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丹波の

川北(かわきた)
京都府福知山市川北


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京都府福知山市川北

京都府天田郡雀部村川北

川北の概要




《川北の概要》

烏ケ岳(536m)の南麓台地の下に位置し、南を由良川が西流する。集落の南を東西に府道74号(舞鶴綾部福知山線(旧舞鶴街道・物部街道))が通る。東に高竜寺山(195m)があり、当地では高林寺山と呼んでいる。
川北村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福知山藩領、元禄8年から柏原藩領。明治4年柏原県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年雀部村の大字となる。
川北は、明治22年~現在の大字。はじめ雀部村、昭和11年福知山町、同12年からは福知山市の大字。
地内を物部街道が走り、由良川沿いに船場があった、茶屋・料理屋などもあり旅人などの休憩所となっていたが明治40年の大洪水で流出したという。

《川北の人口・世帯数》 464・192


《主な社寺など》

古墳群

稲粒神社
稲粒神社(川北)
こんな案内板があった↓
稲粒神社の案内板

村社 稲粒神社 (指定) 雀部村字川北鎮座
祭神 宇気母智神
祭日 十月十七日 氏子
(『天田郡志資料』)

由良川北岸ののどかな所だが、このあたりも海軍の航空基地になり、対岸に滑走路が作られ、防衛用の砲が山々(東の高林山や西の猪崎との境の山)の頂に据えられ、それらを建設するために朝鮮人工人たち連れて来られ当社境内にも住んでいたという。もうサイパンも堕ちた最後の頃であったという。
それもすっかり忘れてしまい、ニッポン強い、弱いアメリカ助けると、チョー愚かな歴史を繰り返さねばよいが、テメエらがそういたキチガイ考えで先頭立って行くというならまだよいが、タヨンナイバカ御大どもはそれは決してしない、強いのは口先だけである。


曹洞宗須弥塔山頼光寺
頼光寺(川北)
源頼光が大江山鬼退治の途次ここに宿泊したという伝説がある寺であるが、それもさることながら、珍木「なんじゃもんじゃの木」で有名で、山門の脇の白い花咲く木がそれである。咲くのは五月の連休頃である。
なんじゃもんじゃの花
案内板に、ナンジャモンジャの案内板
ナンジャモンジャ
江戸時代に「ナンジャモンジャ」の木と呼ばれているものには、「クシノキ」「カキノキ」「ヒトツバタゴ」などがあるが、当寺はこの中の「ヒトツバタゴ」である。
「ヒトツバタゴ」は、中国名を「流蘇樹」(リュウスジュ)といい、成長すると高さ三〇米、径七〇糎にも達する雌雄異株のモクセイ科の落葉高木である。
花は、五月上旬から中旬にかけて枝先に円錐状の花房をつけ、白色の花びらは四つに深く裂けている。
日本での自生地は不明であったが、明治時代に愛知県犬山市の山中で自生していることがわかり、現在のところ、分布地は本州(愛知・岐阜)、対馬、朝鮮、中国、台湾である。また、愛知県犬山市などの自生地では、国の天然記念物に指定されている。
尚、当寺の木は、大正時代に檀家の方が仕事で朝鮮半島に渡り、帰国に際しお土産として持ち帰り植樹したもので、京都府では他に岩滝町で確認されているだけである。


須弥塔山頼光寺 禅曹洞 知識地 川北村
福智山久昌寺末 寺開山    応永元年建立
古ハ真言宗ノ寺歟 境内ニ古塔有ト云伝フ
(『丹波志』)

須彌塔山 頼光寺 (曹洞宗)雀部村字川北
本尊 釈迦牟尼仏   脇立 左 文殊菩薩、右 普賢菩
開基 寂室空心大和尚  中興 安慶龍隠  重興 鎮霊玉邦
創達 応永二年二月 後、延宝二年本堂庫院再建、天保七年現在伽藍再々建
(口碑)当寺もと鬼岳林頼光寺といひしよし、何れも山号、寺号は相関連して仏徳を称揚し仏法紹隆の主旨あれとも当山は斯る水月相映ずら趣なし、彼の伝説の大江山鬼退治の源頼光密に当地に寓せし址に、僧行基の作として当寺祠堂の本尊地蔵菩薩の木像あり、丈け二尺の立像にして二百余年前に修繕されしものと云。
 開基、寂室和尚は何鹿郡梅迫安国寺より来往せられ此祠堂の仏像を本尊として開かれしかと云
檀家 百六十戸  財産 寺領約拾五石外に基金若干
富山第八世圭明和尚は明治初年学制発布の際より児童の教養に尽された。(校舎建築以前は当寺の一部を仮教室とせり)和尚、姓を吉祥とふ、没後和尚の薫陶を受けし者相謀りて吉詳会を設け毎年相会して遺沢高風を追慕せり、著者少牡時代和尚に接するこ屡々真に良教師とおもへり。
○郡西国第九番 御詠歌  それそれに身をかヘ法をときわけて清きみ声の法のみ仏。
 郡新四国第五十七番の札所。
 現住立身秀峯師は東京哲学舘其他にて仏学漢学を修めたる人なり。
寺鐘 …
(『天田郡志資料』)

福知山市寺の補巌山久昌寺の末寺
(『天田郡志資料』)

梵鐘は古い物、戦時供出で兵器になるのを免れたという。案内板には↓
頼光寺梵鐘の案内板

福知山市重要資料
頼光寺古梵鐘
 頼光寺の梵鐘は、福知山市内で最も古い梵鐘と言われ、その鋳造時期は、江戸時代初期の延宝四年(一六七六年)で、徳川第四代将軍・家綱の時代です。
 梵鐘は、どこのお寺でもだいたいあるものですが、をの多くの梵鐘は、戦時中に「戦時用物資」として供出され、ほとんどが戦後新たに再鋳造されました。
 しかし、頼光寺の梵鐘はその供出を免れた福知山市の四ケ寺の一つとして有名です。(他には猪崎の醍醐寺・奥野部の長安寺・大呂の天率寺があります。)
 戦時用物資の供出は、戦争(太平洋戦争)の開戦(昭和十六年(一九四一)十二月八日)から一年を経ずして開始され、各市町村の「金属類統制課」が窓口となり、寺院をはじめ一般家庭からも鉄、鋼、真鍮などで造った道具類が集められたとのことです。
 頼光寺にも、その当時の供出書類が三枚残っておりますが、それを見ますと、一枚目には、「火鉢」「洗面器」「仏具」など十八種類・総重量が九十二貫目(約三百四十五キロ)あると明細書に記載されております。二枚目には、「半鐘」(本堂内の小さい鐘)についてで、福知山駅から岡山県宇野港の三菱鉱業へ直送するよう指示がしてあります。
 最後の三枚目には、「梵鐘」についての通知書で、昭和十七年(一九四二年)十一月九日の日付があり、「歴史的、美術的価値あり、保存の必要あり…」と書かれ、福知山市役所の角印が押されています。
 当時どのような基準で梵鐘が残されたのか分かりませんが、梵鐘の鐘身部分に百字からなる漢文の銘文が刻まれていたからなのか、ぞれとも鐘の下部に天皇家の紋である「菊の紋」が浮き彫りにされていたからなのか、今となってはをの理由は不明です。(尚当寺の梵鐘の「菊の紋」は十二弁で、天皇家のは十六弁です)以下、その銘文を紹介します。


本堂がない!(手前の今サラ地になっいる所にあったのだが)

昨年(2014)の8月の豪雨により裏山が崩れてその土砂で本堂を傾けた、今は取り壊されて本堂はない。まだ崩れそうだということか、土嚢を積んで様子見のよう、小さな谷があり土石流の発生が避けられないような地形かと思われる。何百年かごとに人が完全に忘れた頃に必ず発生する場所と思われる。そう思って見てみれば当寺のある高台そのものがそうした何代もの土石流で出来たものであろう。どうすればよいか自然相手なだけに判断が難しい。

東禅寺廃寺
今の地図でも「東禅寺」とあるのだが、すでにその寺院はなく、お堂だけであるという。高い場所のようで下の府道からはどこにあるのかわからなかった。
創建年代そのほか詳細は不明だが、永正7年(1510)の室町幕府奉行人連署奉書(松尾大社東家文書)に、
 松尾社領丹波国雀部庄内東禅寺分事、勤日供以下厳
 重神役之処、依押妨既及闕怠云々、太不可然、不日
 退其妨、可令全社家直務之由被仰出候也、仍執達如
 件、
  (永正七)
   六月十七日       飯尾貞運(花押)
                 松田長秀(花押)
     柳本殿
とあり、松尾社(京都市西京区)と関係をもった寺院であったことがうかがわれるという。「丹波志」には「東禅寺古跡 川北村 薬師堂有」とみえる。この薬師堂は現在寺跡近くの字多光(たこ)にあり、堂内には「貞治四年 大工彦四郎」と銘のある大日如来坐像(市指定文化財)と、薬師如来・日光菩薩・月光菩薩の三尊がある。
寺跡のある台地を下りた所に記録寺(きろくじ)(喜録寺とも書く)という集落がある、おそらく東禅寺に関係した地名であろうという。
その先猪崎の方へは山のすぐ下に川が迫っていて今でもキモイ道、喜録寺キツネの有名な伝説が残る。


川北城跡
川北山ヶ市城跡


《交通》


《産業》


川北の主な歴史記録


『丹波志』
川北村 柏原領
高千百拾六石七斗八舛四合
此地水源福智山条下ニ記 川北村ノ奥印内峠ヨリ南ノ地水源烏岳ノ水川北ノ下ニテ大河ニ合
川北村ノ地ハ大河ヲ隔北ニ在テ雀部ニ属ス 南ニ間ニ河有作場ノ舩アリ土村迄十町又西エ出合エ行猪崎村道十五丁斗西福智山道但町裏ニ大河渡舟アリ三十町
北ニ池ノ谷奥ニ左右エ通有 左ハ竹ノ裏嶺、何鹿郡上報恩寺村迄十五丁計 本道右ハ七曲リ嶺 何鹿郡下報恩寺村迄十五丁斗 本道在中艮ニイヲタ嶺 何鹿郡印内村道十八丁斗牛馬道 大河ヲ右ニ見テ東エ何鹿郡私市村迄十五丁斗本道嶋ニ桑アリ

『福知山市史』
川北の古墳(字川北)
 川北は烏ケ岳の南ろく、福知山湖底堆積層が侵食された河岸段丘に位置し、長田野と同じ形成になる里山の頂上または中腹に数多くの古墳がある。東から
 上村山古墳群 1~4号墳(円墳) 小字上村
 大砂利古墳群 1~4号墳(〃)  小字大砂利
 寺山古墳群  1~4号墳(〃)  小字大砂利
 太光山古墳群 1~10号墳(〃)  小字太光山
 記録寺山古墳群1~6号項(〃)  小字記録寺
と呼ぶ。
 由良川をはさんで、宝蔵山・八ヶ谷・中坂・上野平と対比する中で、横穴式石室らしいものが多く、土師部の影響で石材の不足を補う南岸に対し、河原石の積み上げや、記録寺山の閃緑岩の利用が目立つのが北岸の川北地方である。正規の発掘調査はされていないが、小規模のものが多い。
 太光池の西と東に、どちらも頂上(七〇メートル)から南端中腹(二五メートル)にかけて円墳が並ぶ。西の先端部二五メートルの段丘、「段の田」は水田が開け、「丹波志」記載の「川北の東禅寺跡」通称「薬師田」がある。そのすぐ背後の傾斜地の畑(現在茶園)から、昭和二十六年十月、直刀(六○センチ)及び渦文の須恵器片二~三が採集された。
 この薬師田からは明治四十三年、太光池の東段丘南端中腹で完全な横穴式石榔が発見されている。薬師堂の前庭西隅のあたりで、記録寺山不動滝付近に露出する閃緑岩で長方形に囲み、同種の石でふたがしてあったという(その石は今も前庭に並んでいる)。歯ならびの美しい。少し小さい人骨が埋葬され、まわりには朱がつめられていて左右に一ふりずつ直刀がならび、多少の副葬品もあった。これらはすべて同地に埋葬され、古い五輪塔が上に建てられている。
 この段丘の頂上南端に、河原石(頭大前後)が周りに積まれた平地の畑跡がある。古墳の河原石をつんだ石榔をつぶしたとみられるが、ここから茶筒様のさびた物が出たという。古墳が経塚となっていたものではなかろうか。もともと付近は洪積層で石材が得難く、川北の民家は河原石で石垣を積んでいる家が多い。
この石榔もその意味で生活の知恵と考えたい。この頂上に三基、円墳らしいものがある。太光池西の段丘頂上の三基(円墳)、段の田西の三基(円墳)、共に長田野と向かい合い、小規模ながら多様性に富む工法に、生活の工夫が想像でき興味深いものがある。この奥につづく字広所(谷中分水嶺)の上にも、高さ一~二メートルの円墳四基が完全な形で残っている。由良川の出水に影響されず、湧水水田地帯として生活の適地であったのであろう。
 川北東部上村山の四基は、割石が露出しているものもある。既に石材が運び出されて庭石となっているものもあり、須恵器も出土したという。
 大砂利の古墳は狐塚と呼ばれ、竪穴式石室と思われる。直径一○メートルの円墳で、七基ある。
 川北最西端の記録寺山の六基は、記録寺の伽藍の屋敷地として後世利用ざれこわされたらしい。他は未調査のままである。

『福知山市史』(写真も)東禅寺の石仏
東禅寺
 福知山市字川北に小じんまりした堂が残り、その中に薬師を中心に諸仏を安置し、区によって管理されている。その堂内には注目すべき石仏が祀られている。その背には「貞治三季 大工彦四郎」と刻まれており、福知山では最古の重要な石造物である。貞治三年(一三六四)といえば、南北両朝の対立が続いて国内は全国的な争乱が展開されていた時期であった。『丹波志』の「古跡」には、
  東禅寺 古跡 川北村
      薬師堂 有
とのみあって、東禅寺の縁起にまで触れるには至っていない。ということは、『丹波志』のできた江戸時代後期には、既に廃寺となり、その由来をとどめる一切のものが無くなっていたと思われ、相当、古い寺院であったと考えられる。
 さて東禅寺という寺名を伝えているものに『松尾大社文書 〔東家文書〕』(『福知山市史 史料編一』)がある。それは、永正七年(一五一○)六月十九日付の「室町幕府奉行人連署奉書」という書式にのっとったもので、内容としては「京都の松尾大社の社領のなかで、雀部荘内の東禅寺は毎日の勤行をはじめ、神役を厳重にとり行なってきた。しかし、このごろは東禅寺分にあてている社領が押妨されて非常に困っている。従って今後は、押妨者を退けて荘園領主である領家の松尾大社が、直接、年貢を徴収してその確保に当たる」ことを柳本某に命じているものである。宛先の柳本というのは具体的に名前は出てこないが、当時、丹波の守護であった細川高国の身辺にあり、のち暗躍する柳本賢治、またはその一族をさすのであろう。
 雀部荘内に東禅寺があったことは確かであるが、その位置は分明でない。いい伝えでは、川北の段ノ田というところであったとしている。
『松尾大社文書〔社蔵文書〕』の建武二年(一三三五)の「後醍醐天皇綸旨」の中に「寺方の事」というのが出ている。この寺方というのは、東禅寺とみて間違いないと思われる。そうすれば、鎌倉時代には東禅寺は建立されていたといえる。つまり神仏習合思想を背景として、松尾神社の神宮寺として成立していたのが東禅寺であったと考えるのが妥当であろう。そして中世末期雀部荘が衰退していくのに併せて、その神宮寺であった東禅寺も没落していったと考えられる。


『福知山に飛行場があった!』
高射砲、機関砲陣地跡
飛行場の北には由良川が東西に流れ、その北側には山が連なっています。この山に高射砲や機関砲の陣地がありました。西の端は川北区の太光橿墓地山頂上に機関砲、その東の秋葉山頂上にも機関砲が据えられていました。この二つの山の間の谷には兵隊が待機する仮小屋がありました。秋葉山の頂上近く(秋葉神社周辺)には砲座が造られていたと思われる穴の痕跡が現在も何ヶ所か見られます。
また、佐賀区との問にある高龍寺山(高林寺山)には高射砲陣地が設営されていました。東の端にあたる綾部市小貝町にある小貝山の頂上にも6門の高射砲が裾えられていました。高射砲は砲身が5、6メートルくらいの古いもので、少し地面を掘り下げて砲座に杭で固定する程度の簡単なものでした。現在も頂上付近には砲座跡や待避壕跡と思われる穴の跡が数多く見られます。これらの高射砲や機関砲陣地は南に広がる航空基地を空襲から守るために設営されたものでした。

朝鮮人労働者
航空基地建設には、兵隊や海軍予科練生、徴用工等と共に朝鮮から来た多くの人たちが関わっていました。その中には家族で来ておられた人や集団で来ておられた人、自ら働いておられた人、強制的に連れて来られた人など様々な人があったようです。私たらはおじさんが強制的に徴用されて石原飛行場へ連れて行かれたという話を現在京都市内に住んでおられる在日朝鮮人二世の人から聞きました。
この朝鮮から来られた人たちは、大谷川(遷喬小学校前)の上に板を渡し、その上にバラック小屋を建てて生活したり、川北の稲粒神社社務所や頼光寺の下にあった建物に何家族が集団で生活されたりしていました。また、航空基地内の三角兵舎で同胞といっしょに生活をされていた人もあったようです。


伝説


丸ぼうず(福知山)
福知山の郊外、猪崎と川北の境に喜録寺というところがある。その昔、ここに七堂伽らんの立派な寺が残っていた。それが地名となって喜録寺といわれている。
この辺は昔はさびしいところで、よくキツネが人をだまし丸ぼうずにされたという。このあたりは今でも人家が少く、由良川の谷と岩のつき出た山をぬうようにして幅五米の府道が走り、その道路と川との間にところ所田や竹やぶがある。
この道に私の妻とよく取材に通ったところである。自動車に乗っていて、何か妻がキツネのようで私の頭が丸ぼうずにされたような錯覚におち入る時があった。そのときは、うつらうつらねむっていて、目がさめた時思わず手を頭にあてたものだ。となりの妻がにっこり笑って、「とうさん、よく寝ていたね。」 という。
昔はこのあたり田がなく、竹やぶばかりでさびしい所で、道は一米ぐらいの細い道であった。
気の強い若い男が一度このキツネをこらしめてやろうと道を歩いていた。何か長い道である、すると向こうの方からいかめしい武士がやってくる、左にいこうとすると左にいく、右にいこうとすると右へくる、出あいがしら武士の刀にふれた。すると武士はこわい顔して、なぜ刀にふれたといった。若い男は、いえいえふれようと思いませんでしたとことわっても、武士は刀を抜いて切りかかろうとした。そのとき喜録寺の和尚が現われ、「まあまあさむらいさん」となだめてくれた。さむらいは和尚とは顔見知りとみえてなだめた。この和尚がさむらいと何か話しあっていたが、ゆるしてもらう事になったのだが、条件が一つあった。話をつけてやるかわりに、わしの弟子になれというわけで、若い男も死にとうないので、和尚の弟子になることを承知した。と思うと和尚はさむらいの刀を借りたかと思うと、この若い男の頭をそり、あっという間に頭をそりおとしてしもうた。
こうしているうちに、友達が心配して追いかけてきた。
すると不思議、今までいた和尚もさむらいもその姿はなく、丸ぼうずになった男がぼうぜんと立っていた。
二匹のキツネが山へにげていった。
(『舞鶴の民話』)

喜録寺のキツネ 福知山市喜録寺
「このへんは昔は寂しいところでなあ、ようキツネにだまされて頭を丸ぼうずにされたという話を聞いたもんや。いまの若いもんにいうても信用せんけど。頭の毛のばして男か女かわからんかっこうしとらんと、頭の毛、キツネにでもそってもろうてシャンとしたらええ」-。

 世相を皮肉りながら“キツネ話“を語るのは福知山市猪崎の農業、衣川貞喜さん。
 衣川さん方の西、福知山の郊外、猪崎と川北の境に喜録寺というところがある。その昔、ここに七堂伽藍の立派な寺が残っていた。それが地名の由来になったといわれる。が、このへんはいまでも人家が少なく、十メートル以上の由良川の谷と、岩のつき出たけわしい山との間を縫うようにして幅五メートルほどの府道が走り、その道路と川との間にところどころ、田や竹ヤブがある。昔は田んぼなどほとんどなく、竹ヤブばかりの寂しいところ。道も幅一メートルくらいの細いもので、夜、綾部や舞鶴へ行く旅人にとってはたいへんな難所。追いはぎにあったり、キツネにばかされたりサンザン。
「しかもこのキツネは人を化かしては頭を丸ぼうずにするので有名やったそうな。そやさかい、あの人はだまされて丸ぼうずにされた。あの人も……、ちゅうてナ……」
当時、村は大騒ぎだったらしい。
「ところが村の若衆の中に大変なうぬぼれ屋がおってのう。わしならキツネにばかされるようなあほうなことはせん、まあ見とれ、いうて刀を腰に差してキツネ退治に出かけたわけじゃ」
「ところがや、この若者が喜録寺の難所へさしかかったとき、むこうから家来を連れた立派なさむらいがきた。運の悪いことに腰に差しに刀がすれ違いざまに当たったんやナ。昔のさむらいちゅうのはひどいもんでなあ。いくらあやまっても、手打ちにしてやる、と刀を抜いて切りつけようとする。ちょうどそこへ通りかかったのが喜録寺の坊さん。参まあまあ、とさむらいをなだめたところさむらいも顔見知りと見えて刀を引いた。で、この坊さんがさむらいに話をつけて、ゆるしてもらうことになったわけやが、条件がひとつあった」
話をつけてやるかわりにわしの弟子になれ、というわけで、「死にとうはないから若者も承知した。そして坊さんはあっという間にこの若い衆の頭をそり落としてしもうた。そうこうしとるうちに村の若いもんが心配して追いかけてきた。とたんに、さむらいも坊さんもキツネになって山へ逃げて行ったいうわけや」-。
(『京都丹波・丹後の伝説』)





川北の小字一覧


川北(カワキタ)
青代 赤尾 アマギ アツカセ 今中 今宮下 池内 池ノ奥 石橋 岩サコ 板巻 犬塚 イタトリ谷 イヲ谷 イサガヤ谷 イトコイ 上村 打越 大坂 大畑 大町 大ズエ 扇畑 落ケ坂 ヲクノフケ 河原谷 川原 川クコ 角田 柏田 窪 カシヤ カナヤ 狐 キロクジ 桑ケ谷 グミガ坂 小島 小谷 小松ヲ 椿畑 才光 才ケ谷 才ノ本 桜田 サコダ サカイ谷 白血 四石畑 四方 城山 芝田 新打 シヨウブ谷 庄ケイ 蛇ケ谷 ジコノキ 砂田 セガタ 善田 ソトワカ谷 高松 高外知 谷田 谷尻 段ノ田 タカラコフ 地蔵丸 佃 付山 ツカモト 天神森 寺畑 トリカバ 堂田 堂寺 七廻り 七畝 流田 中島 ナベ田 沼ノ上 ヌタリ ヌベ 猫谷 八桝成 八町 八五良 半川 走打 ハリ場 馬場 ヒロセ 広床 風呂川 風呂畑 深谷山 フノ岡 丸山 松ノ本 三ツ石 三ツ町 水引場 水越 水無月場 宮ノ上 宮ノ下 宮ノ向 村役 門前 山ケ一 山付 薬師前 百合ケ一 湯舟 横枕 六石町 太光山 上村山 小藪 坂巻 寺山 大塚 イヲ田 大砂レ 越水 竹ノ浦 門ノ才 大砂 上村山 記録寺 高林寺 寺山 太光山 三ツ石 竹の浦 大砂デ アマガ谷 イヲタ ヘリフジ ツカガヲ 小寺

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福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市






【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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