丹後の地名プラス

丹波の

小倉(おぐら)
京都府福知山市夜久野町小倉


お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。


京都府福知山市夜久野町小倉

京都府天田郡夜久野町小倉

京都府天田郡中夜久野村小倉


小倉の概要




《小倉の概要》

夜久野の一番西で兵庫県朝来市山東町に接している。
小倉村は、江戸期~明治22年の村。福知山藩領。明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年中夜久野村の大字となる。
小倉は、明治22年~現在の大字。はじめ中夜久野村、昭和31年夜久野町、同33年上夜久野村、同34年からは夜久野町の大字。平成18年から福知山市の大字



《小倉の人口・世帯数》 183・78


《主な社寺など》

八幡神社
八幡神社(小倉)
集落の一番奥に鎮座。オトウワタシという頭屋の引き継ぎ行事がある。
八幡神社(奥小倉)
祭神…ホムダワケノミコト
明治42年国是より賀茂神社と合併合祀され、一時小倉神社と称されたことがあった。
秋祭り…昭和10年代までは両神社(八幡、賀茂)で奉納相僕があり、土俵の跡がある。
例祭後、子ども御輿が賀茂神社、八幡神社と一年交替で出て区内を巡行する。
故事による當屋制をよく継承し、當屋は一年間「一歳神主」を務める。例祭当日の朝當屋宅(当番宅)で神事を行い、祭列を整えて裃正装の堂屋を先導に神社へと進み祭典を斎行する。
例祭後の神振行事は氏子運動会である。
賀茂神社(口小倉)
祭神…ワケイカズチノミコト
秋祭り…奥小倉と合同で子ども御輿が巡行する。
當屋は一年間「一歳神主」を務める。
例祭当日の朝、當屋宅で神事を行い、祭列を整えて、猿田彦面を先導にして神社へと参進し、祭典を斎行する。例祭後の神振行事は氏子運動会である。

奥小倉八幡神社のオトウワタシ
八幡神社は小倉ムラ最奥の民家先から30段ばかりの石段を登った山裾に鎮座する。昭和30年代頃までは祭日になるとムラ中の者がそれぞれ煮しめを持ち寄り、当番がつくった握り飯を境内の舞堂で呼ばれる習わしがあった。昔の祭日は風の願祭の10月17日、18日だったが、その後10月10日(体育の日)になり、祝日が移動するようになった現在も体育の日が祭日である。ここには既にほかのムラではみられなくなったオトウワタシの神事が継承されている。
宮当番とクミアイ
宮当番は1年間お宮さんをお守りする役である。この役は奥小倉30戸余の氏子の家順に決まっている。これを助けるのが4人のクミアイである。アイトウともいう。ムラー回りするまでは、それまで務めた家と、その年の当番並びに後述する家順の祭のオトモ5人を除いて、祭日当日にくじ引きで決められる。宮当番は八幡神社の小祠を預かり、自宅の床の間におまつりするとともに、神社本殿のお供えや緑濃い一対の榊を絶やさないよう務めねばならない。年1回はムラ中で境内掃除をするが、さらにクミアイの人と一緒に境内掃除、祭りの幟立て、正月の注連縄などの飾りなども行う。
総括責任者の氏子総代2名は、別途1月3日に山の委員と一緒に決めるが、任期は2年であり、再選はしないことになっている。
祭日の神亭とオトウワタシ
祭日当日最初の神事は当番の家で執行される。当番は裃(専用の物あり)を着用し神主を迎える。クミアイの人は神社で、祭の直会(なおえ)準備などする。ほかの者は当番の家に集まる。家での神事が終わると当番は1年間預かった小祠を持ち、神社までの行列の先頭に立つ。この時、家順で決まっている祭のお供5人が略礼服で八幡社・サンボウサン・六社権現の各御幣、弓、矢をそれぞれ捧持して続く。いずれを捧持するかは1年前のくじ引きで決まっているそうである。参集したムラの人たちは行列の後に続く。行列が神社に到着すると、既に準備された神前で祝詞奏上、お祓い、玉串奉奠などの神事が行われる。神前へのお供えはお神酒ほか、一定の決まりに沿った品々であるが、その中のひとつに生きた鯉を供える伝統が長らく続いており、兵庫県の養父まで行って揃えたこともあったそうである。これは現在はしていない。神事のあと才トウワタシや直会、次期クミアイなどのくじ引きも済まされる。
オトウワタシは小祠を挟んで当番と新当が向かい合い、朱塗りの盃で酒が酌み交わされる。すべてが終わると新当は小祠を持って帰る。この時、弓と矢も当番で預かることになっており、御幣は神社に置かれるという。当番と新当が家に戻った頃を見計らって、ムラの人たちは各自両者の家を訪問し、当番には1年間のご苦労をねぎらい、新当には次の1年間世話になる挨拶をするのが習わしになっているという。
「モモテ」のこと
ところで八幡神社の祭に弓・矢が登場するのは、モモテと呼ばれ、射手に潔斎が守られる弓の神事との関係がかつてあったのではないかとも思われるのであるが、地元の記憶にはモモテという言葉も残っていないようである。ところが門垣の日吉神社ではモモテという言葉が使われており、その中身はいわゆるオトウワタシを指すのだといわれる。時代の経過の中で行列の持ち物としてだけ、あるいは逆に言葉だけが残ってきたものかどうか詳らかではない。
(『夜久野町史』)

賀茂神社


内藤首塚・内藤胴塚
応仁の乱(1467~1477)の東軍と呼ばれた細川勝元方の総帥として夜久野ヶ原合戦(東軍側十六万vs西軍側九万)に参戦した船井郡八木城主・丹波守護代内藤孫四郎の塚が2ヶ所伝わり、内藤首塚・内藤胴塚と称されている。また宝暦13年に孫四郎三百回忌には彼を討った者の子孫・井田村十郎兵衝(中路氏)が施主となって石塔を建立したものが伝わる。内藤首塚↓(玄武岩公園)
内藤首塚(小倉)
案内板
石造宝篋印塔
福知山市指定文化財 建造物
福知山市夜久野町小倉
総高七五cm 室町時代
 「塔(とう)の山」といわれるこの丘。その林中に一基の宝篋印塔が伝えられています。
 玄武岩製の塔で、自然石を積み上げた壇の上に鎮座しています。相輪の最上段にあるべき宝珠と請花を失っており、短くなった相輪を請花と伏鉢で受け止め、屋蓋上に収まっています。隅飾りは正面と左右両側面に輪郭を巻いて若干外開きしています。塔身には、月輪という円弧とその中に金剛四法仏を表す種子が刻まれています。基礎の上部には反花、正面や側面には格挟間という装飾が施されています。
 無銘ですが各部の装飾や制作技法から、十六世紀前半頃の制作年代が推定されます。伝承では、この石塔は応仁の乱で戦死した『内藤孫四郎(まごしろう)』の首塚といわれています。推定される制作時期と伝承には開きがあり、確かな記録も残っていませんが、伝承との関連から三十三回忌に建立された可能性が考えられています。
 小柄ながら端正な造りで、ほぼ完存に近い状態を保ち、今に伝わるその姿は、地域の伝承と地元の人々の確かな信仰が感じられる貴重な文化財です。
平成二六年三月 福知山市教育委員会

孫四郎三百回忌の碑(茶堂)               ↓

似たような碑がたくさんあるが、側面の碑文から一番右手のものである。


茶堂(放光院)
茶堂
茶堂は地籍上は兵庫県朝来市山東町金浦にあり、放光院と呼ばれていて、茶堂とは夜久野側の呼び名のようである。しかしかつての丹波但馬国境すぐ近くで、当建物は直見の高源寺を移築したもの、また大油子の東源寺も管理に当たっている、そうしたことで当小倉にあるかのように普通は書かれたりしているし、住民は自分のふるさとのお堂と感じているそうである(丹但国境はこの建物の左側百メートルばかりのところにある。夜久野溶岩高原の広い所で夜久野側でも小倉なのか平野なのか地図でもわかりにくい所である)
手前の県道が成相巡礼道で、右へ行けば西国三十三所27番札所書写山円教寺(姫路市)、左へ行けば28番成相山成相寺(宮津市)に続いている。どちらに行くにもまだまだまだまだ道ははるか遠く、こんな道所をテクテクと行く巡礼者は、命かけて歩いたのであろう。ここに立てば、わずかな苦労くらいで、わが道は遠いなどと嘆いてはなるまいと思えてくる。今はこの道を歩く人の姿はない。
案内板↓
案内板

夜久野茶堂
本尊 弘法大師
開基 一道貞心禅師
由緒 寛政年間(一七八九ー一八〇一)信州稲荷山の人一道貞心が諸国巡歴の途、この夜久野ケ原を通りがかり、かや、すすきぷ生い茂り、狐狼の住む荒野に旅人の難渋するのを知って、庵を建て、旅行の便を図ることを発意した。多倉山長者ケ谷より流れる水脈を辿り、現茶堂の位置に庵を結び、茶を煮て道行人々に供したのがその始まりと伝える。頂度、丹波、但馬の境界地点に位置し、今日では京都府と兵庫県の「県境」にあることになるが、正確には兵庫県山東町域である。しかし但馬の山東町、和田山町と共に丹波側夜久野町においても、特に境を接する旧上夜久野、中夜久野両村域の住民にとっては我が村、我が里の寺院としての意識感情があり、古くから伝わる茶堂の春秋二回の「大師まつり」には深い親しみをもち、今日も縁日は賑わいをみせている。
当堂の管理は
大油子  東源寺(夜久野町)
東河宮村 圓明寺(和田山町)
野  間 国清寺(山東町)
の禅宗三ケ寺が行なっている。
開基一道貞心が禅師であったので禅宗寺院に属するが、真言宗の開祖弘法大師をまつるので、大師堂と呼ばれてきている。宗旨にかかわらず世俗にしたしまれる弘法大師をまつったものであろう。現堂宇は昭和二十四年(一九四九)直見西垣高源寺の廃寺となるに際して移築したもので同寺本尊不動尊像と大師像を併せまつっている。(この仏像については高源寺の記にあり)。
本尊仏像 台座 下面の銘…
開基位牌 …
△境内
内藤孫四郎三百年忌追弔碑
応仁の乱の夜久野合戦で東軍細川方の将内藤孫四郎は山名方の中路八郎三郎兄弟、中路苗新右ヱ門兄弟に討たれた。三百年の後、宝暦年間(一七五一ー一七六四)山名氏の子孫は敵将の死をいたみ、茶堂に追弔碑を建立している。
茶堂水碑

(『上夜久野村史』)

茶堂
近世夜久郷道路網のもうひとつの拠点として挙げられるのは、丹波・但馬国境に位置する茶堂であろう。この付近を描いた詳細な近世絵図などは存在しないものの、現在の地図で旧道を辿ってみると、小倉村からの旧道、平野村からの旧道、さらに但馬国側からは白井村からの旧道、野間村からの旧道、金浦村からの旧道など、この付近の多くの旧道が茶堂を中心にして放射状に延び、または茶堂に向かって集まっている。
茶堂は大師堂とも称し、国境よりやや但馬側、現在は県境を隔てて山東町に位置しているが、夜久郷の住民にとっては特別な存在であったようである。境内には無数の石造物が所狭しと並べられているが、夜久郷から寄進されたものもいくつか確認できる。
境内にある「茶堂水碑」の銘文は、大油子東源寺の住職石室和尚の師で、のちの京都妙心寺第四七七世となった玉澗和尚が草し、文政九年(一八二六)に建立された。銘文によると、丹波・但馬の堺にある夜久野ヶ原は、東西約一〇里にわたって家もなく、獣がうごめいて旅人に害をなし、水を飲める場所も無かったために病を患う人々が多かったという。寛政年中(一七八九ー一八〇一)、諸州を巡歴していた一道貞心禅師が草奔渺々たるこの地を訪れたとき、旅人の行路多難を思い遣り、宝山から一里に及ぶ水路を引き、旅人に一服の茶を振舞おうと思いたち、村々から募って一宇を創建したのが茶堂の始まりであると伝える。国境の険路を登ってぎた旅人にとって一息つける憩いの場でもあり、水場が極端に少ない高原地形の夜久野ヶ原では、命の水を提供したと言っても過言ではなかろう。
茶堂境内には道標も数多く見受けられ、そのうちのひとつ寛文十三年(一六七三)の紀年銘を持つ道標には「これよ里ひたり志由ん連い道 なりあいまて十里あり」と刻まれている。巡礼道とは前述した、西国三十三所観音巡礼第二十七番札所である播磨の書写山圓教寺より、丹後の成相山成相寺に至る経路のことで、地元では通称「なりあい道」と呼んでいる。境内には寛文十三年銘の巡礼道標のほか、元禄十五年(一七〇二)の名号碑なども存在し、寛政年中に創建された茶堂よりも、古い紀年銘を持つ石造物が見受けられる。こうしたことから、茶堂創建以降、周辺にあった道標などの石碑群が茶堂境内に集められたものと推測されるが、これらの古い石碑群の存在は、この地点が茶堂創建以前から巡礼道の要地であったことをうかがわせるのである。
(『夜久野町史』)

石仏群

隠れ切支丹の十字架石仏
小字野小倉(のおぐら)より昭和46年十字架地蔵尊が発見されている。高さ約60センチ、幅約35センチの供養石仏。千手観音像を陽刻し右上に十字架がある。丹波はキリスト教の信者が多く大名では内藤如安が知られる。石仏には「日置村中嶋少助」とあり18世紀中期のものである。なお福知山では明暦4年(1658)に70人の信者が発覚、天和3年(1683)直見村で5人が大坂送りとなったと伝える。


小倉玄武岩公園
玄武岩は黒い岩だとばかり思ってのだが、こんなに白い玄武岩もあるよう。どこが「玄」か。これなら石材としては利用できるのではなかろうか。高内石と呼ばれる石がこれ、当地はかつての石切場であったという、少し先へ行けば切り出し途中の石材がゴロゴロしている。京都府ではただ一つの火山だそうで、田倉山(宝山)の37万年前の噴火で流れ出た溶岩が冷え固まったものという。3回流れ出たといい、これは最初に流れ出てもので小倉溶岩と呼ぶそう。




・小倉玄武岩公園[夜久野町字小倉]
産出鉱物:“しのぶ石”・ハロイ石
《“しのふ石”》柱状節理をなす玄武岩上部の多孔質玄武岩の割れ目に、樹枝状をなす黒色の俗称“しのぶ石”が見られる。この割れ目にはハロイ石がしのぶ石とともに認められ、白色のハロイ石上に黒色樹枝状のしのぶ石の美しい文様が見られる。
“しのぶ石”はX線粉宋回折実験を行ったが、顕著な回折ピークは認められず、非晶質あるいは非晶質に近い二酸化マンガンを主成分とするものと推察される。
《ハロイ石》白色土状~球状をなし、多孔質玄武岩の割れ目や空洞に産する。X線粉末回折実験でハロイ石と確認した。
(『夜久野町史』)

『福知山の自然遺産』より↑溶岩の流れ。ここが一番美しいがこの附近のあちこちの崖に玄武岩が見られる。
茶堂のあたりはスコリア丘と呼ばれる地形で、赤いや黒いのや火山灰である、噴火した年代により色が異なるよう。この下に玄武岩があるのだろうか。地表の景観は砂丘の函石浜あたりに似ている。水はけが良すぎる潅漑不能の地か。
スコリア丘
30万年ほど昔は溶岩流れる地だった。夜久野アンモナイトで有名な所でその当寺は海底だったのだろうが、海底だったり火山だったり、明日はどうなるのだろう。



《交通》


《産業》


小倉の主な歴史記録


小倉村 支奥小倉 原小倉 右同
小倉村ヨリ但馬国野間村迄二十九丁貳十間平地牛馬道但国境領杭迄拾六丁 此所ヲ三ツ立石ト云石有リ 三ツ立石ヨリ板生村ノ内今西ヨリ牛ノ尾峠ノ道迄ノ間山並峯疆 牛ノ尾峠ノ道ヨリ直見村ノ内才谷直見峠迄ノ間山並国境峯疆 小倉村ヨリ末村エ越ス峠道非本道 村堺平野村ノ地所ニ出ス原小倉ト云ハ夜久野見渡シノ古ヨリ二国明神ノ正面ニ見透ス但馬国境ナリ 明神ノ社堺ニ有レドモ此社ハ但馬国金浦村ノ産神也 奥小倉ト云ハ此所ヨリ辰巳ニ七八丁隔レリ平野堺ノ内ニ有三ツ立石ヨリ東ハ大油子村云高内村トノ間北ノ方山端ニ当 北ハ平野ノ奥水坂ノ口ニ当ル 西ハ但馬国栂谷ト云 南ハ同粟賀ニ当ル 未申ノ方但馬国朝来郡ニ当ル 丹波国氷上郡ニ隣ル丹波ニテハオヲシヤク山ト云 三ツ石ノ南三四丁ノ所ニ古城跡有 金浦村分ニ古城主礒辺殿ト云 他国ノ事故不記之 但シ三ツ石ノ東金浦村分ルノ地ニ三丈斗石塔有内藤孫四郎三百゜回忌ト有リ中ニ七字ト名号有宝暦十三未三月七日施主中路氏ト有ル 是ハ内藤ノ子孫井田村十郎兵衛建タリ 書物等所持スト云 井田村姓氏ノ部ニ出ス
(『丹波志』)


塔の山古墳群
藩在地 小倉(塔の山)
遺跡 小倉玄武岩公園南側の丘陵上に位置する。直径八~一四メートルの円墳三基からなる。一・二号墳共に墳丘の頂が削平されており主体部は不明。三号墳は全壊しており、横穴式石室であったと言われている。

宮ノ谷古墳群
所在地 小倉(宮ノ谷)
遺跡 小倉玄武岩公園の丘陵裾部と丘陵突端部に位置し二基からなる。裾部に位置する古墳は、横穴式石室を内部主体とし、規模は不明であるが石室の主軸は南北方向を示し、墳丘は直径豹一〇メートルの円墳である。丘陵突端部に泣置する古墳は、直径一五メートルの円墳で天井石、側壁と思われる石材が数個露出している。

岡ノ山古墳群
所在地 小倉(岡ノ山)
遺跡 小倉の大池の南側、岡ノ山東斜面一帯に位置している。一八基からなり、古墳群は三群に分けられ、一から五号墳は大池堤側の尾根にあり、六から一七号墳はその尾根の東南側にある小尾根にある。また南側裾部に一八号墳が見られる。一から一七号墳は、直径五~一一メートル、高さ一メートル前後の木棺直葬と思われる。一八号墳は、直径約一六メートルの円墳で、西に開口する無袖の横穴式石室、石室の長さ約九メートル、幅約一メートル、高さ七〇センチの古墳である。

塚田古墳群
所在地 小倉(塚田)
遺跡 二基の円墳からなる古墳で、石材が露出しているので横穴式石室と考えられるが、その他は不明。

作山古墳群
所在地 小倉(作山)
遺跡 岡ノ山の西、作山山頂に位置しており三基の円墳からなる。一号墳は直径一〇メートル、二号墳は一四メートル、三号墳は直径八メートルである。二号墳の墳頂部には盗掘穴らしき凹地があるが、いずれも埋葬主体等不明である。

枡塚古墳
所在地 小倉(上野)
遺跡 夜久野高原西南部、国道九号線に接して位置している。一辺一一メートルの方形墳、墳丘の周囲には幅約三メートル、深さ約一メートルの周濠が巡っている。平成十六年九月、墳丘の草刈と併行して主体部の有無の確認調査を行うた結果、墳丘中央部はかなり攪乱されており、墳丘表面から一・三メートル掘り下げて地山に到達したが、主体部の痕跡を見つけることが出来なかった。この試掘の過程で表土下一メートルあまりのところから近世の陶磁器破片及び現代のガラス片等ぶ発見された。主体部は未確認であるが、木棺直葬の可能性がある。
(『夜久野町史』)
国道9号沿いにドライブインがあり、その西側の今は稲荷神社のある茂みだろうと思うが、これは古墳ではないかも知れない。

○桝塚
国道九号線にそった夜久野高原荘敷地の西側に在る。方墳とも考えられ、古墳郡の中に含めて考えてきているが、或いは応仁の乱の戦死者を葬った墳墓かも知れない。形状は桝塚と呼ばれる名のごとく美しい方形塚で、中央の墳丘部に相当するところは一辺十一米の正方形をなし、深さ一米余、巾約二米の堀をめぐらしている。周囲の土手は低い南側のみ、他の三辺の平坦地なみに盛土をし、二米巾になっている。中央の墳丘相当部分は、堀をつくったためにできたものである。
○八十塚(一里塚の南側)
平野、小倉の両村が夜久野ケ原抹場争論を行なった論所に塚があり八十塚と呼ばれていたが、昭和三十三年に開田工事が施工されて破壊され、今日は存していない。この塚からは荼毘に付した遺骨を拾ったので古墳ではなく、墳墓であったことの確認は出来ている。応仁合戦の死者を多く葬ったところから八十塚の名がつけられたものであろうか。
(『上夜久野村史』)


内藤氏に関する記
○内藤首塚
小倉塔の山(奥小倉入口、道路左側)という小丘の茂みの中に一老松があって(昭和四十年(一九六五)頃切り倒されている)その下に一基の宝篋印塔が建っている。これが伝えられるところの首塚である。老松の樹令が四百年余とすれば合戦直後に葬りまつった塚として年代が合致することにもなるが、年輪の調査は行なっていない。
○内藤胴塚
兵庫県即ち但馬側の夜久野ケ原茶堂より東河に通じる道路脇にあり、こんもりした茂みの中に塚をなしていたのをそれと伝えていたが、近年養鶏場用地として開発され破壊されてしまっている。
○丹波志 内藤孫四郎 首塚 小倉村
口小倉ヨリ奥小倉ニ行左ノ方 墓アリ 木アリ城地ハ但馬国(金浦村)ニアリ夜久野郷ノ三ツ立石ノ向ナリ 元亀年(一五七〇ー一五七三)ヨリ三ケ年 山名兵部居之 因幡国用ケ瀬ニ替ル 其後破却トナル
○丹波志 地理の部 小倉村の記に
三ツ石ノ南三、四丁ノ所ニ古城跡有 金浦村分ニ古城主礎部殿云
他国ノ事故不記之 但し三ツ石ノ東金浦村分ルノ地ニ三尺斗石塔有 内藤孫四郎三百回忌ト有 中へ七字ト名号 宝暦十三未三月七日施主中路氏ト有ル之ハ 内藤ノ子孫井田村十郎基衛建タリ 書物等所持スト云 井田村姓氏部二出ス

○丹波志 姓氏の部
一、内藤氏孫四郎子孫 井田村
今十郎兵衛ト云 但馬国金浦誠主内藤中古来往ス
以上丹波志の誌すところでは、内藤塚が内藤孫四郎を葬れる墓であり、「三ツ石ノ東金浦村分ルノ地ニ三尺斗石塔有内藤孫四郎三百回忌ト有云々」は夜久野茶堂境内に今日も存している。中路氏の建てた孫四郎供養塔のことである。
同書に茶堂境内と誌されていないのは、丹波誌の完成が寛政六年(一七九四)十二月で、寛政年間の茶堂建立以前であったらしい。丹波志の記録によれば、内藤孫四郎の子孫が井田村の中路となっているが、中路氏は敵将内藤の首級をあげた戦功により、山名宗全から感状を授与され、下って宝暦十三年(一七六三)に中路氏の子孫が、先祖の討った敵将のために供養塔を建てたもので、丹波氏の著者古川茂正(福知山藩士)がこの辺の史実を理解できないままに誌したものであろう。
○内藤孫四郎追弔碑
茶堂境内にあり、前面に南無妙法蓮華経の七字を刻し背に次の記がある。
宝暦十三年辰追葬三月二十日為 内藤孫四郎三百回忌辰追葬  中路重次
(『上夜久野村史』)

*まちの文化財〈18〉*中世様式、伝説に現実味*内藤孫四郎の首塚*夜久野町小倉*
 上夜久野の観光名所、玄武岩公園を見下ろす展望台へ上がる道の途中にひっそりとたたずむ。高さ七十六㌢と小ぶり。基礎部分には蓮華、塔身には仏を表す梵(ばん)字の彫刻が施されている。先端が欠損しているほかは完全な形を残しており、どっしりとした基礎が単純な形ながら安定感を感じさせる。
笠部分は四方がわずかに外側に広がり、円盤を重ねたような相輪部分は円すい状の形をもつ。
 言い伝えによると内藤孫四郎貞徳は船井郡八木城主で、応仁の乱(一四六七-一四七七)のときは細川勝元について丹波の大将を務めた。しかし、夜久野の合戦で敗北、捕らえられた孫四郎は現在兵庫県和田山町にある夜久野城址西北の小山で討たれたいう。
 孫四郎が討たれた場所は現在、内藤塚と呼ばれていて、近くには胴体が埋まっているという胴塚もある。首塚には討たれた時に飛んだ孫四郎の首が埋まっている、というのはあくまでも伝説だが、塔は中世の様式を示しており、伝説に真実味を与えている。
 美しく整備された遊歩道の先に古い首塚。生い茂る木々に囲まれていて、そこだけ中世の面影を残しているようだ。別世界に入り込んだ気分にすらなる。
〈メモ〉1992年3月、夜久野町指定史跡。以前は隣に松の老木があり、1965年、木が切られたあとに首塚が移された。笠部分の広がりは室町時代中後期の様式といわれる。
(『京都新聞』(97.7.31))





小倉の小字一覧


小倉(おぐら)
下野(しもの) 坂本(さかもと) 東川(こちがわ) 細田(ほそだ) 後ヤ(ごや) 亀田ヤ(かめだや) 向田(むかいだ) 日ノ尾(ひのお) 御酒田(ごしゆでん) 川本(かわもと) カジヤ 大津(おうつ) 大ブロ(おうぶろ) 砂子田(すなこだ) 孫右ヱ門田(まごうえもんだ) 舟谷(ふなたに) 六月田(むつきだ) 土ヱノ本(どえのもと) ホコ谷(ほこだに) 寺尾(てらお) 松ノ木田(まつのきだ) カゴ 長次郎屋敷(ちようじろうやしき) 東畑(ひがしばた) 屋敷(やしき) 六右ヱ門畑(ろくうえもんばた) 大谷口(おおたにぐち) 宮ノ下(みやのした) 風呂ノ奥(ふろのおく) 当田(まさだ) 荒倉(あらくら) イセ田(いせだ) 粟ウガ谷(あわうがたに) ユリカ下堂(ゆりがした) 堂ノ下(どおのした) 中ノカイチ(なかのかいち) 仲皆地(なかみなじ) コヤガイチ 三所田(みしようだ) 下田(しもだ) 二反田(にたんだ) 青木ヶ成(あおきがなる) 細(ほそ) 三ツ町(みつまち) 下田(しもだ) 向ヶ市(むこうがいち) イセ 徳万ボ(とくまんぼお) 中村(なかむら) 岡田(おかだ) 谷田(たにだ) 赤坂(あかさか) 山垣(やまがき) カジヤ 森クリ(もりくり) ユズリガヱ 宮ノ谷(みやのたに) 宮ノ下(みやのした) 水舟(みずぐね) 宮ノ前(みやのまえ) 与左え門屋敷(よざえもんやしき) 向畑(むかえばた) 谷畑(たにはた) 竹ノ内(たけのうち) クゴセ 保以月(ほえづき) タナゴ田(たなごだ) 家ノ下(いえのした) 土ヱノ内(どえのうち) 小谷(こたに) 長嶋(ながしま) 作山(さくやま) 彦作屋敷(ひこさくやしき) 藪ノ下(やぶのした) 佐円(さえん) 孫左ヱ門屋敷(まござえもんやしき) 蔵ノ前(くらのまえ) 茶園畑(ちゃえんばた) 蔵ノ後(くらのあと) 大上戸(おおかみと) 土ヱノ本(どえのもと) 土ヱノ外(どえのそと) 五反田(ごたんだ) 岡野(おかの) 飛渡(とびわたり) 下田(しもだ) ヒジリカミ サイノ神(さいのかみ) ヒヤケ田(ひやけだ) シク田(しくた) 裏屋敷(うらやしき) 助次郎屋敷(すけじろうやしき) 惣善屋敷(そえもんやんき) 宮ノ本(みやのもと) 二国畑(にくにばた) 宮ノ坂(みやのさか) 宮ノ裏(みやのうら) シタカイチ 宮ノ越(みやのこし) 池ノ本(いけのもと) 岡ノ段(おかのだん) 弥太夫畑(やたおばた) カイチ 中畑(なかばた) 西鶴井畑(にしつるいばた) 長畑(なかばた) ナシノ岡(なしのおか) 榎畑(えのきばた) 外ヶ市(そとがいち) クゴ 牛ヶ森(うしがもり) 九郎兵ヱ屋敷(くろうべいやしき) 向畑(むかえはた) 中道(なかみち) 岸本(きしもと) 庄右ヱ門屋敷(しょううえもんやしき) 三右ヱ門屋敷(さうえもんやしき) ススキジリ 出張(でばり) 日ヤケ田道(ひやけだみち) 立柳(たてやなぎ) キヨドコ 一本柿(いっぽんがき) ワラビ 奥の町(おくのまち) イク坂(いくさか) 加茂ノ下(かものした) 森下(もりした) 加茂ノ上(かものうえ) キヨドコ) ミスマ 舛塚(ますずか) 上野(うえの) 中野(なかの) 向大道(むかいおおみち) 町清水(まちしみず) 五丁田(ごちようだ) 加茂ノ森(かものもり) 上野新田(うえのしんでん) 加茂ノ上新田(かものうえしんでん) 加茂ノ下新田(かものしたしんでん) 榎ノ下新田(えのきのしたしんでん) 伊勢新田(いせしんでん) 大津(おおつ) 大谷(おおたに) 荒倉(あらくら) 風呂ノ奥(ふろのおく) 西谷(にしだに) 尾畑(おばな) 上山(うえやま) ユズリカヱ 宮ノ谷(みやのたに) モモヱ谷(ももえだに) 中ノ谷(なかのたに) シク山(しくやま) 作山(さくやま) 大上ゴ(だいじようご) 下田山(しもだやま) 岡野(おかの) 下野(しもの) 出張(でばり) 上野(うえの) 立柳(たてやなぎ) 加茂ノ下(かものした) 清所(せいしよう) ススキジリ ミスマ) 後屋(ごや) 中野(なかの) 向大道(むかいおおみち) 町清水(まちしみず) 下田(しもだ) 五町田(ごちようだ)

関連情報






資料編のトップへ
丹後の地名へ


資料編の索引

50音順

丹後・丹波
市町別
京都府舞鶴市
京都府福知山市大江町
京都府宮津市
京都府与謝郡伊根町
京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
京都府綾部市

若狭・越前
市町別
福井県大飯郡高浜町
福井県大飯郡おおい町
福井県小浜市
福井県三方上中郡若狭町
福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市






【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『夜久野町史』各巻
その他たくさん



Link Free
Copyright © 2015 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com
All Rights Reserved