大内(おおうち)
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京都府福知山市上大内・下大内 京都府天田郡上川口村上大内・下大内 |
上大内・下大内の概要《上大内・下大内大内の概要》 福知山市内には「大内」という所が南部の六人部にもある、当ページは上川口の「上下大内」である。 国道9号線から北へ大内川沿いの集落。国道9号から大呂へ越す当地を通過する峠路を「半坂(判坂)峠」といい、古代の山陰道丹後別路で、丹波・播州から丹後に向かう道路沿いの要衝であったという。金山郷へ通じるので「金山街道」とも呼ぶ。けっこうな坂道であるが、牛馬が通れたという。 判坂はハナナミ峠の意味か、それとも埴土坂か。 大内村は、江戸期の村。江戸後期に上大内・下大内両村に分かれたという。はじめ福知山藩領、天和期~元禄期から上・下大内村は旗本武田氏知行地。 上大内村は、江戸期~明治22年の村。はじめ十二村枝郷の大内村の一部。上大内村として分村するのは江戸後期と思われる。はじめ福知山藩領、天和期~元禄期頃から旗本武田氏知行地。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年上川口村の大字となる。 上大内は、明治22年~現在の大字。はじめ上川口村、昭和30年からは福知山市の大字。 下大内村は、江戸期~明治22年の村。はじめ十二村枝郷の大内村の一部。下大内村として分村するのは江戸後期と思われる。はじめ福知山藩領、天和期~元禄期頃から旗本武田氏知行地。明治元年久美浜県、同4年豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年上川ロ村の大字となる。 下大内は、明治22年~現在の大字。はじめ上川口村、昭和30年からは福知山市の大字。 《上下大内の人口・世帯数》 125・52 《主な社寺など》 蛭子神社 ここではないかも知れない↑、何とも書かれていないのでわからない、だいたい上か下かすら当方にはわからない、ここの他にはそれらしき物は見当たらなかった。
蔵王権現
三吉神社
《交通》 《産業》 上大内・下大内の主な歴史記録
上大内・下大内の小字一覧上大内(カミオオウチ) 麻町 穴毛 池ノ上 池立 一ケ谷 楮坂 岡 大坂 奥ノ谷 柿ノ下 鎌研 片谷 門勝 此?《私注・くさかんむりに肋》 佐倉 笹ケ谷 菖蒲水 大成 大内前 知野 寺ノ向 寺ノ奥 寺ノ裏 戸井ノ詰 土ヘノ元 堂田 西ケ坂 橋ケ坂 葉舞場 半坂 狭子 東山 菱呂 樋ノ詰 風呂ノ元 深田 前谷 曲リ 宮ノ下 南谷 水木ケ坂 山田 薮ノ下 屋敷下 湯ケ成 六部登 麻町 池谷 池立 一ケ谷 楮坂 大坂 穴毛 岡 奥山 片谷 鎌研 桐ノ木 坂畑 佐倉 菖蒲水 立岩 知野 寺坂 寺ノ裏 床浪 西山 西ケ坂 橋ケ坂 半坂 狭子 東山 風呂ノ元 仏谷 前谷 曲リ 宮ノ下 南谷 水木ケ坂 山田 薮呂 下大内(シモオオウチ) 麻町 上ノ段 後 岡 尾崎 奥ノ谷 鎌研 小蛇池 坂尻 下川 大成 大内前 寺ノ向 土ヘノ元 西山 花坂 東山 菱呂 樋ノ詰 細畑 仏谷 前谷 曲リ 向中 山田 薮ノ下 六部登 上ノ段 奥山 大内前 小蛇池 五門坂 坂尻 大成 寺ノ向 西山 花坂 東山 菱呂 前谷 向中 山田 薮ノ下 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹波志』 『福知山市史』各巻 その他たくさん |
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