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猪野々(いのの)
京都府福知山市猪野々


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京都府福知山市猪野々

京都府天田郡金谷村猪野々

猪野々の概要




《猪野々の概要》

国道9号から牧川を渡りJR山陰本線をくぐる、南岸の段丘上に集落がある。北岸の池ノ内は近世から近代にかけて出戸形成された集落であるが、旧金谷村の中心地で、金谷郵便局・金谷小学校などがあり、また昭和50年完成した鴨野住宅団地がある。
猪野々村は、江戸期~明治22年の村。牧川の南の段丘上に本村集落、左岸に枝郷の池ノ内がある。福知山藩領。明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年金谷村の大字となる。
猪野々は、明治22年~現在の大字。はじめ金谷村、昭和30年からは福知山市の大字。地内の池ノ内は田和・宮垣からの国道9号への出口にあたり、明治22年役場(現農協金谷支所)が設置されるなど地域の中心集落となっている。

《猪野々の人口・世帯数》 247・77


《主な社寺など》

二宮神社
二宮神社(猪野々)
元は宮垣岩戸の一宮神社境内にあったが、分村に際してここに村民たちと共に引っ越してきたという。その一宮神社は、祭神大己貴命で出雲大社の御分霊を奉祀したものという。こうした伝えが正しければ金谷村は出雲系の人達の開発になるのだろうか。
二ノ宮大明神 上小田村猪ノ野村 産神
祭神   祭礼九月十五日
本社七尺上家有
境内十間ニ廿間 山林 下田一畝歩村除
(『丹波志』)

村社 二宮神社 同村字猪野々鎮座
伝えいふ。当社は一条天皇の御代大和国高市郡の社の御分霊を奉祀す時に正暦二年もと字宮垣なる一宮神社の末社にましましを正暦五年九月九日分村に際し下小田村の内和田山に奉祀す。其後社殿の北面なると境内の下小田村に在るを以て慶長九年九月十五日此地に奉移す爾来此日を祭日と定めき
社殿、流造、唐破風、三方橡勾欄柿葺く、 境内百五十八歩
末社 稲荷神社  祭日十月廿日、夏祭土用入の日

一宮神社(宮垣)。当社は清和天皇貞観三年九月出雲大社の御分霊を奉祀す。或は云梅谷八幡神社、猪野々二宮神社、田和有徳神社はもと一宮神社境内末社にして当時宮垣村と称せりと。後正暦五年の分村に際し各村名を選び該三社をも当社と分離して奉祀するに至れりと云。
(『天田郡志資料』)


安養院(あんにょういん・真言宗御室派長沢山安養院滝水寺)
安養院(猪野々)

本尊は十一面観音、行基の開基、本尊はその作という。古くは村の南方檜尾(ひのお)山の麓にあり、古跡は通称滝山馬場の段といい、本堂・仁王門跡の礎石が残る。移転時期不詳。
文化12年経域上人により再建された堂宇も、明治20年近隣の民家25戸とともに類焼した。その後、明治23年旧福知山城内御下屋敷の建物を購入し庫裏を建設、同32年西中筋村観音寺の補陀落山観音寺塔頭多聞院の建物を譲り受けて方丈を建てたが、破損がはなはだしく昭和55年解体された。

長沢山安養院 真言宗 猪野々村
本山高野山本寺仁和寺開山行基
境内廿間ニ十間村除
本堂十一面観音五間 方丈七間五間 庫裏四間六間
長屋六間 隠寮 鐘楼 鎮守
郡内巡礼廿三番札所
(『丹波志』)

長沢山安養院 瀧水寺  (真言宗) 金谷村字猪野々
 本尊 十一面観世音菩薩 (三十三年毎に開扉)
 当寺は人皇四十五代聖武天皇の御宇天平中行基菩藤の開基にして本尊は実に其御作と伝ふ、往古は檜尾山の麓(瀧山馬場の段とて今猶礎石、仁王門、本堂址等あり)に在りて七堂伽藍を完備して真言の教旨を発揮せり。爾来世遷り時変り幾多の災変に遭ひ現在の地に移れり。かくて宝永四年住僧盛算上人、堂宇の腐朽廃頽を憂へ再建を企て正徳四年竣成、其後文化十二年経城土人の世に至り、精舎復に大破したれば本堂、方丈、鐘楼、仁王門等を再建、殊に仁王門は附近に稀有の荘麗堅固と称せらる。然るに明治二十年三月廿九日近隣の民家失火し、廿五戸と共に延焼の惨禍に罹れり。当時の住職は森田義朝師なり。俗に池ノ内の大火と呼べり。爾来檀徒と協心勠力復興に精進し、明治廿三年、旧福知山城内なりし建物を購ひて(これは旧御下屋敷にありしを、今の憲兵隊の所に移して裁判所とされし建物)仝三十二年西中筋村観音寺なる多聞院の建物を譲受け現在の方丈とせり。斯る災危の中にも本尊十一両観世音菩薩のみは無事なるを得たるは、詢に霊験顕著なるを想ふべし。
鐘銘(略)
境内建物、方丈、庫裡、倉庫、納家、鐘楼、鎮守堂
讃仏及修養、大師教会支部、大正九年十一月設置、誠心会、大正十一年九月設置 洗心会(生花)昭和二年四月
両丹西国第二十三番、郡新四国三十五番の札所、
 御詠歌 里の名は猪野々伏す猪やとことはに栄ゆく法は長沢の山
昭和大礼記念事業 檜苗五千株植付
檀家 百六十戸   現住 権少僧都勲七等 森田義淳師
(『天田郡志資料』)

行基開創伝承になるものとして、現存している古刹には、猪野々の長沢山安養院があり、真言宗御室派に属し、本尊は十一面観音で、三十三年毎に開扉する。もともと桧尾山麓にあったものが現在地に移った。山岳仏教の系統を引くものとして位置づけられる。同系統のものとして、梅谷に見瀧山青蓮寺がある。
(『福知山市史』)


《交通》


《産業》


猪野々の主な歴史記録


郷土物語
  火災除け観昔 金谷村
 遠くには龍ヶ城、愛宕の山々を望み、眼下には年中清らかな水がさらさらと流れてゐる牧川のせゝらぎの音を耳にして、其のあたりには春より夏にかけて月見草や、河原撫子等の草花が咲きみだれて美しい眺めのところ、河辺から少し離れて、こんもりと緑の森におほはれてゐる二の宮神社の近くの.小高い所にお寺があります。
 こゝは金谷村字猪野々の地で、このお寺を安養院と呼んでゐます。
 安養院は人皇弟四十五代聖武天皇の御代に、僧行基の創立せられた寺院です。十一面観世音は、寺をお開きになった時の御作であります。其の頃の寺は檜尾山の麓にありました。其處は瀧川馬場の段といふ所で、山又山で囲まれた小高い平地であり
人家からもかなりはなれてゐて、当院の外に数ヶ寺あるだけで淋しい感がしました。又此處には美しい白銀の帯のやうに流れ落らてゐる二つの瀧があります。そして全山紅葉の頃は一入美しい眺めです。
 当院は此處に七堂伽藍を完備して、金谷村並に上川口村上小田を寺の領地として、盛に弘法大師のお開きになつた真言の教をひろめてゐました。今では其の瀧の附近に不動明王をまつる社をたて、部落の信者は毎月二十七日におこもりをしてゐます。
 お話はずつと昔の事になります。寺には長沢といふ武士を頭にして数人の寺武士が、此のお寺を守ってゐました。そして何時も馬場に出て馬乗や、弓の練習をしてゐました。本堂の裏に一つの大きな池かあって、其ほとりに黄金色の実のなる珍らしい木が一本生へてゐました。
 所が不思議な事に或時ふと其の実が一晩に一つづゝなくなるのに気かつきましたので、住職は大そう驚かれて其の夜から寺武士を交代に番をさせる事にしました。初の晩にあたった武士は夜か更けろと、だんだん眠くなってきて居眠りしてゐる間に又一つなぐなってしまひました。次の晩は二番目の武士でしたが此の武士も夜中になると、ぐっすりと寝込んでしまって朝まで何事も知りませんでした。で、黄金色の実は矢張一つなくなってゐました。次の夜は三番目の武士の番です。此の武士は決して眠らないやうに気をつけてゐました。所が夜も更けて十二時も過ぎたと思ふ頃、ザーと風が吹いて来ました。「はて怪しい事」と思って、武士は用意の弓に矢をつかへ様子をじっとうかゞってゐますと、空から羽根も体も黄金色の鳥か一羽下りて来て其の木に止まりました。そして黄金色の実の一つを今啄まふとした時、武士は狙を定めて、「ひゆー」と射かけました。すると其の矢は烏の片羽根にあたったので、烏は驚いて飛たちましたが其の時黄金色の美しい羽は矢と一緒に落ちて来たのです武士は明朝住職を初め寺武士に其の美しい羽を見せて、昨夜の話をしますと住職は、「その世にも珍らしい烏をとりたいものだ。」といはれてこんど来たら何とかして其の鳥を捕へやうと考へてゐましたが、其後黄金色の鳥は何日たっても遂に姿を見せませんでした。それからよく調べて見ると其の美しい鳥は龍ヶ城といふ城にゐた鳥だと言ふ事かわかりました。
 其後世の中が次第にみだれて来て幕府の勢は大そう弱って来ました。地方の武士等は強い者を主人にして、土地の奪合に日を送るやうになりました。中でも識田信長は一番先に上京して天下に号令するやうになりました。信長の家来に明智光秀といふ武士があって度々戦功を立てたので、主人の信用を受けて益々職田家の爲に忠実に働いてゐました。それで信長は光秀に丹波の国を与へました。其後光秀は丹波の国を平げて城を亀山に築いて、尚福知山に陣屋を営む事になりました。其時地方の寺院をつぶし用材、石塔等を持ち去って陣屋を作りました。
 此の時各寺院の住職は光秀の政を施すのに反対し、又寺院の用材にて陣屋を営む事に反対しました。其の時分に安養院は金谷村並に上川口村上小田の領地を合せて二千石の高かあったので、光秀はこれも全部手に入れ様としましたが、寺としてもこれを光秀の手に渡す事は出来ません。
 それは天正四年春の初頃でありました。何時もの様に寺武士は馬場に出て馬乗や、弓術の練習をしてゐますと、俄に「ワァワァ」といふ人声がして騒々しくなって来ました。それで寺武士の一人か何事が起ったのであろうと構子を見ますと、これはどうでせう。沢山の旗を風になびかせながら明智光秀の軍が寺へ攻め寄せてくらではありませんか。あわてゝ急を一同の者に告けましに。何といっても不意に攻め寄せて来たのですから、防ぐ準備もする間がありません。長沢等数人の寺武士はそれでも少しも驚かず「たとひ明智の軍が攻め来るとも恐るゝに及ばない。」かういつて身仕度をして待ってゐますと、間もなく明智の軍が閧の声を張り上げて押寄せて来ました。先に立った頭らしい一人の武士が大声で「早く攻め寄せて寺に火をつけよ」と命じてゐるのがよく聞えます。寺武士等は寺に火がついては大変と一生懸命になって防ぎ戦ひましたが、何といっても明智の軍は沢山ゐるし、こちらは少ない数人の寺武士ではどうする事も出来ません。そぞれ矢きず、刀きずを受けました。遂ひに明智の軍はお寺に火をつけて炎々と燃え上るのを見て此の地を立ち去りました。
 此の時の住職俊範上人は身を以て本尊様をおまもりして一時奥山に避難せられましたから、お寺は丸焼になってしまひましたが、本尊様は無事でありました。そして黄金色の実のなる不思議な木も火災の爲に遂ひに枯れてしまひました。
 瀧山馬場の段にあった寺は明智の軍に攻められて遂に焼けてしまったので致し方なく今の所へ移る事になったと言ひ伝へてゐます。其後別に変つた事もありませんでしたが、明治二十年三月池内に大火災が起りました。そして池内部落は全部焼けてしまひました。其時に北風が大そうはげしかったので牧川をへだてゝゐる猪野々部落に飛火して、又遂にお寺は焼けてしまひました。そこで住職義朝上人は檀徒と力を合せて福知山城内天守閣評定所をゆづりうけて庫裡にし、西中筋村観音寺塔頭多聞院の建物を移して今の方丈としたのであります。
 御本尊の十一面観世音は昔から度々炎災にかゝつてゐますが、何時も難をのがれてゐますので、当地方では火災除の観音として名高く遠い所からも沢山参詣します。
(『天田郡志資料』)

安養院(猪野々)
現在の安養院↑



猪野々の小字一覧


猪野々(イノノ)
尼丘ケ段 アゴデン 井根林口 市ケ島 池ノ谷 猪ノ坂 一丁田 梅谷 後岶 大川原 大畑 大戸田 奥ノ谷 奥地 伯父谷 扇 片山 川原田 鴨野 金焼 上路 キシノ下 木戸岩 崩谷口 小島 荒神 五反田 笹 坂ノ下 界ケ尾 サコ田 白毛 椎ノ倉 城ケ越 霜谷 セチゼン 高畔 滝ノ下 タハ タセ 地蔵ノ下 付出 天神 堂ノ前 堂脇 中島 中路 中川原 中ノ坪 ナラケ岶 西 仁王坂 花ノ木 橋ケ谷 馬場段 バハコ 日尾 樋ロ ヒハダカセ 袋谷 前田 町田 孫畑 廻リ マトバ 宮ノ本 宮川原 見取 見通田 柳谷 柳ケ坪 柳ケ岶 屋敷ノ上 屋敷ノ前 薬師ノ上 薬師ノ本 薮ノ下 失名谷 行沼 嫁ケ尾 屋敷ノ浦 多世 才ノ谷 小市川原 薬師 屋敷ノ下 丁田 井根林 スリ石 西原 山田 柳ケ岶口 行沼 井上 井根山 井根林 家ノ上 市ケ島 猪坂 上路 後岶 扇 奥谷 老ケ岶 鴨ノ坂 片山 金焼 岩切 霜谷 霜笠 霜島坂 下白 城ケ越 高坪 タセ天神 堂ノ脇 西ケ奥 猫田 橋ケ谷 馬バコ 深岶 夫名谷 袋谷 廻リ 宮ノ谷 三谷 山田 山鬮 薬師ノ上 行治 樋ノ口 丁田 スリ石 屋敷ノ下 下谷 小市川原 山鬮西側 堂ノ郷 榎木ケ岶 米山 三谷白毛 鴨後

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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