萩原(はぎわら)
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京都府福知山市萩原 京都府天田郡上六人部村萩原 |
萩原の概要《萩原の概要》 生野の隣りの集落。旧天田郡三和町との堺になる。西方の小倉山山麓から洪積層の段丘が東方へ舌状に広く突出し、その崖低地に水田がある。段丘上に住宅と畑、付近の低地に水田がある。 萩原村は、江戸期~明治22年の村。綾部藩領。山裏組14か村の1つ。明治4年綾部県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年上六人部村の大字となる。 萩原は、明治22年~現在の大字。はじめ上六人部村、昭和30年からは福知山市の大字。 《萩原の人口・世帯数》 283・127 《主な社寺など》 八幡神社
萩原城 遺跡地図などによれば八幡神社も萩原城跡も郡是跡の近くのようなのだが、見当たらなかった。
《交通》 《産業》 郡是萩原工場跡 右は国道9号。国道の向かいに広いトラックターミナルのような施設があるが、そこにあったという。今は反対側に碑が移されている。 明治42年に郡是製糸萩原工場ができ、大正11年の繰糸釜数200、職工男子9・女子239、生糸生産8、190貫であった。第2次大戦後は篩絹・撚糸工場となり、昭和55年に鍋小鉄工所に変わったという。 都是萩原工場跡 国道の向側に昭和三八年まで郡長萩原工場があった。 この地方に於いて、郡是萩原贋工場は大規模な工場として、経済的に地方の発展に大き<寄与した。 明治三十年、共進製糸合資会社が創立された。綾部に郡是が創られたのもこの頃、郡是は波多野鶴吉氏によって大発展したが、共進社の役員は旦那衆が多<経営がうまく行かず、明治四二年郡是に身売りし、その分工場となった。郡是にとっても将来発展の第一歩を何鹿郡外に踏み出した最初の工場で、意義深い萩原工場であった。 大正八年頃には、近隣の女工だけでは不足し、富山県東砺波郡から多くの女工を迎えた。彼女達は優秀で、信州より待遇が良いと張り切ったので、ノンビリしだ地方女工の刺激となった。 大戦が始まると「繭も兵器」と言われたが、やがて製糸業は平和産業と縮小され、海軍の縫工場となった。その後昭和二五年頃からは、八王子市から中野篩絹工場の技術を移し再生を図ったが、昭和三八年に操業六五年の幕を閉じた。 工場の正面から移設した、波多野林一社長著「我等の製糸」の碑 平成二十年十月 萩原自治会会 《姓氏》 萩原の主な歴史記録『丹波志』
『天田郡志資料』
伝説萩原の小字一覧萩原(ハギワラ) 油坂 油屋 麻町 合口 井ノ内 岩谷 石畑 稲葉 家ノ廻 イセキ インノ子ヤ ウツギ ウルシ畑 奥地 大畑 川ノ上 川端 上島地 上ノ小池 柿ノ木 ガンマク 雲田 雲田坂 倉屋敷 黒ケ市 欠戸 ケンジリ 小里 権田ケ瀬 坂ノ上 坂ノ下 下地 下地裏 シユツケ 城山 瀬谷 高田 戸ケ鼻 鳥ケ市 土井ノ内 中地 長畑 荷卸 ヌカヅカ 林ノ下 冷田 藤ノ木 風呂町 堀 向ヤプ 村ノ上 村ノ下 町裏 宮ノ前 宮ノ下 水木 道ノ上 門田 薮ノ上 薮ノ下 柳谷 弓矢ケ市 畑ノ下 弓ケ市 油利殿 アカ尾 ガンマク コ子リ尾 瀬谷 荷卸 ヌタケ尾 ヒヨ 冷草 フトヲ モリキ谷 若松 油利殿 鷺谷 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹波志』 『天田郡志資料』各巻 『福知山市史』各巻 その他たくさん |
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