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丹波の

猪崎(いざき)
京都府福知山市猪崎


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京都府福知山市猪崎

京都府天田郡庵我村猪崎

猪崎の概要




《猪崎の概要》

三段池公園のある一帯である。市街地からは音無瀬橋を渡ったところ。
猪崎村は、江戸期~明治22年の村。井崎村とも書く。福知山藩領。明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年庵我村の大字となる。
猪崎は、明治22年~現在の大字。はじめ庵我村、昭和11年福知山町、同12年からは福知山市の大字。明治31年福知山町下柳から遊廓が移転し、新地と呼ばれていたが、のち遊廓は廃止された。


《猪崎の人口・世帯数》 649・298


《主な社寺など》

稲葉山古墳群
三段池公園の一帯は今も墓地が多いが、古くからのそうした葬送の地であったようである。50基以上もあったそうであるが、その一部猪崎の古墳

臨済宗南禅寺派木塔山醍醐寺
醍醐寺(猪崎)
猪崎の集落から北方約2キロの烏ケ岳の麓にあり、三段池公園から参道が続く。山号木塔山、臨済宗南禅寺派、本尊が薬師如来。もっと古い寺院を引き継いだものか。
醍醐寺の案内板
醍醐寺
 福知山市指定文化財
三光国師倭国   一幅
木造薬師如来坐像 一躰
醍醐寺額下書き  一
 醍醐寺は南北朝時代(一三四〇年頃)に後醍醐天王の菩提を弔うために足利尊氏が創建した寺で、多くの文化財が残されています。
 三光国師像図は、寺伝では室町時代中期の画家土佐光借の筆と伝えられています。
 木造薬師如来坐像は、桃山時代屈指の仏師である康正が元亀二年(一五七一)に作ったものです。
 額下書きは足利六代将軍義教が祈願寺と定めたとき自書したものです。
 いずれの文化財も、醍醐寺が室町幕府と密接な関係を持ち栄えたことを物語る貴重な資料です。 福知山市教育委員会


木塔山 醍醐寺 (臨済宗) 庵我村字猪崎
本尊 薬師如来  開山 三光国師
福知山附近にては著名の山寺にして眺望絶佳、春秋の交、杖を曳くもの多し、又半憎坊あり、途中に四国八十八ヶ所の霊場散在す。
(『天田郡志資料』)

醍醐寺
鳥ヶ岳・鬼ヶ城を背景にした山麓に醍醐寺は位置している。木塔山醍醐寺といい、今は南禅寺派に属している禅刹で知られている。創立は暦応四年(一三四一)であって、開山は三光国師(孤峰覚明)、後醍醐天皇の追善のために建立されたと伝えられている。当寺は寺運の変遷を経たなかで、多くの史料も散逸し中世当時の状態を明確にしがたい。中世の醍醐寺のことに関しては、昭和十二年三月三十日に故赤松俊秀元京大教授らによって踏査され、『京都府史蹟名勝天然記念物調査報告』(第十七冊)として刊行されており、それには以下のようにまとめられている。
 「開山の頂相は在世当時のものではなく、寺伝に土佐光信筆と称する室町時代中期のものである。賛は無いが筆法は謹密であって、色彩もまた雅潤の趣がある。猪崎の塩見清兵衛氏所蔵文書によると、国師に継いで当寺に住したのは天真であった。この人は応安三年(一三七○)三月十七日に寂し、次いで住したのは三世石仲という僧であった。この人の寂年は応永三年(一三九六)六月十三日であるが、その後をうけたと思われる四世玉林の没年は四月十七日とあるのみで年の記述がない。五世の桂叟命に到っては命日が二十一日であることが知られているだけである。六世の眼光(恵)透は天正十一年(一五八三)十二月五日の寂となっている。その間に記録を逸した時代が存することを思わせるが、当寺に現存の宝物でその間の消息を伝えている唯一のものは寺額である。これは当寺の創立以後、約九十年を経て、永享年間、足利義教によって祈願所と定められたときに、幕府より下されたものである。天地一尺四寸八分、幅三尺三寸八分の紙本に『醍醐禅寺』の四文字を横に大書し、左端に祈願所と書き、義教の花押が加えられている。そのすべてが義教の自筆になるか否かは確証はないが、字には筆勢の見るべきものがある。おそらく義教の自筆とみるべきであろう。ちなみに当寺では、この字を写して板額を造り、本堂に揚げてあるが、花押の上に特に源義詮の三字を追刻している。また当寺の明細帳にも義詮の下賜の旨が記入されているが、これは明らかに誤りである。右のほかに、国師に関係を有する遺物としては、桧扇が一握あり、箱裏には『元弘元年天皇狩二伯州一詔召二行在所一受二戒法衣孟一、特賜二国済国師之号并此扇児一云々』の文がしるされている。後醍醐天皇から国師に下賜された扇と称しているが、その書体は時代が降り、はるかに後代に書きしるしたものであるから記事内容は信じがたい。その外に国師所持の七条(七条の袈裟)を伝えている。また後に足利家の祈願所となったところから、その開創は尊氏が三光国師を請じて行なったとの寺伝が生じ、尊氏所用の鞍を伝えている(後略)」とあり、室町時代前期に栄えていたことをしのばせるものがある。
(『福知山市史』)


高野山宝城院末真言宗高貴山照光寺成就院
照光寺(猪崎)
今はこのお堂だけの様子。誰もいない静かな所だがここが庵我小学校の故地という。
高貴山照光寺成就院 真言宗 猪崎村
高野山宝城院末寺開山不相知中奥隆尊法師
境内東西廿五間南北三十間村除
千手観音本堂三間四面方丈二間三四面庫裡四間七間半
郡巡礼十番札所
(『丹波志』)


浄土真宗龍勝山元正寺
元正寺(下猪崎)


三段池公園
三段池
三段池と松風亭、バックの山並は左が鬼ケ城(544m)、右のアンテナが立っているのが烏ヶ岳(536.5m)。

三段池は台地の間の谷をせき止めて造成した潅漑用水池。築造年代は不詳。「山段池」とも記す。また大池とも称したという。今も潅漑池として使われている様子で、排水口からゴーゴーと音立てて流れ出ている。池の周囲はアカマツなどが多く勝地で、福知山藩主もここに遊んだとか。
今はずいぶん広い市立公園になっていて、動物園、植物園、児童科学館、総合体育館、武道館、テニスコート、わんぱく広場などがある。サルもおります。どっちがサルじゃいや、オマエもサルじゃろがの顔をしている…
猿山

猪崎城跡
三段池公園の入口の右側の小山で、地図にも城山とある。塩見利勝・家利の居城跡という。利勝は永禄-天正年間(1558-92)横山に居城した塩見大膳頼勝の三男。この付近を古くから監物山と字する。
利勝は天正7年明智光秀の丹波攻略の年に没するが、それより前細川高国方に属して功績をたて、利勝ならびにその一族は高国より軍忠状などをもらっている。光秀は同年8月20日、横山城を陥れ、引き続き当城を攻撃した。城主塩見家利(利勝の嫡子)は城に火を放って東方川北まで落ち延びたが、光秀方の武将林半四郎の追撃を受けて小字大砂利で殺されたという。
城山
猪崎新地と呼ばれた、これがメーンストリートだろうか、ここが大手口なのかも知れない、背後の山(北側の山)が城山だが、あちこちで崖崩れしている様子。猪崎城跡

城跡へはこの写真で言えば、この裏側から、三段池公園側からが登りやすい。














案内板がある。
眼下に由良川・福知山市街地を望む小さな丘の上にあるこの猪崎城跡は、今も「猪崎の城山」と呼ばれている中世の山城です。烏ケ岳、鬼ケ城などの山々から、由良川・土師川の合流部近くまで、長く伸びた裾野の先端にあります。
城の範囲は、東西150m・南北160mあまりあり、ほぼ円形のこの丘全域にあたります。
中核部分の主部(近世城郭でいう本丸)は、東西約45m・南北約50m、さらにこの主部の北西の隅には矢倉台らしき盛土も残っています。主部から1段下がった周囲三方(北・乗・南)には、高さ0.5m~3.5m程の大きな土塁(敵の進入を防ぐ城壁)があり、主郭との間は幅15m程の空堀となります。通路も兼ね、おそらく武者溜り(非常の際に伏兵を配置するところ)にも利用できるこの空堀は、福知山地方では最大の規模を誇っています。
さらに、その周辺には約10ヶ所余りの曲輪(城域を形作る平坦な区画)を裾に向かって階段状に付属させています。
これら空堀様式や曲輪の配置形式は、畿内では天文~永禄年間(1532年~1569年)に盛んに造られたことから、この猪崎城跡は、福知山地方では最も新しいタイプの中世城郭の一つと考えることができます。
天正7年(1579年)、明智光秀は丹波を平定し近世城郭福知山城を築造します。その直前の姿を今に伝える猪崎城跡は、私たちを戦国時代へと誘ってくれるでしょう。平成10年3月
福知山市制施行六十周年記念事業
協力 三段池公園整備後援会


猪崎新地
明治31年に、福知山町下柳から遊廓が当地へ移転し、猪崎新地と呼ばれていた。舞鶴で言えば朝代新地を思い起こす景観の町並みが残されている一帯。明治31年は20連隊が大阪城から今の福知山陸自のある所(曽我井村)ヘ移転してきた年であるが、舞鶴は舞鎮の海軍さん、当地は福知山20連隊の陸軍さんが主たる商売先であったという。もっと古くからこうした商売はあっただろうが、大発展をみたのはそうした得意先ができてからであったという。
明治末期には芸妓30名、娼妓100名を擁し、大正末期には妓楼78軒、娼妓160名となりピークを迎え、その後は下り坂、昭和33年廃止。

音無瀬橋を渡る芸者衆↑(福知山市・昭和初期)この頃川向こうの遊郭は全盛時代で、広小路の盆おどり会場はこの芸者衆の踊りから始まった。夏の夕方、吹き渡る涼風の中、風雅な木橋を踊り渡る風情は絶品であった。(『目で見る福知山・綾部の100年』より)

新地の家並み↑(福知山市・昭和初期)福知山踊りで華やかさをもたらす芸者衆たちの勤め先が新地で、三味線や小唄、歓声などがあちこちの2階から聞こえ、商業の町にいっそう活気をもたらした。(『目で見る福知山・綾部の100年』より)


猪崎新地
朝代と同じような作りの元遊郭らしい建物が、リホームの波が押し寄せるなか今なおあちこちに残っている。もう60年近い年月が過ぎているが、よく残ったものと思う。カメラ好きの皆さん、写しておいて下さい、もうまもなく消えるかも知れない。
猪崎新地の町並
猪崎新地の町並
何楼といったものか、立派な構えの建物も残されている。上官向けだろうか。こんな特に立派な建物は舞鶴には見られない。
どうやって娘達を見つけて教育して、それなりにゼニ儲けができるまでにして行くのか、資本とノーハウとあちこちに顔が利かなければできることでもなく、そうした経験と実績の積み重ねのシステムが密かに築かれていたと思われ、専門の大資本が経営したものか。
帝国軍隊の恥部というか、根本的にはニッポンスバラシイーデスネーの日本近代化史の恥部で、普通には現在社会の表面からは隠されているものである。
これが日本の「近代化」ということのもう一つの真実であった。近代化とは資本主義の高度化ということで社会はますます格差が広がるということである、一方にごく少数の大金持ちと他方には娘を売らねばならないビンボー人が多数作られていく。自由でしようとほっておけば避けようもなく、まさに近代理念に反することになってくる。
ひとつニッポン近代化遺産にでも指定してもらい全世界から見て貰うと、「日本のスバラシイ近代化」なるものを手放しで無反省に賛美ばかりしていると、その狭い視野からは見えない、そのヤバイ行き着く先を見ていくことになり、日本人にとってもよいことであろう。
遊郭街などと呼べばカッコはつくが、実態をとって日本軍慰安婦街と呼ぶのがいいのかも知れない。国内ですらこうしたことであれば、植民地や敵地で何をやっていたかはだいたい想像できるというものである。心ならずの「女子挺身隊員」や「慰安婦」が一体どれほどいたのかの正確なデータは残されていない。アジアで最大に見積もって30万人との説がある、それくらいにのぼったのかも知れない。
何のタメの戦争だったか、何のタメの近代化だったか、見えてきそうである。


《交通》


《産業》


猪崎の主な歴史記録


『丹波志』
猪崎村 福智山領
猪崎村ヨリ丹後国南山村迄壱里二十一町三十間、牛馬不通、但鬼ケ城峠国境迄三十四丁四十間
国境鬼ノ城峠峯ノ峯疆左右山並尾続峯疆道ノ境峯疆鬼ノ城ノ頂ハ丹後国也


『福知山市史』
猪崎の古墳(字猪崎)
醍醐寺から城山にかげて、いわゆる猪崎台地には数多くの古墳がある。醍醐寺参道の西側に点々と見られるのであるが、特に三段池の北部開墾地付近に多く、その中には石槨のあるものもあって、その墳石は前栽石などに持ち去られたという。どの古墳から発掘されたか不明であるが、醍醐寺には古墳出土物である長頸瓶とハソウが保存されている。なお、三段池より東方、猪崎の墓地の北方には「大塚」と呼んでいる円墳がある。昭和二十四年の秋この地の城山の南側に地すべりがあり、松の木がくずれ落ちたことがある。その時松の根の下から須恵器の破片と、幅及び高さ三~四センチの小壷が発見された。
 要するにこの台地一帯は、古墳が次々に設けられたところであって、その自然的環境は以久田野・和久寺・額塚等の古墳地帯と相似たところで、墳墓の作られるのにふさわしい地形である。
 稲葉山古墳
 市民の憩いの場として親しまれている三段池公園内の、近畿放送福知山放送局一帯は、烏ヶ岳の南西麓に広がる猪崎段丘の南端にあたり、海抜六○ないし七〇メートルのきわめて眺望の良い台地である。
 昭和三十年暮、三段池土地株式会社がこの地に宅地造成などの開発に着手し、三十一年春には幹線道路の敷設を終えるまでに工事が進捗したが、こうした工事の作業中、古墳の出土品らしきものが認められた。会社側では直ちに工事を中止して発掘申請を行い、同年五月、府文化財保護課長をはじめ、関係者による視察が行われたが、その結果は、古墳はいずれも外形が小さく、中央部が陥没しており、すでに盗掘されたものとして、未調査のまま工事が進められることになった。ところが翌六月二十三日、前方後円墳の土採り場からの搬出道路で、多数の埴輪片及び須恵器の破片が中川淳美氏によって発見された。これが稲葉山古墳群発掘調査の端緒となったのであった。
 稲葉山古墳群は、最大の前方後円墳を含めて一○基、この地方としては、その出土品の量、多彩さ、貴重さもさることながら、その発掘に当たって、福知山高校、桃映中学、成和中学生ら、多数の生徒の献身的な協力があり、これらの生徒の中から多くの優秀な郷土史家が輩出したこと、中川氏の努力、衣川金治氏の理解が、現在の稲葉山考古館として実ったことなど、稲葉山古墳発掘調査の経緯は、この地方の、文化の夜明けを知る上で必要な遺跡調査に、大きな足跡を残したと言える。
 一号墳 丘陵の西斜面に位置し、径二メートル、高さ一・三メートル、中央部がやや陥没していた。内部は粘土床・粘土槨で造られ、床の両端には木棺を支えたと思われる、礫を包んだ半円状の青粘土が認められ、瓶及び米の入った提瓶が発見された。
 二号墳 未調査
 三号墳 径一○メートル、高さ一・八メートル、主体部は、中央部・外側部及び裾部の三ヶ所にあり、外側部と裾のものについては、粘土床の中央に排水溝が検出された。
 四号墳 径一七メートル、高さ一・六メートル、礫床、礫槨で、床の北側に礫を青粘土で枕状に包み、南端には人体頭部の形をした青粘土が確認された。
 五号墳 径一○メートル、高さ一・三メートル、一号墳と同型式で、中央部に盗掘の跡があり、杯・高杯などが出土した。
 六号墳 調査時すでに破壊されていたが、工事の従業員の話などによって、礫床・粘土槨の内部構造をもち、床の両端に青粘土が置かれていたことが確認されている。出土品については不明。
 七号墳・八号墳 調査時の形状は六号墳とほぼ同様であるが、前者からは杯・坩・ハソウなどが出土している。また、八号墳の内部構造は竪穴式・礫床で、溝三条があり、床一面に少量の木炭が散布していたことが確認されている。
 九号墳 丘陵頂部に位置し、長さ二○メートル、横一七・五メートルの長方形で、中央部に葺石があり、一○基のうちでは前方後円墳に次いで大きい。二つの箱式石棺は共に礫床であって、礫の下部には排水溝があり、石棺の外側は青粘土で密閉されていた。一号石棺は後世に経塚として利用されていたものである。この古墳からは石枕・鉄経筒・和鏡・人骨二体などが出土したが、人骨は二体とも大阪市立大学解剖学教室に保管されている。
 前方後円墳・後円部径一四・五メートル、高さ三・七メートル、前方部両側一四メートル、前方正面一四メートル、高さ三メートルで、後円部の大部分の封土が持ち去られていたが、中央付近の表土からは多数の須恵器の破片が採取され、その下約一・五メートルには径五センチから一○センチの丸い川原石が横に並び、それらの石の表面には朱が塗られていた。また、後円部北側三ヶ所のトレンチによって埴輪の埋設並が確認された。
 この古墳からも多くの出土品があり、中でも朝顔型円筒埴輪・形象埴輪(小鳥・人物・馬・六絃琴)などが珍しく、とくに人物埴輪四体のうち一体には、目の縁に入れ墨が施されており、魏志倭人伝の「男子は大小と無く、皆鯨面文身す」の記述とも思い比べて興味深い。これら出土品のほとんどは、現地の「稲葉山考古館」に保存されている。

出土品の一部は今は総合体育館の一角の「稲葉山古墳資料室」に展示されているそうである。古墳はどこにあるのか、地図にはあるのだが、わからなかった。聞いてもわからなかった、消滅かも知れない。

『福知山市史』(地図も)

猪崎城(橘城)(字猪崎)
市内猪崎小字城山にあって、城址は今も「猪崎の城山」と呼んでいる。烏ヶ岳・鬼ヶ城などの山塊が西南方にのびた鞍部の先端にあり、ほぼ円形の河岸段丘で、標高六四・九メートル、麓からの比高およそ三四メートル・東西およそ一二○メートル、南北およそ一○○メートルが城域である。
中核部分の主郭(「近世城郭」で言う本丸)は東西で約三四メートル、南北で約四○メートル余り、この主郭の北西の隅に四メートルと五メートルの矢倉台らしい盛土を残している。そしてこの主郭の東から北、北から更に西へと底部でおよそ二メートル余り、上辺部でおよそ五メートル、深さおよそ五メートル(主郭側)程の空堀がめぐっている。通路をも兼ね恐らく武者溜り(非常の際に伏兵を配置しているところ)にも利用できたであろうこの空堀は、新庄城(市内新庄)の空堀とともに、この地方では最大級の規模をもっている。
 この頂上部の主郭の西側(大手口側)に、約四メートル低く幅(東西)一○メートル、長さ(南北)七○メートルの二ノ曲輪(仮称)、この曲輪の西北方に更に三メートル低い、カギ形の三ノ曲輪がある。幅(東西)約一五メートル、 長さ(南北)約六○メートルのこの一郭に井戸跡が残り、いまでも水が涸れていない。空堀をへだてた東側に約四メートル低く、東西一五メートル、南北一○メートルの曲輪、その東方に更に階段式に三つの曲輪を付属させている。他に南側と北側に四つ程の小曲輪があり、大まかにいって一○~一二の曲輪からなる中世式の城址である。
 この猪崎城の特徴は、主郭部の北西隅の矢倉台(主郭部の矢倉台を、そのまま短絡的に近世式城郭の天守台に結びつける意見もあるが)と、主郭部の背後を東から北へ、更に西へとめぐる空堀にある。このような空堀様式は、畿内では天文~永禄年間と推定される(村田修三「城跡調査と戦国史研究」『日本史研究』二一一号)ところから判断して、この猪崎城は、この地方では最も新しいタイプの中世式城郭の一つではなかろうか。前面(西方)に由良川をのぞんだ小丘陵は、古代豪族の屋敷跡を想定するのに最適の立地であり、古跡を利用しての築城ではなかろうか。
 なお、市道・民家を挟んだ東方三段池岸に、標高四七メートル(比高二○メートル)の小丘があり、土塁・空堀の遺構が認められる。三段池の改築、道路の拡張で往時の遺構の多くは破壊されたのであろうが、猪崎城に付属する砦の一つであろう。
 『丹波志』・『曽我井伝記横山硯』・『塩見系図』(塩見孝夫氏所蔵)など地元の伝承によると、猪崎城主は、曽我井荘の豪族塩見(横山)大膳大夫頼勝の三男利勝であり、その子播磨守家利の時落城といわれている。
前出の『塩見系図』の「利勝」の注記に、「塩見監物 筑後守 奄我庄井崎村ニ住ス 天文七年四月丹波松山ニ於テ赤井之合戦ニ偉大ナル勲功ヲ奏ス 依テ丹波管領道永公ヨリ一門賜フ 永禄八年三月大槻ヲ討テ雀部庄ヲ押領ス」とある。
 『福知山市史 史料編一』所収の『塩見家文書」十通(七通は高国、残り三通は弟晴国)によっても、この利勝・家利はある程度裏付けすることができる。しかし永禄八年(一五六五)八月の西丹波の氷上郡の赤井・荻野の天田郡侵入以後の塩見・横山一族の動静については、もう一つ信憑性のある史料が乏しい。従って天正七年(一五七九)の明智光秀の丹波平定時の猪崎城主、恐らく頂上部の主郭部に空堀をめぐらし、北方五四四メートルの鬼ヶ城を改築して詰の城とした最後の猪崎城主については後考をまつしか仕方がない。


猪崎遊廓の思い出
 遊廓は、元は町の土手にあったのを、軍隊が福知山に駐屯と共に猪崎に移転されたものである。初めは三十五戸の娼家であったが次第にその数を増し、芸娼家家約八〇戸、娼妓二〇〇人、芸妓一〇〇人と増え、地域も南方西方に田地を埋立てて拡がり、人家も二百戸に達する様になった。豪華を青楼軒を並べ○○楼△△亭の行灯が掛けられ、城山の上にはシンチと云うネオンも鮮かに点ぜられるに至った。至る所で管絃の音が響き男心を浮立たせていた。盆踊には橋の上を通り広小路まで、総勢二百数十名の美女が揃いの浴衣で踊って出る様は壮観を極めた。検番や検査所が置かれ、十合座と云う寄席が出来た程で、夜になると外部から入り込む客で賑い、紅灯の巷、不夜城の姿であった。俥の帳場も置かれ、こゝには外から十五六人が出勤して、客や芸者の送迎に忙しかりた。
 何分にも人肉の市と呼ばれ、性教育の実地訓練場であり、労働者の命の洗濯場でもあり、金さえ出せば若い女が自由になるのだから、若い男が耽溺するのも無理なく、到る所で悲喜劇が演出された。青楼の廊下で親父と息子とが鉢合せをしたり、同じ女に兄と弟とがせり合ったり、極道息子か留連するのを親父が金を苦面して迎えに来るもあり、夫が連日帰宅しないので女房が迎えに来るもあり、親父の知らぬ間に息子が金策に困り土蔵から米俵を持出したり、又親の知らぬ間に田地が人手に渡っていた例もある。又兵隊さんは休日になると歩兵と工兵が入交って繰り込み、よく歩兵工兵の喧嘩の場面もあり、巡察の週番士官の留め役の場面もあった。
 女にしてみれば、親の貧乏のため三年五年の年期で売渡され、苦海に身を沈めて楼主の命に服従するのだから、悲劇の妓も多かった。時には満期を待たずして身受けされるもあり、又満期はしたが重ねて身売りされるもあり、時には三反池に投身するのもあった。
 御霊祭などの紋日には、登楼客が多くて捌き切れないので、一時間の花を十五分に短縮して客を交代するので、売れっ妓になると一日何十人の客に接するのだから、最后には腰が立たなくなり二階から背負って下してやる位だったと云うから大した金穴であった。風紀の乱れなどこゝでは口にする者が野暮視されたが、又花柳病の伝染源となり、家庭悲劇の禍根を作り、犯罪発生の源泉ともなり、検挙の誘導場ともなった。本当に極楽でもあり地獄でもあり一種の別天地であった。
 かくて花やかに栄えた遊廓も、昭和四十年公娼廃止令によりこの幕は閉ざされたのであるが、今にして思えば豪華を極めた平家一朝の夢の感がある。

寒谷(泉谷)のこと
 寒谷は、現在戸数四戸の一寒村に至っているが、元は十戸以上もあり、猪崎の住民の内最古の住民であると聞く。先祖は井上四郎兵衛と云う。山が肥沃で水が清く、特に谷の奥には極めて明澄な泉が湧出した。藩主朽木公は毎日従者に命じて、この泉の水を汲みに来させて茶用に供したと伝えられている。依って寒谷を泉谷とも書く。足利尊氏が山越で初めて当村に這入ったのもこの寒谷である。又この地に昔鉱山があり、貞享年間に京都へ銀を献上したときく。奥の原野の附近に、現在でも鉱滓が捨てられているのはその時の遺物である。

照光寺について
 真言宗の寺院で、元は拠ケ谷にあったものを現在の地に移したものときく。村の中心地であるので子供の遊び場となり又若い男女の踊り場ともなって、毎年盆の頃には徹夜の踊りで賑った。当時は踊が最高の娯楽であった。
 この寺はよく火災に逢い、住職が焼死したこともある。
藩政時代には住職が寺小屋を開き、村内の子供を集めて読み書きを教えていたが、明治七年国令により学校が開かれ、猪崎、中村、池部の共同で教師を雇ってこゝで開校したのが、現庵我小学校の起元である。この学校はその后中村へ移転されるまで統いた。
 その后明治三十年代には報徳館と称する養蚕伝習所が建設され、塩見貞吉氏が教師となり、近郷の青年に養蚕技術を教えていた事もあった。
(『猪崎の伝説と民話』)

寒谷のサブは鉄の意味というのがわかる、鉄というか金属一般も含めてである。


伝説


女﨟池の亡霊 福知山市猪崎
 福知山の市街地から、由良川の音無瀬僑を渡ると「猪崎」というところがある。このあたりは由良川沿いに田んぼと竹ヤブの続く静かなところ。その猪崎の一角にいまでも女﨟(じょうろう)池という小さな池がある。この話はこの池にまつわる恐ろしくて悲しい物語-。
 昔むかし、この地の高台に立派な城があった。殿さまはよくできた人で、毎年秋になると、取り入れの終わった農家の人たちをお城へ迎えて酒をふるまったり、日照りや洪水で米がとれない年には年貢を少なくするなどで、地元の人たちは「殿さまはりっぱな人や」と慕っていた。
 ところがある年、となり村の軍勢がいきなりこの城に襲いかかってきた。そして一ヵ月にわたる激しい戦いの末、猪崎の軍勢は全滅、殿さまも討ち死に。落ちのびようとした奥方と三つになる女の子は途中で捕えられ、奥方が毎日茶の湯の水として使っていた女臈池のほとりで、二人とも首をはねられ、池は二人の血でたちまち真っ赤に染まった。
 その夜、となり村の城では、殿さまや侍たちが勝利を祝う酒盛り。宴もたけなわになった夜ふけ、一人の侍が「ギャー」という大声とともに腰を抜かしてしまった。居並ぶ武将たちが驚いて見ると、腰を抜かしたのは、昼間、奥方とその子の首をはねた若い侍で、手にした杯の中の酒は真っ赤。殿さまの杯の酒も血がにじんだように赤い。それに「よくも娘まで……」とカベに血でなぐり書きされているなど、時ならぬ事変にみんなはびっくり仰天。逃げ出して女﨟池のところまでくると、水面に女の子の手を引いた奥方の亡霊が……。
 それからお城では不吉なことばかり。殿さまも病気で亡くなり、城はほろびてしまったという。その後「よくも娘まで……」とカベに書いたのは「お世話になった殿様のかたき」と、猪崎のお百姓さんたちが書いたと村人の口から口へ伝えられたが、酒がどうして赤くなったかは、だれも知らない。
(『京都丹波・丹後の伝説』)





猪崎の小字一覧


猪崎(イザキ)
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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