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丹波の

宮(みや)
京都府福知山市宮


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京都府福知山市宮

京都府天田郡中六人部村宮

宮の概要




《宮の概要》

国道9号線から市島町へ出る府道706号(竹田街道)の岩崎橋を渡った最初の集落。島田と野間仁田の2自治会を構成している。
古代には六部郷、中世は天竜寺領六人部庄の地。至徳4年(1387)閏五月二一日付天竜寺領土貢注文(天竜寺文書)に「六人部庄宮村方三ケ村分」が地名の初見。
宮村は、江戸期~明治22年の村。綾部藩領。山裏組14か村の1つ。「丹波志」では支村に「岩崎・仁田・嶋田・野間」がある。
岩崎は当村の出戸で土師川右岸の京街道(山陰道)の山麓側に発達した集落で、幕末~明治初年に当村より分離したという。
嶋田は天正頃福知山あたりより移住して湿地を開墾したという塩見・島田(島太)氏がいる。当村の用水は近隣池田村内の堰から引かれている。当村は池田村より土師川の下流にありながら、潅漑上の優先権が長く認められている。
芦田氏 宮村
 次左衛門 宮村ヨリ細見谷迄綾部領拾六ケ村ノ大庄屋 帯刀免許、今三代目ナリ
(『丹波志』)
とある。
同家の先祖は信州芦田庄(長野県北佐久都立科町)より来住したと伝えるが、「丹波志」は「古丹後出ナリト云」としている。芦田均の先祖になるのだろうが手元に資料なく詳しくは不明である。
明治4年綾部県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年中六人部村の大字となる。
宮は、明治22年~現在の大字。はじめ中六人部村、昭和30年からは福知山市の大字。


《宮の人口・世帯数》 150・65


《主な社寺など》

丸山古墳など
仁田付近の水田から石斧2個が出土し、由良川を上った弥生文化の六人部谷での最先端を示すものと考えられているという。
明治41年に一宮神社裏の丸山古墳が発掘され、瑪瑙勾玉、青銅製の鈴、琥珀の切子玉、須恵器の平瓶、轡、刀身などが出土したという。
またその丘陵南端に「男塚・姫塚前方後円墳」の2基の前方後円墳形の古墳があるというが未調査とのこと。(丸山古墳と同じものか不明)

一宮神社
一宮神社(宮)
大和一宮。三輪王朝の守護神。大神神社を勧請したものという。地名の「宮」は当社より出たものという。
一宮大明神  六部郷 宮神
祭神 大和国一宮三輪大明神 祭礼六月十八日 九月九日 産神
本社 戌ノ方向 華表 石
境内凡八十間四方
古ヘ上ノ山頂ニ建 東ニ京街道ニテ馬上不成故今ノ所ニ移祭 天王ノ地ナリ 地主天王ノ小祠アリ 九月十四日祭礼アリ
今社地ヨリ廿間斗行右脇ノ田ノ中 一間斗入所ニ三尺四面ノ石在 左リハ道ニ有 古ヘ上ノ山ニ座ス時ノ一ノ鳥居古跡也 社ノ右向ノ田地ニ古ヘ神馬塚アリ其ヨリ遙ニ向ノ田地ニ塚有 中古祭礼休所ノ古跡ナリ 又古大内宮村田野長田多保市岩間ニ此社一社ノ時三俣ノ御弊明神ト立合ノ祭礼有旅所ハ多保市村也 大内下千軒上千軒ノ産神ナリ 其時祭礼ハ大内村内囃子ケ嶽ト言所旅所有 今ノ社ヨリ未申ノ方囃子嶽迄凡十町
(『丹波志』)

村社 一宮神社  中六人部村字宮鎮座
祭神  大己貴命
(郷土史料)境内凡方八十間、古上山の頂に在りしが東に京街道ありて、此を通行するには下馬を要するとて今の所に奉移せり、此地主、天王社にして、祭礼は九月十四なり、今の社地より廿間許、右脇の田中に三尺四方許の石あり、左は道路なり、古、上山に鎮座の時に、一ノ鳥居此所に在りしと云。又社の右向の田地に神馬塚ありて、夫より遥向に又塚あり、これは中古祭礼の御旅所なりと、古は三俣の御幣神社と立合の祭礼ありて其頃の旅所は多保市なりしと云。大内、上千軒下千軒の産土神なり、其時祭礼は噺子ヶ岳といふ所に旅所ありしと伝ふ、こらは今の御社よりは未申の方凡十丁はなれたり、又立合のは多保市字和田の前より一丁許西の田中なる岩塚かそれなりと云
(『天田郡志資料』)

鎮座地は野間仁田という所で「野間の一宮さん」と呼ばれる。
イチイガシ(野間一宮境内)
境内に「イチイガシ」の巨木がある。
福知山市では2本しかない木
イチイガシ林については、九州および紀伊半島沿岸部が知られていたが、1973年の調査によって奈良市の春日山原始林で内地型のイチイガシ林が発見された。さらに京都府下の調査では、新分布地として由良川および土師川沿いの2カ所が確認された。一宮神社のイチイガシ林はその1か所に該当し、僅かに2本ではあるが、とても興味深い樹木である。
(『福知山の自然遺産』)


仁田城・城ノ尾城館
一宮神社の今の鎮座地は小字「城ノ尾」だが、この裏山に城ノ尾城館・仁田城があったという。
古城 宮村
古主仁田和泉守ト云 無子孫
間敷郭
在家ヨリ廿間斗高キ山ニ在 和泉守ハ長田村高橋ニ被討ト 和泉守妻ハ大内村エ逃ケ来リ 弁天ノ前ニテ被討 今ニ墓有 陵墓ノ部ニ出ス

井上佐渡旧栖
田野村城主浅田甲斐守ニ被責討ルト云 子孫有姓氏部出
(『丹波志』)
仁田城と城ノ尾城館


芦田均記念館
六人部は「憲法九条発祥の地」「平和憲法誕生の地」と言えぱオーバーかも知れないが、氏は憲法改正委員会の委員長を務め、九条は氏の修正(氏の名で代表する改正委員会の修正)を経て現行の文面になった。

当地出身の第47代内閣総理大臣・芦田均を記念する市のホールである。記念館の後の建物が彼の生家という。
デカイ家で、当時は中六人部村村長を務めていた家に生まれ、一高、東京帝大を出て外務省に入り外交官であった。初赴任地はペテルブルグ、第一次大戦やロシア革命の直前で、そうした世界史的大事件を目の当たりにした。
芦田均の生家(宮)
満州事変に日本の危機を感じ、外交官を辞して政治家となる。リベラルな平和主義を貫いた。議会に介入する軍部と対立し侵略やファシズムと闘っている。出石出身の斎藤隆夫の反軍演説に伴う除名にも反対した。『外交史』
『最近世界外交史』『第二次世界大戦外交史』の著作がある。

敗戦直後の占領下で、戦前のこうした活躍が評価され、鳩山一郎らと日本自由党結成に参加。45年幣原喜重郎内閣の厚相。46年衆議院憲法改正委員会委員長に任命される。47年自由党を脱党して民主党結成に参加、総裁となり社会党との連立政権を組閣。片山哲内閣の副総理、外相を務め、48年3月には芦田内閣を組閣した。しかし昭電疑獄で7ヵ月で倒壊した。
芦田均

注目点としては、
国全体がファシズム化するなかで、その流れに抗するリベラル政治家のむつかしい政治活動。大政翼賛会から非推薦でも何とか最下位でも当選する、小選挙区制ならダメだったかも知れないが、中選挙区制(3人区)だったから出来たのかも知れない。小選挙区は平和と民主主義を殺す危険性が高いと言えるかも、最低でも3人区がよいかも知れない。ダーと流される人間が70%ほどだが、そうでないその思慮深い3人目の声が実は大切なのかも知れない。多数決は多数派だというだけのハナシで何もそれが正しい選択とはまったく限らない、民主主義のどうにもならない根本的な欠陥かも知れない、ラクに方へ大部分は大きな流れとなってダーダーである、それに必死に抗している少数派の声こそ実は大切なのかも知れない。1人区は最初からそうした大事の少数を切り捨てる制度で、もともとから民主的でないのではなかろうかと思われる。これではいくら選挙をしても流れに乗る時局便乗調子者ダーダー派ばかりがあふれるといったことになる。小選挙区はその流れを加速する。
オヤジさんがナンボ村長さんだったとしても、その地盤は知れたもの20聯隊のお膝元での反軍派だから、選挙民の心の底にこれはヤバイぞ、の危機意識が強かったことと、この人の人柄だろうか。私利私欲のみで軍部にすり寄る政治屋とは違う平和信念を持った勇気のリベラル人との評価高かったのではなかろうか。

憲法九条と「芦田修正」
憲法九条の2は、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」となっている。この「前項の目的を達するため」が〈芦田修正〉と呼ばれる部分で、言い換えれば前項の目的以外の戦力、さらに言い換えれば自衛のための戦力保持は暗黙に認めたともされる部分である。
この文言を加えた意図やどういう意味かは国会答弁などで明文化されているわけではない。氏の日記によれば、「(九条1項の)『国際平和を希求し』という言葉を(1項、2項の)両方の文節に書くべきなのですが、そのような繰り返しを避けるために『前項の目的を達するため』という言葉を書くことになります。つまり両方の文節でも日本国民の世界平和に貢献したいという願望を表すものとして意図されているのです」。とあるという。自衛はOKの意味なのか大事な所だが何かよくわからん話になっている。はっきり言えば、そうした意味はないように言っているようである。芦田均日記
1項は、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」
日記のことだとすれば、2項は、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」となる。
自衛の戦力については何も言ってはいないことになる。OKかNOかはわからない。
日記など目を通しても、このオッサンどこかわからん所があり、くえないヤツだな、の印象が出てくるが、戦前は軍部、戦後は占領軍という絶対的権力を持った者の前での政治芝居だから、本意を明確にしないのかもわからない。しぶとく生き延びるためのやむを得ずの方策だから、あながち非難はできない。
日本軍部や米軍、その他日本人が神様視している大権威大権力を相手にすれば、彼などは上等の方で、たいていの日本人は彼には及ばない、何も言えないし、言えば諸手をあげて賛成しますだけである。こんな時代に、現在でもそうだが、彼ら相手に調子の良い事を明確に言うヤツこそアヤシイと見ている日本社会の中である。明確に言えば言うほど、アイツは過激なことばかり言うと日本社会からは浮いてしまう、そうしたお眠り中の日本社会を見なければなるまい。味方はこんな頼りない者ばかりで、世界水準からはるかに遅れるネゴトばかり、相手は超強力だから、言い方はこうしたことになるのが避けられない。

原案(マッカーサーノート。幣原の発言を受けてマッカーサーが骨子を決定したとする、現在の憲法学上では通説とされる)には「自己の安全を保持するための手段としての戦争をも放棄する」とあった。
政府が始めて国民に示した憲法草案には「国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としてはこれを永久に放棄する。陸海空軍その他の戦力の保持は許されない、国の交戦権は、認められない」とあった。
この文面では何か占領軍に命じられてイヤイヤ戦争を放棄させられたような印象で、戦争の惨禍を経験した日本人の覚悟としての主体性に乏しいの批判があり、9条1項に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、」が加えられた。
「前項の目的を達するため」は自衛のための戦力はOKという意味の修正ともされるが、芦田氏が当時そう述べているわけではなく本当はわからない、後には、これはOKの意味の修正だと述べている。
修正当時の委員会での議論が記憶が残っていた日記の記述から見れば、両方はあくまでも日本人の自主性を強調するための修正であって、自衛権は論じられたわけでなく関係のないことのように見える。
あるいは後にこの修正をむりやりにそう解釈しようとするコジツケものかもしれなくなる。
自衛権は書いてなくても天賦の自然権(神の法)として当然の話である、生きる権利だから、何人も憲法であろうが否定はできない。しかし「自衛」の概念は危険性を孕んでいる。どこまでが自衛か範囲が曖昧だし、自衛だ防衛だと言って実際は侵略してきたのが過去の歴史で「自衛権」は悪用、濫用されるのである。天賦の自然法(最高法)は自衛権OKだろうが、しかしまた「汝、殺すなかれ」(汝、殺されるなかれ)、「殺生はアカン」もまた定めていると見なければなるまい。キミを殺さないために自衛権があるように、キミだけではなく、神や仏が作りたもうた誰をも殺されてはならないものだろう。自衛権を言うなら、そればかり言ってないで、それよりも上位というか前提条件の関係にある「汝、殺すなかれ」「殺生するなかれ」の神仏の最高の最高法がありそうだということもまたよく知っておくべきでなかろうか。まずは「殺すなかれ」を実行しなさい、自衛権はそれからですよ、大量無差別虐殺兵器など持っている国に自衛権など言う資格がありますかいな。といったことになるのかも知れない。権利は自分だけが言っていても何も効力はない、相手に認めてもらえなければ、勝手な主張でしかない、相手にも権利として認めてもらうためには、相手の同様の権利も認めなくてはなるまい、従って相手にも同様の自衛権があることを認めなければそもそも成り立たない。お互いにその自存権を認めてお互いにキミの国は犯さないよと取り決めなければ、相手からも認めて貰える「自衛権」などは成り立たない。
真の勇者だけが剣を捨てる、それは勇者の最高の美徳。ワタシが言うのではない、こんな立派なことは言えない、これはガンジーの言葉である。憲法九条は日本は最高の勇者になると宣言したのである。舞鶴市が証明したように市が市民を守るものでなく関電を守るものであるように、軍も国民を守るものでないし、たとえ守るものであってもそれでは足りず集団安保ですらも国民の安全は守れない、それよりもお互いに武装を棄てることこそが全人類の安全が守られる一番の方法である。

「帝国ハ今ヤ自存自衛ノタメ…」(41.12.8宣戦詔書)と言ってアメリが攻めてきたわけでもないのに、アメリカの国土に攻撃をしかけた。自衛はいつでも侵略に変身してしまう、ドンパチのさなかにこの変身のブレーキをかける制御はしにくい、特に日本は動き出せば途中でやめられないという弱点がある、先の大戦や今の原発を見ればよくわかる、あれほどの惨禍があっても止められない、はっきり言って信じられないほどにメデタイ所、初志貫徹というか集団自殺に向けて突っ走る、人命をヘとも考えないところがある。自分の生きる権利が他国の人の生きる権利を奪うかも知れない、何でもカニでも一方的に自衛だなどは言えない。憲法にできることは、自衛といってもそうした危険があるから、野放しでなく厳しく制限することくらいであろう。天賦の不可侵の権利として神から与えられた自衛の為のみの厳密な範囲内、それよりも下回る程度にしなさい、このあたりが憲法の精神かと思われる。
当時の政府は、〈芦田修正〉の真実の意味もよく知っていようから、それも織り込んで、「自衛戦争を否定するものではないが、戦力の保持と交戦権を否定する結果として、防衛戦争も行うことはできない」の解釈に立っていた。侵略戦争は非合法、もし人を殺せば殺人罪です、自衛戦争もだいたいそうです、仮に自衛であってもできるだけ避けなさい、しなさんな、武力の行使は極めて制限され、他に手段がなく、最小限、これを越えれば正当な自衛行為とは認められず殺人罪です、の解釈と思われる、ずっとその解釈で、世界史の流れ、各国の平和に向けての努力、我国の戦争責任、被害を受けた国々の目、憲法の精神の全体的な解釈、そうしたものからはそうとしか読めないわけで、自衛と言えども、戦争や武力による威嚇又は武力の行使はしないとするようで、相手があることなので、基本としてはそういうこととする、それはだいたい正しい解釈と思われ、たいていの日本人はそのように解釈している、また世界もそのように理解している。
「各国議会は、日本国憲法九条のような、政府が戦争することを禁止する決議を採決すべきである」(ハーグでの「世界平和市民会議」1999)。公正な世界秩序のための10の基本原則の第1項)
日本に見習って、どの国も、戦争は自衛といえども基本的に非合法、違憲というものにしようというものである。ようやく日本憲法は世界水準、それも手本とされるほぼ最高水準の近づいた、あれだけの犠牲はこれで生かせるかも知れない、いえいえちゃいますで、「芦田修正」は自衛権OKのことですわいな、などの低レベルの話をしていていいのだろうか、世界が笑う。

自衛権については憲法には何もない、あるとすれば、〈芦田修正〉だが、それもこじつけ解釈しないとムリである。そのあたりが真実かも知れない。第一次大戦では1600万人、第二次大戦では5000万~8500万人もの死者が出た。どの国もこの責任を負っている、誰もがこの責任を負い、平和への努力の義務を負う。そうしたことをコロっと忘れた者が言い出したコジツケかも知れない。自国の自衛の為の軍備はOKなど、腐った政治家どもがしそうな低レベルの話を書いているのではなかろう。郷土の芦田氏と祖国の名誉のため私はそのように解釈する。

アメリカにも被害はあり死者もあったが、それは少なく、後に大繁栄を築いたのはこれら大戦のオカゲであった面がある。
惨禍を知らず、原爆反省もなく己が武力の強大さに驕る国や人間のケツにつくのはヤバイ。
また自衛隊は何なのか、国外それもインド洋やペルシャ湾、イラクのサマワまで行っていいのか、集団的自衛権はどうなのか、後方支援はどうか、日米安保はどうなのか在日米軍はどうなのか、いろいろ現行憲法との関係が問題として出てくる、幸いにも1発も撃たずに70年きたが、もし1発でも撃てば日本人の弱点からして歯止めがかけられるのか、これらは後の話で芦田氏には直接関係がないので、ここでは触れない。


《交通》


《産業》


《姓氏》


宮の主な歴史記録


『丹波志』
宮村 支 岩崎 仁田 嶋田 野間 綾部領
高五百三拾四石五斗六升 民家七拾四戸 内岩崎廿八戸
古三輪明神ノ社ヲ建 依之此号有 神社ノ部委
宮村中古塩見嶋太ト云士アリ亦池田村ニ池田殿ト云士住ナリ 聟舅トナリ住タリ 其此宮村ノ田地ニ水カラ悪ク池田ノ地ニ堰ヲ立向ノ池田地岩ケ端ト云所ヨリ一町幅四尺斗ノ溝ヲ穿水ヲ引堰ヲ宮井ト云 宮村ハ水末ナレトモ宮村ヲ水元トシテ溝敷等出サス 古例ナリ 向池田ノ田中ノ溝ナレトモ聟舅ノ間間ニテ作置タリシ所ナリ 于今古例不違ト云 三輪ノ社地ニ嶋田ヲ祭社コト神社部ニ委出之 嶋田子孫アリ姓氏部ニ出ス
支嶋田ヨリ南エ大川ノ左ニ見テ堀越村迄山岨ノ道壹町斗牛馬道本村ハ仁田ト云 是ヨリ弐町斗戌亥ノ田地中ニ野間ト云民家有仁田ヨリ貳町余東エ嶋田ト云所民家有 岩崎ハ大川ヲ東エ越四丁斗牛馬道 岩崎高ハ宮村高ノ内貳百石 綾部領

『福知山市史』
六人部方面の遺跡・遺物
旧下六人部村字岩間小字小野の台地上で、ハソウの破片をはじめ須恵器の破片が採集され、旧中六人部村字宮小字新戸でも水田の中に、無数の土師器、須恵器の破片が散布しているのが認められた。これら両地とも石器を伴ったことは既に述べた通りである。字宮には一宮神社の裏手の台地に古墳があって、今から約七○年前にこれを発掘して、首飾りや刀を得たといい、今そこに長さ四メートル、幅二メートル、深さ二・三メートルの廃穴がある。
 北村氏の丹波誌には、
「字宮小字丸山、面積五十坪許、明治四十一年掘リ出シタルモノアリ、瑪瑙勾玉一個、唐金製鈴十五個、琥珀切玉一個、土製平瓶三個、地金銅銀着セ環七個、青玉管石三個、土器二個、轡一個、刀身一本、孰レモ古色掬スベキモノニテ、其ノ中ニ就キ新シキモ三百年ヲ経タルモノニテ、古キハ知リ得べカラズ」
と述べている。今首飾りが出たといっているのは勾玉管石などが入っているのでうなずかれる。これにより古墳出土品の当時の概況が知られるのであるが、これらの出土品のうち銅鈴三箇は明治四十一年十一月東京国立博物館が買上げ、同館に保管されていることが明らかであるが、他の出土品の所在は不明である。なお、銅鈴は六世紀ごろのものと推定されているが、この鈴とほぼ同形のものが、同字大槻栄一氏宅に所蔵されている。
同村字田野通称いのぎのには林の中に数個の古墳らしいものがあり、その側の畑の中でも須恵器の破片が採集された。その他字笹場の南、墓地の西方でも、以前に古墳が発掘せられ、刀剣などが出たことがあるという。昭和十二年に村島渚氏は「天田郡教育」誌上において、多保市の寺院跡についての記述に、その付近から須恵器の破片や渦文のある土器が出たことと、その寺院跡の西方数百メートルへだたったところに、横穴式石榔をもった円墳が二基あったことを聞いていると述べている。
以上のようにこの方面にもかなり古墳があり、その時代の人の使用した遺物が発見されるのである。

『福知山・綾部の歴史』
福知山が生んだ総理大臣
●芦田均の業績
芦田均は、明治二〇年(一八八七)福知山市字宮の、綾部藩山裏郷の元大庄屋の家に生まれた。政友会代議士で北丹鉄道の開設に尽力した鹿之助が父である。
柏原中学校・一高を経て、同四四年、重光葵・堀内謙介などとともに外交官試験に合格し、翌年に東京帝大法科を卒業した。同年八月、外交官補に任ぜられ、ロシア大使館に勤務した。以後フランス・トルコ・ベルギーの各大公使館を書記官や参事官として歴任した。これらの大使館勤務中の先輩同僚の中には吉田茂・東郷茂徳などがいる。
昭和五年(一九三〇)七月、ベルギー代理公使となるが、翌六年刊行の『農村の家庭及教育』の中で不況にあえぐ当時の農村問題をあげ、欧米と比較しながら家庭教育と社会人の補習教育・実技補習の大切さを説いている。このように満州事変前後の祖国の国情に深刻な危機感を抱き、官僚としての限界を悟ったため、翌七年二月に政治家として献身することを決意し、退官帰国した。同年、衆議院議院総選挙に郷里から立候補し初当選を果たし、以後、政友会の外国通として知られた。また、ジャパン・タイムス社長や慶応大学講師としても活躍した。戦時下では、広い視野に立って軍部や大政翼賛会の専横に極力抵抗したが実らず、ついに敗戦を迎えるに至っている。
戦後、いち早く鳩山一郎と自由党を結成した。幣原内閣では厚生大臣となるが、吉田茂やその党類と合わず、自由党を脱退、民主党を結成し総裁となった。次いで社会・民主・国民協同三党の片山連立内閣の外務大臣兼副総理となり、その崩壊後の昭和二三年三月、吉田茂を抑えて第四七代内閣総理大臣に就任し、同様に三党連立の芦田内閣を組閣した。しかし、昭和電工疑獄事件の責任をとり惜しくも辞職した(同三二年、無罪決定)。
政治家としての芦田は、冷静沈着で愛国心に富み、理路整然とした名演説を行なう一方、孤高の風があり、清濁合わせ呑む政治力に欠けたためか政界での足跡には不満が残る。しかし、衆議院憲法改正特別委員会の委員長として「第九条は自衛のための戦力を持つことを禁止するものではない」と再軍備論を唱えて注目された。
重光葵の伝記には、大使館勤務時代、諸外国の憲法および外交史の熱心な研究者として芦田の名を特記している。彼は抜群の語学力を駆使してこれらの権威となり、大正一四年には赤坂東宮御所で、東宮(昭和天皇)・同妃殿下に外交問題を御進講している。『第二次世界大戦外交史』『革命前夜のロシア』『バルカン』などの不朽の名著も残した。
また郷土においては、鉄道管理局や警察予備隊(自衛隊)の誘致、由良川の大改修工事など、細かい気配りを見せている。
昭和三四年六月二〇日、衆議院議員現職で死去。享年七二歳。多年にわたる国家および郷土への功労に対して、従二位勲一等に叙せられるとともに、福知山市でも名誉市民第一号に推挙した。(芦田金次郎)


伝説





宮の小字一覧


宮(ミヤ)
赤井 赤江 荒堀 庵ノ音 庵カウ田市太夫 市助畑 市左ヱ門 市左ヱ門田 伊左ヱ門畑 伊三郎畑 インゲン田 イモジ田井子ヅミ 一町田 一ノ坪 一ノ的 伊勢畑岩間田 石橋 馬田 馬塚 梅ノ木田 越中田 御供田 ヲウタ 柿ノ木 柿ノ木田 鐘ツキ田 嘉平畑 神興田 苅分田 欠込 川内田 カワラ地 カゴノ木 上ノ山 上ノ戸上棒田 上クゴ 桑ノ木田 倉ノ下 クゴ 兼平 ケシケ谷 ゲキドノ 小平田 講中 ゴマ田 三角田 三ノ的 三ケ溝 桜田 サコ田 下川 下高田 下クゴ 城山 新田畑芝分田 泉田 七郎兵衛畑 十代 治平畑 治郎助畑 治右エ門田 砂田 杉ノ木 スジカイ田 善兵衛田 宗右エ門畑 外輪ノ木 高田 谷口 泰助田 大将軍 タクミ田 茶ノ木本 築添 チヤウヤ田 丁畑 瓜寄 寺屋敷 出口 伝七畑 トチ谷 トヲ亀田 土手添 道田 道亀田 永田 長塚 長小町 ナミ桑 西ノ宮 西左ヱ門畑 二丁田 ニン田 子ンサイ 針ノ木 半六畑 馬場 彦右エ門畑 彦左工門畑 彦兵衛畑 広畑 樋ノ向 樋ノ下谷 ビクニ田 古屋ケ谷 古屋ケ市 風呂本 平次郎畑 平四郎畑 細田 堀田 本瓜 法正寺塚 棒田 丸町 又三郎田跨田 鱒小町 三重田 溝添 向畑 紫分添門田 茂平 杢右エ門畑 山ノ下 薮ノ内 薬師畑 弥右エ門畑 与田良田 ヨケ田 岩助田 茂右エ門畑 中島 多兵エ畑 寺屋舗上スジガイ田 ヨケ溝 長木町 上棒田 芝分添 馬場田 樋ノ下 小平畑 下スジガイ田 弥左ヱ門田 上ノ山 桜山 柴草山 城尾 百合山 百合山口 中島 伊勢田 カモジ田犬ノ戸 中ノ瀬 若助

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福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市






【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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