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丹波の

中(なか)
京都府福知山市中


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京都府福知山市中

京都府天田郡庵我村中

中の概要




《中の概要》

庵我神社の鎮座する所で、旧庵我郷・庵我庄の中村という意味のようである。鬼ケ城・烏ケ岳の西麓に位置し、南を由良川が西流し、広大な氾濫原が広がり、古くは大河村と称したという。市街地の北方約1.5㎞にあたる。
中村は、江戸期~明治22年の村。福知山藩領。
文化4年上紺屋町を火元とする福知山城下の大火では、大風によって当村に飛火して74軒・百姓屋77軒・八幡社内を焼き払い、ほぼ全村が焼失したという。明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年庵我村の大字。
中は、明治22年~現在の大字。はじめ庵我村、昭和11年福知山町、同12年からは福知山市の大字。

《中の人口・世帯数》 374・174


《主な社寺など》
式内社・庵我神社
庵我神社(中)
天田郡には数少ない式内社の一社で、庵我郷の総氏神であるが、延喜式よりも200年も古く、『続日本紀』にすでに記録がある。宝亀4年(773年)九月壬辰(20日)  丹波国天田郡の奄我(あむが)社に盗賊が押し入り、お供えの品物を食べて神社内で倒れて死んだ。(不吉であるため)直ちに十丈ばかり離して新たに神社を建てた。また『三代実録』の貞観14年(872)11月29日条に正六位上奄我神に従五位下が授けられたとある。元亨3年(1323)の銘がある社額がある。
『福知山市史』が詳しく、だいたいはそのように考えられているのではないかと想われるが、それは下に引かせてもらったのでそちらを見てもらうとして、一般的なそうした説に大事な見落としがないかということで、ここでは取り上げてみたい。私が言いたいのは、奄我神社はその祖・天湯河板挙命を祀る古代氏族・鳥取氏の神社であるかも知れない。ということである。
奄我は今は普通はアンガと呼んでいるが、アムカが古い呼び方である。もっと古くはたぶんアミカ(網処)、網を張った場所の意味かも知れない。丹後の竹野郡式内社網野神社には、アミノとアムノの訓注がある、網はアミではなくアムと読むのかも知れない。
祭神とされる天穂日命は、『日本書紀』には、出雲臣・土師連の祖で、垂仁条32年条には、その末裔の野見宿祢が埴輪を作った記事に、出雲の土部壱百人をめし上げて埴を取り埴輪を作ったこと、その功によって「鍜地(かたしところ)」を賜い、土部職に任け、姓を改めて土部臣としたこと等が記されている。土師氏は当社の南に土師郷があるが、土師器を造ったり墓を作ったりは副業で、本業は鍜冶屋らしいことがわかる。だから居母山西麓の夜久野町直見が彼の出身地という伝承もあるのであろう。聖神社と呼ばれていたり、この祭神だったり、場所が鬼ケ城・烏ヶ岳の西麓で、古くからの鉱山であったことは間違いなかろうから、鳥取氏がその祖・天湯河板挙命を祀った神社だとしても何もおかしくはない。遠所遺跡のある所が竹野郡鳥取郷である。鳥は網をかけて捕ったのかも知れないが、また鳥には鉄霊・金属霊の意味もあり、金属を採る者の意味もあったのかも知れない。
同名の神社を探してみると、
庵賀明神。「室尾山観音寺神名帳」「熊野郡八十四前」に、「正三位 庵賀(アンガ)明神」とある。
今はなく、どこにあったのか不明だが、浦明に鳥取城跡があるので、このあたりかも…
阿牟加神社。但馬国出石郡の式内社とされる。但東町虫生で、「農村歌舞伎」で知られる。江戸時代は「聖大明神」と称していたという。承和15年(848)8月、安牟加首虫生を出石主政に任ず。安牟加首虫生其祖物部十千根命を虫生の丘に祀る。之を安牟加神社と云う。と「但馬国司記」にあるそう。また、丹波国天田郡の当社から分祀したとの説があるという。
『姓氏録』に、「奄我(アンガ)は天穂日命の後なり」とあることから天穂日命を祭神としているという。福知山でもそういうが、『姓氏録』にはそうした記載は見当たらない。
阿牟加神社。あるいはこちが式内社かも知れないが、豊岡市森尾アンガ。もう廃社のような形でどこかへ合祀されたものか、近くの式内社中島神社の相殿祀られているともいう。創祀年代は不詳。『神社考』に、
「森尾村ノ奥ヨリ小野村ニ越ル坂ヲあむか嶺トイフ、其ノ麓ニ小祠アリ、土人あむか荒神トイフ」と記載され、『神社覈録』に、「森尾村に阿牟加谷と称する地あり、其地に阿牟加神社あり」と記載され、出石郡式内社・阿牟加神社の論社となっているそうである。
祭神は、『姓氏録』に「奄我(アンガ)は天穂日命の後なり」とあることから天穂日命とする説がある。あるいは、安牟加首の祖・物部十千根命とも。また、天湯河板挙命とする説もあるという。
『白鳥伝説』に、
「豊岡市森尾の阿牟加神社も地元ではアメノユカワタナを祀るものと信じている。阿牟は網のことであり加は郷をあらわしていると『但馬考』の著者は言っている」とある。
『但馬考』の補には、
(補)按するに、森尾村に座せる阿牟加神社は、伝へて天湯河坂挙命を祭れるものとなせり、果して然らは、阿牟は網の義、加は郷の略にして、阿牟加は網郷に座す神の義なるへし、由りて思ふに、養父郡に和奈美神社あり、城崎郡に久々比神社あれは、出石郡にも網を張りしことありて、安美郷の名をつけられたるにはあらざるか、和名抄越前郡足羽郡に安味郷あり注して安美といふ参考すへし、武田信成か城崎紀行に、安美郷香住小森氏 贈正四位田中河内介の生家 にて読みたる歌あり、
 鵠とりしむかし忍ひてさとの子かあなみの川に網非支数らしも
 といひしも、亦天湯河板挙命の故事を思ひあはせたるならん、

また安美は穴見とも書かれるが、この穴と書くのは穴師など関係があるのでは、と書き加えている。皇国史観から抜け出せそうにもない現在の大方のセンセ方よりもずいぶんとスルドイ。
その現在の『豊岡市史』は、
神美地区と三江地区では、伝説的に語られる神社の縁起話の中に職業部に閑したものがある。それは、鳥取部についてである。
 『日本書紀』の垂仁天皇二十三年の条によると、唖の皇子・誉津別王が大殿の上を鳴きながら飛び立つ鵠を見て、初めて言葉を発した、とある。喜んだ天皇が侍臣に捕獲を命じたところ、天湯河板挙は鵠の飛び方を望んで進み、ついに捕えたのが出雲とも但馬ともいう。『古事記』では話はさらに具体的で、捕えた場所は但馬の和那美水門である。和郡美水門は普通、八鹿町網場の和那美神社のあるところとされているが、神美地区森尾(穴美郷)の阿牟加神社であるともいい、同社の祭神は天穂目命と考えられているにもかかわらず、同地では天湯河板挙であるとしている。
 三江地区の下宮の久々比神社の祭神も、久々遅命とされながら同地では、天湯河板挙としている。
 どちらも鳥取部の伝承が但馬と関係があるらしく見えることから、穴美と和那美、久々比と鵠を結びつけたものであろう。



聖神社もやはり鉱山神と思われ、有名な聖社は秩父の聖神社で、ここで銅が採れた、朝廷に献上して、和銅開珎が鋳造され、改元されて「和銅」になったという神社である。祭神は金山彦命など。

社前の案内板↓庵我神社の案内板
この社の創建は不明ですが、宝亀四年(西暦七七三年)に社殿に泥棒が入ったこいう記録があるので相当以前にさかのぼるものと思われます。
 府の指定文化財である「木造扁額」は、後醍醐天皇の親任があつく歌人でもあった朝廷の要人藤原行房が表に「正二位聖大明神」と書いたもので、それを三角彫りにした鎌倉時代の格式の高い文化財であります。
 この種の文化財は極めて稀で、この社と中央とを結がつける重要な文化財であります。福知山市教育委員会


庵我仁社
現在の庵我神社は由良川の氾濫原にあって、鎮守の森には避難用のものか小舟がある。鉱山神だから、本来の鎮座地はここではなかったのではなかろうか。

薬師堂
薬師堂(中)
庵我神社の近くに薬師堂がある。(バックの白い建物は庵我小学校。庵我神社は←の方向、距離にして50メートルくらい)
案内板に↓薬師堂の案内板
木造薬師如来坐像(福知山市指定文化財)
(附) 像内仏 金銅聖観音坐像
像高178.5㎝を測り、いわゆる周丈六の薬師如来坐像の大作です。平安時代後期の穏やかな造形を基本としていますが、相好は目尻がつり上がり、頬の張りの強い厳しい表情を示し、衣のひだを整然と刻み出しています。12世紀末の制作と考えられます。
ところで、福知山周辺には「薬師の道」といってもいいほど薬師仏が数多く遺されています。仏への祈りは日本古来の信仰ではなく、インドで生まれました。したがって日本人に受け入れられるためたは
固有信仰の神々の神秘尊厳、畏敬の存在ではなく、病疫・飢饉・天変地異・天災から人々を救える存在が必要でした。むずかしい教理ではなく、単純に生活を救う薬師仏が必要だったのでしょう。
さて、この仏像の構造は寄木造で、頭髪部左前方部、両手先、彩色等は後の時代の補修です。また頭部内には江戸時代に金銅聖観音坐像が納められ、安置台側面に下の墨書があります。
(表)弘法大師御作恵(横書)
(裏) 奥州三春城主為乾元院殿前信州大守
   剛山瑞陽大居士菩提也
平成17年3月 福知山市教育委員会


薬師は特に眼病に霊験あるといわれ、強い光を見ることで目を酷使し眼病が職業病であった鍜冶屋に信仰されたものと思われる。仏教が最初に当地方に入った時代のものと思われる。中は薄暗いがのぞくと大きな薬師様がこちらを見ている。どこかこのあたりの寺院にあったものと思われるが、そのお寺はもうない。


臨済宗南禅寺派明光山養泉寺



秋の七草の萩があちこちに植えられている。本尊が薬師ということで、古い寺院を引き継いだものか。
案内板に、養泉寺(中)
養泉寺(丹波萩寺)
 当寺は臨済宗南禅寺派に属す。
開創は暦応二年(一三三九)特賜三光国師(孤峰覚明)の四莚開場の最初道場である。
天田郡誌によると、後醍醐天皇の御信仰が篤く、隠岐島より船上山に逃れ賜いし時、出雲の国雲樹寺より召されて禅学を講じ、御帰洛後も勅詔にて禁裏に侍講、五山之上南禅寺に住せしめんとされしも、名刹を好まず病と偽って養泉寺に帰らるとしている。現在の本望、山門、鐘堂は明治三十七年に再建されたものである。
【観音堂】
境内の観吉堂は、当村山中に大仙寺(真言宗)という七堂伽藍を具有する寺があったが、室町時代に廃寺となり、この堂一宇だけが残った。
元禄四年に領主の下知により当寺に移築、現在の御堂は嘉永元年に修築されたものである。
また堂内の格天井は、福知山城舞殿にあったものと伝えられ、八十一枚の板には百花百鳥が色鮮やかに描かれている。
 御詠歌
    曇りなき鏡のゑんと眺むれば
       残さず影をうつすものかな
    諸人の暗路を照らす明光山
       かわける草本にそそぐ養泉
【光明本尊像図】 昭和四十二年 福知山市文化財指定
この図は当寺の近くにあった久法寺に伝えられた宝物であったが、永正年中に同寺が廃寺になり、一時檀家に安置されていた。その後天文二十年(一五五一)養泉寺に寄進されたものである。
画風から見て室町時代の初期の作品と思われるが、光明をあらわす金腺がまったく描かれていないのが特徴である。また地合いは蓮の糸で織られたものといわれている。
【萩】
ハギの名前は生え芽〔古い株から多数の芽を出す)に由来する。昔はハギを芽子と書き、また芳宜草とも鹿鳴車とも書いた。マメ科ハギ属
又、萩という字は本種が秋に花を咲かせるので華冠に秋と書いてハギと読ませた。秋の七草の一つで、当寺には白ハギ、宮城野ハギ、錦ハギなどがある。


明光山 養泉寺  (臨済宗南禅寺派) 同村字中
本尊 薬師瑠璃光如来
開山 特賜三光国済国師大和尚。 中興 大雲碩寛和尚
創建 暦応二年(実は延元四年なり暦応は北朝の年号なり) 明治廿九年八月廿六日再建
開山三光国師四ヶ所(醍醐寺、出雲国雲樹寺、泉州大雄寺及常寺なり)の内最初の道場。伝ふ、
丹波之国、天田中郷、境内建物、本堂、観音堂、鐘堂、山門、庫裡、役寮、土蔵等あり。
鐘銘、…
郡新四国第五十四番 御詠歌 曇りなき鏡のゑんと眺むれは残さず影をうつすものかな。
観音様       御詠歌 諸人の暗路を照らす明光山かはける草木にそゝぐ養泉。
檀家 百四十戸(字中、福知山町、猪崎、其他)財産 田六反三畝十六歩畑四反二畝十六歩山林二反四歩
現住 鎮岡景洲師  ○菩提会支部
当寺境内なる観音堂は本尊十一面観世音にしてもと真言宗大仙寺に安置せらを此所に移しゝと云ふ。これは福知山領主、松
平主殿頭之命に由ると、現時の堂は嘉永元年の再建なり、
真言宗高貴山照光寺成就院本堂千手観音猪崎にあり、郡西国十番の札所なり。
(『天田郡志資料』)

絹本著色光明本尊像図(中 義泉寺)
縦一二四センチ、横九三・五センチ。
この図は当寺(臨済宗)とは関係のない浄土真宗で用いられるものである。これはもと養泉寺の近くにあった久法寺に伝えられた宝物であったが、永正年中(一五○四~一五二○)に同寺が廃寺になったため、一時檀家に安置されていたが、その後天文二十年(一五五一)に養泉寺に寄進されたものである。
 中央に「南無不可思議光如来」の九字名号、左下隅に「南無阿弥陀仏」の六字名号を金泥で書き、その間の余白に釈迦・阿弥陀・観音・勢至等の仏菩薩像、印度・支那・日本三国の浄土教の高僧および聖徳太子以下わが国浄土教の保護に力を尽くした人々の像を描いたもので、画風からみて室町時代初期の作品と思われる。図は、破損と香煙による汚損のためひどく傷んでいる。光明をあらわす金線がまったく描かれていないのが変っている。昭和四十二年三月、福知山市指定文化財に指定された。
(『福知山市史』)


中村城跡
養泉寺の裏山の西側丘陵の先端を利用した古城塞。横山城(福知山城の前身)城主塩見氏(横山氏)一族が築城したという説と、赤松満祐の末裔が拠ったという説がある。

《交通》


《産業》


中の主な歴史記録


『天田郡志資料』
村社 式内 庵我神社(指定) 庵我村字中小字立戸鎮座
   明治四十年三月一日幣帛供進使参向神社に指定
祭神 天穂日命、応神天皇、神功皇后、生島ノ神(又生国神とも)
社殿 三座流造、槍皮葺、幣殿、拝殿あり。  境内 二千八百七十歩
末社 八幡神社、祭神応神天皇、武内宿禰。 明治四十一年一月十四日末社高良神社祭紳武内宿禰を合祀し厄神社とも奉称す
○奥森神社 祭神足仲彦命 ○幸神々社 祭神 猿田彦命 ○巌島神社 祭神 市杵島姫命
以上社殿も檜皮葺流れ造り、
祭日 十月十五日、四月十四日、十一月廿三日
氏子 四百五十戸、○基本金あり ○現神職
(天田郡神社記)続日本紀、光仁天皇宝亀四年九月壬辰、丹波天田郡庵我社有盗、喫其供物、幣社中、即去十許
丈更立社。と見ゆ、同村字筈巻に聖御前といふ所あり。されきども社址とも見えざれども例年八月十五日の祭礼には社人、神女共に筈巻の西なる大河(即ち由良川)に御祓す、其時前の聖御前山王権現に祝詞を奏す。而してこの杜には社殿なしと丹波志に見ゆ。
境内の八幡神社は往昔福知山城以前に横山城と称せし時代其城内に在りしを此所に奉移せりとも伝ふ。祭礼には御輿渡御あり旗、弓、矢、太刀、鎗等の行列正しく、神前に馬場あり、福知山城主より警護の士を出さる、又乗馬二頭並に武具二領出づ。古来祭式替はることなし。舁丁「ホウワン」と一斉に唱ふれば太鼓一つ打つ。神殿及鳥居等は福知山城主代々修理せらる。松平主殿頭福知山城周囲に於て名社五社を選定されしその一社なり。

『福知山史談会会報』(何号で誰が書かかれたものか失念)(図も)高師小僧
高師小僧 発掘
 最近、庵我青年団長塩見俊治氏は、養泉寺東方の赤土層から図のような中空の長い管を発掘された。一見土錘のようであるが、これは人工的なものでなく、自然に出来たものである。長さ約七センチ、直径一・五センチで、土錘にしては長すぎる。即ち地下水に溶けた鉄分が、土壌中の植物体を介して、水酸化鉄として沈殿して生じたもので、褐鉄鉱である。愛知県の高師ケ原に多く産するのでこの名がある。
 尚、土錘は古代中世或は近世でも、金属が得にくかったので、焼物の管をつくって漁網の裾に並べてつけ、おもりにしたものであり、この附近の周縁台地の末端部に多く出土する。最も多く拾集されていにのは字牧の故根了太郎氏で、主に永明寺裏の古池からその東西に亙る地に出たものである。会員中川淳美氏も大槻昌行氏も拾得せられ、小生も奥野部の御土路神社の境内やその東方低地とヘだてた畑から出土したものを四個集めている。この土錘は徳川時代末期或は明治年間でも用いられていたもので、市内駅前の道管稲荷の南方でも大変大きいものを福高生が拾得した。上流から流されて来たものらしい。こういう新しいものけ一見して区別できる。古いものは多くは以外に高いとこういう出るので、湖辺とか河辺にあるものとしては一寸疑問に思われ、或ここの地方一帯の土地の隆起を想定させるものである。

水に溶けた鉄が植物の根の酸素と結びついて出来るもので、愛知県の高師ヶ原の物が有名なので一般に「高師小僧」と呼ばれているが、本来はというか古くは「スズ」と呼ばれたものである。漁網の錘にもなるものもあったのか、しかし錘よりも鉄生産初期の鉄原料であったとみた方がよいのではなかろうか。これが近くに多数あるとは知らなかったのだが、古福知山湖の周辺に作られたものであろうか。
この水酸化鉄の集合体である褐鉄鉱の団塊、すなわち「スズ」は、そのまま製鉄の原料となった。
山本博氏によると、鳴石を破砕して、流水を利用するかなにかの方法で夾雑物をとり除き、砂鉄精錬の際これを混入して 木炭と交互に積み重ねて火をつけたということである。これを破砕するのに用いたのが三碓で、天智天皇紀九年、是歳の条に「水碓を造りて治鉄す」とあるのもそれであろうとは、山本氏の指摘されたところである。

先にも述べたように、わが国の弥生時代には製鉄は行われていなかったと考えられているが、鉄は銅を熔解するよりも低温の七○○~八○○度の熱度で、鍛造することができたのであるから、弥生時代にも自然風を利用する露天タタラによって製鉄が行われていたことは容易に想像できる。露天タタラであるから、タタラ場跡の発見されるはずはない。しかしタタラ場跡がないからといって製鉄が行われなかったのではないことは、銅鐸が鋳造遺蹟がなくとも弥生時代の製品に間違いないのと同様である。この弥生時代の製鉄において、原料となったのが褐鉄鉱の団塊である「スズ」にほかならないことに想い到った。沼沢や湿原に生える葦・薦・茅のような植物の根に、沈澱した水酸化鉄が、鉄バクテリアの自己増殖によって固い外殻を形成し、褐鉄鉱の団塊となったものは、そのまま露天タタラで製鉄することができたのである。ただし、砂鉄の磁鉄鉱に比較して品位は低いかも知れない。それだけに酸化腐蝕して土に還元するのも早く、現代にまで製品が遺っているのは稀なのももっともであろう。それにしても「スズ」こそは弥生時代の製鉄の貴重な原料であった。
(『古代の鉄と神々』)


庵我神社
 庵我神社は市内字中村小字立戸に鎮座し(注)、現在は俗に「中村の八幡社」と呼んでいる。祭神は天田郡志資料には、天穂日命・応神天皇・神功皇后・生島ノ神(また生国神とも)とある(現在社前の由緒記には「祭神天穂日命、配社息長足姫命、生島神」として応神天皇は挙げられていない)が、古来諸説あって後に紹介することとしよう。また同書には末社として八幡神社があり、その祭神としては応神天皇・武内宿祢となっているが、この間にも祭神が本末両社に重復している。明治四十一年この八幡社に末社高良神社(祭神武内宿祢)を合祁して、厄神社とも奉称する。なお末社として別に奥森神社(祭神足仲彦命)、幸神々社(祭神猿田彦命)、厳島神社(祭神市杵島姫命)がある。
 (注) 八幡社の付近一帯民家のあるところを森ヶ西と呼んでいるが、それは、もと民家がこの森より西にあったのが、洪水の難を避けて東方へ移転したもので、もとの所在位置からこの地名が称えられているものである。
 当社の祭日は明治以後は四月十四日、十月十五日、十一月二十三日であったが、終戦後は祈年祭も新嘗祭もすたれて、秋の例祭十月十五日のみがにぎわう状態である。
 この神社は、この地方のものとしては史書に現われる最古のもので、少なくとも今から約千二百年以前すなわち奈良時代から祭られて、中央に聞えていた宮であった。続日本紀の光仁天皇の宝亀四年(七七三)九月の条に「壬辰丹波国天田郡庵我社有盗喫供祭物斃社中去十許丈更立社」と出ている。すなわち盗人が庵我神社のお供物を食べて社中で死んだので、そのけがれをはらうためか十許丈をへだてて建て直したというのであるが、この記事は後の人も興味を感じたらしく、丹波志の著者も、神祇志料の著者栗田寛博士もこれに触れている。
 この神社の遷座については後に考えることとして、その次の古記録としては、三代実録の清和天皇の貞観十四年(八七二)十一月二十九日の条に「乙未天南有声如雷、授丹波国従四位下出雲神従四位上従五位下阿当護神従五位上正六位上奄我神従五位下」とある。すなわちこの日、天の南の方に雷のような大音が起こったので出雲神社や愛宕神社と共に位を昇叙せられたのであった。(昔は神に人間性を認めあい慰めたものである)次に出るのが醍醐天皇の延長五年(九二七)に選進された、延喜式の巻十神祇下の丹波国天田郡四座の中であって、そこには奄我神社とあり、これすなわち式内社といわれるゆえんである。
 ところが、それから後四百年程の間は、この宮のことは記録に現われず、鎌倉時代の末期の元亭三年(一三二三)の銘がある社額が唯一の、そのころの史料となるわけである。この額は丹波志の著者も注意しているものであって、額の内側は縦六五センチ、横三三センチあり、厚さは約四センチの杉板で、外側に雲形の浮彫りがしてあって確かに旧代の実物と思われる。これについて古川氏は次のように書いている。
  額正二位聖大明神トアリ 額ノ裏ニ元享三年癸亥十一月二日庚寅書之 散位正四位下藤原朝臣行房トアリ 図有出爰 額ノ形杉板厚一寸余 内ノ分一尺壱寸長ケ弐尺壱寸アリ 四方上下ハ三寸左右ハ弐寸五分雲形ヲ彫テ平額也 無可疑古物ナリ 則社内ニ納置ケリ。
 正に右の通りで、元享三年並びに散位正四位うんぬんの文字も墨色は薄れているが、字の部分だけは風食を免れて浮出ており、判読し得る。丹波志は寛政年間ごろの著であるが、この額には覆箱が作られていて、その箱の側面には明和二乙酉年四月下旬筥改天田郡中村宮とあって、丹波志の編さんされたころより約三十年前(明和一一年は一七六五年)にこの箱が造られたことを示している。今はその覆箱自身が蝕ばまれこわれようとしているのである。
 さて額が奉納された元享三年(一三二三)は後醍醐天皇の時代で、翌年は正中元年であって、朝廷では北条高時討減の議が起こるころである。額の正二位聖大明神という字を書いた藤原行房はいかなる人かというと、藤原経尹の子で家は一条と号し、当代一流の歌人でありかつ能書家で、後醍醐天皇の寵を受けて蔵人頭左近衛中将に昇った人で、この額の字を書いてから十五年目の延元二年(一三三七)に没している。(太平記や新葉和歌集などにしばしば出ている。詳細は、南北朝時代の歴史の章を参照されたい)すなわち鎌倉時代の後半、北条氏が衰えて建武の中興が行われ、それが失敗したところでなくなった人であるが、この時代については、当地方には記録がはなはだ少ないのであるが、記録以上の価値ある実物が残っていることは誠に喜ばしい。
 この額については、すでに今から約二一○年前の明和二年に、これを箱に入れて保存の策を講じているのであり、その後約三十年、寛政のころには、藩の史家古川氏が特に注目して、その存在を紹介しているのである。もっともこの額については、昭和十一年に編さんされた四方源太郎氏の庵我村誌にも、これが同社にあることを記し、「これも研究して見る必要がある」とのみ書かれている。
 その後この宮については、大日本史の国郡志の奄我荘の項に、奄我社があると記載されている外は、丹波志の記事、旧藩時代及び明治初年の社堂改記、天田郡志資料及び前記庵我村誌ぐらいであろう。当社研究の資料については大体これ位にして、次はその祭神について吟味することとしよう。
 さて奄我神社の祭神については、江戸時代からの伝承では一般に「聖(ひじり)さん」といい、今は普通「八幡さん」といわれているが、もとの祭神は天穂日命である。
 嵯峨天皇の弘仁年間の選である新撰姓氏録に「奄我ハ天穂日命之後也」とある。さて天穂日命(天之菩卑命、天菩比神ともかき、菩は大の意、卑は尊称である)神話によれば、天孫降臨の前に高天原から出雲へ使し、国土献上を勧めようとして、かえって大国主命と和し、出雲国に永住した神であって、後の土師氏の祖である。既に上代史で述べたように、この地方に土師部が置かれたのであったが、姓氏録にいうように奄我氏はまた土師氏と同族であったので、彼等の氏族神である天穂日命を祭ったものであろう。
 (注) 土師連は新撰姓氏録によれば右京神別下天孫天穂日命十二世孫可美乾飯根命之後也光仁天皇天応元年改土師賜菅原氏とあり、又続日本紀には、光仁天皇天応元年遠江介従五位下土師宿称道長等一十五人言、土師之先出天穂日命十四世孫野見宿称云々とある。
 しかるに、後に聖明神とか八幡社として信仰されるようになったのはなにゆえであろうか。まず前者については、前述の鎌倉時代の「正二位聖大明神」の局額が、既に約六六○年以前からこの宮がそう呼ばれていたことを証明している。その後江戸時代まで「聖さん」といわれて来た。ではこの聖明神の主体は何であろうか。丹波志には
 奄我神社 式内神名四座之内 奄我郷中村ニ建 福智山ヨリ子ノ方
  祭神 神功皇后也 祭礼九月九日
とある。そして寛政のころには、この宮は既に全体として八幡社として崇められていたことは、後に掲げる
「今八幡社ヲ為本社」の文と、同書に「八幡社地ニ八幡社仲哀天皇社在リ 其地平ニシテ東面八拾間 西面
六拾間 南四拾壱間 北三拾間」としていることによってうなずかれる。もともと聖明神の聖ははなはだ広い意味をもっており、一般には徳秀でて神のごとき人つまり聖人(本居宣長は古事記伝において、日知の義で日の洽きごとく天の下を明に知る義としている)の意で、古事記下においても、天皇の尊称に用いたところもあるのであるが、この地方では「聖さん」といえば、普通神功皇后を祭るものと考えられていることは四方氏のいう通りであり、また前述丹波志の文にも明らかにそれと記しているのである。
 (注) 聖神社というのは大阪府泉北郡信太村にもあって、貞観元年に神位従四位下を賜っている。延喜式には和泉国 和泉郡二八座の中に出ているが、祭神は聖大神といわれるのみでそれ以上明らかでない。ただ平安朝初期に、すでに聖神社というのがあったことだけを挙げて参考に供しておこう。
 現在京都府庁の倉庫にある丹波丹後式内神社取調書(明治初年の写本で「大沢清臣ヨリ借取写ス」と注せられている)には、「祭神、気長足姫尊 祭日 九月九日」とあり、気長足姫尊は日本書紀巻九にいう神功皇后のことである。この宮の主神が中世以来神功皇后と考えられ、挙田別命すなわち応神天皇でなかったことは不思議である。
 なお末社には皇后の夫である、 足仲彦命すなわち仲哀天皇が祭られている。
 今一応聖明神を神功皇后のこととする。そしてこの宮が、後世八幡社として崇められるようになったことは事実である。ところが、普通には八幡神といえば応神天皇を指し、天田郡志資料には祭神にこれを加えてある。しかし記紀に明らかなように、応神天皇の母は神功皇后であり、父は仲哀天皇であって、古記の記録に少なくとも武功の点で、最も顕著な事跡が残っているのは神功皇后である。そういうわけか、八幡社には多くの場合神功皇后を合合祀するか配祀しており、その時の功臣といわれる武内宿祢も摂社として祭られていることが多いのであって、適例ではないかも知れないが、同じキリスト教でもカトリック教では、キリストよりもむしろ聖母マリヤをより深く信仰しているのと同様の関係と見られないだろうか。さてこの宮が八幡社となったのはいつごろからであろうか。すなわち正二位聖大明神と称せられた時には、いわゆる八幡神として崇めていたものであろうか。注解にも述べるように、八幡神を応神天皇とするようになった(あるいはその母あるいは父をも含めて広義に解してもよいが)のは平安以後であるとされているが、名は奄我社であっても、河内国に当時聖神社があったように、平安時代のおそらくその後半期に、聖明神と称せられるようになったものではなかろうか。もともと八幡信仰の由来は古く、既に奈良時代にもかの大仏造営に神助があらわれたというが、この信仰が全国に普及するようになったのは、平安後期に武士が勃興して、八幡神を弓矢の神として崇め、源義家を八幡太郎と異称し、源氏が自家の守護神として仰ぐようになってからのことであろう。源平二氏の争覇の結果、頼朝が鎌倉に幕府を開き全国に号令するようになり、その家人一統がこれを尊信し、この地方にも守護地頭として家人が配置されるようになると、そこに八幡信仰がひろまって来るのは当然であった。とりわけ天田郡方面は、塩見氏(その前は小笠原氏で甲斐源氏)が勢力をもつようになったのであるから、一層この八幡社は深く信仰されたものであろう。
 別にこの八幡社はもと福知山の家中(士族屋敷)にあったものを、中古ここへ移し祭ったという説もあるが、この説については後に考えることとしよう。
  (注) 八幡宮は西は九州の宇佐八幡宮、中央では京都の西南男山の石清水八幡宮、東は関東鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮を最も古く且つ由緒の深い宮として、全国的に最も数多い神社である。そしてその祭神は応神天皇(誉田別命・品陀別命)を中座とし、左右に比売大神及び神功皇后(大帯姫命・気長足姫命)を配し、三座を一体として奉祀するのが最も普通である。しかし比売大神の代りに仲哀天皇(足仲彦命)か玉依姫命を、神功皇后の代りに住吉大神を祭ったものもあり、あるいは綾部市の高津八幡宮のように、応神天皇、仲哀天皇、仁徳天皇、神功皇后、玉依比売命を合わせ祭るところもあり、あるいは以上の諸神の外に高良大神、田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命、多紀理比売命、白山姫命などを祭る宮もあって、種々様々ではあるが、初めに挙げた三神を祭るものが最も多く、殊にいずれの八幡宮も応神天皇を主神として祭らないものは無いといってよかろう。明治以後になって水戸学の泰斗栗田寛博士は「八幡神考」を著して、八幡神を彦火火出見尊、比売神を尊の妃豊玉姫と考証し、八幡神を応神天皇とするに至ったのは、平安朝に入ってからのこととしたが、まだ学説が一定したものとはいえない。八幡神を応神天皇と考えることは、古来の伝統信仰といってよく、この地方の八幡社の祭神を考察する上にはまずこの説に基づいて、その妃、母、父等が合祀されているものと見るべきであろう。
 丹波志の記事によれば、寛政のころの聖明神は、社殿正面三間奥行七尺五寸、御拝一間 檜皮葺 社ノ柱扉等虫穴多 尤星霜経リシ事也卜見造営 年号不知 今八幡ヲ為本社 毎歳八月十五日祭礼 右六ヶ村ノ祭礼ナリ
 拝殿三間半弐間 鳥居等有之 神田小有之 年貢地村除
 これによれば、当時は八幡社を本殿として、その規模最も大きく、鳥居等あり神田を持っていたのであるが、聖明神の社殿もかなりのものがあったらしい。但し後者は柱とか扉に虫穴多く最も年月を経ているものと考えられたことが知られるのである。丹波志には別に前記のとおり「八幡社地ニ八幡社仲哀天皇社在リ云々」としており、聖明神社を出していないのは、当時これがなかったわけではないが、一般にこの社を総称して八幡社といっていたことを示すもので、聖明神のことは他に記してあるから、仲哀天皇社のみを添加したものと解すべきであろう。
 これを要するに庵我神社は、最初は氏族神天穂日命を祭り、後に聖大明神と称して神功皇后を祭り、八幡信仰のすすむに従って、別に記録はなくとも一般的判断から応神天皇を祭り、仲哀天皇をも配祀したものと考えられる。あるいは社殿の規模からみて、三神(天穂日命、神功皇后、応神天皇)が相殿になっていたようでもある。そして当時の祭日は聖明神が九月九日で、八幡社が八月十五日であった。
 これらの点丹波志の記事も至極曖昧であるが、同書にはまた、
  産神中村八幡宮 祭礼 猪崎村
   右ハ聖明神也
としている。これは猪崎村は産土神として中村の八幡宮を崇拝していたことを示すもので、その八幡宮は聖明神であるとしているあたりは、当初の神天穂日命が忘れられて、八幡信仰にうつっている外、八幡神の主体が聖さん(神功皇后)とも、八幡さん(応神天皇)とも考えられて、明らかに観念上明確な区別がなかったことを証しているものであろう。かくて今日もそうであるように、この社域全体を八幡社と称するようになったわけであろう。
 庵我神社の移転遷座説
 さて、次の問題はこの神社が最初から今の地に建てられたものでなく、他から遷座せられたものと考えられることであ
る。今端的にいうと、その始めは字筈巻にあうたものが、中村の山手すなわち猪崎の左武谷の奥に移り、それから再び今の平地部へ移転したという説である。今そのことについて文献なり、その上に見られる古伝承をたどって見よう。
 まず丹波志に次の文がある。
  奄我郷中村ノ山ニ聖大明神古跡 是ヨリ同村八反田へ(「移ル」という字省くか)五月田植ノ比一夜ノ間ニ八反田小山ト成是ニ鎮座シ玉フ 其所ニ社ヲ造立ス 今ノ社飛騨(飛騨匠か)ノ作ル所ト云
 この記事の後半は、当時科学的な知識の薄かった時代に付会した話で信ずるに足りないが、現在も、左武谷に聖明神の跡というのがあって、そこから平地へ移ったという言い伝えがあるとすれば、一応そう考えてよいと思われるが、今の庵我神社付近に八反田という地名はない。ところがそのこととは別に、続日本紀宝亀四年の記事にある、盗人が本社の供物を食べて死んだので、社地が汚れたというので十許丈を隔てて、社を移し建てたということが思い起こされる。果せるかな、丹波志以前に、北村継元が何かに書いていると古川茂正は注しており、これについて茂正は、自らその旧地を訪ねたらしいが、当時どこの地であるか知る者はなかったと言っている。そこで氏は考えて次のとおり述べている。
 按ニ同郷筈巻村ニ聖御前ト云山有リ 此麓ニ畑有 字聖御前ト云 此所少ノ旧地有 社ハ無之 又山王メ旧地有 社ハ無之 然ルニ例年八月十五日ノ祭礼以前社人神女トモニ筈巻村西大河ニテ御祓ス 其時筈巻村聖御前山王権現ニ棒祝詞
此社社殿無之 委ハ古跡ノ部ニ出ス
とし、巻八の古跡の部には
 山王権現 田畑山林ノ字ニ在 社ノ旧跡ハ今百姓ノ持林ト成ル 此所ヱ猿一疋来一両日俳廻ス 従江州日吉ノ社来ルト里俗云伝 中村八幡宮祭礼八月十五日 以前社人神女筈巻村ノ西大河ニテ御祓ニ来ル 其時此山王并ニ聖明神エ棒祝詞両社共名計ニテ社ハ無之
と書き、次に聖大明神の古跡は右の山王権現の古跡である。山の裾の字聖御前のことであって畑がある。おそらくは続日本紀の文のとおりであろうと述べている。要するに、もと聖明神のあった所に山王権現を祭ったもので、それが共に廃せられて地名は聖御前となり、山王権現の跡として、その本宮である日吉神社の猿の話まで伝えられていたわけである。
 さて問題の続日本紀の社殿移転の記事に関係させて、氏は次のように書いている。
  聖明神又聖御前トモ云 字山ノ裾畑ニ在 少ノ由跡有之 此所ヨリ右五十丈ヲ去テ遷宮スト云伝 今ノ中村ノ聖大明神是也
  猪崎村左武谷ノ奥聖御前ト云所有
   茂正接庵我神社続日本紀ニ記所十余丈ト有 筈巻村ニ俗伝所ハ五十丈去ルト 其察ルニ土地五十丈ト云 則地理相叶歟筈巻村迄中村ヨリ
 すなわち筈巻では、聖明神は五十丈を隔たる地に移されたといい伝えているから地理に合うとしたのであった。続紀の文には十余丈でなく十許丈とあるのであって、その長さは明らかでなく、当時民間にこの社が五十丈を去って移したということが、このころまで一千年の間伝えられていたというのも信じがたい。もしこのいいつたえが真を伝えているものとすれば、官選歴史の記事と民間伝承といずれをとるべきかという問題となり、今直ちにいずれに加担することも出来ない。中村八幡社の祭礼にその社人神女が筈巻に来てうんぬんしたという神事から、祭日の日取りについては多少疑問があるが、筈巻の聖御前山から中村へ移されたことは一考の余地がある。(あるいは続紀に載せられた事実はまだこの宮が筈巻にあったころのこととも考えられる)それから再び同村八反田へ移転したということについては、多少疑問がある。庵我神社は地方まれに見る古大社であって、これには必ずや相当な神宮寺が付いていたものと思われる。庵我神社の東に隣する貧しい辻堂に安置されている薬師如来像について、その製作年代は室町時代とされるにしても、寺院のないところへあれだけ巨大な仏像を単独に作るということは理解し難い。
次にこの八幡社が、福知山の士族屋敷にあったものをここへ移したという説であるが、丹波志に
  古福智山家中十六軒町ト云所ニ在リシ社也 中古此地ニ移シ奉ルト云 年号等知者ナシ
   茂正按ニ十六軒町ニ八幡田地ノ松ナリシトテ大木二本侍屋敷残リ在シ 元文年中又延享ノ比大風ニ倒今ナシ 神木ナリト云伝へシ
とある。十六軒町は今の惇明校のところであり、元文・延享時代は丹波志のころより約四十~五十年前である。
 今いう庵我の八幡社がもと聖明神といい、筈巻から中村に遷座したことについ述べた。そうしてその初めは天穂日命を祭ったものが、中古聖明神と変り、三変して八幡社となったといったが、ここに又この八幡社が福知山から移されたという伝承も、積極的に否定する材料はない。しいて解釈すれば、庵我神社は古くから聖明神とよばれ、そこへあるいは、中古おそらく塩見氏が勢力を張っていた室町時代に、八幡社を遷座させてこれと併祀し、尊信されるようになったとでも考える外なかろう。以上ともかくも既に徳川時代の初期には八幡宮と呼ばれていたことは、現在同社々殿内に残っている
棟札によっても知られる。その文は次のとおりである。
  丹波国天田郡中村郷
 上棟 八幡宮
  万治三年庚子八月十五日 同国福地山城主従五品主殿頭源忠房再興
   注 福地山の地は原文通りであり醍醐寺文書にもこの字が使われているものがある。
つぎに丹波志の記事によって、旧藩時代におけるこの八幡社の祭礼の様子を述べる。
 八幡神社輿出ル 旗弓矢太刀鎗等出ス 社地ノ前馬場ニ旅所有リ 福智山城主ヨリ警固出ス 流鏑馬弐疋并武具二領 出之 祭式替ル事ナシ 神輿ヲ持者ホウウント一同ニ唱レハ太鼓ヲ一ツ打 神輿ノ往返如斯 古ノ俗習今其意難弁
 此日城主ヨリ代参有リ
なお八幡社の神殿並びに鳥居は、城主がこれを修理したといっており、本社の神体については次のように述べている。
 三条宗近作刀ヲ神躰トス 慶安年中錆アリシヲ 城主松平忠房京師ニ遣シ令磨之 新ニ箱ヲ奉納シ玉へリ 箱ノ蓋ノ銘ニ曰ク
  (略)
 現在右神剣の所在については不明であるが、箱は同社々殿の中にある。桐製で長さ二五センチ、幅二三センチあり、右の箱書は鮮やかに読み得る。箱書は丹波志所載の通りであり、それによれば慶安二年(一六四九)に松平忠房が研いだということになっているが、丹波志の文には更に正徳年中(一七一一~一七一五)にも同様のことをしたとある。(箱の
部は刀靭二ふりを収め得るようになっている)
 三条宗近は京都三条に住んだ刀工で橘仲遠の次子で、初名を仲宗といい、世に三条小鍛治と称した。稲荷山の神の霊助によって秘法を得たといわれ、信濃大掾に任じ、円融天皇の時代に伊勢神宮へ十握の剱を進献した人である。かかる名工の作品が、いつの時代にいかなる因縁によってこの宮に収められたか知る由もない。前記箱書や丹波志の記事から考えると真物であるらしく、この神社が歴史上重視されていたことを物語るものといえよう。なお宗近作の鎗というのも現在その行方が不明である。
 なお現在同社に保管されている藤原行房筆の「正二位聖大明神」の額は、もと本殿の額か、鳥居の額か明らかでなかったが、鳥居の額であったことを述べている。この額については「庵我神社の神額」の項を参照されたい。本社勧請の年月も宝亀三年(七七二)秋九月としているが、続日本紀には見えない。その後に香良大明神をあげているが、高良大明神の誤記であろう。高良神社で最も有名なのは、福岡県久留米市外の高良山に鎮座するもので元国幣大社であり、高良玉垂命を主神とし、八幡大神を左相殿に、住吉大神を右相殿に祭っている。式内で筑後の一ノ宮である。九州でよく祭られ、他の数ヶ所の高良神社では武内宿称をも祭っている。当社のものも多分久留米より勧請したものであろう。
 次に同社の摂社らしく考えられるが江賀八幡宮をあげて、曽我井村と和久市村を氏子とすとある。曽我大臣の草むすんだところというのは、蘇我大臣蝦夷が深く縁をむすび誓い合ったところという意であろう。もと和名抄では旧福知山町や旧曽我井村堀一帯を宗部(そがべ)庄といい、その後曽我庄-曽我井部村と転じて来たのであるが、往々いにしえの蘇我氏の部民かと説く者もある。本文なかほどを飛ばせて、最後の段にうつると、この社は八幡宮(この場合は庵我神社を指すか)の管下にあって、祭日は八月十五日であったが、応安二年(一三六九)に横山城(小笠原氏、後塩見氏、横山氏)よりこれを止めた……とある。その次に「此社横山城の麓に川筋の辺りにして清浄の社地なり。今の十六軒町横通り御用屋敷の前にありしを」とあるが、これは明智光秀が横山城を陥落させる以前には、由良川が現在の市庁舎の前方を東から西の方へ流れていたと「丹波志」などにも書いているが、そのころを想像して、しかもそれを江戸時代末の町や屋敷で説明しているのである。
 十六軒町といえば、惇明小学校の西部を南北に通っていた士族屋敷であるが、そこにあった御用屋敷の前にこの宮があったというのである。もしそうだとすれば、同社の氏子が曽我井村(江戸時代に行政村としてはなかったが福知山町地の同辺を指したものであろう)とあるのはうなずけるが、和久市が加わっているのは不審である。何となれば、由良川が現在の福知山駅の北方へ走り、北へ廻って、国立病院の辺りを北流していたとすれば、この宮からすると川向かいになる。
「丹波志」には、和久市村は猪崎村の支(分村)としており、古来の庵我庄内にあったからである。
 天正八年(七年の誤りか)八月二十日光秀が横山城を攻め落して、城を改築しようとした時に、川を埋めて、この付近を外堀の内側に入れた。その翌年五月に、そこにあった江賀八幡宮を中村の聖大明神すなわち庵我神社の境内へ移したもので遷座の後も、その社領として曽我井村に八十六石を保有していたと古記にある。江賀八幡宮を庵我庄に移してから、
八幡宮(江賀八幡か)と鳥居は福知山藩の支配するところとなった。聖明神とかいた鳥居の額を下して、本社の内陣に収
蔵したというのである。これを要するに今の惇明校の付近にあった八幡社を、庵我神社境内に移したというのであるが、この話は「丹波志」には載せていない。
(『福知山市史』)


庵我神社は、また八幡社とか聖明神ともよばれていた。福知山市街地の北東部を中心に祀られ、氏子圏は猪崎・中・池部・安井・筈巻にかけての範囲と、今の和久市も猪崎の分村として庵我神社の祀りに参加していたと伝えられている。現在の福知山市街は湿地が多く、由良川の流れも市街地にくい込み、現在の和久市も庵我とのつながりを深めていたといえる。こうして福知山市街地の北東部では、烏ヶ岳・鬼ヶ城の山麓から由良川東岸の丘陵上にかけて、古くから人々の生活の場が展開されており、その人たちの神社信仰の中心が庵我神社であった。

木造扁額(中 庵我神社)
 縦八二センチ、横四九センチ、厚さ約四センチ、縁を除くと、縦六一センチ、横三○センチ。
 扁額とは鳥居や建造物などに掲げる額のことを言うもので、この庵我神社の扁額は縦に二枚の杉板をならべ、外枠を雲形に模した彫り物で装っている。正面に「正二位聖大明神」と記し、断面三角形に彫り墨を溝に入れている。また、裏面は墨書で「元亨三年癸亥十一月庚寅書之」、「散位正四位下藤原朝臣行房」と二列に記している。裏面墨書部分は、色は薄くなっているが、字の部分だけは風化をまぬがれて、少し隆起しているので判読に差し支えはない。
 「元亨」の年号は当時の筆跡でなく後世の加筆である。
ところで、行房は後醍醐天皇に従っていた朝臣で太平記に出てくる人物であり、当代一流の能筆家である。三角彫といい、能筆家の書といい、立派な作品であり、かつ、当時のこの地方と中央政界との交渉をさぐることのできる貴重な資料である。
 昭和三十八年十二月、福知山市指定文化財に指定された。
(『福知山市史』)


『福知山市史』(地図も)

中村城(字中)
猪崎城址から北に約八○○メートル、由良川の東岸に中村の集落があり、集落の東の丘に名刹養泉寺がある。
その寺の北方に標高五五メートル、麓からの比高およそ一三メートルの亀の甲羅状の丘陵がある。東側は入りくんだ谷をへだてて烏ヶ岳・鬼ヶ城の山地にせりあがり、西側はおよそ一三メートル余り低く中村の集落、北側もまた一○メートル余りの崖下を谷川が流れている。
 この亀の甲羅状の丘陵、南北でおよそ一四○メートル、東西でおよそ五○メートルが城域で、南から北へかけて四つの曲輪を並べた連郭式で(北から北曲輪、本城、二ノ曲輪、南曲輪と仮に呼んでおこう)、その周囲を帯曲輪がめぐり、二つの堀切りで区切っている。二つとも底部で約二メートに 上辺部で約五メートに 深さ約三メートルのこの地方では比較的大きい堀切りである。
 北曲輪は東西一四メートル、南北一六メートルの削平地で二メートル低く、東面・北面・西面を幅七メートルの帯曲輪がめぐっている。
 本城とも呼んでいい主郭部の曲輪は、東西の帯曲輪より約五メートル高く、東西一七メートル、南北三七メート化 南方の部分が約一メートル低く、その部分は周囲を土塁で囲んでおり、虎口(曲輪の出入口)は西方についている。この主郭部の北側と南側はそれぞれ前述した堀切りとなり、北側の堀切りをはさんで、上辺二メートに 底部で約六メートル、高さ四メートルの土塁となっている。この土塁は物見台となり、主郭の曲輪から木橋でもって連絡していたとも推定できる。
 本城部分の主郭から堀切りをへだてた「二ノ曲輪」(現在、薬王神社の祠があるところ)は、東西一六メートル、南北二五メートルで、南面中央部は土橋となった虎口(城戸口)である。この「一ノ曲輪」の外縁部は土塁があったと思われ、現在でもわずかな盛土が認められる。そしてこの「二ノ曲輪」と「本城」との東側と西側の「帯曲輪」の一部に空堀がある。落葉と土砂に埋まっているが、深いところで約一メートル、幅は一・五メートル程である。
 「二ノ曲輪」の南に、南北三○メートル、東西一五メートル、現在畑地となっている削平地があるが、これも往時の曲輪跡であろう。井戸跡は、主郭部分の西方二段になっている腰曲輪の北端に認められる。この中村城は、その規模は大きくないが、比較的遺構がよく残っている城址である。
 『丹波志』に、「横山(塩見)大膳嫡子二代大膳ハ妾ノ子也 父大膳ハ堀村ニ隠居シ嫡子ニ譲ル(中略)二代大膳弟ハ土師村・猪崎村・中村・牧村・荒河中山・安尾五ヶ所に掻上ノ城ヲ築分知スト云」とある。また、地元の「塩見株」の由緒書に、嘉吉の乱後赤松満祐の遺児がこの地に来り、栗城(綾部市)の大槻佐渡守の女をめとって塩見播磨守義近と称して中村城主となったとも伝えるが、いずれにしても猪崎城とともに亡んだその支城と推定する以外、城主を裏付ける信頼性のある史料に乏しい。





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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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