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報恩寺(ほおじ)
京都府福知山市報恩寺


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京都府福知山市報恩寺

京都府何鹿郡佐賀村報恩寺

報恩寺の概要




《報恩寺の概要》

漢字のとおりならホウオンジだろうが、普通はホオジと呼ばれている。舞鶴でも当地をホオジと呼んでいる。村名の起源と思われる古寺(報恩寺)については、寺跡その他いっさいの伝承が当地にはなく、早くに廃絶したものと考えられている。綾部市との境で、南流する相長(あいおさ)川の中流域に位置する。
報恩寺村は北野神社文書の明徳3年(1392)細川頼元寄進状に、「寄附  北野宮 丹波国法善寺沙汰職事 …」の法善寺が報恩寺でないかという。その後応永11(1404)年7月26日付の管領畠山基国施行状に「丹波国報恩寺〈沙汰人等跡〉」、天正13年9月吉日付の九条家領指出目録案に「九条殿様 御料所報恩寺村」、天正16年10月9日付の九条兼孝覚書に「其後丹州表御検地之刻、彼報恩寺村之替地之折帋」と見えるという。地内の古城跡は片岡近江守とその妻の悲劇を伝え、また文禄2年には越後国の良円阿闍梨が天暦7年空也上人建立の葛尾山寿命院を再建したとされる。
近世の報恩寺村は、江戸期~明治22年の村。枝郷に印内村・山野口村・二丹村があった。慶長年間、村の北部が山野口村、西部が印内村として分離したと伝える。
はじめ福知山藩領。延宝6年の検地の時は幕府領代官万年長十郎支配と旗本杉浦内蔵允知行地。元禄7年には一部が柏原藩領に割かれる。
福知山藩主稲葉紀通の治政下で当村の庄屋は桶伏せの刑に処せられたといい、その仕置跡伝承地もある。
弘化3年(1846)8月、報恩寺村の小前百姓86名が連判して、村役人ならびに公儀に対し、「御上様」より御下金や、博奕・野荒し・山荒しなどの科料銀あるいは支配者替りの時の囲穀などの取扱いについての不正を抗議したが、公儀から村役人に不正なし、訴えは不届であるとされ、柏原藩領の役人、杉浦氏知行所の役人などが仲裁し、村民側から詫状を提出させた。
天保年中、当村の四方仁左衛門は筍の栽培に力を注いでいる。旗本領は明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、篠山藩領・柏原藩領はおのおの同4年篠山県、柏原県を経て、同9年いずれも京都府に所属。枝村の二丹村は「元十数戸ノ村ナリシガ明治初年五、六戸トナリ今一戸トナレリ」という。同22年佐賀村の大字となる。
報恩寺は、明治22年~現在の大字名。はじめ佐賀村、昭和31年からは福知山市の大字。


《報恩寺の人口・世帯数》 488・196


《主な社寺など》

相長川に面した台地の端から、サヌカイト製を含む石鏃が、奉安塚古墳の付近から磨製石斧や石鏃が採集されている。
遺跡分布図

奉安塚古墳と高竜塚古墳
奉安塚古墳・高竜塚古墳は佐賀小学校グランドの山側にある。奉安殿といって今もその痕跡らしき物が残っている小学校もあるが、戦前は天皇皇后の写真と教育勅語を納めておいた頑丈な倉庫があり、この前を通る時は最敬礼でなければならなかったという、どこの学校にも作られたもので、こうして天皇は神様、神様のために死も厭ってはならぬと小さな時から頭にたたき込み、国を誤らせ、多くの人を殺し、また殺された。どこの国でもさすがここまであほげな事はすまい。まことにツマラヌ極地の者どもがまことにツマラヌ狂育を続けてきた、そのアホのDNAか今は天皇に代わって文部省や「国旗国歌」あたりをまつりあげている様子である。「憲法改正」などクソどもが言うのはこの時代に逆行しようということである。クソどもよ、ひとつ奉安殿を本気で復活されてみてはどうか、クソどもの言う「国のホコリ」とやらや「日本を取り戻す」ことであろう。
すべての子供の能力や性格に応じた教育が公教育には求められ、その秘められた可能性を最大限に引き延ばしてやることこそが本来の任務であろう、タダでである。勝手に上から何ぞつまらぬものを押しつけるという場ではもちろんない。
天皇さんの写真を置いておく所なのでたいして大きなものではない、校内かそれに近い所に作ったのてあるが、当校はそのためにそこに元からあった古墳を壊してしまった。奉安殿はGHQに睨まれ廃止となり取り壊されたのであるが、昭和24(1949)年にその脇に古墳の石室用材が転がっているのを福知山高校生が見つけ、これは古墳だぞ、となって翌年から彼らの手で慎重に発掘が進められた。まだ科学的な発掘手法などの確立されていない頃に、遺構遺物の記録を取りながら日曜日などを利用して発掘を進めていったという。その記録が復刻されている。↓
驚異的なことである、エライ、リッパ、廃墟となった奉安殿の下から若者達が郷土の宝を掘り起こす、何か戦後日本の再出発を象徴するように取り組みで、これだけ丁寧な仕事なのはそれなりに彼らもその意義を理解していたのかも知れない。
この当時は発掘の専門家チームなどはなかったのであるが、どこかのド恥ずかしい町などは古墳や遺跡などが出てきたら「迷惑だ、開発のジャマだ、出てこない方がよい」などと本気でほざいている、自分たちで調査するなどはできるわけもない、ゼニが入れば、観光客が来れば郷土は良くなるとアホげな考えをしているようだが、アホげな町がゼニや観光客数で勝負して一分とて勝ち目などがあろうか。聞いてみればどうやら彼一人が言っているのでもなさそう、その周辺の者どもが共有する共通認識と思われる、もうすでに精神が滅びて、俗論に繰られるだけの者になっいるが、そしてそんなのが観光客年間300万人だ、などとウワゴトを言う。自分の町や村を自力復興させる努力、自分を郷土人として復興させようと本気の努力なしのつまらぬ町にダレが大挙して訪れるのだろう。ネゴトに過ぎない。
高龍寺ヶ岳と佐賀小学校
高龍寺山(高林寺山)とその東麓に佐賀小学校↑
このあたり一帯は七ツ塚と呼ばれる古墳群があったり、さらに古い石斧・石鏃も出土している。この東に佐須我神社が鎮座している。現在の地籍は私市に含まれるよう。高龍寺山には海軍の高角砲陣地も作られた。
奉安塚古墳と高竜塚古墳
高竜塚は墳丘が残っていてすぐにわかるが、奉安塚は何もない、上図↑は私が勝手に復原したもので正しくはないが、だいだいの目安である。手前右が奉安塚古墳、奥の左は高竜塚古墳と並んでいる。
王家の奥津城の地のようである。
奉安塚古墳は、奉安殿の建造によって墳丘の大半を失っているが、一辺20m前後の方墳であったと考えられている。内部主体は、南に開口する横穴式石室で、長さ4.2m・幅1.8m。奥壁には基底石を立て、側壁は横目地を通す通有の後期後半(7世紀後半)の横穴式石室、無袖式石室の可能性が高い。出土状況図を見ると、遣物は奥壁に向かって右側に集中し、盗掘は受けていなかったようだ。出土遺物は、記録を取った上で取り上げられ、一部が京都大学文学部に寄贈されたほかは、福知山高校の資料室に保管された、という。出土品・杏葉
この時代の古墳は多いが、それらと比べると副葬品がきわめて多く、規格外的なもの。刀剣2振・刀子・木棺の釘・金環・ボウ製鏡・鉄斧・鉄鏃・砥石・軽石・ガラス製勾玉の破片・須恵器多数(広口壷・台付椀・高坏・蓋付皿・台付長頸瓶・平瓶・ハソウなど)のほか馬具一式が出土した。馬具は鏡板4枚、杏葉3枚、雲珠5個、帯革の金具、鞍橋の部品などで、鏡板・雲珠・杏葉は、金銅張りで鍍金がほとんど全面残っていた。
木棺の大きさは、釘の配置から測定して、長さ約2.5メートル、幅約50センチであり、古墳の主は県主か郡司級の人であろう、という。 「奉安塚発掘の記」(福知山高校・1950年)が残されている。
案内板がある。↓
奉安塚古墳案内板
奉安塚古墳
 奉安塚古墳は、姿を消してしまったが、かつてこの地にあった古墳である。現存する高龍塚古墳と同様、横穴式石室を埋葬施設とする後期古墳であった。この2基の古墳は、佐賀地区の古墳時代を語る重要な資料である。
 昭和24年、福知山高校の生徒が奉安塚古墳の石室を発見し、翌年京都大学考古学教室の指導のもとに福知山高校社会部考古学班によって発掘調査が行われた。
 調査の結果、墳丘は大半が削平され天井石なども無くなっていたが、南に開口する奥行4.2m以上・幅1.75mの無袖式の横穴式石室が確認された。
 石室からは、鏡・勾玉・鉄刀・鉄工具類・馬具類・須恵器等、総数100点以上の豊富な遺物が出土した。特に注
目されるのは、鉄地金銅張のきらびやかな馬具類で、鞍や杏葉・辻金具・鏡板などほぼ完存し、6世紀後半の特徴を示している。府下でも、馬具類が一式そろって出土した例は他になく、相長川流域を治めた首長の力を示すものであろう。出土品の大部分は福知山高校に、一部は京都大学文学部博物館に保管され、一括して京都府の指定文化財となっている。
 奉安塚古墳は、由良川流域を代表する後期古墳として、当地方にさんぜんとした輝きを与えるものである。
 平成9年9月  佐賀地区公民館



高竜塚古墳
高竜塚古墳
高竜塚は奉安塚の少し奥側50メートルばかりのところにある、円墳の姿をほぼ完全に残している。横穴石室がみえる、奥行は4.2メートル、幅1.75メートル、天井石は三枚からなるそうで、各1.45メートルの幅をもつ大石を使用しているという。その巨石が見える。盗堀を受けていて出土品は何もない。
案内板
佐賀地区の古墳について
正面に残る墳丘は「高龍塚古墳」と名づけられ平成十一年三月に福知山市教育委員会と「龍谷大学考古学資料室」の学生によって調査が行われた。古墳の直径は約二十五メートル、高さは五・五メートルあり、墳丘の残りも非常に良く、現存するこの時期の古墳としては福知山地域の中でも五本の指に数えられる大きさであると資料に記述されている。古墳の主を葬った横穴式石室は古くに開口し、内部は未調査である為、遺物等は確認されておらず築造時期の検討材料が無いが古墳時代後期後半と推測される。また、現在はその場所を確認する事は出来ないが、左の地図のように高龍塚古墳の周辺にも幾つかの古墳が点在していたとされている。この東北約五十メートルには、著名な「奉安塚古墳」がある。この「奉安塚古墳」は、福知山高校の社会部によって発見され京都大学考古学教室の指導のもとに発掘調査されたものである。
墳丘の大半は失われていたが「鏡」「勾玉」「太刀」又、金銅製の馬具など豊富な遺物が出土している。いずれもこの相長川周辺を支配していた豪族の墓であろうと言われている。
はるが昔、この他にどんな人々のどんな生活が営まれていたのか地図を見ながら思いを巡らしてみてはどうだろう。
平成十四年三月 佐賀地区公民館ふるさと創生事業



賀茂神社
当地も含む中世の私市庄が賀茂別雷社(上賀茂神社)領であったので当社を勧請したものと推測されている。立派な神社で鎮座地の名は林、=磐穴師。
賀茂神社(報恩寺)

村社 賀茂神社
所在地 佐賀村大字報恩寺小字林
祭神 別雷命・丹生命・貴船大神
創立年号 不詳
境内反別 六四四坪
由緒 京都上賀茂神社の分霊なりしもその年代不詳
然れども往時は同社の神領なりし事記録にありと謂う。
祭日往古より陰暦九月九日をもって祭典式を執行す。行事は村吏奉幣使として参向し幣帛料神饌料を供進す。神輿の渡御は境内御旅所に於て神饌を御供、祝詞を奏上し玉串を奉納す。而して御還幸あり式を終る。(太陽暦に改む)
摂社 天神社(創立年号 不詳)
所在地 賀茂神社境内
祭神 八意思恩兼命
由緒 古は小字一の宮に在り。明治十二年宮令に依り境内に遷す。
摂社 八坂神社(創立年号 不詳)
所在地 賀茂神社境内
祭神 須佐之男命
由緒 古は小字天王山にあり。明治十二年官令に依り遷す。
末社 三柱神社(創立年号 不詳)
所在地 賀茂神社境内
祭神 火産霊命・奥津彦命・奥津姫命
由緒 古より境内に鎮座す。
末社 稲荷神社(創立年号 不詳)
所在地 同上
祭神 宇賀迺御魂神
由緒 古くより境内に鎮座す。
(『佐賀村誌』)


真言宗葛尾山壽命院福性寺
福性寺(報恩寺)
可愛らしいお堂がある、中に入って見て下さいよ、と親切に言われるが、見てわかるほどの知識がない不勉強者、ネコにコバン、ブタにシンジュ、外から写すだけ…
葛尾山壽命院 福性寺 (真言宗高野山末寺)
所在地 佐賀村大字報思寺
本尊 薬師如来
縁起 当山は人皇六十二代村上天皇の御宇天暦七年京都大波羅蜜寺空也上人の開基にして葛尾山蛇ヶ谷にあり。人家を距る事十二町余、当時山門経蔵法堂尉僧堂に浴室七堂伽藍を備え法令盛んなりしも、保元平治の乱に本堂初め建物灰燼に帰す。今尚屋敷に礎石あり。爾来中絶数百年を経て文禄二年、越後国良園阿闍梨この地に来る。道心を抽て再建に努め、屋敷を現在の地に移転し本堂を改築す。これ即ち中興開山なり。その後百八十年を経て本堂破損に及び、安永二年四月に再建す。現在の本堂即ちこれなり。
不動明王の立像
高さ三尺、作者不詳。しかれども彫刻鮮明、眼中ケイサイとして尊厳を有する所凡人の作に非ず。自然の鳶色を帯び幾百年を経過する事疑いなし。貴重なる仏体と言うべし。
日天月天立像
高さ一尺六寸 作者不詳なりといえども天然の古色を帯び、彫刻の非凡なる彩色雅致名作と言わざるべからず。
本像古仏体
作者不詳 彫刻粗雑なれども自ら風韻高く、背後に元和元年三月と銘記あり。今より二百九十年余経過す。
不動明王画像一軸
筆者不詳 しかれども紙質、彩色等を鑑するに寛弘年間春日基光隆能時代の筆勢あり。唯惜しむらくは保存の不注意により満面滅裂に帰す。
五大力明王画繰一軸
筆者不詳なれどもしかもほとんど二百年余を経過したるものなり。
葛尾山福性寺の縁起については大志万重?氏の書かれた「社寺旧跡史」があるが、福性寺は人里離れた処にあり、交通不便にして無住が長く続き、画像とかその他重要な物資が散逸しているものと思われる。
朱印地 往古は反別六反三畝〇五歩ありと伝う。
現注職桐村常観氏の談
大正十一年よりは明王院住職桐村常観氏の兼務となる。葛尾谷は人家を去る約二粁にして電灯もなく車も通せず生活至極不便にして専任住職を得る能わず。明治四十年の大水害に多くの田畑を失い、無住長く、十一戸の檀徒にては建物の維持困難でただ滅亡を待つのみの状態であった。遂に昭和二年檀信徒より移転の要望がありて、名刹の滅ぶのを惜しみ、当時七千余円の浄財を集め本堂・庫裡・土蔵を現在地に移転す。同四年四月五日一切の工事を経て盛大なる落慶供養を営む。現在地は元満願寺の隣地なり。満願寺は何鹿部西国三十三番の内十六番の札所なり。
草も木も一味の雨にうるおいて
長く栄ゆる御山なるらん
(『佐賀村誌』)


曹洞宗隆永山昌宝寺
昌宝寺(報恩寺)
隆永山 昌宝寺(曹洞宗永平寺末寺)
所在地 佐賀村大字報恩寺
本尊  聖観世音菩薩
縁起 創立は天文六年と雖も平僧地として開山その名を詳にせず。
天正十七年に至り中本山福知山久昌寺より南添存越和尚を請い中興開山として法令大いに行われ、その後本堂の改築あり。
(『佐賀村誌』)


報恩寺城跡
小字城山(しろやま)に片岡近江守の城跡がある。片岡氏はもと摂津神崎(現兵庫県)の城主、永享元年(1429)丹波に移り住んだといい、この城は永禄二年(1559)物部城主上原氏のために落城したと伝える。 そこの円い山↓が城跡という。
報恩寺城跡

片岡近江守城跡
佐賀村大字報恩寺小字城山にあり。山頂平坦にして茫々たる叢中に口碑あるは是即ち片岡健之助の先祖なり。古書に依りて往時を考うるに(古書は片岡健之助所持)、片岡近江守は、今を距る四百八十余年前の永享年間(一四二九~)威風堂々として近郷に振いたるもその地領を詳にせず。爾来百三十年余を経て永緑二年(一五五九)に至り、物部村の城主上原周防守(上原衛門大輔の親なり)の娘を四代目片岡近江守の妻に娶る。上原周防守は弘治三年正月二十一日病死す。
然るに上原衛門大輔は天性傲慢非道の人にして血族・親戚の情なく、地領を押領せんと謀計を以て片岡近江守を我が城に招き終にこれを殺害せり。
その妻女、これを聞き驚き、一子を残して故郷物部の城に帰らんとするも三坂峠において殺害された。その跡に石碑存するはこれなり。
前に記した片岡孫九郎氏手記三坂女﨟の片岡近江守と重複するが、大志万重?氏の「佐賀旧跡史」にも右と同様の事が書いてある。
(『佐賀村誌』)


上原氏は上延の愛岩山にも城を構え、(諏訪城)一族を配置しており、また、隣村志賀郷の北野城主および天王山城主の志賀氏や、小畑城主の波々伯部氏、報恩寺城主の片岡氏等に対立して守護代の貫禄をしめしていた。上原豊後守政忠のとき、大永五年(一五二五)に焼失した菩提寺高屋寺の再建を行ったり、永禄二年(一五五九)には上原右衛門大輔は報恩寺城の片岡近江守を滅ぼし、何鹿郡西部地方で並ぶもののない存在となっていたようである。
(『綾部市史』)


なお同書(『佐賀村社寺旧跡史考』)には、報恩寺の片岡氏についても、
 古書ニ因リ往時ヲ考ルニ、(古書は片岡健之助氏所持する所なり)今ヲ距ル四百八十余年前永享年間威
 勢堂々トシテ近郷ニ振タルモ其ノ地領ヲ詳カニセズ、爾来百三十余年ヲ経テ永禄二年ニ至リ、本郡物部
 村(綾部市物部町)ノ城主上原衛門大輔ノ為ニ落城セシモノナリ、因ニ謂物部村ノ城主上原周防守(上
 原衛門大輔ノ親ナリ)娘ヲ四代目片岡近江守ノ妻ニ娶ル、(上原周防守ハ弘治三年正月二十一日病死ス)
 然ルニ上原衛門大輔ハ血類親戚ノ情ナク地領ヲ押領セント謀計ヲ以テ、片岡近江守ヲ我城中ニ招キ終ニ
 之ヲ殺害セリ、其妻之ヲ聞キ驚キ一子ヲ残シテ故郷物部城ヱ帰ラントスルヲ三坂峠ニ於テ上原ノ勢、亦
 是ヲ殺セリ、今其跡ニ石碑ヲ存スル、
と伝えている。
 なおこの「三坂峠の悲劇」の伝承は、猪崎城主の塩見氏にもほぼ同様のものが残されている。また「綾部市史」には、上原が報恩寺城主片岡近江守を滅ぼしたのは永禄二年とあり、上原右衛門少輔宛の「信長の朱印状」を紹介している。
(『福知山市史』)

報恩寺城跡

《交通》


《産業》
幕末頃からタケノコの栽培を始め、報恩寺タケノコとして有名。テレビなどでもよく取り上げられている。第2次大戦後は筍生産組合で罐詰工場を経営して、一部は輸出している。
江戸後期に仁左衛門が孟宗竹の栽培をはじめたのが機縁とって、タケノコの栽培は明治40年には地内190戸の80%に普及し、栽培収穫高は3、200貫、その価格は3、744円であった(何鹿郡誌)。という。


報恩寺の主な歴史記録


『綾部市史』
旧佐賀村 現綾部市内には小貝古墳一基しかないが、福知山市に編入された私市の西稲葉に八基の小円墳群がある。また報恩寺の奉安塚は横穴式石室をもった円墳で、昭和二十四年に発掘調査された。金色にかがやく鏡板や、杏葉・雲珠、その他金環・勾玉・鏡・須恵器など当地方では珍らしく豪華で多量の副葬品が出土した。

佐賀小学校の運動場付近に後期古墳があり、その一つの奉安塚古墳から、金色にかがやく甲胃・馬具類や、ボウ製鏡・装身具・須恵器などが多く出土したことは、私市に有力な首長の存在したことを物語っている。

『福知山市史』
福知山市字猪崎の稲葉山古墳は、早いものは五世紀の築造と考えられるが、馬型埴輪の鼻の部分が出土しており、字報恩寺の奉安塚古墳からは、金色燦然たる鏡板や杏葉・雲珠・鞍金具・繋革の留金具などが出土し、そのうち一部の杏葉と雲珠は京都大学博物館に陳列されている。ただし、この古墳からは鐙が一片も見つからなかったので、おそらくは、土豪のデモンストレーションに加わった装飾馬ではなかったかと思われる。なお字牧の古墳からも鏡板・杏葉・雲珠・轡などが出土した。報恩寺や牧の古墳はほぼ七世紀の築造である。(各古墳の項参照)、昭和五十一年の春、韓国五千年展でも特に新羅王朝の遺品に、金を豊富に使っていることが目立った。中国の古代には、金よりも玉(宝石・玉映等)を貴んだようである。なるほど地理的に見ても金の産地は中国よりはむしろシベリアから朝鮮にかけた地方の方が多い。シベリアの西部から、中央アジアに及ぶ地方にも金を多く産する関係か、とにかく、アジアの北部から、東北部を回って朝鮮を経由する、いわゆるウラルアルタイ系の文化圏との関係、草原地帯に根ざす遊牧民、それからくる騎馬の風習が連想され、奉安塚古墳の金の馬具の原料についても、朝鮮の影響が強く感ぜられる。
 六世紀のものとみられている朝鮮半島北部の平壌付近の、 古墳の壁画の騎馬の絵と、安福寺古墳のそれとを比較すると、馬の後足の形、鞍の下にたらしてある四角のマットなど共通した点が多いという。水野教授は四、五世紀ごろには日本は百済と組んで高勾麗としばしば戦ったが、しかし、平和時には文化的交流はあったであろうといわれ、京大人文科学研究所教授林屋辰三郎氏も、従来日本と高勾麗との関係は、記紀の記録などでも、もっと重視すべきであるといわれている。

報恩寺の古墳(字報恩寺)
 奉安塚・高竜塚共に由良川へ北から注ぐ相長川の合流点から、約五○○メートルさかのぼった相長川西岸、洪積層台地にあって報恩寺・私市の水田から綾部方面まで眺望し得る。
 奉安塚の周辺からは磨製石斧、南隣り農協支所裏山からは石鏃が採集されている。先史時代以来先人の生活の好適地であったらしい。多数の人力を必要とする岩石を利用して、横穴式石室の古墳がつくられ、それらが「七つの塚」の伝承を残している。
 奉安塚古墳
 奉安塚は、佐賀小学校の裏手にあり、福知山市字川北とは高林寺山をへだてて表裏相対し、標高三○メートルで洪積層の山ろく台地上にある。終戦直後同校の奉安殿が取り払われた跡に、石室用材らしいものが露出していたのを、当時福知山高校三年生の永井実、大槻昭未、田辺一誠の三君(福高社会班員)が発見し、昭和二十五年春から夏秋にかけて発掘研究を完遂し、詳細な報告書「奉安殿発掘の記」を刊行した。これは京都大学梅原博士の指導の下に、京大考古学教室の岡崎敬氏及び村島渚氏並びに福高社会科芦田完教諭(現京都短大教授)を中心に行われたものである。以下その調査報告の大要を述べる。
 奉安塚の出土品は、刀剣二ふり、刀子多数、馬具としては、鏡板四枚、杏葉三枚、雲珠五個、その他帯革の金具多数、鞍の部品金具等で、別に金環・ボウ製鏡・斧・鏃・釘等々合わせて六五点、非金属としては砥石(三個)・軽石(一個)・硝子製勾玉破片(一個)・須恵器(種々の型を網羅した多数)とその破片計四八点を得た。
 元来この古墳は、いつの時代か一度発掘され蓋石はとり除かれ、封土が落ち込んでいたもので、石室も完全には残っていない。
 土器は比較的新しい須恵器で、形は台付長頸壷の外すべて単純でかつ小型である。大陸からこの種土器の製法が伝わってから、相当長い年月を経ているらしく、子持土器のような装飾品がついたものはなく、実用的で大量生産的に作られたと思われるものが大部分である。中には緑色の自然釉がついているものもある。
 なお模様のあるものが、櫛目文の長頸台付壷、台付椀と葉型文の長頸瓶等数点ある。また、すべて「ろくろ」を使用している。ハソウも暗灰色で質の弱いものと、比較的薄手で質が堅いものとの二種が出た。
 珍しいのは砥石である。一つは珪板岩製で二面が使用されたもの、今一個は珪長岩製で白地に褐色の縞が入り、四面とも使用され著しく細くなっている。別に細長く断面が矩形の文鎮型の珪板岩の石があるが、使途不明である。珪板岩の砥石は側面の下方に美しい穴があいていて、親指、人差指、中指と掌で支えられるように出来ている。なお、軽石には丸い穴があいているが、紐を通して下げたものであろう。
 出土金具については、金属の武具や馬具などが非常に多く出たことによって、古墳の主は男子であったことが想像される。鏡板・雲珠・杏葉など、金鍍金して美麗なものであり、金色燦然と輝いていて、全国的にも例が少なく、鏡板二枚と雲珠とは京都大学考古学資料陳列室に飾られて、特に杏葉は、昭和三十五年に平凡社より刊行された「世界考古学大系」(全十五巻の第三巻に代表的なもののひとつとして、原色版で掲載されていて、全国に知られている。これらの鍍金金具は、鉄型に薄い銅板を張り金粉を水銀に入れてそれを塗り、水銀を蒸発させるといういわゆるアマルガム鍍金法を用いたものである。鞍橋の金具にも鍍金の残ったものがあるが、木質の部分が腐って無く、金具が断片的に出土したが、並べて見ると大体元の状態が想像できる。馬具一式が出たのに、鐙は出なかった。
 以上美しい鏡板や雲珠などから推察して、この古墳の主の、生前の蒙著な生活がうかがわれる。刀は大小二ふりあったが、その一つは環頭太刀で、柄頭が環状である。しかし、環内に装飾を持たないものである。
共に細身できゃしゃな非実用的なものである。鏃は鉄製のみで、奥壁の付近から非常に多くの種類のものが出た。狩猟用や時には武具として用いたものであろう。槍・鉋と思われるものもある。
 調度品としてはボウ製鏡があり、紐の穴が磨滅しているが、文様は漢式的なものをわが国で模造したものである。
 棺の位置は遺物の分布図を見ると、副葬品の全く出ない部分があって、そこにわずかに玉と金環が出ており、釘・刀・鏃・土器などは周辺部に見られるところからみて、やはりその副葬品の出ない部分にあったであろう。木棺の大きさは出土した釘の形状から判断して、長さ二・五メートル、幅○・五メートル位と推定される。
 この古墳の築造年代は、以上の点を総合してみると大体大化の改新前後(七世紀後半)と思われ、文化も相当進み、他の地方との交通も余程遠方と行われていたことが、玉や軽石・馬具等によって推察される。大化の改新で地方官吏の国司、郡司が定められ、郡司は多く従来の国造が充当されたのである。してみると、この古墳の主は、そのような階級の人ではなかったか。また改新に際しては、民衆の貧困がひとえに貴族の厚葬に基づく場合が多い所から、薄葬令が発せられ、石榔・石室を用いた大規模な古墳の築造は、中央では差し止められる気運にあったころ、この地方ではまだこのような豪華な墳墓がつくられていたものと考えられる。

高竜塚古墳
 高竜塚は奉安塚の西南約五○メートルのところにあり、完全な円墳である。石室はいわゆる横穴式で、奥行は四・二メートル、幅一・七五メートル、蓋石は三枚からなり各一・四五メートルの幅をもつ大石を使用している。奥壁は高さ一・六メートル、幅一・五メートル五枚の石から成り、これに用いた石の最大は縦○・七メートル、横一・四メートル、側壁の最下部を見ると右側は石一○枚が並び、その最大のものは、○・八メートルに一・六メートルある。左側は最下部に石二枚、その最大のものは、○・八八メートルに一・七メートに 岩石の間は小石で充填されている。
 奥壁は上部が前方に出るようにカーブをもった立派な積み方である。羨道の部分は崩されていて明らかでなく、またこの塚の出土品についても不明である。


『京都新聞』(98.4.9)
*まちの文化財〈49〉*奉安塚古墳出土品(福知山市土師・福知山高校所蔵)*府内で例ない馬具一式*
 この古墳は、戦後間もない昭和二十四(一九四九)年春、地元の高校生が発見した。古里の古代の記録を整理しようと、調査していた福知山高社会部考古班の面々が、同市佐賀小校内の山裾(すそ)に見つけた時には、すでに古墳の形式も定かにならないほど、墳丘を削り取られていたという。だが、かろうじて残っていた横穴式石室から堀り出した副葬品の数々は、考古学に輝く一ページを残している。
 古墳時代後期を示す土師器、須恵器に混じって見つかった多数の鉄製品、特に轡(くつわ)や辻(つじ)金具、鞍(くら)の鏡板、杏葉(ぎょうよう)など、馬具一式がそろって発見されたのは、府内では今も他に例を見ない。いずれも金銅張りで、飾りの細工も細やかな豪華な作りは、六世紀後半の特徴をよく示している。
 出土品の多くは現在、調査した生徒たちにちなんで府立福知山高の図書室資料庫に保管されている。馬具は最近、保存処理が施され、往年の金色の輝きを取り戻した。同高で社会科を担当する嵐光徴教諭は「教材として存分に活用させてもらっている。生徒たちには、先輩たちの活動と成果を話し、学校への誇りを高めてくれているようだ」と胸を張った。
〈メモ〉府が1990(平成2)年4月、出土遺物107点を一括指定。一部は京都大学文学部に保管されている。馬具のほかにも、出土例の少ない鉄鋏(はさみ)など豊富な鉄工具類が、関係者の注目を集めている。



伝説


三坂女郎物語
三坂峠
こんな案内板がある。


報恩寺から鍛冶屋町小西へ越える曲折した山道を三坂(さんさか)峠という。その麓(綾部市鍛冶屋町)には清水深々と湧き出る みたち池がある。この峠と池について古くより三坂女郎物語と云う哀話が言いつぎ語りつき今に伝えられている。
「時は、天下麻の如く乱れた戦国の世の末期、天正七年八月十八日 明智光秀の大軍は潮の如く押し寄せ横山城(現福知山城)を攻略。
この時、庵我の城主・塩見筑後守利勝は、この情景を目撃して到底及ぶ所に非ずと観念し、居城に火を放ち煙に紛れて逃亡したが、川北村まで落ち延びた所を敵に急迫せられて無残な最期を遂げた。
時に、その奥方は一子を伴い従者と共に親元なる小畑村波々伯部方へ退かんものと、この三坂峠まで辿りついたが、不幸敵の探索する所となり空しく峠の露と消えたのであった。更に、遺児を抱いて逃れんとした従者も哀れ此の地で討たれた。かくて、血に染んだ、刀を洗った池を今に伝えて・みたち池・と言う」  庵我村誌より
後年、里人その路に碑を建てて佳人の霊を慰め菩提を弔う。風雪幾星霜、今や墓石苔生して碑面判読に苦しむと言えども、往時を忍びてその末路を痛む。

碑には、南無妙法蓮華経 為此亡霊仏果菩提(苔生して判読困難)
法界万霊  片岡権右衛門志塔
           明和六年己丑 正月二十三日之建

平成25年5月 笹の雫の会


三坂女﨟の碑
足利氏、室町時代の中葉応仁の乱以後諸国兵乱止む事なく武力を以て各地方に割拠し、所謂戦国時代を現出したのである。
天文、弘治、永禄(一五五八~一五六九年)頃には報恩寺城山に片岡近江守が居り、私市城には大志万長秀、小幡城には波伯部源内、位田城には荻野肥前守、物部城には上原周防守、猪崎には塩見播磨守、氷上郡黒井には赤井悪右衛門直正が居た。互に虎視たんたんとしてすきあれば相手を倒してその領地を奪わんとする情勢であった。
片岡近江守隆重は物部域主上原周防守の娘を嫁って居た。舅周防守は弘治三年に病死してその子上原衛門大輔がその後を嗣いだ。
この衛門大輔は天姓強欲非道の人であって、近江守の領地を横領せんと企て、事に寄せて近江守を物部の域中に招き終に之を殺害した。
報恩寺の城を落城さした時は永禄二年(一五五九)正月二十三日であった。
近江守の妻は是を見て身に危険の迫るを知り、一人の嬰児を抱いて城を逃れ出た。実家である物部城へ帰るより外なかった。
報恩寺より物部へ帰るには如何にしても三坂峠の山道を通らねばならぬ。女の身で乳呑子を抱いては如何にもならない事を知って、河原地の曲がり角にある家に寄り子供を預かってほしいと歎願した。しかし対手は後難を恐れて断った。妻女は心を鬼にしてその乳呑子を河の曲り角の渕に投げ込んだ。
坂道をたどり、三坂道を急ぎ、頂上を越えて小畑の方へ十間ばかり下った所で路傍にあった石に腰をかけて体んで居る所を山賊のために斬り殺された。
妻女が乳呑子を預かってもらうよう哀願した時、これを断った家はその後祟りがあって不幸が続いたので小祠(荒神さん)を建てその霊をまつった。
今もその小祠が残っている。殺した対手は小畑の鍛冶屋村へ降って溜池でその血刀を洗った。それからその池を「みたち地」と呼ぶようになったという。
三坂峠の頂上から報恩寺側へ降った路傍に「三坂女﨟」の碑が建っている。碑面には、「南無妙法蓮華経為此亡霊」と刻んである。明和六年(一七六九)正月二十三日片岡権右衛門が供養のためこれを建てたものである。また頂上から約十間程小畑の方へ降った道の右側に、直径一尺余の自然石があった。この石に腰かけて休んでいた所を斬殺されたのであって、この石に腰を掛けると石が震うから「震石」とも言われていた。現夜は、その石は何処へいったのか見当らない。
時は天正七年(一五七九)七月二十四日、猪騎城主塩見播磨守は明智光秀の軍勢に攻め立てられ城に火を放って逃れんとしたが、光秀の部将林半四郎のために追い立てられ、川北の山がちの奥の谷大砂利という所で殺された。
猪綺城主の妻女は、小畑中村の城主波伯部源内の娘であったが、落城したので小畑に帰らんと川北から七曲峠を越え報恩寺を通過して三坂峠に差し掛かった際、追っ手のために殺された。報恩寺通過の際、道路沿いの家野田嘉祐氏宅に立ち寄り助けを乞うたが断られた。已むなく峠に向って殺された。
後に至って野田家ではその霊の祟りのある事を恐れ小祠を建て、その霊を慰めた。先に書いた片岡近江守の妻女が殺されたのが永禄二年であり、二十年を経た天正七年の出来事であるためかれこれ混同して「三坂女﨟」として同一の事を二様に言伝えていると誤解されていたが、文献を調べた結果こつの事実があったことが明らかになった。三坂女﨟というのは先の永緑二年の事項を指したものとして伝承されている。
女﨟というのは上膓の事であって、一般的にいえば上位の女の呼称である。
(『佐賀村誌』)





報恩寺の小字一覧


報恩寺(ホウオンジ)
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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