丹後の地名プラス

丹波の

石原(いさ)
京都府福知山市石原


お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。


京都府福知山市石原・東平野町・南平野町・北平野町・西平野町

京都府天田郡西中筋村石原

石原の概要




《石原の概要》

JR山陰本線の「石原駅」↓のある一帯である。
石原駅
このへんは田んぼだったがなーという所に新しい住宅が建ち並び、道も新しくなり昔とは様子が違っていて、古い人間を戸惑わせる。
南側は長田野台地で、その北麓の東西に走る綾部街道や鉄道沿いに集落がある。駅の西から南の長田野へ続く道は旧竹田街道(氷上郡市島町竹田へ続く道、姫路街道・広峰街道)である。その交点の重要な場所になり、そのあたりには市場があったという。
古代は雀部郷、中世は松尾社領雀部庄の地で、乾元2年(1303)4月30日付けんによ議状(松尾大社文書)に「さゝいへのしやうのうちいしわら(石原)ハ、せうしやうう(惣庄)一こ(期)ののちにハ、そうしやうにつくへき物なり」とあるのが地名の初見。
石原村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福知山藩領、元禄8年から柏原藩領。明治4年柏原県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。。同22年西中筋村の大字となる。
石原は、明治22年~現在の大字。はじめ西中筋村、昭和24年からは福知山市の大字。明治37年阪鶴線(JR山陰本線)が開通し、石原駅が置かれた。第2次大戦中には北部に飛行場が設置された。同49年一部が北平野町・西平野町・東平野町・南平野町となる。

普通はイサと呼ばれるがイシハラ・イシワラとも呼ばれる。イは接頭語で、サの村という意味で、ササキなどとは同じ意味、雀部と意味が繋がるが偶然なのかどうかは不明。古い地名ならば石が転がっていたから、とかいったようなものではなかろう。


《石原の人口・世帯数》 1896・782


《主な社寺など》


平野古墳群
石原遺跡
石原遺跡現地説明会資料

一品神社
工業高校の下に鎮座。
一品神社(石原)
案内板がある↓
案内板
一品神社由来
本殿(四社)
一品神社 若宮神社 日吉神社 厳島神社
祭神(六柱)
高皇産霊命(国造りの神) 誉田別命(武勇の神) 火産霊命(火の神) 大年神(豊作の神) 大己貴命(病気治癒の神) 市杵嶋姫命(水の神)
一品神社は元来一社と境内社疫病神社であったが、明治四十一年地区内の小神社三社を合祀し四社とした。
疫神社はその他境内社(小林神社・八坂神社)と合祀し疫除神社と改称して境内神社とした。
創建
一品神社は建徳元年(南北朝時代)に鎮座
貴船神社
祭神(一柱)高オカミ神(火の神)芸術・染色海外出張の守り神ともいわれております。
この神社は明治三十六年に市場から一品神社境内に移し境内神社とした(本殿四社に合祀せず別の神殿を建営し鎮座した)
大祭 古来十月十日 現在の体育の日
小祭 一月三日  歳旦祭
    二月三日  節分祭
    二月二十日 厄神祭
    七月七日  夏祭
    九月十五日 若宮祭
    当渡し式  古来は十二月第一日曜日
                   一品神社護持会

あまりよくわからない。
『両丹地方史36』(82.11)の「福知山石原の宮講について」(綾部史談会・川端二三三郎)、
石原村には四つの段があり、市場は貴船神社、上地は厳島神社、下地は若宮神社、西地は日吉神社をそれぞれ祀っていたが、明治二十三年遷喬校の移築に伴い貴船神社が一品神社に合祀された。ついで明治四十一年には政府の神社統合策をうけて他の三社も一品神社に合祀された。現在はかっての一品神社の宮講と段ごとの小祠の祭祀を兼ねたような形でうけつがれている。なお当人によって耕作されている御供田(二畝)は今も不浄を忌み「牛入らず」とされている。

正一位一品大明神 石原(ヰサ)村
祭神   祭礼
本社巳向 籠屋 華表石
境内凡廿間ニ四十間
(『丹波志』)

村社 一品神社 同村字石原鎮座
祭神 伊佐奈伎尊、伊佐奈美尊
草創  祭日 氏子
(『天田郡志資料』)

『ふるさと石原風土誌』(平15)によれば、荒木神社から高皇産霊尊命を迎えて祭神とし、「一品」という高い位を冠しています、という。
荒木神社の分社のようである。
京都の御霊神社から50両で譲り受けたという立派な大きな御輿があるという。48人でかついでも大変だったという。

曹洞宗金光山洞玄寺
洞玄寺(石原)
一品神社の裏山の上にある。福智山花の十景の一つとか「毎年5月ごろ、30種約250株の色とりどりのぼたんが、訪れる人を楽しませる。戦国時代には、地元の土豪大槻氏の館(山城)があり、境内には土塁と空掘が残されている。「ぼたん寺」の愛称で親しまれている」という。牡丹見学の際は、駐車場は下になく、裏山の上、工業高校の入り口の近くにあるので、そこへ駐められるよい。
洞玄寺
洞玄寺
洞玄寺
洞玄寺

金光山洞玄寺 膳曹洞 知識地 石原村
本寺福智山久昌寺 開山  天正十五丁?年建立
山ハ大槻氏ノ古城跡也 本尊弥陀 釣鐘堂 二重門
十六羅漢アリ文正年中大槻氏城跡ニ小庵有城主法名大槻院殿敬寺号トス山号ハ妻ノ法名金光院殿ノ文字ヲ用
(『丹波志』)

金光山 洞玄寺 (曹洞宗) 西中筋村字石原
本尊 釈迦牟尼仏  開基 華翁栄公和尚
創建 天正十五年もと大槻氏の居城たり、依てその法名を採って寺号とすと伝ふ。大槻安芸守、天文年中当地に築城を企てしが、完成せざるが如し、土堤、濠など敷十間のもの遺れりと云、往昔正豊菴といへるあり、又地蔵堂とも称す、華翁とへる僧此に届る、大槻安芸守卒して、霊雲院殿幽巌洞玄居士と号す。現在の本堂は亨保十年十一月再建
(丹波志)大槻洞玄墓石原村にあり、アンニョウ塚といふ。洞玄子なし、弟上原権八といへる者出家して月輪山薬師寺を開基す、此墓又権八荒紳といふとぞ。真言宗月輪山薬師寺、賓珠院は観音寺末。開山大槻氏、今は旧地を存するのみ。朝倉義景墓は観音寺境内弁財天祠の側にあり、観音寺及高津の朝倉氏は皆此子孫なるか。
金光山洞玄寺記 …
(『天田郡志資料』)

洞玄寺
福知山市字石原に、曹洞宗、金光山洞玄寺がある。『丹波志』「寺院」の部には、「山ハ大槻氏ノ古城跡(中略)文正年中大槻氏城跡ニ小庵有 城主法名大槻院殿敬寺号トス 山号ハ妻ノ法名金光院殿ノ文字ヲ用」とある。また『丹波志』の「古城部」には、「古城スクモ山 石原村 大槻ノ古城ナリ 少ノ地所也 在中往来ヨリ二十間斗上ル山ノ上ニ在 凡五十間四面 沢堀アリ 四方トモ 今ハ洞玄寺境内也 辰巳ニ当リスクモ山ノ頂ニ少ノ地所有 上城ト云 古城主大槻安芸守政治(後略)」とある。この事に関して『福知山市誌』(芦田完著)には、次のように徴証されている。「スクモ山とあるのはヌクモ山のことで、石原の南部にヌクモ山がある。『在中往来ヨリ二十間斗上ル山』は今の洞玄寺の地を指している。面積も大体五十間四方で、東南から南・西を経て、西北へ濠をめぐらし、ここに水を導いたと思われる溝跡もあり、中世の豪族屋敷のタイプを備えている」と。さらに「また、この寺に縁起書があり、それには『天文年中大槻安芸守光頼此地ニ城ヲ築キ居ル、弘治元乙卯年六月十四日逝去」とある。この実名のことはそれとして、不思議なことに、高津の大槻氏の先祖と考えられている隠龍寺の巨嶺院殿性林宗見大居士の死亡年月日と全く同一であることである。『丹波志』に洞玄寺の地は洞玄隠居地とされている点と照合すれば、高津城主の大槻氏がここに支城をもっていて、そこへ隠居していたと解するなら、右の没年月日も同一人のこととなり、何の不思議もないことになる」と述べられている。従って洞玄寺は中世末期までは、高津から石原にかけて支配をしていた大槻氏の牌所としての氏寺的存在として発展してきたものであろうと考えられる。現在も、京都府立石原高等学校と洞玄寺の境には、空堀・土塁の遺構をとどめている
(『福知山市史』)

石原城
石原城の空堀・土塁
だいぶに埋まっているだろうが、それでも堀と土塁がわかる。右が洞玄寺で左が工業高校。反対側から↓
石原城の空堀・土塁
石原城の空堀・土塁

水田面からは20メートルばかり高い所で、洞玄寺がある所には元は石原城があった。案内板がある↓
案内板
石原城跡 福知山市指定史跡
現在の曹洞宗洞玄寺とその境内地一帯は、中世山城である石原城跡の遺蹟が広がっています。
洞玄寺『縁起書』による伝承では、「天文年中大槻安芸守光頼此地ニ城ヲ築キ居ル 弘治元乙卯(1555)六月十四日逝去」とあり、また洞玄寺三世の心宗禅明禅師が元文四年(1739)に弟子の憲勤に編纂させた「寺記」によれば、天文年間(1532~1554)に安芸の国から大槻安芸守政治がこの地に土着して館と城を築き、やがて隠居して法名を「洞玄」と名乗って草庵を営みました。死去後長らく廃墟となっていたものを石原の僧、華翁が寺を造り、大槻安芸守の法名「洞玄」にちなんで洞玄寺と呼称するになったと記されています。
江戸時代の文化年間(1804~1814)に描かれた『古城址見取図絵巻』には、石原城跡が描かれており、土塁に囲まれた今の境内の形によく合致します。
平成15、16年度には詳細な遺跡内容・範囲を確認するための調査を行いました。測量調査ではこの城跡が部分的に壊されているものの、土塁・空堀がともによく残り、往時の様子を良好に伝えていることがわかりました。土塁・空堀を東・西・南の三方に設け、城を要塞化してます。土塁の内部はほぼ平坦で、その広さは約3.400㎡あります。発掘調査では、今では埋もれている掘の底やその形を確認することができました。堀の底は平坦で2.5m~3.2mの幅があり、土塁の高さは垂直高3.4~3.9m、実効高4.6~4.8m、堀幅は7.2~7.8mを数えます。
これらのことから石原城跡はシンプルな構成の中にも堅牢な要塞性が見出せるものであり、戦国的な城形態を伝えていることがわかります。造られた年代は明確ではありませんが、前述の大槻氏による築造伝承も十分に推定できるものです。
石原城跡はこれら遺構がその姿を今に良好に伝えているのみならず、歴史学習の教材として身近にあるところがすばらしく、福知山の代表的な中世城跡として平成19年7月に福知山市指定文化財(史跡)に指定されました。
平成 20年3月20日  福知山市教育委員会



真言宗月輪山薬師寺跡


石原飛行場(福知山海軍飛行基地)
石原のあたりには飛行場が三つもあった。今も陸軍の飛行場が長田野演習場に残されていると思われるが、フェンスが張ってあり近づけない。台地上の高い所にある。だいたい海軍の飛行場と同じ時期に作られたという。
以前は簡単に立ち入れてこの飛行場を歩いたことがあるが、鋪装されてない砂利敷で蒲鉾のような真ん中が少し盛りあがったまっすぐな滑走路がずっと続く、途中でイヤになった思い出がある。周囲は松林であった、掩体壕などは見かけなかったと思う。舞鶴には海兵団(今の海自の教育隊)に滑走路があった。これはそれほど長くはなかった、長田野のは長いなぁ、一ぺん端から端まで歩いたろか、と思ったのだが、長すぎてヤメタ。
この道を行けば↓滑走路が左側に南北方向に伸びていると思われる。
長田野飛行場

もう二つが海軍の飛行場で、高津飛行場と石原飛行場である。
石原飛行場は今はないが、中丹広域農道のこの部分はその一部↓であった。ドイツ降伏、サイパン没落ののち、本土空襲が厳しさをまし本土決戦が避けられそうにもない、敗戦色が増した何と昭和19年秋から工事がはじまり、終戦時には滑走路は100%完成していたという。近くには防空戦闘機「紫電改」を組み立てる工場も移転してきた。防空砲台や隊員宿舎などもも作られた。
こうした物を作ったりインパールへ行ったりするチカラがまだあるなら、この時に真剣になって終戦工作をしていれば、多くの命が救われたと思われるが「神国は勝つ」とこの期に及んでも信じる者ばかりで正気な者はいなかった。そして「バカ者」ばかりがバカを見ていた。
何のための戦争であったのだろう、というか戦争とはこうしたもので、その後裔の政治屋や軍人を信じてはいけない、反省なき多くの国民も信じられない、今のどこかの国にも似たたいへん恐ろしい歴史を今にとどめる、「いつか来た道」が直線1.5㎞ばかり東西方向に伸びている。
↓海軍滑走路は由良川氾濫原の低い所に作られた、戸田に近い所である。建設は海軍技師や予科練性、学徒動員生、朝鮮労働者などの手で進められたという。
石原飛行場
当航空基地の掩体壕の一部が残され保存されている↓。(日新コミセン内)
掩体壕の一部
その案内板には↓、
(「土」は大字名で、土で作られた掩体壕の意味ではない)。
土の掩体壕案内板
このコンクリート製の構造物は、ここから1kmほど北西の字土の耕作地にあったもので、かつてこの日新地域に存在した旧日本海軍福知山航空基地(石原飛行場)を伝える遺構の一部です。本来は長10.6m・幅2.1m・高2.5m・厚0.3mを測る鉄筋コンクリート製で、カマボコ形の屋根の上に土を覆いかぶせ、戦闘機の搭乗者が奇襲攻撃などから退避する掩体(覆い隠す)壕でした。
福知山航空基地地の建設は、当時、最高軍事機密であったため、詳しい資料はほとんど残っていません。ただ、昭和20年8月2日現在の平面図(青写真)や伝聞、戦後の航空写真によれば、滑走路は戸田と石原を結ぶ街道から川北橋南西まであり、推定延長1.7km、幅100~250m程に復元できます。滑走路周辺には砂利敷の誘導路が巡り、これに沿って施設が造られていました。
戸田には飛行機の格納庫が造られ、土の段丘には飛行隊指揮所のほか、崖斜面を利用してトンネル状の隧道が網の目状に張り巡らされていました。また佐賀地区には弾薬庫や山上の高射砲台、石原地区には燃料格納庫、前田地区には中央指揮所隧道や飛行機の部品をつくる工場がありました。
航空基地は完成を待たずに終戦を迎えることになりますが、90%近くは完成していたようです。
戦争終了後、飛行場の跡地は地元に返還されることとなりましたが、この他に広がっていた優良な農地は跡形もなく失われ、硬く叩きしめられた石まじリの地盤とコンクリートとアスファルトで固められた滑走路を、今見るような緑豊かな農地に戻すことは大変な困難と苦労を極めました。今、当時を偲ぶものは姿を消しつつあります。この他に飛行場があったことは想像もできませんが、その歴史が風化することは決してありません。
この掩体壕が、地域の人々の手によって、ここにその一部が保存され、福知山の歴史、特に軍都として栄えた当市の近代史を伝える重要な資料として、また平和教育、人権学習の教材として将来に渡って伝えて行くことが望まれます。
平成19年7月31日 福知山市教育委員会

復元図

*石原の掩体壕など市民ら戦跡を巡る*「悲劇次世代に」思い新た*福知山*
「中丹地域の歴史と文化を掘りおこす会」は二十四日、太平洋戦争中に、福知山市石原の海軍飛行場滑走路近くに建設された飛行士避難施設の掩体壕などの戦跡を回り、戦争の悲劇を次世代に伝える大切さをかみしめた。福知山、綾部市の教員らでつくる同会は、定期的に府北部の戦跡巡りを行っており、今回は一般市民を含め十三人が参加した。
石原飛行場の滑走路は戦後まもなく農地になり、掩体壕も市の区画整理に伴って今年一月に取り壊された。参加者はまず、飛行場近くの日新地域公民館を訪問。郷土史に詳しい地元の大槻恒彦さん(七二)から「滑走路近くでは米軍の機銃掃射もあった。掩体壕は単なるコンクリートではなく、多くの悲しみが詰まっている。守り続けないといけない」と話を聞き、保存されている掩体壕の一部に触れたりした。この後、綾部市高津町の高津飛行場滑走路跡などを見学した。
(『京都新聞』(07.3.25))

滑走路にはこんな碑が建てられている。
復旧記念碑
耕地復旧記念碑
国を賭しての大東亜戦争は歳を閲するに随ひ益々熾烈の度を加え国民に緊張も一人なりしが折も折 突如我等農村民の生命の糧であり経済生活の根元である美しい田ふくよかに繁る桑園の何れを飛行場になるという事実が目の前に展開されるに至り殆ど之が完成したのは昭和二十年六月の頃ほいであった。斯くして耕作地の殆どは飛行場となり将来の生活に影を投じたのであったがかてゝ加へて昭和十九年同二十年の二回に亘大洪水は浦島神社付近の堤防を決潰し見るも無惨な姿に変った美田数十町歩戦争と自然がなしたる業とは言へ朝や夕なにこの現状を眺めながら今後の生活を何によって拓いて行くか之らが鎌を持つ吾々の脳裏に徹した苦悩の種であったが如何とも為し得ない事を思ふ時只手を拱いて荒廃その極に達した田面を眺め悲嘆やるかたなく戦勝の一日も早からん事を希ふと共に早急に之が復興に着手したとき念願にも燃ゆるのみであった時しも八月十五日に詔書の煥発があって七年に久しきに亘る戦ひも遂に集結を見るに至った驚愕の心魂も未だ覚めない中に幸ひにも耕地は返還され省躍したものゝ原形の湮滅している状態を見ては茫然として如何ともすることが出来ずさりとてしてこのまま捨てゝおくことも出来ずに如何にかして之れが復旧を企画し以て生業に勤しまんとするや甚だ切なるものがあった茲に府耕地協会評議員松山幾蔵氏西中筋村長村上賢治氏並に小生等発起人となり耕地組合を設立し同志を糾合して施工面積百二十四町九段二畝二十一歩組合員三百二十二名六ヶ年計劃総経費四百六拾七万円を以て実施する案を立て国費府費の補助を申請して漸く府の認可を得昭和二十一年五月十一日の鍬入れ式より今日に至るその間排水溝の開鑿道路の完成仮換地後の整地中央滑走路の除去掩体壕誘導路の復旧等指示されたる年次の区画を整地して以て現在に及んだが当時の状況と現状とを回想追憶する時感又無量なるものがある殊に障碍となった滑走路の除去対して理解ある当局の尽力によって竣工を早め得たという事は言を俟たない六年の歳月と数万人の力を要した稀有の大事業も遂に昭和二十七年三月十五日を以って完成の域に達し昔懐かしき美田となり何れもおのがじしの作付けをなし黄金の波の漂ふ様を眺めては荒廃の過去と復興の労苦を語り合いつゝ当時の述懐に時を過ごしたこと幾度か今府の一角に立って六星霜の音を偲びつゝ現存の様相を眺め整然たる道路区画された田畑これこそ組合員一同の協力致愛郷の熱意のに表象と当局並に役員諸氏の誠意と努力の賜であることを思い一人感を深くするものである工を竣るに当り事業の概要を述べ茲に之を刻す
昭和二十八年四月一日 前府会議員 福知山市長 田中庄太郎

とても文面が読み取れそうにもないので、碑文は冊子「福知山に飛行場があった」による。元の美田に戻すにも大変な労苦があったようである。同冊子による福知山飛行基地建設年表↓
飛行場建設年表
◇昭和16(1941)年12月 ・アジア太平洋戦争始まる
◇昭和17(1942)年 6月 ・日本軍ミッドウェー海戦で敗退
◇昭和18(1943)年 2月 ・日本軍ガダルカナル島から撤退
◇昭和19(1944)年 6月 ・日本軍サイパン島で玉砕
             10月 ・「石原、戸田、土、前田一帯の農地を航空基地として接収したい。」との海軍の説明会がもたれる。
               ・戸田の墓地の移転が始まる。
           10月 ・特攻機初出撃
               ・松代大本営の建設工事の命令が出る
           10月 ・石原飛行場の建設が始まる                    秋  ・小貝山の高射砲陣地工事始まる
◇昭和20(1945)年1月 ・佐賀村住民に役場から「高龍寺山の麓に入れないようになる」ことが知らされる
            2月 ・米軍硫黄島に上陸
            3月 ・滋賀海軍航空隊第14期予科練生が佐賀村に派遣されてくる
               ・佐賀村で燃料庫建設が始まる
               ・高津滑走路の建設が始まる
            4月 ・海軍が脳病院を接収し、隊員宿舎にする。
            6月 ・川西航空機福知山工場が操業を開始する。
               ・石原滑走路完成 輸送機が着陸する
            7月 ・舞鶴工廠が空襲を受ける
               ・飛行場が艦載機による機銃掃射を受ける。
            8月 ・アジア太平洋戦争終わる
               ・予科練生が離陸しようとし衝突炎上
               ・米軍機が2機滑走路に飛来する
◇昭和21(1946)年5月 ・耕地復旧工事が農民の手で始められる
◇昭和27(1952)年3月 ・復旧工事が終わる



『西中筋村誌』『ふるさと石原風土誌』
昭和十八年十月一日、晴天の霹靂。忘れようとつとめつつもどうしても脳裡から離れ切れない程しみついた恐怖と困惑の日。
土・戸田・石原の中心部農地の大部分が、飛行場建設のために使用されるという公式通知があった日である。農家にとって一番頼りとしている農地の殆どを失うことほど恐ろしいことはない。
それ以後、関係区民にとっては一切の仕事がてにつかず、連日会合を開いて前後措置について対策の協議がなされたものの具体策も生まれず、依然として眼前は真っ暗にうちに土地測量と工事の準備が着々と進められた。
当時の村人は老いも若きも拱手傍観し放心の姿は誠に哀れな状態であった。
徹底的に打ちのめしたのは墓地移転の命令であった。肉体は消滅しても霊魂の不滅を信じ先祖以来の霊を守りつづけてきた墓地を、自らの手で掘り返すということは余りにも残酷な仕打ちであった。老い先短い老人たちは手放しで号泣し、鍬を持つ手はふるえ胸は張り裂ける思いであった。僧侶の読経を夢うつつに聞き、ここに黙々として悲しい作業が続けられたのである。
土村はまた田畑ばかりでなく、下野一帯の開拓地まで取り上げられるはめになり、農地として残るものは家の近くの二、三畝の畑だけといっても過言ではなかったのである。従って、村人の生活問題はここに終止符を打たれたのも同じで、何とか対策をと必死になる人々の血走った眼には最早流れ出る涙の一滴も無かったのである。
村をあげて移住することによって方針をたてるより打開の道はない。その候補地として日本海沿岸に漁村をつくるという案まで出る有り様であった。
しかし土村の集団移住も実現に至らず、戸田村の転職問題も軌道にのせるまでの終戦を迎えたことは不幸中の幸いであったとも考えられる。
『ふるさと石原風土誌』
石原飛行場
大東亜戦争(太平洋戦争・第二次世界大戦)末期、石原付近に旧日本軍の飛行場が三カ所で建設中でした。一般に言われていた石原飛行場と高津滑走路、それに長田野飛行場の三つです。

基地の規模
石原飛行場と言われた日本海軍福知山航空基地の滑走路は、石原・戸田街道から川北西南まであり、長さ約一、七〇〇メートル、幅一〇〇~二五〇メートルの滑走路と、高津に長さ六〇〇メートル・幅三〇メートルの 「中訓練用滑走路」があって、将来石原飛行場の滑走路に延長合体する計画でした。石原飛行場は誘導路(飛行機を滑走路へ誘導する道路のこと)は総延長一一、二〇〇メートルという大きなもので、旧日本海軍自慢の超高速機の練習場として建設中であったようです。

…南の河岸段丘には中央指揮所トンネルがあり、延長三〇〇メートルは完成していました。その他、鉄骨式の戸田格納庫二棟、西南に小型機用土塁の無蓋掩体十二機分が完成、粟石敷誘導路も延九、八〇〇メートルは八十五%が完成していました。また周辺の川北の太光山・秋葉山・墓地山などの山上には高射砲陣地・観測所・通信設備・医療所までありました。遷喬校裏山やアキツの裏山などには空襲から避難するための横穴が掘られ、今もその名残がみられます。ちなみに、最近まで音をだした石原のサイレンは、当時西宮市から工場疎開してきた川西航空機製造会社が設置したものでした。戦後五十数年使用しましたが故障し、現在公会堂玄関横に置いてあり、戦時中の空襲警報や警戒警報、十二時の合図などの役割を果たして今は静かに休んでいます。

飛行場建設の作業
建設作業のため、石原駅北側貨物引込線から石原・戸田街道を横断して、戸田・川北方面に向けて軽便鉄道のレールが敷設され、デイーデル機関車の引っ張るトロッコ列車が建設資材を運搬していました。

各戦闘機ゼロ戦や紫電改なども来た
飛行場にはこのような飛行機や、通称「赤とんぼ」といわれた練習機が峰山飛行場から編隊を組んで訓練飛行にきました。建設がほぼ完成した頃、司令部から双発の陸上攻撃機が着陸した時に、搭乗員が戸田のキャベツなどを喜んで買ったという話もあります。

『綾部市史』(表も)
軍都舞鶴や福知山をひかえて、福知山に福知山航空基地が設けられた。この航空基地は、福知山盆地の東部の石原・観音寺・高津にかけて建設された海軍航空基地である。この地は由良川南岸の肥えた水田と桑園地帯であったが、その真中を滑走路が走ることとなった。滑走路は二か所あって、そのひとつは幅三〇メートル・長さ六〇〇メートルの練習用滑走路、他のひとつは幅五〇メートル・長さ一七〇〇メートルのもので、飛行機秘匿所六八か所、誘導路延べ一万一二〇〇メートル、ずい道施設延べ一九三二メートルにおよんでいる。付随施設として、指揮所・兵舎・発電所など二十数棟が由良川をはさんで分散していた。こうして綾部も、本土防衛の基地化の様相をふかめていったのである。

このころの国民の服装は、女性は古着を更生したモンペに防空頭巾、男子はカーキ色のスフの国民服で、そうした姿の人々が農村へいもや野菜を買い出しにでかけることが多くなった。一般国民は物資欠乏とインフレに苦しみながら文句もいわずに働き、わずかなヤミ物資をもとめて生活をしていたが、軍や軍需工場・統制団体の関係者が、戦争遂行の名のもとに役得・不正を行い、売りおしみをしている姿をみて、「世の中は星(陸軍)と碇(海軍)にヤミに顔、ばかもののみが行列に立つ」ということばを実感として受けとめたものである。十九年四月には雑炊食堂が開かれ、綾部駅前の食堂には行列がつくられるようになった。一方本土防衛にあたる軍隊も、限られた食事ときびしい訓練のため、一般兵はやせた兵隊ばかりとなった。また家庭燃料も、山林伐採や炭焼・運搬などの手伝いに行ってようやく手に入るという状態であった。



『語り継ぐ京都の戦争と平和』
川西航空機工場の疎開と朝鮮人
日本の軍用機の主要な生産企業の一つであった兵庫県の川西航空機(現・新明和工業)は、米軍の空襲を避けるため、一九四四(昭和一九)年末か翌年の一月頃から、鳴尾(西宮市)製作所を福知山に疎開させることになりました。
疎開工場は、石原にあった病院(現・「アキツ工業株式会社」およびホームセンター「アキツ」付近)を本部とし、その北側の丘陵の裾、および福知山市正明寺地区(JR福知山駅西方)の山間に、覆土式と横穴式の地下工場を造る計画でした。ここが疎開先に選ばれたのは、近くに石原海軍飛行場が造られたことと関連していました。
川西航空機工場の福知山への疎開については、兵庫県宝塚市在住の鄭鴻永氏が、兵庫朝鮮関係研究会編『地下工場と朝鮮人強制連行』の中で、新明和工業の社史や「米国戦略爆撃調査団報告書』などの資料、さらに地元での聞き取り調査をもとに、詳しくまとめられています。
正明寺地区の工場は、面積が六万九〇〇〇平方フィート (六四〇〇平方メートル)で、戦闘機紫電改などの部品製造を行い、石原地区の工場は、面積が一万一八〇〇平方フィート(一一〇〇平方メートル)で、組み立てを行う予定だったと言われています。これらの工場は、敗戦時には大部分完成していましたが、本格的な生産をするまでには至りませんでした。
正明寺地区の施設はトンネル式の二つの地下工場からなっていました。一つは現在の下豊富農協ライスセンターの所にあった工場ですが、センターの建設時に埋められて、現在は痕跡は残っていません。ここは地質が軟弱な土山だったために、支柱と木枠を組みながらの難工事で、落盤事故による犠牲者も出たと言われます。周囲には坑木を作るための製材所もありました。
もう一つは、そこから南南西へ四~五〇〇メートルの所にある山を貫いたものでしたが、戦後、この山は前田工業の鴨谷砕石場となって、山の半分が削り取られてしまい、こちらもその痕跡はありません。砕石場も今は操業を停止し、廃墟になっています。この山は岩盤が固かったため、発破をかけての素掘りで、戦後も砕石場になるまでは、そのトンネルが残っていたそうです。付近に住む年配の方の話では、トンネルは幅四メートル、高さ三・五メートルぐらいで、長さは二〇〇メートル以上、何本かのトンネルが放射線状に内部でつながれ、旋盤などの工作機械が据えられていたのではないかということです。
これらの地下工場の建設にあたったのは舞鶴海軍鎮守府所属の第三三五設営隊で、大勢の朝鮮人も働かされていました。彼らは工事現場の周辺に飯場をつくって住んでおり、家族連れの人もあったようですが、舞鶴海軍施設部に強制連行された三八〇〇人の朝鮮人のうちの一部が派遣されて来ていた可能性があります。
一方、石原地区の工場の跡地も、当時の建物などは全く残っていませんが、工場自体は、戦後川西航空機から独立して、農機具や繊維機械などを製造する「アキツ工業株式会社」に引き継がれています。「アキツ」という名称は、戦時中、川西航空機が軍部の指示で「神武秋津社」という秘匿名で呼ばれていたことに由来するものです。

『福知山・綾部の歴史』
草むらに眠る幻の要塞
●福知山航空基地
昭和一九年(一九四四)四月、当時、胡麻郷国民学校に勤めていた筆者は、戸田から石原駅ヘペダルを踏みながら、道路から西方へのびる滑走路工事を眺めた。海軍航空基地が建設されるのである。川北の高林寺山も烏岳の尾根尾根も対空防備施設の工事が進むらしく、ときどき下山する予科練の若者が麓の家々を訪れて来た。彼らに、蒸した藷や握り飯を提供するのが留守を守る母の日課の一つであった。
戸田の下手に格納庫ができた終戦前のある日、頭上に爆音がして由良川薮の向う側へ急降下して来た。墜落かと驚く数秒後、爆音と共に艦載機らしい機影が西よりに急上昇し雲間に消えた。機銃の音は彼我いずれの物とも判別できず、盆地両側からの対空砲火の音は記憶に残っていない。
基地の青写真「福知山航空基地平面図(八月廿二日現況)」によれば、土の河岸段丘に設置された飛行隊指揮所は鉄筋の四㍍×一〇㍍の大きさで八〇㍍完了とある。その南の第二段丘には中央指揮所隧道があり、延長三〇〇㍍は完了している。この他、戸田格納庫(鉄骨式)二棟や西端の無蓋掩体(小型機用・土塁式)一二機分が完了し、誘導路(栗石の砂利敷)延べ九、八〇〇㍍は八五㌫の進行と判読できる。滑走路は、戸田石原街道から川北橋西南まであり、推測一・七㌔、幅は一〇〇~二五〇㍍である。別に高津に長さ六〇〇㍍・幅三〇㍍の「中練用滑走路」があって、将来滑走路に延長合体する予定と見られる。海軍自慢の超高速機の練習場と聞く。
基地に関しては、資料に乏しく詳らかにされていないが、聞取りによりその一端に触れてみたい。
・以久田国民学校五年の時、全員で石原まで遠足を兼ねて、リヤカーで埋込用栗石を栗の河原から運んだ。これは各校割当であった。
・土村野で牧場を経営していたが、立退きを命ぜられ、そこより東へ兵舎が建ち並んだ。
・川北の高林寺山頂に砲台があり、西麓には戦闘指揮所があった。東北の山麓にある佐賀国民学校に多くの予科練の若者が用務員の世話になりながら起居していた。
・川北の太光山・秋葉山・墓地山などの山頂に、高射砲陣地や看視哨が点在し、交代休養の予科練生が麓の家へ遊びに来た。
・砲台の水兵は小貝に分宿していた。
・高林寺山北麓に爆薬格納庫の洞穴が四か所あった。
・戸田橋で輸送バスが事故、哀悼式が行なわれた。
・終戦帰郷後、小貝山(城山)頂上へ人夫として登り、設置されていた高射砲八基を運び下ろした。陸軍の八八式高射砲という。誰かが誤って撃針にふれ、砲弾が志賀郷村(綾部市)まで一万㍍も飛んだが無事だった。
福知山盆地周辺の山城・館城跡は現代戦にも要地であったことがうかがえる。
五〇余年後の今、白雲の去来が空のつわものの夢を語り続けている様である。(芦田金次郎))


《交通》


《産業》


《姓氏》


石原の主な歴史記録


『丹波志』
石原村  栢原領
高九百八十七石四舛六合 民家百拾戸

『福知山市史』
上野平の古墳(字平野町)
縄文・弥生の道跡、遺物についてはすでに別項で述べたが、古墳については、以前から知られていた仏山一号墳・二号墳のほかに、この調査によって、新たに四基の古墳が発見された。それぞれ、池尻一号墳・二号墳・狐塚古墳・平野古墳と名付けられた。
以下、それぞれの古墳について述べる。なお、この遺跡の発掘調査結果については、昭和四十八年(一九七三)に、京都府教育委員会より「上野平遺跡発掘調査報告書」が出されているので参照されたい。
仏山一号墳
仏山一号墳は、眼下に石原の集落とそれにつづく由良川の沖積地に広がる水田を見下ろす丘陵端にある。墳頂部の高さは、六九・六五メートルで水田地帯との比高は約四○メートルである。墳丘の規模は直径約一二メートル、高さ一・一メートルの小規模な円墳である。主体部は横穴式石室を粘土で模した横穴式粘土室である。この形式の古墳は近くでは、中坂五号境、七号墳で発見されているが、全国的にもあまり報告例がなく、珍しい形式の古墳である。
主体部について詳しく説明すると次のようである。墓壙は地山を約二五センチ掘り下げて形づくられている。墓壙の大きさは南北四・二メートル、東西二・六メートルの長方形である。主体部の主軸はほぼ南北をさしている。
発掘調査の経過では、墳丘の表土をとり除いていくと、墓壙全面が粘土でおおわれているのが発見された。ついでこの粘土を取り除くと、墓壙の床面が現われ、床面一面に礫石が敷かれ、その上から多数の副葬品が出土した。この墓壙の東・西・南の三方に、幅二五センチ前後、高さ三○センチ前後の粘土の壁がとりまいており、北側には粘土壁は認められなかった。この粘土壁をとりのぞいていくと、直径一○~三○センチ、深さ二○センチ前後の穴が墓壙の内壁にそってめぐっていることが確認された。また、礫石の敷かれている床面で、主軸中央部の二ヶ所に礫石のない部分があった。
これらのことから、この横穴式粘土室は、何らかの木製構築物の上面に粘上をはりつけてつくられたものと考えられる。すなわち、床面の二ケ所に柱を立て、この柱に棟木をのせ、これに、周囲から丸太を立てかけ、その上に粘土がはりつけられたものと推測される。北側の粘土壁のない部分には、二個の大きな穴と、その間に小さな穴が円弧状にとりまいている。このことから、北側が入口であり、入口に木を立てかけて閉塞したものと思われる。
出土遺物はつぎの通りである。
須恵器1杯蓋(一四)、杯身(一六)、高杯(七)、提瓶(二)、ハソウ(一)、短頚壷(三)、横瓮(二)、甕(四)
土師器-椀(四)
鉄器-鉄刀(一)、 鉄鏃(一五)、刀子(四)、用途不明鉄器(五)
装身具-金環(三)
須恵器のうち、九点は墳丘表土より出土し、それ以外は主体部内部より出土したものである。墳丘表土より出土した甕のうち一点は、意図的に細かく割って墳丘全体にばらまかれたような形で出土している。復原作業をおこなった結果、口縁径一九・四センチ、最大径五一センチ、器高五○・六センチの大きなものであった。このように大型甕を意図的に割り墳丘にまいている例は、後に述べる平野古墳でも見られる。
仏山一号境の特色は、横穴式粘土室という特殊な内部構造を持っていること、副葬されていた須恵器の量が多いことである。主体部の内部構造から推測して、追葬の可能性が考えられないことから、これらの須恵器がこの地方の須恵器編年に役立つものと考えられる。
最後に、この古墳の築造年代は須恵器の形態などから見て七世紀初頭と考えられる。(照岡正巳・仏山一号墳「上野平遺跡発掘調査報告書」京都府教育委員会 一九七三)

仏山二号墳
仏山二号項は同一号墳の東約一三メートルの位置にあり、直径約一二メートル、高さ約一メートルの小規模な円墳である。発掘調査の結果、この古墳には二つの主体部が検出された。いずれも木棺を直葬したものである。二つの主体部はほぼ東西方向に、約四○センチの高低差で同じ位置に重なり合うように検出された。発見の順序にしたがって上部埋葬を第一主体部、下部埋葬を第二主体部とする。第一主体部の墓壙は長さ三・六メートル、幅一・一メートル、深さ○・一メートルと推定される。この墓壙の中に、棺の分だけさらに一五センチ掘り下げて棺は安置されている。棺はほとんど消滅しているが、内法は長さ一・九メート化 幅○・八メートル、高さ○・四メートルと推定できる。
副葬品としては、鉄刀一、鉄鏃一、須恵器杯身五、杯蓋三、坩一がある。これらの内、鉄刀・鉄鏃は棺外の棺上遺物として埋葬されている。
第二主体部は第一主体部の棺底直下四○センチのところにある。墓壙は長さ五・四メートル、幅三・九メートル、深さ○・一メートルの両端が丸味をおびたものである。この土壙の中央部に長さ三・二メートル、幅一・○メートル、深さ○・一八メートルの断面弧状の墓壙がある。棺は既に消滅しているが、墓壙の中央部よりやや北に安置されていたと推測される。
副葬品としては、須恵器の杯身三、杯蓋三、土師器の椀一、甕の破片多数である。棺内には遺物はなくすべて棺外からの出土である。なお、散在していた土師器の甕を復原すると一個体ほぼ完形になった。甕の破片の散乱状態から判断し、埋葬時に割って投げこんだものと考えられる。
仏山二号墳の特色は、小さな円墳に二度の埋葬がおこなわれていることである。また、副葬品が第一主体部が鹿角装把部をもつ鉄刀・鉄鏃などの鉄製武器・須恵器であるのに対し、第二主体部の副葬品は須恵器と土壙内の溝の中から出土した土師器であることである。特に、二度目の埋葬に土師器の副葬をやめ、鉄製武器を副葬品としていることはきわめて興味深い。第一主体部、第二主体部とも須恵器の形態、技法ともほとんど同じである。このことから、本古墳の二度にわたる埋葬にどれほどの時間差があるか明確にはいえないが、六世紀後半から七世紀初頭にかけて築造された古墳であると考えられる。(金村允人・仏山二号墳「前掲書」)

池尻一号墳
池尻一号墳は上野平遺跡北東の丘陵端にある。この古墳の墳頂部の標高は七四・八メートルであり、外形は直径約一六メートル、高さ約二・五メートルの円墳である。内部構造は土壙墓で組み合わせ式木棺を直葬している。墓壙の規模は上面で南北六・二メートに 東西二・七メートル、深さ○・八メートル、下面では南北四・五メートル、東西一・八五メートルである。この墓壙の中に長さ二・八メートル、幅○・六五メートルの木棺が安置されている。
出土遺物としては、棺上より二本、棺内より一八本の鉄鏃と棺内北東部から直刀が出土した。この古墳の発掘調査で注目されるのは、木棺の木質部の痕跡が鮮やかに残っていることである。副葬品としての土器の出土を見なかったことは、築造年代の判定を困難なものにしているが、片刃矢式鉄鏃の出土より推定して、古墳時代後期(六世紀)の築造とみるべきであろう。(小室義光・池尻一号墳「前掲書」)

池尻二号墳
池尻二号墳は同一号墳の南約二○メートルの位置にある。墳頂部には山道が通っていて元の形がこわされており、わずかに盛りあがりを認める程度のものであった。内部構造は東西方向に主軸を持つ土壙墓である。土壙の大きさは長さ四・○メートル、幅一・○メートル、深さ○・三五メートルである。この中に長さ一・九メートル、幅○・六メートルの組み合わせ木棺を直葬している。木棺はすでに消滅していたが、棺内一面に朱が残っており、棺の大きさを推測することができた。
出土遣物としては棺内から刀子が一点出土したのみである。このほか、墳丘部から須恵器の壷の胴部とハソウの口縁部の破片が出土している。遺物が少ないので築造年代を簡単にきめることはできないが、一号墳丘斜面を切り込んで築造されていることから、一号墳築造後まもなくつくられたものと考えられる。(小室義光・池尻二号墳「前掲書」)

狐塚古墳
狐塚古墳は上野平遺跡の東縁部中央にある。この古墳は、丘陵突端の自然地形を極端に利用しており、墳丘の築成にあたっては、地山を削って形を整え、墳頂部に若干の盛土する以外は地山を露出させていた。平面形は、一方が丸く他方は角ばる、いわゆる盾形で、やや異形の形状をなしている。墳丘の規模は、東西一八メートル、南北一二メートル、高さ一・六メートルである。墳頂部の標高は七六・七五メートルで、東方眼下の北に向かって開く谷口水田面との間に二一・○二メートルの比高差がある。主体部は、上下二段に掘られた墓壙に安置せられた組み合わせ式木棺である。下段墓壙は六メートルにおよぶもので、断面はU字状をなしている。
出土遣物としては、鉄剣二、鉄鏃二、鉄斧頭一、ヤリガンナ一、土師器の壷一である。これらの遣物はすべて棺外より出土している。棺内よりの出土遣物がなく、すべて棺外より出土した点は注目すべきである。すなわち、棺内に納められるものは被葬者の愛用品や身のまわり品であるのに対し、棺外のものは被葬者に奉献された品であると解されているからである。また、葬身具は一点もなく鉄製利器のみであったことは当古墳の被葬者の身分の一端を示すものであろう。鉄斧・ヤリガンナなどの工具類が中小古墳へ副葬されるのが多くなるのは、古墳時代中期からであることや、棺外から出土した土師器の形態から見て、狐塚古墳の築造年代は五世紀前半から中葉を中心とする時期と考えられる。(近藤義行・狐塚古墳「前掲書」)

平野古墳
平野古墳は上野平遺跡の南端にある。ここは、ゆるやかな小谷部をへだてて旗竿山東部の山すそに連なるまったく見晴らしのきかない場所である。墳丘はわずかな盛り上がりがあるだけで、調査当初は自然地形の起伏としてみのがしていたほどである。地形測量の結果、高さ○・五メートル、直径一五メートルの円墳らしき形が認められた。また、墳丘のまわりには幅一~一・四メートルの周濠をめぐらし、南側で石室入口から外方に延びる排水溝に連なっている。排水施設は石室入口から丘陵端まで南西方向に延び、とくに石室入口部から約五メートルにわたっては、五~一○センチの割石細片を敷きつめた暗渠排水の構造をとっている。この割石細片の終端部が周濠と合して長さ九メートル、幅一・五メートルの排水溝に連なり、幅をせばめながら丘陵端に達して消滅している。主体部は南北に主軸を持つ奥行七メートル、幅一メート化 高さ○・五~○・七五メートルの横穴式石室である。北が玄室、南が羨道にあたる。しかし、玄室と羨道の境は明確ではない。石材には粘板岩を主に使用している。側壁は持送くり式で積みあげてあり、両側壁の幅は床面で広く、上にいくにしたがって壁面がわずかに内彎して幅狭くなる。石室のうらごめには黒褐土と粘質黄褐土を使用し互層にして固めてある。石室の上面を覆う平石を使用した天井石は認められなかったが、発掘の際側壁上面から約二○センチ掘りさげた石室内に、腐植質黒土にまじって、明らかに落ちこんだ長径四○センチ前後の角ばった石が多数検出された。この落ちこみ石がなんらかの方法で天井をおおっていたことは明らかである。さらに、東側壁で石の痕跡だけ残して完全に消失した個所があり、過去に部分的に撹乱、盗掘をうけたことをものがたっている。出土遺物としては、墳丘および外部施設から、須恵器大型甕の細片・提瓶の体部一片・土師器片・鉄鏃がある。石室内からは須恵器大型甕頚部一片、勾玉一個、金環一個、刀子一口、須恵器提瓶一個体分である。これらの遺物の内、注目すべきものは須恵器大型甕である。これは、排水施設、および東側周濠部にかけて約五○○片に割られて出土した。この甕はわざと打ち砕いて埋葬されたものである。復原をしたところ、口縁部径二九・四センチ、胴部最大径五七・一センチ、器高六四・五センチの大型のものになった。
平野古墳は見晴らしの悪い山ぎわに築造されており、横穴式石室の規模も小さく構築方法も簡略である。小規模な横穴式石室を設けた古墳は比較的新しい時期のものであり、副葬品にも時代のさがる勾玉が出土したことなどからみて、この古墳は古墳時代後期(七世紀)に築造されたものと考えられる。(増田信武・平野古墳「前掲書」)
なお、これら六基の古墳は調査後、復原され、保存されることになった。仏山古墳二基は住宅地の中に、平野古墳は公園の中に、池尻古墳、狐塚古墳は周辺緑地の中にそれぞれ保存されている。

このあたりは山だったがなぁーという所に巨大な住宅団地ができているが、その旗竿山の麓あたりの公園内↓
古墳?
マウントの土が流されて低くなっている、手前の木の根元に石室がありそうな感じに見えるが、案内板などはない。


伝説





石原の小字一覧


石原(イサ)
麻 赤ノ水 荒堀 市場 市ノ木 稲上場 井庄田 池尻 絵先 奥沢 奥ノ貝 上堀日 上島 川原 カゴ 梨 小丁田 小蛇ノ本 ゴワカチ 坂本 下地 下代 下堀田 外ノ本 竹ノ下 高井 大子 大郷 月ノ木 坪内 塚廻 寺ノ下 堂元 トウギ 中ノ丁 中田 難波山 滝田 西屋敷 西横越 招池 沼ノ尻 ノリ反 八斗代 平野 東横越 東田 風呂ノ下 細路 宮ノ下 宮ノ段 水取 向淵 山田 山ノ下 藪ノ内 薮ノ端 柳 ヤセ町 横枕 四反田 臼谷 上野 石原 庵女塚 前ノ内 西奥沢 沼ノ畑 庵女塚 池尻 鋳物師谷 上野臼谷 小石谷 菖蒲谷 銭堀 直虫谷 ヌクモ 鼠谷(ネヅミダニ) 平野 広畑 火シバ原 水直 向山 山田 水ナシ 鼠山(ネヅミヤマ) 難波山

関連情報






資料編のトップへ
丹後の地名へ


資料編の索引

50音順

丹後・丹波
市町別
京都府舞鶴市
京都府福知山市大江町
京都府宮津市
京都府与謝郡伊根町
京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
京都府綾部市

若狭・越前
市町別
福井県大飯郡高浜町
福井県大飯郡おおい町
福井県小浜市
福井県三方上中郡若狭町
福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市






【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『福知山市史』各巻
その他たくさん



Link Free
Copyright © 2015 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com
All Rights Reserved