長尾(ながお)
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京都府福知山市長尾 京都府天田郡金山村長尾 |
長尾の概要《長尾の概要》 丹後へ越す国道176号線沿の山間の集落で、「芝ざくら」が咲いて最近はよく知られている。ナゴーと呼ばれている。 花倉川(長尾川)が地内を南流する。古代の山陰道丹後別路が通っていたといい、「夫木抄」の、「もろひとのさか行く道は長尾山またゆくすえぞはるけかりける」などの歌枕として知られるとされる。 「なかをむら」は南北朝期~戦国期に見える村名で、康安2年2月3日付の宗吽(大中臣宗泰)から天寧寺への所領寄進状に「なかをむらの中いつもりさいけ」とあり、応永9年10月28日には沙弥威光(大中臣実宗)が「たんはの国さゝきしもやまのほうのちとうしき・なかを村内こねかい田弐反」を6貫文で天寧寺に売却しているという。その後の文安4年6月日付の臣唱寺寄進田畠注文に「なかを分」とあり、下って永正6年7月6日付の沙弥宗堅田地并牌前具寄進状に「一 直(長)尾村内弐所」と見える(天寧寺文書)そうである。 長尾村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福知山藩領、延宝5年からは上総飯野藩領。 万延元年の上総飯野藩領域内で起きた農民一揆では、当村の伊左衛門宅が襲われている。明治4年飯野県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年金山村の大字となる。 長尾は、明治22年~現在の大字名。はじめ金山村、昭和30年からは福知山市の大字。 《長尾の人口・世帯数》 88・42 《主な社寺など》
産土神は住吉神社だそう、伝説によれば、源頼光が酒呑童子退治の途次、このあたりで道に迷った、その時に熊野・八幡・住吉の三神が現れて先導したといい、その神社であるが、探せどもどこにあるのかわからなかった。村人が見当たらない、走っている車は介護施設の車ばかり。 公民館の前に薬師堂がある。 この中に納められているそう。案内板↓
《交通》 《産業》 長尾の主な歴史記録『丹波志』
『福知山市北部地域民俗文化財調査報告書-三岳山をめぐる芸能と信仰-』
長尾の小字一覧長尾(ナガオ) 芦谷 赤道 赤尾 赤禿 尼御前 家前 家後 家上 家下 家脇 岩立 岩根谷 岩瀬戸 池上 池本 稲久保 一尾下 馬瀬 上野 乳母谷 後田 後山 大山 大池 大畑 大久保 岡 小田 大神端 川向 川戸 川原田 上段 上長尾 柿岡 柿木原 柿原 神子田 加瀬谷 切畑 北根田 久保根田 久留海岶 九郎右エ門田 黒看場 崩小丸山 小根貝 越谷 越田和 庚申塚 古津名亘 荒神本 岶向 岶畑 三町 三之田 四戸 下野 篠子 四良左エ門 砂田 曽利 双円田 高杉 高良子 田淵 狸穴 楠田 知留海 手白山 鳥野 塔下 登湯向 堂口 堂前 堂奥 堂脇 中田 中道 中手山 西平 二賀田 糟又 野畑 野端 野々端 林上 橋向 墓脇 蜂坂 広道 比白 樋本 彦兵衝田 貧財 舟谷 舟谷口 袋谷 袋谷口 風呂貝 保曽村 前田 松田和 的場 宮口 宮子谷 三住間 道下 向根 目黒 森本 森下 門指 薮下 薮谷 矢ノ谷 屋敷 奴太岶 弥太郎鎌 湯口 和田 和久谷 渡利瀬 芦谷 堂袋 矢谷 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹波志』 『福知山市史』各巻 その他たくさん |
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