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丹波の

和久市(わくいち)
京都府福知山市和久市


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京都府福知山市和久市

京都府天田郡福知山町和久市

京都府天田郡曽我井村和久市

和久市の概要




《和久市の概要》

市民体育館やグラウンド、下水道終末処理場などがある付近である。由良川左岸に位置するが、古くは同川は今より南を流れていて同川の右岸を占めていたという。由良川水運と和久川水運の合流点にあり、産物の交易が行われたようである。
近世には由良川対岸の猪崎村の枝村的存在であり、同じく対岸の中村にある庵我神社(八幡社)の氏子であった。古代は奄我郷に属していたとされる。和久市村は、江戸期~明治22年の村。福知山藩領。明治4年福知山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年曽我井村の大字となる。
和久市は、明治22年~現在の大字。はじめ曽我井村、大正7年福知山町、昭和12年からは福知山市の大字。


《和久市の人口・世帯数》 1122・468


《主な社寺など》

神明神社
神明神社(和久市)
昔はこの辺りが村の北端であったそうだが、今はまだ北に野球場や下水処理施設などがある。閑静清楚な住宅街の一角、西川沿いに鎮座する。本殿の裏が西川で、当地あたりは、福知山付近では最も低湿な所だったそうで、ほとんど毎年のように起こる洪水を避けるため、高さ1メ-トルくらいの石垣に土盛りして家を建て、避難用の舟を常備していたという。今もそれらしい石垣が所々に見られる。もう屋敷はないが、そこは畑になっている。
1メートルの程度ですめば神様のご加護あってのことかも、当地周辺はもちろん福知山市街地一帯は広く現在のハザードマップでは3~5メートルの洪水が予想されている。ニ階にいてもヤバイかもという水位になるかも知れないとされている。洪水はこの鳥居を越えるかも知れないが避難用の舟は用意されていない、どうかどうかご注意を。
西川
当社裏の西川。この川でなく由良川本流が氾濫してこの川を洪水がさかのぼってきたようである。
境内に妙見社や夷社である市座(いちのくら)神社がある。市座神社は「市にいます神のヤシロ」と本来は読むのであろうから古くは当社境内や周辺で市が立ったものと思われ、和久市の地名はそれによるものと思われる。
また「丹波志」は「市場古跡 古市場ノ夷今ハ大和国丹波市ト云所へ持行今ニ有之ト云」と記す。
市座神社]「市座神社」(天理市)。←この社だろうか。同町内の夷社(市座神社、祭神多波命)は丹波国より勧請したという次の伝承があるそうである。
丹波市の市座(いちくら)(いちざ)神社は境内に妙見社と夷(蛭子)社があり、安永4年(1775)の座主規録改帳(市座神社蔵)に「妙見大菩薩之由来書」を載せ、「其いにしへ蛭子様丹波之国より此所え鎮座ましまし候由に承り及申幸ニ御座候」とみえるという。これは夷社の由来書が誤って妙見社のものとされたと考えられているそうである。
中世の丹波庄という荘園が記録に残る地で、たぶんもっと古くは丹後小子(たにわのわらわ)と呼ばれた弘計(顕宗)億計(仁賢)が育った所ではなかろうか。この時代で言う丹波は今の丹後のことであるが、後に誤解されて当社を勧請したものであろうか。
また当和久市村民は庵我神社の氏子で同社の祭儀にも加わった。
また明治10年代当地に天田郡協同牛馬市場が置かれたという。同22年曽我井村営家畜市場、同44年現西本町へ移されて山陰家畜市場と改称、大正7年市営となり、昭和に入ると年間牛の取引数2万数千頭を数え、日本三大牛市場の一とされたという。

太神宮  猪崎村支 和久市村
本社 五尺  祭礼九月廿六日湯立
中村八幡祭礼ヲ務ム云古来本居 社守家三間ニ五間半
境内森薮三十六間拾貳間
社田高合壹石六斗二合九勺村除
(『丹波志』)

和久市の神明社
市内字和久市小字堂ノ本に神明神社があり、祭神を大日ひるめ貴命 としている。丹波志(福知山藩士、古川茂正と篠山藩士永戸貞著共編茂正の子正路校訂寛政六年〔一七九四〕刊)巻一の天田郡神社の部に次のように記している。
  大神宮 猪崎村支 和久市村
   本社五尺 祭礼九月二十六日 湯立 中村八幡祭礼ヲ務云 古本居 祉守家三間ニ五間斗 境内森薮三十六間拾弐間
   社田高合壱石六斗二合九勺村除
右は今いう「和久市の神明さん」のことであり、祭神は天照大神(別名大日ひるめ貴尊)で、本社の大きさは五尺(一・五メートル)(縦か横か不明)、祭礼は九月二十六日、当日は湯立といって、巫女が神前で熱湯に笹の葉をひたして、それを身にふりかけて祈ることが行われた。祭礼は中村の八幡社(庵我神社)の神主がつとめた。昔は同社の中にあったものがここへ分かれたものだからである。社守の家は三間(五・四五メートル)に五間(九メートル)ばかりで、境内は森や薮で縦三六間(六五・五メートル)に横一二間(二一・八メートル)社田があり、収穫高は合計一・六○二九石で、和久市村の村高から除かれており、免税地であった。およそ今から二○○年程以前には右のような状態であった。当社の由緒として、神社明細帳に大体次のように記されている。
  (崇神天皇ガ)天照大神ヲ大和ノ笠縫邑ニ磯城神籬ヲ建テ祭ツタ、垂仁天皇ノ御代ニ至ツテ、皇女倭姫命が御仕へ申 シ 神教ニ従ツテ大和カラ丹波・紀伊・伊賀・近江・美濃・尾張・伊勢ノ内二十余ヶ所ヲ経廻ラレシ末 今ノ五十鈴川ノ 辺リニ斎奉ルコトニナリシガ 其ノ丹波(加佐郡内宮外宮)ニ四ヶ年間倭姫命ガ大神ヲ奉祭シテ御仕へ申シ 地ヲ相セラレシガ 何カ缺クル処アリシカ 大和へ御帰還ノ際 和久市ニテ御休憩ニナリシ因縁ニヨリ 此処ニ社殿ヲ創建シ 大日ひるめ貴命ヲ 奉祀シ神明神社ト称へ申ス コレ当社ノ紀元トス
この伝承は江戸時代からあったものかどうか疑問である。少なくとも丹波志には見えない。(丹波志はこの種の説明はほとんど記しておりまた明治十六年の報告書にも出ていない。用紙と文面から見ると昭和になってからの報告と思われる)その内容は、天照大神が大和笠縫邑から伊勢に遷される前に、四年ほど丹波におられ、そこから伊勢にうつられる途中この地に休憩せられた由緒により、大神を祭ったというのであって、かの倭姫命世記によったものと思われる。前記加佐郡誌の記事と似かよっており、また後に字今安の天照玉命神社の項で説明する同社の伝説とも酷似している。天照玉命神は天照国照彦火明命を祭っているのが、中古このような解釈から、一時天照大神を祭るものと信じられたことが、江戸初期の棟札によって知られる。(式内社の節参照)いずれにしてもこの地方には、大江町のいわゆる「元伊勢」に対する信仰はすこぶる根深いものがある。
(『福知山市史』)


《交通》


《産業》


《姓氏》


和久市の主な歴史記録


『丹波志』
猪崎村支 和久市村  右同(福智山領)
高百四十石七斗三合
此地平 猪崎村トハ今大河ヲ隔ノ和久庄ト続ナリ 和久市ト称ス
茂正按 村老ノ説 古何鹿ヨリ来ル大河 福智山城ノ北ヲ西ニ流 今大橋ト云字ノ所 大沼ニテ此所ニ流其下流和久市ノ西ニ流 又一筋ハ厚村ト岩井村ノ間ヲ流 荒河村ニテ合流ルト 今和久市村ノ西厚村トノ間柳瀨ト云田地ノ字アリ 同神明ノ社ノ後ニ市場ノ前ト云所有 以テ考ルニ今ノ和久市村ノ後ニ南ヨリ西流 東ハ猪崎村ト地続ナリ 明智光秀福智山城ヲ改築トキニ長キ岡ナリシヲ三ヶ所切通シ穿 其土ヲ以テ堀村井口ト云所ヨリ今ノ町後ヨリ北ノ方川下和久市村迄十五六丁堤ヲ築 此時猪崎村ト和久市村ノ間ヲ大河流通シト知レリ 因テ大沼ヲ埋メ田地トス 此所于今至テ深田ナルユヘ木ノ枝ヲ踏テ苗ヲウヘ稲ヲ刈ル 元猪崎ノ地続タレハ出戸無疑所ナリ 明智氏築城ノ時川筋違タルニヨリ堤ヲ築キタルト観タリ 此所ニ舩着ニテ市場トナル和久川ノ出合辺故ニ和久市ト名付タルヲ此地古川原ニテ有リシニ信濃国ヨリ浪人貳人来住ス中嶋氏小室氏也 子孫有 姓氏ノ部ニ出ス

市場古跡  和久市村
古市場ノ夷今ハ大和国丹波市ト云所ヘ持行今ニ有之ト云


『福知山市史』
近世初期の福知山町
近世的城下町ができる以前、南岡村・木村・福知山町を合わせた曽我井村があって、横山城山下の市場があったと見る人もあるが、はっきりしたことはわからない。『丹波志』によると由良川が厚村と和久市村の間を流れ、荒河村で和久川と合流していたのを明智光秀が由良川の川筋を変えたことによって、この所が和久川との出合となったので和久市と名付けられ、舟着場と市場が開設され、和久市の神明神社の後に「市場ノ前」という小字名が残っていることを市場のあったことの理由としている。が明智光秀の由良川流路変更は伝承である。『丹波志』の「古跡」に「市場古跡 和久市村 古市場ノ夷今ハ大和国丹波市ト云所へ持行今ニ有之ト云」と市場があったことを示し、市場神の夷神が大和国丹波市へ行ったとしている。天理市の『丹波市区有文書』の安永四年(一七七五)閏十二月の「丹波市村座主規録改帳」に市座神社の末社妙見社の由来を「妙見大菩薩之由来書」として載せ、「其いにしへ蛭子様丹波之国より此所江鎮座ましまし候由ニ承り及申事ニ御座候、右伝り聞申老若丹波之国より取戻しニ来り候茂難計、夫故地之下を一丈計底ニ御神躰は浮ミ罷有と伝へ聞及居申事ニ御座候」と妙見社の所伝の中で姪子社の由来をのべている。これが和久市場の夷様と同一かどうかわからないが興味深い一致である。これらのことから和久市村には中世から市場が発達していたと考えられるのである。


伝説


梅干し半十郎観音(妙徳伴大明神)
梅干し半十郎観音
鋳物師町の方から100mばかり入った住宅街のなかにある。万延元年(1860)市川騒動の口火を切ることとなった処刑者・西郷半十郎を祀るとされる。
梅干し半十郎観音
祠内は綺麗で今も信仰篤いよう。梅干しの匂いに満ちた祠の中に案内板があった。↓
案内板
梅ぼし半十郎由来記
この妙徳伴大明神は作州(岡山県)津山の浪人・松岡半十郎で、信州(長野県)の浪人・西郷新太郎と共に当地の親分・松本屋銀兵衛の用心棒として暮していたが、安政六年(一八五九)七月二日夜、当時広小路に設置の福知山藩産物会所(正直会所ともいう)藩制定の問屋として産物穀物類を一切統制売買し、巨利を得ていた。そして家老市川儀右衛門が藩の苦しい財政を建て直すため功を急いで苛酷な方法を講じたので藩内の民百姓から恨まれた。この会所へ両名が押し入り宿直の二名を殺害して金を奪い、その金を難民達へ施して逃亡したが、探査の結果梅迫(今の綾部市)に居ることが判り捕らえられて福知山に連れ戻された。
その後、新太郎は獄死したが、半十郎は同年末の二十日に和久市で打首となった。そのとき彼は次の辞世の歌を書いた。
 三味線の糸より細きわが命
    引き廻されて罰(バチ…撥)は目の前
そして隠し持っていた一寸八分の金の観音さん(自分の守り本尊)を呑みこみ、私の墓へ梅ぼしを持って詣れば首から上の病気は観音さんのご利益を戴き必ず癒ると言い残して世を去った。
その後、義賊としてこの和久市に祀って以来、大勢の人が詣り信仰をあつめ、梅ぼしの絶えない祠となった。
さてこの産物会所が襲われたことが動機で日頃藩政に怨みを抱いていた百姓達が翌万延元年八月二十日の夜から一斉に蜂起し、世にいう市川騒動に発展してしまった。
昭和五十一年六月 松本敏雄 福林政雄しるす


梅干半十郎観音
朽木の殿様十二代綱張の頃、天保七年は、全国的な凶作飢きんとなり、米の値段も五倍にはね上るという高い値段になりました。
こうなると、藩の財政が苦しくなり、やがては厳しい倹約令が敷かれるようになりました。これによると、農民は米を食べてはいけない。麦飯・粟飯・漬物だけの食事をせよというように決められたのです。
この不況を建て直す為に、福知山藩では、江戸詰めの家老原井惣左衛門をお目付けとして、福知山に帰えしました。
福知山藩の足軽市川儀右衛門は、(のちに家老)学問はありませんが、なかなかの器用者で原井と知り合いとなって、倹約法について原井といろいろ相談しました。そして、ついにそれはそれは厳しい十二か条の衣・食・住についての決めを作りました。これによると農民は、一合の米も自由にできないことになっていました。
こんな仕打ちに、農民の間に不平不満の声が出てきて、原井や市川は悪い放、憎い奴とののしりの渦が巻き始めました。
その頃、福知山に子分が百人以上もあろうかと言われた、松本屋銀平という親分が住んでおりました。銀平親分は、関東の武士であったと言われ、六十歳台でなかなか度胸もよく、万事抜け目のない者でした。市川はこの親分を何とか手なづけて、自分の役に立てようと野心を持っていたのです。
銀平には実子がなく、お春とお清という女の子二人をもらい受けて、ちょうよ花よと育て、読み書きから女の芸事を一通り学ばせましたが、二人は姿も美しく、りっぱに成人していました。
又、銀平には用心棒として、槍の名人西郷新太郎と、腕達者の松岡半十郎という二人の浪人者が、居候していました。
この新太郎とお春が、お互いに好きになりました。ところが市川の家来出雲屋和助という者もお春を思うようになり、ぜひお春を嫁にと強く願いましたが、これは当然断られてしまったのです。こんなことがあって、和助の主人市川と槍の新太郎の仲がだんだん険悪になってしまいました。
このことを新太郎は松岡半十郎に打ちあけましたが、二人はお春のこともあり、市川の悪政のため町人・百姓が困窮していることも思い、いっそのこと市川の白髪首をぶち切ってやろうと思うようになりました。そして、市川の隙をねらっていましたが、相手も用心深く、その機会は、どうしても見つかりませんでした。
そこで二人は仕方なく、やつあたりに藩の産物会所へ押し入り、泊りの男二人を打ち首にし、沢山のお金を奪い、このお金をみんな生活に困っている人びとに分ち与えました。そして綾部の方へ逃げ去ったのです。
藩では、盗賊を捕えるようにと、厳しく役人に申し付け、四方八方に手分けして調査しました。そして、梅迫村まで来て宿屋に泊っていた新太郎、半十郎の二人を捕えて、その罪を白状させました。
二人は、福知山に連れ戻され、投獄されました。ところが新太郎は獄死してしまったので、半十郎だけが和久市の刑場で打首となって果てました。
このことが動機となって、万延元年八月の世にいう市川騒動が起きたと言われます。
さて松岡半十郎は、和久市で打首となる時の辞世の歌に、「三味線の糸より細き我が命、引き回されて罰(揆) は目の前」と詠んで、かくし持っていた一寸八分の金の観音さんを呑みこみ、
「私の墓へ梅干を持って詣れば、首から上の病気は、観音さまのご利益を戴き、必ずをおる」と言い残して首を打たれました。
その後半十郎は、義賊として和久市に祀られましたが、以来大ぜいの人が詣で、信仰を集めるようになりました。お供えに梅干が絶えない祠となり、今も妙徳伴大明神梅干半十郎観音ととして崇敬されるようになったのです。(文責 石井 実)
(『福知山の民話と昔ばなし』)

民百姓を絞れるだけ絞り怨みのマトであり、ひとりボロボロ儲けのクソ会所を襲ったため、かえって村人の同情を受けてヒーローになり、和久市の村墓の入口に墓が立てられたという。
埋葬地を三昧(さんまい・ざんまい)と呼ぶ、「ぜいたく三昧」とか言って三昧の地名は埋葬地のことだと書いてない辞書や、動物の墓地だとか言って人の墓地だと知らない人が多いが、元は梵語なのだが、地名の場合は、だいたい埋葬地、たまに火葬場もこう呼んでいる。
当地あたりもそう呼ばれていたそうで、「張付場」もあった。磔場で藩の刑場もあった。コルゴダの丘みたいなものか。地名を見て過去を想像するが、今は都市整備が完了して当時とはすっかり変わってしまったようである。
祠は何度も洪水で流されて移動を重ねて今はここにあるのだそうである。





和久市の小字一覧


和久市(ワクイチ)
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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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