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丹波の

大呂(おおろ)
京都府福知山市大呂


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京都府福知山市大呂

京都府天田郡上川口村大呂

大呂の概要




《大呂の概要》

天寧寺のある集落、丹鉄の下川口駅から瘤木を経ると山間の当地になる。現地の案内図↓
案内板
大呂川の谷にある。中世には氷上郡方面より丹後へ通ずる要路(山陰道丹後別路)にあたっていた。
大呂村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福知山藩領、延宝5年からは上総飯野藩領。枝村に桐村・奥谷。北村のうち中村・瘤木村・一尾村・長尾村ももと当村の枝郷という(威光寺文書)。明治4年飯野県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年上川口村の大字となる。
大呂は、明治22年~現在の大字名。はじめ上川ロ村、昭和30年からは福知山市の大字。


《大呂の人口・世帯数》 162・54


《主な社寺など》

天満宮(上谷)
天満宮(大呂)

天神社 同(大呂)村上谷ニ建
祭神 菅家 祭礼八月廿五日
本社 五尺四方
九月晦日前日三岳山ノ御輿此社江下遷宮別当金光寺供奉産子上谷中
(『丹波志』)
天の神を祀ったものか、道真公は本来は関係がないのかも…、当社のある岡の上も恐らくは山城の出城であったような気配がある(あとで調べたところによれば上谷城があったとある)。
当社の下には三岳蔵王権現の御旅所が置かれ、同権現の祭礼には神輿が鎮座する習わしであった。これは当村が隔年に同権現の祭礼に奉仕する上・下山保のうち下山保の客分として参加したことによるという。しかし「下」は狭く車も駐められないほどの路巾しかない、たぶんこの写真の広い場所を言うのではなかろうか。

八幡神社(坂梨)
八幡神社(大呂)

八幡社 同(大呂)村坂梨ニ建
祭神     祭礼八月十五日
本社五尺四方 産子 坂梨 成ル 岡崎 天寧寺門前
(『丹波志』)


鹿島神社(奥谷)
桐村谷は、応永27年7月20日付の足利義持御判御教書に、天寧寺域の西境として「限西師殿桐村谷之本屋敷」と見えている(天寧寺文書)ところ。鎌倉末期大中臣那珂経久が佐々岐荘金山郷の地頭として入部し、金山を称し、その一族が桐村に住して桐村を姓としたという。戦国期桐村氏は織田信長に付き、武田信玄と結ぶ本家金山氏を滅ぼし、桐村甚左衛門は天田郡から何鹿郡へも勢力を伸ばしたという。
八幡神社の脇から奥に桐村氏の居館跡があり、その下に常陸国から勧請したと推定される鹿島神社がある。
鹿島大明神 大呂村 奥谷ニ建
 祭神 経津主命  祭礼十月九日
陸奥国鹿島ヨリ勧請 大中臣金山桐村両家ノ産神也 今奥谷ノ産神ナリ
本社 三尺五寸 二尺五寸
祭日ニハ古例ノゴトク氏族并家ノ臣ノ末ノ者年番ノ家ニ集勤之古風ニアリ祭礼ニ可尋
(『丹波志』)


桐村城
桐村ノ城古城  大呂村 奥谷ト桐村谷ノ間ノ山ニ有
古城主桐村氏
桐村将監高信ノ没落子孫瘤木村ニ在又左エ門家ナリ藤原氏ナリ将監ノ塚有簱武具不残所持ス系図有之六月虫干有リ
(『丹波志』)

桐村城

金山城
古城 金山城 大呂村
城主金山大膳大夫大中臣那珂宗泰常陸国ヨリ  年中死所ヲ移 本姓大中臣常陸那珂郡ヲ領依之苗字トス

金山ニ移テ桐村城を守テ称号トス
金山天寧寺其前ヨリ寺アリタリ金山氏仏徳大通禅師愚中和尚ヲ請招アリ開山トス委天寧寺条下ニ記位牌天寧寺ニ在
金山落城桐村経有ノ時金山氏ニ背及闘戦金山氏ハ系譜ニ名不知ト在此代ニ落城ナリ
(『丹波志』)

金山城


福主神社(安井)
福主大明神 同(大呂)村 安井ニ建
祭神 神躰天台衣ノ僧形二尊 祭礼 九月十六日
産子 安井 大呂 射場ヶ谷 芭蕉谷 瘤木 野々原
(『丹波志』)

元は安井にあったが今は芭蕉谷にあるという。この社の奥に華浪峠があるのではと思うが、車はどこから入れるのかわからない。

臨済宗妙心寺派紫金山天寧寺
天寧寺(大呂)


境内案内板
天寧寺の案内板天寧寺は臨済宗妙心寺派に属する禅宗寺院で、貞治四年(一三六五)地元の地頭大中臣宗泰が自らの氏寺に愚中周及を開山として招いたのにはじまる。足利義持ら将軍家の帰依を得て寺は大いに隆盛を誇った。
 この寺院に伝わる絹本着色十六羅漢像・即休契了像は国の重要丈化財として、また薬師堂・閉山堂・古文書絹本着色大臣持実像・大中臣元実像・愚中周及関係遺品は府の文化財として指定されている。その地、多くの文化財が市の指定文化財になっている。
福知山市教育委員会



大呂集落の西北の段丘上に天寧寺がある。本尊釈迦如来。
草創不詳、中興開山は夢窓疎石の弟子愚中周及、当時の檀那は当地の地頭、大中臣那珂宗泰(法名宗吽)。那珂氏は鎌倉末に常陸国から当地佐々岐庄下山保(金山郷)に来住したと伝える。のち地名をとって金山氏を名乗る。
愚中は美濃国の人で、夢窓疎石の教えを受け、のち中国に渡り、揚子江鎮江の金山寺即休契了の門に入った。師の印可を得て衣鉢を継ぎ、即休の頂相(肖像面)を与えられたが、それは天寧寺に現存し、李竜眠の描いた十六羅漢像(一六幅)とともに重要文化財に指定されている。滞留一〇年ののち帰国した愚中は一時臨川寺(京都市右京区)・南禅寺(現京都市左京区)などに住したが、大中臣那珂氏の氏寺天寧寺に入寺したのは貞治4年(1365)のことという。
当時天寧寺が那珂氏に手厚く保護を受けていた。愚中は応永16年(1409)天寧寺で没したが、勅命により仏徳大通禅師と諡された。開山堂に後小松天皇の愚中に対する旌表額が掲げられる。また愚中に深く帰依していた足利義持は、近習として仕えていた宗泰の孫金山持実を遣わして、紫衣を贈っている。
愚中没後の応永27年には、義持が御教書を下し当寺を祈願寺とし、また同じ時寺領も安堵している。
その後金山氏は一族桐村氏に滅ぼされたと伝え、天寧寺は桐村氏の保護下に移る。天寧寺過去帳の裏書に「桐村ハ信長へ付キ、金山ハ信玄ヘ付キ、信玄滅却ニ依テ、後、桐村へ金山ヲ打テトレト云付ケラレ、桐村金山ヲ打ツ」の文言がみえるという。天文15年(1546)八月一〇日付天寧寺寄進分門前田畠年貢注文によると、寺領門前田畠のなかに長年の檀那であった金山氏名義のものは一ヵ所もなく、ほとんどが桐村氏か、またはその家の子郎党のものになっている。
なお天寧寺は備後に勢力をもっていた小早川氏が愚中を招いて建立した仏通寺(山市)とともに、愚中門派の本寺であった。愚中門派は愚中没後、直弟子たちによって結成され、五山禅林から離れて独自の禅風を打ち立てた。
天正8年(1580)には丹波を制圧した明智光秀から判物が下され、翌9年には明智秀満(城代)の諸色安堵状が出された。その後も天寧寺は、時々の支配者から寺領安堵や保護を受けて明治に至った。慶長7年には城主有馬豊氏の実父則頼が当寺に葬られ、寺領10石の寄進を受けている。元和6年豊氏の筑後久留米転封に伴い同地へ改葬されたが則頼の位牌を残す。明智光秀・同秀満らの安堵状、豊氏のほか岡部長盛・稲葉紀通・松平忠房と歴代城主の判物を有している。
本堂は安永6年(1777)火災に遭い再建、昭和36年落雷により焼失し同38年に再々建されたもの。
当寺には天寧寺文書・重要文化財二点のほか、金山持実(文安5年制作)・元実(大永2年制作)父子の肖像画、愚中自筆の地蔵菩薩本願経、応永三四年刊「首楞厳神呪大悲呪消災呪」などが蔵される。当寺の山下を流れる川を揚子江といい、愚中が中国揚子江にちなんで名付けたと伝えている。

金山 天寧寺 臨済宗 大呂村
一本寺開山勅諡仏徳大通禅師愚中和尚
開基檀那金山城主大中臣那珂宗泰法名大因宗
足利尊氏公四世征夷大将軍義持公被定
御祈願寺八世慈照院義政公迄御教書賜之知行
目録別紙有之
応仁戦国之後知行退転所領山林境内(雖有田畑無高)
於瘤木村高十石六斗余為 公儀之除地寺納主
当地也
中奥間山万休和尚(妙心寺前住 紫衣)至当住持七世法
累相続也末寺丹波丹後但馬三国三十箇寺
千手観音郡内巡礼十七番札所
開山堂 仏殿 方丈 庫裏 祠堂 僧堂 額開山筆
浴室 額開山筆 山門 額朝鮮南胡 金紫閣 楊御池 惣門 額
将軍義持公筆 鐘楼門 大因寮 鎮守 三宝荒神
龍游池俗蛇池ト云 裏門 換天門六丁路巾五間
貞治四乙巳年建立開山仏徳大通禅師愚中和尚

応仁文明騒乱退転山林境内而已相残天正七年
明智日向守光秀往古ノ例ヲ改被制禁乱入狼
藉制札出但山林境内(無畝之田畑)従公儀除地外ニ
瘤木村ノ内高十石余福智山城主有馬玄蕃頭殿
寄付ノ?享保年中境内並ノ除地ト御定被下
但 御朱印除地御改?ノ次第有之 古来一本寺
官職妙心寺ニテ勤附庸属不ノ類ニモ無之
妙心寺ニテ客寺ト唱
右ノ外往古ヨリ宝物書類夥敷有之雖略之
委事其寺ニテ尋可見

(『丹波志』)

紫金山 天寧寺  (臨済宗妙心寺派)上川口村字大呂
 本尊 釈迦牟尼仏  開山 愚中和尚
 開基 大中臣那珂宗泰   中興 萬休和尚
  もと愚中一派の本寺なりしか寛永中、妙心寺派に属し.当寺の萬休和尚を初代として現十六代に及ぶ。
 創建、貞治四年(2025)貞治は北朝の年号にて実は正平二十年なり。再建は寛永年中尚、安永六年
建立(焼失のため)
 足利氏四代将軍義持公の帰依厚く義政将軍も亦教書を下附せり。
 後小松天皇勅額
 勅、晦迹韜光、以安心空門、是道人之本心、立号易名、以褒寵旌異、是王者之良規、丹州路金山愚中和筒、賽霊山単伝之正音得少室密付的旨、雖寄身於林啓、而名喧宇宙、其道甚尊、顕心切慕之、諡日仏徳大通禅師、
    応永十六年九月十四日
 丹波国金山天寧寺事                          
 可爲祈願寺之状如件 応永廿七年七月廿日  将軍 義持  花押
                      住持
 御朱印四至方至目録
 丹波国金山天寧寺門前敷地並向山限西師殿桐村谷之本屋敷登南尾大通限東天津場、当寺領掌不可有相達之証書依如件
 丹波国金山天寧寺並末寺臣唱、寺領田畑山林等目録別紙有之事寺家領掌不可有相違之状如件
     応永廿八年八月十二日  従一位 源 朝臣 判
 細川管領下知状

 丹波国天寧寺事   爲御祈願寺寺領等不可有相違之由所被仰下也仍而下知如件
  嘉吉元年十二月十九日    右京大夫 源朝臣 判
    
 禁制
    丹汲国金山天寧寺
 一寺家爲代々御祈願所之間甲乙等不可致飛入狼籍事
    附殺生之事
 一寺領百牲等臨時課役可令停止事
    附検断等之事
 一於国中彼門下寺庵住侶之僧自然以無実之儀式号非法之仁於其檀那及村在地不可成違乱煩事
   但罪科歴然之時自本可令加糺明事
 右条々自今以後堅可守制札之旨若於違犯之輩者可被處罪科之由被仰出訖仍下知如件
                                  管領 元貞 判
   宝徳四年実は享徳元年なり。卯月廿八日
  義政下附の分二通同文に付省く
 応仁文明騒乱退転、山林境内而己相残、天正己卯年明智日向守、改古例、被制禁乱入狼籍札出、但山林境内、従公儀除地、
 外瘤ノ木村之内、高十石余、福知山城主有馬玄蕃頭殿寄附之所、享保年中境内並之除地、御定被下但御朱印除地、御改等之
 次第有之、古来一本寺官職、妙心寺而勤不庸属末之類無之客寺云宝物数多有之云々(以上応永廿七年以下の文書は郷土史料
 に所載)
依て兆殿司と云、永享三年八月廿日歿年八十一)
 外に仏印禅師の画賛、樹上鳥
   以上四点は明治三十七年二月十八日国宝に編入せらると云。此外寺什多し。
 当山末寺左の如し。
金剛寺 (与謝郡与謝村) 吉詳寺 (仝加悦町) 宝勝寺 (仝  上)
梅林寺 (仝郡三河内村) 西林寺 (仝岩屋村) 養源寺 (仝市場村)
常栖寺(仝桑飼村)   慈徳院 (仝  上) 慈雲寺 (仝  上)
西禅寺 (仝石川村)  福壽寺 (仝  上)  光明寺 (仝岩瀧町)
松輝寺 (出石郡高橋村) 桂昌寺 (仝  上)  清太院 (上夜久野直見) 
東源寺 (中夜久野大油子) 普光寺 (金山村天座) 龍雲寺 (雲原村)
無量寺 (庵我筈巻)   大信寺〈上川口夷)   瑞応寺 (三岳村)
香泉庵 (下夜久野畑)  阿禰陀庵 (上川口立原) 少林寺 (加佐河西)
自得寺 (何鹿物部)  長源寺(舟井出野)    大仲寺 (金山村)
 楽昌寺 (氷上、芦田村)  以上二十八ヶ寺
  郡西国第十七番 御詠歌 御仏の光りを土にのべしきて今金山の色やますらん。
  郡新四国第四十六番の札所なり。
  式年経会 四月廿四日 無縁大施餓鬼  八月二十五日 開山忌  正月十九日 仏忌
    共に近郷より参拝者多し。
  檀家 百五十戸(上川口村大呂、下川口村長尾、一尾に亘る)
  財産 山林多し、米二十石、麦十五石収納の田畑あり。外に薪炭採取の山林三十町歩あり。
    此等は明治十九年当寺の住職霊渓和尚、仝三十八年現仕金岡師の斡旋尽力に由りて官有地払下の功多しと云ふ。
(郷土史料)福知山城主有馬玄蕃頭豊氏侯、実父則頼慶長七年七月十七日城中に卒す、年八十余才、大呂村天寧寺に葬る、
梅林院殿剱甫宗知大居士、此時天寧寺へ寺領十石寄附せり、後久留米に改葬せらる。
昭和大禮記念事業として仏殿、開山堂の大修理(予算金壹千五百円)又杉槍苗千五百株植付をなせりといふ。
現任金岡宣庸師は、花園妙心寺にて管長に事ふること五年、伊予八幡浜大法寺に禅学を修すること十年にして当山に来住学徳兼備の人たり。
(『天田郡志資料』)


夢を追い続けた反骨の傑僧
天寧寺と愚中周及
室町の世に全盛を極めた京都五山。その禅風に飽き足らず、形骸化して文弱戯論に流れる五山の風潮を生涯を通じて批判し尽くしたのが傑僧愚中周及である。天寧寺(福知山市)は彼の壮年期、慕いよる雲水たちから厳選した者たちを、決死の修行を共にしつつ徹底的に鍛えあげた所である。
伝によれば愚中周及は美濃国出身という。幼少からすでに仏弟子の自覚があり、一三歳で出家を志し、親の歎きも顧みず、叔父を頼って京都の臨川寺に入り、高僧夢窓国師の愛護を受けた。日々夢窓門下の逸材の薫陶を受けて急速に進歩した愚中は、一七歳で受戒して正式の僧侶になったが、この頃から五山の実態に疑念を抱くようになり、寺を出て洛北に独居した。苦心惨憺すること二年、一九歳の時に建仁寺に入り、長老高山慈照に盛んに質問を重ねて多年の疑念を晴らそうとしたが明解な解答を得られず、ついに五山を見限った。
この上は中国の本場の禅僧にぶつかるほか道はないと考え、幸い天竜寺船に便乗を許され中国に渡る。まず月光正印老師に入門後、師の手引で、南京にほど近い鎮江の金山寺に住む即休契了和尚に入門した。当時、中国でも禅が貴族化・教養化して本来の姿を失なう傾向にあり、これを忌避して林下(官寺に対する私寺系統の禅寺)に純粋禅を求める人びとが現われ始めていた。即休和尚もその一人で、愚中の求めたものもここにあった。しかし「知能学識が高いほど悟りに遠い」とか。中国に渡って七年、即休契了に入門して五年、言語に絶する苦行の末、ついに大悟に達した。その証しとして愚中に与えた自らの頂相(肖像画)に即休和尚は、「中国人は誰一人として悟り得ないのに、日本の愚中のみ大悟徹底した」と記して祝福したという。この頂相は今日、天寧寺最高の寺宝になっている。
即休老師の忠告もあり、三〇歳で帰国した愚中をかつての恩師夢窓は離さなかった。そのままとどまれば五山の最高峰に達したかもしれないが、即休老師直伝の林下の禅を捨てることは絶対に許されない。南禅寺書記の要職を捨て、一所不住の修行の旅に出て一〇年、不思議の縁で丹波天寧寺に開山として迎えられる。そして、ほんの数年の仮住まいのつもりが七四歳まで、三二年の長期に及んだ。その間、中央の招きにも一切応ぜず、自らの修行の総仕上げと、勇猛精進の直弟子たちの錬成に集中した。
七五歳にして再び一所不住の旅に出る。それが禅者の理想であり、広く天下に人材を求める老僧の夢でもあった。行脚の途上、再び縁あって備後国の雄、小早川氏の願いを入れ一寺を建立、仏通寺と称した。ここを中国の恩師仏通禅師(即休契了)の志を伝承する地と定めたためだろう。愚中の死後、天寧寺で育てられた直弟子たちは、天寧寺・仏通寺を両本山として愚中門派を結成、彼の抵抗精神を継承する一大勢力を築き上げ、京都五山に対抗したのである。今日仏通寺は愚中派総本山として栄え、天寧寺も愚中会を設けて修行に余念がない。(根本惟明)
(『福知山・綾部の歴史』)


境内は広く、特に秋の紅葉時期は美しい。
天寧寺
天寧寺


《交通》


《産業》


大呂の主な歴史記録


大呂村 支桐村 奥谷 右同(保科越前守領)
高三百拾貳石九斗九舛五合
又桐村ノ谷ヲ登り、嶺ヲ大タワ越トシ、東ヨリ西ヘ越ス佐々木谷一ノ宮エ越ス峠也、頂迄凡二十丁下リ道拾二三丁、一ノ宮ニテハ十倉峠ト云、牛馬不通
(『丹波志』)




大呂の小字一覧


大呂(オオロ)
明石原 麻蒔 家ノ本 家ノ前 家ノ上 家ノ下 家ノ奥 家ノ後 家ノ立 居屋敷 井根ノ上 井根ケ端 池ノ本 池ノ上 猪ノ谷 猪ノ尻 岩瀬戸 稲木場 イナバ 上ノ段 打屋 裏山 梅ケ坪 大呂 大呂畑 大呂道下 大呂開地 大良 大谷口 大坪 大畑ケ 大栗ケ岶 岡崎 岡久 小田 小進層 御屋敷 奥谷 奥開地 ヲクミチ 釜ケ谷 釜ケ成 河原田 上谷 鍛冶屋開地 寒立 枯松 間者開地 樫原 カイチ 木屋敷 岸ノ下 キシ 崩レ 葛畑 小谷 小谷口 小峠 小角 岶田 岶畑 岶屋敷 阪 坂梨 坂本 才ノ下 才ケ端 三角田 笹ケ成 サガル 新屋敷 四郎右エ門開地 渋開地 射場ケ谷 白木 蛇良 シヨブ谷 シヨウキガ谷 添水ケ本 ソヤ谷 立チ 立ノ下 谷 谷田 竹ノ下 滝谷 田畑段 段ノ端 後ケ田和 大門 大門坂 茶師原 土取 寺ノ内 寺ノ上 寺ノ下 寺屋敷 天神ケ端 出合 出口 戸居ノ本 土江ノ上 土江ノ下 堂ノ前 堂ノ谷 堂谷口 中坪 中尾 中ノ開地 長田 長谷 ナル 野々原 野々原家下 野々原池下 野々原口 野々端向田 ノツコウ 墓ノ谷 墓ノ本 橋ノ本 半坂 平井 東坂 日南 日後 彦右エ門開地 風呂ノ下 風呂屋ケ谷 二ツ苅 古畑 踏住 福寺院坂 文吾田 堀 堀ノ本 細谷 細谷口 松ケ端 宮ノ上 宮ノ廻 峯ケ田和 水皆口 迎田 向田 室ノ木 森ケ谷 森下 門前田 由利道 ユリノ下 山ノ口 山端 休石 屋敷 安井 由谷 四丁田 四ツ辻 和田 割谷 曽天谷 宮ノ下 因ノ幡 三合田 稲置場 樫木原 役ケ田和 上谷 奥谷 阪梨 寺山 野々原 半坂 向山 日尾木


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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