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丹波の

川口郷(かわぐちごう)
京都府福知山市


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京都府福知山市

京都府天田郡

丹波国天田郡川口郷

川口郷の概要




《川口郷の概要》

平安期の「和名抄」に見える丹波国天田郡10郷の1つ。川口郷(かわぐちごう)。高山寺本・刊本とも訓注はない、下野国芳賀郡川口郷、越中国射水郡川口郷、筑後国御原郡川口郷は訓注がない、武蔵国多摩郡川口郷を「加八久知」(高山寺本)・「加波久知」(刊本)、越前国坂井郡川口郷を「加波久知」(高山寺本)とするので、カハクチと読むのであろうか。
古代の川口郷の詳細は伝わらず、郷域などについて正確なことは不明である、たぶんだいたい牧川の河口付近をさしたものと推定されている。金山や三岳方面の山地がどうだったのかは不明。平安期には京都から丹後国府に至る街道が当地内を経由して与謝峠に至っていて、花浪駅が当地内にあったとされる。
中世は川口荘で、鎌倉期~室町期の荘園名に見える。文治2年4月8日付の醍醐寺文書目録の「未沙汰文書櫃一合納」のうちに「一結丹波国川口庄文書」 とあるのが初見(醍醐雑事記・鎌遺84)という。平安・鎌倉期は醍醐寺領であった。
南北朝期の観応2年2月10日付の足利義詮袖判下文によれば「丹波国河口庄内〈毛利掃部助跡〉」などを久下三郎左衛門尉貞重に勲功の賞として宛行っている。
貞治5年10月2日、足利義詮が「丹波国河口庄内蓮台寺分〈牧八郎入道玄衣跡〉」を篠村八幡宮に寄進、同年10月5日には丹波守護山名時氏に命じて下地を三宝院雑掌に打渡す(醍醐寺文書1・大日古)という。

川口郷の主な歴史記録


川口郷
和名抄に見える川口郷については、大日本史国郡志には「今川口荘、属村二十一、在奄我西」とあり、日本地理志料には丹波志に「川口郷廃し、川口荘存す。牧・十二・立原・小田・長尾・田和・梅谷・野端等の二十一邑を領す云々」とあるを指摘している。次いで大日本地名辞書には今の上川口・下川口(現在市内)の三村であるとしている。ただここに考うべきは和名抄の何鹿郡に余戸郷があって、これがこの川口の天津でないかという説である。大日本史国郡志には、按今上下天津村属天田郡与本郡相接蓋其遺也とあり、日本地理志料には按天田郡有上天津下天津、二村、与本郡犬牙相交天津余戸一声之転蓋其地也。とあり、「あまづ」は「あまど」の転訛というのである。この余戸云々については、天津は何鹿郡に接せずむしろ加佐郡に近い、今後の検討が必要であろう。
 川口郷は牧川の下流でこの川はこの地で由良川と合流し、交通系統から見ても要所である。郷名も牧川の川口付近ということに由来するのであろう。下川口天津の是社神社の伝説はもちろん史実ではない。奈良時代以前においては漆カ端も、下天津より下も道らしい道は無かったことであろう。平安時代になって、京都から丹後の国府へ通ずるためには、大呂から花並峠を越えて長尾に出て、それから北上して雲原から与謝峠を越え、加悦・岩滝をへて府中に達したらしい。もっとも牧あたりは前面にかなりの平地があり、南向の台地で洪水の害がないから、古墳も多く早くから開けていたところである。奈良・平安時代にはこの地に関して著しい史実はないが、牧の西方院などは、行基の開山と伝えることは別としても、平安時代に建てられたように思われる。下って鎌倉の初め建久四年(一一九三)、源頼朝の臣牧勘右衛門が平家の残党川口平内左衛門を滅ぼしたということは、その地の一宮神社の縁起などとも照合して、あながち否定し去ることも出来まい。北条氏執権時代の正中二年(一三二五)鎌倉幕府政所の下文に、天田郡川口郷が出ている由であるがまだ原拠に接しない。その後南北朝時代には、正平六年(観応二年 一三五一)に久下時重が領家職となったといい、正平二十一年(貞治五年 一三六六)に将軍足利義詮が篠村八幡社に寄進したという、牧八郎入道玄衣所領の河口庄の地などはおそらくこの地のことであろう。(醍醐三宝院文書貞治五年の部参照)
 その後河口庄が三十年をへても篠村八幡宮領であったことは、応永三年(一三九六)の同社領に対し、幕府が役夫工米以下の諸課役を免じた左の記録、及び同六年(一三九九)に、これが三宝院門跡に転属された文書によっても知り得よう。
  後鑑 巻百四 義持将軍記二 応永三年十月
 廿五日庚戌依丹波国篠村八幡宮領諸役免除事前将軍家給御書於細河右京大夫入道
  諸事文書纂載
 丹波国篠村八幡宮領当庄並同国佐伯河口両庄(社領分)黒岡光久等事役夫工米以下諸役免除之上者守護人使等向後令停
 止催促可全所務之状如件
  応永三年十月廿五日           御判 ○満
    細河右京大夫入道殿
(前将軍家は足利義満であり 細河右京大夫は時の管領細川頼元である)
  後鑑 巻百七 義持将軍記五上 応永六年四月大
 十三日癸丑依丹波国篠村八幡宮領事管領基国入道伝書於細川右京大夫
  諸寺文書纂載
 丹波国篠村八幡宮領篠村庄同国佐伯庄地頭方佐佐岐河口黒岡光久等事任去月廿二日安堵可被沙汰付三宝院門跡
 雑掌之由所被仰下也仍執達如件
  応永六年四月十三日  沙弥判
   細川右京大夫殿
 それから約五十年余り、将軍義政の代になると、細川・山名両管領家の間に争いが起こり、幕臣や諸国の守護大名は両派に分かれて戦うこと十余年、いわゆる応仁の乱が起こた。丹波はその地理的位置から両派の争奪地となり、夜久郷では但馬に勢力をもっていた山名方との間に戦いがあり、文明元年(一四六九)九月山名方の垣屋越中守が侵入して、河口庄や和久庄まで侵したこともあった。
 室町の末、戦国時代に近づくと、横山(福知山)城主横山(塩見)大膳正頼勝が諸氏をこの地方の要塞に配置した時、五男牧伊織介利明を川口庄に置いたことも郷土史料に載っている。戦国時代のことはこの土地のことも明らかでないが、藩政時代は、上天津・漆ケ端・下天津・牧・十二・立原・下小田・上小田・田和・宮垣・猪野々・梅谷の諸村は福知山領、北(喜多)・野条・天座・行積・長尾・一尾・大呂・夷・瘤ノ木・野端・上佐々木・下佐々木の諸邑は保科越前守領、大内村は武田越前守の知行所であり、常願寺・日尾は綾部領となっており、日尾村の一部と一ノ宮は九鬼十郎左エ門の知行所というふうに多くの領主・旗本に分属していたのであった。
 丹波志、川口郷の項には当時この郷に所属の村々について次のように書いている。一応村名だけ挙げておこう。
 川口郷 今庄ト唱 上天津村(勅使 平ツカイ 波江 石元)  (古上天津村支)漆ケ端村 (同上)下天津村  金谷口 牧村(支佐原 市場 馬場 見介中筋 岩出 坂津 平石 上ケ) 十二村 (古十二村支)立原村 (古十二村支)大内村 北村(今喜多) (古下野条村支)上野条村 下野条村(中古金山郷ト云 天座 行績 長尾 一尾 大呂 瘤木北村 日尾 上野条) 天座村(古甘座ト作 支登尾 ニイ子) (支)本村 (支)平野(ケレヤ谷) 行積村 長尾村 一尾村(古花倉也) 大呂村(支桐村 奥谷 (古野端村支)夷村 成願寺村(支新宮 古寺ノ跡アリ由緒不伝ト云) 日ノ尾(支一ノ営 支常願寺) 一ノ宮(支戸倉) (本村)日ノ尾 (古大呂村支)瘤ノ木 野端村 上佐々木村(小野原トモ云) 下佐々木村 (古上小田村支)下小田村 (ムソチ カキモト 下小田) 上小田村(大身トモ云 支野篠 スミジヨ 宮地 小山) 田和村 宮垣(ミヤガイ)村(本村岩戸 池ノ内) 猪ノ野村(支池ノ内猪ノ野) 梅谷村(梅谷ノ庄 宮垣 猪野々 田和 上小田 下小田 十二 野鼻)
 右によれば、中古金山郷と称していた地域は、明治中期以後旧金山村の外に旧下川口村北部の一尾・瘤ノ木・旧上川口村北部の大呂・瘤ノ木方面であって川口郷としては北部一帯の山間地域として、小田・野花・立原・牧・天津方面とはすべての点で相違し、いわゆる人文地理区を異にするものといえよう。金山郷は歴史編室町時代天寧寺を中心にこの地方を研究する場合、念頭に置くべき地方である。
(『福知山市史』)




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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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