京都府福知山市池田
京都府天田郡上六人部村池田
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池田の概要
《池田の概要》
国道9号沿いの「鹿子の木」がある一帯、土師川の対岸を向池田という。
池田村は、江戸期~明治22年の村。綾部藩領。山裏組14か村の1つ。明治4年綾部県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年上六人部村の大字となる。
池田は、 明治22年~現在の大字。はじめ上六人部村、昭和30年からは福知山市の大字。
《池田の人口・世帯数》 136・57
《主な社寺など》
妙見社
来迎院の奥に鎮座。神額がないが、ナビには「能勢神社」と表示される。ちょっと重要な神社かと思われる。
妙見社 六部郷 池田村
祭神 但馬国妙見山ヨリ移 祭礼九月十八日
本社巳の方向 籠家
境内四十間四方 村ノ東谷ノ入口 建
俗 但馬国火畠村妙見山ヨリ移マス即御弊神ト夫婦神ナリト云ヘリ 日本紀ヲ按ニ天鈿目ノ命ノ夫トナリ玉ヒシハ猿田彦大神ナリ村俗ノ説難用カ
(『丹波志』) |
「妙見」というのは北極星を神格化した仏様で、妙見菩薩、「北辰妙見大菩薩」といい、元々は仏教とは関係はないと思われるが、中国で習合し日本に伝わったという。神社というのか仏教の堂宇というのか、この社は鉱山と関係がありそうだとよく言われている。実際に火畠村(今は日畑と書く)には金鉱跡があるという。『角川地名辞書』に、
ひばた 日畑(八鹿町)
火畑とも書く。妙ケ谷の南西、妙見山の東の谷あい。名草神社への登山口にあたる。古く金の採掘を行い、製錬のための火を用いたところから地名が起こったという。各所に間歩の跡が残る。 |
有名な能勢の妙見さんも鉱山である。猪名川上流の摂津国能勢・豊島・川辺の三郡にまたがり、東西・南北ともに十数キロの範囲にわたって銅の鉱脈が存在し、古来この鉱脈の開掘が続けられ、享保年間の調査によると、間歩(坑道)は能勢郡12ヵ村に195、豊島郡6ヵ村に38、川辺郡51ヵ村に1696、計1929ヵ所があったという。ここは銅ばかりでなく、金銀も採れたという。多田源氏の財源となった鉱山で、源頼光もこの一族、何のこともない彼がオニであったことになる。
また祭日の九月十八日は天目一箇神の祭日である、峰山の藤社神社の境内に天目一箇社があるが、郡志に「天目一社天目一箇命を祭る祭日三月十八日」とある、半年後の九月十八日も祭日である。当社と生野神社は夫婦神と見られていた、また祭日も同日ということは生野社も同じ性格のもの、恐らくは鉱山神であろうと推測される。間歩跡があるなどの話を聞かないが、当社やさらに薬師を本尊とする真言宗寺院が集中するので、私はこの一帯は鉱山であったろうと推測している。
高野山真言宗久岳山来迎院
久岳山法雲寺と号し、高野山真言宗、本尊阿弥陀如来。過去帳によれば、中世栄えた坂室の医王寺と堀越の大光寺が衰滅し、両寺の仏像が来迎院に安置されたという。
阿弥陀堂は元禄16年創建、寛政12年再建。観音堂に安置される観音像は綾部藩初代藩主九鬼隆季の姉慈照院の寄付と伝える。
久岳山法雲寺来迎院 池田村
真言宗同郡観音寺村観音寺下也
百年余以前観音寺住持ノ僧隠居所也 此村中野孫太夫俗禄ニ飲ヲ此所ニ隠居スト云 中野子孫住氏部ニ出 阿弥陀堂観音堂有
(『丹波志』) |
池田大神宮のカゴの木(左)とムクの木(右)
左の道は国道9号線、右にも平行して旧街道があり、かつての山陰道(京街道)。右へ山側へ入る細い道を行けば来迎院。左へ行けば土師川を渡って向池田。
江戸時代から幾年月を生きている、旧街道は仕方ない、そこを選んで植えられたものと思われる、しかし今の国道の脇で生育環境チョー悪い所で老樹が二本ともよく生き続けられるものと驚く。
案内板がある。
かごの木・むくの木
現在の国道九号線、往年の京街道にかごの木、むくの木が相寄り並び立っており、両方とも樹齢数百年を経ている巨木である。特にかごの木は、近隣には珍しい木で学術上重要である。俗にこの地点を通称「かこ゜の木」と呼ぶように数百年前より郷土の人々に親しまれ、また京街道を旅する人々に美しい景観を供してきた。そして、むくの木はかごの木に隣生する稀にみる巨木で、一層の景色をそえている。両木とも昭和四十五年三月二日付けで市の指定文化財となっている。福知山市教育委員会
寛政11年の「丹波国大絵図」にこの付近に一里塚の印がり、この樹群はあるいはそれに比定されるかという。文化3年大火があった時、火がこの樹に燃え移り、三昼夜の間燃え続けたと伝えるているという。
また三俣村生野神社の秋祭に神輿が多保市村の御旅所へ遷座する時の中継所であり、明治中期までは上下(じょうげ)と称した荷物運送人の休憩所ともなっていたという。
《交通》
《産業》
《姓氏》
池田の主な歴史記録
『丹波志』
池田村 支向池田 綾部領
高貳百三拾四石七斗八升 民家五十七戸
向池田ノ支ナリ川ノ西ニ在 此地陰陽師下ノ段ト云所ニ二戸有 |
池田殿旧栖 地田村
本村ヨリ辰巳ノ方 大川ノ向ノ山裾 上ノ段ト云所ニ田地ヨリ廿間斗高キ所 平地一丁四方 両脇ニ小谷有 此所旧栖ト云 此所ニ本村ヨリ移リ 無程長田ノ高橋ニ被討 墓有 殿塚ト云 其地ニ石ヲ少集メシ所 家老塚ト云 是ハ東ノ方田中ニ在 近年辰巳ノ方ノ山ニ地神トシテ祭ル 旧栖ノ所殿垣地ト云 北脇ニ稽古場ト云所有 古跡今畠田地ト成ル 水帳ニ若大夫ト有 池田氏子孫 姓氏ノ部ニ出 |
『天田郡誌資料』
旧岳山 宝雲寺 来迎院 (古義真言宗)同村字池田
本尊 阿禰陀如来 脇立 観世音菩薩、勢至菩薩
開基 行基菩薩 中興 祐尊上人
創建 和銅五年寛永十四年閏三月二十四日現在の地に移転、万延元年失火明治元年再び失火明治十七年再建三月廿一日落慶供養今日に至る。
(縁起)行基菩薩諸国巡錫して当地に来り、一霊地を卜して一宇を建立す。即ち西観山大光寺(堀越小字来迎寺の地なり)にて本寺を創建す。爾後元亀天正の交兵燹に罹り大光寺より西方敷丁の山谷、坂室山醤王寺と共に荒廃に帰す。斯くて此両山を合併して今の地に移したり。即ち前記寛永四年閏三月廿四日なり。大願主泉識上人、造営畢って旧岳山宝雲寺来迎院と改称す故に今庫裡なる本尊不動明王は医王寺、今脇立大日如来は大光寺の本尊なりしなり。両度の火災に難を免れたるは詢に仏徳の高きを仰ぐべきなり。後祐尊上人入川明暦三年寺坊、鐘襖等を建立し、寛文十二年梵鐘を鋳造し大いに当山の面目を整ふ。依て中興第一世とし現今(昭和三年)第十九世なり
(鐘銘)…
再度の火災に古記録、什宝は焼失したれども只本堂のみは類火を免れたるを以て合併当時の棟札及び元禄十六年八月十八日百年以来の強雨にて山崩れのため本堂、並に庫裡大破損せり。依て六人部の庄下郷十一ヶ村より喜捨金を得て復旧工事をなし仝年霜月十一日工を終ふ。大工、生野村加兵エ、池田村清兵エ、岩崎村杢之助等にて此等の棟札存せり。仏像は前に記せる通り、不動明王、大日如来、阿禰陀如来、観音、勢至両菩薩の各尊像は何れも災火に罹らずして今日に及べりと云。
観音堂ありて聖観世音菩薩を安置す。此附近は昔山裏郷と称し綾部領たり、当山は藩主九鬼侯の山裏郷の祈願所にて近郷なる各寺院の触頭たりき。此観世昔は太閤征韓の役水軍の将九鬼嘉隆公聖観音像を守り本尊として日夜信仰深かりき、後綾部九鬼氏に伝はり九鬼家守護仏として尊崇せらる。而して分家の九鬼家の家来先祖二代目九鬼彌一右ヱ門季政の母慈照院に伝はる。慈照院殿は藩主九鬼式部少輔隆季の姉君にして、寛文九年逝去。其後霊夢に由り山裏郷寺院触頭たり又祈願所たる当山内に一宇を建立して彼観音の尊像を移し小字向ひ池田に於て高一石五斗の田地を供養料として永世寄進せられたり、寛文年中建立の堂宇及尊像今日に伝はる。此観音堂は九尺四方。其他庚申堂一間四方にして天保十三年建立。庫裡再建は明治十五年。土蔵、納屋は明治四十二年建築。
財産 田四反七畝九歩、畑三畝一歩、山林三反三畝一歩、宅地一反二十六歩
檀家 百○七戸 (池田岩崎生野上野) 其外信徒は本村及他村に亘一りて多し。
(附記) 四月八日及盂蘭盆会其他池田荘住の当寺の檀家、仏事を営むときには必ず坂室材の山林に入り樒を取り来るを例とす、これは個人の山、区有の山を問はず、花を採りて持ち帰るを先方の者は反って喜び居ると云。ゆかしきことなり。坂室山医王寺の址は今猶粗造なる薬師堂ありて仁王門現存す。此仁王門は元大内材医王寺谷に在りしが何時の程にか一夜の中に坂室へ持ち帰りしものにて大内の仁王門なりともも口碑に伝ふ。
◎当寺の檀家岩崎の大槻源右エ門は最も旧家なるが源右ヱ門子孫繁栄の爲めに自分の所有地に守護仏として一宇を建てゝ薬師如来を安置して信仰せり、其後信者漸く多く遂に部落へ敷地と共に寄附せり、大正九年屋根替の際、棟札を発見す。万治三年三月建立にして中興の祖祐尊上人の筆なることを確めたり。さては当山合寺の時、坂室山医王寺の薬師如来を当時、全盛なる大槻氏の手に帰したるものならん。坂室にも薬師堂ありて如来を安置すれども甚だ粗造にして時代ものにはなきやうなり。岩崎に在るは立派な尊像にて外に、十二神将の如きも極めて古色蒼然たり。大槻家は明治の初年失火古記なし当山弘法大師尊像破損に付源右ヱ門三代目修復をなす。時は正徳二年三月廿一日現住快彦松向と記入せり。
◎当時の檀家、池田の住人池多卯右ヱ門、老後隠居して卯作といひ稀有の信者なりき。明治廿七八年戦役に際し、皇軍の戦捷と出征将士の無事を祈願するとて西中筋村観音寺本堂に三七日の間参籠断食して一心に祈念し、廿一日目満願に御守札を乞ひて本村出征者に贈り、尚、池田、岩崎の出征者にして無事凱旋せば其報恩の爲め三十三体。観世音像を彫り奉るぺしとて祈願を込めたり。霊験あらたかにして両部落数人の出征者中何れも無事凱旋せり、時の郡長梯島誠氏の賛同を得て千歳山に当山を第一番とし多保市善光寺を三十三番として西園三十三体の石仏を奉安し皇軍の大捷と無事凱旋を祈願せし願済とせり又明治三十七八年戦役の際にも当寺より一丁許奥に瀧ありて不動明王を安置せり。此に又三七日の断食祈願して皇軍の大捷池田岩崎の出征者の無事を祈れり。是亦満願の日一千体の御守札を拵へ福知山二十聯隊に持参して各将士に贈呈を乞へり。これも前と同じく皇軍は連戦連勝特に池田、岩崎の出征勇士は皆無事凱旋せり、池田卯作老い信仰の篤き、不動明王並に観世音の霊験有り難き極みといふべし。爾来此千歳山三十三所を戦勝観音と称せり。毎年四月十八日、十月廿四日の両度に供養ありて遠近より参詣者多し。尚ほ千歳山は春秋の景に富み巡拝には適良の地なり、福知山より参詣するには善光寺なら三十三番より逆に大池の東より千歳山を過ぎ来迎院なる第一番にて終る。此間は約十四五町と云。右三十三所観音は明治三十年八月起工、仝三十一年三月十七日安置、仝十八日開眼供養と共に山開きをなせり。又住職今井氏は大正十年四月より五月にかけ四国八十八ヶ所の霊場を巡拝して各霊場の御砂を頂いて帰り之を郡内篤志信仰者の援助に頼りて名宗寺院に納め大正十四年三月廿一日を以て最初の山開きとし天田郡新四国八十八ケ所霊場を創設したり且父彼の池田卯作翁の帰依篤かりし瀧の不動尊をも合せて第六十五番の霊場としたり。所謂新四国霊場左の如し。… |
『福知山市史』
中世の時代のものと思われる三和町台頭の大塔山自性院は、法道・行基伝説によったものとし、十一面観音を本尊とし、平安時代の延喜年間(九○一~九二二)をその創建としている。川合方面では、外に四ヶ所の古寺跡を伝え(『丹波志』、いずれも近世には廃絶した。同じく『丹波志』の「古跡」は友淵から寺尾にかけて十ヶ所をまとめているが、その特徴はほとんどが薬師如来を祀っていることである。その中でも、中心的存在であったのは鹿倉山太平寺であり、鹿倉山の山麓に五ヶ寺が存在していたことを記している。これは鹿倉山を中心とした山岳修行の場であったところである。一方、六人部にくると、行基伝承による開創寺院は池田の旧岳山来迎院、空也伝承によるものとしては笹場の楽永山官福寺があり、いずれも真言宗高野山派に属している。その外『丹波志』「古跡」では、十三ヶ所の古寺院跡を載せており、坂室から大内の山麓一帯に寺庵ができて仏道修行を営んでいた。十三ヶ所のうち九ヶ所までが、薬師堂に薬師如来を安置していたと伝えている。薬師如来は、薬師瑠璃光如来とも大医王仏ともいい、瑠璃宝瓶を持ち、一切の薬を納め、一切衆生の病に応じて出して与えると、病が即座に治るというはたらきをもつ仏である。従って、これらの寺庵では、薬師の霊験・奇瑞が伝えられるかたちで仏道修行の場が展開されていったところであろう。その形跡を残すものとして、現在坂室には旧医王寺があり、南北朝時代に造られたと考えられる仁王像が安置されている。
出雲路山法林寺は六人部の豪族高橋刑部大輔高景の子乗専(本願寺覚如上人の弟子)が出家し、清範法師といい、この人によって開かれたと『丹波志』は伝えている。この寺は、最初豪摂寺と称し、間もなく山城の国愛宕出雲路村に移り、その後、摂津川辺郡の小浜に移ったのである。六人部の長田には豪摂寺跡が残ったが、そこに新たに寺をおこし明覚寺が生まれ、一向宗の宣揚をはかる道場としたが、のち近世になって福知山町へ移動したあとに、持昌によって現在の法林寺が建てられたと伝えられている。泰平山願来寺は空也上人によって生まれたと伝承される寺院で、やはり薬師如来を本尊としている中世寺院である。特に、この本尊薬師如来は用明天皇の皇子麻呂子親王が鬼賊退治のため、丹波から丹後へ向かうとき、七仏の薬師を彫って無事鬼退治ができるよう祈願した七仏薬師の一体であると伝えている。また大野山善光寺は現在地に来るまでは長田にあったという『丹波志』。
以上が福知山東部及び南部の概況で、中世の仏教寺院分布としては、真言宗の宗勢の発達したところであり、特に薬師如来の信仰の厚いところであったといえる。 |
『由良川子ども風土記』
かごの木
福知山市・上六人部小四年田中善紀
ぼくの家は、昔の京街道の宿場で有名な生野の近くの池田というところにあります。近くに、七〇〇年以上もたっているといわれる「かごの木」があります。これは、この間の社会の時間に友だちが調べてみると、京街道の道しるべのやくめをしていたことがわかりました。この木は、ぼくが二年生の時、ぼくの家を新しくたてたのも知っているし、九号線を通るスーパーカーも知っていると思います。そう思うとなんだかふしぎな気がします。もしこの木が口をきけば、社会の歴史の時間に、近所のおじさんや、おばさんに聞きに行かなくても、いろんな話をしてくれて、よい勉強になるやろと思います。かごの木がもうすぐ、七〇〇才になるというころの話です。ちょうど取り入れの季節になったころでした。台風で雨がふり、大水が出て、池田のていぼうが一部分くずれおち、とうとう切れてしまいました。そしてぼくの家の前の田畑が全体ぐらい水につかってしまいました。稲はながれていくばかりでした。「おーい。みんな、ていぼうが切れて、田んぼが水びたしだ。早くみんなで石をつんでなおせ」といいだして、石をつみに行ったそうです。「わっしょい。わっしょい。」と言いながらはこんだといいます。なんとか、石と土で、ていぼうをくいとめても水がひくまでまたなければなりませんでした。水のひいたあとは、見わたすかぎりの荒地となっていました。「このままの荒地では、来年は米がとれへんで、よい土を入れかえなければなあ。」と口々に言いだしたそうです。そこでみんなはお寺のトロッコをかしてもらい、田には米がうえられる土を、畑にはよくこえた土を毎日毎日、はこびました。その作業もなえ植えまでにはまにあったそうです。去年は米がぜんぜん取れなかった分を、今年こそ、とりもどすそと思って、あせと土まみれになってはたらいたそうです。今はていぼうにかこまれて、なにごともなかったようにみえるこのふきんも、こんな水とのたたかいがあったのです。かごの木は、そんなことも全部知っているのです。 |
伝説
池田の小字一覧
池田(イケダ)
稲葉 稲葉下 岩ケ鼻 岩フチ 尾先 沖田 大畑口 上ケ石 上ケ石ケ上 上砂子 上稲葉 上中道 上畑ケ田 角ノ下 カケト 小西谷口 子水 坂尾 坂尻 才ノ木 シル谷 田中 谷川端 滝ノ上 大神口段 辻ケ下 出口 長尾 長尾口 中道 中道トコウ田 中尾口 中ケ谷口 中畑ケ田 西谷口 畑ケ田 東谷 久渡 フロガ谷 回孫兵衡坂 道之上 道之下 道向 道端 道裏 宮之口 宮之奥 山之下 山之神 薮之下 薮之下ノ上 柳畑 矢込 横枕 キヨク禰ギ 稲場 久後 稲場 上稲場 込山 小西谷 城山 長尾 西ノ谷 東谷 禰ギ
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