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今西中(いまにしなか)
京都府福知山市夜久野町今西中


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京都府福知山市夜久野町今西中

京都府天田郡夜久野町今西中

京都府天田郡下夜久野村今西中

今西中の概要




《今西中の概要》

井田から北へ府道707号小坂青垣線を2キロばかり入った谷間の農業地。南北に長く延びる村で、長洲(須)(ながす)・角垣(すみがい)・小田垣(おだがき)・大坪・南の集落に分れ、かつては井田村と一村であったと伝える。
南北朝期に足利尊氏の母・上杉清子が寄進して成立した安国寺領夜久郷内今西村は当地(含・井田)に比定される。
今西中村は、江戸期~明治22年の村。福知山藩領。
明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年下夜久野村の大字となる。
今西中は、明治22年~現在の大字名。はじめ下夜久野村、昭和31年からは夜久野町の大字。平成18年から福知山市の大字。


《今西中の人口・世帯数》 182・66


《主な社寺など》
今西中遺蹟
小田垣の別当山に古来経塚と伝える所があり(今西中遺跡)、大石で蓋をした小石室から素焼経筒一と黒色皿・銅経筒が出土したという。

今西中長須塚古墳一基
所在 今西中長須大江喜一氏宅地内
形態 封土は流出して全然なく、積石天井石ともに地上に残っている。その巨石五箇、その最大なるものは長さ、二・八米、幅一・五米にも及ぶ。側壁の積石は一方に八箇、他方に七箇あり、何れも巨石で見事な庭石になっている。玄室と推定される部分は奥行約六米である。
(『上夜久野村史』)

今西神社
今西神社(今西中)
大智寺の下隣に鎮座。小田垣の氏神は三宝荒神と八大荒神、角垣・長洲・大坪・南の氏神は大歳明神であったが、それらを一つに合祀した社。
今西神社(今西中)
祭神…スサノヲノミコトほか
昭和21年5月、大年神社、武神社、三柱神社を合併合祀し「今西神社」と改称する。
除夜祭…壌内に明りをつけ、篝り火を焚き暖をとる。
春祭り…宮司により典儀。
秋祭り…子どもによる俵積み御輿の巡行。休み所で大人が太鼓を打つ。神社下の広場で奉納スポーッ大会(風船割り、メディシングポール、酒買い競争、バン食い競争など)。
餅搗くき大会、いか焼き、そば焼きなどもある。
(『夜久野町史』)


臨済宗南禅寺派慧日山大智寺
大智寺(今西中)

慧日山大智寺 今西中村
猪崎村醍醐寺末寺開山前住南禅惟宗和尚
境内  本堂 庫裏
此寺宝暦年中迄ハ村中ニ在之月澗茲周僧今ノ地ニ引
(『丹波志』)

恵日山 大智寺 (臨済宗) 同村今西中
本尊 釈迦牟尼仏 開基 南禅惟宗和尚 創建 永承年中
本源山覚道寺は字、先の段に七堂伽藍の古址あり、本尊阿禰陀如来、天喜五年九月九日、大風雨にて破壊しければ字長須に雲龍山円福寺を再建す、宝暦九年月湖和尚再建すと、(以上郷土史料)郡新四国第三十番の札所。
(『天田郡志資料』)

慧日山大智寺 今西中
『丹波志』・『寺院明細帳』によると臨済宗南禅寺派、醍醐寺(福知山市猪崎)の末寺。明応九年(一五〇〇)創建、いったん廃絶したのち、元文元年(一七三六)に再興、『丹波志』によると宝暦年中(一七五一~六四)までは村の中にあったが、その後現在地に移ったと伝える。
(『夜久野町史』)

大智寺阿弥陀堂
阿弥陀堂(大智寺)
大智寺の右手に阿弥陀堂がある、岩戸の威徳寺観音堂のような古い仏像が収納されているという。こんな案内板がある。
阿弥陀堂の案内板
大智寺仏像群
福知山市指定文化財 彫刻
 破損仏像群 阿弥陀堂内の棚上に脚部や顔面が朽ち午12躯の仏像が一列に安置されています。尊像は如来像1、地蔵立像2、菩薩立像4、天部立像4、像種不明の像1です。いずれもヒノキ材で如来像のみ内刳が施されますが、他の像は一木迫りです。構造・様式から、ほぼ゛10世紀から11世紀にかけての制作と考えられます。
 木造天部立像 尊像名は不明ですが、髷を結い、鎧を着け右下方をにらみつける天部像です。頭頂から磐座まで全てヒノキの一材から彫出されており、表面に彩色の痕跡も認められますが、風雨に曝され風化が進んでいます。彫が深く、作りの大きい頭部、生々とした体の表現と丸彫りされる技法などから10世紀の制作と考えられる天部像の優品です。
 阿弥陀如来坐像 大智寺阿弥陀堂の本尊で、半丈六の座像です。右肩に衣を着して右手を胸前にして来迎印を結び、左足を上にしています。ヒノキ材の寄木迫りで彫眼、身は金箔を押していますが衣部は現在古色になっています。穏やかな表情、撫で肩の優しい姿、浅い衣文線などから、制作は平安時代後期と考えられます。お顔の彫り直しなど、後世の手が加わっていますが、この時期の大像として貴重です。平成22年3月  福知山市教育委員会


大智寺(今西中)阿彌陀堂仏像群
「金谷威徳寺仏像群に基づく考察」
この阿弥陀堂は大智寺本堂右裏手高台にあり、弾宗大智寺よりも歴史的に古い存在であったことが、同寺にある「本源山学道寺本尊阿弥陀如来之由緒」にみえている。昭和四十一年(一九六六)大智寺の客殿や境内庭園の新築、整備が行われたとき、阿弥陀堂も修築され、破損仏は、欄間に安置されたもので、それ以前には十三躯の仏像は床下、床上に転がっている状態で、その荒廃ぶりはひどいものであった。これが大智寺檀家一統によって文化財としての価値を認められ、堂宇の修築に合せて、諸仏の安置がなされたことは、文化財保護の立場から、まことに喜ぶべきことである。古代を語るこの諸仏像は、さきに福知山市によって調査されている金谷の岩戸の諸仏像群と類似しているので、両者を共に調査に当てられた京都府教育委員会文化財保護課記念物掛長中野玄三氏の著「威徳寺の仏像」に基づいて記していきたい。
『金谷、岩戸の威徳寺は観音堂と行者堂より成る無住の堂宇で、僅かに残るこの堂宇の中に十世紀から十二世紀にかけて製作されたとみられる仏像が、およそ百躯安置されていて、一つの驚異とされている。』
今西中大智寺阿弥陀堂にも本尊仏阿弥陀如来坐像一躯(像高百四十八糎)のほかに十三躯の一本造り破損仏像があり、その造立の年代作法、破損等、威徳寺と極めて類似している。このことは、今西中の阿弥陀堂が、(由緒書によれば永承年中(一〇四六-一〇五三)創建の本源山学堂寺であるが)何等かの関係を持っていたのではないかとも思わせるものである。以下中野氏の記によれば、
『威徳寺観音堂は正面三間、奥行四・五間、奥の一間通りを内陣とし、三室に分け、三群の仏像を収めている。中央間は千手観音と四天王像で中心をなしている。右の間には像高百三十六糎の如来坐像が安置され、他に百六十糎から二米を超える勢至菩薩、天部形、四天王の立像四躯が台坐を失ったまゝにおかれ、本来の像でないことは左の間の諸仏と同じであるが、風化の度合はそれ程でない。左の間には、百三十糎以下の小像が、風化で甚だしい損傷をこうむったまゝ、百十二躯ぎつしりと並んでいる。これ等観音堂本来の仏像でない左右間の諸像は如何様な経過を辿ってここに集められたものであろうか。』
『福知山市三岳の威光寺は威徳寺と同宗の真言で、ここに古記がある。応永、天正、慶長、元和、寛永の各時代の制札や奉行所に差出した一札の記であるが江戸時代の書字である。威徳寺に関するものは、
○為兵火、天文四年(一五三五)冬十月今安威徳焼亡ス威光寺モ焼亡スト言言。
とあり管領細川高国の支配下にあったので、高国が尼ケ崎で死ぬと三好方の衆が侵入、その兵火のために今安、威徳、威光の三寺が焼亡した』と。
『天正七年(一五七九)明智殿国中平均被成、福知山城御普請近境寺院ヲ潰し取、不塔 を運セ御取被成候、此節今安寺中、威徳寺中、没申候是者御平均之節、両寺僧侶御敵対御成儀有之御悪ミも御坐候由申伝候
とあり、威光寺は住持が明智の軍使妻木某と同じ濃州の出生で難を免れた』と。
『今安、威徳三拾六ケ寺迷乱之至也、依而今破脚田畢、威光寺者法威忠良至也、本院本堂早可有修造之吠被迫出畢、仍而山林竹木免許之制札賜所如件』
光秀が石塔の供出を命じたことは今に残る話しであり、城壁にもその墓石をみることが出来る。従わざる輩を一網打尽に破却したときの被害寺三十六ケ寺の仏像が、或期間雨露にさらされ、現在の安住の地をみつけたであろうことは仏像群の破損の状態が物語っている。
しかしここで中野氏の提起されている疑問は、
『①百躯もの仏像がすべて、十世紀から十二世紀の古像であることは、
『②一米以下の小像であることは、
『③威徳寺と同じ運命を辿って破却された三十六ケ寺は、同じ真言寺院が多かったであろうし、また同宗の寺院の仏像が運びこまれた可能性は大きいのに、密教系仏像が極めて少いことは、
……この地方の一般的傾向であったとしても、
④また十二世紀以降天正七年の破却にあうまでの間に造立さされた仏像のみられないことは。』
以上のようであるが、同氏のこれに対する考察は次のようである。
『多面多臂の複雑な密教像や寄木造りの大きな像などは、天正七年(一五七九)の光秀の破却のときに、或はそれ以後に、これ等仏像の上にもたらされた悪い環境のもとで、すぺて滅び去ったのだ』と。
『また十三世紀以降の仏像は小仏像でも寄木の傾向がつよいので、すべて消滅し去ったものだ』と。
ここで今南中大智寺の仏像にかえってみると、ここの一木造り十三躯の仏像の甚だしい損傷もまた天文四年(一五三五)の三好方のおこした戦乱で学道寺が威徳寺と同様に兵火をこうむったか、天正七年(一五九七)の光秀破却によったものか、何れかにより、或期間雨露のもとに放置され、後にこの阿弥陀堂に安住の地を得ていたものであろうか。当地は応仁の乱(一四六八)の夜久野合戦でも、大規模な戦火を受けているので、このことも併せ考えられるところである。
『威徳寺観音堂中央間と右の間の大きな仏像は、威徳寺近辺の寺にあったとおもわれるが、これ等が何れも地方仏師の作であることは何を物語るか。』
同様に名作とされる宮垣(直見)薬師堂仏像(重文)はじめ夜久野の古代仏像のすべてが地方仏師の作であることは、この疑問の中に含まれるものである。
『これは主要堂宇に安置される仏像の製作には、中央仏師の関与が許されなかったことを表していよう。おそらくこの地方では寺院と仏師の結びつきが強く、寺院が外来者である中央仏師に大きな仏像をつくらせることが出来ないような封鎖的な社会が形成されており、小数グループでやってきた中央仏師には設備のよい工房もなく、道具、材料も思うにまかせられない事情があり、大仏がつくれなかったことが考えられる』と。
兜跋毘沙門天像について
『四十~五十糎の小像で、おのおの異った特色を備えている。』
『その一は……唐風の兜をかぶり、外套の様なものを着け、胴をバンドで締めている。その服制はおそらく東寺(教王護国寺)像の服制を簡略化して表わしたものであろう。風化のために顔の造作が定かでないが、あごの張ったようすから粗野な風貌をした像であったらしい。足下には両手で毘沙門天の両足を受ける地天だけが表わされている。』
『その二……兜にはもと、前面に鳥形をつけていたらしい。このことや、まなじりの上った目を彫り出している点は、東寺像を部分的に写したあとが認められる。』
『参考になるものに氷上郡の達進寺の仏像群がある。その数約八十躯の中に兜跋毘沙門天が実に十六躯もあり、学者の注目するところとなっている。このように両寺合せて二十躯の兜跋天のあることは、本仏に対する特別の信仰があったからと思われる。
最近地方にあるこの像の報告に共通するものは異国との境に置かれて、外敵の侵入を撃退する守護仏として信仰されていたことが考えられる。
即ち金谷の威徳寺のものは但馬に対し、氷上の達進寺のものは播磨に対しての護りであったとのみ方である。』
今西中、阿弥陀堂に安置されている破損仏像十三躯の辿った今日までの過程は金谷岩戸の威徳寺仏像と大体同じであったろうし、兜跋毘沙門天についても、当地が但馬に接する丹波の最辺境であることから、辺境守護神として、同所か近辺の何れかの寺院に安置されていたものの一つであろう。
(『上夜久野村史』)


《交通》


《産業》

下夜久野今西中には鍋師のあったことや鍛治神社のことが古記にあると、畑のたたらとの関係が考えられる。
(『上夜久野村史』)

・御所鉱山[夜久野町字今西中]
産出鉱物 瀬戸谷鉱床:閃亜鉛鉱・黄鉄鉱
今須谷鉱床:黄銅鉱・磁硫鉄鉱・黄鉄鉱・硫砒鉄鉱
東谷鉱床:黄銅鉱・磁硫鉄鉱・黄鉄鉱
(『夜久野町史』)


今西中の主な歴史記録


長須古墳
所在地 今丙中(長須)
遺跡 今西中集落の中程、小字長須の丘陵裾に位置する。
遺構 古墳の墳丘は、封土が流失しているために規撲等は不明。露出している横穴式石室は、長さ五・九メートル、幅三・四メートル、高さ(現存高)一・五メートル。石室内翻は土砂で埋まつているため、高さは不明、天井石は五石、側壁は五石である。

先ノ段古墳
所在地 今西中(先ノ段)
遺跡 今西中集落の南端に位置する古墳。
遺構 石材が散乱していることから、横穴式石室を埋葬主体とする古墳であることがわかるが、墳形や規模については不明である。

小倉田古墳
所在地 今西中(小倉田)
遺跡 今酉中集落の南端、府道小坂青垣線沿いの丘陵据に位置する古墳。
遺構・遺物 古墳が全壊しているため、遺講について全く不明であるが、双頭環頭太刀柄頭が出土している嵯。(京都国立博物館保存)
(『夜久野町史』)

月渓和尚さん(今西中)
今西中に、昔月渓和尚というえらい坊さんがいた。
藤助という人が亡くなった葬式の時、和尚は引導を渡すのに、俄かに大声を張りあげ「昨日までは藤助今既に大仏となる、みな冠ものをとれ!」と一喝して引導を了った。
和尚が寺に帰って休息していると、庄屋と寺役の二人が、早速羽織袴でやってきて、「先程は寒さにかこつけ、冠ものを取らぬやからがおりまして申し訳ございません。何卒お許し下さい」と頭を畳にすりつけて申し訳をした。その時和尚曰く「ああ、そのことか、あれはな、わしも一杯頂きすぎておってな、一番しまいの引導の一句をど忘れしてしもうた、その時ふと向こうをみると、穴掘り連中が頬かむりをしたままなので、これこれと思いついていうたまでじゃ。でもしかしながら、人間最後のお送りをするのじゃから、みんなよほど気をつけてもらわねば、仏はもちろん、われわれお互いのためにならぬものじゃ」と答えた。
またある時、寺の庭に梅の木を植えるのに、村の衆に三、四人手伝ってもらいたいというと、その日になって十四、五人の人が手伝いにきた。木を植え終わって、和尚が、「まあお茶がわりに」と出したものをみんなが飲んでみると、酒ともいえず、水ともいえず、とても水っぽいものだったので、お互いに妙な顔をして眼ばかりはちくちやっていると、和尚「わっはっはっは、みんなそない妙な顔をしなさんな、三、四人で手伝って貰えるつもりで一升買うておいたところ、ごらんの通りこない大勢きてもろうた。それでみんなに行きわたるように杓に四、五杯水をまぜたんじゃ。それ、人を増せば水を増せというではないか」といったので、みな腹をかかえて笑った。(下夜久野村誌刊行会『下夜久野村誌』)
《シリヒキマンジョ(今西中)》
村境付近の川などで深い淵となって渦を巻いているところには、シリヒキマンジョというもんが住んでいて、そこで泳いでいたらケツから噛み付かれ、深みに引きずりこまれると伝えられている。
《今西中のカナゲと岩座の狐》
今西中は長須と角垣の境、地名をカナゲといい、小田垣と井田の境を岩座と呼んでいる。この村境の小道を夜更けに通ると、決まったように崖の上からパラパラと砂が落ちて来てドキッとさせられたもんじゃったという。カナゲや岩座を通るときは気いつけいや、狐が砂をかけるさかい。いつしか誰言うとなく、村の人たちの合言葉のようになっておった。
(『夜久野町史』)





今西中の小字一覧


今西中(いまにしなか)
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『夜久野町史』各巻
その他たくさん



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