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丹波の

天田(あまだ)
京都府福知山市天田


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京都府天田郡福知山町天田

京都府天田郡曽我井村天田

天田の概要




《天田の概要》

福知山駅や陸自のある一帯。駅の南側の丘陵地からその麓の平地の駅北側の市街地までで、山陰本線や国道9号が東西に走る広い地域。
天田村は、明治14~22年の村名で、木村・南岡村の2か村が合併して成立した。同22年曽我井村の大字となった。天田郡の天田だが、それを村名に戴いた明治の新地名で、当地に元々天田の地名があったわけではない。
天田は、明治22年~現在の大字。はじめ曽我井村、大正7年福知山町、昭和12年からは福知山市の大字。一部が同35年駅前町・末広町1~6丁目、同43年昭和町、同54年篠尾新町1~4丁目となっている。

《天田の人口・世帯数》 5267・2356(過去の村域(字域)と現在の自治会域が一部異なるたる正確な数字が出せない)


《主な社寺など》

道官稲荷神社(末広町)
道官稲荷
京都ルネス病院の脇にある。案内板がある。道官稲荷案内板
由来書
道宮稲荷神社略記
一、御祭神 宇気母智命・(保食の神)
一、鎮産地 京都府福知山市字天田小字木村百弐拾九番地
一、御由緒 本神社は道官稲荷とも称へられ、福知山城西方西方鎮護の守護神として西但馬山陰に通ずる要衝豊富街道の入口木村に祭られ、その創立の年代は詳かでないが、現在の社殿は享保年間(第百拾四代中御門天皇・約弐百七拾年前)の建立で棟札と伝承のある古社である。
歴代福知山城主の尊崇篤く城主江戸登城の際には御使者として常に付き附われたといい、福知山より江戸への通信は当藩が最も迅速であったと云う伝説がある。城内の鎮護神内記稲荷神社が初午さんと称せられ、外方守護の道官稲荷神社が二ノ午さんと書う代名詞が古来より伝わった由緒ある神社で、現在東・西・南・北一・北二の五本町を中心とする当地域の守護神として崇敬者尠しとしない。
一、御神徳 五穀豊穣、家内安泰、商売繁昌、交通安全、厄除開運、万物生産等の願いごとにご利益がある。
一、祭儀御例祭 参月二ノ午の日、その他年中恒例祭儀 壱回  以上
道官稲荷神社御由緒(別伝)
慶安二年二月二十八日に三河国刈屋藩主松平主殿頭忠房侯当福知山藩主(四万五阡九百石)に封ぜられました。侯は転治に当り特に敬神崇祖孝子節婦の美徳の高揚なされました(天照玉命神社、一宮神社、愛宕神社、孝子爲助の顕揚)城内外の鎮護には稲荷神社の崇敬殊に厚く初午、二ノ午の大祭をおすゝめになり、爾来この制を守り続け今に至るまで三百年を数うるにいたりました。


曹洞宗東光山高林寺
高林寺
市街地の中にある鉄筋コンクリートの寺院。鐘楼は昔のままか。
東光山 高林寺 (曹洞宗)  同町字北天田
本尊 地蔵菩薩 (伝へ云ふ行基菩薩の作と)
開基 福知山城主松平主殿頭と云ふ 中興 久昌寺第三十三世水野道秀和尚(和尚は愛知県海部郡千音寺村に生れ、名古屋市梅屋寺湛道和尚について得度、明治廿七八年従軍布教師として渡満、後明治三十三年久昌寺に来往)
再建 大正六年二月
以前は木村地裁尊とて僅に六坪位の小堂に三体の地蔵菩薩を安置し外に石像の地蔵尊ありて元文元年丙辰建之とありき。里人信仰せるを中興道秀和尚、私財を投して本堂、庫裡を創建し雀部村字川北に高林寺の寺号あるを関係者と協議の結果当寺号とせり。
(口牌)福知山城主松平侯病気平癒を祈願のため六地蔵を安置して信仰されしが肥前島原へ転封に際し記念として三体を持ち往かれしと云。
檀家 百余戸  財産 借家五戸
洪鐘 昭和大礼記念として鋳造、小鐘は大正大典記念として鋳造 寄附者愛知県成田長兵衛氏
鰐口 嘉永七年(安政元年にして)甲寅三月寄附者六兵エ、 石燈篭 寄附者今井隆一
五輪塔一基(開山と刻す)大正十三年九月建設。 郡内新四国第五番の札所なり。
行事 九日廿四日 念珠繰り御詠歌会を催す、 御詠歌
    一、 たのむなりしばしば夢の世をすてゝめぐれ木村のひろきみ堂を
    二、 おひしげる木村のもりの地蔵尊めぐみぞふかきためしなるらん
    三、 いづくぞとたづね木材の地蔵算たふとき法の誓とぞしる。
現住成田秀山師は、愛知県海部郡の人、明治三十三年道秀和尚に就て得度明治四十一年韓国守備兵として駐韓、功に依り勲八等瑞宝章を賜ふ。大正十二年四月当山住職となる。
(『天田郡志資料』)
高林寺の地蔵堂
東光山という山号から推測すれば、ずっと古い来歴がありそうに思えてくるが、記録がないようである。行基の名が伝承されていて、この山号、地蔵ではなく薬師を本尊とする古寺院を引き継いでいるのは確かかと思われる。薬師は東方浄瑠璃光如来で、東光サンとも呼ばれている。その名の通り医薬を司る仏で、医王という別名もあり、衆生の病気を治し、安楽を与える仏とされている。また目が悪い仏様とされ、目の障害の多かった鍜冶屋に信仰されたという。
厚の東光寺廃寺もそうだが、周辺一帯はは古くは真言宗以前の薬師信仰の地であったと思われる。


日蓮宗京都立本寺末妙遠山善行寺
善行寺(天田)
妙遠山 善行寺 (日蓮宗、京都立本寺末)福知山町字天田一五五
本尊 釈尊坐像  中興 日遥上人
開山 日像菩薩
創建 貞和三年(実ハ正平二年ナリ、貞和ハ北朝ノ年号)道場となす。此時曾我井庄、堀小字、湯の口に在り、後承応年中福知山広小路に移り後、市中類焼を恐れて寺町に又水害を避くる爲め、明治十三年六月曾我井村字天田に移転す。即ち今の地なり。
当山はもと真言宗なりしが、住持大円坊、建武二年秋、日像、当地通行に際し大に論議問答し大円坊終に屈服す。此時より改宗す、依て宗組日蓮上人真筆の一幅を賜ひ名をも大乗院日円と改む。依て円像菩薩を開山とし日円を以て第二祖中興となす。爾後、寺連退転、偶々洛陽立本寺日遥上人、山陰道行化に際し此を見て大いに歎き宗徒をして興復を図らしめ承応年平移転せるなり。日遥上人は立木寺十九世なるが此時より当寺に隠栖せらる。これ当山第十一世なり、其高徳を仰ぎて中興の組とす。かゝる因縁を以て当寺は立本寺末寺中一等寺跡たり。円遥上人より六世即ち当寺第十七世完通院日通上人、寺域の町家に接近して類火の憂あるを以て寺町に移さる、蓋し該寺地は藩士平田八郎氏の宅地なりしと云、されども平田氏は快く之を容れ永代寄進せらる、依て平田家は当寺の大檀那なり、又日正上人を中興永聖初祖とす。次いで第廿四世教弘院日俊上人は本山の特命にて来往せらる。宝暦十年二月有栖川宮殿下より御祈願を命ぜらる。乗物の許可あり、登城の際は独礼格たり、ざれども明治維新の頃は檀戸減少し寺運亦大いに衰へ浄域昔日の面影を止めずなりぬ。第三十四世要現院日医上人、此窮境に處ること三十余年、而して彼の福知山名物ともいふべき水害を被ること幾回なるを知らず、かゝる中にも法燈を伝へつゝありしが終に転地を決心したれども常に病苦に悩まされ其志を成さずして他界す。第三十五世要修院日弁上人其遺志を紹ぎ檀家と協議画策すること数年、遂に地を曾我弁村字天田に選び明治四十三年六月、改築成り移転す。功に依って本山より中興の祖たることを許され且つ永代緋金襴跡をも許可せらる。
境内に寺田則栄氏の墓あり藩史に詳く載せたり。
檀家 二百戸  財産 田畑合計一町歩
(『天田郡志資料』)

境内に幕末の藩士・寺田則栄の墓がある。
寺田則栄の墓寺田則栄墓の案内板


《交通》


《産業》


《姓氏》


天田の主な歴史記録


壮烈寺田則栄の切腹
二月十一日以来、福知山藩は旧久美浜代官所支配地の管理に当っていたのだが、二月十六日当時鳥取駐在中の鎮撫使本営から呼び出しがあり、藩の重臣榊原甚五右衛門・中目権兵衛と随従の原井応の三名が出頭した。
その節薩摩藩から「一寸来い」というので、原井が出向くと、旧幕領の取締りが他藩に比べて穏当を欠くとか、その他いろいろとケチをつけ始めた。元来福知山藩は鎮撫使関係は長州の指示に従うよう命じられているので筋違いも甚だしい。現に出張の両重役も長州藩の小笠原と談合に入っていることをみてもわかる。その中に、これは私事だがと断りながら、正月六日の大坂安治川口での薩摩藩士召捕りの件を持出してきた。段々激昂して「何故そのようなことをやったのか場合によって許さぬ」と烈しい見幕でがなり立てた。
驚いた原井が直ぐ両重役に連絡したので、翌十九日榊原・中目が薩摩藩陣屋に出頭した所(以下「榊原手記」)「役人出席、大坂川口の模様を聞く。唯々別手組の隊長として反旗をひるがえした寺田源五左衛門(則栄)の首級を討ち、藩の責任者に持参せしめ、首実験の上、藩の処分を返答するとか、朝敵の命を受け勤王の志士を召捕るは、均しく朝敵なり、疑惑の定まる処、然る上は其藩屠殺に及ぶべし、速に引取り主人に其旨申伝うべし」とか強行に申張って話にならない。「勝てば官軍」「泣く子と地頭には勝てぬ」とはこの事である。とにかく一応の猶余を願って三名は急拠帰藩して、その詳細を報告した。
一度は朝敵とされた宮津藩をも宥免し福知山藩に久美浜代官所管理の大任を委託して置きながら、あの大混乱の一月六日の小事件を、今更のようにほじくり出すのは余りにも武士の情を知らない振舞いと恨んでみても、どうするこもとできない。長州藩のとりなしも効果がなく、同日付で左の御沙汰書が出た。
福知山藩へ
右者今般御守衛被召連候得共、一応取調被仰付候筋在之候ニ付、今日ヨリ御守衛御免、御暇被下帰国仕候様御沙汰之事
二月十九日  陸軍執事
藩中鳩首協議したが名案の浮ぶはずもない。取あえず太政官へ左の届書を提出し一藩謹慎に入った。
御届書
私家来の者、当春大坂川口通船改所において、薩州藩士大野庄左衛門と申す仁召捕、其節の町奉行所へ差出候に付、西園寺殿御守衛被免候段、官軍御執事より家来の者へ御達有之、兼而差出置候人数御暇帰国被仰付候次第奉恐入候、依之右取調中謹慎仕居候、此段御届申上候
二月二十四日 朽木近江守
寺田源五左衛門は篠山藩黒田家から寺田家へ養子に入った者であるが、文武両道に達し、当時五十九歳になる思慮分別のある立派な武士であればこそ、大乱の大坂へ出張を命ぜられたのである。薩摩藩士への温情ある処置には一点の瑕瑾もない。しかし事ここに至っては寺田のような武士には死よりほかに道はない。二月二十九日、寺田は親族を集めて小宴を張り、しみじみと別盃を交し、その夜客間に毛氈を敷きつめ、礼服着用のまま正座、従容として割腹した。前記榊原は首級を受けとったら、直ぐその足で出発するつもりで、旅装を整え玄関に待機していたが、胸の張りさける思いであったと書遺している。午前三時頃首級を請取り、御目付小島甚内ほか一名を帯同、即刻福知山を発ち米子へ向かった。さすがの薩摩もそれ以上の横車は押せず一件落着して寺田の大きな功績となった。
 三月十一日善行寺で藩主催の盛大な葬儀が行われ、藩公も親しく参拝して感謝の意を表した。四月家督の寺田佐逸には五十石の加増があったが、当時の福知山家中一同の薩摩に対する恨みは癒す日はないと思われた。 寺田事件落着の五日後の慶応四年三月十二日福知山藩主朽木為綱が藩兵一小隊を率いて上京したのは、十五日宮中紫宸殿で行われる「五箇条の誓文」の奉戴式列席のためである。その節の御祭文に「親王・卿・諸侯・百官と共に誓う」とあり、「広く会議を興し、万機公論に決すべし」という誓文の第一粂こそ、飯田節等先覚者が見続けた夢であった。
(『福知山市史』)


伝説






天田の小字一覧


天田(アマダ)
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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