下天津(しもあまづ)
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京都府福知山市下天津 京都府天田郡下川口村下天津 |
下天津の概要《下天津の概要》 天津小学校の先あたりから、由良川西岸を走る国道175号線添いの集落で丹後国境まで。KTRの「下天津駅」がある。 西側は山塊が迫り大呂川や長尾川がこの地で合流するうえに由良川は、こちら側の山と対岸の山の距離はこの辺りは特に狭く200メートルばかり、従って洪水の常襲地とされている。 「津」というくらいだから古くから港であったと思われるが、丹後街道と但馬街道の交点近くで、水陸交通要地となっていた。村内に由良川対岸筈巻村への渡し場や航行する船の荷揚下場があった。宝暦13年船着場の設置が公認されている。牧川・大呂川・長尾川流域の物資も積みおろしを行っていたので宿屋が多く、今も屋号のついた家が多いという。 下天津村は、江戸期~明治22年の村。はじめ「正保郷帳」に見える天津村1、280石の一部。17世紀中葉に分村したという。「元禄郷帳」「天保郷帳」は「上天津村枝郷」、「丹波志」は「古上天津支」を当村に付している。福知山藩領。文化11年正月伊能忠敬が測量のため当村に宿泊している。 明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年下川口村の大字。 下天津は、明治22年~現在の大字名。はじめ下川口村、昭和24年からは福知山市の大字。 花倉川と大呂川がこの付近で合流するが、その間が由良川が最も狭くなる。日藤から上流側を見て写す。 両側から迫る山の間は200メートルばかりで、大洪水時はそこのトラックの屋根を越す水位にもなると想定されている。この道路面より3メートルは覚悟して置かねばならないという。このあたりは狭くて堤防を作ることもできない。狭い場所より下流側の日藤村の電柱に貼ってあったもので、そこですらこれだ→と言うなら、上流側は一体どうなるのだろう。今も難所といえば難所のようである。 《下天津の人口・世帯数》 123・50 《主な社寺など》 是社神社 社号から考えてずいぶん古社であろう。『丹波志』の時代にはコレコソと呼んでいる。社をコソと読む、丹後の磯砂山麓の元伊勢ともされる藤社(ふじこそ)神社や隣の綾部市岡町の古曾戸神社、古記録にこうある、コソトと読むか江戸期くらいからこちらはそうだろうか、本来はコソベではなかろうか、今は木祖殿神社と呼んでいるよう。綾部市有岡町の二宮神社は古くは古曾戸大明神と言ったそうである。 全国的に有名な比売許曾(ひめこそ)神社や伊太祈曽(いたきそ)神社などがある。新羅の始祖王は赫居世(かくこせ)、即位して居世干(こせかん)と号したといい、高句麗の官位にも古雛加(こすか)というのがあった、これらはさらに縮まって居世や古雛となったという。元々は彼の地での尊称だったようだが、日本でも、父古曾(今昔物語)とか地蔵こそ(宇治拾遺)などとも使われ、一般に人に対する尊称として用いられていた、それが転じて神社もコソと呼ぶようになったもののようである。 下鴨神社の糺森に鴨川合坐小社宅神社という名神大社がある、「かものかわいにますおこそべ」と読む、当社のコソベとは「カモ神社に奉祀する新羅系の渡来人の集団」の意味という。賀茂氏と秦氏は中がよい、コソベはあるいは秦氏系の氏族なのかも知れない。『姓氏録』には、渠曾倍・巨曾倍・社戸なども見えるが系統はこことは違うようである。 万葉集11巻の2427に「是川瀨ゝ敷波布ゝ妹心乗在鴨」の「是川」はうぢがわと読む、宇治川のことである。何でウジガワなのか。色即是空の是、国是の是、是々非々の是はゼと読む、非核三原則とか専守防衛などが国是とされ、明文化されていなくとも一国の世論の支持を受けた「正しい国政理念」の意味にもなる。国是や憲法にすら反する非や邪の権力がこれをなきものとしたくてたまらぬようであるが、過去の大惨禍を繰り返したくなければ決して許してはなるまい。自民党立党以来の党是は改憲である、死ぬより大好きなそのアメリカに押しつけられた憲法だから、当初は安保も押しつけられたものという認識で、米軍基地もそうしたものと見ていたが、近頃はそれは抜け落ち、九条は変えても安保は変えないというのだから、国民にとって世界の平和と安定にとってよい方向へ変えるというのではない様子。九条を廃止してアメリカに従属した文句言わない配下の同盟国として全世界で戦争できる日本にするというのは何でもないアメリカのと言うか米帝のたっての要請というか押し付けであるのだから、まだリベラルで平和を指向している現「押し付け憲法」を改憲して、米帝の本性むき出しの新らしい、現憲法にワを何重にもかけたような超「押し付け憲法」にしたいようである。日本人のつもりであろうか、情けないド恥ずかしいハナシである。 是はシとも読む、氏と通音であり、この氏を訓読してウジと読むようである。だからあるいは是社は氏社(うじこそ)の古い、というか本来の書き方をしているのかも知れない。周辺の氏族の氏神様の意味かも知れない。宇治川は、垂仁紀に「天日槍、莵道河より泝り、北近江国の吾名邑に入りて、…」とあるところで、渡来人と関わりありそうに所である。あるいはフジ・ウジ何か似てもいるので、シの神様という意味かも知れない。史料がなくこれ以上はわからないが、『氏録抄』に、大和国諸蕃。漢。とあって、山村忌寸。己智同祖。古禮公(これいこう)之後也。とある。『播磨国風土記』錺磨郡巨智里草上村条にも、韓人山村らの上祖、柞(なら)巨智賀那という者がこの地を請うて開墾したという伝承がみえる。コチというのも尊称かと見られているよう、漢とあるのはたいていは百済系のことである。 当地のような水陸交通の要地は渡来人たちで開発された歴史があると当社は記録しているのかも知れない。アマツというくらいだから、元々は海人系の人達がいたと思われるが、のちに渡来人たちが開発したのであろうか、そうした人達の神社かと思われる。。
大谷山大ゴク寺古跡
《交通》 《産業》 下天津の主な歴史記録
下天津の小字一覧下天津(シモアマヅ) 赤土ケ端 油田 稲ケ谷 上ノ段 大田 大畑 大登畑 岡ノ木 金谷口 キツネ畑 キツネ塚 小又 桜木 桜ノ下 才谷 才ノ木 界川 三角 白サコ 芝添 十五 十九 セキガキ 高シヲラ 大ナル 丁畑ケ ツゝラ谷 天神前 天王口 出口 中添 中シマ 長畑 投コシ ナタノ 庭谷口 盗入口 ヌダ 八ケ坪 バシヨメ 平ツカイ ビロク谷 町田 丸の岩サイ 宮ノ前 道バタ 道成田 向田 山田 ハエ 渡り石 丁田 渡り瀬 大谷 大畑 大ナル 稲ケ谷 才谷 堺川 白岶 ツゝラ谷 長畑 庭谷 ムクガ谷 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹波志』 『天田郡志資料』 『福知山市史』各巻 その他たくさん |
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