丹後の七仏薬師 このページの索引 |
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お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから探索してください。超強力サーチエンジンをお試し下さい。 大浦半島の多禰寺もそうであるが、丹後には(丹波も)古くからの七仏薬師信仰が伝わる。
多祢寺に伝わるもの、この二つれだけでも、どの寺院が七仏薬師の寺なのかにユレがある。 上の表以外にもまだまだ麻呂子親王や七仏薬師との由縁を伝える寺院がある。薬師一般にまで広げるといくらでもいくらでもあるので、おいおい述べてゆこうかと思う。 史料を見てみると、これは多いが史料を見ないことには遠い過去のことなど何もわかるわけがないので、少々おつきあい願いたい。『宮津市史』には、 〈 麻呂子親王 用明天皇の皇子麻呂子親王が丹後国与謝郡三上が獄に棲む鬼神を退治したという伝説が丹波・丹後各地に残る。推古天皇の命を受けた親王は、伊勢神宮に祈誓、七仏薬師を刻み加護を願い、宿願を果たしたあと、竹野郡に天照大神を祀る宝殿を営み、薬師像を丹後の七か寺に分置したという。 この伝説を描いた絵画資料は、丹後では、南北朝時代の作とされる掛幅本「清園寺縁起』(大江町清園寺蔵、京都府指定文化財)、一六世紀末の作とされる絵巻『等楽寺縁起』(丹後町竹野神社蔵、京都府登録文化財)、一七世紀の作とされる絵巻『斎明神縁起』(同)の三点が知られる。『実隆公記」により文亀元年(一五○一)三条西実隆の筆と確かめられる『円頓寺惣門再興勧進状』(京都府指定文化財)は「用明天皇の御子なにかしの皇子」と麻呂子の名は記さない(八四一)。なお、重要文化財の円頓寺本尊薬師三尊像は平安時代末期の作である。 能『丸子』(廃曲)は大永四年(一五二四)の『能本作者注文』に観世弥次郎長俊(一四八八〜一五四一)作として載る。この能で鬼神が棲む「丹川与謝の郡みうへが獄」は、舞鶴市西図書館蔵「宮津領主京極時代宮津領峰山領絵図』(一六六二〜六九年の制作)に「ミうへケ獄」と見え、現在の大江山連峰の一角である。 能『真名井原』(廃曲)も室町時代の作と考えられ、天正十一年(一五八三)河守福寿新城で梅若大夫によって演じられている(一一七四)。「丹後の国まな井の原は天照大神あまくだり給ひたる処なれば見てまゐれ」と勅命を一党けた臣下が下向。「真名井原」の伝承地は中郡・加佐郡にもあるが、この能の舞台は与謝海に近い伊奘諾・伊奘冊の神を祀る社であり、宮津市の寵神社奥の宮とされる真名井神社が該当しよう。この能の詞章に「むかし此国は事恐ろしき魔国」であったが「まるこの親王」が鬼神誅戮の宣旨を受けたとき「天照太神も神通の犬に身を変じ神通をそへ」たので鬼神は滅ぼされ「四海波静なる国」となったとある。 親王分置の薬師を祀ると称する寺は、「多禰寺縁起」にいう施薬寺(加悦町)・清園寺・願興寺(丹後町)・神宮寺(同)・等楽寺(弥栄町)・成願寺(宮津市)・多禰寺(舞鶴市)の七か寺のほか、円頓寺(久美浜町)・成願寺(丹後町)・日光寺(大宮町)・福寿寺(野田川町)・仏性寺如来院(大江町)、さらに丹波では、福知山市の長安寺・下野条公民館・無量寺、兵庫県氷上郡市島町の清園寺などにまでひろがっている。また、前述した竹野神社・真名井神社のほか、大江町内宮の皇大神社、福知山市堀の一宮神社、綾部市志賀郷の篠田神社などゆかりの神社も多い。加えて、野田川町石川の鞭家、福知山市野花の小田家など親王の功臣の子孫と伝える家もあつて、近代まで斎宮大明神(竹野神社)に幟や幟竿を献上していたという(『野田川町誌』、芦田完「麻呂子親王伝説の研究」『ふくち山』二○八〜二一四)。 麻呂子創建の七仏薬師の寺々がちょうど丹後国五郡に満遍なく分布していることは、この伝説の成立にあたって、丹後の国制にかかわる何らかの宗教的な枠組みが作用したことを思わせるとともに、丹波にまでおよぶ広域的な伝説の分布は、あたかも播磨を中心とした法道仙人のそれを連想させるものがある。 なお、丹後の麻呂子伝説には「聖徳太子伝略」の流れをくむ中世太子伝の影響が指摘されている(高橋昌明『酒呑童子の誕生』)。これは、建久二年(一一九一)の『建久御巡礼記』以降、麻呂子親王創建伝承が生じ、太子信仰の拠点ともなる大和当麻寺に関係する勧進聖たちがこの伝説を丹後に持ち込んだためではないかという。当麻寺で今もおこなわれる練供養(迎講)は恵心僧都源信の創始になると伝えられ、一方、丹後では恵心僧都の弟子寛印供奉によって迎講がはじめられたとされる。『慕帰絵詞」には「大谿といひてきこゆる迎講のところ」とあり、本願寺三世覚如が天橋立と丹後国府を訪れた貞和四年(一三四八)当時も大谷寺の迎講は有名であった。大谷寺は丹後国府との関係が深く、『斎明神縁起』の画中にも書き込まれ、『等楽寺縁起』では寛印が等楽寺再興者として登場する。源信ゆかりの迎講で結ばれた当麻寺と丹後とを勧進聖が往還し、この伝説を流布したとする高橋氏の説は中世説話成立の本質に迫り魅力的である。 〉 事はそう単純ではないのではなかろうか、こんな広範囲の伝説が簡単によそから伝播するのであろうか。 この麻呂子伝説に先行する残欠の陸耳御笠伝説は無視してしまうのか。装いを変えては登場してくる鬼伝説である。根っこが何か残っていただろうと私は考える。 『大宮町誌』は、 〈 麻呂子親王と丹後 丹波丹後には麻呂子親王の伝説が各地に残されている。親王は聖徳太子の異母弟で六○三年四月征新羅将軍となったが、妻の死により中止し帰還した。その後六二六年三月「霖雨(ながあめ)」が続き、社会不安がつのり盗賊が横行した。そこで推古天皇は皇子に命じて山陰道の夷賊征伐を命ぜられた。(野田川町誌) この時無事征伐が成功するように薬師如来像を刻んで夷賊に向かわれたという。その如来像を刻まれた所を「仏谷」(福知山市雲原)といい今にその名を伝えている。 この時の薬師如来像(小金銅仏)は凶賊征伐後丹波の七ヶ寺に勧請されたと伝える。舞鶴市多祢寺西蔵院の「縁起」にこの七仏薬師の伝説が書かれている。それによると多祢寺は密教寺院で、用明天皇二年、麻呂子親王が創立したと伝え、親王は河守三上山に住む英胡・軽足・土熊の三鬼を征伐された。首尾よく英胡・軽足は殺したが、土熊は逃亡した。逃げる土熊を追って竹野郡の巌窟まで進攻した時、土熊の姿はかき消す如く何処にもその姿はなかった。これより先、生野(福知山市)まで進攻して来た時、何処からとなく一匹の白犬が現われ親王の道案内をし、一面の宝鏡を献上していた。そこで親王はこの宝鑑を強の枝に掛け巌の辺を見ると、肉眼では見えない土熊の姿があざやかに写し出されたのである。親王は神助によるものと勇気百倍土熊を討ち果たして凱旋された。その後この宝鑑を三上山の麓の大虫神社に納め、また、神徳に報いるため天照大神の宝殿を造営し、その傍に親王の宮殿を建てた。これが竹野の斎大明神であるという。さらに仏徳に報いるため丹後の国に七ヶ寺を建立し薬師仏を安置した。すなわち加悦荘施薬寺・河守荘清園寺・竹野郡元(願)興寺・同神宮寺・溝谷荘等楽寺・宿野荘成願寺・白久荘多祢寺である。ただし多祢寺の「弘化二年三月」の日付の「七仏薬師如来霊場」の額面には第六番目の宿野の成願寺の代りに「常吉村日光寺」となっている。以上が有名な七仏薬師の伝説である。 当町延利小字道戸の「駒返しの滝」は麻呂子親王が士熊退治の時ここを通って進もうとしたが、滝のため駒が進まず引返されたので「駒返しの滝」というと伝える(文化財の項参照)。この他三坂および善王寺にも親王に関連をもつ伝説が伝えられている。 なお、竹野神社の本殿に向って左側に丸田社という祠があり、麻呂子親王と共に凶賊征伐をして功績のあった桜井氏(斎神社の神官)の祖先を祀るという。また、竹野まで逃げた土熊を岩穴に封じこめて討ち取った岩が「立岩(たていわ)」であると伝える。この土熊を討った時のありさまを竹野神社の祭礼の中に神事として伝えていることは注目される。なお、是安(丹後町)の神宮寺には「麿子親王御廟之地」の石碑があり、また、久美浜町円頓寺の総門勧進状には親王の兇賊退治の伝説が伝えられている。 最期に中野玄三「丹後の七仏薬師像」(丹後の仏教文化)のまとめを引用する。 「七仏薬師の信仰は国分寺創建以前における小金銅仏の信仰、それを引き継いだ国分寺を中心とする七仏 薬師の信仰が、都の仏教文化を背景に三上山という郷土色に彩られて、独自の展開を遂げた点に重要な信 仰史的意義を認めるべきであり、このような信仰体験を経て、初めて仏教文化は丹後一円に広くかつ深く 惨透するようになった。」 すなわち丹後の仏教はこの七仏薬師の伝説が基底となり次第に滲透して信仰されるに至ったというのである。 〉 『網野町誌』は、 〈 麻呂子親王伝説 『紀』の用明天皇条に、「葛城直磐村が女広子、一の男・一の女を生めり。男をば麻呂子皇子と曰す」、とあり、前文から、麻呂子が用明天皇の皇子で、聖徳太子の異母弟に当たることがわかる。麻呂子についての記事は『記』・『紀』を通じてこれだけしか見当たらず、丹波・丹後に流布している麻呂子親王伝説は、まったく当地方独自のものということができる。しかも、この伝説の初見記録は近世初期のものという研究がある。(『麻呂子伝説の研究』福知山市史編さん委員会 芦田完氏)さてその伝説は−麻呂子は用明天皇の命を受けて、鬼賊討伐のためのいくさに発つ。それは山城・丹波の境あたりからはじまって、現京都府(途中、現兵庫県域にも少々入り込む)を文字どおり南北に縦断する長い道のりのもので、英胡(ルビ・えのこ)・軽足(ルビ・かるあし)・土熊(ルビ・つちぐま)というような首領をいただいた賊軍を迫い続け、ついには現丹後町海岸に屹立する巨岩「立岩」にこれを封じこめてしまう。国人たちはこの勲功を賛えて親王を竹野神社に併せ祀ったという。−というものである。 ところで麻呂子は長い征旅の途次、鎮魂と征伐の成功を念じて、七体の「七仏薬師像」を刻み、現舞鶴市大浦半島(多禰寺)以北の地域の七か寺に分置してこれを祀ったという。竹野郡内では元興寺・神宮寺・等楽寺三か寺の名が挙げられている。 このように、さし当たって麻呂子伝説の波紋は網野町に及んでいるとはみえないが、それでも『丹後州宮津府志』巻の五に、「鏡掛松」として、『竹野郡浅茂川明神今云奈古の社の側にあり、枝ぶり見事なる松なり。俗説にいふ、金丸親王当国鬼賊退治の時導きせし白大頭に戴きし鏡を此松に懸しより名くと…』などとあり、浅茂川明神とは島児神社を指すものと思われる。しかしながら「白犬頭に戴きし鏡」を松に懸ける話は、すでに大江山付近でのたたかいの時、現加悦町の大虫神社でも、また現丹後町立岩付近の竹野浦でも語られているエピソードでもある。 右の文中の「金丸親王」とは麻呂子親王のことであり、麻呂子はこのほかにも椀子(ルビ・まろこ)・金室(ルビ・かねむろ)・金麿(ルビ・かなまろ)・丸子(ルビ・まるこ)・神守(ルビ・かなもり)・竹野守(ルビ・たかのもり)・鞠(ルビ・まり)子など多くの異なった表記や異称を持つ。このことからもマロコというのは、当時の貴人男子を呼ぶ普通名詞ではないかとの説もある。 注一 近年の美術史的調査(京都府教育委員会文化財保護課)によって、丹波・丹後の伝麻呂子親王自作の七仏薬師像の大部分は、藤原時代(平安後期)の作と判明している。 二 麻呂子は大江山付近で、四人の武将ともども奮戦しているが、この伝説が後世(室町期)、源頼光と四天王の鬼退治説話として再生されたのかもしれない。 ☆『白鳥伝説』は、宗教編第一章神社「網野神社」の項で記述している。 〉 『福知山市史』は、 〈 麻呂子親王鬼賊退治の伝説 市内字筈巻に今臨済宗妙心寺派の無量寺があり、「丹波志」には「本寺 大呂村 天寧寺」としている。この寺の上の方に「奥寺跡」というところがあり、そこに古く金福寺というのがあった。この寺には、麻呂子親王が丹後(古丹波)の鬼退治をされたとぎ、戦勝を祈願して七仏薬師を彫刻し、その一躰を祭られたものであるという立派な仏像が安置されていた。 市の南隣市島町竹田の清薗寺や、北隣大江町河守の清園寺には、親王鬼退治の幅四○センチ、長さ約一○メートルに及ぶ絵巻物がある。金福寺廃頽後は、薬師堂もその本尊も、無量寺に引継がれている。次に「曽我井伝記横山硯」の記事を掲げる。 一倉山金福寺は真言宗なり。慶雲四年丹後浦島の辺に、むくりこくり(注、蒙古高句麗=外敵)と云ふ者数多くいて人を取。依って麻呂子親王退治給ふ。此時氷上郡より七仏薬師を御建立し給ふ祈願所也。七堂伽藍の所なるを光秀が焼討にしたり。後世八石斗の高除知寄附。此外中竹田村に鎌倉山清園寺、此寺門内に麻呂子親王植給ふ三又さくら今にあり、神守(河守)町に鎌倉山(鎌鞍山)清園寺、右三ヶ寺其余は何鹿郡にあり。 麻呂子親王は、古代に何人か同名または類似した名の人があるが、古丹波の鬼退治に関する限り、用明天呈の皇子(聖徳太子の異母弟)である麻呂子皇子とする古記録が多く、この伝説に関係ある由緒地はほとんとが奥丹波から、丹後にかけたところに分布しており、古社寺の縁起から、古地誌・民間記録・神仏や動植鉱物に至るまでその数一○○になんなんとするであろう。 その内容については、無量寺所蔵の縁起(諸寺多少の相違がある)の梗概だけを掲げておく。 昔用明天皇の時代に二鬼がおり、一を芙胡といい、他を土熊といった。はじめ鬼ヶ城に住んでいた。この山には今も巌 穴がある。又一鬼がおり、迦楼夜叉(かるやしゃ)といい、丹後の間人の北海浜に住んでいた。三鬼眷族多く、好んで人血を呑み、人々 甚だ恐れて、朝夕安んずることが出来なかった。このことが天聴に達し、第三皇子麻呂子親王に、その誅伐を命ぜられた。 皇子は、薬師如来の威神力にょらなければと、偏にその加護を祈った。一夜夢に老翁があらわれていうには、薬師瑠璃 光如来の像を彫刻して汝の冠の内に安置せよと。皇子はその言に従った。官軍を率い北の方丹陽に向かう。途中、戦勝を占 なって、焼粟を植えたところ、一夜にして生長した。又商人が死馬を埋めるをみて、試みに掘出し、これに鞭打つと 忽ち蘇生した。このように旅中瑞祥が多かった。鬼共はこれを聞き鬼ヶ城を去って河守に立篭った。ここは元伊勢の地、幸いに天照大神の神助を得て二鬼を撃破した。二鬼は北海浜に逃れて、迦楼夜叉と合体した。皇子の命危うい時一匹の犬が現われ、その額に円い鏡をいただき、忽然として諸鬼に向かって進んだ。諸鬼は自分の怒る姿が鏡にうつるのを見て、驚きおそれて一岩穴に土げ入った。犬はそれを追うて又鬼の姿を映す。鬼共その姿を見て敵と思い跳び出してくる。官軍力を得て、あるいは剣を抜き、あるいは矢を放ってことごとくこれを誅した。かくて一国平安万民和楽するという筋である。 この縁起書は元禄十年(一六九七)に無量寺住職祖貞が薬師堂落成の時書いたものであって、この種のものでは最も古いものである。 福知山市内の神社のうち、親王の創建というもの一。寺院安置の薬師如来のうち、親王彫刻の七仏薬師の一というものを祭る寺三ケ所。親王が鬼賊退治の願をかけられた巨石のあるところ二ケ所三石。天神七代の天神を祭る神社七ヶ所(但し一ヶ所は三和町)。親王御手植の公孫樹一ヶ所。親王の鎧と称するものを蔵し、かつ代変り毎に、親王を祭る丹後の斎神社へ幟桿(のぼりざお)を献上しつづけた家一戸。親王の随臣の子孫と称する氏五氏など、いろいろの関係で麻呂子親王との関係を伝承するものが三○に近い。それぞれの具体的なことは本書の各項について読みとられたい。(丹波・丹後内には親王伝説関係地が七○余ヶ所ある。京都短期大学論文集、芦田完「麻呂子親王伝説の研究」参照) さて全国中年以上の人々周知の「源頼光大江山鬼退治伝説」の本舞台もまた、河守付近の大江山である。ところが伝説の主人公は一つは飛鳥時代の麻呂子親王であり、一つは平安時代中期の頼光であ るその間麻呂子親王の方がおよそ四○○年古い。頼光鬼退治伝説は、もともとは、山城と丹波の境の大江山(古代白鳳八年始置の大江ノ関〔大枝ノ関〕今の老ノ坂)の山賊が、都を荒し婦女を掠めたことを、当時鬼の存在を信じていた人々によって、それが鬼の仕業として寓話化されたものである。という説もさりながら、鎌倉時代の創作(日本歴史大辞典−松本新八郎、「源頼光」の項)という頼光伝説では、何が故にその舞台が、都から遠く離れた丹波・丹後の境の大江山に持って来られたかということについては、その理由が、後者には岩窟があるからというだけでは納得出来ない。「頓光大江山鬼退治伝説」は、それ以前に、丹波・丹後の境の大江山を舞台とした麻呂子親王伝説が広く伝播していて、その基盤の上に頼光伝説が形成されたものと推考される。 ところで、この地方の諸寺縁起には、この両伝説の内容が混同して書かれているものがあることに注意しなければならない。いずれにしても、この両伝説は、朝廷がまつろわぬ者共を平定するという、記紀以来の日本人的思考型式に類別されるべきものであって、全国的に共通性のある物語である。 長田の願来寺 市内字長田小字段に、古義真言宗の泰平山真明院願来寺がある。空也上人の開基と伝え、近世では寛永六年(一六二九)に泉教阿闍梨が中興したという。本尊は薬師如来、脇立は日光菩薩と月光菩薩である。本尊薬師如来は、用明天皇の皇子麻呂子親王の作で、皇子が丹後の鬼賊退治の際七仏を彫刻して、戦勝を祈願した七仏薬師のうちの一体であるといい伝えており、三十三年目に一度の開帳を行う。 寺宝としては伝教大師の筆になるという三尊来迎の阿弥陀如来像、鎌倉か室町時代の作という極彩色の金胎両界曼荼羅、鎌倉時代と推定される極彩色の涅槃像などがある。明暦三年(一六五七)の鰐口は比較的古いものである。郡西国、丹波西国の札所である。以上のほか堂宇、旧鐘銘、月行事等については「天田郡志資料」を参照されたい。六人部地方には、郷内に七天神があり、多保市に立石があり、それらに関連がある麻呂子親王伝説の一環としてここにあげておく。 麻呂子親王と市内字堀の一宮神社 この年(慶雲四年)麻呂子親王が福知山市字堀に一宮神社を勧請したと伝えられる(天田郡志資料)が、このころに麻呂子という皇子は史上になく、またこの伝説をつたえる文書の大部分が、親王を用明天皇の皇子としていることから、その間の年代に開きがあり過ぎおそらく誤伝であろう。 〉 丹後の伝説なのか、丹波の伝説なのかわからなく、たいへんな広がりようである。
当寺のパンフには、次のようにある。 〈 由来 大浦の山裾海抜三百米に位する多禰寺はその名を医王山多禰寺と称し、当地方に初めて仏教をもたらした最古の寺であります。 今から凡そ千四百年の昔丹後丹波地方に君臨した三大豪族が大和朝廷に反乱を起こし、疾病の流行と共に人々は不安に戦いておりました。 伝え聞いた時の帝・用明天皇は深く心を傷め、鎮圧すべしと我が第三皇子聖徳太子の弟君麻呂子親王に追討の勅令を下されます。親王は自ら討伐の将に任じ、駒を進め大江山の砦に攻め入り激戦の末、打破り平定されます。 親王は貧病に苦しむ人々を仏法と医薬の力で救わんと、戦勝祈願の護持仏であった薬師如来を祠るべく、敗軍の雄、土熊を道しるべに従えてこの地に安置し、施薬の法を伝えると共に民心の安定を計るため、都の遥か北方の鎮護国家の道場として寺を創建し、多禰寺と名付けられました。 平安時代に入り傑僧奇世上人が現われ、桓武天皇に招かれ都に上り都造りに功績、宮中より、白久荘一円を寺領として賜わり、八寺十二坊僧兵を擁する七堂伽藍は天下に威風を轟かし、近郷の総菩提寺として栄えました。 時代は下り鎌倉、室町のうち続く戦乱の兵火に崩壊、時世の変遷の流れに没落、昔の壮観さは陰をひそめました。 古来七仏薬師の信仰は厚く、殊に眼と耳を癒して下さる仏様として知られ、地元の根強い力に支えられ今なお息づいており、静かなたたずまいの中に残る数々の文化財、薬草栽培跡地に立って眼下の美しい舞鶴湾の風光をとおして、栄枯盛衰の歴史を歩み続けてきた古刹多禰寺をうかがい知ることができます。 〉 草創者は麻呂子親王とも金麻呂親王とも伝えられる。 山の斜面で田畑の少ない所だから、金属関係者の草創になるのであろう。 先にも書いたがタネ寺とは砂鉄寺である。巨大な寺を建てた経済力と文化力は金属生産集団しかないであろうと思われる。 タネといったような寺名なのだし、マラとかカネといった名前のある人の創建と伝わるのだから、そんなこと位は誰かが気付いてすでに書いているのではなかろうかと調べてみるが、今のとこは何一つ見つけられない。 たぶん意外にも七仏薬師信仰は金属生産と関係がある。と私は睨むがさてどうだろうか。これほどきれいさっぱりと抹殺されているのなら、従来の古文献をいくらひっくりかえしてみても何も出てはこないだろうと思われる。さてどう取り組んだものだろうか。舞鶴では最も早く仏教がここに入ったといわれる。誰も見たことがない遠い上代の当地の歴史をどうした方法で復元したらよいだろう。 『多禰寺縁起』(享保二年・1717)が伝わる。七仏薬師を本尊とする両丹の諸寺に伝わる縁起のうち、これが最も詳細だといわれる。 下の説明にも書かれているが、桂林寺十八世の香邦が、師十七世霊重の『田辺府志』中の七仏薬師伝承を漢文体に改めて、この寺の縁起としたものである。 幸いにも、このパンフは訳してくれているので、それを読んでみたい。 (少し訳してない箇所もある) 〈 多禰寺は、密教嗣続の霊場で、第二十一代用明天皇の即位二年(五八七)、王子麻呂子親王(または金麻呂親王ともいう)が開創した寺であります。 与謝郡三上ヶ岳に住む英胡、軽足、土能の三鬼がこの地方の庶民を苦しめました。天皇はこれらの賊を退治し、人民を救済しようと鬼退治の将軍に諸宮の中から麻呂子親王を選ばれました。親王は、天性雄健で厚く仏教を尊崇していました。親王は、鬼賊の誅伐は容易でないと考え、出発にあたり仏陀神明の妙力を得る為、七仏薬師の法を宮中で修め、小金体の薬師像一躯を鋳て護身仏として身につけました。また、伊勢神宮に詣でて神徳の加護を祈りました。七仏薬師とは、第一に善名称吉祥王如来、第二に宝月智厳光音自在王如来、第三に金色宝光妙行成就如来、第四に無量景勝吉祥如来、第五に法海雷音如来、第六に法海時慧遊戯神通如来、第七に薬師瑠璃光如来であります。 これより丹後の国に赴く途中、不意に白犬が現れて親王に宝鏡を献上することがありました。親王はこれは開運の祥瑞であろうと喜ばれました。ようやく黄坡、雙坡、小頚、綴方の四人の従者とともに鬼の巌窟にたどりつき、激戦の末、英胡、軽足の二鬼を退治し、逃げる土熊を追って竹野郡の巌窟に至りましたが見失ってしまいました。この時、さきの宝鏡を松の枝に掛けたところ、土熊の姿が歴然と鏡に映ったので、ついにこれも退治することが出来ました。 その後、宝鏡を三上ヶ岳の麓に納めて、大虫明神と号しました。 鬼退治が終わってから、親王は、神徳の擁護に報いるため、天照皇大神宮の宝殿を竹野郡に営み、これを齋大明神と言い、その傍らに親王の宮殿を造営しました。また、仏徳の加護に報いるため、丹後の七ヶ所に寺を建て七仏薬師像を安置しました。七仏薬師の寺というのは、加悦荘施薬寺、河守荘清園寺、竹野郡元興寺、同郡神宮寺、溝谷荘等楽寺、宿野荘成願寺、白久荘多禰寺の諸寺であります。 七仏薬師の本尊薬師如来は多禰寺に安置されましたが、その丈は三尺五寸(一一五・五センチ)、その胎内に一寸(三・三センチ)の護身仏を納めています。 造寺刻仏は、ともに麻呂子親王によってなされました。本堂は五間四方で南方を向き、前には弁天池がありました。 長い廊下は虹のようで、廻拝殿は旭日を映して美しく、二層の楼鐘は月にひびき、東西の両塔は雲にそびえ建っていました。求聞寺堂があって、国家安全を祈る勅願所として、香煙が山中にたなびいたといわれます。 〉 麻呂子とも金麻呂ともいうと註があり、与謝郡河守荘の三上山は鬼ケ城がこれだとしている。しかしその麓に大虫神社はないので、やはり三上山は大江山(山上ヶ嶽・千丈ヶ岳)ではなかろうか。 「多禰寺」
『大江町誌』
〈 当山略縁起 抑富山は人皇三十二代用明天皇第三の皇子麻呂子親王の御開基にて本尊は親王御自作の薬師瑠璃光如来にてまします 其由来を尋るに 其頃当国三上ヶ獄に奠胡(てんこ) 迦樓夜叉(かるやしゃ) 槌熊(つちくま)という三つの悪鬼の首領すんて百千の眷族をつかい 国中に充満しあまたの人を害しけるにより 人倫の通路たゝほとんと魔国とならんとす 此よし都に奏問を遂ければ帝宸襟をなやまさせたまひ急き公郷をあつめ御評定のうへ 麻呂子親王智勇兼備なれは彼悪鬼退治の大将軍として当国に御下向あるへしと勅詔を下し絵ひけれは 親王つつしんて御うけあらせられ 御ともには岩田(いわた) 河田(かハた) 公手(くで) 公庄(ぐじやう)の四人の勇士をはしめ御勢都合一萬騎にて橘のミやこを御出馬あらせられて当国に向はせ給ふ 親王当国に来り給ふ時地中に馬の嘶(いなな)く声聞へけるにより士卒に命してほらしめ給へは栗毛の龍馬躍り出たり 親王御覧じて これ天の賜なりと喜ひ給ひて直さま此馬にめさせられけるに無双の俊足にていかなる鳥道嶮岨(てんどうけんそ)といヘどもあだかも平地をゆくか如し その馬の出たる地を嘶(いなな)きの里と名つく さて手配りを定め三上ケ獄を囲ミ彼悪鬼を攻給ふに悪鬼本より妖術自在にて、空を翔り海を渡り岩をくくり雲を起し雨をよひ 或は顕れ或は隠れ切レともきづつかず射れともあたらず如何ともせんすべなかりけり この時親王これ神明仏陀の加護にあらすんは人力を以て敵しかたしとおぼしめて 薬師如来並に 当国大神宮に丹誠をぬきんて 御祈願あらせられけれは奇なる哉 一つの犬額に鏡を戴き忽然として出来り親王の御前に跪きけり 親王これを御覧して これこそ仏神の御加護ならめとそれよりこの犬を真先にたてて進ミ絵ふに 悪鬼とも鏡の光りにあたれハ忽チ通力を失ひ恐れわななき逃走るを ここかしこに追つめ 奠胡迦樓夜叉の二首領ならひに眷族あまた安々と計取たまひけり悪鬼首領の内槌熊一つ残り居けるか 親王の御前に出て 何卒一命を助け給はれとそ願ひける親王聞しめして 汝 罪赦しがたしといへとも 此處に七堂伽藍を建立すへき地を汝よく一夜の内に開き平らけは 願ひに任せ命を助け得さすべしとのたまひしかば 槌熊大に喜び岸を崩し岩を砕き木を伐り土をはこひて 一夜の内に境内広くひきならしけり親王すなわち彼か命を助け 当国竹野村斎の宮の巌窟に迫籠め永く出る事なからしめ さて工匠あまためしよせられて七堂伽藍御建立あらせられ 御手つから刻ませ給ふ七仏薬師の内一仏を安置し給ひ鎌鞍山(かまくらざん)清園寺(らいをんじ)と名付給ひしより今天保十二丑の年まて千二百六十四年の星霜を経て 仏閣僧坊僅に十の一を余すといへとも法燈明らけく薬師如来の霊験日々にあらたなる霊場なり 猶縁起本書に委し ここにはあらましをしるすのみ。 〉 「清園寺」
『大江町誌』
右の写真は見にくいと思うが、背後の大江山を見てもらうためにこれを選んだ。お寺は青鬼の右手首のあたりである。背後が大江山、千丈ケ岳と呼ばれる。麻呂子親王伝説に出る「山上嶽」と呼ばれるのは、この峰だと私は考えている。サンジョウがセンジョウとなったと思われる。『大江町誌』などはこの嶺に比定しているが、他の山を比定する説もある。 〈 如来院文書 奉書三三・五p×四一九p 大江町字佛性寺にある古刹 鎌鞭山如来院(真言宗高野山金剛峯寺末)もまた麻呂子親王伝説を創建の由来とする。本尊の薬師如来は一寸八分(約六センチメートル)の黄金仏で、親王の護身仏であると伝える。如来院縁起は、こうした創建の由来を詳しく述べたものである。 返り点も送り仮名もついていない漢文であり、かなり難解なものであるが、その概略を紹介すると、 佛性寺如来院は、用明天皇の第三皇子丸子親王(麻呂子親王の別名)が建立されたものである。その由来をみると、河守庄三上之獄(大江山千丈ケ岳)に、英胡、迦樓夜叉、土熊という三鬼を首領とする鬼がいて人々を苦しめたので、朝廷では親王を大将として鬼賊討伐の軍勢が出された。 京都を出て丹波路へ入って、馬堀にさしかかったとき、地底で馬のいななくのを聞き、ここを掘ると栗毛の龍駒が現れ、この馬に乗り山上ケ獄へ向かった。親王は、河守庄の日室山の険しい山に分け入って筒明神を拝されるが、この日室山は天照大神の分身の垂跡の地である。谷底は深く、ここに筒明神が祭ってある。ここから二里ほどいくと笠脱縄手があり、下馬橋のところから五十町分け入ったところに三重瀧がある。この瀧の辺りに鬼が集まり住み家としている。 親王は、薬師如来、日光月光菩薩、十二神将、七千夜叉、八万四○○○の眷族に祈られたところ、どこからともなく犬が鏡を頭にのせて親王の前に現れ、親王の四天王、黄披、双披、小頭(一書ニ小頸トモ)、綴方が先頭になって鬼を攻めたので、鬼はみな岩窟に逃げ込み姿が見えなくなった。そこで親王が鏡をとって見られると、鬼の住み家の中がはっきりと見えた。この明鏡を先にして犬を先導にして洞穴に入り鬼どもを討ったが、土熊は逃れて三上ケ獄の洞穴に入った。三重瀧の洞窟から、三上ケ獄の洞穴まで穴が通じている。その後、鏡を三上ケ獄の麓に祭り、犬鏡大明神とか大虫明神と称した。河守庄の庭森明神がそれで、伊勢神宮の鏡宮の変化である。親王は佛性寺を開かれ、親王の念持仏であった金の薬師像をつくり、七間四方の薬師堂に安置された。そのほか、拝殿、灌頂堂、護麻堂、法花堂、二階門など諸堂宇を建立した。薬師堂の下に淵があって、そこに親王が兵法に用いられた鎌と鞭を納められたので、山号を鎌鞭山といい、佛性寺の名は、涅槃経の一切衆生悉く仏性有りとの経典の本義から寺号として選んだものである。その後、この寺は衰微すること久しかったが「正暦元年接州(摂州か)三尾の阿忍上人が瑞相があったとしてこの地へ入られ、もと寺のあったところから八丁ばかり下のところへ寺院を再興された」というものである。 麻呂子親王伝説や、この伝説と薬師信仰の結びつきについての検討は通史編に譲るが、この如来院縁起の中で最も注目すべきことは縁起の末尾に「正暦元年九月八日 仁王六十六代帝 一条院御宇也」とあることで、この正暦元(九九○)年は、源頼光の大江山鬼退治物語で、鬼退治が行われたとされる年であることで、麻呂子親王伝説と源頼光の鬼退治物語の複合を示唆してくれる。また、この如来院縁起の中で、三上ケ獄に住む鬼が、鬼神と表現されていることも興味深い。これらについての検討も通史編に譲りたい。 この如来院には、この縁起のほかに、「佛性寺末寺の覚」という古記録が残る。これによると、如来院は、近辺に、目連寺(内宮)、成願寺(北原)、極楽寺(北原)、観音寺(毛原)、観□寺(前野)、蓮華寺(内宮)、長澄寺(北原)、志□寺(前野)の八ヶ寺を末寺としていたことがわかり、往時の隆昌がうかがえる。またこの「覚」に、佛性寺とあることや、縁起の中に、佛性寺の寺号は、「一切衆生悉く仏性有り」という経典の本義から取ったとあって、いま地名となっている佛性寺という名は、実は如来院の古名であったのではないかと推定される。 〉 「如来院」
舞鶴市福来の日光寺も七仏薬師の伝承をもつ。どこかでも引いたが、再度引用させていただくと、
〈 *松本節子の舞鶴・文化財めぐり(108)*大泉寺「薬師伝説めぐり」* 日光寺に発する興味深い開創伝説*一帯に色濃く残る村の歴史* 大泉寺は、慶長二年(一五九七)に、細川忠興によって禅宗臨済の寺として寺基をととのえるまで、どんな寺であったかを伝える確かな記録はのこっていませんが、興味深い開創伝説が、地域に語り伝えられてきました。 時はいつのころかさだかではありませんが、天清川の北、福来・上安間の山塊、天王山の台地にその名をのこす「大光寺」という寺が、大泉寺の前身といわれ、また、はるか昔にその寺は、福来南の山地中腹の「ダン」とよばれる地にあった「日光寺」という寺であったと伝えます。 このように、この地域には、口伝えによる伝承がいくつかありますが、この日光寺が、七仏薬師の寺であるという伝承を、はじめて文章化したのは、大泉寺七世の梅珪(ばいけい)和尚で、江戸時代中期のことです。 現在、福来の八幡神社境内にある福来薬師堂の薬師如来由来書の原本は、今も尾崎家に伝わる梅珪和尚の手になるもので、正徳五年(一七一五)に書かれています。 七堂伽藍誇った薬師の霊場 「夫丹之後州伽佐郡大内庄福来村薬師如来者同国高野郡斎大明神造立七佛安置于国中七箇寺則其一寺一尊也云」 丹後の国の加佐郡大内庄福来村の薬師如来は、昔、丹後の国の七ヵ寺に安置された七仏薬師のうちのひとつであるといわれている、と記し、そのあとに、薬師如来を祀った丹後の七ヵ寺を記しています(第一に義郡加悦庄滝村の施薬寺、第二に加佐郡河守庄清薗等、第三は竹野郡宇川庄願興寺、第四は同郡同庄吉永村神宮寺、第五は同郡溝谷庄等楽寺村等楽寺、第六加佐郡大内庄福来村日光寺、第七同郡白久庄多禰寺村多補寺。そして、 「日光寺者(は)昔七堂伽藍而(として)如来の霊験益(ますます)新(あらた)也」と記します。 こうして、この地に建てられ七堂伽藍を誇った薬師の霊場も、そののち、国内が乱れるにつれ戦火にまみれ、すたれてしまいました。 時は流れ、正徳五年の秋のある日、福来村の人、安久平左衛門(現尾崎家の先祖)が、山中から薬師の尊像をみつけ出し、二間四面の草堂をたてて祀ったといいます。 大泉寺の寺基は遠く七、八世紀 七仏薬師の信仰が、奈良時代の鎮護国家の祈願に始まるものとされることから、大泉寺の寺基は、遠く七・八世紀にまでさかのぽることになります。 かつて、大泉寺の信仰域であったとされる清道、天台、福来、倉谷は、そのどこをとっても古代につながる伝承をもち、それぞれに六・七世紀にかけての古墳をもつ地域でもあります。また、小字地名に、古代の条里制にかかわる「坪(つぽ)」のつく地名が多いことなどから、古く開かれた土地であったとみられます。 このことから、古代寺院の存在の可能性はあり、「ダン」の地に、薬師信仰の寺があったとしても不思議ではありません。 大泉寺の開創伝説にかかわる地、日光寺のあった南の山、また通称「元薬師」の地、現在の薬師堂、大光寺のあった北の山などを歩いてみました。 今も残る「せいさつ」は制札場の跡 福来にのこる明治六年・七年など、いくつかの地租改正時の古地図によると、福来村は、十字に交わる道路にそって、集落がひろがっていたことがわかります。 東西にはしる「御海道(おかいどう)」は、田辺城下から白鳥峠をこえて若狭にむかう「大道(だいどう)」でこれをよぎり、南北に村道通称「なわて」が通っていました。 この二つの道が交わる場所は、古地図の上に「御制札場」と書かれています。現在も、なわて道といわれる畑地の中の農道と、旧街道といわれる村なか道の交わる場所は、「せいさつ」とよばれています。この地が地図にのこる御制札場で、キリシタン禁令などの制札が高だかと掲げられた、村の広場であったと思われます。村の常夜燈としての大灯籠と地蔵堂がのこり、いまも、この地区の共同作業などの集合場所として生きています。 せいさつは村の中心として絶好 地蔵堂の中には、本尊地蔵菩薩の石仏のほかに、坂碑(いたび)型の如来石仏が六体と、五輪塔の一部が祀られ、地蔵以外は中世にまでさかのぼる古いものです。 灯籠も、無銘ですが自然石を積み上げた古いもので、笠石の下部には、亀の甲に似た六角の彫りこみがあり、吉祥を重んじた江戸中期のものと思われます。 この「せいさつ」に立つと、ま北に五老ケ岳、ま西に建部(たてべ)山、東は白鳥峠、南には、日光寺があったという「ダン」の山を見とおすことができ、かつて、福来村の中心として絶好の場所であったことがわかります。 ここから「なわて」の道を南へすすむと、右手に小高く木の茂る一角が地図にえがかれています。これが「元薬師」の地で、現在は日石ガソリンスタンドの南隣の畑地で、地籍は「墓地」となっています。礎石らしいものと、墓石の一部とみられるものが、数多く散乱しています。 さらにこの道を南へ、卸売団地の横から、氏神宮谷神社の前をすぎると、山道になります。「福来の不動さん」のある滝ケ谷を左にみてさらに登ると、古地図にかかれる「桐畑(きりはた)」らしい石積みがつづいています。 「水呑場(みずのみば)」で谷川とわかれ、竹薮の道を登ると「石仏が肩」の峠に出ます。 峠から山の稜線にそって右へ「今田道」、左へ「行永道」があり、江戸時代にはさかんに利用されたらしく、この道の利用権について争った文書が、宮谷神社にのこされています。 伝説もつ薬師如来は八幡神社に この奥谷の竹薮の左に、「寺がサコ」の地名がみられ、これが現在西町にある浄土寺の故地である、と伝承されています。さらに、この浄土寺は、もと大浦半島の多禰寺下の赤野にあったといわれ、赤野では、この浄土寺が、大和絵の祖、巨勢金岡(こせのかなおか)の館であったと言い伝えています。 多禰寺が、薬師如来を本尊とする真言宗東寺派の古刹であることから、幻の七仏楽しの寺「日光寺」との関係がうかがえます。 日光寺があったとされる「ダン」の地は、この「寺がサコ」より西方の、大泉寺寄りの中腹といわれ、今も、「鐘つき堂」の地名がのこっています。 「せいさつ」から北へ、なわての道は、天清川にかかる「いもじ橋」を渡り、上安に通じています。いもじ橋手前左に、福来八幡神社があり、伝説の薬師如来は、現在この境内の薬師堂に祀られています。 今では神社西側に府道が通り、福来と上安を結ぶ主要道路になっています。この道は福来では通称「戦争道路」とよばれ、昭和十七年に設置された倉谷の海軍工廠第二造兵部のための軍需輸送道路として、急きょつくられたものです。 大光寺跡は一時軍の病院に この道を天清川の北へ、民家の間をぬって天王山へ入ると、地番に「大光寺」とある台地に出ます。ここは、明治十二年の「福来村山林野 原由慣行取調書」には、「百四十二番字大光寺 野山反別弐畝弐拾四歩 柴生」と記される土地です。古老尾崎仁平氏によると、明治三十六年のころ、日露戦争にそなえ、戦傷病者のための、三棟からなる軍の病院がここに建てられ、その後、余内村の避病院として伝染病にそなえたが不要となり、大正初年にはとりはらわれて、もとの山林にもどったのだそうです。 大光寺跡はいま、春の野草におおわれています。薬師信仰の旧地にふさわしく、ゲンノショーコやドクタミが生い茂り、そのかげに、日露の戦いに傷ついた兵士たちのために植えられたのかもしれない「連銭草(れんせんそつ・強壮薬)」の小さな花が、紫色をのぞかせていました。 〉
桂林寺の南に円隆寺(真言宗・引土)があるが、皇慶上人(977〜1049)復興当時の円隆寺当初の本尊とされる薬師仏が伝わっている。 さらに南へ行って十倉の十倉山医王寺は本尊薬師如来。七日市の仏徳山西光寺も本尊薬師如来。公文名の慶徳山公国寺も本尊薬師如来。万願寺の西紫雲山満願寺は白山神の示現仏・十一面観音。境谷の仁寿寺は聖観音(水清観音の霊水は特に眼病に験ありと伝わる)・不動・毘沙門。そして京田の小字東光寺、これについて『まいづる田辺 道しるべ』は、 〈 仮橋(秋葉橋)から、約四百メートルばかり旧道を行くと、左手の山麓に寛永時代の供養塔や法華塔を見受ける。これらの石造物は、この道を人々が通らなくなって久しく、誰からも忘れられてしまったのか、草木に覆われ、あるものは倒れ、土中に埋もれ、時の流れを感じさせている。 地元の伝承によると、昔この辺りに東光寺という寺が建っていたと伝えられており、そのことを裏付ける小字東光寺という名が残っている。残念ながら寺は焼失し、何一つ記録は残っていないとのことである。 〉 ここは十倉から真倉の谷に入った所で、国道27号と鉄道、高速へ入る立体交差があるあたりである。何も記録がないという。寺号から判断すれば、ここも薬師であったと思われる。京田の子安地蔵(たぶん伊加里姫と関係がある)や真倉の稚児滝不動尊も関係すると思われるが、こうした薬師や毘沙門や観音は今ではそれぞれ違うもののように見えるが元へ戻ってインドまでいくとみな同じものという。仏教というのか本来は仏教外の神様というのか悪魔というのか鬼神(阿修羅・夜叉)であったという。万病に霊験あって甘露の如しの真名井の清水信仰もこの地一帯の薬師信仰と深い関わりがあろうかと思われる。夜叉と薬師、そう言えば発音が似ていて、古くは同じものだったのかも知れない。また真名井は大江町仏性寺にもあって、現地の案内には、 〈 真名井ケ池 昔し此の地に真名井ケ池と云うがあって七人の天女が天下って水を浴びていた。 一人の老翁がその一人をとらえて我が子とした。 天女は善く醸酒をつくった一ぱいを飲めば吉く万の病悉くいえた。其の一ぱいの直材を車に積みで送ったところ其の家豊に富んだので士形里という名が生まれた。天女は豊宇賀能貴命と云う。 又比の水は眼病によいと云伝えがあった。 〉 今度は桂林寺から北へ行くと吉田の瑠璃寺。しだれ桜で有名なお寺であるが、寺号の通りに本尊は薬師如来。 その北の青井には「湯薬師」の伝説が伝わる。 さらにその北の白杉には「たたり薬師」が祀られている。ここの水を持ち帰ると目と耳に御利益があると言われる。 西舞鶴のこうした一帯もまた丹後では最も古い仏教信仰とされる薬師信仰の地であったと思われるのである。 麻呂子親王伝説もあり、七仏薬師伝説風に解釈するならば、これらもまた土蜘蛛や鬼と呼ばれた人々の地であろう。実際はというか本当は彼らが齋祀った薬師と思われる。薬師は片目とか目が悪いとも言われるが、天目一箇神の仏教化したもので、マラコという鍜冶王に率いられた鍜冶の大集団があったのではなかろうか。
『丹哥府志』に、 〈 【医王山成願寺】(曹洞宗)。医王山成願寺は麿子皇子の開基なり。本尊法界勝恵遊戯神通如来は則皇子の彫刻する處なり。縁記曰推古帝卅三年麿子皇子勅を奉じて三上山の夷賊を征伐す。始皇子丹波の国篠村に来る頃人の馬を埋むるを見る、皇子心に誓わく此行若し利あらば此馬必ず蘇るべしといふ、忽ち其馬土中に嘶けりよって皇子之を堀られむれば果して駿馬なり、此處を今馬堀といふ。皇子此馬に乗て生野の里に来る。是時八旬の老翁皇子を迎て白色の犬を献ず。此犬の頭に明鏡を戴く、後に犬鏡大明神と祀る。皇子此犬を嚮導として丹後国雲原村に至る、於是皇子自から薬師の像七躰を彫刻す。この處は今仏谷といふ。皇子心に誓ていふ能の夷賊を誅伐する事を得ば丹後の国に於て七寺を建立し、今彫刻せし七躰の尊像各寺に安置せんといふ。既にして三上山に向ふ、三上山の夷賊妖術ありといへども犬の頭に戴きたる明鏡に照された其術を行ふ事を得ず。遂に悉く殺殲せらる。後新嘗の如く七寺を建立す、成願寺は其一なりといふ。 〉 『宮津府志』(天野房成・指田武正・小林玄章・宝暦13)に、 〈 医王山 成願寺 在與謝郡栗田郷宿野村 禅曹洞宗 智源寺末 本尊 薬師如来 開山 開基未レ詳當寺薬師縁起ニ曰フ。推古天皇 田辺府志に用明天王とす 之時富国三上嶽に英胡、迦樓夜叉、土熊と云三鬼を魁首として悪鬼多く集りて人民を害す、帝麿子親王に命じて之を征伐せしむ。 田辺府志に云皇子命を受けて先づ宮中に於て七仏薬師の法を修し悪鬼殺戮国家平治の誓を爲し、且黄金薬師の小像を鋳て護身仏とすとあり。按ずるに是は当国佛性寺の本尊ならん。皇子官兵を率ひ当国に向ふの路、丹波の国の篠村の辺にて商客の死たる馬を土中に埋むるを見る、皇子心中に誓て若し此度の征伐利あらぱ此馬必ず蘇るべしと、忽ち其馬地中に於て嘶く、皇子之を堀らしむるに駿足の龍馬なり 此所名つけて馬堀といふ 皇子此馬にのりて同国生野の里を過ぎ給ふ時、老翁忽然と出来たり白き犬を献ず此犬頭に明鏡を戴きたり 是後に犬鏡大明神と祭る 皇子此犬を嚮導として当国雲原村に到る、自ら薬師の像七躰を彫刻し玉ふ 此所を仏谷とふ、仏岩といふあり此岩上にて皇子薬師を刻すと云傳、且皇子祈誓して曰く、若し鬼賊を平ぐる事を得ば当国に於て七寺を建立し此七佛を安置せんと。夫れより河守の庄三上ケ嶽に至りて鬼賊を攻め伐つ三鬼隠形の術を行ふと雖も彼明鏡に照らされて形を顕はし遂に伏誅せり。三鬼の内土熊鬼をば末世の證にとて岩窟に封じ込め玉ふ、是れ今の鬼が窟なり。 仏性寺縁起及田辺府志には土熊遁れ去て竹野郡に至り岩穴に隠れ居る、皇子迫ひ到りて彼鏡を松樹に掛けて之を照らす、今に竹野浦に鏡掛の松と云あり、俗説に竹野の岩穴三上ヶ識の岩窟に通ずと云、此鏡後犬鏡大明神と云、又庭森大明神と云、是伊勢の鏡宮の権化なりと云。 皇子鬼賊を平治して宿願の如く当国に七ヶ寺を造立し彼七體の薬師を置く、同寺本尊は其第六の薬師なりと云々。 按ずるに麿子親王 俗に金丸親王 の事神社の部の附録竹野郡の竹野社の下に載せたり、河守の庄鬼が窟といふもの今の千丈ヶ獄の窟を云ふか、是今酒呑童子が出城といふものなり。又竹野郡の岩窟は竹野郡此代村の端郷槙の谷村山と竹野宮山の間に岩穴あり是なるべし。七佛薬師の事田辺府志に見へたり所謂 第一善名称吉祥王如来 興謝郡加悦庄施薬寺 第二宝月智厳光普自在王如来 加佐郡河守庄清園寺 第三金色宝光如来 竹野郡 願興寺 第四無憂寂勝宝吉祥如来 同郡 神宮寺 第五法界雷音如来 同郡溝谷庄 等楽寺 第六法界勝慧遊戯神通如来 與謝郡栗田郷成願寺 第七薬師瑠璃光如来 加佐郡白久庄多禰寺 以上七仏薬師霊跡諸説多しと雖も、此説は永井尚長公の代に改むる所なりと府志に見へたり。 〉 「医王山成願寺」(宮津市小田宿野) 曹洞宗慈福山成願寺(京丹後市丹後町成願寺)
『氷上郡志』に、 〈 嫌倉山清薗寺(不動明王)真言宗、高野山金剛峰寺末、寺内にあり。 麻呂子親王の開基といふ伝説あり、蓋し丹後の鬼退治の伝説に基くものなり、往古は本堂の他に東ノ坊、西ノ坊の二坊ありて、東ノ坊は真言宗親王院と称し、高野山末なり、西ノ坊は天台宗山門末なりしが、早く荒廃し、今は東ノ坊のみ残れり、元禄十四年快誉法印中興す、堂前に貞和三年の石燈寵一基あり、郡中第一の古燈篭なり、詳しくは金石志の部に記す。 鎌倉山清薗寺 本尊薬師如来 竹田村下竹田 縁起によれば、「往昔麿子親王の丹後の悪鬼を退治し給ひし時、薬師に御祈願あり、七薬師を彫刻し、甲の眞向に立て、此の地に軍勢一萬を集め給ふ、寺の艮に一萬阪と称するは即ち是れなり、鬼退治終りて、此に寺院を建立し、右の薬師一體を安置し、七堂伽藍を整へ、鎌倉山清薗寺と称し給ふ」といへり、是れ固より信ずべからずと雖も、天田郡其の他に、麿子親王創立と称する寺院多く存し、何れも鬼退治と密接なる関係を有せり、故に記して参考とす、本堂の他に、西ノ坊へ東ノ坊の二院を有し、各塔中数多ありしか、現存せるは西ノ坊と本堂のみにして、其の他は悉く廃滅に帰せり、寺傳に明智の兵火に焼亡すと称す。 古燈籠 本堂前にある石燈籠は、郡内最古のものにして、本郡金石史上特筆すべきものなり。 建造物 本堂、庫裡、薬師堂、鐘堂、総門等あり。 寳物 別所吉治の寄進状其の他数点あり。. 〉
多禰寺よりも二十年ばかり古く、もっとも古い麻呂子親王伝説の伝わるお寺である。このページの先にも引いてあるが再度ひいておこう。『福知山市史』に、 〈 麻呂子親王鬼賊退治の伝説 市内字筈巻に今臨済宗妙心寺派の無量寺があり、「丹波志」には「本寺 大呂村 天寧寺」としている。 この寺の上の方に「奥寺跡」というところがあり、そこに古く金福寺というのがあった。この寺には、麻呂子親王が丹後(古丹波)の鬼退治をされたとき、戦勝を祈願して七仏薬師を彫刻し、その一躰を祭られたものであるという立派な仏像が安置されていた。 市の南隣市島町竹田の清薗寺や、北隣大江町河守の清園寺には、親王鬼退治の幅四○センチ、長さ約一○メートルに及ぶ絵巻物がある。金福寺廃頽後は、薬師堂もその本尊も、無量寺に引継がれている。次に「曽我井伝記横山硯」の記事を掲げる。 一倉山金福寺は真言宗なり。慶雲四年丹後浦島の辺に、むくりこくり(注、蒙古高勾麗−外敵)と云ふ者数多くいて人を取。依って麻呂子親王退治給ふ。此時氷上郡より七仏薬師を御建立し給ふ祈願所也。七堂伽藍の所なるを光秀が焼討にしたり。後世八石斗の高除知寄附。此外中竹田村に鎌倉山清園寺、此寺門内に麻呂子親王植給ふ三又さくら今にあり、神守(河守)町に鎌倉山清園寺、右三ヶ寺其余は何鹿郡にあり。 麻呂子親王は、古代に何人か同名または類似した名の人があるが、古丹波の鬼退治に関する限り、用明天皇の皇子(聖徳太子の異母弟)である麻呂子皇子とする古記録が多く、この伝説に関係ある由緒地はほとんどが奥丹波から、丹後にかけたところに分布しており、古社寺の縁起から、古地誌・民間記録・神仏や動植鉱物に至るまでその数一○○になんなんとするであろう。 その内容については、無量寺所蔵の縁起(諸寺多少の相違がある)の梗概だけを掲げておく。 昔用明天皇の時代に二鬼がおり、一を芙胡といい、他を土熊といった。はじめ鬼ヶ城に住んでいた。この山には今も巌穴がある。又一鬼がおり、迦楼夜叉といい、丹後の間人の北海浜に住んでいた。三鬼眷族多く、好んで人血を呑み、人々甚だ恐れて、朝夕安んずることが出来なかった。このことが天聴に達し、第三皇子麻呂子親王に、その誅伐を命ぜられた。皇子は、薬師如来の威神力によらなければと、 偏にその加護を祈った。一夜夢に老翁があらわれていうには、薬師瑠璃光如来の像を彫刻して汝の冠の内に安置せよと。皇子はその言に従った。官軍を率い北の方丹陽に向かう。途中、戦勝を占なって、焼粟を植えたところ、一夜にして生長した。又商人が死馬を埋めるをみて、試みに掘出し、これに鞭打つと 忽ち蘇生した。このように旅中瑞祥が多かった。鬼共はこれを聞き鬼ヶ城を去って河守に立篭った。ここは元伊勢の地、幸いに天照大神の神助を得て二鬼を撃破した。二鬼は北海浜に逃れて、迦楼夜叉と合体した。皇子の命危うい時一匹の犬が現われ、その額に円い鏡をいただき、忽然として諸鬼に向かって進んだ。諸鬼は自分の怒る姿が鏡にうつるのを見て、驚きおそれて一岩穴に逃げ入った。犬はそれを追うて又鬼の姿を映す。鬼共その姿を見て敵と思い跳び出してくる。官軍力を得て、あるいは剣を抜き、あるいは矢を放ってことごとくこれを誅した。かくて一国平安万民和楽するという筋である。 この縁起書は元禄十年(一六九七)に無量寺住職祖貞が薬師堂落成の時書いたものであって、この種のものでは最も古いものである。 福知山市内の神社のうち、親王の創建というもの一。寺院安置の薬師如来のうち、親王彫刻の七仏薬師の一というものを祭る寺三ケ所。親王が鬼賊退治の願をかけられた巨石のあるところ二ケ所三石。天神七代の天神を祭る神社七ヶ所(但し一ヶ所は三和町)。親王御手植の公孫樹一ヶ所。親王の鎧と称するものを蔵し、かつ代変り毎に、親王を祭る丹後の斎神社へ幟棹を献上しつづけた家一戸。親王の随臣の子孫と称する氏五氏など、いろいろの関係で麻呂子親王との関係を伝承するものが三○に近い。それぞれの具体的なことは本書の各項について読みとられたい。(丹波・丹後内には親王伝説関係地が七○余ヶ所ある。京都短期大学論文集、芦田完「麻呂子親王伝説の研究」参照) さて全国中年以上の人々周知の「源頼光大江山鬼退治伝説」の本舞台もまた、河守付近の大江山である。ところが伝説の主人公は一つは飛鳥時代の麻呂子親王であり、一つは平安時代中期の頼光であるその間麻呂子親王の方がおよそ四○○年古い。頼光鬼退治伝説は、もともとは、山城と丹波の境の大江山(古代白鳳八年始置の大江ノ関〔大枝ノ関〕今の老ノ坂)の山賊が、都を荒し婦女を掠めたことを、当時鬼の存在を信じていた人々によって、それが鬼の仕業として寓話化されたものである。という説もさりながら、鎌倉時代の創作(日本歴史大辞典−松本新八郎、「源頼光」の項)という頼光伝説では、何が故にその舞台が、都から遠く離れた丹波・丹後の境の大江山に持って来られたかということについては、その理由が、後者には岩窟があるからというだけでは納得出来ない。「頓光大江山鬼退治伝説」は、それ以前に、丹波・丹後の境の大江山を舞台とした麻呂子親王伝説が広く伝播していて、その基盤の上に頼光伝説が形成されたものと推考される。 ところで、この地方の諸寺縁起には、この両伝説の内容が混同して書かれているものがあることに注意しなければならない。いずれにしても、この両伝説は、朝廷がまつろわぬ者共を平定するという、記紀以来の日本人的思考型式に類別されるべきものであって、全国的に共通性のある物語である。 〉
『天田郡志資料』に、
〈 傳云 本尊薬帥瑠璃光如来は用明天皇の皇子麿子親王(聖徳太子御弟君)御作、七仏薬師の随一にて霊験顕著、治癒除厄を祈願する者遠近よりの報賽者頗る多し。或は云、和銅年間(一三六八−一三七四)の安置に係ると。 〉 『福知山市史』に、 〈 長田の願来寺 市内字長田小字段に、古義真言宗の泰平山真明院願来寺がある。空也上人の開基と伝え、近世では寛永六年(一六二九)に泉教阿闍梨が中興したという。本尊は薬師如来、脇立は日光菩薩と月光菩薩である。本尊薬師如来は、用明天皇の皇子麻呂子親王の作で、皇子が丹後の鬼賊退治の際七仏を彫刻して、戦勝を祈願した七仏薬師のうちの一体であるといい伝えており、三十三年目に一度の開帳を行う。 寺宝としては伝教大師の筆になるという三尊来迎の阿弥陀如来像、鎌倉か室町時代の作という極彩色の金胎両界曼荼羅、鎌倉時代と推定される極彩色の涅槃像などがある。明暦三年(一六五七)の鰐口は比較的古いものである。郡西国、丹波西国の札所である。以上のほか堂宇、旧鐘銘、月行事等については「天田郡志資料」を参照されたい。六人部地方には、郷内に七天神があり、多保市に立石があり、それらに関連がある麻呂子親王伝説の一環としてここにあげておく。. 泰平山願来寺は空也上人によって生まれたと伝承される寺院で、やはり薬師如来を本尊としている中世寺院である。特に、この本尊薬師如来は用明天皇の皇子麻呂子親王が鬼賊退治のため、丹波から丹後へ向かうとき、七仏の薬師を彫って無事鬼退治ができるよう祈願した七仏薬師の一体であると伝えている。. 〉
何鹿郡志賀里の七不思議と金里親王(麻呂子親王)伝説 参考資料 《図説福知山・綾部の歴史》 〈 魔谷の鬼たち ●麻呂子親王伝説を追う 丹波の北部から丹後地方にかけて、広く「麻呂子親王伝説」が伝わっている。麻呂子親王は用明天皇の皇子で、聖徳太子の異母弟に当る。『大日本史』には、推古天皇一一年(六〇三)に征新羅大将軍に任命されたこと、奈良の二上山の麓に当麻寺を開いたことが記されており、この寺の裏には麻呂子山がある。親王を「当麻公」と呼ぶのも、これに由来するのであろう。 伝説は、麻呂子親王の率いる軍勢が河守荘三上ケ嶽(大江山)で「英胡・軽足・土熊」を首領とする鬼賊を討ったというものである。丹波・丹後の局地的な伝説で、全国的にはあまり知られていない。 当地方土着の信仰といわれる「七佛薬師」の信仰と結びついていることが特徴で、寺社の創祀縁起として伝承されており、「清園寺縁起」・「仏性寺縁起」(大江町)、「無量寺縁起」(福知山市筈巻)などが伝わっている。これらは、親王が鬼退治に当たって自ら薬師仏を彫り、その成功を祈願し、鬼退治の後、その加護に感謝してそれぞれの寺社を開いたという内容であり、清園寺や仏性寺の如来院、福知山市の長安寺など、親王伝説ゆかりの薬師仏と伝わる仏像をまつる寺は多い。綾部市では、志賀郷の「志賀の七不思議」が麻呂子親王伝説にかかわるものである。 この麻呂子親王伝説が、「酒呑童子物語」と類似点が多く、伝説として混同していることは早くから識者に指摘されてきた。例えば、大江山の「鬼の岩屋」は、いまでは酒呑童子の棲み家とされがちだが、麻呂子親王が生け捕りにした土熊を封じこめたところである。大江山連峰の一つ鍋塚も、親王の愛馬が鬼退治の成就と共に死んだので葬ったところと伝えている。 麻呂子親王伝説を、酒呑童子物語の一変型と見るのか、これに先行する土俗の伝説と考えるのか、議論の分かれるところだが、麻呂子親王伝説が地名由来となって伝承されていることから、この伝説の原型が先行して存在し、酒呑童子物語の成立と共に、伝説の舞台も大江山に吸引されたと考える方が適当なのではなかろうか。 ところで最近、先述の当麻寺一帯の豪族当麻一族は古代、製鉄と関わっていたのではないかといわれ、事実、付近から多くの鉄製品を副葬した古墳も発見されているという。そこで興味をそそられるのが当地方の退治された鬼たちのことである。清園寺に残る古縁起には、英胡・軽足らの鬼たちは「水と風と火を自在に操る」と描写されている。さらに、麻呂子親王は多くの異名をもつが、その中に「金丸親王」「金麿皇子」「金屋皇子」など「金」のつく名が目立つ。そして、伝説を色濃く残す大江山一帯には、魔谷(大江町北原)・火の谷(福知山市天座)・金屋(大江町・加悦町)などから古い鉄滓(製鉄の際の廃棄物、カナクソ)が出土しているのも興味深い。史実と伝説を混同することは戒めねばならないが、何かこの伝説の裏に「鉄・タタラ」が介在しているようである。(村上政市) 〉 |
資料編の索引
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