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旧・細見村(ほそみ)
京都府福知山市三和町
田ノ谷・西松・中出・辻・千束・芦淵・寺尾・草山・梅原


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京都府福知山市三和町田ノ谷・西松・中出・辻・千束・芦淵・寺尾・草山・梅原

京都府天田郡三和町田ノ谷・西松・中出・辻・千束・芦淵・寺尾・草山・梅原

旧・細見村の概要




《旧細見村の概要》

細見村は、明治22年~昭和30年の天田郡の自治体。細見奥・細見中出・細見辻・千束・芦淵・寺尾・草山の7か村が合併して成立した。大字は旧村名を継承し、7大字を編成。大正7年川合村大字下川合の一部を編入し、大字梅原とする。昭和5年細見奥を廃し、西松(さいまつ)・田ノ谷の2大字を新設。同10年細見辻を辻、細見中出を中出と改称。当地の中心をなす細見谷・草山谷に小平地があるにすぎず、大部分は階段式の水田と傾斜畑。京街道・山陰街道(国道9号)が貫通しており、大正10年福知山~千束間、同13年園部~千束間に定期バスが、昭和14年福知山~園部間に国鉄バスが運行を開始した。主要産物は米・麦・木炭・繭・木材・茶・栗(丹波栗)・松茸であった。
第2次大戦の戦前・戦中、当村では「満州分村計画」の名のもとに20数名の開拓士や青少年義勇軍を「満州」(現中国の東北部)に送り出し、5か年計画により110戸、義勇軍34人による「満州細見村」計画を企図したが、敗戦で計画は破算した。
昭和30年三和村の一部となり、平成18年より福知山市の一部となり、9大字は大字として存続されている。
遺称としては細見小学校がある。



旧細見村の主な歴史記録


『丹波志』
細見村 土性塩壌 田方十五町四段余畑万十九
町八段余 高三百四石二斗四升六合 家数百十
一軒人別四百五十五人牛四十二疋アリ
当村ハ天明四辰年村替仰せ付ケラレ御上リ地ト
為レリ 其ノ時ハ本高二百八十三石五斗六升ニ
新田十九石六斗八升六合ト別テ記セリ 然ルニ
寛政十二申年御替戻ト為リタル砌リ高ニ結ヒ
テ御代官小堀氏ヨリ御引渡トナレリ 其ノ時ニ
ハ家数百三十二軒人別五百三十四人アリキ 其
後凶作及ヒ疫癘等アリテ村内漸々衰微ニ及ヒ戸
口減少シテ今ノ人別トナレリ 且ツ当村ノ蒟蒻
玉ハ昔名高キ物産ナリシガ百姓困窮シテ其ノ種
子ヲ買ヒ入ルコトモ叶ハズ蒟蒻ノ作ル者ノ無キニ
至レリ 其ノ他薪木炭等ヲ売リ出タシテ渡世ヲ
営ミ農事ヲ勤ルト雖トモ田畑過半他村ノ有ト為
リ村内ニハ悪田ノミナルヲ以テ食物ノ給ラザル
ニ窘モノゝ頗ル多キ様子ナリ 然レハ斯ノ如キ
貧村ハ愚老力勧化ノ日一銭ヲ積立ルコトモ得ベカ
ラス 因テ熟々按スルニ君侯モシ此村ノ困窮ヲ
済救シ昔ノ如ク安堵ナル村ニ恢復シ給ハンコト欲
給ハゞ此ノ村古新田高十九石六斗八升六合ノ御
年貢十年ノ間御倉ニ上納セズシテ山裏郷ノ大庄
屋ニ御預ケナサレ年々其ノ御年貢ヲ積立テ利倍
セシメバ十一年目ニハ元利合シ二百金ト為ルベ
シ 此ヲ元ト金トシテ借シ付ルトキハ年々三十両
ノ利足金ヲ得ベシ 年々此ノ利金三十両ヲ此ノ
村ニ合カセバ庄屋サへ厳密懃厚ナレバ三十年ノ
間ニハ此村必ス富贍スベシ 愚老此ノ村ノ庄屋
ヲ見ルニ直ニシテ温厚ナルコトハ人物ナリ 然レ
ドモ老且ツ懦人ナリ 此等ノコトヲ任シ難シ 官
シク骨硬ナル後見アルベシ 但シ此ノ策ヲ郡奉行
等御勝手方ノ憲宦コレヲ聞カバ愚老今般当国
ニ来テ末タ寸功モ有ラザルニ茂早御取箇ヲ減シ
タリト云ハン御一按アルベシ 又上ノ正後寺村
モ亦此村ニ同シ)


『天田郡志資料』
明治22年町村制、細見奥、細見中出、細見辻、千束、芦淵、寺尾、草山の七ケ村を併合して細見村と称す。大正七年十月一日隣村川合村字下川合の一部梅ヶ原を本村に合し大字梅ヶ原と称す。
昭和五年七月一日、従来の字細見奥を二分して西松、田ノ谷の二大字とす。依て現在は九行政区に分る。尚昭和十年十月廿日従来大字に冠せる、細見を削り、単に、中出、辻と改称せり、
而して戸数五百四十戸、人口二千八百五十人、東は菟原材、北は川合村、西は上六人部村に接し、南方一帯は多紀、氷上の二郡に界す、
地勢は細見谷、草山谷より成り、二谷渓流の両岸に稍平地あるに過ぎず、
交通、山陰街道即ち国道は、芦淵、千束、辻の三部落を東西に通じたれども、旅客は殆となし、福知山に達する定期自動車あり、又細見谷を縦貫して篠山より舞鶴に出づ街道あり、今一つは氷上郡鴨ノ庄村より草山、寺尾、芦淵を横ぎりて川合村より綾部に出づる街道あり。
民情敦朴にして勤勉なり  物産 重要なるは米、麦、木炭、木材、繭、茶等とす。
千束区は本村の中心地にして役場、学校、登記出張所、巡査駐在所、銀行支店等あり。


『三和町史』
文献での「細見」の初見は、管見のところ嘉元三年(一三〇五)十一月の「宮田荘雑掌円道訴状」(近衛家文革)に現れる「細見守真」である。この守春という人物は、この時期に宮田荘を中心とした悪党生西父子に与党した者のなかの一人である。所説をあわせて考えてみると細見というのは、その祖となった紀忠通が寛弘二年(一〇〇五)に長谷に流され、その子孫が定着したものが細見氏だという(中村保『幻の鎌谷城と丹披薬師寺』)。そして承瑜のときに桑田郡山国荘に蟄居していた細川頼之から「細」の一字を賜って「細見」を名乗った(「紀氏細見伝」西松細見家文薯)とされているが、細川頼之が山国にいたのほ応安三年(一三七〇)から三年間なので細見という地名が細見の氏名から名付けられたとすれば、その年代はそれより以前の円通書状案の嘉元にまでさかのぼる必要がある。また、細見を「細水」として地形地名とも考えられる(『序説』)ともある。結論は出しえないが、地名と姓名が強く結びついていることはまちがいない。
「細見村」は中世には、検札にもみえるように細見谷の総称として使用されていたが、近世の初めに小村三ヵ村にわかれ、それぞれ細見奥村・細見中出村・細見辻村と名乗るようになった。ただし、細見中出村は細見村のうちの相給というかたちで綾部藩により把握されたので、近世を通じて公式の史料では細見村を名乗っている。明治二十二年四月一日、細見辻・細見中出・細見奥・千束・草山・寺尾・芦渕が合併し「細見村」となった。それぞれ「細見」という名を頭に冠していた細見谷の三地区であったが、大正七年二(一九一八)三月に選挙郵便の誤配などにより区域の変更を望まれていた細見奥区は西松区と田ノ谷区に分離、昭和五年(一九三〇)に大字細見奥が廃止となった。また、昭和十年(一九三五)には事務処理上の都合により細見辻区と細見中出区の「細見」が削除され、辻区・中出区となったことにより「細見」は歴史地名としての地域性が失われ、三和町内における広域地名として使用されるようになったのである。





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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『三和町史』各巻
その他たくさん



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