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常願寺(じょうがんじ)
京都府福知山市常願寺


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京都府福知山市常願寺

京都府天田郡三岳村常願寺



 

常願寺の概要


《常願寺の概要》


佐々木川の支流常願寺川流域、日ノ尾の集落の西側の山あい奥深くに入ったところ。地名は地内にあった常願寺(成願寺)に由来する。成願寺とも記す。
枝村の新宮はもう一つ北の谷にあるが、いずれもアレ?道を間違えたぞ、こんなところに集落があるはずがない、ナビはこの道だがな、と不安に思いながら行く。そうですで、乞食もあそこで引き返したと言いますがな、この道は金谷村の田和という所に通じてますが、今はほったらかしの荒れ放題、鹿もよう行かん道ですで、ということであった。この村の練込太鼓は市の文化財です、と、文化財はやっぱり地域にとっても大事な物なのだ。
常願寺集落。背後の山は愛宕山、上に城があったという。
常願寺集落(福知山市)
中世佐々岐庄上山保に含まれ、近世は日ノ尾村の枝村。元禄・天保の郷帳などには記されないが、実際には一村として取り扱われ、『丹波志』に、「成願寺村 支新宮 綾部領高三百廿四石三斗 古寺ノ跡アリ 由緒不伝ト云」とある。また佐藤信淵の「巡察記」は、
土性口日尾村ニ同シ、田方九町四段五畝三歩、畑方二十六町一段二畝二十七歩、高三百二十四石三斗、此内ニ六十一石八斗八升一合無地高アリ、家数四十二軒、人別二百十二人、牛十九疋アリ
常願寺村は、江戸期~明治22年の村。享保5年作成の絵図によれば、当村は日尾村の枝村で、また当村の枝村に新宮村が見える(威光寺文書)。綾部藩領の分知により寛文元年から旗本九鬼氏知行地。
『丹波志』姓氏部には、当村を開いたという門氏(門田氏)が見える。
門氏 古佐々木 今門田氏ト成  日ノ尾村ノ内常願寺
此所日ノ尾村ノ出戸ナリ右丹後国竹野郡宇川村佐々木十兵衛ト云、筋目正敷家住居ス此家ヨリ分レタルト云、常願寺里を開クト云、紋丸ニ四ツ結浪人ニテ弓剱術之指南シ此地ニテ高六石買求メ今ノ宅地岨(いべ)ト云作家住人トナレリ苗字門氏ヲ名乗中古門田改四ツ目結エ木瓜ノ縁ヲ加フ近来ノ事ナリ。丹後十兵衛家ハ宇川上野村ニテ門(カド)トノ坊ト云修験山伏ニテ門ト云所ニ住メ居レリ依之名トス

明治4年綾部県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年三岳村の大字となる。
常願寺は、明治22年~現在の大字名。はじめ三岳村、昭和30年からは福知山市の大字。


《常願寺の人口・世帯数》 69・29


《主な社寺など》

森尾神社・白山神社
森尾神社(常願寺)
嶮しい石段をヨジ登ってたどりつく。正面のホコラの神額には「森尾神社」とある、中は森尾神社と白山神社のホコラがあるという。この社から愛宕山城跡へ登れるという。
森ノ尾大明神 常願寺村
  祭神   祭礼 六月十八日 九月廿一日 正月三日
白山大権現  同村
(『丹波志』)

森尾神社の祭神は多酒馳命であり、境内社には、三柱神社と蛭子神社がある。
由緒について、明治十六年の「天田郡神社明細帳」に、
 当村字城山ト申処ニテ昔御城郭有ト雖トモ既ニ落城及ビ其後村方二病気流行致シ或ハ出火等有之候ニ付村方養育類続及ヒ難、然ル処六部ノ泊リ合セ、右次第噺合候、付テハ高神様へ伺上呉候ハゝ、右同山麓ニテ字森尾ト申処ニ於テ先年落城シ節、宝物埋有之、故其恐ニテ悪事何程モ有之哉ニ申聞候、故右同所ニ於テ字名ヲ形取リ森尾ト名付、村中氏神ヲ勧請致居候処、年暦ハ不詳候得共、古老之申伝へ有之候、則元禄十二年再建致候儀ハ、棟札ニ明記有之候
とある。
尚、常願寺の門田氏は、『丹波志』の「門氏」の項によると、「字川上野村ニテ門ノ坊ト云修験山伏ニテ門ト云所ニ住ノ居レリ依之名トス」と記されている。
 以上の地区、神社が参加して、三岳祭が行われる。三岳祭の次第は次のようである。
 祭礼の世話は各村からの三岳役が行ない、供物等は野際が準備する。まず、宵宮の日(十月十六日)に神輿を野際の七王子神社(輿堂)から谷村の小和田神社に降ろして、飾り付ける。三岳神社の採り物は三岳役が持ち、谷村は印幟、上佐々木は桶などと昔から決まった役があった。各神社でも役が決められ、先にあげたような採り物を持ち、行列を組む。役によって、裃を着用するもの、白い装束のものなど衣装が決まっていた。そして、一の宮まで渡御し、その日は一宮神社で泊まる。夜食には、小豆飯やさしみが出た。
 翌日の本宮(十月十七日)は、常願寺の森尾神社が一宮神社に到着し、行列を作り佐々木神社に到着する。ここで芸能の披露がある。その後、トンノ(一本杉)に小和田神社、小野原の小松神社も含めてすべての神社が集合し、芸能を披露する。芸能は練り込み太鼓と三岳おろし(小野原)である。練り込み太鼓は、小野原、谷村、仏坂、一の宮、下佐々木、常願寺の各地区で伝承されていた。仏坂は客分で太鼓のみ参加した。昼食後、野際の七王子神社から登山をする。十六丁目の水舟のところで、下山保の区長の出迎えを受け、本堂へ向う。そこで祭典と芸能が終わると解散となる。
 翌十八日に宮本である谷村だけはお礼参りに上がる。この日は、太鼓を打つて七王子神社までいった。また、佐々木神社は三つの神社が合祀されているため、それぞれの神社の練り込み太鼓が披露される。このように、三日がかりで三岳祭は終了する。
(『福知山市北部地域民俗文化財調査報告書-三岳山をめぐる芸能と信仰-』)


熊野神社(新宮)
熊野神社(新宮)
地名の由来となった神社と思われる、新宮集落の一番奥、龍ヶ城山の麓に鎮座する。新宮熊野大権現、祭神に薬師・観音・毘沙門天を祀るという。裏側は岩壁になっている。社前の道を登って行くと龍ヶ城跡へ行けるそう。
新宮熊野大権現   同村竜カ城南麓ニ建
祭神 神体薬師観音毘沙門天三神トシテ勧請ス
本地堂別ニ在之
(『丹波志』)


愛宕山常願寺(成願寺)廃寺
何も資料がない。当寺の仏像と伝わる釈迦如来坐像が日ノ尾に残されている。

龍ヶ尾城・愛宕山城
龍ヶ城
愛宕山(338m)も龍ヶ城(645m)も山容が似た高山で、まことに龍が棲んでいそうな神秘的でおそろしげな姿をしている。鬼は棲む、龍は棲む、とにかくこのあたりの山々はものすごい、人間様なが棲むような所ではない様子。福知山城も別名を龍ヶ城と呼ぶそうだが、あそこはともかくもこんなに高い嶮しく聳える山に城があったのだろうか、あまり実用的とは見えないが、ずいぶんと古い時代の話ではなかろうか。

龍ケ城(字常願寺)
市内の小田から北にのびる佐々木谷(三岳谷)に並行して標高数百メートル級の山々が、山峡の西側に連なって天田郡夜久野町との境界をなしているが、その最高峰が佐々木谷の竹石(一ノ宮)・新宮(常願寺)、夜久野町の小畑にまたがっている六四五メートルの龍ヶ城山で、その頂上部分に中世城郭の遺構がある。
 中世の交通路や、一ノ宮の「馬場」、新宮の「寺屋敷」(これは後述する愛宕山城に関連する地名の可能性がある)などから、東方が大手口と推定できる。『丹波志』に「巽麓日ノ尾村ノ内常願寺也 南ハ田和村 西北ハ畑村 丑寅ノ方一ノ宮村」としている。頂上部に主郭、東西約四二メート化 南北一八メートル程の曲輪があり、西半分の周囲に低い土塁の遺構が残っている。西半分がやや低く、東西に区分されていたのかも知れない。また、東北隅に約三メートル四方の井戸跡が残り、内側は石積みで北方を土塁で固めている。北方及び東方でおよそ七メートル低く、幅四~五メートルの腰曲輪が付属している。西南方にもおよそ五メートル低い帯曲輪があり、北西より尾根筋を通る大手道は一旦この帯曲輪を経てから、主郭の西側を迂回して、南側中央部分から中核曲輪にしたようである。北西尾根筋の先端に虎口らしい遺構と、それに続く細長い曲輪跡があるが、縄張りの古風さ(後述する愛宕山城と比較すると歴然としている)と、頂上部分のみで居住性を余り考慮していない点などから判断して、この龍ヶ城は南北朝期にのみ利用された城ではなかろうか。
 『丹波志』の「古城部」に「古城主荻野出羽入道 牌ノ施主ハ同尾張守朝忠ト有」とある。荻野朝忠の活躍は西丹波の氷上であるが、丹波の守護仁木頼章から離反して、南朝方に加担して以来この地方を根拠地にしたのであろうか。荻野氏の名前は、以後この福知山地方にもしばしば記録に散見するところで、それは「位田の乱」(一四八九~一四九三)の中心人物として守護細川政元の徹底的な弾圧まで続く。
 また、『威光寺文書』にある天文年間(一五三二~一五五五)の「威光寺焼亡ニ付、地頭安福(富か)元常入道・寺田某建立」とか、「阿富(金山桐村氏の「中臣」・「大中臣」の訛伝と推定される)石見守元経入道」が朝忠の古城「龍ヶ城」に拠ったという古城は、その遺構からみてこの龍ヶ城ではなくおよそ二キロメートル東方の愛宕山城ではなかろうか。
(『福知山市史』)

天空の城・龍ヶ城跡

愛宕山城(字常願寺)
 常願寺・日尾・新宮にまたがる標高三三八メート化 比高一八○メートル程の愛宕山の頂上部分に中世城郭の遺構がある。東西およそ一一○メートル、南北でおよそ四○メートルが城域で、現在の登山道(杣道)は常願寺の森尾神社から通じるが、これはその遺構から推定して搦手道ではなかろうか。消滅しているが往時の大手道は東北方と思われる。
 頂上部の現在小さな祠のある主郭は、東西約一四メートル、南北一八メートルで、北・西・南の三方に低い土塁がまわっているが、南側のものは比較的大きく、上辺部で幅約二メートル、高さ一・五メトール程、東南隅に虎口がある。この主郭の南側に二メートル低く約一○メートル四方の曲輪があり、北側にも約四メートル低く東西約一○メートル、幅四メートル程の腰曲輪が付属している。この三つの曲輪の西側は幅三メートル程の帯曲輪が西から南にまわっている。帯曲輪の西側は更に約五メートル 約四メートルの落差をもった腰曲輪で固めている。主郭の東方は約七メートル低く、東西約八メートル、南北約二○メートルの一郭、そしてその東側に小曲輪が二つ階段式に連なり、その先方東にのびる尾根筋に長さ約二六メートルの細長い曲輪があって、その先端は物見台風の盛土となっている。
 龍ヶ城の遺構と較べるとこの方がより新しく、おそらく南北朝期に龍ヶ城の枝城または砦として築かれた古城を、その後大中臣一族と推定される阿富元経(大那珂富元経)が改築して、中世末ごろまで使用していたのではなかろうか。
 『丹波志』にも「古城山 日ノ尾ノ内 常願寺」とあるのみで何の記載もない。
(『福知山市史』)

愛宕山城


《交通》


《産業》



常願寺の主な歴史記録




常願寺の小字一覧


常願寺(ジヨウガンジ)
有田 赤道 荒堀 庵屋敷 岩岶 岩端 泉垣 猪ノ奥 後岶 榎峠 大田 大田峠 大田山ケ端 大岶 大畑 大が市 奥ノ山+百 岡ノ海 オノワキ ヲトシ 河原 亀ケ岶 釜ケ岶 カネ岶 ガマノ元 桐畑 岸間 桐ケ岶 黒見 黒実 栗ノ木 熊谷 杭が柿 小山+百 小山田 コモ田 コケ元 ゴンズガ岶 坂本 清水 椎ノ木 菖蒲谷口 下ノ向 シギ谷 シヨブ岶 シヤコウ 黍岶 ソサキ 高山 立石 棚田 棚田出町 田和田 大城宮 段子 段畑 大師田 チゴ坂 土橋 天神 寺屋敷 徳ケ坪 堂ノ本 堂ノ前 トウデン トチ元 中間 中河原 ナゴサ 西田 西ノ前 西ノ海 原ケ奥 花ノ木 馬場 馬場坂 馬場四辻 ハバキガ市 日代 平岶 肥垣 ヒルマバ 藤代岶 古屋敷 兵キ 細首 細田 桝石 間谷口 宮ノ下 三ツ尾 道間 向田 森戸 山ケ端 ヤナ谷 ヤブノ下 雪ズリ ユリ下 ユルギ 両前 六合田 若宮 木+元垣 有田 岩岶 猪ノ奥 梅ケ岶 後岶 榎峠口 大田 大岶 大畑ケ 岡ノ海 奥ノ岶 金岶 釜ケ岶 亀ケ岶 刈又 桐畑 黍岶 熊谷 熊谷道ノ下 黒林 黒見 栗ノ木 栗ケ岶 小岶 小ケ元 クロミ 桜ケ岶 才ノ木 菖蒲谷 菖蒲岶 城山 朱豆岶 下ノ向 シヤコウ ソサキ 田和峠 田和田 高山 辰ケ城 タイダ 大城宮 寺屋敷 天神奥 堂ノ元 中間 中川原 中ケ岶 長岶 ナゴサ 西田 西ノ海 早滝 原ノ奥 平岶 平岶空 火打場 肥垣 日代 東蔭 日ナタ 藤代岶 細岶 坊山 桝石 道海 向田 女良松 森戸 山ケ端 雪スリユノタワ 両前 六合田 ワサ田 高山尻 長畑

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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