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丹波の

天座(あまざ)
京都府福知山市天座


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京都府福知山市天座

京都府天田郡金山村天座



明治34年発行
『幼年唱歌』

『大江山』
作詞 石原和三郎
作曲 田村 虎蔵


むかし丹波の 大江山
鬼どもおおく 籠りいて
都に出ては 人を食い
かねや宝を 盗みゆく

源氏の大将 頼光は
ときの帝の みことのり
お受け申して 鬼退治
勢いよくも 出掛けたり

家来は名高き 四天王
山伏すがたに 身をやつし
険しき山や 深き谷
道なき道を 切り開き

大江の山に 来てみれば
酒顛童子が 頭にて
青鬼赤鬼 集って
舞えよ歌えの 大さわぎ

かねて用意の 毒の酒
勧めて鬼を よいつぶし
笈のなかより 取り出だす
鎧かぶとに 身をかため

驚きまどう 鬼どもを
ひとり残さず 斬りころし
酒顛童子の 首をとり
めでたく都に 帰りけり



天座の概要




《天座の概要》

市の最北の山間の標高200メートルの高地。北は赤石岳(736m)と大江山(833m)を隔てて丹後に接している。西方の雲原に源を発する雲原川(天座川)が地内を東流して大江町内で宮川に合流する。

「あまさ」は室町期に見える地名で、文安4年6月の臣唱寺寄進田畠注文に、「あまさ分」として「一、三反 分米弐石四斗内 谷口大夫〈きんねん二斗ふさく分〉」「一、壱反分米八斗 光五郎〈きんねんふさく分〉」とある(天寧寺文書)。 中世には佐々岐庄下山保(金山郷)に属していた。
天座村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福知山藩領、延宝5年からは上総飯野藩領。
万延元年の農民一揆の際には、村内の医者玄信宅が「御上様之札をあつかう恨み」で襲われた。明治4年飯野県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年金山村の大字となる。
天座は、明治22年~現在の大字名。はじめ金山村、昭和30年からは福知山市の大字。
当地も大江山(酒呑童子)伝説のメッカである。

《天座の人口・世帯数》 164・83

《主な社寺など》

天座(御座石)
伝説によれば、御座岩に天照大神が降臨されたのでこの名があるという、酒呑童子伝説では、頼光一行が七日七夜神々の加護を祈った、八月十日に北に向かって出発せよとのお告げがあったという。
当地を呼ぶ地名・天座はアマザと古くから呼んでいるが、この岩がその地名の発祥元なら、天座はアマクラと呼ぶのが本来ではなかろうか。天の神が降臨する磐座をアマクラと呼んでいたのであろうかと思われる。舞鶴にも天藏(あまくら)神社がある。
元々の天座村はこの岩の近くにあったのかも知れない、いつの時代カニ現在の村地を切り開き田畑を開いて移住したのかも知れない。その岩は地図によれば、当村から天座川を下った大江町橋谷との中間地点あたりの天ヶが峰の尾根続きの山の上にありそう。
天ヶ峰」さんのHPによれば、こんな岩だそう。↓

親切に登山道まで書いてもらっているが、こんな深い道もなき山にはとても行けそうにもない、写真勝手に借用、申し訳なし。古くは、今もかも知れないが、ここが祭の場であったと思われる。

下流は元伊勢外宮が鎮座する大江町の天田内で、これらのアマには何かあるいは繋がりがあるのかも知れない。
当地住民は古くから天座川下流の元伊勢内外宮の広義の氏子と考えられている(明治期には氏子は元伊勢の祭日には趣向をこらした行列で参加したという)。また同時に喜多村の三岳山蔵王権現や上野条の御勝八幡の信仰圏でもあったという。
水流からは大江町側と結びつき、土地柄や交易関係では野条や喜多と結びついたようである。

大歳神社(神額には大年神社)
大歳神社(天座)

大歳神社。祭神は大歳神、旧村社。
下の府道からはずいぶん急な参道を登る、すぐ隣にその神宮寺の普光寺がある。トシというのは収穫のことで大豊作の神様のこと。
登り口に案内板がある。大歳神社の案内板(天座)
大歳神社 大般若経
紙本墨書 全五七六巻
巻物の装丁となった大般若経で、書風より、平安・鎌倉時代の写経を中心に一部室町・江戸時代の写経が含まれています。
本文の書風は、平安時代の後期と認められ、必ずしも能筆ではありませんが、丹念な筆法で、恐らく地方の僧と一般人の写経と考えられます。
このお経の特色は、巻頭の首題が本文と別筆であることで、平安時代に首題を高貴な人、あるいは格別の人に依頼して書いてもらうことがあることから、この経もその一例と考えられます。
付属の寛政三年(1791)八月の大般若経縁起によれば、 平安時代 源頼光が大江山の鬼退治の際、この天座の地に熊野権現を勧進し、この大般若経を書写して大歳神社に奉納し併せて普光寺を建立したと伝えています。
 なお、時代別の内訳は、ほぼ平安時代二二〇巻、鎌倉時代四三〇巻、室町時代以下、江戸時代まで九巻、断簡七片に分けられます。 福知山市教育委員会


案内のように、当社は大般若経576巻(市指定文化財)を蔵する。縁起書によると、昔源頼光が大江山の鬼賊を退治する時戦勝を祈願し、大願成就を感謝して頼光以下六人の主従が筆写したと伝える。大正時代までは祭日には、この大般若経の経箱を担いで般若心経を唱えつつ村内一定の道筋を巡回したという。
また祭日には千本搗きの御供餅の神事が行われてきた。天座村には、大昔鳥の奥(とりのおく)という森林地帯があって、怪物が住んでいた。時折娘を人身御供に要求するので、大歳神社に「天地のあらん限りの上供米(あげくま)を献上するからこの危難を救ってはしい」と祈願し、五俵の餅をついて供えたところ、怪物の難は絶えたと伝える。このことから毎年の祭日には御供餅の行事のならわしが起こったといわれている。また当社舞堂には坂田公時が斧で削ったと伝わる大日如来像がある。
大歳神社の経藏(大歳神社)
参道途中に書庫がある、ここに経文が収められているよう、その案内板には、
 この神社に伝えられている宝物に紙本墨書大般若経六百巻がありますが、これは市の指定文化財になっております。
普光寺の寺伝によると、源頼光が大江山の鬼退治の際、大歳大明神の加護によるところが大であったので、頼光以下七人の主従が大般若経六百巻を書き写し、この神社に寄進したといわれています。
 書風で大別するとほとんどが藤原・鎌倉時代のもので、このように古いものが極めて多いのは珍しく貴重な文化財であります。
福知山市教育委員会


『丹波志』
大歳大明神 天座村 本村ニ建
祭神            三社ノ祭日同日也 正月三日 九月八日
本社五尺ニ四尺 除地村中産神        平野建
有徳大明神
祭神
本社五尺ニ四尺 高八斗八升
八社大明神
祭神
本社五尺四尺 除地
権現      同村 千丈ヶ嶽半服 登尾谷 建
 祭神熊野権現  祭日三月三日 九月九日


有徳神社
有徳神社(天座)
有徳(宇徳とも書く・ウトク)というのは分限者のことで、今で言えば大カネモチのこと。この名の社は当地あたりのあちこにあるが、カネは鉱山のことで、鍜冶の神様。当社は片目の鎌倉権五郎景政を祀るといわれている。権五郎は片目ということで仮託されただけで、要するに片目の、あるいは目の悪い有徳な鍜冶神を祀る社である。どこなのか知らないが当地小字「火ノ谷」にはタタラ跡があるという、タタラ神を祀るのであろう。神様だが、これが鬼ともなって伝承されたと思われる。
ヤマシと言う言葉あるくらいで、一発当たるとポロ儲けで有徳者、外れると大ビンボーの稼業で、落ちぶれると土蜘蛛とか鬼とか呼ばれたりして人間と見て貰えないこともあった。どうか一発当たりますように、と祈ろう。

尾崎神社(十二社大権現)
尾崎神社(天座)
不動から少し大江山の方へ入り組んだ所に鎮座する、天座では一番古い神社とされ、神嘗祭の宵祭には大歳・有徳両社の御輿が神幸したという。万灯という行事が伝わる。

『福知山市北部地域民俗文化財調査報告書-三岳山をめぐる芸能と信仰-』
尾崎神社
 尾崎神社は村社である。以前は十二社権現といい、単に「権現さん」と呼んでいた。昭和の初め頃尾崎神社と呼ぶようになった。
 登尾の岡家が尾崎神社の神主であった。当人はなかった。岡家は、源頼光の鬼退治のときに、金時が泊まった家であるという言い伝えがある。また、岡家では母屋でお産をしてはいけないといわれていた。
 祭礼は、大歳神社や有徳神社と同じである。
 岡家が、尾崎神社の祭礼にあたっては、料理を作っていた。料理は一膳と脇神さんの分を作る。ゴクツキは宮の世話方が行っていた。大歳神社と有徳神社の当人も手伝った。
 祭礼は正月、三月の節句、十月十六日の年三回同じ事をした。今は、正月と秋だけである。山の神祭りはない。
 登尾の人は大歳神社と有徳神社の氏子に分かれており、それぞれ、大歳、有徳の当人はつとめる。一方で、尾崎神社の世話もするのである。
 夏に万灯という行事を行なう。杉葉や槙や豆がらを入れたものを生木で囲った物を竹で縛る。それを尾崎神社の境内にたててその横手に三本御幣をたてる。夜九時頃に長男のある家が火をつける。燃やすだけで他には何もしない。槍谷地区は昔大歳神社の氏子であった。

『福知山市史』
京都府管下丹波國天田郡天座村字登尾
村社 尾崎神社
一祭神 伊邪奈諾尊 伊邪奈美尊
一由緒 夫レ當社ハ正暦元年庚寅年、丹後、丹波二跨ル大江山二於テ鬼賊住居ヲナシ京都御所内二於テ不審ノ害ヲナスコト尠、因テ源頼光公被レ蒙二勅宣ヲ一首尾能ク鬼人退治有テ、則チ當村字登尾、尾崎ト申處二主従六人ノ守神ヲ熊野ナニ社大権現ト号シ勧請被二致置一タル趣キ古老ノ申傳エ然ル処、去ル明治六年中神仏混淆ノ御取調ノ際前顕ノ社名二改ム。とあり、十二社大権現を尾崎神社と地名をとって神社名とした。
当社の近くに岡家がある、酒呑童子伝説では、頼光一行は当家で逗留した、彼らが背負っていた熊野大権現を頂戴して、当社で祀り、その神職を代々務めてきたという。近くに弥勒堂があるが、一行はそこで大般若経を書写したという。

熊野神社
登尾の奥にあった熊野権現は、大仲寺の鎮守であった。

臨済宗大日山普光寺
普光寺(天座)
右手の木が茂っている所に大歳神社がある。
寺社方覚帳(威光寺文書)は大仲寺末寺と記し、「中興ヨリ天寧寺直末ニ相定マル」とあるそう。
大日山 普光寺 禅臨済 天座村
    大呂村天寧寺末
(『丹波志』)


臨済宗円通山大仲寺
熊野神社の神宮寺だったが、大呂・天寧寺末寺となったという。、
円通山 大仲寺 禅臨済宗 同村 登尾谷千丈嶽七合ニ建
大呂村天寧寺末
鎮守 熊野権現アリ
開基金山備後守政故実 法名大仲寺殿円岳実堅大禅定門
(『丹波志』)
政実は金山郷地頭金山氏第7代で室町末期の人という。


頼光の腰掛岩
酒呑童子伝説では下山してきて、頼光がこの岩に腰を掛けたという。これも山の中で、どうな岩か不明。


《交通》



《産業》



天座の主な歴史記録


『丹波志』
天座村 古甘座ト作 支 本村支平野 ケレヤ谷 金尾 ニイ子
       同右  高六百十石
 天座村ヨリ丹後国橋谷村迄二十四丁牛馬道、但シ俵峠ノ国境迄十七町、古ヨリ道筋雪中ニハ難通、俵峠峰疆、左右山並尾続峰疆、道境ハ俵峠時疆、
天座村ヨリ丹後国北原村迄三十丁五十間馬不通、但加納峠国境迄十五町、加納峠峰疆、
天座村ヨリ丹後国山下(サンコ)村迄三十四丁拾間馬不通、但山下峠国境迄二十丁、古ヨリ道筋雪中難通、山下峠峯疆、左右大江山、但頂迄、峠ノ峰ヨリ八丁斗、赤石山同シ、峰迄六丁斗、尾続峯疆、赤石山尾流レニ、谷川国境ノ所モ有之、道ノ境山下峠峯疆、行積村エ越、九鬼峠間道也
天座村ヨリ丹後国雲原村迄二十九丁三十間平地牛馬道但シ道ノ国境平野山尾流迄十三丁道境ヨリ北ノ方平野山峯疆南ノ方田地并川有リ下野条村道迄見通シ国境山下嶺ノ北方タレヤ谷出戸十戸

温湯  古蹤  天座村
湯上(ユカミ)谷ノ奥ニ在


天座の主な伝説


鎌止め
『福知山市北部地域民俗文化財調査報告書-三岳山をめぐる芸能と信仰-』
天座の伝説
上・下野条とともに伝説の偏在しているのが天座である。頼光一行は苦労して大江山の麓にある天座の里にやってきて、この地に逗留しながら様子をうかがったという。
 天座の地名の由来となった御座岩に七日七夜神の加護を祈ったところ、八月十日に北に向かって出発せよとの神告があった。
 登尾には頼光一行が逗留したという岡家がある。頼光が背負っていた熊野権現を頂戴し、尾崎神社に祀り、その神職を代々務めていた。尾崎神社は天座で一番元の神であるといい、神嘗祭の宵宮には天座の産土神である大歳神社と有徳神社の神輿の神幸があった。
 大歳神社で頼光一行が戦勝祈願し、無事成就した礼として大般若経六百巻(市指定文化財)を奉納した。坂田公時は自分は字が書けないが、「之」なら書けると、最初に「之」の字を適当に書き散らしたところ、後で頼光らが書き足してみるとちょうどよいところにおさまったという。古く祭礼にはこの経典を収めた経箱を担ぎ、般若心経を唱えながら、村内を巡回した。公時が斧で彫った大日如来像が毎殿に祭られている。また、田楽舞を奉納したともいう。この田楽舞は御勝八幡の大祭のおりにだけ天座の者が奉納していた。
 祭神の大歳神は御勝八幡の末娘だという。どこに嫁しても縁付かず帰ってきてしまうので、年が明けたら帰ってきてはいけないといって天座にやった。それでもやはり帰ってきたが、村境の峠に来たところで年を越してしまった。そこでいつまでも天座にいる。それで大歳という。御勝の祭でも大歳の神輿が最初に巡行する。大歳神が帰らぬかぎりは他の神輿は帰れないが、懐かしがってなかなか帰らないという。
 天座には鎌止めという習俗があった。酒呑童子が討たれた八月十日は鎌止めと称して刃物を屋外に出さない。また、牛も鬼のような角があるということで、一切出さない。ある村人が牛を連れて大江山の方へいったところ、霧の中から赤い顔で角のある怪物が現れた。その話を聞いた村人は「鬼の亡霊に違いない」といい、八月十日を鎌止めと定め、当番の家に集まって大般若経を皆で奉読してお日待ちをしたという。
 大歳神社には『大般若経縁起并勧化之旨趣』と題された巻子本が遺されている。後書によると大歳神社の別当寺であった普光寺住職祖天が寛政三年(一七九一)に書写したもので、江戸中期の天座における大江山伝説を知る上で貴重な史料である。若干長くなるが、全文を紹介しておく。
  丹波天座邨大般若経縁起并勧化之□(旨)趣
  …

『京都新聞』(97.3.29)
*ふるさとの社寺を歩く〈228〉*大歳神社(福知山市天座)*鬼退治とかわり
 福知山市北部の大江山連峰のふもと。草の生える急な坂道をしばらく登ると、竹や杉に囲まれた本殿が静かにたたずんでいる。「四月中ごろには、周囲の山々に山桜が咲き、新緑に映えます」と、地元の人は話す。
 建立の時期は記録が残っていないためはっきりとしないが、大江山の鬼退治とかかわりが深いという。
 境内の保管庫に収蔵する大般若経(福知山市指定文化財・五百八十六巻)の縁起などによると、今から千年以上の昔、天皇から鬼退治の勅命を受けた武将源頼光が、渡辺綱、坂田金時ら四天王を連れて大江山に向かう途中に天座を訪れた。一行は天照大神が降りられた御座宕の上で七日間一心不乱に祈願、すると天から、大般若経六百巻を書写し、大歳(おおとし)神社に奉納すれば本願が成就するとお告げがあり、首尾よく悪鬼を退治したと記す。
 大般若経は、書風から平安、鎌倉期の書写経を中心に後世の江戸期のものも含むとされる。人々の想像力が鬼伝説と結びつけたのだろうか。
昔は悪疫がはやると、村人はこの大般若経を持ち、唱えながら各戸を巡り、疫病退散を祈願したという。
 境内には江戸時代に建てられた古い舞堂がある。その中に安置される大日如来座像は坂田金時の作と伝えられている。
 地元にこんな話がある。大般若経は無事に鬼退治から天座に戻った頼光一行が返礼に書写をして大歳神社に奉納したもの。しかし、金太郎で知られる坂田金時は、字を書くのが苦手。かわりに愛用のまさかりで、この大日如来を彫り上げたのだという。
 高さ一・五㍍、太いヒノキの一木から彫りだした素朴な仏像だが、千年もの間、地域の人々を見守ってきた優しい表情がうかがえる。
 舞堂は、回り舞台もあって昔は農村歌舞伎が演じられたというが、今は床の傷みも激しい。天座文化財保存会の小原博会長(七四)は「歴史にはぐくまれた天座の人は信仰を大切にしてきた。過疎化のなか、有形無形の文化財をなんとか後世に伝えていきたい」と語る。






天座の小字一覧


天座(アマザ)
荒田 麻畑 麻良岶 アバラ谷 石寺 上ノ山 漆後田 尾崎 大畑 大西 押谷 落橋 奥河内 オザガ鼻 川田 河添 河原田 貝目 開地田 桐岶 木戸ケ鼻 黒が上 栗林 茎 経塚 小貝 小谷口 小畑ケ 甲田 荒神谷 権現ノ上 岶 岶賀 境下岶 下山 下登尾 四万田 四反田 菖蒲谷 城が岡 田本 丹根 丹根ケ辻 谷後 高岸 滝ケ谷 椴木 月ケ岶 寺田 寺ノ下 橡ノ木 峠 堂ケ谷 永田 流谷 鍋倉 中間開地 西 西垣 荷稲 野々上 登尾 灰谷 灰原 火ノ谷 日後 程原 前田 前岶前賀 万亀 松葉 道ノ上 水口 向山 向石寺 森 元屋敷 山ノ神 矢名谷 湯ノ口 蘭塔 石橋 貝免 岡 貝尾 添岶 椴 岶田 興戸下 平石 勝桑 大薮 舞岶 野ケ谷 小谷 障子畑 大谷 発行田 笠谷 水田 荒田 麻良岶 庵ノ坂 アバラ谷 一ノ岶 石寺 岩ケ岶 岩棚 芋岶 井月が岶 漆岶 大谷 大松 大西 大薮 大畑 奥河内 奥大松 岡 肩岶 落橋 押尾谷 勝ケ岶 勝□ 上大岶 上ノ山 河添 笠谷 隠谷 勘定ケ谷 桐岶 黍岶 黒石 茎 小谷 小杉谷 五本松 岶 岶田 才ケ鼻 搾艮 下山 下岶 下登尾 城が岡 障子畑 菖蒲谷 杉谷 谷ノ上 谷後 高岸 滝ケ谷 俵峠 段 椴 遥岶 月ケ岶 津屋元 峠 鳥ノ奥 橡岶 堂ケ谷 堂岶 トンド 長畑 永田 成畑 流尾 流谷 鍋倉 西 壬生呂 野々上 野が谷 畑 林ノ下 灰原 狭戸 発行田 平石 平野山 火ノ谷 日後 東岶 引土 枇杷谷 深山 堀協 細岶 程原 保ノ木岶 松葉 豆畑 舞岶 前賀 待ケ谷 見尾 皆坂 向山 山神 柳谷 休石 湯ノ口 奥戸方 興戸ノ下 蘭塔 割谷 岶ノ元 上ノ宮 下ノ宮 上畑 平野

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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