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丹波の

瘤木(こぶのき)
京都府福知山市瘤木


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京都府福知山市瘤木

京都府天田郡下川口村瘤木

瘤木の概要




《瘤木の概要》

国道175号線添いにKTRの「下天津駅」があるが、そこから少し大呂川を天寧寺の方へ遡った山間にある。此之附近花並之駅趾の石碑
古代の山陰道別路が通過したといわれ、天田教育会の建てた「花波之駅」の石碑が村の入口にある。
その当時は当地も「はななみの里」と呼ばれていたのかも知れないが、「和泉式部集」の「はななみの里としきけば物うきに君ひき渡せ天橋立」でも有名であるとかよくされているが、彼女の歌う「はななみの里」は当地ではなく、今の丹後岩滝の板並(いたなみ←はんなみ←はななみ)のことである。
また、昆解宮成が白﨟に似た鉱物を入手して献上したと『続日本紀』にある華浪山は当村の奥にある山だとされる。
今も集落に接して廃坑が3か所あるという。また村内に刀鍛冶もいたという。コブノキではなくコブキ(小吹き)の意味かも知れない。あるいはコブ・コウはクモ(蜘蛛)を言う主に九州地方の方言(今の)というので、「土蜘蛛の村」という意味かも(失礼)、いずれにしても産鉄業と関係が特に深そうな地名でなかろうか。

集落の真ん中を通るこの道が「山陰道別路」の官道であったかも知れない。
瘤木集落
中世佐々岐庄下山保(金山郷)の地で、近世には村中を加悦街道が通り峠下集落として宿屋もあったという。
瘤木村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福知山藩領、延宝5年からは上総飯野藩領。「丹波志」によると、古くは大呂村の支村で高28石余、ほかに天寧寺領10石余がある。
当村の鉱山は、享保15年の、保料領(長州・江州・丹波)六郡御高帳(和久昇一家文書)」によれば、「同(銀)五拾壱匁六分 瘤木村銀山運上十二ケ月分 壱ケ月四匁三分ツヽ」とあるそうである。
「丹波志」は当村の桐村氏について、「桐村氏ハ金山氏ノ家大中臣姓ナリ 七通ノ切紙并大中臣ノ旗所持ス 今又左衛門 分家宇左衛門」とある。明治4年飯野県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年下川ロ村の大字となる。
瘤木は、明治22年~現在の大字。はじめ下川口村、昭和24年からは福知山市の大字。

《瘤木の人口・世帯数》 38・16


《主な社寺など》
産土神は大呂の福主大明神。
吹く主で鍜冶屋の親分を祀る社でなかろうか。


《交通》


《産業》


瘤木の主な歴史記録


『続日本紀』
天平神護2年(766)7月26日(己卯)条
散位で従七位上の昆解(こんげ)宮成は、白臘(しろなまり)に似た鉱物を入手して献上した。(宮成はつぎのように)言上した。「丹波国天田郡の華浪(はななみ)(福知山市瘤木にある花並山のことか)より出土したものであります。いろいろの器物を鋳造したところ、その品質は唐の錫に劣りませんでした」と。そこで〔その証拠に〕真の白臘で鋳造した鏡を呈上した。その後、〔宮成に〕外従五位下を授け、また労役をおこしてこれを採掘させたところ、延べ数百人の〔労役〕で十斤余りを得た。ある人は、「これは鉛に似ているが鉛ではない。どういう名前か知らない」といった。〔そこで〕その時、鋳工たちを召して宮成と一緒になってこれを精練させたところ、宮成はどうすることもできず、悪いたくらみをなすことができなかった。しかし、それが白鑞に似ていることを根拠に、〔宮成は錫であると〕強く言いはって屈伏しなかった。宝亀八年、遣唐使の准判官の羽栗臣翼がこれをもって、楊州の鋳工に見せたところ、〔どの鋳工も〕みな、「これは鈍隠(鉛)だ。こちらでにせ金をつくる者が時々これを使っている」と言った。

将軍に仕えたインテリ一族
丹波の大中臣氏

『大中臣氏略系図』
『吾妻鏡』や『太平記』などにより、平安末期から鎌倉中期にかけて常陸国(茨城県)中郡、那珂東・西両郡に、中郡氏、那珂(中)氏という、共に大中臣姓の一族が活躍していたことは知られていたが、その出自については謎とされていた。ところが、福知山市瘤木の桐村家に伝わる『大中臣氏略系図』の研究によって、謎の多くが明らかにされた。
これは巻子本になっており、ルビには鎌倉期の古いカナ文字が使われていて、末尾に、系図編さんの時期を延慶二年(一三〇九)と記している。平成三年四月に京都府の指定文化財となった。
丹波守護那珂実久
治承四年(一一八〇)八月、源頼朝が伊豆で挙兵し、鎌倉に幕府を開いて武家の棟梁になると、中左衛門尉実久はいち早く頼朝の御家人となり、戦功によって常陸国那珂東・西両郡ほか数か所を拝領した。以後実久は那珂氏を併称するのであるが、正治元年(一一九九)正月、京都守護職となり、丹波・摂津・山城の守護に補任されて、承元三年(一二〇九)までその地位にあった。丹波の大中臣氏はこの実久の流れを汲んでいる。
『系図』巻末に記された「那珂一門所領書上」から、実久の流れを汲む人びとが武蔵・摂津・播磨・周防などの国々に所領を広げていったことを示している。実久から四代目の経久は、鎌倉末期に佐々岐荘(福知山市)荘官として初めて丹波国に入った人物で、その嫡流宗経は後に金山氏を称し、庶流の盛経は桐村谷に居を構えて桐村氏を名乗った。しかし両流とも、室町時代の中頃まで大中臣那珂氏を併称している。
貞治四年(一三六五)宗経の嫡子宗泰は夢窓疎石門下の傑僧愚中周及を招き、金山氏の氏寺天寧寺の開山として迎えた。この宗泰並びに盛経以下一〇代は異筆で、『系図』の余白に書き込まれている。
早歌伝唱の名家
宗泰の子実宗のとき、明徳の乱(一三九一)において丹波守護山名氏に加担したため幕府の怒りに触れ、一族滅亡の危機に遭遇した。幸い、愚中周及のとりなしによって事なきを得、これが機縁となって金山氏は、五か番で編成される将軍直轄軍の四番方に名を連ねるようになった。
実宗から三代目持実は冷泉烏丸に屋敷を拝領し、将軍に近侍するかたわら、早歌の名手田嶋清阿に師事して技を磨き、ついには奥義に達して当代の名手と謳われるようになった。早歌は、神楽・催馬楽・今様などが鎌倉時代になって叙事的に組み合わされ集大成されたもので、室町時代、とりわけ将軍義満・義持の頃には、将軍の館や貴族の邸宅における宴席で必ず演じられた。早歌の唱者として、持実はこうした席に欠かせぬ存在となっもたのである。早歌の技は、持実から元実、政実へと受け継がれ、金山氏は早歌伝唱の名家として、洛中の権門勢家に広くその名を成した。(笠原彰)
(『福知山・綾部の歴史』)





瘤木の小字一覧


瘤木(コブノキ)
石仏 岩棚 カマノ谷 ケ谷 小ケ谷 五分山 サコ サコ下 出シ糞 タキノ木 椿畑 出合 峠 林ケ谷 花倉坂 ハト谷 日後 吹屋ケ谷 マナ板 モミノ木 ヒシロ 石仏


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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