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下柳(しもやなぎ)
京都府福知山市下柳


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京都府福知山市下柳

京都府天田郡福知山町下柳

下柳の概要




《下柳の概要》

由良川堤防下の京街道に沿う両側町で、広小路から「治水記念館」があるあたりまで。写真の右側の家屋裏は堤防になっている。ニ階の床面より高いくらいの堤防である。
下柳(福知山市)

近世には由良川の川底が低く、堤防も幅が広かったため、土手の上にも川に面して家並があったという。今はそんなに広くはないし、ここに家を建てたり物を置くことは水防上からも厳禁されている。
由良川堤防(下柳附近)
当町南端が広小路(古くは下魚屋町通)で、その東詰に船着場の下船渡口があり、上柳町とともに物資の集散、経済活動の最も盛んな所であった。そのため問屋・旅館・料理屋が多く、船頭・水主・商人が集住した。、とくに夏の納涼に土手上の町は賑い、明治12年には公認の遊郭が設置されたという。(のち明治29年の大洪水などにより対岸の猪崎に移転した)。
朽木氏時代には上柳町とともに諸役を免許される代りに、藩の命令を伝える歩き役を課せられていた。元治元年(1864)の蛤御門の変には、下柳町に対し急配符配達の佳人足15人が徴集されたという。


下柳町は、江戸期~明治22年の町名。明治初年~22年は福知山を冠称。江戸期は福知山城下15か町の1つ。
有馬豊氏時代および稲葉紀通時代の両絵図では上柳町・下柳町の別は見えず両町域を合わせて柳町と記されている。江戸中期頃に両町に分かれたという。両町は広小路で分けられ、その東端には由良川の船着場・下船戸が設けられていた。由良川水運などを利用して物資が集積されるため、問屋が多く商人のほか船頭・水主なども集まり、旅籠・料理屋もありにぎわいをみせていたという。
近世期の由良川は現在より川底が低く堤防も低くて幅が広かったため、土手上に家並みが川に面して形成されていた。特に夏の納涼にこの土手上の町はにぎわったという。
今もそうで、というか、そうだったというのか、花火や灯籠流しなどで賑わい、北近畿最大といわれてきたが、花火大会で事故が発生(H25・8・15)し、それ以後は花火については中止されたままになっている。

花火事故があったのはこのあたりであった↑今は近くに↑「花火地蔵」が祀られている。事故は人知を越えて発生する、事故なんか起こしません、ゼッタイに安全です、などは「原発ムラ」だけのネゴトでしかない。

明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年福知山町の大字となる。
下柳は、明治22年~現在の大字名。はじめ福知山町、昭和12年からは福知山市の大字。

《下柳の人口・世帯数》 53・23


《主な社寺など》
福知山治水記念館
福知山治水記念館(下柳)
すぐ後に堤防が見えるが、あれを水が越すとニ階でも半分は浸かる。ニ階の屋根裏まで逃げないとヤバイ。
福知山治水記念館
福知山の歴史は頻繁に起こる水害の歴史のような所があるが、2004年の台風23号水害を機に、水害との闘いの歴史を語り継ぐ施設として2005年に誕生したという。
この日は休館日であった(; ;)。
記念館になっている家屋は明治10年代に建てられたものだそうで、屋根裏には水害時の避難場所となる大きな空間を設け、非難時の荷揚げ用滑車など、水害に対する備えが工夫されているという。福知山の町家を象徴する歴史的価値の高い建物で、明治から大正・昭和にかけての商家のたたずまいが残されたものという。
水や火については人間はこのように古くから防災の備えをしてきたが、原発や放射能には何も備えがない。堤防が破れることはないというメデタイさのままである。
治水記念館


水天宮・稲荷神社
水天宮・稲荷神社(下柳)
音無瀬橋への登り口の堤防に鎮座。
昭和15年の祈念碑が脇にあって、それによれば、稲荷神社は古くから下柳堤防上に鎮座あったそう、水天宮も水難除守護神として鞍山守護神として下柳堤防上に鎮座あったという。明治29・40年の大水害に社殿荒廃した時、現社域を神域として神殿鳥居などを建築し合祀したという。その後昭和7年の音無瀬橋の架替えや道路改築に当り神殿の新築、昭和12年市制記念として上屋を築造したという。


《交通》


《産業》


《姓氏》


下柳の主な歴史記録


明治29年・40年の洪水
『福知山市史』
明治二十九年の水害
これから述べようとする二大洪水の一つは、明治二十九年(一八九六)八月三十一日夜から九月一日にかけてのもの、今一つは四十年(一九〇七)八月二十六日のものである。二回とも堤防の決潰、音無瀬橋の流失、その上多数の死傷者を出した。
 芦田恵之助の「丙申水害実況」と
 福知山町役場の「福知山水害概要」
 明治二十九年の水害については、翌三十年六月完稿した芦田恵之助の「丙申水害実況」二五三頁が、惇明校に保存されている。芦田恵之助は当時惇明校の訓導で、後、朝鮮総督府、南洋庁、東京高等師範学校付属小学校等で、国語教育の研究と指導に当たり、ことに綴方教育では全国的な指導者と目された。岩波新書、久野収・鶴見俊輔共著『現代日本の思想』の中でも、日本のプラグマティズムの先駆的展開としての生活綴方運動の源流と讃えられている。「丙申水害実況」は漢語を多くまじえた文語文で、毛筆を用いて詳細に叙述されているが、単なる実況報告ではなく、論評も述べ、情感をこめ、後世の教育に役立てようとした愛郷の精神が読者の心をうつ。なお町役場より当時の状況を郡役所へ報告したものが、「福知山洪水概要」としてまとめられている。この二つの資料に基づき、明治二十九年水害の状況を報告する。
 これより三十年前慶応二年八月七日、京口堤防がこわれ、京口門が流れ、広小路でも決潰し、茶屋作や黒庄が御霊神社前(今の紺屋町角)まで押し流され、土砂は船興治の家を埋めるばかりであった。鋳物師町・寺町・西町は、階上一メートルも浸水し、死者二名・潰家五軒であった。これを寅年の水害として、その惨状を語り伝えてはいたが、その後の役人は頻繁に交代し、政治・社会の急激な変転に目を奪われ、次々に指示される事務に忙殺されていたのであろう。藩政時代のようなきめ細かい堤防保護の観念は失われ、水害への対策を怠っていた。その油断をついたのが二十九年の洪水である。
 二十九年の洪水は水位七・八八メートルというから、寅年の水位と大差はなかった(ただし、三日の「日出新聞」は堤防上の家でさえ、床上の五尺余に達したと報じている)が、その被害は比較にならない程甚大であった。堤防は蛇ケ端口すなわち朝暉口・常照寺裏・京口上番所より広小路に及び、一二七メートルが決潰、死者二〇〇名、家屋の破壊・傾斜合わせて五六三の大惨事をもたらした。家屋については、町役場・中部高等小学校・連隊区司令部・収税署を含めて家産・土蔵・納屋の流失一八三、同全壊は一八八で、音無瀬橋も流失した。この年以前の町全体の人口、戸数は不明であるが、翌明治三十年の人口は五三七六人、戸数は一〇〇四戸であり、また慶応四年九月三日沢次郎が認めた記録によると、十五町(京・呉服・東長・西長・上新・下新・上柳・下柳・寺・上紺星・下紺屋・鍛冶・菱屋・鋳物師・西)の人口は、三五一一人、旧藩地(岡ノ・裏ノ・中ノ)は不明であるが、明治二年の調べでは士卒族家族共一四五四人であるから、町の人口は五〇〇〇人足らずであったと思う。ただし上記被害について、嵐光澂氏は後の知恩院門跡、時の法鷲寺住職岩井智海の「法鷲寺再建趣旨文」により、次のような数字を紹介している。流されたが助かった人二五七名・負傷者二七八名・流失家屋一一四戸・全壊家屋九四戸・半壊家屋一〇一戸・家屋で少しでも破壊されたもの四五二戸・傾斜した家屋一一二戸・二階まで浸水したもの四四五戸・堤防決潰九カ所である。
 八月三十日はいわゆる二百十日に当たり、人々はそれとなく天候に気遣いはしていたが、午前中は雨が降っただけであった。しかし東北からの雲の動きが速くなり、正午ごろからは風雨がつのり、夕方には道路の歩行も困難なほどの激しさになった。暴風は屋根をとほし、家を倒すほどであった(九月三日の「日出新聞」には恵之助とは少し異る書き方で「三十日午前三時頃より大風雨うちつづき、三十一日午前二時すぎ土師川増水の報あり、片づけに専心した」とある)。そのころ突然、綾部警察署から「水枕要心」との電報が入ったが、何のことかわからない。洪水の警報も全町へは伝わらず、はじめ人々は防風雨のことにのみ専念していた。しかし日暮から一そう豪雨となり、夜の九時・十時頃の激しさは、いまだ誰も経験したことがない程であった。
 以下の記述は上長町付近での経験をもとにしたものと思われる。当地では、つねに和久市方面から逐次浸水してくるのであるが、この猛雨に出水の迅速をおもんばかって、急ぎ取り片付けをはじめた。ところが、翌九月一日午前二時すぎ、案に違い、水はにわかに上手から、早瀬のように流れ来り、次第に淀み、一時間程の間に二階まで達し、街路はまるで川の中の如く水音すさまじく、浸水の様子が常と異る。昼間取り片付けの疲れで熟睡、気づいた時には、すでに畳が浮きかかっていたという人も多かった。浸水階上六十センチになった頃、あちこちで、助けを求める悲鳴や船を呼ぶ叫び声が聞えてきた。四時半頃、屋上に上った時は惇明校(内記二丁目東長の筋と、内記三丁目上新町の筋、京町との間、堀を隔てて建っていた)南方一面は川となり、今の市役所のところにあった連隊区司令部も中部高等小学校もすでに流出していた。ただ収税署(鍛冶町筋と内記通の交叉点西側にあった)と元藩医有馬氏の土蔵(元井上眼科医院の位置)が激流の中に危く立っているだけで、西方の桑畑は一面の海のように見えた。
 このころ芳賀日出新聞通信員は、すべらないように屋根にふとんを敷き通路とし、便所の屋根に雨戸で橋をかけ、隣の蔵の屋根に難をさけていたが、士族屋敷の藁屋に五、六人乗ったまま流れて行くのを、どうすることもできなかった。十時頃をピークにようやく減水しはじめた。同時に倒壊する家が多く、屋上にいた人々の悲鳴があちらこちらにきこえ、水煙・土煙がたちこめ、まことにものすごい有様であったと報じている。午後四時頃になって、水はようやく腰程になり、着物の裾をからげて通行する人もおいおい増えていった。命びろいをした人々も、家の中は家財道具が散乱し、その上十五センチ以上の泥がつもり、薪はいうまでもなく、石をおいてあった漬物桶までも流れ、飯びつも、味噌も塩もない、井戸も使えず、火をおこすこともできないので、衣服を乾すことも、明りをつけることもできない。そのうち近郷の親類縁者から握飯と炭・薪・茶・水・塩・ろうそくなどを恵まれ、夕食をすますことのできた人もあった。しかし、これらの人々も、雨戸のしめったのを倒して寝床とし、ひとえものをまとい、昨夜来の疲れをいやそうとするが、こういう中でも蚊はどこからともなくやってきて、顔や手足にまといつく。昼間の惨状が目に浮かび、昨夜の恐ろしかった様子が思い起こされて、なかなか眠りつけない。
 漂流してきた木材や家具がそこここに山をなし、惨状目を覆わんばかりであった。翌日もまだ通行は困難である。付近の家がほとんど流失したので、視界を遮るものがなく、流れ残った蛇ケ端の家が渕を隔ててではあるが、大変近く見えるようになった。あちこちに莚で覆った死体が数えきれないほど多く横たわっている。後に、数十間の穴を掘り、番号を付した石炭箱に入れて仮葬した。
 広小路の堤防も決潰したため、西町から寺町あたりの泥の深さは膝を没する程であり、泥の中には釘の出た板やかすがい等危険物も埋れているため、足をふみ入れて負傷する人も多かった。西町の被害はことに甚しく、その西の桑畑には死体が半ば泥に埋っているものも多く、遺体を探して行き交う遺族達の姿はまことにこの世のものとは思えない。泥にまみれているので、死体の顔の見別けも難しく、水を器に入れて持ち歩き、死者の顔に少しずつ水を注いで、遺体を探しもとめている人もあった。親戚に身を寄せようとしてか、一家つれだち荷物を持って行く人々の中には、老父や、老母を背負う者もあり、乳児を抱き、幼児の手を引く者もあり、材木の山を乗り越えたり、迂回したりしながら、親のあとを追う子供あり、その後姿は本当にあわれであった。
 惇明校の惨状
 惇明小学校の生徒で水死した者は十八名であった。その中、三年生高橋泰三と一年生貫一は兄弟で、内記町に住んでいたが、三十一日未明、朝暉山下の堤防がきれるとまもなく、近所の家々はほとんど倒壊、父は二女を、母は二男をともない、急いで逃げようとしたその時、この家もたちまち倒壊、家族は互いに見失ってしまった。父は濁流に浮きつ沈みつ、ようやくある屋根に辿りついた。その後、惇明校北側に、泰三は母に抱かれ、貫一は背負われたまま、死体となって発見されたが、泰三をしっかり握りしめた母の手は容易に解きほぐすことが出来ず、見る人々の悲しみを一層そそった。
 準訓導森準輔の家も内記町にあったが、堤防を突き破った怒涛の直撃にあって、たちまち押し流され、その遺体は、彼の担当する惇明校一年生の教室内で発見され、まことに奇しく憐れであった。このほかにも、校内に漂着した遺体は三体あり、板戸のすきまから、蒼白い足が出ていたり、倒れた材木におしつぶされた人の鮮血が泥を染めていたりして、まことに無惨であった。校舎かたわらの松の梢から女の帯が長く垂れ下っているのも、大変いたいたしく見えた。学校の北側の蓮池には、倒れた家屋の屋根が折り重なり、家具・建具・夜具・衣類等がたくさん流れ込み、付近には男女の死体が半ば泥に埋って散見された。水ぶくれして、臭気を放つのを、警官と人夫が腰までつかりながら、捜索引揚げに努めていた。校舎については、倉庫と講堂及び北教場が流失を免れたので、京町・上新町・鍛治町・西裏ノ等は水勢をはばまれて、内記のような惨状には至らなかった。
 惇明校教員の救援活動
 休校十七日間の後、授業は再開された。その間中島弟三郎をはじめ九人の教員は校内の復旧、授業再開準備につとめた。そのためには外部からの援助が必要であるが、現今のように救恤のための国家体制はほとんど整っていなかったようである。訓導の芦田恵之助と公手益謙は、口丹波・京都・宇治方面の教員や生徒に福知山の窮状を訴え、援助を乞うために、九月十三日の正午当地を出発した。須知・園部では、四校で報告会を催し、十四日午後十時京都へ倒着、旅の疲れをいやす間もなく、翌十五日早朝から、中川惇風校長・府教育会の根本理事・慈善事業家青森梅子・元福知山藩の要人で当時府庁の役人であった平田八郎らを訪ねている。また、この時すでに、天田郡出身の人々は義捐金募集の活動を始めているということを、塩見信次郎から聞いて勇気付けられた。翌十六日も府教育会の理事や郷土出身校長・吏員・担当視学・日出新聞社等を歴訪しその協力を得、十七日からは直接各小学校・師範学校・教育会・市会等を訪ね、場所によっては、幻灯を用いて被災の実況を報告した。十月三日までに、愛宕郡と宇治を含めて、数カ所で報告会を催している。九月二十六日公手は福知山からの帰任の命令に従ったが、芦田は引きつづき、大阪・堺方面まで足を延ばした。しかしこの方面では行政管轄を異にするため、ほとんど協力を得られず、十月八日福知山へ帰った。そのころ当地には、まだ汽車は通じておらず、途中少しは人力車を用い多くは徒歩で、菟原からは黄昏時馬車に乗り、九時すぎに京口に着いた。
 中部高等小学校長家の受難
中部高等小学校々長吉田五郎の宅は、岡の高台にあった。夜来の大雨に午前二時頃、篠山鳳鳴義塾に学ぶ長男で十四歳になる剛という少年を伴ない、奉職校を見に行った。学校は今の市役所の場所にあり、その時まだ無事であった。当町の浸水は堤防下手の和久市方面から迂回して、徐々にやってくることを知っていた彼は、一たん河水測定標を見に立ち寄り、なお浸水までには数時間の予裕があると判断し、同僚の家を訪ねて手伝おうと、京口まで行ったところが、堤防の切れ口から流出する水がももまで達し、木材を押し流しているので、道を横切ることが出来ず、元の方角へ引き返した。ところがちょうど、学校の横手まで来た時、朝暉山下の堤防が切れ、奔流に乗って材木が流下し、父子を隔ててしまった。「早くこい。」「もう行けぬ。」「おとうさん。お父さん。」「今助けてやる。」「お父さん。あぶない。来んといて。私は気遣いない。あぶない。早う浅い方へ行きな。」と父子は叫び交わしながら、激流と流木に挑んで格闘したが、ついに二人は押し流されて、遠く隔ってしまった。さいわい、剛は桐村義堯医院の病室の屋根についた。息子が助かったのを望見した父は、一応安堵したが、そこへ近づくことは出来ない。息子の無事をひたすら念じながら、学校へ行き、勅語騰本を捧げ持ち出そうとしたが、押し流されて、唱歌室にたどりつき、桐村医院の方を見た。ところが、あわれその時、その病院も息子の影も消え失せていた(この時桐村医院では患者十三人と家族全員流亡している)。胸はり裂けんばかりの悲しみに襲われ、じっとそれをこらえていた矢先、北校舎が轟音とともに崩壊し、再び激流の中へ身を投じた。さいわい、流れる藁屋根に辿りつき、漂流するうちに、柿の木につかまってよじ登り、午後二時ようやく救助された。一方剛は流れる桐村医院の病室から村上丑太郎の土蔵に辿りつき、さらに旧藩医有馬家(前の井上眼科医院の付近)の屋根からその土蔵の屋根にとび移り、午後三時ごろ救われた。僥倖にも父子は再会に恵まれ、家内一同の喜びはどれほどであったろうか。
 有馬家と連隊区司令部の受難
 旧藩医有馬氏の藁屋は、一家十余人を乗せたまま安井で福知橋の流れたのにひっかかり助けられた。不思議なことと人々は語り合った。連隊区司令部当直の鈴木氏ほか一名は、軍人勅諭を頭に戴いて棟瓦にまたがっていたが、朝暉口堤防決壊とともに拍手をして天皇陛下万歳を叫んで水中に身を投じ、抜手を切って二人とも無事助かった。
 にわか雨の被害
 浸水によって、町民は夜は湿った床の上に莚をのべ、あるいは送られて来た藁をしき、昼は時に脛まで没する泥の中へもはいり、毎日掃除と取り片付けばかり、衣服や家具を干していると、またしてもにわか雨やしとしと雨が襲ってきて、十数日間は湿ったものを干し、干した物がまた湿る等、心の晴れるはこともなかった。
 堤防決潰によって生じた新しい河原及び、音無瀬川の河原には、多くの婦人が衣類をすすぎ、ふとんの綿、千切れ千切れの衣服、生糸・屑まゆ、行李、小単司までも一面にならべ、まるで屑屋の籠をぶちあけたようであった。色あせていたんだ晴着をみて歎息しつつ涙ぐんでいる人もあった。九月四日はよく晴れ、とり広げた衣類も乾き、着る物だけはとにかく片づけられるであろうと、人々は喜び合っていたが、午後二時二十五分に突然の夕立、人々は右往左往、必死に取り入れを急ぎ、中には屋根から転がり落ちる者もあり、衣煩を間違えて罵り合う者もあり、さながら一大修羅場であった。この雨でぬかるみは一そうひどくなり、かねて傾いていた家屋七戸が倒壊した。
 七日も朝来雨ふり、午後二時頃から増水、四時頃より市街の七分通りが床下を浸される。笹尾方面では一戸に多きは二五〇人、少きも十人の避難者があった。
 医療活動
 町内には三人の医者があったが、桐村氏は水死し、有馬氏は家を失い、中川氏の薬は全部水浸しになっていた。九月二日か三日のことであるが、氷上郡佐治町の医師菊池敏樹はいちはやく薬品を携えて、郡役所を訪れ、無料診療を申し出た。午後二時より警察で診療を始めたが、夕方近くまでに四十人が受診した。そのほとんどがあと片づけ、あるいは通行中の負傷であった。四日になって赤十字社より辻村郁太郎ほか一名の医員が出張し、警察署と駆黴院において無料診療施薬をはじめた。切開手術を施されて苦痛を叫ぶもの、白い包帯をして、杖にすがり行く者の往来はあたかも野戦病院のようであった。八日までにここで治療を受けた者は四百余名で、うち三分の一が軽い切傷であった。
 心配された流行病については、六日までに赤痢二二名・チフス五名・疑似コレラ一名と報ぜられている。
 死体収容と罹災者救済
 一五〇〇戸の全町が一時に水没したわけであるから、たちまち食物にこまり、町役場と郡役所と御霊神社の三カ所で、毎日七、八石の握り飯を炊き出し、九月一日から十五日までに六十六石余を施与した。鉢・ひっ・重はこを持った受給者の群は、乱れ髪をわずかに藁で結ぶものあり、シャツ一枚をきて股をあらわにした男もあり、いずれも膝より下は泥まみれ、先を争って飯をもらう様は目もあてられなかった。
 九日、日出新聞の報ずるところによると、その日は玄米の半にえ、時々籾や砂も混り、梅干も塩もなく、茶も自由ではなかった。それでも近村のあまり被害のないところの貧困者で、おしよせてくるものがあったので、役場で切符を出して整理するといった有様であった。また寄留手続きのない被災者の取扱いにも苦慮したようである。受給者は三一〇〇余人であった。近郷の知己・親戚も当面の必需品を運んだ。泥につかった梅干を濁水ですすいでそえた握り飯に涙を流している人もあった。そして困窮して入水する者が続々あった。
 一方後片付は困難をきわめた。その中でも死体の収容は急がねばならなかった。二日になって郡役所では人夫を八十人増し三百人とし、収容作業を三日のうちに終る計画を立てたが、すでに腐爛して目もあてられないものが多かった。人夫は一日五十銭以上、一円五十銭を要求する者もあり、役所は人夫不足に窮し五十銭以上を請求する者ある時は、その筋へ申出るべき旨通達した。後には日々千人を雇い入れ、地域を分担させてようやく能率をあげることができた。家を失って行き場のない人を収容する場所としては、すべての寺院が浸水または傾斜している中で、わずかに久昌寺だけが罹災者を受け容れることができた。そのほか警察署と郡役所の二階を使用し、また蛇ケ端に急造のバラックを建てた。その数日後旧裁判所跡にさらに一棟のバラックをつくり、百余人を収容した。
 ただし五日の新聞では避難者を郡役所一〇〇、警察一五〇、久昌寺三五〇、城跡一〇〇、寺町二〇、広小路一〇〇、河原七〇、計八九〇と報じている。
 法驚寺住職岩井智海は、九月二十二日における救助小屋避難者人名を調査し、二七戸、一〇四名を確認し翌二十三日この一〇四名を救助小屋南北二棟の中央に集め、慰問講話を行っている。その後十月七日には、この救助小屋は取り払われ、避難者は各所に分散した。
 十月二日鍛冶町有志による水死者四十一名の法要に際し、法話を行い、成徳寺住職とはかって、各寺院協同大追弔会を催した。中でも、うちひしがれた人々の心を励ましてくれたのは、近郷からの温い援助と幾多篤志家の救恤活動であった。同情の金品もぼつぼつとどき、町並の取り片付けは一カ月ほどでほぼ終った。
 明治二十六年一月設立された天田郡教育会は会員わずか二十余名にすぎなかったが、手わけして救助の品を募集し、罹災の教員や生徒に配布した。中でも後に淑徳女学校を設立した人で、当時細見尋常小学校に勤めていた山口架之助は会の幹事として、数里の遠くまで奔走し、草鞋・マッチ・白米等多少をとわず寄付を募って、窮民に配布した。勿論、当時自転車一台あったわけではない。徒歩で毎日精励する姿は世人敬慕の的であった。
 字室の西山某はたくさんの握飯を背負い町中を歩いて、困っている人々に与えてまわった。柳島郡長は朝暉口堤決壊前に家を出、水に隔てられて帰ることができず、留守中家族は家にとじこめられて、屋根へ上ることが出来ず困窮していたところ、どこからともなく一人の男が来て、屋根に穴をあけて救った。その人は名をつげずに立ち去ったが、多分この室の人であったろうと日出新聞は報じている。
 前述のごとく、芦田恵之助が京都から大阪へまわって惨状を訴えようとした時、ここでは行政管轄が違うためか、知己がなかったためか、ほとんど協力を得られなかった。ところが大阪北久宝寺町上原医院の調剤師に一苦学生があり、九州の人であった。父母の反対をおし切って上阪、上原氏の食客となっていた。大変実直な人で、主人からも愛され、月に一円五十銭を支給されていた。うち一円を私塾への月謝、残り五十銭で筆墨・湯銭・郵税等をまかなっていた。その中から二十銭を出して、「不幸な児童に与えてほしい、貧者の一灯ですが」と差し出す顔面に赤誠がこもっていた。恵之助は感動を以て、その模様を伝えている。
 下川口村牧永明寺の住職河口俊韜は、町民の入浴できないことを気の毒に思い、紺屋町・長町の二つの風呂屋を掃除させ、二日間の洗湯を給した。下豊富婦人会は修斉尋常小学校長奥田孝雄のすすめにより、九月二日から二日間郡役所と御霊神社で味噌汁を施与した。竹田村下竹田の吉田保太郎は洪水の翌日人を派遣して、多くの醤油を持ちまわらせ、一般町民に施与した。
 京都の薬商の会である盛徳会は、おびただしい薬品を寄贈配布した。大日本衛生会京都支会も重曹「コロンボ」散二万貼を寄付し、亀岡町有志は、荷車六輌に救援物資をつんでとどけ、園部町からもむしろ等の品物が多く届けられた。
 芦田恵之助がさきに上洛して救助を依頼した慈善事業家吉森梅子は、幻灯による彼の実況報告を視聴した結果、九月二十日軽装して当地にいたり、被害地や救助小屋を訪ね、親しく慰問して金品を与えた。今日のように、社会保障や救急の制度はまだ整っておらず、輸送機関もなかったので、このような慈善事業家の同情と近隣の友愛にすがる以外に罹災者を勇気づける道はなかった。ましてや罹災者が団結して、補償や救助を要求するというようなことは皆無であった。なお後日恵之助がお礼のために吉森に会った時、彼女は世人の慈善は一年一年消磨しつつあると深くなげいていたという。藤木仙蔵は避難して屋上にあった時、是非この惨状を撮影しておいて、世に訴えるべきであるとの志を堅め、洪水が引くとすぐ氷上郡の知人から写真機を借り、濁流なお腰を没する中に立って、多くの写真をとった。この写真が恵之助の実況報告に役立ち、多くの人が当地に目を注ぎ、遠方からも救いの手をさしのべてくれたのである。
 投機のため必需品が騰貴し、マッチ一箱一銭五厘乃至二銭、白米一升十八銭乃至二十銭に売り込む有様であったから府では、中井・久米・天野ら正直な商人に命じて必需品を販売させることにしたが、品物運搬途中の橋がほとんど落ちているので、運搬に日数を多く費した。十二日の新聞に、まもなく着荷するであろうが、御霊神社前に販売準備を整えていると報じている。
 窃盗横行
 人々の多くが岡や城山方面へ待避して空家になっている間に、町屋では五日までに拘引された者十五名、翌六日には二十四名が拘引された。このことが、九月十九日の日出新聞に掲載され、町民の多くが大変恥かしい思いをした。ある商人は委託された生糸を流失したと偽り、刑に処せられた。一戸流れたが、三戸分を拾い得たとの噂の高い家もあった。
 法驚寺住職岩井智海は、漂流物を隠匿して罪になる者が多いことを伝えきき、藩政時代は漂流物を拾い得ても罪にならなかったが、維新以後は、法律で禁じられているということを知らない者が多いためであるとし、佐原町長に対処を促した。町長は早速各町総代を通じて通達を発し、町民にその非を諭した。以後、警察へあるいは持主へ、直接返還するものが多かったという。
 悪徳商人
 ある山村では、かねて商売をして、小ざかしくたちまわり、利を積んでいる者があった。この機にさらに高利を得ようと、値を増して米を販売した。村人達は大いにこの悪徳を怒り、彼に村から立ち退くよう迫った。その時、一組頭が調停案を出した。すなわち以後三年間、村人としての公民権を停止し、祭礼・集会その他吉凶禍福等、村人の集る時は必ず彼を呼び出し、使丁として使役するということであった。村人一同この案に賛同、本人も先非を悔い屈服した。今であれば大変な人権侵害であるが、恵之助はこれを美談とし、漂流物隠匿を不問に付し、何の処置もしない町民を人心の腐敗と嘆いている。「これを文明といい、彼を野蛮というならば、社会は野蛮に進む方が望ましい。明治の今日、明らかに非義非道を行っていても、法にふれさえしなければ、青天白日の身とし、無罪の宣告を以て精神の潔白を証するに足ると、世人も心を許している。有罪無罪に関係なく、悪を犯したものは悪人である。人心の頻廃に対して、教育者は奮起を要する」と彼は論じている。
 救援米の供給には、府の役人も困りはて氷上郡に依頼したところ、石二十円の高値を言われる上、道路が悪いので福井県で買いつけ、敦賀から汽船で由良川をさかのぼることにした。日出新聞は「慈善に乏しき小人輩の所為こそ悪ましけれ」と報じている。しかしその後また模様が変り、係員は神戸へ出張している。
 藩制時代の警備
 明治以来、数回の洪水があったけれども、堤防の決潰は、慶応二年以来のことで、しかも朝暉口の決潰、町の主要部である内記町が全滅といったことは前代未聞である。どうしてこのような惨害を蒙ったのであろうか。
 藩政時代はつね日頃から、堤防の手人を怠らず土俵及び杭を準備し、あふれるおそれのあるときは、昼夜をとわず、風雨をいとわず、鐘や太鼓を打って、非常に報知し、仲間・足軽を召集し、奉行みずから指揮して防禦に当った。しかし廃藩以来、何らこのような用意もなく、変事を傍観していたにすぎない。
 警察の対応
 さてその際、警察はどうしていたのであろうかとの疑問が起こるので、その活動について触れる。蛇ケ端即ち朝暉口の堤防が危いとの知らせを受けた奥村警部は、非番巡査を召集し、広岡・西田同巡査を従え、蛇ケ端へ赴こうとしたが、すでに京口を越えることはできなかった。舟を求めて、上番所へ引き返したが、舟はすでに流れてしまっている。彼方薮かげに、一そうの舟があり、その中に人の叫ぶ声がする。こちらへ来いと励ましたところ、辛じて漕ぎよせることができた。この舟に乗って、明覚寺裏を上ろうとしたけれども、流れが急で進むことができない。再び京口に戻った。水が堤防を越えるので、畳などで防いだが、効果がない。仕方なく上番所へ行き、堤防上を広小路に出て、上柳町通・呉服町へと警戒してまわった。呉服町まで来た時、上手の堤防が切れたらしく、急に水が胸までになり、動けなくなった。仕方なく服を脱ぎ屋根伝いに警察署へ帰った。やがて長町の家々の火はまったく見えなくなったので、数名の巡査とともに、泳ぎまわって避難した。
 日出新聞は警官の奮闘について「彼らは帽子のみをかぶり褌に搏縄を結びつけ、屋上にあり急を見ては、泳いでこれを助け非常な働きをした。自分の服は流されてなく、上は冬服、下は夏ズボンといったあわれな姿であった」と記している。橋本署長は長く病気で来任していなかったが、水害の報に接し、九月四日はじめて当地へ来り、徹夜で諸般の事務を処理したが、まもなく退任した。
 二百十日前後、毎年警報が頻繁に出たが、この年は水害のあとでもあり、とくに警戒を強め警報あるたびに、巡査を各町へ派遣し種々の注意を加え、夜は警鐘を合図に立退くように命じたりした。ある風の吹き荒れた夜、警鐘がかすかにきこえて来た。それ洪水だと多くの人々が避難しはじめ大混雑を起こしたので、警官が出て鎮めたこともあった。実は近くの村の失火で寺の鐘が鳴ったためであった。洪水後は交通整理・死体捜索・窃盗の検挙等、警察の活動も多忙をきわめた。
 人災への反省
 蛇ケ端の薮は水防の目的で保護され、藩政時代は伐採することはなかった。薮の中には大きな榎がところどころ繁っていた。ところが、維新以来、竹を伐り、榎も漸減した。蛇ケ端には三軒の茶屋以外に新築は許されなかったが、近頃は堀を埋め、ここに建築するものがふえ、土師川が氾濫した時、これがその流路を妨げ、堤防を圧迫した。また米穀取引所の倉庫建築のため、堤防付近の土砂を取り去ったことも、決潰の一因となっている。下手の堤防に関しては、広小路から猪崎に至る仮橋も本橋にかけかえたため、橋脚に流木がかかって、水の流れを大きく妨げた。藩政時代は洪水の時、堤防に水圧をかけないため本橋をかけなかったのである。堤防上の建築は倉庫以外は許さず、窓の寸法さえ二尺以内に制限され、川岸の石垣は一本の草さえ生やすなといましめられていた。その後倉庫は遊廓に変り、石垣には草がぼうぼうと生え、人々は水防に留意しなくなった。その上、上流山林の濫伐がたたって、今回の大洪水になったものであると反省の声が高まった。恵之助上洛の節、廃藩直前、藩の要職にあり、当時府の吏員であった平田八郎に会った時、彼は新自治体の水防への無関心を憤慨していたという。
 十月四日の日出新聞によると、佐原祐一町長と大槻初蔵議員は左の請願書を携えて府へ趣くことになった。
一、土師川尻を東へつけかえること。
一、明覚寺裏に大きな石垣をつくること。
一、土手裏を取って建物をなす分、旧に復すること。
一、土手上に建設物を禁ずること。
一、京口外大路を堤防に沿い旧城山地に至るより向うへ低き道を通ずること。
一、京口建家石垣を取払うこと。
一、上船渡以南京口に至る石垣を取払い、旧に復し、薮を作ること。
一、由良川改修の事。
一、水源より水末まで、山林伐木及び山畑制限を設けられたきこと。
一、由良川改修迄年月を要するに付、至急城山際より以北鋳物師町に至る堤防平均約三尺積み上ること。
一、堤防の建物を一切取払い、内裏を厳にすること。ただし堤防貸下げを差留ること。
一、広小路表堀を芥を以て埋立あるを取除くこと。


 明治四十年の水害
 明治四十年は二十九年に次ぐ大水害であった。同年九月末、町役場から郡役所へ提出した状況報告が前述の「福知山町洪水概要」にのっているから、それに基づいて、概略を紹介する。
 八月二十四日午後から降りはじめた雨は、夜来その量を増し、二十五日午前七時水位五・二メートルとなり、鋳物師町十七戸を浸し、今のアオイ通り、当時の職人町の低いところまで浸水しはじめた。午前九時ごろには一時、雨もやみ、減水のもようを見せた。ところが午後二時、また降りはじめ、三時ごろからいわゆる盆をひっくり返したようなどしゃぶりとなり、雷をともなう大夕立となった。従来当地では、東北の風は川を逆流させるためか大洪水をひきおこすといって恐れたが、今回は南風が吹き荒れたので、洪水にはならないだろうと、やや安心していた。しかし綾部の情況を問い合わせるなどして、準備につとめ、役場では福井・藤本両書記が中心となり、重要書類のとりまとめに当り、町長大槻忠は、荻野・天野両土木委員らと堤防上の若松崖に陣取って、ここを仮事務所とした。明治二十九年、大水害の年の六月から、伏見より派遣されて、曽我井村字堀に分駐する工兵第十大隊へ柏原助役が赴き、水量二十尺(約六・四メートル)に達したなら出動してもらうように依頼した。それに対し木舟・鉄舟の準備にはしばらくの時間を要するとの返答であった。
 翌八月二十六日の午前一時になって、綾部から電報があり、水量四メートル近くになり、しかも増水の最中ということであった。そこで荻野委員は京口の上番所から、天野委員は広小路から木舟を出して全町に急を告げた。舟が新町まで回ってきた時、加寿儀楼主が大声で避難せよと叫んでいた。この時特命検閲使黒木大将が同楼に止宿中であったから、賓客の安全を考えてのことであった。たまたま明治三十年以来当地に設けられていた第二十旅団の串田副官は伝令を遣わして黒木大将の避難を図らせた。伝令の舟が警察署についた頃、水は八メートルあまりに達していた。午前四時音無瀬橋の南端が流失し、まもなく常照寺裏の堤防が一部破壊された。松丸太五・六十本と畳が水防用に準備されていたが、針金をすでに使いつくしていたので、積み重ねただけの材料は、またたく間に押し流されてしまった。仮事務所は火の始末をして、旅館堀屋の高楼に移った。ちょうどその頃工兵隊が出動し、朝暉山の東側、新切通し、連隊区司令部、岡の上り口方面を根拠として、鉄舟・木舟を回航させて全町を奔走し、人命救助に当った。
 午前四時三十分になって、上柳裏をはじめ広小路・明覚寺裏・京口の堤防が次々にくずれ、水は九メートルに達した。やがて音無瀬橋も流失し、二十九年の洪水の後堅固に修築したばかりの朝暉口も大滝の如く水が横溢したかと見るまに決潰し、またも内記町は激流に荒らされ、一帯の家々が次々に轟音とすさまじい水土煙りをともなって倒壊し、流されてしまった。京町以北は幸に残骸をとどめたが、町役場で書類かたづけに懸命であった福井・藤本書記らは、役場も安全でないと判断し、書類を要所に結びつけ、濁流中へ身を投じ、かろうじて避難したが、山本使丁はその際肋骨に重傷を負った。柏原助役は枇杷の木につかまっているところを救助船に助けられた。朝暉口をつき破った奔流は笹尾墓地下から、木村・厚方面へ流れ、流れに沿う瓦屋根はほとんど破壊され、藁葺屋根の上では救助を求める人々の悲鳴が聞こえた。
 数千の避難民は陸軍衛戊病院(現市役所南の高台)・憲兵屯所・連隊区司令部(ともに現市役所)・歩兵第二十連隊(現自衛隊)・天理教会・妙見堂・岡の民家・将校住宅・曽我井村の民家にあふれ、朝暉神社の能舞台の縁の下までも一時は避難所にあてられた。惇明小学校と中部高等小学校にも避難民が集っていたが、やがてここへも浸水してきたので、救助船で再避難をした。
 八月二十七日午前五時にはほとんど減水したが、内記は河原同様となり、京町以北は泥と古木材で埋まり、幸い家屋の流失をまぬがれた人々は、泥まみれの素衣に縄の帯といった姿で後片付けに従事した。被害総額は約五〇〇万円といわれ、水死者五名・馬の水死一匹・床上浸水一三五四戸・床下浸水三戸・流失一五一戸・全潰一二六戸・半潰四二戸・道路の流失埋没二カ所延長三十間(京口十七間・広小路十三間)・道路破損五カ所延長十七間・橋梁流失一(音無瀬橋)・田の浸水四町一反・畑の浸水二十町九反三畝・宅地浸水二十四町四反八畝・山林原野埋没浸水三反・同浸水八町三反四畝・雑地浸水七町一反七畝・石垣破損三カ所・山崩一カ所・電柱転倒一本となっている。
 京口の飛弾氏方において日に三度炊出しを行ったが、給与を受ける人の縦列は三百メートルも続いた。その後炊出場は役場前へ移した。朝暉山に給与小屋を設け、家を失った人々を収容したが、二十七日歩兵第二十連隊本部からも佐官が出張して来て、罹災者受入れの申出があった。
 八月二十八日水死した馬を埋めるため、福井書記ほ人夫八人とともに岡の新墓に向う。またこの日から御霊神社内にも炊事場を設け、給与切符を各町総代に渡し、家族を調査した上これを配布している。炊事場においては諸器具の調達に大変苦労した。翌日連隊本部より炊出釜及びかまどを九月五日迄の予定で借り出している。二十八日より警察と協議して傷病患者療養救護に着手した。広小路の舟賃が大変高くなり、人々が困っているということで、町から人夫を派遣して無料渡舟を設置した。糧米調達のため郡役所と協議して氷上方面へ人を派遣しょうとしたが、鉄道不通のため当面の間に合わず、上下豊富村へ依頼して、半ば徴発的に米を募り、とりあえず二十九日の朝食を確保することにした。下豊富へ派遣された浜名・日下部両書記吏員が、午後九時になってようやく帰り、明日正午米二石が届けられる旨報告した。上豊富からは救助米の件につき報告があったので、郡役所と協議の上、品質は下白で価格は貴地の相場、需要量は二十石、当面三石でもよいから早急に送ってほしいと回答した。またこの日警察の要請に応じ人夫六九名を三カ所に分けて派遣した。八月二十九日赤十字社救護所を中部高等小学校内に設けたが、三十一日これを惇明校内へ移転した。炊き出しは九月一日までの予定であったが、なお一週間延期し、一日一人白米三合、副食物一人一日一銭とした。なお、その後再延期し九月十四日まで実施している。
 九月一日腸チフス患者一名発生、笹尾避病院へ収容するとともに町内に湯沸所五カ所を設置し、その後五カ所を増設した。
 九月二日奈良市養老院より罹災者の老幼五十人を収容する旨の申出があったので、調査の上でお世話になると返事した。朝暉山の罹災者収容所と京町及び鍛治町でそれぞれ一名の赤痢患者が出、下柳町では疑似コレラで一名が死亡した。
 九月三日、非常の際のことであるから、何の手続もせず、応急的に炊き出しや救護小屋への収容を行っていたが、府令第八十七号罹災救助基本法施行規則第二章により、罹災者の戸籍写をつくり、同時に被害程度調査を行い等級を定めて、小屋掛料給与・被服給与・就職費給与等を支給することにした。この出願者は千百人以上で、その家族は三千五百乃至四千に達した。ところが家族は戸籍面では明らかであるが、転居している者もあるので、実際当地に在住する者の把握は大変困難であった。数年来本町に寄留して町税も負担しているにかかわらず、転寄留届を怠っている者や、罷災後他町村へ出ているため、救助出願をしていない者があり、事務の進行は意外に手まどった。
 九月五日寄贈金品分配のため、各町総代を召集したが、不揃いであったため十日に再度召集、その後二十日迄ほとんど毎日総代を集めてこれを分配している。一般電話が開設されるのは四十一年からであるが、九月六日に工兵隊によって役場用の電話線が架設された。この日大森知事が被害状況を視察する。さきに八月三十日塵介とり捨場については警察署と協議し、京口と木村口と鋳物師町の金此羅裏の三カ所とした。街路とり片づけは町の請負工事とすることについて、九月四日土木委員会を開き、雀部・天野・荻野・片岡四委員とともに汚物取除方針を協議した。さらに九月七日府の中道属、武盛警察署長、山口郡書記らが町役場にて、汚物取除及び井戸さらいの件を打合せている。
 九月九日午前一時豪雨雷鳴をともない、暴風も吹き荒れ、急造の仮小屋の屋根を吹きとばし、一時は数十人が学校へ避難した。午前四時頃朝暉山に悲鳴がきこえたと思うと救助小屋の一部が破壊され、負傷者が出るしまつであった。大変な混雑を犯して、罹災者一同を一時岡ノ下の女学校へ収容した。さらに雷鳴は激しさを加え、木村の足立氏宅に落雷したが火災には至らなかった。この豪雨で数十戸は再度浸水し、午後四時には水位四・二十メートルを記録、綾部から「いよいよ増水」の電報を受け取り大いに心配した。町民の岡・曽我井方面へ避難する者も多かった。午後九時ごろ、雨が小やみになったので、ようやく安堵した。二十九年の洪水の時もちょうど十日目に二度目の出水があったので、今度もかと恐れたが、取越苦労で終ったのはまことに幸であった。
しかし中河原や堤防下に干してあった家具汁器等は一切流失した。この二日間の豪雨のため、はかどっていた後片付けも五日分位は後退した観があった。後片付けの人夫の払底に苦しんだ。他地方でも水害処理のため、多くの人夫を要したが、町なかの作業は汚物に接し、他地方よりも苦しい仕事が多かったので、一六〇人の人夫しか集まらなかった。その上赤痢・コレラ等が流行したため、近辺の村では福知山への出稼を禁止した。そのため人夫賃はますます値上りし、後片付は進まなかった。
 九月十二日土木委員会を開き、二人の請負人に対し、汚物取除きについて厳談した。九月二十日赤十字救護班引揚げ、水害の善後策に関する町会を開く。この頃になってようやく一応の区切りとみることができる。
 今回の洪水においては、流域の山くずれが多く、本流流域だけでも千数百カ所に及んだ。また土師川の水量が意外に多かったことが特徴であった。しかし二十九年の惨害にこりて多少の準備もあり、ことに工兵隊の活躍がめざましかった。水死者が少なかったのはそのためである。


福知山俘虜収容所
『福知山市史』
福知山停虜収容所
 はじめに
 日露戦争中、松山をはじめ日本国内二十九カ所に設けられたロシア兵俘虜収容所が収容した数は、戦争終結までに延七万二千四百名に達した。福知山収容所は明治三十七年九月、松山、丸亀、姫路についで第四番目に開設されている。
 八月末日から福知山歩兵第二十連隊内に収容施設を設け、収容所委員長梅崎信畳騎兵中佐、委員、通訳一行が、九月八日姫路から福知山へ赴任した。天田郡郡長は特に「俘虜に暴行を加うることのなきよう」にとの内訓を各町村へ発した。
 九月二十四日早朝、金州丸を撃沈したヴラヂヴオストーク艦隊の水兵十三名(内下士官三名)が神戸から阪鶴鉄道で送られてきた。午後一時二十二分福知山南口駅に着いた一行は裂衣破帽のまま愁然としており、二人は裸足のままであった。数千人の人々が見物に押かけ、府警察から出張した篠田警務課長以下が取締りに当った。着剣した三十六名の護衛兵に守られた一行は一時五十分兵営に到着し、以後七カ月の間に十六回にわたって収容された俘虜は千百名(内下士官百五十一名)に達し、ことごとく兵舎内に収容された。ちなみに当時の福知山の人口は六千二百人にすぎない。
 明治三十八年三月最後の俘虜二百八十五名が松山から転送されてきた。当初から俘虜の待遇には極力気を遣い、居室も入営中の日本兵以上の広さを確保してきたが、追々応召兵や補充兵の出入も頻繁になり、居住区にも無理を生じ、もし時節柄伝染病でも発生すれば、国家の名誉にもかかわると心配して、俘虜全員の下総国習志野移管が決定された。これを聞き知った福知山の有力者や有志は、即刻協議し、左の嘆願書を当局に提出して、その存続を懇願した。
      欺願書
   日露開戦以来我皇軍連戦連勝ノ結果トシテ俘虜ノ数夥シク、為ニ各地ニ之ガ収容所ヲ設置セラレ、既ニ当地ニ於テモ兵営内ニ併置相成候ニ就テハ、此僻偏ナル福知山ノ名ハ普ク全世界ニ紹介セラルルノ幸運ニ遭遇シ、町民一同感謝スル処ニ御座候。然ルニ戦局ノ発展伴ヒ益俘虜ノ数ヲ増加致シ侯ニ就テハ自然収容所ハ狭隘ヲ告クルニ至リシト、衛生ノ関係上ヨリ、目下他ヘ移転ノ計画中ナル趣灰カニ拝承仕リ、住民一同驚愕仕候。以上ノ巷説ニシテ事実ニ候得ハ、本町ハ復挽回スベカラザル不幸ニ沈淪スル次第ニ御座候間、此際本町ハ土地高燥大気ノ流通頗ル良好ニシテ、水質佳良眺望亦絶佳ナル広闊ノ土地モ有之候間、何卒御設置被成下僕様、特別ノ御詮議ヲ奉蒙度此段謹テ奉願候也。
   明治三十八年四月十九日
町長代理助役名
    留守第十師団長宛

 ところが既に事は決定済みであり、この願は当初容易に聞届けられず、町民も半ば諦め気味であったところ、その後事情が変り、多人数を数百里の遠隔地に移す苦労や失費のことや、町民の熱意も考慮して、師団から調査官も来福して、受入れ寺院等の調査や松村組による長田野収容所建設計画等について種々検討が加えられたが、その後も荏苒日を送り、稍熱意もさめかけた六月に入り四百三名を限り福知山に残留許可の運びになった。
 六月二十日午前九時福知山発列車で七百名の俘虜は名古屋へ送られていったが、発車前残留の俘虜達は別れを惜しんで、別離の譜を奏し、車中の俘虜達は車中から手を挙げて、「サヨナラ」「サヨナラ」と叫んだという。
 これより先六月九日第一回収容所準備委員会が開かれ、協議を重ね、常照寺・久昌寺・法鷲寺及び私立江蘭女学校の四カ所を収容所と仮定し、六月十日各寺院住職及び関係者を召集して説得したが、快諾するものもあれば、難色を示すもあり、議論百出、一時は絶望の気配も生じ委員一同は苦辛惨憺するところもあった。町総代、寺院檀徒総代等の有力者も加わり徹夜して議論を尽し、ようやく承諾を得た。六月十三日福知山町長は第十師団経理部長と収容所設置に関する契約書を交し、これに基づいて、六月十六日収容所引受けの三寺院及び江蘭女学校と町長間にも契約書を作成交換し、即刻収容所施設工事に着手した。尤も江蘭女学校は、天田郡立女学校が入る予定になっていた旧中部高等小学校校舎へ一時移転することになった。六月二十七日工事の終了を待って残留俘虜四百三名は第二十連隊の兵営から新収容所へ移転した。
 収容所事務室は久昌寺に、衛兵所及び憲兵分遣所には常照寺借屋を当て一応の体裁は整ったが、奸商の類が不良の品を高価に販売して俘虜を苦しめ且町の名声を落すのを防止するため、俘虜向酒保の設置を福知山町より願出て許可をとり、大辻万吉にこれを請負わせ、俘虜一同の感謝と好評を得た。
 同年八月十五、十六の両日俘虜の慰問のため来福した姫路市ハリストス正教会の森田司祭の報告によれば「収容所は近来至って静寧無事にして健康を害する者も少く、寺院境内狭少につき、係官の注意に依って外出運動せしめられ、夕食後にすら外出運動に出されるやにて、皆喜び居りぬ」とある。
 ロシア俘虜の食費は一日当り将校六十銭、兵卒二十三銭で、これに対してロシアの某中佐は不平を洩しているが、同じ時期わずかであったが日本兵俘虜は一日当りの食費は九銭、八銭、六銭というロシアの惨な待遇に甘んじていた。これを見ても貧しい日本が、いかに世界の優等生でありたいと相当の無理をしていたことが判る。
 南山で負傷して後に留守第十師団(姫路)の参謀に転じた小原正恒大佐の自叙伝に「俘虜の取扱いは従来に例なきに依り、注意して給与に不自由なからしめ、以て充分の慰安を与えたり。而して彼等の自弁は努めて節約せしめたり。故に俘虜も亦大いにその徳を感ぜしものの如し、元来ロシア人は性質純朴にして無邪気なるも怠慢不潔にして、掃除を怠り、洗濯を嫌う。故に食後の運動の外は、おおむね室内に安座して何事もなさず、いわゆる小人閑居して不善をなすの譬に洩れず、或は逃亡を謀り、或は勝手な要求をなし、許さざれば不平を鳴らす。俘虜達は衣服、食物ともに粗悪なり、貴下達は我等俘虜のため幾何の金を費さるるも、平和の後我国より支払うものなれば、毫も貴国の損害にあらずと、へりくつを以て強請しては収容所長を苦しめたり。所長は常に日本将兵の衣食を示して、その質素なると比較せしめ、訓戒した結果漸く納得せり。又純粋のスラブ人と他の人種は犬猿ただならぬ間柄なれば、ややもすれば喧嘩闘争をなし、その甚しきものを福知山騒動となす」と述べている。
 昭和六十年八月、三田市の旧家で発見された福知山収容所の記録「下士官ペー・ペー・ゼーの手記」がある。明治三十八年五月八目起筆の本手記は、軍歴五年旅順港勤務の電信手の筆者が、九カ月の福知山収容所の生活を通じての手記である。この手記の中で彼は強い影響力をもつ将校が一人もいない環境で素顔を見せた民衆(兵士)の無智蒙昧ぶりを批判し、一方ロシアの支配階級に対する強い憤懣と非難を述べている。
 「日本人は、この民衆(兵士)の無知に全く驚いた。最初日本人は俘虜を人間的に扱い、ヨーロッパの民衆のように教育があると思っていたが、やがてロシア兵はどんなヨーロッパ人であるかを知るところとなり、俘虜に対する人道性は次第に姿を消した」、筆者は日本人のロシア人を扱う際の忍耐力に驚く、「もし、ここのロシア俘虜が日本人に対して見せるような振舞に接したら、ロシア政府は憚るところなく断固たる処置に出るであろう。日本人がそうしないのは、日本が文明社会において若い国家であるという意識があるからである」、筆者の見た俘虜達の日常は「午前中、洗面、祈祷、朝食、カルタ遊び、ロシア式野球、バープキ遊び、兵舎内の徘徊、読書、読書と祈祷以外は喧騒、口論、日本人が収容所内に作った学校へ通う文盲達(兵士の中に中学校生徒がいた)。午後、一部の者は横になり、大半の者は際限のない議論をはじめ、手風琴を弾く者、歌う者、踊る者もある。このようにして夕食・点呼までが過ぎる。夜、点呼後の祈祷、床に入ってから夜半まで、あるいはそれ以上続く涯しないおしゃべり」。
 常に快活で、くよくよせず、しかし粗暴・野蛮な俘虜達は常に筆者を赤面させた。更に筆者はつけ加えて「後に日本人は、この戦争までは、日本にはこのような下劣な人間はいなかったが、それが今では、そういうものが多くなったと語ったそうだ」と書記している。『コサック従軍記』の著者、英人従軍記者フランシス・マカラーも「捕虜達は日本内地を通過して、ますます日本の勝利に驚いた。この貧弱な家に住んで一見弱々しく見える日本人が、鬼のような髭があり、雷のような声を出すロシア人にどうして勝てたのかと。しかし、日本はこの戦に勝って国栄える後、永久に今日のような武士の精神を維持することができるだろうか、これは問題である。時が経つにつれ、富が増加するに従い、物質的快楽の発展に伴って、日本人の勇気と大和魂は次第に鋭さを欠くようなことにはならないだろうか。古来の日本人の美風がよく欧米のコマーシャリズムの腐敗に耐え得るであろうかどうか、言い難い」と述べている。
 何れにしても福知山では、それなりに俘虜を丁寧に扱い、よく保護して大任を果したものといえよう。明治三十八年十月十六日日露の平和克復して、三十九年一月二日、福知山の俘虜はひとまず大阪浜寺収容所へ移送以後逐次本国送還されることになった。「福知山収容以来一カ年半、土地にも馴染み、且多少とも人情風俗も知覚した彼等俘虜の中には片言の日本語も覚えるものも多く、別離にのぞみ、喜悦満面に溢れ、老若男女を問わず一々低頭告別長年の好意を謝するものの如く、又以てその心情を察るに足る」と『福知山町事務概要』は結んでいる。前出マカラーは「私は次回日本が武装して立つ時に、日本軍の捕虜になることの危険を思う。日露戦争においては日本は甚だ行儀がよかったというものの、次回には欧米キリスト教諸国のように野蛮な行動をするかも知れないからである」と心配したが、悲しい哉この予言は的中し、四十年後大小捕虜虐待の汚名を残した。そのことは、日本人にとって敗戦以上の痛恨事ではなかったか。


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福井県三方上中郡若狭町
福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市






【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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