多禰寺
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《多禰寺の概要》 多禰寺は舞鶴市北部の大浦半島、多禰山の南中腹にあるお寺。 真言宗東寺派。医王山と号し、本尊・薬師如来。 享保二年の多禰寺縁起では、用明天皇麻呂子親王が勅を奉じて鬼賊を退治したが、この時宮中で七仏薬師の法を修した。その七仏中の薬師瑠璃光如来を勧請安置し、草創されたのが当寺であるとされる。 七仏薬師の寺、丹後最古のお寺といわれ、全国第三位とされる仁王像もある。 最古の寺とされる割には学問的に解明されているとはいいがたく、なぜこんな古い立派な寺院がこの山中にあるのかはわかっていない。謎ばかりが残されていて、現在でも寺名のタネの意味すらも明かにしていない。解明する気力も能力などないのではないのかと心配になるような話で、舞鶴郷土史界はここ千年ばかりはほぼ脳死状態だが、それすら意識されていないよう… タタラ製鉄では 種子島のタネも砂鉄と思われる、もともと日本島は砂鉄が豊富な島として、世界的にもよく知られた所というが、特に当島は南九州第一の量の砂鉄があるとされる、鉄浜(かねはま)海岸の砂浜は黒い砂鉄だらけ、アオメと呼ばれる砂鉄で、よいスチールが採れる、南蛮船が漂着したときには、島には50軒を越す刀鍜冶があり、この従来技術が種子島銃の多量生産の基盤となったと思われる。 タネなど製鉄については舞鶴ばかりでなく丹後全般で根本的な再検討と猛学習を当寺は求めている。 こんな山中では農はいいがたく、海の寺だと言うのだが…、確かに「海の薬師」もあるにはあるが、ここタネ寺でははたしてそれが正解か。 鉄と海は関係がある、海人は海の荒れる冬期には、山に入り、鉄を吹くからである、海と鉄は同じ海人の季節的な活動の違いで、同じ集団の行いである。浦島太郎さんは鯛釣る漁師であると同時に鉄吹く鍜冶屋でもあった。まさに古代丹後海人を代表し象徴している人だが、彼の鍜冶屋の面は近世に入れば誰も思いつきもしないようである。当寺もまたそのようであり、古代史界(そんなものはないが)の大きな見落としである。我々には古代史の過去がない、ということは未来もなかろう、と見てもよかろう。何も確たる足場を持たない根無し草で風の吹くままに、昨日勤王、明日は佐幕、その日その日の出来心で生きているというだけのものなのかも知れない。 『随筆・ふるさと紀行』(常見隆哉・平7)に、 〈 舞鶴の多禰寺は病除けの寺として、特に眼病に霊験がある。と、伝えられている。薬師如来や金剛力士像など鎌倉時代の貴重な文化財を有する古刹である。海抜三百米の同寺は、夏でも涼風がほんのりと吹き寄せ、避暑地として親しまれる。 〉 常見さんのおバアさんだったか、千歳の人だとか、この話はそこから聞かれたのではなかろうか、どの多禰寺案内にもない話であるが、だからこれは地元に伝わる確かな情報である。 どこの薬師さんもたいていがそうであるように、ここの薬師さんも目が悪いのである。鍛冶屋が祀ったものである。どう見ても私はここは金属の寺と見ている、そう見てこそ鬼や麻呂子との関係が、丹後全体と大浦半島が見えてくる、どうであろうか。 深く丹後の古代史にかかわる重要な寺院である。これが解けると地元はもとより丹後全般の古代史もかなり解けることであろう。 その後、桓武天皇が勅願所となし、奇世上人を中興開山に迎え、寂静院・吉祥院など八子院をもつ寺観に発展させたといわれる。 現在残っているのは西蔵院と呼ばれた一子院である。
《丹後国加佐郡寺社町在旧起》 〈 多祢寺村 医王山多祢寺鹿原山金剛院末寺。本尊薬師如来。開基用明天皇御宇丸子親王より元禄十丁丑年まで千百三拾三年。 本堂五間四方、僧房、西蔵院、威光院 二王門三間二間二王運慶作。 〉 《丹後国加佐郡旧語集》 〈 住持伝来写縁起ハ秘メ不出。多祢寺、西蔵院、医王山、慈恩寺金剛院末。…中田、赤野、多祢寺ノ寺。人王三十一代用明天皇即位二年王子麻呂又金麻呂トモ其草創也。王子金麻呂親王トモ云フ。欽明帝二十六乙酉トモ。…威光院 今は無寺。…。熊野権現、鎮守。荒神。弁財天。地蔵堂。権現祠。金岡堂、坂本ニ有 本尊不動明王。毘沙門…。二王門、両像運慶作。薬師堂。当テ桓武天皇御宇歴百九拾六年奇世上人住于此山于時延暦元壬戌年五月天皇有御悩遥奇世上人詔抽丹誠符薬師神呪奉香水叡慮忽快依之得帝力之余祐山中再復旧観是以中興開山トス 〉 《丹哥府志》 〈 【医王山多禰寺】(真言宗、寺領六石余) 医王山多禰寺は麻呂子親王の開基なり、本堂薬師如来は則ち皇子の彫刻する所なり、所謂七仏薬師の一なり、左右に相並ぶ十二神将は定朝の作なり、二天は運慶の作なりとて活動の趣あり。堂の柱を萩の柱といふ、在昔伽藍建立の日寺の麓赤野村といふ處に萩の大木あり(萩のありし處を萩の尾といふ、今訛りてハンニウといふ)、皇子之を奇とし則ち両楹に用ゆといふ、皇子の夷賊を征伐せしは推古帝卅四年なり、其頃より元文五年に至る凡千百年余、能く修補して伽藍を相続せしめぬ、されども経歴既に久しければ殆んど破壊に及ぶ、於是伽藍を重修す是時の僧萩の柱の記を作る、其柱に題し之を宝蔵の内に蔵む、近世其柱の朽たる處を切り両楹を一柱に作り右の柱とす、其木理鉤栗と相似たり、好事の其木端を以て香合などに造る極て佳なり。辛丑の夏余赤野村より金岡の古跡を経て多禰寺に登る、其間の風景及古物の今に存するもの悉く之を見るに実に勝地なり、一度善知識を得て能く法輪を転ぜば地の復古に至る当に運すべし、但頑愚の僧徒らに古蹤の地に誇り紅衣を着て自ら尊大にす、いよいよ法運の陵遅する誠に可惜哉。 〉 《加佐郡誌》 《同寺のパンフ》 〈 由来 大浦の山裾海抜三百米に位する多禰寺はその名を医王山多禰寺と称し、当地方に初めて仏教をもたらした最古の寺であります。 今から凡そ千四百年の昔丹後丹波地方に君臨した三大豪族が大和朝廷に反乱を起こし、疾病の流行と共に人々は不安に戦いておりました。 伝え聞いた時の帝・用明天皇は深く心を傷め、鎮圧すべしと我が第三皇子聖徳太子の弟君麻呂子親王に追討の勅令を下されます。親王は自ら討伐の将に任じ、駒を進め大江山の砦に攻め入り激戦の末、打破り平定されます。 親王は貧病に苦しむ人々を仏法と医薬の力で救わんと、戦勝祈願の護持仏であった薬師如来を祠るべく、敗軍の雄、土熊を道しるべに従えてこの地に安置し、施薬の法を伝えると共に民心の安定を計るため、都の遥か北方の鎮護国家の道場として寺を創建し、多禰寺と名付けられました。 平安時代に入り傑僧奇世上人が現われ、桓武天皇に招かれ都に上り都造りに功績、宮中より、白久荘一円を寺領として賜わり、八寺十二坊僧兵を擁する七堂伽藍は天下に威風を轟かし、近郷の総菩提寺として栄えました。 時代は下り鎌倉、室町のうち続く戦乱の兵火に崩壊、時世の変遷の流れに没落、昔の壮観さは陰をひそめました。 古来七仏薬師の信仰は厚く、殊に眼と耳を癒して下さる仏様として知られ、地元の根強い力に支えられ今なお息づいており、静かなたたずまいの中に残る数々の文化財、薬草栽培跡地に立って眼下の美しい舞鶴湾の風光をとおして、栄枯盛衰の歴史を歩み続けてきた古刹多禰寺をうかがい知ることができます。 〉 丹後の七仏薬師では薬師さんの眼病霊験談はあまり聞かないが、本当はあっても調査する者が勝手に聞き落としているだけかも知れないが、若狭へ行けば、たとえば多田寺(福井県小浜市多田)の本尊は重文の薬師如来であるが、↑その看板にも「日本三薬師・眼病封じ祈願の寺」とある。「古来多田の薬師堂と称し、郷民の信仰多く藩政時代に於ては其縁日には参詣者群集せり」(遠敷郡誌)という。 多田嶽の北麓にあって式内社・多太神社がある。タダはタタラであろう、タタラと薬師と眼病が関係深いことがわかる。 東麓の神宮寺本尊も薬師。さらに東の明通寺本尊も薬師。国分寺も本尊薬師。遠敷とは小丹生といわれるはずである。 東京の人にそんな話をすると、アラ、新井薬師(中野区)もそうですヨ、いう。 『薬師如来 謎の古代史』(97・清川理一カ)に案内が引かれているので、コピーさせてもらうと、 〈 梅照院(新井薬師)のご本尊は薬師如来と如意輪観音の二仏一体の黄金仏で、高さ一寸八分(約五・五センチ)のご尊像です。このご尊像は弘法大師の御作で、鎌倉時代の代表的な武将、新田家代々の守護仏でした。しかし、鎌倉時代から南北朝にかけての戦乱のさなかに、ある日の夕方、ご尊像を納めたお城の仏間から忽然と光が放たれ、それとともにご尊像は失せてしまいました。 その後、相模国(神奈川県)から行春という沙門(僧)が新井の里を訪れて草庵を結びました。清水の湧きいずるこの地こそ真言密教の行にふさわしい土地と感じてのことですが、不思議なことに、草庵の庭の梅の古木から光が出るという現象が夜毎に起こり、天正十四年(一五八六)三月二十一日、その梅の木の穴から新田家ゆかりのご尊像が発見されました。このご尊像を安置するために、行春が新たに堂を建立したのが梅照院の始まりです。 不思議な出来事とともに出現した薬師如来は、その後、広く、深く信仰されました。特に二代将軍秀忠公の第五子和子(東福門院)がかかった悪質な眼病が祈願して快癒したことなどから「眼の薬師」とも呼ばれ、あるいは第五世玄鏡が元和三年(一六一七)に如来の啓示によって秀れた小児薬を調整したことなどから「子育て薬師」とも呼ばれて、今日まで篤く信仰されてきました。(薬師寺発行の案内による) 〉 鍛冶屋はなぜ眼が悪いかと言えば、タタラの中で溶けた鉄の色を肉眼で片目だけで観察するからである。太陽の光と同じ色になるように燃やさなければならない。両目で見るよりも片目の方が見やすいという。しかしそんなものを見続ければ目がやられる。こうして50歳も過ぎればまちがいなく片目が見えなくなる。何もセンサーもない時代の職業病であった。ここから産鉄の神は片目(一つ目)なのである。そして眼病の仏・薬師もまた産鉄民と関係深いと思われるのである。 私らの子供の頃には電気溶接の火花を裸眼で見続けた者もあった。「アホがたらいで、知らんもんやで、ワシはあの光をずっと見とったんやな。次の日は目がボンボンに腫れてもうて、痛い痛いわ、目ヤニやら涙やら出て出て、何も見えへん、もうちょっと見とったら失明のとこやった、ひどいことやったで」という。かように強い光を見続けると目は潰れるのである。 新井薬師の新井はアライと読むが、本来はニイではなかろうか、ニフの水銀地名のよう、当寺も何か水銀とも関係がありそうなことは、近くに大丹生、浦入(浦丹生)などの地名があることからわかる。 水銀地名は西舞鶴湾から西舞鶴市街地からその郊外にかけても見られ、その周辺には薬師を祀る寺院があり、伝説がある。当寺はそれらの元締めか、舞鶴のきれいさっぱりと忘れ去られた金工史も秘めた寺院のようである。 |
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多禰寺 大道山 七仏薬師 |
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