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丹波の

土師(はぜ)
京都府福知山市土師


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京都府福知山市土師・土師新町1~4丁目・土師宮町1~2丁目

京都府天田郡福知山町土師

京都府天田郡雀部村土師



 

土師の概要


《土師の概要》


土師川の東岸の由良川との合流地点、土師橋・新土師橋から福知山高校のあるあたりである。長田野工業団地がある長田野台地の入口にあたる。
古代の土師郷で、「和名抄」丹波国天田郡十郷の1つ。土師氏の集落だったと思われる。その後郷名は寛治5年(1091)11月15日付の丹波兼定寄進状に「西限土師郷并奄我」と見え、当郷が雀部荘の西に位置していた。郷域は現在の福知山市土師・前田などの地域に比定されている。
中世は、土師荘で、平安末期~戦国期に見える荘園。
土師村は、江戸期~明治22年の村。福知山藩領。
土師川堤防から江戸ケ坂下まで京街道沿いに旅宿屋や商家が並ぶ土師新町と称される町並みが形成されていた。
江戸ケ坂(絵堂ケ坂)の町打場に、30町の距離で500目玉の大筒を7発打ったことを刻す万治2年建立の石碑がある(丹波志)という。
明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年雀部村の大字となる。
土師は、明治22年~現在の大字。はじめ雀部村、昭和11年福知山町、同12年からは福知山市の大字。明治25年頃山陰街道が改修され土師川橋が架設された(以前は土師の渡しがあった)。同33年府立第3中学校創立(現府立福知山高校)が創立された、郡部では最初の府立中学校であった。
一部は昭和47年長田野1丁目、同52年土師新町1~4丁目・土師宮町l~2丁目となった。


夜久野町直見の天満神社は野見宿禰を祀る、直見はノウミと呼ぶ、野見と同じで鑿(ノミ)、岩石を砕くノミのことだろうか、今でいえば削岩機宿禰のことであろうか。「谿羽野見縣主尾崎旧記(天満神社記録)」が残され、奉納相撲が行われる。野見氏が土師氏になったもので、そのノミ(直見)という古い氏族名を残しているので当地・土師よりも古い村であろうと思われる、ここから移動してきたものかも知れない。直見は居母山の西麓にあり、金属と関係あると思われる、埴輪を作ったことで、鍜場を賜ったという、鍜場は鍜冶場のことかも知れない、祖神の天穂日命はホは火で、ヒは霊のことだろうから、金属精錬の神と思われる、日葉酢媛と何か関係がありそうで、出雲というよりも、意外にも夜久野の氏族なのかも知れない(能美郡などあちこちにあるのてそうではないかも知れない)。土師氏は中央では墳墓作りなどをしていたが、後に火葬の普及により家業不振に陥り、8世紀の終わりころに、菅原・秋篠・大枝と改姓した。土師氏には四腹があり、桓武の生母は高野新笠といって百済・聖明王から出た和氏の娘だが、母親は大枝氏で、土師氏の毛受腹と呼ばれる支族、和泉国百舌鳥あたりにいた。ほかに大和国菅原と秋篠、さらに河内国志紀・丹比郡をそれぞれ本拠地とした四支族に分立していた。土師氏は大氏族で、山城・出雲・遠江・武蔵・下総・常陸・美濃・若狭・丹波・但馬・因幡・石見に、土師郷は上野・下野・丹波・備前・筑前に、阿波に埴土郷がみえる。

宝蔵山古墳出土の土師器土師器(はじき)は、土師氏の器と書くが、赤褐色をした焼物で、弥生土器の系統をひいた、古墳時代初期以降の素焼の土器。文様は少なく、煮炊きや食器に用いる実用的なものが多い。庄内式とか布留式とか呼ばれる土器である。後の須恵器の普及で姿を消していく。こうした焼物の制作者であったと思われる。東隣の前田の宝蔵山古墳からはその土師器↑が多数出土している。甕棺墓に用いられていたもののようだが、古墳前期くらいのものだろうか。こんなものを遠くからかついで持ってきたとは考えにくく、当地の土師氏、あるいはここへやってきた土師職人の製作になるものかも知れない。


《土師の人口・世帯数》 3010・1426


《主な社寺など》


愛宕山遺跡

ゲシ山古墳群
今の円覚寺の裏山周辺、福知山高校の裏山周辺一帯の古墳群。
ゲシ山3号墳発掘調査現地説明会資料

天満神社
天満神社(土師)
ちょっとした丘の上に鎮座。入口に案内板がある。案内板
天満宮由来
祭神 菅原道真公
道真公は「三代実録」「類聚国史」の編纂に関わり、「菅家文草」を著した、当代一流の学者詩人であった。醍醐天皇の昌泰四年(九〇一)に右大臣から太宰権帥に左遷され二年後の延喜三年(九〇五)窮迫の末に現地配流地の太宰府で没した。其後社会的に不穏な情勢が現れ、京都では落雷などの被害があり、これが道真公の祟りとする噂が広まり、さらに御霊信仰と結びついた。其の没後二十年朝廷は道真を本宮に復し、正二位を賜り左遷の宣命を焼却した。さらに天慶五年(九四二)右京七条に住む多治比奇子という少女に託宣があり、これによって皇居鎮護の神として北野に社殿が造営された。一条天皇の永延元年(九八七)にはじめて勅祭があり宣命によっり天満宮天神と称することとなった。正暦四年(九九三)には正一位右大臣大政大臣を追贈、以後歴代天皇の行幸の先例となり朝廷の尊崇は篤く学問の神様として広く人々に信仰されております。又、芸能の神として崇拝されております。
土師天満宮は京都北野天満宮より分室して土師氏神として祭祀し今日にいたり土師区民の崇敬を集めています。


天満宮 土師庄 菅原菅相函道真公
前田村に道真公筆を染給ひし処あり。此処机のわきと云ふ地名也。前田は土師の出村也。出雲の土師、筑紫の土師、丹波の土師、何国にも土師には前田と云ふ処あり。又菅相函遊給ひし処にて菅嶋と云ふ処あり。此処猪崎村の分にて音無川の両渕に其字名あり。此川浅瀬を渡りて遊び給ひしにや。菅がせと云地名あり。
ひゆうすてに約束せしが川うの子 川立男子氏は菅原
と詠じ給ひしは此処なるか。
(『曽我井伝記横山硯』)

天満宮 古土師郷 土師村
祭神菅家  祭礼九月廿五日
本社南向 拝殿二間三間 祝詞殿一間一間半 籠家一間半五間 華表
境内山林東西四十六間南北五十八間
社田壹反三畝歩年貢地村除外ニ… 末社アリ板橋有
私ニ按ニ土師前田共ニ菅原家ノ称号ニ在此地名ニ依ル歟 村老ノ曰往古土師前田ハ一村ナリ今ニ地所入組スル所多シト又天神社ヨリ北ノ方三四町ハカリ下大河ニ土師川合流ノ所ノ菅嶋ト云是菅原嶋ノ略称ト云ヘリ 按ニ菅家ニ由有地ト知レリ 然レハ菅相公ヲ齋祭ル天神ナリ社記無シ惜ム゜キナリ 神躰ハ菅公ノ御所持ノ観音ナリト云伝リ
(『丹波志』)

村社 天満神社 (指定) 雀部村字土師小字イヤシキ鎮座
祭神、菅原道真公
末社、厄神神社、若宮神社、稲荷神社、天照皇大神社、
    熊野神社、八幡神社、荒神社の七社
祭日、十月十七日  祭礼 余興青年団角力
氏子、百六十五戸  境内、三百十二歩
土師の氏神として菅公は最も深き関係あり、郷村記参看
(『天田郡志資料』)

若宮神社(土師天満神社境内社)本殿の向かって左に若宮神社がある。→
慶長5年(1600)の「有馬検地」は、厳しい打出検地を行い、8万石から12万石に増高した。この検地に反対したのは、土師村と厚村のみであった。土師村では一部の農民が検挙投獄されたが、時の庄屋勘左衛門(高橋実武)は責任をとって自殺し、農民は解放されたという。農民は勘左衛門を神と仰ぎ、その墓碑を氏神天満宮の境内に移し、小祠を建てて若宮大明神と号し、その後も命日に祭典を行ってきたという。福知山藩士大西明善が著した福知山領古今御取箇秘伝書(朝暉神社文書)にも、「五拾七ケ村之内、厚村・土師村有馬検地ヲ不受村ト云、両村規矩合村高之起越可考也」と記される。厚村の武神社境内にも同じように若宮神社が祀られている。


曹洞宗妙智山円覚寺
円覚寺(土師)

円覚寺は慶長13年に建立、境内に藩主朽木舗綱・同綱張・同為綱とその妻の墓がある。
妙智山 円覚寺 (曹洞宗) 同村字土師
本尊 観世音菩薩  開基 風山和尚
開山 大超智仙大和尚
創建 慶長十三年 再建享保七年次に天保十五年以て現在に至る。
福知山久昌寺第二世南渓大和尚の弟子を迎へて当寺を創建す、即ち風山和尚なり、此時までは、西中筋村観音寺に属したれども同寺焼失依て久昌寺末となれり。境内の堂宇に文珠堂あり、此本尊は極めて精功、丹後切戸の文珠本尊と同工のものと称せられ、天竺の昆須羯摩の作といふ。文珠は妙智恵の菩薩なれば山号とし衆生をして智恵円覚の道城に入らしめんが爲に円覚寺といふと、曾て失火に際し此文珠堂のみは災厄を免る、亨保三年住寺仙巌和尚之を傷み堂宇を再建せりと云ふ。十七年目毎に開帳供養あり。
檀家 百五十戸(内福知山にもあり)
財産 山林、田畑、基本金少許
境内に福知山城主の墳墓あり。
一、徳寿院殿本覚桃源大居士  天明七年九月廿日卒。
    徒五位下朝散太夫丹波国福知山城主伊予守宇多源氏佐々木朽木鋪綱 行年五十八歳
二、錦江院殿成徳惟声太居士  慶応三年二月十三日卒
    徒五位下朝散大夫兼近江守朽木綱張墓
三、麗香院殿露含蘭英大姉  明治三年九月八日卒 年二十歳
    福知山藩知事朽木爲綱之妻 六浦藩知事米倉昌言妹
文珠堂、郡西国八十四番 地蔵堂ハ十五番の礼所とす。
(口碑) 当山の附属として山陰街道江戸ヶ坂の下に地蔵堂ありて地蔵尊を主として十三仏体を安置す、此本尊、もと因州の僧丹汲老ノ阪なる子安地蔵の分霊体を請ひ受けて帰国の途中、此所にて休息し、さて立たんとするに地蔵尊の目方非常に重くなり動かすことを得ず、因てその儘棄ておきたり。当山より檀家と相謀り一宇を建立せり、時は亨保元年のことなりと。
(丹波志) 町打場、土師村民家より十間許隔て、高き所に塚あり、松一本を植ゑ一本松といふ。又同村江戸ヶ坂(絵堂ヶ坂ともかく)に石碑あり、自然石のものなり、左の如く記せり。今は明に読み難し。
  此石より丑寅に当り、大塚に験の松植ゑおく所より辰巳幕串あり、是迄三十丁也、五百匁玉の鉄砲を以て七放打之、自他国之諸人其所分明也 (高さ五尺巾二尺許)
  寓治二年己亥四月晦日  松平主殿頭内、牧野重郎左ェ門政盛
文意不明なれども原文のまゝ記しおく。
(『天田郡志資料』)
朽木氏墓所
本堂の左側に藩主の墓所がある。↑


孝子・芦田爲助
当村の芦田為助は藩主松平忠房がその孝子伝を幕府に上申し、寛文7年に幕府儒学者林春斎が「丹州孝子伝」を著して全国に名を知られた、という。


《交通》


《産業》


《姓氏》


土師の主な歴史記録


『丹波志』
土師郷周囲 今土師郷ト云コトヲ不知 古名亡失スルノミナラス 雀部庄ト唱フ語リ甚シ寄 和名抄土師郷ヲ出ス
土師村南ノ長山ノ西裏峯限 六部ノ長田村ニ彊 道筋ハ絵堂坂ノ上貳丁斗行テ左右ニ土居ニ彊   ○西ハ川ヨリ西 宗部郷堀村ノ内屠者ノ上ニテ境有 北エ下リテ管嶋ノ内 堀村分ニ屠者五軒有之 家ノ東ニ境有 下ニ四五丁行テ宗部郷堀村奄我郡猪崎村境有  川ノ付寄リニ依テ 古ヨリ飛地ノ進退有ト見エテ 郷境ナレトモ地所入組有之 委ハ於其地可尋 何鹿郡ヨリ来ル大河ト土師川出合ノ南東ヲ菅嶋ト云 ○前田村北ハ河限リ猪崎村ニ境 艮ノ田畑ニテ雀部郷土村ニ境 ○巽ノ方同土村ニ境 南大野ノ境ニ炭塚有 長田村ニ境  土師郷四境如斯 凡二十二三丁四方也
北村継元丹波記書ニ 土師ノ地名ノコト継元案ルニ曰 雄略天皇ノ御宇土師連等ノ祖ニ詔シテ 朝夕ノ御食ヲ可盛清器ヲ進メシム 於テ爰土師連祖吾笥(アケ)摂津国来狭々ノ村 山背国内村 俯見村 伊勢国藤形村及丹波但馬因幡ノ私ノ民部ヲ遣メ名ツケテ贄土師部ト云ト 日木記ニ見シ書置リ 茂正按ニ 丹波国中二土師ト云所外ニナシ 然レハ此所ナルヘシ 今失古可拠ナシ 然トモ和名抄ニ出タル郷名ナレハ取之 改土師郷トス 今雀部ト云 又南郷ト号 如斯地名替ルコト有テ失古予ノ作丹波志素意ナリ
一 土師郷 古統村名今無知者 村名ト成テ今雀部庄トス然トモ寄和名抄別ニ出之 此郷ハ野有テ山ナシ 両村同
一 土師村 上ヘ地 西所 新町 河原 右同 民家百七拾戸
高五百五十八石
此村古前田村ト一村ナリ 按ニ地所入組タル所有村老ノ説尤可拠
一 此地土師ノ東ニ在古一村ナリト云 按ルニ菅家ノ縁有テ設名歟 天満宮ヲ齋祭ル委神社ノ部ニ出ス 社地ヨリ三四町北菅嶋ト云是菅原嶋ノ略称ナリ土師前田共ニ菅原家ノ称号ナレハ無可疑 然トモ古記見サレハ委コトヲ不知
一 前田村 上段東村 右同 民家百戸
高千六拾四石五斗六合
千三拾一石三斗   福智山領
三十貳石六斗八升九合  栢原領
八十八石九斗弐升一合  村ノ東穢多高家拾八戸
一 前田村ノ内 栢原領三拾貳石六斗八升九合 但士民無之 川北村ニ付
一 同村 高古戸田村ノ内小次郎ト云字ノ所ニ水神ノ宮有 此所ニ高八十六石ノ場田地有之 松平主殿頭領地ノ節 地改有シ前田村ト戸田村トノ間ニ土村在 依之此飛地戸田村ニ入ルナリ 地所戸田村渡ト云
東 石原村道十五町斗同綾部本道南土師長田道 西ニ福智山道土師河有 十五丁北エ川北村迄十丁斗間ニ大河作場舟アリ

『福知山市史』
土師郷
和名抄天田郡に出ている。土師はハゼと呼ぶ、土はハニで土師はハニシまたはハシと読まれた。邨岡氏の日本地理資料には「波爾之」とよませている。ハニシが転じてハジ・ハゼとなったものであろう。邨岡氏によると土師という地名は、河内・上野・下野・因幡・備前・阿波・筑前にもあるということである。和名抄高山寺本には土師を立部と誤っている。これは垂仁天皇紀などに土部と書いて古来ハニシと読んで来たので、その土部が立部と誤写されたものであろう。
さて土師という地名の起源を尋ねると、まず日本書紀雄略天皇の条の記事にさかのぼらねばならない。そこには次のような文が出ている。
 詔二土師連等一使レ進下応盛二朝夕御膳一清器上者於レ是土師連祖吾笥仍進二摂津山背伊勢及丹波但馬因幡私民部一名 曰二贄土師部一
この記事によって、当時土師連が私有していた土師部(土器を製作する部民)が丹波にもいて、それを朝廷に奉ったことが知られる。吉田東伍博士もこの文を引用した後「此の地其故跡とす」と明記している。
後に紹介する丹波志の土師郷の項にその著者古川茂正は、既に北村継元が丹波記に雄略天皇紀の贄土師部と土師と関係があることを書いていることを紹介し、その後に丹波国中に土師という所がないからここであろうと考証している。
なお古川氏が丹波志を書いたころには、土師郷をあげず雀部郷とか雀部庄と唱えていたらしい。それを古川氏は、これははなはだしい誤りである。和名抄には土師郷と出ているから自分は改めて土師郷を挙げるといい、それに土師村と前田村を含ませ、それより東、何鹿郡(今の綾部市)の境までを雀部郷としている。そして「今雀部とか、南郷というが、このように地名が変ることがあって昔のことが失われるのである。自分が丹波志を作る所以は之を憂うるためである」と強調している。
次に注目されるのは、土師に天満宮が祭られていることである。吉田博士はこれをもって「蓋し古の土師部の氏神とす」といっている。天満宮は菅原道真を祭り(多保市のそれは全く別の神を祀る)菅原氏は野見宿祢の子孫であり、野見宿祢は土師部の祖である。
また土師の東、字前田は、昔は土師とともに一村であって、この地もまた菅公とゆかりがあると伝えられている。丹波志、土師村の項に「此村古前田村ト一村タリ按ニ地所入組タル所有村老ノ説有拠此地土師ノ東ニ在古一村ナリト云按ルニ菅家ニ縁有テ設地名歟天満官ヲ斎祭云々」とある。なお、由良川・土師川の合流点付近の東南のところを菅嶋と呼んでいるが、これについて同書は「社地ヨリ二三四雲町北菅嶋ト云是菅原嶋ノ略称ナリ土師前田共ニ菅原家ノ称号ナレバ無可疑 然ドモ古記見サレハ委コトヲ不知」と書いている。現在土師橋を渡ったところ国道九号線と土師川堤防の間に小字河原の集落が形成されている。その付近の地を今テリノキといっているが、地籍帳には天神ノ木とある。また前田や土師に植村の小字があり、前田に前田・植村の氏名を名乗る家がある。太田亮氏の姓氏家系大辞典によると、前田氏は菅原氏の流れを汲み、菅原天神を氏神とすることが述べられており、丹波の前田氏として「丹波志天田郡条『前田和泉(今大槻氏)子孫前田村、下前田古屋敷有 今ハ畑ト成ル。和泉ハ地士也、則墓有弟ハ植村豊後ト云う』と見ゆ」と出ている。
前記丹波志とは別書であるが、北村氏の丹波誌に「小字管島ニ前田姓ノ前田数家アリ……大宰府管廟ノ傍地ニ前田ナル所アリ前田ノ字由リテ起コル……天満神社 主体ハ観音大土 管公ノ守本尊 両部神道」とある(注、中文の管は菅の誤記であろう)。
さてここに丹波志の土師郷周囲の条を掲げておこう。
土師郷周囲 今土師郷ト云コトヲ不知 古名亡失スルノミナラス 雀部庄ト誤リ甚シ寄和名抄土師郷ヲ出ス 雀部庄ト唱フ 土師村南ノ長山ノ西裏峯限 六部ノ長田村ニ彊 道筋ハ絵堂坂ノ上弐丁斗行テ左右ニ土居ニ彊 ○西ハ川ヨリ西 宗部郷堀村ノ内屠者ノ上ミニテ境有北エ下リテ管嶋ノ内 堀村分ニ屠者五軒有之 家ノ東ニ境有 下ニ四五町行テ宗部郷堀村奄我郡猪崎村境有 川ノ付寄リニ依テ 古ヨリ飛地ノ進退有ト見エテ 郷境ナレトモ地所入組有之 委ハ於其地可尋 何鹿郡ヨリ来ル大河ト土師川出合ノ南東ヲ菅嶋ト云 ○前田村北ハ河限リ猪崎村ニ境 ○艮ノ田畑ニテ雀部郷土村ニ境 ○巽ノ方同土村ニ境 ○南大野ノ境ニ炭塚有 長田村ニ境 ○土師郷四境如期 凡二十二三町四方也北村継元丹波記書ニ 土師ノ地名ノコト継元案ルニ曰 雄略天皇ノ御宇土師連等ノ祖ニ詔シテ 朝夕ノ御食ヲ可盛清器ヲ進メシム 於于爰土師連祖吾笥(アケ)摂津国来狭々ノ村 山背国内村 依見村伊勢国藤形村及丹波但馬因幡ノ私ノ民部ヲ進メ名ツケテ贄土師部ト云ト 日木紀ニ見ト書置リ「茂正按ルニ丹波国中二土師ト云所外一ニナシ 然レハ此所ナルベシ 今失古可拠ナシ 然トモ和名抄ニ出タル郷名ナレハ取之 改土師郷トス 今雀部ト云 又南郷ト号 如斯地名替ルコト有テ失古予ノ作丹波志素意ナリ」
右によって土師郷の境域が明らかであるが、現在菅嶋付近には旧曽我井村字堀の地所が土師川より東にあり、旧庵我村字猪崎の地所が由良川より南にあり、また少し上流になるが、現在土師橋の南、東堀の南側に土師の地所があるなど、村の境界が河道によっておらないことはいかにも不自然に感じられるが、これは洪水などによる河道の変遷によって行政区画に異状を来す例に当たるのであって、上掲の文中にも「川ノ付寄リニ依テ古ヨリ飛地ノ進退有ト見エテ郷境ナレトモ地所入組有之」とこの辺の消息を物語っている。なお長田野の周辺あたり、村界に炭を埋めているというが、この文に炭塚のことも出ており面白い習慣であると思う。
なお管嶋すなわち山陰線鉄道の北側に古い集落の跡があったり、土師川の旧渡し場のことや、その上から江戸ヵ坂(古書は凡て絵堂ヶ坂と書いている)の下まで旧山陰街道に沿うて発達していた土師新町の変遷など、人文地理的に興味ある事実は、後章で解明したい。

『福知山市史』
土師部の起源
日葉酢媛皇后薨去の際、野見宿弥の進言によって墳墓の周囲に埴輪(立物)を立てて、当時まで行われていた殉死を禁じたことは書紀に詳しく出ており、有名な事柄である。この時宿弥は賞せられて土部臣の姓を賜い、天皇の喪葬をつかさどることとなり土部連の始祖となった。古事記にはこのところ簡単に日葉酢姫皇后が崩ぜられた時、石祝(いしき)作り(別本石棺作)や土師部を定めたとある。書紀にはこの時出雲国から土部壱伯人(百人)をよびこれを使って埴輪を作ったとあるから、既に山陰地方に土器を作ることを業とする人々がいたことが察せられる。書紀は土部と書いてハシまたはハシベとよみ、古事記は土師部と書いてハニシベとよませているがいずれも土器製造業者であった。後に土師とかいてハシまたはハジと読み、転じてハゼともなった。本市字土師はハゼと呼ぶ。
雄略天皇の十七年三月紀には土師連等に詔して、朝夕の御膳を盛るべき清器をたてまつらしめた。そこで土師連の祖吾笥(あけ)は、摂津・山背・伊勢及び丹波・但馬・因幡の私民部をたてまつり、これを贄士師部と称したという記事がある。さきに垂仁記には、野見宿祢が殉死を禁ずるために、埴輪をつくることを進言して用いられたこと、またこれを賞して土師臣の姓を腸い、土師臣は土師部を率いて天皇の喪葬をつかさどることとなったとあるが、雄略記には、土師達等が天皇の朝夕の御饌を盛る食器を製作することを仰せつけられていて、必ずしも葬儀のみを業としていなかったことが記されている。土師部と福知山市の土師郷の関係や、そこの天満宮との関係については後文を参照されたい。
土師の天満神社
市内字土師小字居屋敷に天満神社があり、俗に「土師の天神さん」と呼ぶ。祭神はいうまでもなく菅原道真である。同社はいつごろ祭られたかは不明であるが、別項にのべたように土師の由緒は、既に日本書記の雄略天皇の条にも出て、極めて古く、土師氏-野見氏-菅原氏-前田氏-植村氏の氏族系統も、姓氏学者により確認され、地名の土師・前田・植村も近接している。現在土師氏を名乗る者はないが、前田・植村は同地の著姓であり、ともにその地名が存在する。おそらくこの宮は、もとは前田氏・植村氏等がその祖神を祭ったものであろう。
 「丹波志」には次のように述べている。
 天満宮   古土師郷 土師村
  祭神菅家 祭礼九月廿五日
  本社南向 拝殿 二間三間 祝詞殿 一間一間半  寵家一間半五間
  華表
  社田壱反三畝歩 年貢地村除 外ニ田六畝拾三歩 五厘年貢他
  朽木家中板倉喜左衛門寄附
  末社アリ 板橋有
  私ニ接ニ土師前田共ニ菅原家ノ称号ニ在 此地名ニ依ル歟 村老ノ曰 往古土師前田ハ一村ナリ 今ニ地所入組スル所多シト 又天神社ヨリ 北ノ方三四町ハカリ下 大河ニ土師川合流ノ所ヲ菅嶋ト云 是菅原嶋ノ略称ト云ヘリ 按ニ菅家ニ由有地ト知レリ 然シハ菅相公ヲ斎祭ル天神ナリ 社記無シ 惜ムヘキナリ神躰ハ(注、神仏習合時代)菅公ノ御所持ノ観音ナリト云伝リ
なお参考のため、「曽我井伝記横山硯」の記事を掲げる。
  天満宮  土師庄
          菅原菅相丞(注、右大臣)道実公
前田村に道真公筆を染給ひし処あり。此処机のわきと云地名也 前田は土師の出村也。出雲の土師、築紫の土師、丹波の土師、何国にも土師には前田と云ふ処あり。又菅相丞遊給ひし処にて菅嶋と云ふ処あり。此処猪崎村の分にて音無川の両淵に其字名あり。此川浅瀬を渡りて遊び給ひしにや。菅がせ(注、菅ヶ瀬)と云地名あり。(下略)
その一部については丹波志にも取り上げているから、数百年前から、こういう話が伝えられて来たもののようである。近世江戸時代には崇敬者が多く、多くの絵馬が掲げられている。

『福知山市史』
愛宕山遺跡(字土師)
由良川と土師川の合流点近くに、遠くからでもよく目だつ円形の丘がある。通称愛宕山といっている。その北東隅の頂上からやや下がった傾斜面が土取り場となって崖を作っている。そこから、完全な形をとどめた四個の弥生式土器が採集された。頂上の方に口縁部を揃えて並べられており、四個共に台付の土器で高杯形土器三個と台付無頚壷一個である。第Ⅱ様式に分類されるものが高杯形土器に二個あり、一つは水平にひろげた口縁部をもち、その内端に一条の凸帯をめぐらした高杯で、さらに口縁部の外端面が下方にわずかに曲折するものである。(第Ⅲ〔古〕様式)他の一つは、直口の杯部をもったもので、口縁の直ぐ下に一条の凹線文をめぐらしている。(第Ⅲ〔新〕様式)第Ⅳ様式のものとして、台付無頚壷があり、胴の角ばった扁平な器体に、裾ひろがりの低い脚台をそなえたもので、口縁部に二孔一対の紐孔をもっている。また、口縁部と中央部のふくらみの部分に一条の凹線文をめぐらしており、大阪府・兵庫県西南部・東南部・京都府に出土しており、加古川流域との結びつきを示しているともいえる。他の高杯形土器は、深い椀状の杯部をもち、わずかに外に反った口縁部をもっている。この二つの土器は、回転台を利用して作り上げた土器である。ヨコナデの調整をおこない、凹線文を入れることにより、土器の形態を変化させている。箆削り手法がとり入れられ、放射状に箆あとが残っている。(弥生式土器集成、本編2 小林行雄・杉原荘介編 東京堂出版 参照)東隣りに接して、石鏃多数がみられる岩畑遺跡との関連性を考える上で貴重な遺跡である。

『福知山市史』
土師の古墳(字土師)
市内字土師の福知山高等学校の西南約三○○メートルに天満宮がある。 この社殿の後の丘上に古墳とみられるものがある。丘の標高は三八・五メートルで付近の平地との比高は約一八メートルである。この古墳は上に盛土をして営まれたもので、封土もかなり洗われているが高さは一・七メートル位と見られる。楕円形で長軸は南東-北西で一六メートル、幅は一○・五メートルと測定されるが辺縁部は明りょうでなく、墳上に大木が生え根を張っていて調査は困難である。字土師は古代土師部のおかれたところであり、この天満宮はその氏族内の名族菅原道真を祭ったものであろう。思うにこの古墳は、これら土師氏の同族が、彼等の中の豪族を葬ったものではなかろうか。
なお、福知山高等学校の直ぐ東、円覚寺付近に二基の廃墳があり、その南方約五○○メートルに通称「ちようち場」と称するところにも古墳があった。丹波志巻之八には土師村の項に、町打場として「民家ヨリ東ニ当拾間斗高所ニ塚有、松一本ヲ植エ一本松ト唱」とある。そこは長田野の西端部であって、もと歩兵の作業場となっており、当時塹壕掘さく演習中に刀剣や土器などを発掘し、第二次大戦前には旧連隊の将校集会所に保管されていたというが、現在その所在は不明である。またその南方一○○○メートに 同じく長田野の西端部で、江戸ヶ坂の中腹の道路の東側にも、もと古墳があり、明治二十二年に、それまで土師新町から上って来た旧山陰街道を今の街道に改修した時、これを取りこわしてしまった。それよりまた約一○○○メートル南に別項高畑の古墳があったのであって、長田野西縁部で等しく展望のきく景勝の地を占めているのである。また、福知山高等学校の東方約六○○メートルの地点で、長田野の一部が北方へ延びて今の綾部街道に面するあたりは外形上古墳の形を示しているが、付近に陶質土器の破片を見る以外に著しい証拠はない。その外土師・前田付近で最も人の目を引くのは愛宕山(愛宕神社)であり、古墳が築かれるのにふさわしい地ではあるが、これまた積極的な資料は存しない。
ゲシ山古墳
福知山高等学校校舎東側の丘陵から、同校岳南グランド東側の丘陵にかけての地域に、ゲシ山古墳群(現存するもの―六基)がある。
昭和三十八年の秋、土木業者がその丘陵の北端(現在住宅が建っている)を宅地造成すべく、ブルトーザーで工事中に箱式石棺を発見し、石棺から人骨(頭蓋骨・背骨)・刀子・直刀が発掘された。出土遺物は現在福知山市教育委員会が保存している。



伝説







土師の小字一覧


土師(ハゼ)
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関連情報


垂仁紀
小学館本の訳
三十二年秋七月の甲戌朔の己卯(六日)に、皇后の日薬酢媛命〔一説に、日葉酢根命であるという〕が薨去された。葬りまつろうとして、何日もの間が過ぎた。天皇は群卿に詔して、「亡き人に殉死するという仕方は、前に良くないことだと知った。今、この度の葬礼にはどのようにしたらよかろうか」と仰せられた。
ここに、野見宿禰が進み出て、「いったい君王の陵墓に、生きた人を埋め立てるのは、実に良くないことです。どうしてこれを後世に伝えることができましょう。願わくは、今、好都合なことを協議して奏上いたしたいと存じます」と申しあげた。そして使者を遣わして、出雲国の土部百人を召し寄せ、自ら土部らを使って、埴土を取り、人・馬、その他いろいろな物の形を作って、天皇に献上し、「今から後は、この土物をもって生きた人に代えて、陵墓に立て、後世の定めといたしましょう」と申しあげた。天皇は大いに喜ばれて、野見宿禰に詔して、「お前の考え出した便法はまことに私の心にかなった」と仰せられた。そこで、その土物を初めて日葉酢媛命の墓に立てた。そして、この土物を名付けて埴輪という。または立物という。そこで布令を下して、「今より以後、陵墓には必ずこの土物を立てよ。人を損なってはならぬ」と仰せられた。天皇は厚く野見宿禰の功績をお褒めになり、また工事場を与えられ、そうして土部職に任ぜられた。それで本姓を改めて土部臣といった。これが、土部連らが天皇の喪葬をつかさどることになった由縁である。それゆえ野見宿禰は土部連らの始祖である。









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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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