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丹波の

私市(きさいち)
京都府福知山市私市


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京都府福知山市私市

京都府何鹿郡佐賀村私市

私市の概要




《私市の概要》

私市円山古墳(綾部市内になる)の麓の集落で、私市という一つの集落の西側(下私市)が福知山市に属し、東側(上私市)は綾部市に属している。
由良川の中流右岸、南流する支流の相長(あいおさ)川下流一帯に位置しずいぶんと広いところ、集落は東の円山古墳山麓台地(綾部市内)と西の高竜寺山麓や長円寺の周辺に分在している。
一帯は古代の何鹿郡12郷の1つ私部(きさいべ)郷の地で、皇后の名代部の私部は「日本書紀」敏達天皇6年条(577)に初見し、当郷もそれに由来するものと考えられている。当地名はその当時のもの、その私部郷に設けられた市を私市といい、当地名の由来とも見られる。
敏達六年紀に、「春二月の甲辰の朔に、詔して日祀部(ひまつりべ)・私部(きさきちべ)(きさいちべ)を置く。」とあるが、敏達は用明の父親で、伝説の麻呂子親王らのおじいさんになる。私市円山古墳(5世紀頃)よりも100年ばかりは後の話で、奉安塚古墳の時代になる。私市と書いては本当はたぶん「きさきいち」と読むのではなかろうか。この時代は屯倉設置とか戸籍の作成、のちの班田制の魁ともなっている、また渡来人たちの官人への大挙登用とか大和政権が大陸先進政策導入して大和政権の地方の直接支配が推し進められた時代とされる。市があったというならそれも官製のものだったかも知れない。皇后専用の部民が設定されて皇后の経済的地位も向上し、後に推古や皇極・斉明、持統などの女帝も出てくることにも繋がっていく。この時代は女性の地位も高まった。男女がほぼ同権で、「女だてらに…」の思想のない大陸騎馬民族の社会制度の取り入れと思われる。私部なくして古代の女帝はなかったかも知れない。現代日本社会よりもあるいは進歩していた時代かも知れない。

中世は私市荘で、平安末期~戦国期に見える荘園。寿永3年4月24日の源頼朝下文に賀茂別雷社領42か所の1つとして「丹波国 由良庄 私市庄」とあるのが初見という。報恩寺に京都から勧請した賀茂神社が祀られている。
その後領家はいろいろ代わり、南北朝期頃から代々の茂木氏が公文職を相伝したという。福知山の知り合いに茂木さんという人がいたが、この一族に属した人かも知れない。
私市村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福知山藩領、寛文9年同藩主転封後に、一時幕府領代官万年長十郎支配となり、天和2年からは陸奥湯長谷藩領162石余・旗本武田氏知行地575石余・同杉浦氏知行地643石余の3給となる。のち宝永7年には旗本武田氏知行地のうち400石が旗本川窪氏に割かれる。旗本領は明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、陸奥湯長谷藩領は同4年湯長谷県を経て、いずれも京都府に所属。同22年佐賀村の大字となる。
「福知山藩日記」寛文8年2月16日条に、「今昼私市村山ニ而狼弐ツ出、十九ニ成候女子くいころし、すきあらハくい余し候事、又十六ニ成候男子もつらを約半ハ死ニ成候由」。この狼は10日後に印内村師谷で、百姓が鉄砲で射止めたという。ほかにも土村の者が狼に食い殺された記事があり、寛文といえばもう幕末だが、当時頃は当地一帯には日本オオカミがいたことがわかる。
私市は、明治22年~現在の大字。はじめ佐賀村、昭和31年からは福知山市の大字。同31年東部が綾部市に編入、大字私市となり、次いで同32年私市町となる。
私市町は、昭和32年~現在の綾部市の町名となっている。


《私市の人口・世帯数》 238・98


《主な社寺など》

小字尾林に7基の古墳があったそうだが、多くは破壊された。享保3年(1718)古墳を発掘して、墳石を引いて佐須賀神社の御手洗石にしたという伝えがある。現在残る1基は径約10メートルの横穴式古墳である。案内板より↓
遺跡分布図

何鹿郡式内社・佐須我神社
佐須我神社(私市)
サスガというのは、鎮座地の地名のように要するにスガのことだろうか、社名からして鉄の神社、祭神も鉄、地域一帯は古代からの鉄産地(鉄だけとも限らない、そのほかの金属も含む)と思われる。この豊かな金属あっての私市円山古墳、奉安塚古墳・高龍塚古墳と思われる。佐賀村のサガもこの社から出たものか。
私市円山古墳や奉安塚古墳・高竜塚古墳の被葬者たちの神社であろう。
佐須我神社(式内)
佐賀村字私市小字須賀の山鎮座、明治六年村社と公定。須佐之男命、稲田宮老公神、稲田老婆神を祭神とす。現在氏子二一二戸、私市全部之に属す。例祭は陰暦九月十日なりしを、今十月十日と定む。
(『何鹿郡誌』)

佐須我神社
 延喜式何鹿郡十二社の一つとして、市内字私市小字須賀ノ山に佐須我神社が鎮座する。「何鹿郡誌」によれば、祭神は須佐之男命、稲田宮老公神、稲田宮老婆神とし、字私市の産土神であるという。別に明治四十三年三月、佐賀村長東田徳治氏の時に同村大志万重?氏が編さん執筆した「佐賀村社寺旧跡史考」によれば、祭神は健速須佐之男命、稲田宮主足名堆命、稲田宮主手名堆命の三柱とある。
 右両書にあげた祭神は素戔嗚尊と、他の二神は、結局素戔嗚尊の妃奇稲田姫命の両親である国神脚摩乳、手摩乳を指しているのであろう。
 当社はおおむかし、天田郡雀部庄の川北・戸田・石原・土・前田・土師及び私市の七ヶ村の郷社であったが、応仁年間国破れ、ために地頭の変遷年に改まり、社領は没収され、神官の家は絶え、神庫も灰じんに帰し、古書伝記なく、当社の由緒も専ら口碑によるのみとしている。祭日は昔から九月十日であったが、今は十月十日となっている。その日は、村吏が奉幣使として参向、幣帛料ならびに神饌料を供進した。神輿の渡御は同社内休憩所までで、小字中村段にある若宮八幡神社と鳴神天神社(同所に二社合殿)の神輿は神鉾とともに佐須賀神社へ渡御あり、ここにおいて神饌祝詞を奏上し、玉串を奉納し、摂社八幡神社へ神幸あって直ちに還幸あり式を終わったのであった。昔は前記七ヶ村と共に、同日鳴神天神社に集合して、大祭典を執行したのであったが、いつのころからかそのことは廃止された。しかし今なお同社の傍らに大馬場・馬出し・的場・燈明田などの小字名が歴然と残っている。
 同社境内の摂社には、次のものがある。
  清所神社 祭神 伊邪那岐命
    昔は小字堺山にあり、明治十二年官制により合社した。
  新宮神社 祭神 速玉男命
    昔は小字 西稲葉山の北端にあり右同年に合社した。
  愛宕神社 祭神 迦具土命
    昔は小字西谷山にあり、右同年に合社した。
その外、昔から本社境内にあった末社としては次のものがある。
 厳島神社 祭神 市杵島姫命
 八坂神社 祭神 大国主命(素戔嗚命の誤りか)
 稲荷神社 祭神 宇賀迺御魂命
なお、前記当社の昔の祭礼について述べた通り、当社に関係が深い神社としては次の二社がある。
 若宮八幡社 祭神 応神天皇
  小字中村段にある。
 鳴神天神社 祭神 菅原道真
  昔は小字大馬場にあったが明治十二年の官令により、若宮八幡社を相殿として合社した。
外に佐須賀神社の祭典にしたがったものには、字石原鎮座の
 三柱神社-祭神、大産霊命 奥津彦命 奥津姫命
があった。
(『福知山市史』)

佐須我神社
所在地 佐賀村大字私市小字須我の山
祭神 健速須佐之男命 御扉三戸作
稲田宮主足名堆命
稲田宮主手名堆命
創立年号 不詳
境内反別 七五〇坪
由緒 何鹿郡延喜式内十二座その一として、太古は天田郡雀部庄川北村、戸田村、石原村、土村、前田村、土師村及び私市村の七ヶ村の郷社にして参拝常に絶えず。しかるに応仁年間国家相乱の為、地頭の変遷年に改まり、社領没収、神官も絶家し、神庫等灰儘に帰す。依て古書伝記等なく唯口碑の存するのみ。
祭日 往古より陰暦九月十日をもって祭典式を挙行す。行事は村吏奉幣使として参内、神饌料を供進す。
神興の渡御は同神社内休憩所までで、摂社八幡神駄及び鳴神天神籔神鉾と共に佐須我神裡に渡御せり。茲において神饌を御供、祝詞を奏上し、玉串を奉納す。而して摂社八幡神社へ神幸あり、直に還幸ありて式を了る。
往時は前記七ヶ村と共に、同日鳴神天神社に集合して大祭典を執行したりしに、何れの噴からか不明なるも之を廃せり。その年代詳かならず。しかし今尚旧跡を存するもの、同社の鋳に大馬場、馬出し、的場、燈明田等歴然として小字名が残っている。祭日を太陽暦に改むとある。
摂社 清所神社(祭神創立年号 不詳)
所在地 佐須我押社境内
由緒 古は小字堺山に在り。明治十二年官令に依り合社す。
摂社 新宮神社(創立年号 不詳)
所在地 佐須我神被境内
祭神 速玉男命
由緒 古は小字西稲葉山の北端に在り。明治十二年に合社
摂社 愛宕神社(創立年号 不詳)
所在地 佐須我神社境内
祭神 迦具土命
由緒 古は小字西谷山に在り。前と同年境内に遷す。
末社 厳島神社
所在地 佐須我神社境内
祭神 市伎島媛命
由緒 古より境内に鎮座する
末社 八坂神社
所在地 佐須我神社境内
祭神 大国主命
末社 稲荷神社(創立年号 不詳)
所在地 佐須我神社境内
祭神 宇賀廼御魂命
(『佐賀村誌』)


曹洞宗嶺松山長円寺
長円寺(私市)
小字稗田の曹洞宗嶺松山長円寺は本尊釈迦如来。もとは小字西ノ段にあり、元和年間(1615~24)雲覚が現地に移し、寛政3年(1791)に福知山の久昌寺末となったが、文政7年(1824)火災に遭い再建した。長円寺所蔵の薬師如来像は、もと小字西の稲葉山麓の薬師堂にあり、明治5年に同寺へ移したという。

領松山 長園寺(曹洞宗総持寺末寺)
所在地 佐賀村大字私市小字稗田地内
本尊 釈迦如来
縁起創立年号 不詳
元は平僧寺にして小字西の段に在り。元和年間雲覚祖岫和尚現在の地に移転し、爾来数百年を経過し、寛政三年に至り、中本山福知山久昌寺に請い法地となる。茲に初めて法令大いに行われ、文政七年祝融の災に罹り本堂庫裡悉く烏有に帰す。当時の住職仏梅和尚道心を抽て再建に努む。現在の本尊即ち之なり。
薬師如来
本体は元小字西稲葉山の麓の薬師堂に在りて茲に安置するを、明治五年堂宇破損につき当山に移したるものにしてその創立年号を詳にせず。自然の黛色を帯びる所三百年を経過する事疑いなし。当山の古仏なるべし。
(『佐賀村誌』)


私市城跡
小字宮内殿(くないどの)の地は、室町末期の大志万宮内大輔長秀の居館跡という。大志万氏は氷上郡黒井城主赤井悪右衛門に滅ぼされ、帰農したと伝える。城は長円寺の裏山にあったという。
゜『福知山市史 史料編一』の『大志万家文書』に、天文十九年(一五五○)九月十日の「大志万一族知行目録写」があり、そこには「大志万むら、私市むら、友淵むら、戸多むら」と書かれていて、土豪大志万氏の勢力を想像することができる。この大志万氏は、私市域に拠った一族であろう。また同文書の、
 丹州何鹿郡之内私市村之事、大志万藤四郎仁申付上者、如先ゝ不可有別儀候、弥可忠節之由肝要候、恐ゝ謹言、
  八月廿五日        (細川)清国(花押影)
    波ゝ伯部源次郎入道殿
という「細川晴国判物写」によってもそれが確認でき、一貫して高国-晴国-氏綱派と続く律義な奥丹波の土豪のように思われる。なお波々伯部は、綾部小畑城主ではなかろうか。
 『佐賀村社寺旧跡史考』(明治末頃編集された古来の伝承・史料をまとめたもの)には、
  往古幾千坪ノ屋敷ヲ構ヱ私市村・戸田村・大志万村・友淵村・淵垣村ノ数ヶ村ヲ領シ、政権近郷ニ振威勢盛ンナリト雖モ、天正文禄(永禄か)ノ頃、氷上郡黒井城ノ城主赤井悪右衛門尉直正ノ為滅亡セラレ、遺族悉ク民家ニ落ツルト口碑今尚朽チズ、
とある。そして最後の城主を、「大志万宮内大輔長秀」と記している。
 しかし前出『大志万家文書』の「備後守氏継感状写」には、天正元年に「大志万太左衛門」なる人物が登場している。すなわち
  今度於福知山表合戦被得勝利、敵被討果、以高名忠節弥可抽軍忠者也、
     天正元          備後守
      八月七日          氏継(花押影)
          大志万太左衛門殿
とある。「備後守氏継」とは、織田方の川勝氏であろうか。天正元年(一五七三)に「福知山」という地名が出てくるのも興味があるが、すでに触れたように永禄八年(一五六五)八月以後赤井氏の支配下に入ったと推定される福知山地方での、反赤井一派の潜在的な蠢動の一端を伝えて面白い。
(『福知山市史』)

私市城跡

《交通》


《産業》


私市の主な歴史記録



伝説






私市の小字一覧


私市(キサイチ)
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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