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丹波の

中出(なかで)
京都府福知山市三和町中出


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京都府福知山市三和町中出

京都府天田郡三和町中出

中出の概要




《中出の概要》
「中手」とも書く。細見川中流域。細見谷の2支谷、田ノ谷・西松(さいまつ)川が当地で合流する。細見川左岸を府道709号線(柏原綾部線)が走り、沿道に集落が立地する。
中手村は、江戸期の村。当村は江戸中期まで上流の中嶋村とともに細見辻村の枝郷。綾部藩領。
中出は、昭和10年~現在の大字。はじめ細見村、昭和30年三和村、同31年からは三和町の大字。もとは細見村細見中出といった。

細見中出村は、江戸期~明治22年の村。綾部藩領。江戸中期までの細見辻村枝郷中手村・中嶋村から成る。
明治4年綾部県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年細見村の大字。平成18年より福知山市の大字。
細見中出は、明治22年~昭和10年の細見村の大字。昭和10年細見の冠称を省き中出と改称した。


《中出の人口・世帯数》 172・87


《主な社寺など》
梅田神社
主神に紀氏の祖を祀るという。ちょっと小高い所に超立派な社殿が鎮座する(府登録文化財)。境内にはかつては神宮寺(天台宗梅竜山神宮寺)もあったというが、幕末の火災と明治の廃仏毀釈で烏有に帰したという。
梅田神社(中出)
梅田神社(中出)
中央に梅田神社、向かって右に春日神社、左に西宮神社(えびす神社)。
村社 梅田神社  細見村字中出鎮座
祭神 天児屋根命、 事代主命、 紀 貫之
草創、  社殿、 祭日、
境内、  財産  氏子、
(郷土史料)境内六段六畝廿一歩ありて、細見辻と細見中出との境にあり、社田九十苅、除地、社地は細見中出にあれども、宮元は細見辻なり、此社、古は川合村の内梅ヶ原(今細見村)に在りしと云。今なほ梅ヶ原に古官の小字あり、尚ほ其地続きに、古宮淵といへる所あり、此故に此地を梅ヶ原といふとぞ。中古、今の社より半丁許西南なる一段高き所に古址ありき、茶畑となれり、丸山といふ。北へ下る所に鳥居坂といふ所あり、又細見氏はこの神裔なりとぞ。
(『天田郡志資料』)

氏子たちの祖先とされる紀氏はナゾ多いというのか、ほとんどわからない太古の氏族で、紀の川の河口あたりを根拠地としていた、「西日本最大の氏族」ともされる。おそらくはその一派は当地一帯のパイオニアであったものであろうか。その末裔は細見氏という。加古川・篠山川ルートで当地に入ったものであろうか、それとも大堰川の亀岡側から来たものであろうか。海や川をつたってどこでも行くから確かなことはわからない。
紀氏は武内宿禰の後裔氏族で、宗部郷の蘇我氏や雀部郷の雀部氏など当天田郡にも名を残している氏族や葛城氏などとは同族ということになっている。蘇我氏や雀部氏が来ているし、六部氏もその一族かも知れないから、紀氏も来ていると見てよいと思われる、紀貫之よりもかなり古いことかと思われるが確かな記録は残されていない。梅田七社の多紀郡にある神社より少し先の篠山市小立の岩井山3号墳にも石棚があり、伝説はどうやらエエカゲンなハナシではないようである。

「西宮えびす」は武庫郡名神大社広田神社の摂社としたり、あるいは兎原郡式内社大国主西神社としたりされる。どちらにしても隣同士の郡で、郡境になる夙川の流路が変われば、確かなことはわからないハナシになるが、兎原郡なら、三和町では隣村の菟原村とも何か関係があるのかも知れない。このあたりからやってきた紀氏なのかも知れない。「菟原処女」の伝説が万葉集に詠われる。「菟名負處女、宇奈比処女」となっていて、菟原は茨ではなく、海辺の意味だともされている。ウナフ・ウナヒと読まれて、あるいは船井郡とも何か関係があるのかも知れない。
天児屋根は藤原氏との関係か、あるいはこの街道を山を越せば春日町で、春日神社荘園との関係が何かあって名目上祀ってあるのであろうか。
梅田神社は亀岡市旭町にもあり、近くには石棚を持つ古墳が7基ある。


臨済宗妙心寺派顕竜山興雲寺
興雲寺(中出)
江戸初期に福知山城主稲葉紀道が開基したと伝える。一説に紀通が同年に乱心自害したのち、城中の顕竜院という堂を当地に移したのが興雲寺であり、開山回天は稲葉氏の家臣という。 文政年間に火災にあい、同10年再建されたという。

顕龍山 興雲寺 (臨済宗、妙心寺派) 細見村字細見奥
本尊 聖観世昔菩薩。木仏の坐像にして丈廿五寸、福知山城主稲葉侯持仏堂の本尊を当寺に移したるなり、
開山 回天法旧禅師(妙心寺住職にして師の墓標は本寺の南二丁に在りと云)
開基 福知山城主稲葉淡路守紀通侯
創建 寛永二年三月十五日にして後文政八年十一月失火、諸堂焼失、文政十年三月十八日再
建、伝へ云往昔は天台宗にて白泉某寺と号せしが廃頽甚しきを似て嘉左ヱ門といへる特志家再建を企てゝ其望を達し此時より妙心寺派となれりと云、
而して稲葉侯の菩提所となれりと。又丹波志に曰、稲葉侯除邑の際、其家士某細見中出に住み此に堂宇を建立し顕龍山興雲寺と号す云々。又其家士兄弟二人あり何れも同地に住み其子孫市谷といへる所に住めりと
檀家 三百戸
郡西国第七番  雲を興す寺のお庭に顕はれし一味の雨に水主の龍
郡四国第七十六番。近郷十二薬師の第一番、 めぐりゆく願ひも十二の道すぐに守らせたまふ法の尊さ。
讃仏事業 檀中総てを講員として観音講を設け毎月一回冬支部にて開講、又春秋に総会を開いて御詠歌及講演をなす。
  報徳会を設けて農繁期を除く各月一回開催す。是等現住職岡田仁峯師の主唱して組織せるものと云。
財産 年収入約廿石。山林其他約十三町歩、昭和御大礼記念事業として植林約三丁歩
尚本寺は福知山城主稲葉侯とは深き開係あれば福知川城出中侯の記事参看。
(『天田郡志資料』)

顕龍山興雲寺
興雲寺は中出小字寺の段に所在する臨済宗妙心寺派の寺院である、創建については、各出典記述を列記参照すると、「院明細帳」では「本尊聖観世音菩薩」、その由緒は「慶安三寅年月日不詳創立、丹波国天田郡福知山城主稲葉淡路守ノ建立、開山回天大和尚、当宇迄ノ歴住十三代、文政十一年三月二十日焼失、同年四月創立」と記さる。『天田郡志』には、「開山回天法旧禅師(妙心寺住職にして、師の墓標本寺の西二丁ニ在)、開基は福知山城主稲葉淡路守紀通」。創建の記述は、「寛永二牛三月十五日にしてのち文政八年十一月失火、諸堂焼失、文政十年三月十八日再建。伝へ云往昔は天台宗にて、自泉某寺と号せしが、廃頽甚だしきを以て、嘉左衛門といへる特志家再建を企て、其望を達し、比時より妙心寺派となれりと云、而して稲葉侯の菩提所となれり」。また、後述に「丹波志に曰、、云々」と、稲葉侯除邑のさいの顕龍山号の由来を記している。『丹波志』をよりどころとしながら、寺伝論述がなされているが、同じく『丹波志』には次の記事がある。「開山回天和尚、元福知山ニ在シ、稲葉淡州君断絶ノ時、菩捉所(トシテ此所ニ引)、京妙心寺ノ末寺ナリ、和尚ノ兄弟三人有リトモニ此所ニ移ル、此兄弟子孫、中手村ニ住ス、今市谷ト云所ニ子孫有」と述べている。
興雲寺は、細見谷唯一の寺院であるが、「雅智覚」(西松初見家文書)によると、興雲寺の前身であったと思われる細見村長谷山中島寺は、神池寺(氷上郡市島町)の僧が住持を勤めていたが、寂し無住となったため、回天和尚に入寺を願っていたところ、慶安二年(一六四九)二月に入った、とある。回天和尚は、福知山藩主稲葉紀通にしたがい、その菩提寺であった福知山の冨春院の住持でもある。慶安元年に紀通が自害したあとに細見谷へ入ったことになる。以上のことから、当寺の創建は寛永年間以前にこの長谷に興曇寺の前身である寺があり、住持が無住・荒廃のとき、地元有力者の帰依によって中興、慶安二年にいたって、藩主の菩提
寺冨春院住持回天和尚が、期を一にして入寺、興曇寺の名実中興は成り、寺歴を重ねてきたと考えられる。
興雲寺の本尊は、記述のとおり聖観世音菩薩であり、『福知初市史』によると、「紀通公護念仏聖観音菩薩、此寺之御本尊也、元は鬼カ城ニ安置ス、御本尊ニテ、春日之仏師ノ作也(稲葉古森系図)、また『細見村是』には、稲葉侯持仏党ニ安置セシモノ木造仏像ナリ」とある。
境内の仏堂として観音堂があり「寺院明細帳」に、本尊三拾四仏観音」とある。天田郡西国第七番」雲を興す、寺のお庭に顕われし、一味の雨ニ水主の龍」、また天田郡四国第七十六番近郷十二薬師の第一番「めぐりゆく願いも十二の道ぐに守らせたまう法の尊さ」の詠歌がある
また、寺内には薬師如来木造座像が安置されており、由来は詳らかでないが、おそらく梅田神社の守護であった神宮寺に安置されていた像であろうと思われ、神宮寺の什物帳(安政三年-一八五六-三月八日改、梅田神社文書)には、本尊薬師如来 壱体 焼失之節焼残」とあり、この像を興雲寺が管理したものであろう。火災にあったため、像の腰部の他は、大修理がなされている。
興雲寺には、開山の回天和尚にかかわる遺品も多く、回天和尚の木像、回天和尚使用の諸道具(喚鐘、硯箱など)がある、回天の墨跡や即興詩を板に刻んだものも残されており興味深い。
(『三和町史』)


中手城跡
樋口対馬守の居城といわれる中手城跡、対馬守の墓は中手の段(だん)にある。
古城  細見中手村
シロカアマ氏ト云 無子孫
古城  細見中手村
古城主樋口氏住ス 子孫有之 姓氏部ラ出ス
河合村日代ノ段に居住ノ樋口ト同統ナリ 対馬守墓中手ノ段ト云所ニ有之
(『丹波志』)


《交通》


《産業》


《姓氏》


中出の主な歴史記録


『丹波志』
中手村   綾部領
高百七拾七石五斗六舛  民家八拾五戸
中手ヨリ奥エ行 一ノ谷二ノ谷有 一ノ谷ハ奥不通 二ノ谷ヲ今ソトウ谷ト云 十町斗行嶺有 草山村エ越一里 少下リ谷道牛馬不行 右ノ方ハ牛馬越ス 又此道ヨリ氷上郡加茂ノ庄戸平村ヘモ分ル 又梅田神社ヨリ南エ越エ鍋坂嶺 兎原下村通ス凡二十町牛馬道

中嶋村  綾部領 小堀数馬殿支配 入組
高百七石   民家四拾七戸
中嶋ノ奥ニ二谷有 左ハ田ノ谷 右ハ本谷筋奥村ナリ
中嶋ヨリ田ノ谷ニ小町牛馬道

『綾部市史資料編』「巡察記」
細見村 土性塩壌 田方十五町四段余畑万十九
町八段余 高三百四石二斗四升六合 家数百十
一軒人別四百五十五人牛四十二疋アリ
当村ハ天明四辰年村替仰せ付ケラレ御上リ地ト
為レリ 其ノ時ハ本高二百八十三石五斗六升ニ
新田十九石六斗八升六合ト別テ記セリ 然ルニ
寛政十二申年御替戻ト為リタル砌リ高ニ結ヒ
テ御代官小堀氏ヨリ御引渡トナレリ 其ノ時ニ
ハ家数百三十二軒人別五百三十四人アリキ 其
後凶作及ヒ疫癘等アリテ村内漸々衰微ニ及ヒ戸
口減少シテ今ノ人別トナレリ 且ツ当村ノ蒟蒻
玉ハ昔名高キ物産ナリシガ百姓困窮シテ其ノ種
子ヲ買ヒ入ルコトモ叶ハズ蒟蒻ノ作ル者ノ無キニ
至レリ 其ノ他薪木炭等ヲ売リ出タシテ渡世ヲ
営ミ農事ヲ勤ルト雖トモ田畑過半他村ノ有ト為
リ村内ニハ悪田ノミナルヲ以テ食物ノ給ラザル
ニ窘モノゝ頗ル多キ様子ナリ 然レハ斯ノ如キ
貧村ハ愚老力勧化ノ日一銭ヲ積立ルコトモ得ベカ
ラス 因テ熟々按スルニ君侯モシ此村ノ困窮ヲ
済救シ昔ノ如ク安堵ナル村ニ恢復シ給ハンコト欲
給ハゞ此ノ村古新田高十九石六斗八升六合ノ御
年貢十年ノ間御倉ニ上納セズシテ山裏郷ノ大庄
屋ニ御預ケナサレ年々其ノ御年貢ヲ積立テ利倍
セシメバ十一年目ニハ元利合シ二百金ト為ルベ
シ 此ヲ元ト金トシテ借シ付ルトキハ年々三十両
ノ利足金ヲ得ベシ 年々此ノ利金三十両ヲ此ノ
村ニ合カセバ庄屋サへ厳密懃厚ナレバ三十年ノ
間ニハ此村必ス富贍スベシ 愚老此ノ村ノ庄屋
ヲ見ルニ直ニシテ温厚ナルコトハ人物ナリ 然レ
ドモ老且ツ懦人ナリ 此等ノコトヲ任シ難シ 官
シク骨硬ナル後見アルベシ 但シ此ノ策ヲ郡奉行
等御勝手方ノ憲宦コレヲ聞カバ愚老今般当国
ニ来テ末タ寸功モ有ラザルニ茂早御取箇ヲ減シ
タリト云ハン御一按アルベシ 又上ノ正後寺村
モ亦此村ニ同シ


『天田郡志資料』
中出村 高 百七十七石五斗五升 民家八十五戸  綾部領
此村より奥へ行くに、一ノ谷、ニノ谷あり、一ノ谷は奥通せず、二ノ谷は、今ソトウ谷と云ふ。十丁許にして峠あり、草山村に出づべし、又梅田神社より南へ越ゆる鍋坂峠あり、即兎原下村に通ず、


『三和町史』
興雲寺・広雲寺と回天和尚
三和町には、臨済宗妙心寺派の寺院が二ヵ寺、すなわち字中出の顕龍山興雲寺と字芦渕の霧窓山広雲寺がある。この二寺の縁起・歴史には多くの共通点があり、その概要は表36のとおりである。
 興雲寺・広雲寺ともに、回天法旧を開山としている。ここで回天和尚についてふれておきたい。回天法旧は稲葉氏の遠祖河野氏の系統で、天正八年(一五八〇)鹿児島県大隅において、河野通吉(寛永二年~一六二五-福知山で没)の次男として生まれた(「河野氏系図」)。京都妙心寺で仏教を修行、東海派の高僧で雑華院の開山
である一宙東然(本源自性禅師)に師事、一宙東黙の三甘露の一人仙渓元洞の法嗣となっている。『妙心寺史』によると、慶長十一年(一六〇六)愚堂を頭に七人の雲水が天下叢林の歴訪に旅立った記事がある。この一行には二十七歳の若い回天法旧も含まれていた。『妙心寺史』には、この他には回天の名は見当たらない。しかし、元和年間(一六一五~二四)の一時期、妙心寺の住持であったことがうかがえる。それは、回天の残した詩文の落款や調度品などにはすべて「前妙心」「前任妙心」の文字を冠している点である。とくに中出興雲寺に蔵する喚鐘(高さ一九㌢、青銅製)には、「元和八年秋 前正法山主 回天叟法旧」の銘文があり、正法山妙心寺の住持職を勤めたことを物語っている。いっぽう、妙心寺に残る「正法山妙心禅寺住持之次第(住世牒)」には回天の名は登載されておらず、「正法山妙心禅寺前住者旧帳」には登載されている。このことは、寛永四年(一六二七)のいわゆる紫衣事件との関わりが考えられる。
紫衣は、本来勅許によって着衣が許される紫の法衣で、僧にとっては最高の栄誉であり、妙心寺などの住持職は朝廷からこの着用を許されてきた。いっぽう、幕府は朝廷・寺院の統制政策として、幕府への番前申告を寺院諸法度で決めていたが守られず、この年、元和以降十二年間の勅許状の多くを無効とした。この朝幕の対立騒動を紫衣事件と呼んでいる。回天の妙心寺入院はちょうどこの時期にあたっていて、勅許失効の波を正面からかぶったことになる。
稲葉淡路守紀通が岡部長盛のあとをうけて、摂津中島から福知山四万五〇〇〇石の城主となって転封したのは、寛永元年(一六二四)九月のことであった。大名が新しい敵地に赴任してまずとりかかるべき仕事の一つは、一族の菩提寺建立であった。稲葉紀通は父稲薬道通の諡号「冨春院殿」から寺名をとった冨春院を、稲葉氏菩提寺として城下の寺町に建立し、住職として同族の回天法旧を京都から招請した。このことについて長沢氏所蔵文書では「回天大和尚、右福知山御菩提所、風春院に御住職被遊」とあり、『丹波志』(氷上郡姓氏部)には「妙心寺ノ和尚福智山へ越、菩提所ニ住」との記事がある。また、寛永十七年(一六四〇)に書かれた回天の書「方竹庵」には、「前妙心現冨春回天叟法旧書丹陽(印)」の落款があることなどから明らかである。
興雲寺所蔵品に、冨春院時代の回天が所持していたと思われる一双の書箪笥と硯箱がある。書箪笥には、「寛二丁卯 書箪笥一双之内 前妙心同天法旧 小春吉辰」と墨書されている。また、硯箱の底裏には朱漆で「前妙心回天法旧」と書かれ、蓋表には、螺鈿細工の装飾文字がある、上部には「紫潭出玄雲」とあり、紫の古端渓に玄墨の湧出する様を表現している。古硯が失われているのが惜しまれるが、側面には「有回天之力」と書かれてある。この場合回天とは「天を引き廻す、転じて国家の衰微を回復する」という意味がある(平凡社『大辞典』)。「回天」の名の出典(唐書『張玄素伝』)が明らかであるとともに、楷・行・草・隷・篆の各書体が散らしてある硯箱の意匠も注目されるところである。
寛永期の回天の自署には、かならず「前妙心」の文字を冠し、かつて勅許を得た妙心寺住持職たる名誉と誇りを示している。ところが、明暦元年(一六五五)・万治三年(一六六〇)の詩文などによると、「前妙心後住瑞龍」と書くようになる。「端龍」とはどの寺のことか、妙心寺派の瑞龍寺は何ヵ寺かあるが、回天が住職をした形跡はなく、「瑞龍」は福知山冨春院を指すのではないかとも考えられる。
福知山城主稲葉家菩提寺冨春院住職という回天の地位は、紀通入城二十四年後の慶安元年(一六四八)城主稲葉紀通の悲劇的な最期(稲葉騒動)によって消え去ることとなる。稲葉紀通家廃絶後、回天は稲葉家の家財道具を小田原藩主稲葉美濃守の江戸屋敷への運搬に同行(慶安二年五月)するなど、事件の事後処理に奔走、また中出輿雲寺には紀通の念持仏を祀り、悲運の主君紀通の供養にあたった。のち、年老いた回天は芦淵広雲寺に隠居、およそ十年の静かな余生を送った。
 回天の墨跡として広雲寺には「方竹庵」の他に、「松風」や「碧巌録」の公案を書いた「薬」、興雲寺には中国の志勤禅師の詩「見挑花悟道」、明暦元年(一六五五)自作の七言律詩を板に刻した「初遊神池等即興」などがある。いずれも唐様の深みのある書風である。

稲葉紀通と稲葉騒動
稲築淡路守紀通の父は、高名な武将稲菓一鉄の直系で、伊勢田丸城主稲葉道通であり、この道通の義妹が将軍家光の乳母春日局、また紀通の妻は豊臣家滅亡後の大坂城主松平忠明の娘で、家康の曽薗孫にあたる。このように、彼は徳川幕府につながる強力な閨閥を有していた。
 紀通は慶長八年(一六〇三)伊勢田丸城で誕生し、幼少の十三年をここですごした。この間、満四歳で父道通の急死という不幸にも見舞われている。また、大坂冬の陣・夏の陣には松平忠明について出陣し功をあげた。大坂落城後、忠明が大坂城に入るとまもなく、紀通は忠明の請いにより、元和二年(一六一六)摂津中島へ所領四万五〇〇〇石で転封する。しかし、幕府の畿内経営の一環として、大坂は藩府の直轄地となり、元和五年(一六一九)に松平忠明は郡山へ転ずる。そして、紀通もまた寛永元年(一六二四)丹波福知山四万五〇〇〇石の藩主となるのである。
紀通の福知山時代は、そのまま寛永時代であるが、それは家光の将軍在位と期を一にしており、幕府の政治体制、公儀権力の確立していった時代であり、この時期は大名に対する容赦のない統制や経済的圧迫がやつぎばやに課せられた。紀通にも江戸城石塁や増上寺の普請、市中勤番、空城在番など、さまざまな「御手伝」を仰せつかり、多忙な江戸詰めであった。こうしたなか、寛永十年代からの全国的な凶作の波は領内にも波及し、藩政の確立が急務であり、とくに中世土嚢の流れをくむ上層農民の支配懐柔は、藩財政確立のためにも重要な課題であった。
稲葉騒動は、慶変元年(一六四八)八月二十日、福知山家主稲葉紀通の福知山城内での自害と、それにかかわる前後の事件をいう。「江戸幕府日記」では同年九月朔日の項に次の記録がある。
一御礼已後、今日出仕之諸大名江於白番院、酒井讃岐守松平伊豆守阿部豊後守伝上意之趣、其厳旨云、今度稲葉淡路守儀、居城要害相拵、其上家来之著并領分之百姓等数多令殺害之由、其聞有之趣達上聞之処、対公儀可存御恨子細不可有之間実儀と不被思召也、謂然急度江戸遂参上可申披旨趣之由、去月十八日淡路守江撃書被遣之処、右之羽書到着以前同廿日於居城令自殺畢、然上ハ不能兎角之御沙汰也、向後如何様之風説謂有之、不被糺実否以風説不及御仕置、当地江被召寄子細被聞召候上可被押付候間、可存其趣之由也
この内容は、家光将軍との礼式の後、今日出仕した諸大名へ酒井讃岐守忠勝(大老)・際平伊豆守信綱(老中)・阿部豊後守忠秋(紀通の姉婿)から、自書院において将軍の厳しい通達があった。すなわち、このたび稲葉淡路守は、居城の要害を修理したり、家来の者や領分の百姓などを数多く殺害したという報告が幕府にまで達した。幕府としては、公儀への謀反とは思われないので、急ぎ江戸へ参上して申し開きをするよう八月十八日淡路守へ奉書を通わしたが、それが届く前に八月二十日居城で自殺してしまった。今は善悪の判断ができない。今後、どのような風聞があっても、事実か否かを確かめずに風説をもって御仕置におよぶことはない。江戸へ召し寄せられ子細をよく開かれてから処置されるので、早まることのないように心得よ、というものであった。 ここにいう「領分の百姓等数多殺害」とはどのような事実があったのだろうかむ若狭小浜藩の酒井家文書には、京都所司代板倉重宗が酒井備後守にあてた書簡があるが、そのなかに次の一文がある。
(前略)因幡淡路守事、大形気ちかい申族誠ニ而御座候、領分之百姓男女六拾人成敗仕候とかハ、山ししふし(臥)申候を見せニ遣申候ニ淡路守罷出、ししかり仕候ニ、しし一ツ出不申候付、初庄屋を成敗仕候而、其後女房共ハ成敗仕候
福知山報恩寺および印内地区には、庄屋一家が紀通のため「桶伏せ」の刑に処せられたという口碑がある。庄屋が猪による不作を理由に、貢租減免を願い出たところ、紀通は猪が出たときは猪狩りをするのですぐ通告するように、とのことであった。あるとき猪が出たとの申告で猪狩りがおこなわれたが、猪は一頭も姿を見せなかったので、庄屋が年貢減免のために領主をあざむいたという罪により、一家もろとも死刑になった、というものである。重宗の書簡にみる「しし一ツ出不申」という猪狩りの状況が、今日の伝承にそのまま生きていることに驚きを感ずる。ともあれ、紀通の極刑でもってのぞむ、この高圧的な政策は農民層を支配しえなかっただけでなく、みずからの立場をゆるがす一因となった。
またこのころ、紀通と隣国宮津薄京極丹後守高広との間に争いがあった。『徳川実紀』には、「世に伝ふる所」として次の記事を載せている。
そのころ紀通は京極丹後守高広が国に使して、その国の鰤給るべきよし乞たり、高広これを聞て、こは紀通が吾国の土産を乞受て、執政・権門のもとへ苞苴の料にするならんとて、鰤の首を一々に切て贈りたり、紀通是をいかり、さらば京極が家人の我が所領を通行する者ある時一々に誅し、このうらみを散ぜんと待居たり、しかる折ふし窮極が脚力の城下を通るもの有と聞、急ぎ櫓に上り、みづから鉄砲を放て打しに、不幸にして京極が飛脚にはあたらず、他国の飛脚にあたって打殺す、隣国の大名等これを伝へ聞、紀通謀反し、往来の旅人を禁殺するとて、以の外周章におよびしなり
「紀通謀反」「紀通狂乱」のうわさは、またたくまに近隣諸藩へ所司代へ、そして墓府へと伝わっていった。幕府は、紀通に急ぎ江戸へ参上すべくうながすとともに、万一籠城のときは篠山・亀山・出石・柏原・三田・宮津の近隣在藩の各大名に出兵すべきむね指示した。各藩はこの命令を受けて早速に臨戦態勢にはいり国境まで兵を進めた。江戸参勤中の大名については、この命令はなかったが、小浜藩酒井忠勝など在府中の藩主からは、何時でも軍勢が出せる準備をするよう、こと細かな指示が出ている。かくて紀通は、十八日に発せられた奉書が、急ぎ福知山へむかっていることも知らず、運命の日を迎えることとなった。
 紀通の自害は、慶安元年(一六四八)八月二十日午後二時ごろであった。この様子を『徳川実紀』は『藩翰譜』から引用して次のように述べている。
紀通大坂に行て身の罪なき事を申開かんとせし時、はや隣国の大名等城近くよせ来るとて、家人等ひそめきあへり、紀通聞て、今は力及ばず、我、当家の恩を蒙り、何のうらみをいだきて謀反を企る事あらむや、是はまさしく隣国の大名等が、我所領を横領せんため、かかる浮説をいひふらし、今また討手にむかひしものならん、この上の恥をさらさんよりは自殺せんにはしかじとて、鉄砲の火薬をまき散らし我死せし後、是に火を付て焼立てよといひ置て、みづから腹切て死す
このときの紀通は、「堀村代々庄屋記録」(『福知山市史』史料編一)に「鉄砲ニ而腹切被成候」、土佐山内家文書に「鉄砲自害被給候」とあるように、鉄砲による壮絶な最後であった。
 慶安二年三月六日、幕府は稲葉騒動に関する公儀の判断を江戸城評定所において発表した。これを「江戸幕府日記」にみると次のとおりである。
一去年稲葉淡路守無作法之儀有之由風聞候処、令自殺訖、不調法之至被思召候、然共致参上申分可仕之旨最前被遣奉書候処、彼奉書不相届以前、右之仕合、其上居城之躰、雖遺検使新規之要害等不構之、病痾之故、令忘却自分、不仕置之儀雖有之、対公儀不届之子細無之、因茲、淡路守子之儀心次第何方ニ茂可罷在候、家財之儀茂従公儀御構無之旨上意之趣、今日於評定所、稲葉美濃守船越三郎四郎召寄被相伝之
ここでは、検使を遣わし査察させたが、居城の要塞を構えた形跡は見られず、ただ病気のために自分を忘れよくない行動はあったが、公儀に対して反抗しようとしたわけではないので、一子大助には罪はなく、心にまかせどこに居住してもよく、紀通の残した家財も没収しない、と述べている。しかし、稲妻美濃守正則の江戸屋敷に預けられていた三歳の大助は、慶安四年(一六五一)当時大流行していた天然痘にかかり、五月六日の夜、その短い生渡をとじた。
稲葉紀通と一族の墓は妙心寺内雑華院にあり、二メートルを越える紀通の墓碑には「慶安元戊子年 顕龍院殿胸雲詐晴大居士覚霊 八月二十日」と刻まれている。さらに主君のあとをおってまもなく殉死した野際喜左衛門と、一回忌の日に殉死した種田勘九郎がそのかたわらに眠っている。また、紀通の諡号「顕龍院」を山号にもつ三和町の顕龍山輿雲寺には、紀通の位牌とともにその念持仏が祀られていて、慶安元年の悲劇を今に伝えている。


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『三和町史』各巻
その他たくさん



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