京都府福知山市三和町高杉
京都府天田郡三和町高杉
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高杉の概要
《高杉の概要》
土師川支流友淵川の流域で、府道97号(主要地方道丹南三和線)が走り、その沿道に集落が立地する。
高杉村は、江戸期~明治22年の村。「正保郷帳」では旗本菅沼氏知行地。「元禄郷帳」では幕府領。「丹波志」以降は上総鶴牧藩領。明治4年鶴牧県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年菟原村の大字。
高杉は、明治22年~現在の大字。はじめ菟原村、昭和30年からは三和村、同31年からは三和町の大字。 平成18年より福知山市の大字。
《高杉の人口・世帯数》 91・35
《主な社寺など》
春日神社
府道97号線沿いで、「南天を植えると寝小便に御利益がある。高杉春日神社」の案内板がある。梅田七社の一つ。
本殿↑ 境内社↓
春日社 六部郷 高杉村 産神
祭神 祭礼九月八日
本社 東向華表
社地凡六拾間四方 社僧アリ寺号ナシ
壹岐守社
祭神 壹岐守ノ霊 祭礼ナシ
古壹岐守ヲ祭レリ享保年中ニ民家ノ内夢相アリ 我古ノ地侍ナリ壹岐守ト云 久敷埋ル小祠ヲ可祭ト也 依之中村古跡ニ小祠ヲ建 社西向社地十間四面斗
(『丹波志』) |
村社 春日神社 菟原村字高杉鎮座
祭神 天児屋命
草創 不詳 社殿 梁行二間余、桁行四間余
祭日 十月十七日 氏子 四十二戸
財産 境内 千○二十六歩、
末社 稲荷社
(『天田郡志資料』) |
春日神社
三和町字高杉小字宮谷四一八番地に所在し、祭神は天児屋根命である。合社として若宮社(大□□命)壱岐社(與玉命)稲荷社(稲魂命)がある(『菟原村史』)。境外社である壱岐社は『丹波志』によると「壱岐守ノ霊、古壱岐守ヲ祭レリ、享保年中ニ民家ノ内夢相アリ、我古ノ地侍ナリ、壱岐守ト云、久敷埋ル、小祠ヲ可祭ト也、依之、中村古跡ニ小祠ヲ建」とあり、享保年中(一七一六~三六)に高杉村の地侍であった「壱岐」なる人物を祀ったものてあるという。
本社には、大永五年(一五二五)造立のさいの、やりがんなで荒く仕上げた細長い棟札がある。「梅田大明神御宝殿破滅、雖然、紀山城守、大檀施主」となり西山左衛門が願人となって造立したと記されている。現在の本殿は、虹梁や木鼻など絵様が、比較的細くてやわらかい曲線であることから、十七世紀後半ごろの建立であろう。大原神社境内の火神社よりやや古く、正統的手法になる点で注目される構造である。
構造は一間社洗造、正面に軒唐破風をつけ、身舎は円柱、浜縁を正面につけ、組勾欄付の切目縁をめぐらしてある。向拝は海老虹梁でつなぎ、手狭を備える。二軒繁垂木であり、蟇股は古風で全体的に十七世紀後半の雰囲気をもっている。妻は一段持出し、二重虹梁、大瓶束としている。屋根は桧皮葺である。
若宮といって、氏子入りをし、そのときの歌もあったという。寛文十年(一六七〇)「奉掛御神前」の鰐口(経三二センチ)や宝永五年(一七〇八)奉納石燈籠などがある。
(『三和町史』) |
薬師堂の古跡があり本尊は伝教大師の作という。
薬師堂古跡 高杉村
本尊伝教大師ノ作 足ニ指六ツ有座像 日本三躰ノ内ト云 長三尺七寸斗 脇立三尺斗立像ナリ仁王有 長サ五尺斗 安阿彌ノ作 東向堂三間四方
(『丹波志』) |
《交通》
《産業》
《姓氏》
高杉の主な歴史記録
『丹波志』
高杉村 水野壹岐守殿領
高百六拾六石三舛 民家四拾戸
古ヘ椙ノ大木在リ依之 民家ノ南川ヲ左ニ見テ友淵村エ行六町斗 片馬道又民家ノ北エ川ヲ右ニ見テ行ハ下村柏田迄三拾町斗 出水ノ時此道ニ回ル来道
伝説
『天田郡志資料』
郷土物語 右衛門塚
天田郡の東の端に山にからまれた菟原。といふ村があります。昔々の大昔にこの菟原村に馬舟の湖といふ大きな池がありました。その湖に影を写して、村内一と呼ばれる鹿倉山が高く高く聳へてゐました。村の人達はこの池の水のお蔭でお米も沢山とれ、毎年続く豊年に愉快な年を送ることが出来たのです。ところが或年大風が吹いたり、犬雨が降ったりしてお米が少しもとれませんでした。そのあくる年も、そのあくる年も、毎年々々そんなことがつゞきました。村の人々は大変に困って都からえらい易者を呼んで占ってもらひきした。すると易者が「此の村に大きな池かあらだらう。池に大蛇の主が住んでゐる。此の主のせいだから供物をして主の心を静めねばならない」
と申しました。早速村の人たちはお供物をしてお祭りをしましたが、一向止みません。村の人は困り果て、今度はえらい坊さんを呼んで池の主を祈祷してもらひきした。すると池の主の大蛇が、
「十四五位の女の子を生贄としてそなへてほしい。若しそれがきゝ入れられなかったら此の辺一帯を荒野原にしてしまふ。供へてくれたら屹度毎年豊年を続かしてやらう。」
と申しました。そこで坊さんは生贄がなしにすむやうに色々と慰めたり、頼んだりしましたが、執念深いのか大蛇の性質ですから、どうしても勘忍してくれません。人々はどうしやうかと気をもむばかりでどうすることも出来ません。因ってしまひました。
馬舟の湖に美しい影を写して聳へてゐる鹿倉山の麓の小高い丘の土に右衛門といふ人が住んでゐました。今は其の村を高杉といつてゐます。右衛門は至って気立のよい上に、その界隈での物持で村長を勤め何不足のない身でしたが四十になっても子供がありませんでした。右衛門とその妻は子供のない事を大愛悲しんで、村はつれの岩の上に祭られた一休様に「どうか神様不幸な私達にたった一人でよろしいから子供をお授け下さい」と雨の夜も風の夜も一日としてかゝすことなく一心にお詣りをつづけました。やがて心からなら二人の願ひは、神様にも通じたと見えて、高い高い山の谷を埋めてゐた氷も解け初めて麓の山里にはやさしい桃の花が一輪二輪とほころび初めた初春、玉のやうな女の子が生れました。二人の喜びはどんなだったでせう、名をお露とつけて一休様の授り子だとそれはそれは大事に育てました。父母の愛の中にすくすくとお露は大きくなりました。お露は後の丘の上へ遊びに行くのを何時も何よりの楽しみにしてゐました。そこには広々とした馬舟の湖があって美しい辺の景色を静かな面にうつしてゐます。そのほとりには今から千何百年も前に偉い坊様が拵へて下さったお寺の塔が立つてゐました下をながめると静かな村が一目に見えます。村の東のはづれには銀のやうに流れてゐる小川もあります。世界のどこに行ってもこの丘位静かな心持いよい所はあるまいとおお露には思はれました。こののどかな景色をながめてゐることが此の上もない楽しみだったのです。父母のやさしい愛の中に十五の秋を向へきした。丁度村では不作続きでどうしやうかと大騒ぎをしてゐる頃です。
或日のことです。何時ものやうに丘の湖のあたりで秋の光に照らされながら静かな景色をうつとり眺めてゐました。ふと何気なく湖の面を眺めました。お露は「まあなんとやさしい」と、一人言を云ひながら湖のほとりの小さな巌の上に咲いた一輪の白百合を見つけてそれにかけりました。思はず巌に手をかけてやさしい白百合の花に小さなお露の手が触れた時です。静かな静かな音楽が湖の底から流れてきました。その音楽と共にお露を乗せにまゝ巌は吸ひ込まれるやうに湖の中へ消えてしまひました。夜になってもお露が帰らない。お家ては大変な騒ぎです。大事な大事なお露のことですから。お父さんやお母さんは云ふまでもなく村の人総出で「お露ちゃんお露ちゃん。」と探し求めましたけれど、何所にもお露の姿は見当りませんでした。心配の余り両親はやせ衰へてお露の名を呼びつづけ涙に日を送るばかりでした。そして毎晩恐ろしい大蛇の爲にお露がさらわれて行くかなしい夢を見ました。我子を失った右衛門のおぢさんは蛇さへ見れば「お露を返せ。こん畜生」と殺してしまふやうになったのです。
幾日か過ぎた或日のこと裏庭に出ますとお露が毎日のやうに遊びに行った丘が招いてゐるやうに見えます。たまらなくなった右衛門さんは知らず知らず丘に足をむけてゐました。丘に立って湖を見つめてゐた右獄門は「アツ畜生」とさけびました。
湖の面には岸辺近くに一つの小さな厳の島が何時の間にかぼつかりと浮いて其の上に美しいやさしい白百合の花が一輪こちらを向いてくびを横に振ってゐます。その根本には小さな姫蛇がぺろりぺろりと舌を出しながらこちらを見てゐます。日頃から憎い憎い仇とばかり思ってゐた蛇を見たからです。右衛門は辺に落ちてゐた大きな石を拾ひ上けたかと思ふと力一ぱい大きく振り上げ蛇をめがけてなげつけました。
たしかに命中したゞらうさ思ったその時です。山も崩れんばかりの大きなしかも気味の悪い悲鳴がとゞろき渡りました。右衛門はその恐ろしい物音に其の場に伏し倒れてしまひました。叫ぼうとしても声をたてることも出来ず、手も足も動かなくなって気が遠くなってしまひました。
野良で働いてゐた村人も此の時の音に倒れんばかりに驚きました。「権作どんや今の音はありやなんだい」 「なんだか気味の悪い絹を裂くやうな大きな音だったな。体かぶるぶるふるへてわしや仕様かない」「又馬舟の蛇があばれだすんぢやないか、こまったなあ」などと云ってゐる間にどこからともなく冷いなまぐさい風が吹いてきて、今まで静かであった此の辺は一時に山は鳴り地は震動し、俄かに湖の水か海嘯のやうに二三十米も逆立ち辺の山は崩れて怖ろしい浪を立てゝ、岩を砕き、山をうがち、どんどんと瀧をなして由良の川へと流れはじめました。村人達は「あゝ又馬舟の湖の大蛇があばれはじめたな。こまったことだ。」と心配するばかりでどうすることも出来ません。七日七夜流れとほしました。
「湖はごうなってゐるだらう。」と騒ぐのみで誰一人恐ろしさの爲丘に上って見る者はありません。然し恐ろしい山鳴も、震動も、漸く止んだので多くの村人達は恐る恐る丘へ見に上りました。所がどうでせう。今まであった大きな大きな馬丹の湖は無くなって、深い深い谷と形をかへてしまつてゐました。人々は再び驚きました。そこには右衛門か血にまみれて斃れてゐました。所が又不思議やその口は大きく大きくさけて前に美しく生え並んでゐた歯か一本もなくなり、それはそれは恐ろしいあわれな姿となってゐたのです。そしてそのすぐ横には巌の深いさけ目に大きな大蛇が血にまみれた大きな腹をあらはして、死んでおりました。それは多分白百合の咲いてゐた岩だったのでせう。
さてその後一人残された妻にも、そうして村の人々の中にも、色々と不幸が続きました。大蛇の祟りだったのでせう。そこで村人達も執念深い大蛇の崇りを恐れて遠い都から偉い坊さんを頼んで大蛇の爲に三日三晩の祈祷を上げ大蛇の魂をやわらげる爲その岩の上に小さなほこらを祀りました。そしてこれから後は必ず高杉の村には何右衛門と云ふ名をつけぬことを誓ひました。それからやつと崇りがうすらぎました。今日菟原の馬丹の谷の麓の岩の上に祀られに白瀧横現がそれで今日では歯痛の神様として村内の人々は勿論近在の村人までがお花やお賽銭をもって歯痛をやむ人々が沢山お詣りします。このほこらのある山を背にして篠山街道に沿った高杉の村ではその後何右衛門と言ふ名は決してつけません。だから現在おぢいさん方の中にも一人として何右衛門と云ふ名はありません。そんな由来をもつ白瀧権現は又一名右衛門塚と呼ばれ深く茂った馬舟の谷に静かに静かに古き昔の夢をどつてゐます。 |
『京都丹波・丹後の伝説』
右衛門塚 天田郡三和町高杉
三和町の南部、土師川の支流・友淵川のほとりに高杉という静かな村がある。その高杉の人たちの口から口むロへ、こんな話が伝わっている。
昔むかしのこと、村のまん中に“馬舟の池“という大きな池があった。この水のおかげで村の人たちは米を作ったり、魚を取ったりして生活をしていた。ところがある年、大風が吹いたり、大雨が降ったり。あくる年もその翌年もほとんど米がとれなかった。たいそう困った村人たちは、都からえらい坊さんを呼んでおがんでもらったところ「この村に大きな池があるじゃろ。その池に大蛇の主が住んどるんや。その大蛇の主がいうには、若い女の子をいけにえにそなえてほしい。でないと一帯を荒れ野原にしてしまう、とのことじゃ」
村の人たちは、いけにえをしないですむようにおがんだり、お供え物をして大蛇の主の怒りをしずめようとしたが効き目がなく、不作が続いた。
池のほとりで右術門さんという人が、十五になる娘の“おつゆ“と何不自由ない暮らしをしていた。ある日のこと、おつゆの姿が見えなくなった。そのうち大蛇が娘をさらっていく夢を見るようになった右衛門さん。おつゆが、いつも遊びに行っていた池のほとりを、途方にくれてトボトボと歩いていると、池のまん中にいつのまにか小さな島ができ、その上に大きなへビがこっちを向いてペロペロと赤い舌を出していた。足もとの大きな石を大蛇めがけて「おつゆを返せ」と投げつけ、確かに命中したと思ったとき、大きな地鳴りとともに池の水があふれて、村も田畑も水びたし。驚いた村の人たちがかけつけると、池には水がなくなり、右衛門さんとおつゆと大蛇とが血まみれで息絶えていた。
その後、日照りや水害はピタリとおさまり、村に再び平和が訪れた。そして村の人たちは右衛門さんとおつゆの霊をなぐさめるために、池のあったところに小さなほこらを建てて、大切にお守りしたといわれる。「その後、高杉の村では右衛門という名は決してつけなかったそうじゃ。まあ見てくれ、このイネを……」収穫前の稲田でヒエ取りしながら地区の古老は豊作を喜んだ。
【しるべ】
高杉へは菟原の国道9号線から友淵川に沿って南へ約二キロ。車で五分ほど。昔は村内一といわれた鹿倉山のふもとにある静かなところ。現存する白滝権現がその昔の右衛門塚だったともいわれる。現在は歯痛の神さんとして信仰されている。 |
高杉の小字一覧
高杉(たかすぎ)
タスノ 宮ノ前(みやのまえ) ヲヲガ 道ノ下(みちのした) コヤマ トイノモト 中筋(なかすじ) ムカイ 石ケ坪カイチ(いしがつぼかいち) 小山(こやま) 向イ山(むかいやま) 八戸田(はっとだ) 保井谷(ほいだに) 寺ケ谷(てらがだに) 堂ケ谷(どうがだに) 山根(やまね) 上ノ山(うえのやま) 宮ノ脇(みやのわき) ボウガナル 馬船(まぶね) 南上ノ山(みなみうえのやま) 宮カ谷(みやがたに) 北上ノ山(きたうえのやま) 東馬船(ひがしまぶね) 西馬船(にしまぶね) ミツツ
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