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丹波の

奥野部(おくのべ)
京都府福知山市奥野部


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京都府福知山市奥野部

京都府天田郡福知山町奥野部

京都府天田郡下豊富村奥野部

奥野部の概要




《奥野部の概要》

姫髪山の東麓、長安寺のある一帯で、縄文早期の有舌尖頭石器が出土した長い歴史の場所。
奥野部村は、江戸期~明治22年の村。丹波国天田郡のうち。福知山藩領。明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年下豊富村の大字となる。
奥野部は、明治22年~現在の大字名。はじめ下豊富村、昭和11年福知山町、同12年からは福知山市の大字。


《奥野部の人口・世帯数》 154・58


《主な社寺など》

奥野部遺跡
北部の旧期洪積層の谷(小字エンジョ)から早期縄文時代の有舌尖頭器が発見されている。当地一帯の古い歴史を示すもので、東日本のものは黒曜石製だが、当地のものはサヌカイトだからこの当時から西日本だったのだろうか。
豊富谷の縄文遺跡
豊富谷の開発の歴史は古く、縄文時代草創期、いまから約一万年前までさかのぼる。それを物語るのが、和久川左岸の河岸段丘上をしめる奥野部遺跡で採取された二点の有舌尖頭器である。サヌカイト製のものと、チャート製のもの各一点であり、いずれも転麿がいちじるしく、基部や先端部を欠いている。
(『日本の古代遺跡京都Ⅰ』)

奥野部古墳群
小字大塚など地内に十数基の古墳があるという。

御土路神社(みとろじんじゃ)
御土路神社(奥野部)
深泥が池というのがあるが、鎮座地も淵ノ元(ふちのもと)というから、そうした沼のようになっていた所に祀られたものか。本祭には古来神木渡御が行われたが明治末年から廃止されたという。
御土路大明神  奥野部村
祭神 猿田彦神 祭礼十一月六日 六月六日 祭ニ御弊旅所ニ云 旅所三間二間半
本社 三尺五寸 上家有 籠家三間二間 鳥居
境内廿五間横十六間
社田高一石二斗五升 村除
(『丹波志』)
御土路神社の神額
鳥居に掲げられた神額には「天一御土路大明神」とある。
天一とは天目一箇神のこと。誰もが見落としたようだが、当社は本当は製鉄神を祀っているようである。



わが国における製鉄の開始時期については、弥生時代とする説と古墳時代とする説の二つがあり、約三○年間活発な論争が続いている。近年、広島県三原市小丸遺跡の製鉄炉(SF一)が弥生時代後期に遡り、また広島県豊栄町見土路遺跡の製鉄炉が五世紀末にまで遡る可能性のある巨大なものであるとの見解が発表され、六世紀前半以前の国内での製鉄の存在が注目されるところとなっているが、両遺跡の製鉄操業時期については検討の余地があるとの意見もでている。
(『丹後の弥生王墓と巨大古墳』)
それと同じミドロである。古墳時代まで遡る製鉄神社かも知れない。また猿田彦の原神が天目一箇神と福士考次郎は見ている。
『古語拾遺』序文に「令天目一箇神雑刀斧及鉄鐸」とあるが、当地一帯には製鉄遺跡が埋もれているかも知れない。
神木渡御は夜久野の額田を思い起こす、『姓氏録』左京神別下に額田部湯坐連は「天津彦根命子明立天御影命之後也」とある。明立天御影命は舞鶴の弥加宜神社の天御影命のことで、この神は天目一箇神と同神とされている。


臨済宗南禅寺派医王山長安寺
長安寺(奥野部)
姫髪山の東麓にある「七仏薬師の寺」。舞鶴あたりでも「もみじ寺」として有名でウデに覚えあるのか名カメラマンがノコノコやって行く。紅葉の季節は特に美しい。
大きなお寺だが親切なことに方々に案内板がある。これらを写して帰っただけで一々文献を調べる必要もないような感じ。
長安寺(奥野部)
長安寺案内板
長安寺由緒
今をさかのぼる千四百年前、第三十一代用明天皇の第三皇子、麻呂子親王(聖徳太子実弟)が勅命によって丹波の国大江山に棲む鬼賊征伐の途次、戦勝祈願のため薬師如来像を刻みこの地に奉祀され、この薬師如来を信仰し続けて当寺の沿革が冶まった。
平安時代末期になり、薬師如来を本尊となし真言宗の鎮護道場として金剛山善光寺の創建となる。廿五ケ寺の坊を有し三重の塔、諸堂完備し中世に栄えていたが応永年間(一三九四年)火災lこかかり諸堂ことごとく焼失した。
時代は下って文明六年(一四七四年)夢窓国師の法嗣悦堂禅師が諸国巡錫の際、七堂伽藍を再建し禅宗に改め瑞風山長安寺と改称した。
その後も戦乱時代が続き再三焼失し天文十三年これを嘆かれた福知山初代城主、杉原象次公(豊太閤の正妻寧子の方の伯父)の帰依により、眼光恵透禅師が入山し山号を医王山と改め再々創建された。薬師如来は安泰であり別に一堂を建てて安置し、薬師如来は広く瑠璃光を放ち、深く衆生に加護を垂れて来た。又寺内には諸堂完備しし、杉原家次公の塔所、開山堂、弁天堂観音堂、重森完途氏作の四十九灯薬師三尊庭園、心経堂、等々が建立され、現在臨済宗南禅寺派別格地となっている。境内には市立長安寺公園があり市民の盛んな信仰と遊園の地で親しまれ、春は桜、特に秋の紅葉の名所として見頃の十一月上、中旬頃は、高雄、箕面に優る美しさを誇り「丹波のもみじ寺」として知られている。(長安寺史より)

薬師堂(長安寺)
文化9年建立の薬師堂↑
薬師堂の本尊・薬師如来立像は、麻呂子親王主従7人が大江山の鬼退治のとき、薬師仏の霊夢をこうむって成就することができたので、七体の薬師像を作り、七ヶ寺に安置したものの一体で七仏薬師の一つと伝える。貞観様式の、9世紀末から10世紀初めの地方作とされ(市指定文化財)、完全な一木造、蓮肉まで本体と一木という。後世では源頼光の鬼退治伝説と一緒くたになった感じの丹後と丹波の境目にある当社らしい伝説かも知れない。
長安寺木造薬師如来立像(福知山市字奥野部)
この仏像は三十三年目ごとに開扉される秘仏で、通常は薬師堂内の厨子に納められており、余り目にふれることのできない本尊で、像高四一・五センチの小像である。
この小像は、実は厨子の前立となっている仏像、薬師如来坐像の胎内仏であったという所伝があり、正暦元年(九九○)三月、用明天皇の皇子、麻呂子親王主従七人が大江山の鬼退治にきたとき、薬師仏の霊夢をこうむって成就することができたので、七体の薬師像を作り、七ヶ寺に安置したものの一体であると言われている。
丹波・丹後地方に広く分布している七仏薬師信仰の一例であろう。ただ、麻呂子親王伝説と、頼光の鬼退治伝説とが混同して伝えられているもので、両者の時代的な開きがあるものが混交している点が変っている。
仏像の表現はいちじるしく肥満した重厚なもので、肥満した体躯の下半身に、Y字形に衣文を刻む点に古い様式がうかがわれ、彫りの深さ、目の輝き、神秘感等、神護寺の薬師像とよく似た形式のもので、九世紀よりすこし下る時代に作られた、地方的な作風の濃いものと思われる。
時代的には、本市では最も古い部分に属し、市内一の宮の、一の宮神社の男神像と同時代の作と思われる。
素木造りで螺髪を群青、目に胡粉、唇に朱を入れ、眉、ひげを墨書しているが、これらの彩色はおそらく後世に補修したものであろう。
また、この時代の特徴を裏付ける彫法であり、完全な一木造りで蓮肉まで、本体と一木である点は古い造像法で注目される。
蓮弁はなくなっていて、蓮肉以下は反花と框座二段を一木で作っている。
(『福知山市史』)

医王山長安寺 禅臨済 奥野部村
猪崎村醍醐寺末寺 開山眼光大和尚
境内山林東善光寺谷 田界西ハ姫神山路疆 北ハ峯疆 南山林 制札場?除地 寺領高七石領主寄附状有 本堂薬師三間四面 方丈八間ニ六間 庫裡十一間ニ五間 門二宇 開山堂三間二間木像有 鎮守弁才天  鐘楼 上藏
末寺六ヶ寺 荒河村相壽庵 拝師村福聚寺 正明寺村大奥寺 池部村観音寺 談村松林寺 樽水村観興寺
(『丹波志』)

医王山 長安寺  (臨済宗南禅寺派) 同村奥ノ部
本尊 薬師如来  開山 悦堂禅師  関基 眼光恵透弾師
往古は真言宗の道場にして境内に廿五院の坊あり、金剛山善光寺と云 応永年間諸堂院坊悉く焼失、今の小字善光寺谷是なり。後、文明六年夢窓国師(名は疎石伊勢の人宇多天皇九世の裔、正平六年九月寂年七十六)の法嗣悦堂禅師諸国巡錫の際、姫髪山に方一間の草菴を結び薬師如来の霊像(麿子親王日本七仏の一なり今尚存す)を安置しあるを見て諸堂伽藍を再建して瑞鳳山長安寺と称し禅刹に改む、永正八年再び焼失、是に於て天文十三年勅賜眼光恵透禅師旧跡を借み諸堂を再建して医王山長安寺と号す。眼光禅師自讃の肖像あり曰く
   恵透元来旡色相、字依呼応作金剛、三千世界悉周遍、清浄心蓮放妙光。 元亀二年辛未十一月 日 恵透(印)
福知山城主椙原侯深く開山に皈依して菩提寺とす。其墓、遺物今筒存す、(福知山史参看)
   法名  心光院殿養室乗安大居士
又福知山城主松平主殿頭より田畑合せて高七石及山林境内の寄進あり、爾来朽木侯に至り世々寄附状あり。山腹に泰運公?
歯碑あり、侯常に此地を愛し卒後遺命して歯髪を此所に?のしむ。(詳細城史参看)
 寺宝、明晁涅槃像(大幅)一軸 開山真筆法華経 全八巻 朽木綱貞公筆サクラ(横物大幅)一軸
 鎗、鞍、鐙、野行厨。以上四点椙原侯遺物
檀家 約三百戸
(丹波志)長安寺末として。 相壽菴(荒河)福聚寺(拝師) 大興寺(正明寺) 観音寺(池部) 松林寺(談)観興寺(樽水)と見ゆ。
(『天田郡志資料』)
大銀杏樹(長安寺)
←山門下の霊木・大銀杏樹。「麻呂子親王御自作薬師如来御霊木。授乳のイチョウ、樹齢約600年」とある。


*ふるさとの社寺を歩く〈144〉*長安寺(福知山市奥野部)*乳垂れ銀杏の大樹*
 秋が深まると山の紅葉が映えることから「丹波のもみじ寺」といわれる。十一月に入ると、地元周辺だけでなく、京阪神などから多くの客がモミジ狩りに訪れる。「かつては桜が有名で『丹波のさくら寺』といわれた。モミジが有名になったのは五十年前くらい」と同寺の正木義完和尚(六四)。
 境内には市立長安寺公園があり、ベンチや歩道などを整備。境内を囲むモミジ、サクラ以外にも、アジサイ、ハギなどが自生し、ツツジやサツキも植えられて、季節ごとに寺を彩る。山の中腹にあるため、同寺本堂東側の「憩いの家」前の広場は夜景の「穴場」。約四㌔先の市街地の灯や福知山市のシンボルの音無瀬橋の姿がきれいだ。
 千四百年前、用明天皇の第三皇子・麻呂子親王(聖徳太子の異母弟)が大江山に棲(す)む鬼退治に行く途中、戦勝祈願に薬師如来像を彫り、この地に奉納したことが信仰の始まりと伝わっている。
 平安初期にその薬師如来像を本尊とし、真言宗の道場として創建。千五百年ごろ禅宗に改められた。戦乱の時代には度々焼けたが、桃山時代に福知山城の初代城主・杉原家次公(秀吉の正妻・ねねの叔父)が再建した。再度焼失し、建物など現在の形になったのは約二百十年前という。
 「薬師如来の寺ということで、昔からさまざまな薬草が植えてあったようだ。『乳垂れ銀杏(いちょう)』といわれる大樹は今も残っている」。正木和尚は、境内にどっかりと根をおろす数十㍍の老木を指さす。樹齢六百年。大枝の付け根からは、乳状の樹脂のコブ「気根」が垂れ下がっている。長いものは一㍍にもなり、この気根は煎(せん)じて飲むと母乳がよくでる効能があるという。
 「イチョウに含まれるある種の酵素が、母体に入ると乳腺を刺激することが理由」と言う。「戦争中など栄養状態の悪い時には、多くの人がもらいにきたね。これで助かった人も多いと思うよ」。今も信者で母親になった人が訪れると、和尚らがはしごをかけて、ノコギリで切り、祈とうしてから渡すそうだ。
(『京都新聞』(96.10.4) )




奥野部城跡
通称城山や的場の地名が残るところあたりにあったという。今は妙見堂が建つという、文献はないが、現地の調査は行われている。
奥野部城跡


《交通》


《産業》


《姓氏》


奥野部の主な歴史記録


『福知山市史』
草創期の遺跡の第一は、奥野部と和久寺の造跡である。ここからは昭和二十六年ごろ、秋田司正氏と大西重喜氏によって有舌尖頭器が二点採集されている。
 この有舌尖頭器というのは、旧石器時代の最末期から縄文時代の初頭にのみ、特徴的に発達した石器で、槍先として使われたと推定されている。この二遺跡の例は、形態上縄文時代のものとみられるが、土器片はまだ発見されていない。
 この有舌尖頭器の特徴について、鈴木忠司氏は次のように述べている。
奥野部遺跡出土の有舌尖頭器
 サヌカイト製の有舌尖頭器  両面とも丁寧に剥離加工がなされ、おおむね斜状で平行に並んだ、よく伸びた平坦な剥離面で被われている。遺存状態はかならずしも良好ではなく、一部分を欠損していること、周縁部には衝撃によって生じた新しい剥離面が多数認められること、剥離面の境界にあたる稜が著しく磨耗していることなどから、相当の転磨を受けているとみられる。
チャート製の有舌尖頭器  先端および下端を欠くので断定はできないが、現存部分から推定すると、有舌尖頭器として理解することができる。正面は左右それぞれの側縁部から剥離加工が加えられ、これが交叉する中央部は稜を成している。背面は平坦であるが、大きさの割に厚くて、横断面は凸レンズ状というより、むしろ三角形を呈する。遺存状態は、本例についても良好ではなく、稜がかなり磨耗しており、相当の転磨が推定される。

『福知山市史』
奥野部遺跡(字奥野部)
 奥野部は自然環境に恵まれた地であって早くから古代人の住んでいたところらしい。古墳としては小字大塚の松林の中に数基あり、長安寺参道の寺に向かって右側に、赤土の中に巨石が一部露出しているが、これはおそらく石槨の一つであろう。大体この付近の古墳は和久寺の古墳群の連続であるが、奥野部谷をへだてて北方の山ろくにも、外形上古墳と考えられるものが数基あり、今松林となっている芦田完氏の山にも壊墳がある。石槨の石は長さ一メートル以上のものが五個ばかり不規則に横たわっている。そのすぐ北側に墳石の一部を出したものと、全く未発掘と思われる円墳が各一基ある。
 昭和二十五年初夏、奥野部小字えんじよにおいて有舌尖頭器一個が発見された。長さ約六センチ幅三センチで扁平である。大型の石鏃とも考えられるもので、打製の完成品である。出土地一帯は黄褐色の粘土層であるが、有舌尖頭器発見の場所をめぐり、約二メートル平方の所だけが黒色の腐植土であったという。あるいは竪穴式住居跡ではなかったかと疑われる。小字三ノ宮の畑で先端部のやや開いた短冊形の打製石斧一個が拾得された。長さ約一○センチ、幅約五センチで珪質粘板岩製である。なお、その下方御土路神社の境内とその前方の田地の下層からは、土錘が四個出土した。三ノ宮の台地の南方斜面(字新庄)からは完形の土器が発掘せられ、器の大きさの割に底が非常に小さく、明らかに弥生式の特色をもち、高さ約七センチ、胴回りの直径約五センチの小壷であるが、広口でかの陶棺によく見る単棺の形そのままである。その外細頚壷の破片や、壷の把手などが見られ、その他台地上には土師器の破片が無数に散布し、古い時代から人間が居住したところであることを証明している。
 土錘は、古代人が漁猟のために網のすそにつけた、近代の鉛のおもりに相当するものといわれている。別に土製の管玉かも知れないという学者もある。装飾用としては、形のみにくいものもあるのでどうかと思われる。中には土器片を利用したものもあるが、この地方にはその種のものは発見されていない。この地方に出土するものは最初から形を作って焼いたもので、多少紡錘形をした管玉状のものが多く、一般に弥生時代のものとされているものである。(土錘には平板状で両端に切り込みを作ったものもあり、この種のものは縄文中期の遺跡に多く、当地方には今のところ発見の可能性は少ない)
 奥野部の土錘は近代の河川(和久川)からは約二~三○○メートルへだてたところに出るのであるが、台地の部分からやや下りた部分で、しかも沖積地ではない。その西方俗称「さがり」付近からは弥生式土器も出たのであるし、あるいはこの土錘の焼きや色から見ても余程古代のものと思われる。明治四十年の大洪水でこの付近に氾濫した際も、その前面の水田は浸水したが、土錘出土地には及ばなかったという。すなわち土錘分布地域は現在の氾濫区域に接する部分である。この盆地が過去数千年の間に徐々に多少隆起しつつあると思われる点とを考慮して、あるいは弥生時代に福知山盆地の北部に水をたたえた時代があって、その湖沼で漁労を行った際に用いられたものではないかと思われる。

『福知山市史』
奥野部の古墳(字奥野部)
奥野部の古墳については弥生時代の項で詳細に述べているが、ここからは土師器・須恵器も多数出土している。先年長安寺の入口石段の付近で工事中、高さ約一五センチ位の壷が発掘されたが、土師器のほぼ完形品と思われる。小字三ノ宮から常蓮寺にかけての台地には、土師器や須恵器の破片が無数にあり、古代の人々の生活したところであることが想定される。奥野部集落の中央部に向かって、約五○○メートルの丘陵がつき出ているが、その先端部に近いところの頚部のカッテイングで、昭和二十六年、厚さ一~一・五センチの、表面に櫛描文様をもった軟質の陶質甕の破片が発掘された。色は灰白色で普通の須恵器よりはるかに白く、かつやわらかいのが特徴であるが、器形が甕を想像する以外明らかでない。奥野部谷は階段式の水田であるが、そのうち小字「曽根」からは須恵器の破片が出、この谷の口に近い小字宮の前の水田からも同質の土器の破片が出るが、これは長年月の問に、谷の奥や両側の台地から流れてきたものと思われる。


伝説


姫髪山
姫髪山。天照玉命神社より。
姫髪山
市の西北に姫髪山がある。丹波志には姫神山と書かれている。(長安寺の境域を示したところに「境内山林東善光寺谷田堺、西ハ姫神山路疆」とある)この山もこの盆地の人々が朝夕その温容を仰いで生活して来たものであるが、山頂に古城があったともいう。この南麓奥野部にも現在聞き伝えており、またこの山の北方天津の旧家から出た「丹波国天津村由来記」(安政五年)にも書かれていることで、この山の城主に関する面白い伝説がある。そのあらましをごく簡単にいうと、天田郡和久庄姫髪山の城主(あるいは荒河沖山の城主ともいう)に田村将監春梨(後に山吹将監と改姓した)と称する豪族がいてこの地に勢力を張っていたが、その家老が二人あって、共に主君の娘を恋していた。姫は二の家老を慕っていたので、一の家老は、かなわぬ恋にしっとのあまりついに主君を打ち殺した。姫はこの家老と共に山城の桂の里に逃れ、また追われて伊勢国にかくれ、二の家老はその地で孝行で名高い阿漕平次となったというのである。この伝説はもともと元禄初年ごろの浄瑠璃「阿コギ平次」の初めに、「にんわう四十九代くわうにんの御よにあたって、たんばの国あまだごほりのぢうにん山ぶきしやうげんたかのぶはきんごうをうちしたがへ、あまたのこほりにじやうぐわくをかまへ一かちうぎぎどうどうとしてかたをならぶるものもなし云々」とあることから、この城郭が姫髪山にあったものと考えたのであって、天津村由来記の記事も奥野部の伝説も全くこの浄瑠璃から来ていることが判明した。ただこの浄瑠璃の作者が、全国広い中で、何ゆえことさらに丹波国天田郡と書き出しているかが疑問である。当地の古老は、幼時から「こうたに山(姫髪山の東方)の合戦」ということは聞いているというが、良質の史料はまだ現われない。
この山の南麓には禅宗南禅寺派の別格本山長安寺があり、目下都市計画による公園として施設を充実しつつある。福知山初代城主杉原家次の墓があり、また寺のすぐ上の四本松からは福知山が盆景のように美しく眺められる。朽木氏第一○代の綱方侯は江戸で没する時、自分の領国にあるこの山の風光を思い出し、遺言してそこに歯を埋めさせたという歯塚が建てられている。また昭和二十七年の夏から、この山で大文字の送り火が行われるようになった。
(『福知山市史』)





奥野部の小字一覧


奥野部(オクノべ)
井ノ口 池田 池ノ下 家ノ下 稲場 石道 後山 扇ノ元 落町 大塚 大畑ケ 河原 倉挟間 五良ノ木 三ノ宮 三十田 岶田 清水元 正連寺 末ノ法 隅ノ貝 曽根 高岸 田畠 寺 寺ノ下 洞 純度 中ノ宮 長畑ケ 西谷 乗金 上リ立(のぼりたち) 速上 淵ノ元 本庄 的場 宮ノ前 宮ノ段 村ノ内 山伏塚 勇ノ木 渡利 エン上 ウツロ ソ子 ミナ田 坂ケ谷 岶田 立山 洞 姫髪 ウツロ エン上

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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