京都府福知山市生野
京都府天田郡上六人部村生野
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生野の概要
《生野の概要》
国道9号線に「大江山 いくの野の道の 遠ければ まだふみもみず あまの橋立」の看板が立っている。写真で言えば、少し先に「生野里」のバス停がある。生野集落は左側の畑の先の方にある。
隣りには、この名歌の説明まである。
小式部内侍と生野の里
小倉百人一首とは、藤原定家(一一六二~一二四一)が百人の歌人から一首づつ歌を集めたもので、百首の六十番目の歌が小式部内侍の「大江山生野の道の遠ければまだふみも見ず天橋立」です。
歌意は、大江山(大枝山-老ノ坂付近の説も)を越えて行き生野を通って行く道が遠いので、まだ天橋立は踏んで見たこともなく、母からの、文も見ていません。と言う意味で、母の和泉式部が夫の丹後守保昌と共に丹後に下向していたころ、都で歌合せがあり小式部内侍も歌人に選ばれました。
少女なのに歌が上手なので、お母さんに使いをやって教えてもらっているのだろう、と言う噂もあり、中納言定頼に、
「歌はどうなさいましたか。使いは帰って来ませんか。心配なことでしょうね。」とからかわれた時に引き止めて即座に詠んで返した歌と言われています。
すぐれた才能がありながら若くして亡くなりました。
この生野の里は、一千年前から明治の半ば頃まで京街道の宿場町として栄え、本陣なども置かれていましたが、現在は田園風景が広がる静かな町です。
また、小野小町が旅の途中で病にたあれ、病気療養したと伝えられる薬師堂は、ここより西へ約三十分程の、小野脇という所にあります。 |
「金葉集」に
和泉式部保昌にぐして丹後国に侍りけるころ、都に歌合のありけるに小式部内侍歌よみにとられて侍りけるを中納言定頼つぼねのかたにまうできて、歌はいかゞせさせ給ふ、丹後へ人は遣はしけむや、使はまうでこずや、いかに心もとなくおぼすらむなどたはぶれて立ちけるをひきとゞめてよめる 小式部内侍
大江山いく野の道の遠ければまだふみもみずあまの橋立 |
母(和泉式部)の才能を受け継いだといえ、今で言えば小6か中1くらいでこんな歌を詠むものだから、名を一挙に挙げる。今もって知らぬ人はない。この名歌に詠われる丹波の名所「いく野」とは当地のことである。
どんなにスゴイ所かと思えば、西の裏山・小倉山から台地状に続く広い高原のような地形で、いつの時代か上千軒下千軒と呼ばれたというが、今は畑地が広がり、集落もある。京街道↓が通り、近世は宿場町であったのだが、今は宿屋はなく、本陣も改造され、商店が数軒あるだけのよう。
これが生野の里↑(旧山陰道・京街道)。静かで、シーン。ネコの子一匹見当たらない。案内板がある。
ようこそ 生野の里へ お越し下さいました
このあたりが、約千年前の平安時代から京の都と丹後の国を結ぶ京街道宿場町として栄えた「生野の里」です。江戸時代に入っても貝原益軒の
「西北紀行」にもその賑やかな様子が描かれでおり、丹後の宮津藩主は参勤交代のとき、この地で一泊したといわれ、今も本陣跡が残っています。
それだけに都では、生野の印象が強く、このことは当時の和歌に、生野と詠んだものが多いことによってもうかがわれます。
なかでも、有名なのは、小式部内侍が詠んだ
「大江山生野の道の遠ければ
まだふみもふず天橋立」
小倉百人一首にも詠まれたこの歌には、次のような秘話が残っています。
小式部は、平安時代の有名な女流歌人、和泉式部の娘であるが彼女自身は歌を詠むことは苦手だと思われていた。母(和泉式部)が再嫁して丹後宮津にくだった後、都での歌合わせの席で小式部は、母がいないと詠めないだろうとからかわれたが、即座にその母を慕って詠い、一座の人々を驚嘆させた。この歌は、大江山や生野の道は都から遠いのに、さらに遠くの母のいる天橋立の地は、行ったこともなく(ふみもみず)、便りもなく(ふみもみず)その身を案じているという母思う切ない心を詠んだものと言われる。
このほかこの地を詠んだものに
・大江山遙かにおくる鹿の音は、いくのをこえて妻を恋ふらむ (権中納言実守)
・大江山越えて生野の末とほみ 道ある世にも逢ひにけるかな(薪古今集)一
など多くあります。
近くには六人部七天神第五代の生野天神社があり、境内には椎の大樹にまつわる「金の椎の実」の民話が残っている。
また、武内社 生野神社が、ここから一粁下った三俣地区に鎮座する。
西方には、小倉山(通草城山と呼ぶ)があり、地元の言い伝えによると当地方は、綾部藩の領地で、山の中腹のとりで(見張所)から、藩の命を受けた生野の庄の住民が見張りにつき、異常があれば早馬で藩に通報することになっていたとか…
平成八年三月 福知山市 生野区 |
古代山陰道は当地を通らず、多紀郡から氷上郡を経て但馬へ通じていたので、「延喜式」には駅としての生野の名はみえない。しかし京都と奥丹波・丹後を結ぶ主要な交通路に沿い、近世には宿場としても栄えた。福知山出て長田野越えて、今の国道なら、ほぼ直線でこの辺りでせいせい10㎞ばかり、足腰の弱い人などはここで宿を求めたものか。
生野村は、江戸期~明治22年の村。生野町ともいう。はじめ福知山藩領、寛永10年から綾部藩領。山裏組14か村の1つ。
正規の宿場として設定されてはいないが宿の機能は果たしており、天保11年の「巡察記」は畑・屋敷地とも3町余、村高37石余、家数41・人口152、牛11。、当村ハ駅場ニ非ザレドモ、本陣及ヒ旅宿屋七軒アリ、其ノ他商人多シ、農ヲ業トスル者モ有リテ、種々作物ヲ耕種シ、蚕児ヲ養ヒ、木綿ヲモ作リテ売ト雖ドモ、小村ナルヲ以テ推察スベシ。と記す。
明治4年綾部県、豊岡県を経て同9年京都府に所属。同22年上六人部村の大字となる。
生野は、明治22年~現在の大字名。はじめ上六人部村、昭和30年からは福知山市の大字。明治以後も当地は長く宿場・立場の役目を果たし、秋から春にかけての上方への出稼人や旅人のための宿屋が多かった。第2次大戦前まで飲食店・宿屋もあったという。
鉄道が出来、さらに昭和41年に国道9号のバイパスが東を通るようになり、流れに取り残されるように寂しく廃れていった。
無常迅速。栄枯盛衰は世の常。
まことにや人の来るには絶えにけむいく野の里の夏引の糸
藤原兼房(「金葉集」)
《生野の人口・世帯数》 81・38
《主な社寺など》
天神神社
生野のから三俣の方へ下る坂にかかる所に鎮座。鳥居の柱が四角い、宮とは思えないような頑丈そうな上屋。
天神 五ノ社 六部郷 生野村
祭神大戸道尊大戸辺尊 祭礼九月廿五日 御輿出
本社西向 籠家 華表
境内 社ノ森ト云 凡六十間四方山林
中古菅家ノ御尊躰ヲ安置シ奉ル也ト 多保市天神条下ニ委
(『丹波志』) |
村社 天神々社 上六人部村字生野鎮座
祭神 大戸之道尊 大苫辺尊
以上七天神と申し奉る。用明天皇の皇子麿子王の草創に係ると伝ふ
(『天田郡志資料』) |
当社の鎮守の杜は「袂の森(たもとのもり)」という名所、歌枕。また生野神社の祭神・天鈿女命が降臨した「雲田」という所も、当社のうしろの辺り、雲田(コマダとも)は天田の語源地ともいい、歌枕になり、都にもよく知られた丹波の名所の1つとされる(萩原の内)。
境内には椎の実がビッシリと落ちている。「金の椎の実」という伝説がある。そこの案内板に
金の椎の実
生野の天神さんの森には椎の古木がたくさんありました。この椎は、大昔、大神宮さまが丹波から伊勢へ移られる途中、ここでお休みになりました。その時におともの者が、食用としてもっていた椎の実をまいたのがもとになり、立派な氏神さんの森になった。と伝えられています。
この生野の里にみいちゃんと呼ぶ十歳位の女の子がおりました。お父さんはなくなり、お母さんと二人暮らしの気のやさしい女の子でした。お宮さんの下にある雲田たんぼに黄金の波を打たせてみんなを喜ばした稲がすっかり刈り取られた頃、お母さんは病気になりついに寝込んでしまわれました。
心配なのはみいちゃんです、何とか早く元気になってもらいたいと毎朝早く起き出して天神さんへお参りしました。
今日もお参りして帰ろうとしますと、大きな椎の木の根元に白いものがうずくまっているのが目につきました。何だううがとこわごわ近づいて見ますと、鉄砲で打たれたのが、あるいは木の上の巣から落ちたのが、白い羽を皿ぞめにした、こうの烏が傷ついた両足でひな鳥をかかえてうずくまっているではありませんか。
みいちゃんは「かわいそうに。」といいながらだきかかえて自分の家に帰り、近所で大きなかごを借りてきてわらを敷き、その上に親子烏を入れてやりました。
水を与えたり、たにしやかえるを捕えてきてえさにしました。親鳥は二、三日で死んでしまいましたが、子鳥は日増しに元気になり、飛び立てそうになりました。
お母さんの看病の上、毎日鳥のえささがしに困り、仕方なく子鳥をかごから出しました。子鳥は喜んでパタパタと音をたてながら飛び立って行きました。
それから二、三日たった静かな夜のことです。みいちゃんの枕もとで声が聞こえるので目をさますと、頭巾をかぶり紫色の衣をきた少女が、「私はお世話になったこうの鳥です。そのご恩返しにあ母さんのご病気をなおおします。あの月が満月になったら、森の中の池のつつみに金色の椎の実を置いておきますから、それをせんじてお母さんに飲ませなさい。あ母さんはきっと元気になられます。さようなら。」といってきえました。みいちゃんは、「待って下さい。」と後を追いましたがもう姿は見えません。しかし飛び去った後に一本の黒い羽が落ちておりました。みいちゃんは夢であったかと思いながら、満月の夜、池のほとりを探しますと、金色の椎の実が落ちております。喜んでこれをひろって家へ飛ぶようにして帰り、いわれたとおりこれをせんじて母に飲ませますと、母はめきめき元気になりました。
女二人暮らしの家ながら、近所の人々もうらやましがるような明るい楽しい毎日を送るようになりましたが、みいちゃんの家の床には一本の黒い羽が飾ってあったということです。
福知山市老人クラブ連合会発行『福知山の民話』より原文のまま
この話はテレビの「マンガ日本むかし話」でも放映されたことがあります。
昭和十年頃まで椎の巨木が残っていました。
《交通》
《産業》
《姓氏》
生野の主な歴史記録
『丹波志』
生野町 今村ト云 綾部領
高三十五石六斗五升 畠斗 民家四拾戸
生野ノ名延喜式ニ出 町並凡四町斗西側共間口アリ裏エ廿五間ツゝ一筋ノ町也 西側ハ上野村出戸東側ハ萩原村ノ出戸ナリ
生野新開地ノコト 貞享三年千束村強訴ニヨリテ追放有シ時 千束村ノ田地一作分生野ヨリ綾部エ上納カ是ヲ賞シ玉ヒテ上野村ノ地萩原村ノ地ニテ開発 高二拾五石六斗無役ニ下シ給ル也
慶安三年検地ノ時 生野山林無之ニ付 萩原村上野村ノ山林ニ入込薪ヲ取ニ付 公事有 其後萩原山エ十五日 上野山エ十五日ツゝ入込ニ定ル 其後モ公事又モ前格通決セラレシトナリ |
上野小路古跡 生野村
萩原上野一面ノ平地 古上野小路ト云 上千軒下千軒ノ所 下千軒ヲ雲田千軒トモ云
萩原ノ地ニ具足師弓師矢師弦師ト云字有 古路ト云 |
『福知山・綾部の歴史』
↑生野宿の復原図 (筆者調査作図)「福知山市地籍図(昭和41年)をベースに、明治6年の見取図により作成。屋号・職名は聞き取りで江戸~大正期にまたがる。
↑生野の街道と町並み(福知山市・大正末期・三和町郷土資料館提供)「上六人部村名所絵はがき」より。
旅人たちのオアシス
●京街道生野宿の賑わい
丹波国天田郡を南東から北西に通り抜ける山陰道は、古来「京街道」と呼ばれ、京からの、そして京への道であった。
大江山 生野の道の 遠ければ
まだふみも見ず 天の橋立(小式部内侍)
福知山出て長田野越えて 駒を速めて亀山へ(福知山音頭)
遠く平安の都人が、戦国の武将が、時には威儀を正した大名行列も、伊勢参りの群衆も、そして成相寺へ向かう西国巡礼、国もとへ急ぐ飛脚、京へ荷を運ぶ上下、一里塚の大榎に憩う薬売り、檀家廻り御師……、と京街道に旅人の絶えることはなかったに違いない。
名所として歌に詠まれた生野宿(福知山市)は、京三条大橋からちょうど二〇里の所にある。ここにいつ宿場ができたかは分からないが、『慶安五年(一六五二)検地帳』には「生野庄生野町」の名が見え、すでに町並みが形成されていた。元禄の初め、ここを旅した貝原益軒は『西北紀行』の中で、「名所生野村」の印象を「民家が頗る多い」としている。文化年間(一八〇四~一七)頃、綾部藩の『田畑反別石高其他』では、生野村の概況について、「高合三拾七石八斗三升六合、総人数百五十二人、家数三十五軒、街道丁場町内四町三十三間、本陣一軒、御大名御宿泊福智侯・出石侯・峰山侯・宮津侯・豊岡侯、宿屋七軒」などの記載がある。また佐藤信淵も、天保一一年(一八四〇)の『巡察記』に「当村ハ、駅場二非ザレドモ本陳(陣)及ヒ旅宿屋七軒アリ其ノ他商人多シ、農ヲ業トスル者モ有リ」「生野村ノ旅籠屋茶屋等ニハ窩賭トモ思ルル家多シ 此村近辺ニハ他領ノ者カハ知ラザレドモ必ズ宿姦アリテ時々良民マデヲ唱誘テ淵源洞(袁彦道〈ばくち〉)二陥シ入ルル事ナルベシ」と記し、さらに文政一三年(一八三〇)の『珍事箒集記』では、「生野街道毎日五千人・六千人」と、伊勢大神宮おかげ参りの群衆を中心に京街道の賑わう様子を述べている。
近世末から明治期における生野宿のようすは、今に伝える屋号などからわずかに窺い知ることができる。上図はそれらを基に宿場の復元を試みたものである。江戸時代には「宿屋七軒」「本陣」「高札場」「出張り」「蔵屋敷」などがあったが、明治六年(一八七三)には生野小学、同九年に警察分署、一〇年頃には郵便局、二〇年頃に竹田銀行生野支店ができ、そのほか人力車や馬車の乗り場をはじめ様々な店が立ち並ぶ。四〇〇㍍余の宿場町の盛況は明治になっても変わらなかった。
また生野宿の町並みや区割りが、歴史の由緒深く地理的にも好適なこの地に、計画事業として造成されたことは明らかである。『丹波志』の「生野町」の項には、「町並凡四町斗両側共間口ヨリ裏エ廿五間ヅツ一筋ノ町也」とあり、こうした計画的な縄張りの姿を、今もそのままに止めている。この意味でも、生野区は町全体が江戸時代の宿場跡であり、京街道における貴重な文化遺産であるといえる。(岡部一稔) |
『由良川子ども風土記』
生野の里と鉄道
福知山市・上六人部小四年池田太郎
社会の時間に、江戸時代の交通の勉強をした。その時、この上六人部の交通の歴史を調べることになって、前、国鉄につとめておられたおじさんに聞きに行った。その時きいてびっくりした。このへんに汽車を通す計画があったそうだ。「おしいことやなあ。昔の人はなんでもっと考えなかったんやろ」江戸時代、いやもっとまえから、この生野の里は、京街道として、さかえていたそうだ。宿場町にもなっていて、とてもさかえていたそうだ。今でも、昔本陣だったといわれる家がのこっている。江戸時代をすぎて、明治や大正になっても、人力車なんかを五十台もおいて福知山から、京都へ行くのにのりついだりする所になっていたそうだ。そんな時に、この福知山の方へも鉄道をしく計画がたてられることになったらしい。明治の中ごろの話だそうだ。京都へつなぐ山陰本線なので、昔から京街道だったこの上六人部を通らせることで計画がたてられた。
そのころ、この上六人部の村では、土師川ぞいにたくさんくわの木を植えて、かいこをかっていたらしい。今はくわの木なんか一本もみあたらないのに……。そのころはナイロンがなかったので、そのかわりにかいこのまゆから作る「き糸」や、「きぎれ」から作る「きぬ」がとても必要だったと先生からきいた。
そういえば、ぼくの住んでいる生野のとなりの部落の荻原には「グンゼ」といって、まゆから「き糸」をとる古い工場がある。今は何んにもやっていないけど、昔はこのまわりの村、みたけや、くも原なんかからもたくさんの女の人がはたらきにこられたときいています。鉄道に反対の理由は、今せっかくうまく行っているこの仕事がだめになったらかなん、ということだった。桑の葉はすすでまっ黒になるし、汽車のすごい音で、かいこはまゆを作らんようになる。村の人はまだ汽車を見ていない人もたくさんあっただろう。昔の汽車は、すごいけむりをはいていたようだし、すすもたくさん出ただろう。そして、さきざき心配してみんなで反対したんだろうな。そのころの人にしてみたら無理ないかもしれないけど……。
山陰本線は綾部を通っているので、むこうは汽車、バスの両方が通って、ずいぶんにぎやかになっている。こっちの方は国鉄バスだけが一時間に一回、二時間に一回通るだけだ。 |
伝説
郷土物語
金色の椎の実 上六人部村
丹波の生野と言へば、昔から歌にまで詠まれた名高い所で、沢山の家が軒をならべ、車が通る馬が通る、多くの店もあって大変にぎやかでした。この生野の里の北に今でも大きな森があって、そこには天紳様かお祭りしてあります。この森を袂の森と呼んで居ります。昔大神宮様が丹後の国から伊勢の国へお移りになる途中、こゝでお休みになりました。その時、お供の者が、袂に持つてゐた椎の実を捨てたのか、こんな立派な森になったのだと言ひ伝へて居ります。
いつの頃ですか、この生野の里に、みいちゃんといって、今年十になるそれはそれは気のやさしい女の子がありました。うちは貧乏といふ程ではありませんでしたが、おとうさんには、まだみいちゃんの何も知らない時分に死に別れ、おかあさんの手一つで大きくなって来ました。所か去年の暮、おかあさんがにはかに腹痛を起してから、どうしたものか、ずつとふせってばかりいらっしゃいます。何とかして早くこれを治さねばならないと、おかあさんは言ふに及ばず、みいちゃんも一生懸命です。
もう色々のお薬を差し上げましたが、少しもきゝめがありません。それどころか、だんだん病気が重くなっていくのです。考へあぐんだみいちゃんは、お日様が西の山に傾いて、生野の里を真赤に照らす頃に、お庭に出て何時もより大きく見えるお日様を拝むのでした。袂の森の方へ烏が二三羽なきながら飛んで行きます。多分お宿へ帰るのでせう。この時、じっとそれをながめて居たみいちゃんの頭の中に、ふつと考へついた事があります。
「さうた、あの天紳様にお願ひしませう。明日から朝早くおまゐりして、心をこめてお祈りしたら、きつとおかあさんの病気を治して下さるにちがひないわ。」
さう心づいたみいちゃんは、にはかに元気づいて、おうちへはいったのでした。
あくる日からみいちゃんは、暗いうちに起きて、おかあさんの病気の治りますやうに.天神様へお諸りを初めました。雨がふっても、風か吹いても、一日だってかゝした事はありません。けれども村の人は誰一人、この事を知ってゐる者はありませんでした。
いつしか夏もすんで、あちらやこちらの草かげから、よい声で小さい虫が、おもしろさうにうたひ出しました。生野の里から遠く見える雲田の田には、風の吹く度に、黄金色の波が打ってゐます。与年も豊年でせう。田畑で働いてゐるお百姓たちは如何にもうれしさうです。この頃になっても、まだおかあさんの病気は相愛らず同じ事でした。けれどもこれもまだ神様への信心が足りないからだと思ったみいちゃんは、尚一層天神様にお願ひしやうと、かたく決心したのでした。
もう全く冬になって、丹波の山々は、真白な雪にかくされてしまひました。いつもの様に朝早く起きたみいちゃんは、ひざまである雪も平気で、ざうりをはいてお宮様へ詣りました。お祈りがすんで、さあ帰らうとすると、拝殿の横の方から、へんな声がするのです。
「があがあがあがあ。」
みいちゃんは、胸がどきつとしました。
「があがあ、があがあ。」
小さい小さい声です。それがみいちゃんには可哀さうに聞えるのです。一度はびっくりしたみいちゃんも、じっと心をおちつけて、よくよく見ますと、石掛の所に黒い猫ほどのものが、うづくまってゐます。おそるおそる近よって見ますと、くちばしの平たい水鳥でした。鉄砲で打たれたと見えて、羽がひのあたりに一ぱい血がついて居ます。それが近づいたみいちゃんを見て逃げる所か、悲しさうななき声をたてゝ助けてくれとでも言ひさうな様子をするのです。
「かはいさうに。」
やさしいみいちゃんは、恐しさも何も忘れてすぐに、その可愛さうな鳥を抱き上げやうとしました。するとどうでせう。その痛さうな羽がひの中に、可愛らしい赤ちゃんを一匹抱いてゐるではありませんか。みいちゃんは思はず
「まあ、赤ちゃんを! 可愛いゝ赤ちゃん。」と叫びました。おうちへ帰るのも忘れてこの親鳥と、赤ちゃんを相手にして居りましたが、気かつくともうあたりは明るくなって来て居ます。
おうちに帰つたみいちゃんには、その日からお友達が出来ました。言ふまでもなくそれはあの水鳥です。けれどもそれから三日目に、大けがをした親鳥は死んでしまったので、あとには水鳥の赤ちゃんだけが、みいちゃんの世話で元気に大きくなって行きました。そしてみいちゃんはこれにうゝちゃんといふ名をつけました。
あの寒い冬もすんで、また暖い春がやって来ました。みいちゃんは暖い椽がはで、昨日とって来ておいたたにしを、小石でつぶしては、うゝちゃんにやってゐます。うゝちゃんはうれしさうに、それを次々に食べて行くのでした。
「まあ可愛いゝうゝちゃん大きくなったのね。いつまでも私のそばに居るのですよ。おかあさんの病気が治ったら、三人で遊びに行きませうよ。けれどまだおかあさんの病気は治らないの、私困るわ。」
みいちゃんが、お友達にもの言ふやうに言ひながら、うゝちやんを抱き上げてやると、うゝちやんはおとなしく首をかしげてみいちゃんの口もとを見つめてゐました。それから一週間たったある晩の事でした。
ぐっすりやすんでゐるみいちゃんの枕もとで
「みいちゃん、みいちゃん」
と、静かに呼び起すものがあります。ふっと目をさましたみいちゃんは、びっくりして寝床の上に起き上りました。見たこともない可愛らしい子供が紫の着物を着、紫の頭巾をかむつて、枕もとにぎようぎよく坐ってゐるではありませんか。
「あなたは、誰!」
「みいちやん、みいちゃん、びっくりしないで下さい。私はあなたに大変お世話になった水鳥です」
「えつ! 水鳥、あ、うゝちゃんなの、まあ。」
にっこりほゝえんでゐたううちゃんは、少しく顔を曇らせて、静かにお話を初めました。
「みいちゃん、長い間お世話になりましてありかたう。いつかあの袂の森で助けていたゞき、そしてこんなに大きくしていたゞきました。この御恩は決して忘れません。私が人間であったら、いつまでもあなたのおそばに置いていただけるのですが水鳥の悲しさ。今度遠い所へ行かねばならぬ事になりました。ついては御恩返しに、おかあ様の御病気の治るお薬をお教へいたしませう。きつと私のいふ事をお聞き下さい。今のお月様がまんまるくなりましたら、夜の十一時頃に、袂の森の池の端にお出なさい。そこには、この森に落ちてゐるたった一つの金色の椎の実と、たつた一枚の金色の椎の葉とを取りそろへて置きませう。あなたはそれを持って帰って、おかあさまに煎じてさし上げて下さい。一週間のうちには、きつと病気は治ってしまひますから。決して忘れないでね。ではみいちゃん、さやうなら、御きげんよるしう。」
かう言って、うゝちやんの子供は、美しいほほに流れてゐる涙をふき終ると、つと立ち上って音も立てずに、さっさと部屋を出て行くのです。今まで何にも言へずに居たみいちゃんは驚いて、
「あ、ちよつと待って、これちよつと待つてちやうだい。ね、うゝちやん。」
いくら呼んでも、ちよつと振り返っただけで知らぬ顔して出て行きます。みいちゃんはおこって、追っかけてつかまへやうと思ひましたが、これは又どうした事か、いくらもがいても足が立ちません。
「うゝちやん、お待ちと言ったら…。うゝちやんの馬鹿、うゝちやんの馬鹿、馬鹿。」
たうたうみいちゃんはふとんの上にうつふして泣き出してしまひました。
あまり大きい自分の泣き声に、目のさめたみいちゃんはびっくりしました。あたりはもう明るくなってゐます。では夢を見たのかと思って飛び起きるとたんに、ひざからはらはらと落ちたちたものがありました。よく見るとそれはうゝちやんの羽の色とそっくりな一枚の鳥の羽でした。その晩かもうゝちやんはほんとに居なくなってしまったのです。みいちゃんは、がっかりしましたが、それでもあの晩の約束はほんとうの事だと信じてゐるので、お月様のまんまるくなる日が待ち遠しくて、指折り数へてたのしんでゐるのでした。やがてその日がまゐりました。いそいそしながらみいちゃんは約束の時間にはもうお社の裏の池についてゐました。あたりをすかして見ながら、もしやうゝちやんが来ては居らぬかと思ひました。大きい木の間からもれて来る月明りに池の附近を一生懸命に探しましたけれども、うゝちやんらしい姿も一向見えないし、又お薬のありかも知れません。
「困ったなあ。」
みいちゃんは溜息をついて大きい木を見上げました。葉の間からは美しいお月さまのお姿か拝めます。しばらくこれに見とれて居たみいちゃんが、又何心なく池の岸に目を落しました時、ぴかっと強く光ったものがあります。みいちゃんは思はずその方へ駈けよりました。
「あったあった。金色に光ってゐる!」
みいちゃんはもう夢中です。そこにはほんとに金色に光った椎の実と、椎の葉とがぎやうぎよくならべてあるではありません
か。もううれしくてうれしくてたまらなくなったみいちゃんは、そのお薬をにぎりしめて、
「ありがたうありがたう」
とくり返しながら、何度も何度もほゝづりをするのでした。
その頃、みいちゃんの居る後の方の木蔭から、羽音を静かに立てゝ、そつと飛び立った鳥がありました。多分みいちゃんが、お薬を見つけたのをみて安心したうゝちゃんが、遠い国へ旅立ったのでせう。けれど大変喜んで夢中になって居るみいちゃんは少しもそんな事は知りませんでした。やうやく我に返ったみいちゃんは
「うゝちや-ん、うゝちや-ん」
あたりを見廻しなから、かう呼んで見ましたが、何の音もありません。唯みいちゃんの声が森にこもり社殿に当って、馬鹿に大きくひゞくだけでした。
うゞちやんの言った通り、みいちゃんのお母さんはそれから一週間も立たぬうちに元気になって、みいちゃんのお内にはほんとうにうれしい日がつゝきましに。けれども其後何年たっても、あの可愛らしい、うゝちやんは再び帰って来ませんでした。
みいちゃんはうゝちやんの残して行った一枚の羽を何時までも何時までも大切にしまっておきました。
(『天田郡志資料』) |
一つくらいは金色の実もあるかもと…
生野の小字一覧
生野(イクノ)
大谷 大谷口 上ノ小池 才官 新切 堂木 中之切 西坂 西側 西山根 東側 冷田 丸畑 宮ノ越 宮ノ前 山之神 柳谷 才官
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