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丹波の

加用(かよう)
京都府福知山市三和町加用


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京都府福知山市三和町加用

京都府天田郡三和町加用



加用の概要




《加用の概要》
大身から猪鼻川に沿って、府道26号線を2㎞ばかり入り、途中から加用川に沿って谷間に入る。どちらを向いても標高400~500mの山々に囲まれて、どっちへ行くにもちょっと大変な所である。
加用公民館
この道は府道521号線で、このまま行けば岼に出る。そこにあるのは公民館で、民家は道の左側にある、どこに勝田神社があるのかわからなかった。
加用村は、江戸期~明治22年の村。綾部藩領。はじめ6か村からなる河合村のうち。村高は「元禄郷帳」「天保郷帳」とも河合村に含まれているが、「巡察記」「旧高旧領」では6か村別々の石高を掲げ、当村は145石余。
明治4年綾部県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年川合村の大字となる。
加用は、明治22年~現在の大字。はじめ川合村、昭和30年からは三和村、同31年からは三和町の大字。平成18年から福知山市の大字。


《加用の人口・世帯数》 11・6


《主な社寺など》

勝田神社
カツタ大明神  河合村之内加用ニ建
祭神 稚日女命  祭礼 九月九日
本社 巳午向 篭家
境内
古ハカツタ大明神ト唱 中古大原神社ノ奥ノ院トシテ稚日女命ト唱ヘ祭レリ
祭式ハ  笛大鼓ニテ囃シ五人五度踊ル又六月七日相撲五番有
(『丹波志』)

村社 勝田神社  同村字加用小字宮ノ谷鎮座
祭神、 稚産霊神
社殿、 前記宇麻谷神社に同じ。境内及山林二千七百二十七歩。
祭日、    例祭、十月十七日  祈年祭、三月十一日  新嘗祭、十二月十一日。
末社、 稲荷神社、祭神 稲倉魂命。
氏子、 四十二戸。
(天田郡神社記) 祭神は和久産巣日神又稚産霊神とも書く。伊邪那美尊の御子で豊受毘売神の御親と申す。日本書紀には軻具突智神が埴山姫を娶られて稚産霊をお生みなされ此神のお頭の上に蚕と桑と生じ又お臍に五穀が生じたとある。それで農家には恩頼をかうむつた神である。御子豊宇気毘売神に至っては穀物は成り出でたるなるを此神は其ムスピの御徳を受持ち給へるのみで未だ成し終へ給はざるを以て豊宇気昆売神の御神徳の広く大いなるに対して御親神なれとも稚とは申しゝなるべしと平田翁は説かれた。
(『天田郡志資料』)

勝田神社
三和町字加用小字宮ノ谷に所在する。祭神は稚産霊命。『丹波志』には「カツタ大明神」とあり、稚日女命を祭神とし、「古ハカツタ大明神卜唱、中古大原神社ノ奥ノ院トシテ稚日女命ト唱へ祭レリ」と記されている。稚産霊神、稚日女命の何れか詳かでないが、「神社明細帳」では「稚産霊神」と記されている。祭礼は九月九日で、祭式は「笛・太鼓ニテ囃子シ、五人五度踊ル、又六月七日相撲五番有」と「丹波志」にある。また「綾部藩藩政社寺要記」には「八皇子一宮ノ谷氏神」とある。
現在は中断しているが、勝田神社には「加用の踊子」といわれる民俗芸能が伝習されていた。『京都の民俗芸能』には「加用の踊子」について次の様に記されている。「笛一人太鼓一人、踊り子三人の産児が宮参りの晴着を着て、藁で編んだ冠り物をかぶり、それに幣をたらした姿で輪舞する」これは田楽の定型であり、産神祭の心を示している。
本殿の規模・構造は一間社流造、柿葺で、軒唐破風をつける。身余は円柱粽付、向拝は几帳面取方柱で海老虹梁でつなぎ、手挟を置く、軒は二軒繁垂木。現在の本殿は、享保十八年(一七三三)の練札が残っており、様式的にも首肯できる。
(『三和町史』)


加用の踊子
加用の踊子
名称  踊子
所在地 天田都三和町加用
時期  一○月九日勝田神社祭(休止)
   一
三和町加用は、大身から東北方に四キロメートルほど入った山間の小村である。以前はそれでも四十戸ばかりあり、氏神勝田神社の秋祭も盛大に行われたが、いまでは僅か一八戸で、それもほとんど老人がひっそり家を守るといった状態になっている。この一○月九日(もと九月)の秋祭に、近くまで踊子とよばれる田楽躍が行われていた。
踊子を演じるのは氏子の少年五人で、村役が寄合って選ぶ。八才の男子をあてるのがきまりだが、たいていは該当者が不足し、九・一○才の者からも選んだ。踊子の役は、笛一人、太鼓一人、踊り子三人で、年かさの順に笛・太鼓の役にあてるならわしである。この人選は祭礼の三日前に発表され、全員が一同公民館に集まって練習した。
笛は六孔の横笛、太鼓は皮面径三十五センチほどの締太鼓で左手に持ち右桴で打たれる。踊り子は何ももたない。少年はいずれも、自分が宮参りの際に着せられた晴着を着、裸足で、一種の花笠を冠る。花笠は俗に「踊子のかんむり」と称し、宮当番がつくる。それは、藁で輪を綯い、その輪から七・五・三本の藁を出して上端を水引でくくり合わせ、そこからゴヘイをたらし、榊の小枝を輪のところに三つはさんだものである。輪の径十九センチ、高さ二十九センチほどの変わった笠である。
神社には氏子総代のほかに宮当番四人があり(いま三人)、祭礼をとりしきる。宮当番は一年交替で各戸が輪番であたる。宮当番には以前、きびしい物忌み生活が課されたもののようで、司祭の責任を負ったらしいが、いまでは単なる宮守り役と考えられている。そのもっとも大きな仕事は、ドブサ(ドブロク)とゴクの用意である。ドブサのことははやくすたれたが、飲み放題にドブサを振舞うのが秋祭のならわしで、神田の米をもって大量にしこんだものだという。ゴクは御供で、丸餅とゆでた枝豆・栗であるが、七日に行う餅つきをとくにゴクツキとよび、宮当番の家で女を避け精進して行った。この米はいま本年と明年度の宮当番が拠出するけれども、本来は神田のそれをあてることになっていた。こうして八日には御供も宮にはこばれ、村人総出で神輿なども節られ祭の準備がととのえられる。踊子の舞場もこのときに設宮される。もとより舞場はとりたてて言うほどのものではなく、径一間ばかりの円を描いて中央に一本の榊を挿し、円の四局に青竹を立ててシメ縄をはるだけである。宮の本殿の左手前方、および薬師堂(単にドウという)の前庭に設けられる。宮ではこれは、踊子に先立って行う相撲の土俵でもある。
      二
ここでは八日夜に宵宮を行う。いまはなにもないが、以前は若衆が一晩宮に籠り、大火を焚き太鼓をたたき明かした。これをミコシ番と称した。氏子もすべて宮へ参り、百トウロウをとぼす例であった。本祭は翌九日の朝からはじまる。踊子は公民館に集まり衣裳をととのえてのち、紋付羽織姿の宮当番(一人)にひきいられ、笛を先頭に宮へとのぼる。神職の祭式が終ると、踊子は並列して本殿に一礼し、踊場の位置につく。中央に笛が立ち、円にそってそのまわりに太鼓、踊子がならぶと、宮当番の合図があって笛が「ヒーフー」と吹き出す。太鼓がそれを「ドン」とうけて踊をはじめる。
踊子はこの「ヒーフー・ドン」とくり返す笛と太鼓の単調な音にあわせ、太鼓と踊り子が太鼓を先頭に左へ七回(右廻り)、右へ五回、左へ三回まわるだけのものである。この間、一まわりごとに宮当番が花笠につけたゴヘイの一片をちぎり取る。つまり踊の数とりに用いるわけで、取られたゴヘイは最後にかたわらの木の枝に結びつけられる。踊子はいちおう輪舞のかたちだが、ただまわるだけで所作らしいものはない。しかし、その輪舞の形式は大身をはじめ近在の田楽躍に共通しており、何も持たないこの地の踊子たちももとはビンザサラを手にしたものと考えられる。
踊子はこのあと、薬師堂におもむいていま一度行い、花笠を本殿裏に納めて、御供をいただいて解散する。以前、神輿の渡御があったときには、薬師堂、お旅所(八幡所)とまわり、それぞれにおいて神輿に向って奉納し、還御ののちは再度宮で演じたという。その頃には宮の籠堂で直会があり、御供を膳にすえてもらい、飲んでも飲まなくても盃を五回うけるならわしてあった。
かつての祭のにぎわいがここにもしのばれるが、踊子に先立って奉納された相撲が興味ぶかい。相撲は小さな子供のとるもので、生まれたての赤ん坊から順に二人づつ五番あわせる定めてあり、宮当番がこれをあわせた。その土俵がまた舞場ともされるわけて、こうした例は大宮町奥大野の笹ばやしなどにみられる。
ところで、踊子をすませた少年にはもう一つ任務があった。それは、一尺二寸(閏年は一尺三寸)の竹にさしたゴヘイを各自が一二本(閏年は一三本)づつ作り、次の正月二日に宮に供えることである。そのゴヘイは三日に行われたミノレ(ミイレとも)なる行事と不可分のものであった。ミノレとは、氏子一同が宮に集り、「実」をつけた榊を地面に立て恵方に向い、宮当番の「年よし実よし三方黄金よし、二十四色の作りもの皆よし、とり配り、鬼、鬼」という唱えごとにあわせて、いっせいに「ワー」と唱和し立ちあがるというもので、悪病鳥獣を追い払い豊作を祈る予祝儀礼である。このとき、氏子が持参した三本の榊にとりつける「実」は、踊子が納めたゴヘイをちぎって境内の小石を三個づつ包んだ三包をいうのである。ここには村人が田楽にたくした願いが端的に示されているだろう。すなわちミノレは、豊作を予祝するとともに願かけでもあり、秋祭にはその願すましとして田楽を行うとみられるのである。なお、ミノレに用いた榊は大切に持ち帰られ、苗代づくりにはこれを水口に立ててまつるという。
      三
踊子は明治以前から一年も欠かさず行ってきたと伝えられる。『丹波志』(巻之一神社部)には、「カツタ大明神」として「中古大原神社ノ奥ノ院トシテ稚日女命ト唱ヘ祭レリ。祭式ハ笛太鼓ニテ囃シ五人五度踊ル。又六月七日相撲、五番有。」とある。また、締太鼓に「宝暦十四甲申九月吉日、勝田大明神御宝前、丹波天田郡加用村」とみえ、江戸時代、一七六四年にはすでに行われていたことが知られる。これ以外には全く史料を欠き、伝来の時期、径路などは知るよしもないが、丹波における輪舞形式の田楽躍につながるものとして注目されよう。ゴヘイをちぎって数取りをずるのも矢代中、北原などにみられ、一つの共通点となっている。
    註
① 昭和四四年に実態調査に赴いたのが最後であったらしい。本稿は今回の聞取り調査を中心に、実態調査の知見を加えたものである。
② 笛一人太鼓一人踊り子五人、都合七人で行うのが本来の姿だという。
③ 晴着となる前は紋付羽織袴、それ以前は裃であったと伝える。
④ 公民館前にある小さな堂であるが、薬師像は室町初期のものであろう。耳の仏様といい、御多聞にもれず耳石がたくさん奉納されている。
⑤ 祭にはこのほか若衆の行う神楽(獅子舞)があった。頭はいまも飾られるが新しいものである。 ⑥ 「京都の民俗芸能」(大文字書林刊)  (植木行宣)
(『京都の田楽調査報告』)


瑠璃光山仏光寺古跡
瑠璃光山仏光寺古跡
寺坂ト云平地ニ在 本尊薬師ハ焼失ス 今古仏ヲ安置 脇立四天ノ像有 今ハ民家ノ中ニ三間四方ノ堂ニ在
(『丹波志』)


《交通》


《産業》


《姓氏》


加用の主な歴史記録


『綾部市史・資料編』「巡察記」
加用村 土性淡赭埴少シク塩土ヲ混ズ 田方六
町三段八畝歩畑方二町九段六畝十八歩 高百四
十五石五升 家数四十三軒人別百八十二人牛二
十三疋アリ
当村ハ農事ヲ勤ルコト他村ニ異ナルコト無ク米麦豆
小豆麻茶烟草木綿繭等ヲ少シク出スト雖ドモ小
村ノコトニテ其ノ得ル所ハ些細ナリ 且ッ此村ハ
大原下川合等ノ如ク土地ノ延モ無ク利益ヲ得ベ
キノ事少シ 貧セザルコトノ難キ村ナリ 然レド
モ今ノ庄屋金蔵ナルモノ能ク小百姓ヲ勉励シテ
耕作ヲ出精サセルガ故ニ近来蒟蒻玉ヲ能ク作リ
テ此レヲ売り出スコト年ニ三百駄ニ及フト云フ

伝説


『三和町史』
呉千枚・細縄千尋
アンノ下二五〇番地付近には昔、廃寺があったとい中れ、その庵寺近くに「呉千枚(小判)・細縄(一厘銭)千尋が埋められていた」と伝えられる。細縄は掘り起こされ、それを掘った家は裕福な暮らしぶりになるとか。呉千まいは近くの巨大な石の下に埋められているといわれるが、この石を処分すると「その人の家の屋根に白羽の矢が立つ」と言って恐れられ、石を処理することは避けられた。今もこの付近には石が散在している〔加用〕。
 「呉千枚・細縄千尋」の話は、『ふるさと加用』から一部修正し収緑した。また同じような伝承は菟原中の聞き取り調査でもあがっており、広く分布する伝承のようである。





加用の小字一覧


加用(かよう)
サカイハナ ボカタワ ヒエダ ビシヤダニ ジロケ ボスダニ アカバタ カサスギ ゲジダニ ホドダニ イナバダニ ナカジ ヒガシ マエジ ミヤノタニ アンノシタ アンノウエ ミヤノマエ ミヤマ タキノタニ ドウノシタ ネホリヲ ニシヤマ ジンデン ヒヨダニ ソボダニ ナガミヤノタニ スギノタニ カゴザカ イノハナ ヤナギダニ トウゲ ゲンザコ サイノサカ ナガタニ タテユリ カラスザコ 小ツバダニ ツバダニ イバラダニ ドウノヲク スカワ マトバ ヲカハナ ソラ タテユワ スカ川(すかがわ) 神田(じんでん) バジ谷(ばじだに)


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『三和町史』各巻
その他たくさん



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