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上柳(かみやなぎ)
京都府福知山市上柳


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京都府福知山市上柳

京都府天田郡福知山町上柳

上柳の概要




《上柳の概要》

由良川堤防に沿う町筋で、下柳町に続いて、京街道沿いの両側町であった。しかし今はない。このあたりがその跡地である。↓
上柳界隈
音無瀬橋のたもと、広小路へ下ってきた、水天宮や記念碑↑があるあたりで、今は「城下町通り」やその歩道、堤防のノリ面になっていて、家屋は一軒もない。
上柳(福知山市)

城下町発祥の地とされ、城下町建設当初からの町で、有馬豊氏時代(慶長-元和)の福智山城之絵図では北の下柳町を含めて柳町とあり、上下の区別がない。町名の由来はこの付近に柳の木が多かったからとも伝える。
町が上下に分れたのは江戸中期頃で、その境をなす付近は東に由良川の船着場下船渡があり、そこより西へ通じる街道は天田郡西部へ続くため、水陸交通の要地とされた。そのため町内は古くから問屋・卸店が多く金融の中心であった。また旅館や料理店が軒を連ねる繁華な地でもあった。朽木氏の時代には、下柳町とともに町奉行の通達を各地に通報する役を命じられており、その代りに諸役を免じられていた。
案内板↓
上柳の跡地案内板

上柳町 比処にありき 上柳町住人一同 記
 江戸時代初めに「柳原の荒無地を拓いて柳町を設け」 と古書にあるように、柳町は本格的な福知山城下町十五町の中で最初の町屋として登場した。江戸時代中期の広小路の造成に伴い上・下柳町に二分されたために、上柳町はここから南へ一五〇メートルほどで戸数二十数戸の小さな町になったが、山陰道に沿い、又、由良川水運の玄関口に当り、商家、旅館、茶店等が軒を並べ、人通りの絶えない町筋として繁栄を極めた。
 藩政時代、藩の緊急指令を村々へ伝達する『走り役』を下柳町と共に引受けたのも最古の町屋の誇りであり、最初の火の見櫓が設けられたのも上柳町であったという。
 明治以降も、多くの問屋・卸屋に加えて、銀行が開設されるなど、経済的な繁栄と併せて、旅館や料理屋が軒を連ねる繁華な町でもあった。
 第二次世界大戦後、山陰道が一級国道九号へと改称されるに伴い、市内一の車両交通量の多い町筋となった。
 昭和四五年には、戸数=三〇戸、人口=一〇六人である。
 この数は誕生当時と大きく変化はしていない。それだけに、長い歴史を持つ町筋らしい落ち着きと、町内会として仲の良さは定評があった。元日の朝などは、全戸がそれぞれの門口に立ち、一斉に年賀の詞を交換し合い、祝日にあっては国旗が全ての家々に揃って掲出された。
 しかし、昭和五四年に始まった福知山都市計画道路厚水内線工事と、府道の改修に伴う音無瀬橋の架け替えによって、「道」と「河」で栄え、永い歩みを続けてきた城下町福知山最古の上柳町は、「道」と「河」の新たなる展開の中で、悠久の歴史の中へ静かに歩み去ったのである。
 時に、蛍火川面に明滅する平成四年文月末日のことである。



上柳町は、江戸期~明治22年の町名。明治初年~22年は福知山を冠称。江戸期は福知山城下15か町の1つ。由良川堤防に沿い、但馬(京)街道筋に形成される南北の町並み。
明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年福知山町の大字となる。
上柳は、明治22年~現在の大字名。はじめ福知山町、昭和12年からは福知山市の大字。
明治37年に阪鶴鉄道福知山駅が設置され、かつての交通・経済の中心地としての活気を失った。都市計画によって平成4年消滅した。

《上柳の人口・世帯数》 0・0


《主な社寺など》

対岸の猪崎と結ぶ橋。アーチの巨大な橋桁が印象的である。
音無瀬橋(福知山市)
音無瀬橋・府道55号線↑↓
音無瀬橋
音無瀬橋(福知山市)

由良川(音無瀬川)を渡る、昔は渡船だったが、明治10年頃に初めて橋が架けられた、今のは6代目だそう。
案内板がある。↓
音無瀬橋案内板
音無瀬橋
大川端の賑わい
三たん(丹波・丹後・但馬)の中央にあって、古来軍事、交通の要衝として開けた福知山城下町が、朽木氏入部の頃から目覚しい発展を遂げたのは、何といっても、寛文十二年(一六七二)の西廻航路の開発に伴う由良川水運の画期的な発達のおかげでした。最も早くから由良川水運事業に乗出した福知山商人の活躍の結果、福知山は京、大坂と丹後、但馬、北国を結ぶ商業の中心地としての位置を確保し、越中の富山や加賀の大聖寺と肩を並べる商業の町として、丹波の大坂と呼ばれるまでになったのです。
明覚寺裏の上船戸、広小路正面の下船戸の二か所の舟番場には、一日平均十隻内外の二十石積みの高瀬舟が出入りし、河岸には貨物や旅客が溢れ、これを監視する藩の舟番所には、町同心が常駐して、こまかく目を光らせました。やがて河岸の賑わいが上船戸から下船戸へ移るにつれて、広小路を中心に上・下柳町が城下町の顔になり、有力商人や宿屋、茶店が軒をつらね呉服町にあった高札場や本陣までも広小路へ移りました。
文化二年(一八〇六)福知山を通過した大坂の商人吉田庄六は、その道中記に「呉服町通りの両側はあきんどや多し、広小路の左右には、きれいな、きれいな宿屋、茶店あり、丹後へ下る船は一人三十八文で宿屋より世話致す」と書き残しています。
かつて、河守元伊勢神社の大祭日、旧暦の三月十六日には臨時の乗合船が下船戸から出ました。着飾った若い娘もたくさん乗込み、ひときわ華やぐ船に向って、陸を行く若い衆から掛声もかかり、上方落語の「野崎詣り」の風情さながらであったといいます。
その後、鉄道並びに陸上交通の発達に伴い、由良川水運も次第に衰えていきましたが、問屋街、商店街、歓楽街の集まる広小路界隈は、江戸時代以来の賑わいが衰えることなく続いてきました。今日のように福知山駅周辺にその賑わいが広がったのは、そんなに遠い昔のことでもなかったのです。
六代目音無瀨橋は、こうした昔からの大川を中心とした発展の歴史と、今も続く福知山おどりや花火大会等の賑わいを旧橋から引継ぎ、福知山市のシンボルとして末長く市民に親しまれることを願い、平成七年三月に道路整備と河川改修事業で完成しました。

音無瀬橋の変遷
江戸から明治の初期まで、渡し船による渡河
初 代 明治10年頃(1877)幅60cmの板橋が架けられる。
第二代 明治28年(1895)5月28日本格的な木橋竣工
    明治29年(1896)8月30日大水害で流失
第三代 明治引年(lS98)明治28年の橋と同じ位置に木橋の架設
    明治40年(1907)大水害により流失
第四代 明治42年(1909)6月旧橋の上流40mに木橋竣工
    大正11年(1922)橋脚が補強される
第五代 昭和7年(1932)5月21日ゲルバー式コンクリート縞竣工
    昭和29年(1954)堤防改修により猪崎側へ62.7m延長
第六代 平成7年 0995)3月17日 バスケットハンドル型ニールセンローゼ桁橋が竣工開通

五代目音無瀬橋への手紙
音無瀬橋へ
信じられません あなたが姿を消すなんて。
幼い日 一六夜店・ゑびす市・映画館への道
あなたと会いました。
そして 中学への三年間 高校への三年間
それから 嫁ぐ日まで あなたとの出会い
がありました。
愛し児を連れて あなたと花火も見ました。
なつかしく 甘いやさしい 思い出が
一杯一杯 心に満ちてきます。
そんなあなたと さよならする日が来るなんて。
あなたを このまま そっと残してほしい
なんて 無理ですか 夢ですか。
さみしいんです あなたが消えてしまうことが。
最後の日 私はあなたに会いに行こうと
決めています。
ありがとう と 心から 言いたいのです。
●これは、五代目音無瀬橋への思い出を募った手紙である。



《交通》


《産業》


《姓氏》


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伝説






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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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