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額田のダシ(ぬかたのだし)
京都府福知山市夜久野町額田
一宮神社の祭礼行事


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京都府福知山市夜久野町額田

額田のダシの概要




一宮神社は町中にあって、それほど広い境内がある社ではいが、夜久野総鎮守で、夜久野の一宮である。元は社殿背後になる「奥」という所にあったとも言われる。

祭礼は今は10月の第2土曜日から翌日の日曜日に行われる。ちょっとめずらしいみものが満載、ぜひ出かけてみて下さい。
一宮神社(額田)
私は二回訪れただけだし、説明は下にまるまる引かせてもらった『夜久野町史』に詳しいので、そちらを見てもらうのがいいと思う。

以下は訪問者のシロート目で見た祭礼の様子。
「額田のダシ」のダシは「上ダシ」と「下ダシ」がある。
「上ダシ」はこれ↓今は2基ある。





『夜久野町史』
山車・だんじりとも呼ばれる屋台は、現在上町と旦の1基、下町で1基の計2基がある。この屋台は、木造四輪車で2層構造になっており、大きな特長は2層部が回転する仕組みになっていることで、全国的にも類例をみない仕掛けで、貴重なものである。
1層は囃子方を務める子どもたちが乗り込み、2層部奥に作り物の人形(上ダシ)が飾られる。
作り物の上ダシは、人物のみを毎年製作するのが慣例で、木を芯にして、藁やドンゴロスなどを巻き付けて形づくり、顔や手などは粘土を用いてつくり彩色し、布切れで着付けをする。その起源は、屋台で演じられていた子ども歌舞伎が廃止となり、その代わりに明治38年青年会が人形をつくり据えたことが始まりという。


二階建ての屋台の上部がグルグル勢いよく回される。手動でヨイサ、ホイサ、⋚⊋サのかけ声と共に回される。こうした回転する芸屋台は他では見られない珍しいものという。宵宮の暗闇の中で回転すると幻想的である。

ニ階には「上ダシ」の人形(毎年変わる)と書記役など数名が乗っているが、一緒に回転する。なれぬと目が回ることであろう。

元はニ階で子供歌舞伎が行われたそうだが、それが禁止となり、代わりに人形が置かれるようになったという。
一階は子供達の太鼓・笛の囃子隊が乗っている。



「奥」の子供みこし↑。子供が少ないのか、あるいは大人がはしゃいで担いでいるのか…。元は「奥」にも屋台があったという。今でも道が狭いが、屋台通行不可の道だし、自身の集落では巡行できないし、といったため、売り払われたという。それを買ったのが舞鶴という。90年ほど昔のことというから、あるいはまだ舞鶴にあるのではなかろうか。舞鶴はこうした屋台は朝代神社しかないから、あそこのどれかかも知れない。
「向」の太鼓屋台↓。これは向地区からは出ないようである。



下ダシ(つくりもん)
氏子の5つの集落で一景ずつつくられる。昔話や伝説、物語や最近のヒット映画の名場面などの一情景を農作物や木の実などを使って表現する野菜のつくりもん。毎年変わる。






祝い餅つき

よさこいソーラン踊り

宮入り



御神木巡行
これが本祭礼のメーンなのではなかろうかと思うのだが、これも珍しく、これを見るためだけでも足を運ぶネウチはありそう。
御神木巡幸神事は大油子の喜世見神社などでもかつては行われていたというが、現在も見られるのは当地だけである。ずいぶんと古い祭礼の本来の様子を今に残すものではなかろうか。祭と言えば「オミコシ、ワッショイ」とたいていは思われているが、そのワッショイ御輿のプロトタイプかも知れない、これぞ御輿のルーツと思わざるを得ない。


本祭、13:00頃から始められる。
本殿に巫女さんの隣、ドデンと置かれているのが御神木。

神事が行われ、御神木の先端を本殿に突き込む「御神霊遷(みたまうつし)」が行われる。
神様や遺骨などは「何柱」と数えられるが、柱は神様そのものである。本殿よりも柱が古いと思われる。

御旅所(八幡神社)までの巡幸、ずいぶんと長い行列である。

集落背後の小高い所に御旅所・八幡神社がある、そこで神事が行われる。


その後は、7人の「ゴシンボクカキ」に託されて柱の神意の趣くままに集落内を走り回る。ゴシンボクカキの7人は上町2、下町2、奥、旦、向各1で青年の役だそう。





どんな所でも神意の召すままに走っていく。緑の服装は「ケイゴ」役。

夜遅くのミヤイリまで集落内を駆ける。

屋敷飾り


御神木は神の気の向くままのものなので、どこの家に飛び込んでいくか事前にはわからない。このため、氏子の家々では路地に向いた座敷を開け放ち、正面には鏡餅、お神酒、洗米を供え、屏風を立てて生け花による座敷飾りを行い、軒先には高張提灯を吊るす。
高張提灯の火は、御神木がミヤイリするまで決して絶やさぬように気を配るという。
各家々の不意の神を来臨を迎える飾り。
勝手にのぞき込んで写されてもらったもの。





動画



額田のダシの主な歴史記録


『夜久野町史』
額田のダシ行事
由緒
額田上町に鎮座する一宮神社は社伝によると「第29代欽明天皇15年(554)奥ニ創建、中古ニ現地遷座」「永禄年中(1558~)炎上、天正時代(1573~)ニ今ノ宮建立」と伝える。また旧宮跡は額田奥にあったというが不詳である。
祭神は彦火火出見尊と豊玉媛命の夫婦の神を主神とし、天水分神が合祀されている。夜久野郷の総鎮守で畑・今西中・井田・額田・千原・日置・末・高内・大油子・小倉・平野・板生・直見旧13ヵ村の総社、夜久野郷195社の一の宮として額田に鎮座しているという。
一宮神社の年間の主たる祭祀に歳旦祭、節分祭、秋祭り、除夜祭がある。これらの中でも秋の祭は民俗色豊かなダシ行事があり極めて盛大に行われるので、後に述べる奇祭として近在にも広く知られている。

祭祀の組織と氏子
額田の氏神でもあり、奥・旦・上町・下町・向の5集落の住民が氏子である。それぞれの集落から総代が出て氏子総代会を構成し、宮司の指導のもとに祭祀を運営する。総代は区長など町内の役職を経験したものから選ばれることが多く、任期は2年務めるのが普通である。

祭の特徴と祭日
宵宮と本宮の2日間にわたって回転する「山車(上ダシ)の巡行」、神の御心のままに巡る本宮での「御神木の御旅(御幸)」、5つのムラごとに置山の性格をもつと思われる「野菜のつくりもん(下ダシ)」が披露され、祭に花を添える。府内にも類例のないものであり、平成2年に「額田のダシ行事」として京都府登録無形民俗文化財に登録された。
祭日は『丹波志』には「9月8日」と記されており、明治以降10月13日になったり戦後10月10日になって定着してきていたが、現在では10月の第2土曜日から翌日の日曜日にかけて行われることになっている。

屋台
山車・だんじりとも呼ばれる屋台は、現在上町と旦の1基、下町で1基の計2基がある。この屋台は、木造四輪車で2層構造になっており、大きな特長は2層部が回転する仕組みになっていることで、全国的にも類例をみない仕掛けで、貴重なものである。1層は囃子方を務める子どもたちが乗り込み、2層部奥に作り物の人形(上ダシ)が飾られる。
作り物の上ダシは、人物のみを毎年製作するのが慣例で、木を芯にして、藁やドンゴロスなどを巻き付けて形づくり、顔や手などは粘土を用いてつくり彩色し、布切れで着付けをする。その起源は、屋台で演じられていた子ども歌舞伎が廃止となり、その代わりに明治38年青年会が人形をつくり据えたことが始まりという。ちなみに、平成15年度は上町・旦が「宮本武蔵」、下町が「新撰組」と、2基ともにNHK大河ドラマを意識した題材となった。
現在、山車を所有する宮本(上町・旦を「宮本」と呼ぶ)・下町の両集落は、それぞれ保存振興組織をつくり、祭礼本番の人手の確保やダシ行事の維持管理を行っている。宮本の場合は、上町・旦集落の行政役員が「宮本屋台管理委員会」を組織し、その指示で年度当番による「宮本屋台実行委員会」が事実上の企画運営を担当している。一方、下町は「下町屋台保存会」が総指揮をとり運営に当たっている。
上町・旦を「宮本」と呼ぶのは、一宮神社所在場所の氏子という意味合いでの呼称であろう。屋台にも「宮本氏子」と張り紙されている。
奥と向には屋台・上ダシはないが、代わるものとして奥に子ども神輿、向には太鼓屋台がある。約90年ほど前までは奥にも山車(だんじり)があったという。当時、奥へいたる道は神社脇辺りから狭くなっており、山車がそこを通過することは不可能であった。そのため、奥は所有するダシの部品を組み立て場所まで運び、終丁後もまた組み立てた場所で解体していた。また、祭礼時には道の狭さから自身の集落内を巡行できないなどの条件にあった。そこで、当時の経済的な情勢から山車そのものを舞鶴へ売り山林を購入したという経緯があり、現在も山車はない。これに代わって昭和57年に子ども神輿を購入して祭礼時に巡行するようになった。
向の太鼓屋台ば、大人が20人程度で曳く屋台で、昭和46年に完成。平成14年には太鼓屋台の全面が漆塗りとなる。太鼓は、大人と子どもが組んで叩く。地打は一本調子のテンポであるが、叩き手の感性で打つ大太鼓の響きは魅力的であるり、祭りに花を添える。

下ダシ
下ダシは、氏子である5つの集落で一景ずつつくられ、昔話や伝説、物語の名場面などの一情景を農作物や木の実などを使って表現する野菜のつくりもんで、各集落が趣向を凝らしてそのでぎ栄えを競う。ちなみに平成15年度は、奥が「巌流島の決闘」、旦が「白虎と青龍」、上町が「花さか爺さん」、下町が「ガリバー旅行記」、向が「さるかに合戦」であった。
制作材料の1例を挙げると次のとおりである。
《平成元年(1989)の向のダシの場合》
「打出の小槌」
小槌…金時豆(42㎏)、大豆、ヒマワリの種、柿、南瓜、ダンジパ(イタドリ)など
一寸法師…バランの葉(衣装))、籾(袴)、タカノツメ(帯〉、ナスピ(靴)、ズイキ(太刀)
ほかにもトウモロコシ、ホウズキ、栗、栗のイガ、サツマイモ、ゴマ、稲穂、ヘチマ、キュウリ、ミョウガ、ゴボウ、大根、シイタケなどのほか、杉葉やススキの穂などさまざまなものが工夫をこらして使用されている。
下ダシつくりは、その計画から実際に製作に当たる日数を換算すると、どこも1カ月ほどの月日を必要とする。つくられる場所は、かつては家のニワや小屋を借りてつくることが多かったが、現在は個人宅の駐車場や公会堂の前や空き地に仮設のテントを建て、その中でつくるようになった。
かつては、ムラの各組ごとにつくっていた時があり、その頃は上町で3基、下町で5基、向で4基を数えたこともあったという。計画から製作への長い日数や製作場所の確保が困難になってきた関係で、下町では昭和43年に輪番制の当番組へ、奥・旦・上町・向も有志による製作へと変わってきている。
その後、世の価値観が多様化していく中、過疎化が進行し、少子化、高齢化で祭りを支える人手不足と盛り上げる観客の減少は著しく、村祭りの衰退傾向が続いた。
平成7年に「額田のダシ振興会」が有志により組織され、イベント全体の宜伝で集客を図り、写真コンテストや地域住民の作品展、地元産品販売など“村おこし”に繋ぐ保存振興に寄与している。

御神木
御神木は、面取りをした4寸(約12センチ)角・長さ2間(約3.6m)の1本の檜の角棒である。先端に常盤樹(榊と檜)の枝と御幣640垂を結わえた極めて古色豊かなものである。御幣は宵宮前日に総代によって準備される。
大量の奉書でつくる垂の準備も大変だということである。府の資料によると、昔は神木を洗う役もあり宮本の子ども衆がチキリという清水の湧く場所へ持って行って洗ったという。


宵宮の屋台巡行(前夜祭)
祭礼は、宵宮の日宮司によって執り行われる神事で幕を開ける。それまでに、宮本と下町の屋台の飾り付けが終わり、各ムラの下ダシが披露され、額田地区には祭りの雰囲気がただよう。
神事は午後5時半頃から行われる。拝殿に昇殿するのは主宰の宮司ほか氏子総代、各区長、屋台や神輿係の各委員長や代表者である。祝詞奏上、お祓い、玉串奉奠などの神事は20分ほどで終了する。屋台の役の者は午後6時頃屋台前に集合し、お神酒を頂いた後巡行を開始する。
〈屋台の役〉総指揮(1)…拍子木を打って采配する。
綱元(1)…引き綱の責任者。
四本柱(4)…曳山の四隅にいて運行・2層部の回旋に当たる。
曳き手(約30)…1戸1人出る。
警護(若干名)…安全運行のための交通整理と祝儀の受け役。
書記(2名)…2層部での祝儀の受け取りと掲示。
〈嘱し方〉太鼓打ち(〆太鼓2)…小学生(屋台下段に乗る)
かね鉦すり(2丁吊、約10丁)…幼稚園児(屋台下段に乗る)
笛吹き(5~6本)…中学生(徒歩)
巡行中道中歌を囃子につけて歌う歌は「伊勢音頭」となっているが、江戸後期のお伊勢参りの土産げ節であろう。
2基の屋台はお囃子を囃しながらまず東の町外れまで巡行し、2基そろってから囃子をはやし上町の西外れまで巡行する。途中、祝儀を頂いた家の前で屋台を止め、2層部を回転させて家の方向に正面を向け謝意で表わす。祝儀をもらうことを「カドツケ(門付)」といい、竹製のハナウケを持った警護が屋台の2層部にいる係に渡し、誰からいくら受け取ったかを半紙に書き、次々と貼り出していく。
午後11頃、ミヤイリ(宮入り)が行われる。下町・宮本の順に屋台が神社前に到着すると、曳き手たちが屋台の中で鉦すりや太鼓打ちをしていた子どもを連れて参拝する。彼らは、競うようにして境内を駆け上がり本殿に参るが、その時子どもを抱いたり肩車して参るのが習わしであるという。その間、2基の屋台は2層部を回転させる。ここで、この日の巡行は終了し、それぞれの屋台は所定の場所まで曳き戻す。解散する頃は深夜である。

本宮の屋台巡行
翌日の本宮は、午前8時頃より宵宮と同様屋台の巡行が行わる。この時稚児たちが屋台の引き綱の先にさらに細い綱をつけ引いて巡行に参加する。以前は、男子のみが屋台に乗り、女子はこの稚児行列にだけ参加していたが、現在はそのいずれにも参加するようになった。
11時頃、駅正面の広い通りでは宮本と下町の屋台の間に奥の子ども神輿を迎え入れ競演が行われる。これをヒキゾロエと呼んでいる。このヒキゾロエは、古くから行われているものではなく、近年になり観客から一堂に会した姿をみたいという要望に応えたものであるという。ちなみに平成15年度は、奥の太鼓、宮本・下町・奥の子ども全員による「よさこいソーラン」が披露つされた。また屋台巡行の道中でも行われる下町の「祝い餅搗き」もあり賑やかである。その後、宵宮と同様ミヤイリが行われる。そして屋台は、上町と下町の境を流れる谷の奥川の石橋を挟んで再び2基の2層部を回転させてから、各町へ曳き戻り巡行が終了する。そして午後の本祭神事と御神木巡行に備えるのである。

御神木巡行に先立つ神事と祭礼編成
午後1時半頃から総代以下役員・氏子が社殿に参集して社殿での神事が執行される。神事の後に「祭典役割帳」に記載された巡行の役割が読み上げられ行列がつくられて巡行開始となるのであるが、先立って御神木の先端を本殿に突き込む「御神霊遷(ミタマウツシ)」をする。
巡行の祭列には多くの役割があり大勢の氏子が隊列を組み、その長さは200mにもおよぶのである。「一宮神社御幸祭列順序」(近年の1例)によるとその順序と入数は次のとおりである。
御神木を中心に人数の確定している役と奉幣、太鼓、鉄砲、御供など年による若干の異動はある。中でも奉幣は全氏子が対象になっており、「氏子戸主全員が捧持御供するのが慣例である」とされている。奉幣1本1本にはそれぞれ夜久野の神社名が記され、一宮神社が夜久野郷総社、夜久野全体の大氏神であり、全神社から参拝の「代参役」の意味も含まれている。

御旅所までのオタビ(御幸)
御神木の御幸は、神事が執り行われた後、まず下町の八幡神社に向かって祭列は粛々と進む。御神木のかき手を「ゴシンボクカキ」といい、腕は下方から捧げ持つのを原則とし、府道から旧山陰街道を御旅所になっている八幡神社へと進む。ゴシンボクカキの7人は上町2、下町2、奥、旦、向各1で青年の役とされている。御旅所での神事が終わると区内巡行に参加する役以外の者は一宮神社まで戻り、神餅を頂いて解散する。御旅所神事の後御神木(神輿)は太鼓や掛け声の音霊に包まれながら動きの速い勇壮な巡行に変わって額田を駆け巡るのである。これが午後3時頃から始まる。八幡神社までの御幸は、現在は上述のとおり極めて短くしているが、これは昭和35年(1960)頃からのことである。以前は長い御幸の隊列が額田全域を粛々と巡った後に八幡神社に入ったものであり、2時間は十分かかる御幸であったという。

御旅所神事の後の御幸
御神木は、御旅所神事の後ミヤイリまで、7名の御神木かきが御神本を奉持し、一団となって町内を縦横無尽に巡幸する。この時、御神木とともに行動するのは警護役、神名額持ち、区長、太鼓打ちであり、一行とは別に太刀持ち、神鏡持ちを従えた神官と氏子総代が付かず離れずついて行く。現在は、一応順路らしきことは定めているが、本来は神の気の向くままに移動するもので、町内を行ったりきたり川を渡渉したり、どこの家に飛び込んでいくかわからないという。このため、家々では座敷を開け放ち、正面には鏡餅、お神酒、洗米を供え、屏風を立てて生け花による座敷飾りを行い、軒先には高張提灯を吊るすのである。高張提灯の火は、御神木がミヤイリするまで決して絶やさぬように気を配っている。御神木かぎが「オミキ、オミキ」と叫びながら飛び込んでくると、まず御神木の先端にお神酒を注ぐ。御神木が休む場所は、現在区長や氏子総代、公民館、そして新築した家などあらかじめ決められている。それでも、お祝いごとがあった家に立ち寄ることもあり、接待の準備は欠かさず行うという。
ミヤイリの頃になると氏子は皆神社に参り、御神木が納まるのを待つ。境内へ上がる階段では神社に上がろうとする御神木とそれをさせまいとする氏子たちによる豪快な駆け引きが展開される。御神木の先端が無事本殿に到着し、神遷しの儀式を最後に長い巡幸の旅が終了する。氏子たちが次々と参拝して御供(お供えの餅)を手に家路に着くと、ひとつまたひとつと高張の灯が消され祭りの終わりを感しさせる。
近頃の村祭りが、当番や役員など一部の行事になっている中、地域全体の御神灯に灯を入れ神を待ったたずまいは、古き良き時代の村祭りの原形を止めている。
府の指定関連文書には、このような御神木巡行に類する行事は「近在にもみられない。府内でも類例がないが、柱=棒の民俗を考える上で注意すべきものであり、資料として重要である」と記されている。
町内では大油子の喜世見神社でも、昭和30年代までこの御神木巡行があり、青年団を中心とした若者がムラ中を練り歩き、時には走ったり、高くさし上げたり、川に入ったり、また隣ムラの高内の御輿とエール交換や喧嘩の一歩手前のようなやりとりもあったというが、現在は担ぎ手がいないなどの理由で御神木のみが区で保存されている。



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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『夜久野町史』各巻
その他たくさん



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