立原(たつわら)
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京都府福知山市立原 京都府天田郡上川口村立原 |
立原の概要《立原の概要》 但馬街道(山陰街道・今の国道9号)と出石街道(金山街道・府道528号)が合流する場所、今は9号線と528号線が直には交わっていないが、間もなく繋がりそうに気配である。 左の道が金山街道↓、ここは整備されている、右の道が旧道の但馬街道である。9号線は右の人家のさらに右側を通っている。 交通の要衝として、福知山城主有馬豊氏から宿駅免許状を賜り、諸役免許状の写しも現存しているという。 旧道沿いは現在もそうした宿場町的な雰囲気が残る。かつて宿屋であった家の前に高さ1m余の牛繋ぎ用の自然石の石柱が立っており、但馬牛の往来をしのばせる、とか書かれている、旧道は狭く対向車に気をつかいながらなので、もしんして残ってないかと探すがわからなかった。 立原村は、江戸期~明治22年の村。福知山藩領。立原はかつて牧川対岸の十二村の内に含まれていたが、慶長7年(1602)福知山城主有馬豊氏は、但馬術道に旅宿がない不便を解消するために、十二村の一部、街道筋に新町の設定を命じたという。 また立原区有文書のうち、慶長7年のものによれば、立原の境域として西方は谷川の下を限り、東は堂のある所までを町分として指定し、当村上納の地子米(地租)は郷帳記載の立原の高分のなかに山役・夫米が含まれたものとして一括徴収することとし、そのほかの役はいっさい免除したという。 その後、慶長11年、同18年にも同文の免許状が下付され、元和7年(1621)岡部長盛が入封すると、翌8年3月には立原新町の田畑高ならびに取米高を定め、干害・水害にかかわらず、定められた額を上納せよ、ただし従前のごとく役は免ずるという令状を出しているという。次の稲葉紀通・松平忠房時代にも同様の免許状が下げ渡されて、朽木季綱(のち稙昌)の時のものが、『丹波志』に引かれている。 明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。明治22年上川口村の大字となる。鉄道が通じて、当地に泊まる旅人は減った。 立原は、明治22年~現在の大字。はじめ上川 口村、昭和30年からは福知山市の大字。 《立原の人口・世帯数》 254・61 《主な社寺など》 牧の一宮大明神は当村の産土神でもある。 五社稲荷神社 集落背後の高い場所に鎮座。正面が五社神社、向かって右側に稲荷神社があるよう。
地名としても交通上からも当地の山には中世の山城があったのではと推測するが、そうした記録はない。 《交通》 《産業》 立原の主な歴史記録
立原の小字一覧立原(タツハラ) 家ノ上 家ノ后 家ノ浦 石風呂 猪ノ尾 猪ノ奥 送リ坂 川原 小山 坂口 坂ノ下 三処田 銭亀 段 谷 茶ノ木根 堂 堂ノ坂 西ノ宮下 墓ノ横 墓ノ下 古屋敷 藤才 丸山 松井 宮ノ上 宮ノ下 宮腰 宮ノ横 山畑 屋敷 堂ノ段 法仙坊 関連情報 |
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹波志』 『福知山市史』各巻 その他たくさん |
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