの役立たずばかり、ソンタクする、つまらぬ茶坊主や太鼓持ばかりで、叩かなくなっている、タミに実入りがないのもうなずけそう… 尚、当行事と似たものに「花振り」があるという。 丹波篠山市今田町木津の木津住吉神社では、正月2日、シキビの枝で互いにたたきあって五穀豊饒を祈る「ハナフリ」神事が伝わっているという。 「丹波篠山地名考」 『高浜町誌』 柴の実入れ 一一日、青海神社において行われる行事で、当番四人は三日ぐらいの前日、柴二五〇束と長い餅を一〇〇枚用意し、氏神様にお供えする。そして本年の豊作を祈願して各戸に配った。 (横津海、関屋、出合、青、日置) 『角川地名辞典』 旧正月3日 柴の実入れ 大飯郡高浜町青の青海神社は、日置・横津海・青・関屋・出合の5集落を氏子にもつが、旧正月3日にシバノミイレが行われる。他所でいう作り初めに相当する行事で、日がたびたび変更されて、今では2月11日(建国記念の日)に定着している。この日青海神社で橿の木の長さ30cm ・ 直径1㎝ぐらいのものを3本を1つに束ね、稲の穂を少しと小指の先ぐらいの小石を半紙に包み、橿の棒にくくりつけ、神前に供えて神主が豊作の祈禱をし、これを宮総代が持ち帰って、それぞれ氏子に配る。このとき供えてあった「牛の舌」という長さ15cmあまりの扁平の餅をも配るが、各家では2月11日の作り初めの際、シバノミイレの柴(橿の棒)と、1升枡に白米を盛り、その上に餅3つをのせ、斗棒をもって近くの畑へ行って、柴を立て、1升枡を供えて豊作を祈る。シバノミイレのとき半紙に包む小石は、近くの川から拾ってくる。同町難波江では、作り初めの前日コイバマという海浜に行き、12個の小石を拾い、床の間に供えるが、もう意味は忘れられている。 『高浜町誌』 青海神社の祭神は明らかにされていないが、伴信友『神明帳考証』に「青海首椎根津彦之後也」とあって海洋性の神を祀ったとする。さらに本居宣長は『古事記伝』の中で青海郎女(飯豊郎女)を祭神と考証しており、青の地名を冠した名前に興味を惹く。もっとも『若州管内社寺由緒記』は阿弥陀如来を御神体とし祝子五助、袮宜右衛門、同左近と記し、延喜以来の古社とは記録していない。一方、 『若狭郡県志』は青村・関屋村・横津海村・日置村四ヶ村の産土神とし正月三日・一一月三日が祭礼と伝えている(現在は一〇月一九日)。したがって世襲の神官はなく、近世では講中のなかから袮宜・祝子を選定したらしい。氏子圏は関屋川の南側流域集落に限られ氏子数一七〇戸となっている。一方、対蹠する北側は青葉山南山麓に鎮座する金剣宮(かなぎの宮)の氏子圏となる。 この地域は七世紀末ごろの藤原宮跡出土木簡に記載されており、現表記の地名が連綿として存続している。青海神社の西側一帯は「三宅田(みやけだ)」の小字となっていてかなりの地域を占有するが、このことは神社周辺が六世紀中ごろに集中して設置された屯倉の一つであったことが考えられ、この地域も木津と同じく大和政権の直轄地として存在したことが推測されよう。北側小和田に所在する前方後円墳(双子山古墳)は、大和政権にかかわりを持った人物を埋葬したものであり、ここにも一つの勢力圏が存在したのである。ここに青海神社の所在することは飯豊青皇女とのかかわりから天皇家との深いつながりを示すものとして注目される。『日本書紀』によれば系 ┌居夏姫 ├億計王(仁賢天皇) 履中天皇─市辺押盤皇子 ┼弘計王(顕宗天皇) ├飯豊女王 └橘 王 譜は右のようになる。しかし、一書には飯豊女王を長姉としており、弟二人が天皇即位をゆずリ合ったときのこととして「姉(いろね)飯豊青皇女、忍海角制宮(現奈良県葛城郡新庄町忍海か)に臨時にまつりごとをしたまふ、自ら忍海飯豊青尊となのりたまふ」と記している。 青皇女は青地域を本貫としたことが考えられ、自ら地名の青を冠して名乗ったと推察される。彼女は記・紀の記述から巫女的な性格を持っていたことが伺われるが『書紀』では少なくとも一一か月間皇位にあったとし、また二四代天皇に数える一書もある。 日本古代社会において、三世紀の女王卑弥呼は別として推古女帝以前の女帝らしき人物は青皇女のみである。巫女としても特異な人物であったらしい。本来巫女は処女性が絶対不可欠の条件である筈だが彼女はそれを破っている。『書紀』清寧天皇三年の条に 秋七月に、飯豊皇女角制宮にして与夫初交(まぐわい)したまふ、人にかたりてのたまわく「一女の道を知りぬ、又いずくに異なるけむ」 ついに男と交はむことを願いせじとのたまふ とあって男と通じても巫女としてまったく変化のないことを確認している。当時としては大胆な社会への挑戦であり、翔んでる女性であった。 青皇女を祀る青海神社は現在木々もまばらな小さい森にすぎないが、かつてはかなり広い境内地を有し、欅が群生していたという。現在は国道二七号線によって分断されているが、もとは旧道からの長い参道となっていた。南面して拝殿・本殿が直線にならび、本殿背後には青皇女がみそぎをしたという池があって、そこより北西を望むと秀麗な青葉山が映える。 青海神社は元来、青葉山を揺拝する里宮であった可能性が強く、古代青郷の中心地として存在したことが考えられよう。神社、石剣石戈出土地、前方後円墳、青葉山は一体としてとらえるべきで、古代信仰の根元が青葉山であったと推察されるものである。 シバクという言葉 舞鶴あたりでは「シバク」という言葉がある。広辞苑にはないからこのあたりの方言かと思うが、ドツク、タタクという意味、ちょう痛いほどに強く叩くという意味である。ケンカ言葉で「おまえしばいたろか」「いっぺんしばいたろか」とか言う。ひょっとするとこれと同じで、柴で叩くという意味なのかも知れない… もしそうなら、もっと広く行われていた行事であったのかも… 青海神社の主な歴史記録「稚狭考」(『小浜市史資料編1』) 飯豊天皇 〔履中紀〕〔清寧紀〕に忍海飯豊青尊、又(飯豊天皇あり。〔紹運録〕に青海皇女、飯豊皇女と記せり。二人のことと見ゆれとも、実は一人なり。仁賢・顕崇御位を譲りあひたまひて、姉の飯豊皇女即位ありて十月はかりにて崩し給ふ。在位一年にも満されハとて、王代の数にとられす。然れとも〔増鏡〕には二十四代に立たり。今の世の〔日本紀〕にハ見へす、水戸の〔日本史〕にハ神功皇后を皇代にたてす、大友皇子を正統に立らる。しかれハ時世につきて改らるゝとしらる。飯豊天皇(履仲天皇の孫にて、市辺皇子の皇女なり。本国大飯郡青の郷青海大明神是也。〔延喜式神名式〕に 青海神社 本国大飯郡 飯豊比売神社 陸奥白河郡 飯豊神社 同国賀美郡 飯豊和気神社 同国安積郡 青海神社 越後頸城郡 青海神社二座 同国蒲原郡 姫皇子命神社 大和国十市郡 〔能因哥枕〕青の山、本国にのせたり。大飯郡日置村・青村・横津海村・関屋村いつれも此明神を祭り、十一月三日申楽の輩仮面の式あり、昔(田楽躍りといふ事ありしとそ。白髪天皇五年十一月飯豊青尊崩すと史にあり。三日の事ハしれされとも十一月叶へり。飯豊(イヒトヨ)の訓、何とやら解し難し。大和国飯豊の郷を多と書ておふと呼なり。豊につきて考ふるに飯をおおい鷹の餌をおし〔甲陽軍鑑〕飯富各部あり、但し世間流布の軍鑑にはイヒトミと訓あり、これもおふと訓すへきや。上総国野陀郡飯富郷、日向国飯肥、いつれもおと訓す。そのうへ顕宗天皇を億計と号し、仁賢天皇を弘計と号す。二音替れとも兄弟三人御名の音便おなし事ならんにやと思はる。大碓・小碓も此趣相同し。音も飯豊も飯富も大も響く所通音おなしけれは、後世唱へ誤りて大飯郡とよひ、青の山・大井川 能因法師哥枕にあり 青羽山 一に青葉 青の郷なと転するにや、青尊・飯豊取合せて考へ見るへし。しかれはイヒトヨの訓よろしからす、おふ天皇と申へきにこそありけり。飯の字に限らす、食の字にもおすの訓あり。〔旧事記〕申食国の食の宇訓せり、〔万葉集〕にも此訓出たり。いかなる故ありて本国に廟食し給ふにやしらす。 『高浜町の民俗文化』 柴の実入れは二月十一日に青の青海神社で行われる豊作祈願の神事である。(改暦以前は陰暦一月十一日)この行事に参加するのは、旧青郷村の青・日置・関屋・横津海・出合の五集落で、シバタバネといって当日までにカシの木のシバを準備しておく。しかし青は宮元として、お鏡を供える役を奉仕しており、シバタバネは行わない。この神事になぜカシの木が用いられるかというと、もともと青海神社は横津海に鎮座していたが、ある年大水が出て、青の現社地まで流され仮宮をこしらえた。その際にカシの木で生垣をめぐらせたので、その由来によってカシの木が神の木として扱われるのだとされている。なお神社に隣接する日置はサカキも用いる。シバには稲穂をゆわえておく。 神事は修祓・開扉・献饌・祝詞奉上の式次第にのっとっておごそかに行われ、拝殿でシバカンヌシがつぎのような祝詞を奉読する。 宣詞 抑々青海大明神卜崇メ奉レルハ国ツ神ノ後裔ニテ御名ヲ椎根津彦命卜称へ畏クモ人皇第一代神武天皇ニ仕奉リ海ノ路ヲ嚮導キ大和ニ着キ肇国ノ聖業ヲ補翼奉リシ大神ニシテ青海ノ首ノ祖神トシテ比ノ青ノ郷ニ奉斎リ申シ崇メ奉リ今日ノ祭典ニ仕へ奉ルハ比ノ神主ナリ。是ノ氏子ハ百千万ノ後ノ世マデモ守幸へ比ノ氏子ニ要ラザルモノ悪魔下道猪猿ニ至ルマデ種々ノ災ハ千里ノ外ニ吹掃ツテ取ラス。我氏子ニハ五穀豊穣金銀財宝七珍万宝ヲ与ヘテ取ラス。 読みおわるや否や、両脇に臨席していた各区の八人(関尾・出合・横津海二人)の袮宜がいっせいにシバカンヌシにおそいかかり、三回奉読するごとにシバで背中を思いっきりたたく。このシバタタキの神事は、よくたたけばたたくほど荒大になっても良い実が入り、豊作になるといわれている。シバカンヌシは横津海(二四戸)のミヤノトウ(四戸一班編成で六班あり)のうち一人が奉仕する。このあと、袮宜・町長・漁業組合代表・商工関係者・氏子総代などが玉串奉典を行い、撤饌・閉扉して神事が終了する。この神事には近在の漁師たちの代表者も参列し、二尺ばかりの青竹に護符をはさんだ竿をもらいうけ、漁のお守りとする。 シバはウシノシタモチとともに、各戸に二本ずつ配り、ゴヘイをつけて床の間に祀っておく。現在廃れてしまったが、ツクリゾメの日にユリダの木(ハゼ・ウルシも用いる)で作ったゴオウギを田にさし、大根・カブラを植えてお鏡一重ねを供える。三鍬ほどオコシソメをしてシバをさし、恵方に向って豊作を祈った。なお関屋は、関屋川の小石十二個(閏年は十三個)を半紙で包み、シバにゆわえて、一月四日の真夜中に山の神に供えたあと全戸に配る。神前ではノロシをたき初弓をひく。関屋川からひろい集めた清浄な小石は、いわば難波江のトシダマや神野浦のトシノミと同じく年魂・稲靈であり、お米のかわりといわれている。三月に苧の種をまくときに畑のウチゾメをし、良い苧が出来るようシバをさす。これは関屋の一里四方を治めていた関六の殿様(一瀬六郎左エ門)に苧を供出したため、良質の苧が収穫できるようにとの祈願をこめて、シバが用いられたのであった。 また柴の実入れの日には、ユリダの木でタテを作り、鳥居・手水社・拝殿・池の渕に二本ずつ立てて雨占いをする。楯状の板には、平年は十二本、閏年は一三本のきざみ目を横にいれ、土中にさしてしみこむ水分のにじみ具合で、各月の降水量を占う。関屋ではこの板をツキギと呼び、平年は十二本、閏年は十三本山の神に供え、山仕事で災難にあわないように祈る。 柴の実入れは、かつて小和田でも行われていたと伝えられている。現在その神事は形骸化し、袮宜が大年に椎の木を三本藁で束ね、一木の稲穂をゆわえたトシシバを作り、元日参拝に来た氏子にさずける。十一日のツクリゾメに、祈念祭にうけてきたゴオウギとともに畑にさし、カブラニ木を植えて下肥のカケゾメをして豊作を祈った。三株のカブラを早稲・中稲・晩稲と見立て、その育ちぐあいでその年の作を占った。 以上のように、お的射りや柴の実入れの神事は、農耕の所作を演じて豊作を神がみに祈念し、授けられた神霊のこもるシバを、ツクリゾメやノシロハジメに田畑にさして、生業の安泰を祈る年頭の行事で、音海や青海神社以外にも、同様の神事はかつてそれぞれの集落で行われていた。 青海神社の伝説・民俗『森の神々と民俗』 シバノミイレ(高浜町青・青海神社) 二月十一日に、式内社青海神社で豊作を祈るシバノミイレという神事が行われる。旧青郷村の青・日置・関屋・横津海・出合の五集落の禰宜五名、総代五名が、青海神社の神主を祭司者として神事を執行する。シバはカシの枝を数本たばね、稲穂をゆわえてある。日置は榊のシバを用いるが、理由はわからない。シバタバネといって各集落で神事に先立って行われる。シバは氏子の数の一九〇本分が用意されているが、なぜか宮元の青のみシバタバネはしない。神饌のウシノシタモチも青の分はなく、そのかわり正月にはお鏡を配ることになっている。 神主によって修祓、祝詞奉上がとどこおりなく行われたあと、この神事のクライマックスであるシバタタキと呼ばれる田遊びが拝殿で演じられる。横津海のミヤノトウがつとめるシバカンヌシがシバノミイレの宣詞を三回読みあげるたびに、参席していた各区の禰宜がいっせいに立ちあがり、「ウォー」と歓声をあげてシバカンヌシにおそいかかり、シバで背中をたたく。強くたたくほど荒天でも良い実が入り豊作になると言われている。 シバは各区の氏子に二本ずつ配り、ゴヘイをつけて床の間にかざっておき、ツクリゾメの日にユリダ(ヌルデ)の木で作ったゴオウギを田にさし、三鍬ほどオコシゾメをしてシバを植え、恵方に向かって豊作を祈る。なお関屋は、関屋川の小石十二個(閏年は十三個)を紙に包み、シバにゆわえて一月四日の深更に山の神に供え、全戸に配る。小石はお米のかわりとされ、三月に苧の種をまくときに畑の打ちぞめをして、良い苧が出来るようにシバをさす。このように関屋では、山の神に供えた畑作儀礼のシバと、青海神社からもらいうけてきた稲作儀礼のシバの二種類があった。 現在シバノミイレは二月十一日に行われているが、旧暦においては正月三日の行事であった。戦後、建国記念日へ移行したために、もともとのツクリソメの前段の行事がつじつまのあわないものになったのである。 なぜカシがシバとして用いられるかというと、もともと青海神社は山手の横津海に鎮座していたが、あるとき洪水になり、関屋川と日置川の合流点にある現在の社地に流れ着いた。そこで仮宮を作り、カシの木で青垣をめぐらした由縁により、シバノミイレの神事にはカシが用いられると言われている。この伝承は大嘗祭の青葉の垣を想起させる。「青葉の山は、尊い方をお迎へする時の御殿に当たるもので、恐らく大嘗祭の青葉の垣と関係あるものであろう。かの大嘗宮の垣に椎の若葉を挿すのも、神迎へ様式であらう」と折口信夫は『大嘗祭の本義』のなかで述べている。 『若狭高浜むかしばなし』 青のつくりぞめ 一粒でもたくさんの米がとれるようにと、年の初めに田の神様に豊作を祈る行事が行われた。青海神社のつくりぞめも、その一つである。 カシの枝を三十センチくらいの長さに切って、稲の穂といっしょに束ね、小指の先程の小石を半紙に包んで、枝にとりつける。これをシバという。シバを青海神社へ持っていって神主にお祈りしてもらうのである。それを一月十二日になると、田んぼや畑へ運ぶ。田んぼでは苗代にシバを立て、白米を盛った一升マスに餅を三つのせて供えて、その年の豊作を祈った。また、畑ではカブラを三本植えてから、その前にシバの束を立てて、祈ったという。 一月十二日は、小和田では祈念祭が行われた。この日は小和田の村の入口と裏の入口に “平盛次(中山寺の総檀家)”の名とお経が書かれた旗が立てられた。そして、みんなが集まり、そこで悪病払いや厄払いが行われたそうである。) .空を飛んだ蛇 昔むかしのことである。青葉山のふもとに大きな蛇が住んでいた。その蛇は、里人たちが山を越えようとすると、必ずといっていいほどその無気味な姿を現し、長い舌をチュルチュルと出して、行く道をさまたげるのだった。そんな時、里人たちは山を越えようにも越えられず、あきらめて引き帰すことがたびたびあった。 「あの蛇さえ出てこんかつたらなあ」 「もっと安心して山を越えられへんやろか」 里人たちが集まると、いつもその蛇の話で持ち切りだった。 そんなある日のこと、いつものようにみんなが蛇の話をしている時、突然ひとりの男がいった。 「いっそのこと蛇退治をしようや」 それを聞いてびっくりした里人たちは、 「あんな大きな蛇をどうやって退治するんや」 とぶつぶつつぶやいた。 しかしそのうちに別の男が、 「わしも蛇退治に手をかす」 といいだしたので、続いてみんなも賛成していった。そうしてそれからの数日間、里人たちは蛇退治の計画を着々と立てていった。 さて、いよいよその日。里人たちは長い刀を携え、不安と緊張の入り交じった顔付きで出かけていった。計画通りに山を越えるふりをして、蛇のすみかをおそるおそる取り囲み、じっと蛇が出てくるのを待ち続けた。そして蛇がニョキッと姿を見せたと同時に、四方からみんなで寄ってたかって、えいっと刀で切りつけたのである。 ばらばらになった蛇は、尾っぽの部分だけが行方不明になってしまった。しかし、その後二度と、蛇が里人たちを悩ますことはなくなったという。 一方青海神社では、ある日突然空を飛んできた蛇の尾っぽをどうしたものかと考えていた。飛んできたのが青葉山の方角からだったので、 「もしかすると、山の神さまと何か関係があるのかもしれない」 と思って、その蛇の尾っぽをおまつりすることにした。その蛇を入れる場所としてつくった井戸は“みそぎの井戸“と呼ばれている。 今でも毎年七月一日には、井戸さらえという神事が行われているという。 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『福井県の地名』(平凡社) 『大飯郡誌』 『高浜町誌』 その他たくさん |
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