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丹波の

畑中(はたけなか)
京都府福知山市畑中


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京都府福知山市畑中

京都府天田郡上豊富村畑中

畑中の概要




《畑中の概要》

和久川の上流域、国道429号(佐治街道)の上豊富小学校のあるあたりである、この付近は辻という。
畑中村は、江戸期~明治22年の村。「正保郷帳」では豊留村2、357石余のうちに含まれて当村名は見えない。「寛文印知集」は当村名を記す。「元禄郷帳」で豊留、「天保郷帳」では豊富を冠称。福知山藩領。明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年上豊富村の大字となる。
畑中は、明治22年~現在の大字名。はじめ上豊富村、昭和24年からは福知山市の大字。

《畑中の人口・世帯数》 264・111


《主な社寺など》

島田神社
島田大明神は、志真多の意。志は神慮、真は真実、多は無限の意であって、広大無辺の神徳を表しているという。その神体は霊験あらたかなるを信じて雲竜寺の命名ともなった白竜であると信じられている。
島田神社(畑中)
案内板→

島田神社の創立は明らかでないが、中世の豊富庄の総社が当社にあたると考えられる。現本殿は京都府北部では数少ない中世神社遺構として貴重なもので、内陣内西妻内法貫の墨書から文亀二年(一五〇二年)の建立と判明する。
この本殿は三間社流造で、内部は内陣を三室に区画し、各外陣境に板扉を構え、両端室には永正三年(一五〇六年)の墨書のある一間宮殿が置かれている。
身舎組物・頭貫木鼻・身舎正面の欄間・蟇股・手挟・花肘木・挙鼻等は細部意匠に変化をもたせており、工匠の創意工夫が認められるが、保守的な型式技法を踏襲している。
なお、本殿は昭和六十二年六月三日付けで国の重要文化財に指定された。福知山市教育委員会


島田神社 古豊富村 畑中村
祭神     祭礼 九月九日 樽見村 談村 北山邑 小牧村ヨリ務 拝殿三間二間 休屋二間一間半
本社南向六尺間三間ニ二間半外ニ御?三社造
境内廿六間十八間竹木林外ニ山林一ヶ所
社田下田三畝二歩高四斗七升七合村除
中観音右不動左毘沙門天
氷上郡遠坂村ヨリ社人何某来テ祭礼ヲ勤ム
(『丹波志』)

村社 島田神社(指定) 上豊富村字畑中鎮座
(附設)当社祭神には三座説あり、即ち(中)稚武王命(左)十成別王命(右)息長田別命。
本殿は三座の相殿造なれば或は然らん。又熊野三所権現を祀れりとも云ふ。
稚武王命、以下三柱は何れも日本武尊の御子にましまし、稚武王は近江建部君、宮道君、十城別王は伊予の君等、息長別命は阿波君等の祖とす。畑中付近先住者が其祖先を祀りたるに非らじか(旧事記天皇本紀による)
本殿 相殿造瓦葺、拝殿あり(左甚五郎の作と云)
境内 四百二十歩 祭日 十月九日御輿渡御 氏子 畑中・談・樽水・甘栗
(『天田郡志資料』)

島田神社本殿
境内の案内板↓


国重要文化財島田神社本殿
 島田神社本殿は、和久川上流の上豊富地域、畑中に所在します。本殿柱上部に記された文亀2年(1502)の墨書から市内最古の木造建築となり、また全国的にも数少ない中世の神社建築として国の重要文化財に指定(昭和62年)されています。
 この神社の所在する上豊富地域は、平安時代の和名抄によれば拝師郷と呼ばれ、また皇室領として「豊富庄」の名がみえ、南北朝時代には天龍寺に寄進されています。一方、丹波志によると江戸時代初期には近郷の樽水(甘粟)、談、北山、畑中、小牧を含めて「豊富村」と呼ばれており、島田神社は村の総社として五か村で祭礼が行われていました。
 神社本殿は三間社流道と呼ばれる古風な様式を伝えますが、500年という長年の間に数多くの修理が行われ、屋根は取り払われ、軒先や縁回りも切り落とされました。昭和9年(1934)には本殿をすっぽりと覆う覆屋が造られ、創建当初の形態は大きく改変され、また破損も目立ち始めていました。
 このような中、福知山の大切な文化財を守るため、平成19年(2008)春から文化庁事業として京都府教育委員会による解体修理工事が行われました。この中での発掘調査、建築部材の調査や形状の検討から当初の姿がほぼ解明され、創建当初の本殿を再現する復元修理の方針が固まりました。屋根は「こけら葺」、軒、縁は基壇部の発掘調査成果から当初の大きさに修復し、外装はベンガラによる朱、胡粉による白の塗りを再現しました。
 復元修理工事は平成21年(2009)春に竣工し、500年ぶりに創建当初の島田神社本殿の姿がこの地に再現されました。
平成21年3月      福知山市教育委員会


五〇〇年前に立てられた神様の家

福知山市と綾部市にある神社の内、各々一社づつ中世に建てられた建物が国の重要文化財に指定されている。福知山市のものは畑中に所在する「島田神社本殿」、綾部市のものは安国寺町所在の石田神社境内にある「恵比須神社本殿」である。
どちらも「本殿」であることが注目される。普通、小さい神社は本殿だけだが、少し大きなものになると「拝殿」「幣殿」「本殿」などがセットとなっている。一般的に、本殿は神社の一番奥に建っており、祭神が祀られているため最も重要な建物とされ、また建物を建てる際も、念入りに手を加えるため立派な建物である。したがって、重要文化財に指定されるのは本殿が多い。
この地方の本殿の多くは「流造」である。流造とは切妻造平入りで、前流れの屋根が曲線的に長く伸びて、後流れより長く向拝に続くものである。また、雪の多いところでは本殿が「覆屋」で覆われているため、全体の姿が見えにくいが、この建物にも注意を払って見てほしいものである。
島田神社は中世の「豊富荘」(北山・畑中・樽水〈甘栗〉・談〈法用〉・小牧〈下戸〉)の総社であったが、現在は畑中地区のみが管理している。構造形式は、「三間社流造」で正面に軒唐破風がある。使用されている柱はケヤキで、見えやすい所は丸柱とし、身舎裏側二本は角柱としている。身舎外周は横板張りで、軒は二軒繁垂木である。縁は以前には三面あったと思われるが、今は正面のみとなっている。妻飾は古い形式の豕叉首となっている。墓股や欄間の彫物などの手法や、内陣内法貫の「文亀年(一五〇二)」銘の墨書、御神体が鎮座する宮殿背板の「永正三年(一五〇六)」銘の墨書から、一六世紀初頭の建立であることは明瞭であり、京都府北部では数少ない室町時代の建造物である。
恵比須神社がある石田神社の本殿も豪華で立派な建物であり、府指定の文化財である。この本殿の右手に恵比須神社の本殿がある。恵比須神社は別名「西宮大神宮」と呼ばれているが、福の神として有名な西宮市(兵庫県)の戎宮総本社西宮神社を勧請したものと思われる。構造形式的には、桁行三間・梁間二間の切妻造となっている。桁行から見て、元は三間社の流造であったのだろうが、現在は庇部分がない。一見してどっしりとしているのは木割が太いところからで、特に丸柱にその感が強い。縁は現在正面だけとなっているが、かつては三面ともあったと思われる。透かし彫りの墓股もやや縦長であるが立派であり、妻飾は虹梁大瓶束とし禅宗様を採り入れている。後世の改造が若干多いが、重要な部分は当初の姿をよく残しており、鎌倉時代後期の建物として、また禅宗様を採り入れた神社建築として興味をもたれている。(塩見昭吾)
(『福知山・綾部の歴史』)


高野山真言宗宝城院末大川山雲龍寺
雲龍寺(畑中)

大河山雲龍寺 真言宗 畑中村
高野山谷上宝城院末 開山
境内 畑二反歩年貢地
本堂 薬師観音 三間二間除地 南北十一間東西五間半 方丈五間四間 庫裡五間三間 鎮守
(『丹波志』)

大川山 雲龍寺 (古義真言宗高野派) 上豊富村字畑中
 本尊 無量壽如来    脇立 不動明王、毘沙門天、観世昔菩薩、弘法大師、
 開山 空也上人   創立  再建 大正四年
 中興 大僧都果祐法印
 境内に観音堂、方三間元和年間此本尊聖観世昔菩薩地蔵菩薩、青明金剛(作者不詳)鐘楼、弘化四年
 当山十二世密禅阿闍梨代十方施主にて建立
 境外山林中に四国八十八所の石仏安置(明治廿四年三月当山十六世教道代建)
 郡西国第十一番の札所  御詠歌 みほとけのいでし日かずはいはでかは花のうてなの寺に上らん。
 郡新四風第十九番の札所  御詠歌 いつかさてにしのすまひのわかたつはくせいの舟にのりて至らん。
累代住職

檀徒 百戸(畑中、北山、福知山町)  財産 田、三反江畝歩、畑七畝歩、山林二町四反六畝歩。
事業 大師教会支部会員約百名 祖師講員約百五十名 昭和大礼記念として山林に檜苗二千株植付。
現住野村澄元師は、香川県三豊郡仁尾町不動護国寺住職中僧正梅尾本元師の次男。来任以来、明治三十七年観音堂改修、仝八年二月庫裡二階建新築、大正四年本堂新築等功功績なり。尚法務上にては郡各宗団長其幹部となり活躍せり。
(丹波志)古址小笠原太膳塚、又伊予ともいふ、畑中村にあり。其塚、村内岡安といふ所の田の中にありしを、後、田主伊兵エといへるもの、村中なる堂屋敷とて荒神を祭れる地に移せり。因て伊兵ェは毎年九月廿八日其祭日にあたりて酒一升を出す、当日は村内半日休業とす。其小笠原の子孫といへる者修験者となりて大膳院といへり、されど今は断絶し笈は雲龍寺に納めしと云ふ。雲龍寺の上、大川山は小笠原の城址といふ。
又小路山花台寺址、畑中村にあり、本尊十一面観世音は郡西国第十四番の札所なり。天神山北光寺址北山村にあり、本掌聖観世音、亦郡西国第十五番の札所なり。廿三代首塚といふもの、樽水に字打刀に在り。芦田の士廿三人切腹したる所と伝ふれども詳ならず、今は字を二十三代といふとぞ
(『天田郡志資料』)

雲龍寺
 市内字畑中に、真言宗高野派に属する大川山雲龍寺がある。今から二百年程前に編さんされた「丹波志」には、本寺は高野山谷上宝城院末で、本尊として薬師如来と観音菩薩を並記している。一方、後述の「大川山雲龍寺縁記」には本尊を十一面観音としている。ところが昭和十一年刊行の「天田郡志資料」には、本寺の本尊は無量寿如来とし、脇立として不動明王・毘沙門天・観世音菩薩・弘法大師を列挙してある。すなわち「丹波志」以後いつのころにか本尊と脇立の一尊とが入れかわったものらしい。神社でも長い間に祭神が変っている例は市内にもある。なお当寺の開山については「天田郡志資料」には、旧西中筋村の観音寺の中興の主であり、字長田の願来寺や字田野の官福寺の開山でもある空也上人とされている。
 同寺境内には観音堂があるが、そのことは「丹波志」には載っていない。「丹波志」は各寺院の叙述にあたっては、各々境内の堂宇については詳記しているから、観音堂は「丹波志」以後のものと考えられる。聞くところによれば、雲龍寺そのものは信徒構いであるが、観音堂は畑中村構いということになっているという。あるいは、以前同村間に寺院が存在し、それが廃寺になった時、雲龍寺の境内に移建せられたものか。それについて考えられるのは「丹波志」の古跡の部に畑中に、「小路山花台寺旧跡として、本堂三間二間、十一面観音、郡内順礼十四番札所、境内南北二間、東西五間半」とあることである。今畑中に小字寺屋敷とあるのは、この花台寺跡ではなかろうか。その花台寺が雲龍寺境内に移されるとき、本尊十一面観音も移し祭られたので、今その堂を観音堂と呼んでいるのである。
 本寺には幅四○センチ、長さ約一○メートルもある、御家流の達筆で書いた大川山雲龍寺縁起が蔵せられている。その内容は、当寺が空也上人によって開かれたこと、本尊十一面観音が、姿を変えて、その地域の産土神である島田大明神となっていること、島田明神の神名の意味「大川山」という山号と、「雲龍寺」という寺名のいわれ、空也上人の高徳、実際に寺を創建したのは上人の弟子空観であったが、謙遜して開山の名をその師空也に譲った美談などが書かれている。多分当寺の何代目かの住職か誰かが信徒に対し、本尊十一面観音の霊験を説くために作ったいわゆる仏教説話であろうが、実によく出来ていて本地垂迩、両部神道、神仏習合時代の教化法をしのぶ貴重な資料であるから、左にその口訳を紹介する。

  当山は昔平安時代天慶年間、空也上人の開基であって、本尊は十一面観音である。その根元を尋ねると、当村の氏神嶋田大明神の名は「志真多」の意で、志は神慮、真は真実、多は無限の意であって、広大無辺の神徳を表わすものである。御神体は白竜といわれて来た 空也上人はこれを信仰してここに草菴を建てて参篭し仏法を修行中、ふと心に何か浮かんだ時、眼前に大きい川が清く滔々と流れ、煩悩の塵を洗い清めるようであったので、山号を「大川山」と命名されたのであるという。またその付近の岩上に大木がたち、太い蔓がまといつき、あたかも竜が雲の中へ舞い昇るような有様を見られて、これこそ島田明神が正体を現わして、仏法の興隆を助けられる瑞兆であると感じ、歓喜のあまり、寺号を雲龍寺と名付けられたのである。これは理の合うことである。島田明神は十一面観音菩薩がこの地に神と化して鎮座せられているので、島田明神と雲龍寺は一身同体なのである。上人について最も尊敬をおぼえるこにこんなことがあった。すなわち上人が参篭修行中に、この寺の観音と同体の尊像をみずから彫刻しようとして、塗師を呼んで先ずそれを洗わせようとされると、塗師はにわかにその尊像から飛び下って恭しく拝礼して申すには、この尊体は凡人の作ではない。真に摩詞不可思議で頭が下がるといって、思わず歓喜の涙を流し、この尊像は必ずや仏の作られたものに違いないというので、かかる尊貴なお姿を模写することは恐れ多くもったいないことであるといって、上人自ら作ることは中止されたのであった。その後寺には度々火災があったが、この本尊はその度ごとにはるか脇へ飛び去られて恙なかったのは、霊験あらたかなことの現われである。
 時しも武蔵の住人相馬小次郎平将門が反逆を企て、国中大騒動となり、天皇が宸襟を悩まされた時、上人の高徳が遠近に聞え、都へも達したので、上人に対して急ぎ上洛されるように勅使を派遣された。よって出発の用意をされると、諸人別れを惜しみ歎き悲しんだ。上人がいわれるには、 「一天の下率土の浜王土に非ずということなし、皆これ王臣なり」遅延してはならぬとて、急ぎ上京された。すると天皇は朝敵退治悪鬼降伏の祈念を命ぜられ、上人はかしこんで戒壇を設け百日の間密法を行ない、それによって石を飛ばし風を起こし、百万の敵も斬らずして砕く真言秘密の加持を修したので、その功徳により朝敵はたちどころに滅亡し、天下泰平の世となった。叡感斜めならず、都に寺塔を建てるよう詔勅があり、六波羅密寺を開基したのであった。当雲龍寺は空也上人の弟子空観坊阿闍梨が、師の命をうけて建立したもので、棟上は京都の六波羅密寺と同月同日であった。これまた分身一体ともいうべきである。空観は開山の称号を、師空也に譲り、自分は脇役におさまった。これまた忠直にしていみじくも仏の妙慮に叶った高僧であった。惜しいことに、空也上人自筆の秘書古記その外手道具類が多く宝蔵に納められていたが、建久年中の火災により、開山堂を初め宝蔵まで一時に灰燼となった。しかしこの時も本尊だけは、飛び去って難をさけられ、 恙なく末世の今になっても、霊験日に日にあらたかで、十一面観世音菩薩と仰がれたまうのである。信心して功験を蒙った人は教え切れない。参詣者も真心を以って祈念するならば願望を成就せられることは疑いない。せいぜい仰ぎ尊んで信心するように願うのみである。
(『福知山市史』)


《交通》

《産業》

《姓氏》
『丹波志』姓氏部に
中西奥大夫 子孫 畑中村
是赤井悪右エ門家筋也奥太夫ニ子三人有 三男ヲ奥太夫ト云、当村ニ住ス 系図氷上郡東芦田村長十郎ニ在ト云

足立氏 子孫 同村
古ヘ兄弟四人有 嫡男定立西殿 次男同堀殿 三男同土田殿、四男同少輔殿ト称スト …

これらは元々は分水嶺の向こう側の氏族で、それらが山を越え当地の豊富谷へ分散したものであろうと言われる。
赤井氏は芦田氏・荻野氏と同族、三氏とも中世以来の西氷上谷を、足立氏も青垣町山垣一帯の氏族である。



畑中の主な歴史記録


『丹波志』
畑中村(古豊富村)  右同
高五百九十九石壹舛三合 家数九十五六軒


伝説





畑中の小字一覧


畑中(ハタケナカ)
甘栗 今村 市原 石上 芋垣 岩神 イノクラ 梅ノ本 梅縄手 馬喰谷 エセラ谷 大谷 大坪 大西 大ナワテ 岡安 カマトコ 北山 黒岩 五反田 境川 三丈ハシ サコ田 島ケ下 島ケ段 下川原 芝崎 清水 新貝 外ハ谷 滝谷 丁田 辻 寺所 峠 峠ノ下 中西 野寺 畑中 ハケ坪 姫ノ木 日尾 火打ケ端  福本 福ノ内 古川 宮ノ上 宮ノ下 道ノ下 水ノ元 向由里 森ケ谷 森ケ端 森ケ段 □井 モミノキハナ 山由里 湯向 畑中五反田 カナガサコ モミノキ 嶋ケ端 今井 上山 馬喰谷 大谷 大西 新貝 外谷 峠 中谷 日向山 岩上

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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