旧・夜久野町(やくのちょう)
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京都府福知山市夜久野町 京都府天田郡夜久野町 |
旧・夜久野町の概要《旧・夜久野町の概要》 昭和31年(1956)9月30日、中夜久野・下夜久野村が合併して成立。同34年上夜久野村を編入してた。面積101.55㎡、人口6、054人であったが、平成18年に福知山市と合併した。 立地する地は当地だけの特異なものがある。 夜久野は超太古のアンモナイト化石↑が出ることで知られている。日本国内にはそうした古い所は多くはないそうである。 「ヤクノセラス ヌカタエンゼ」とか学名にも当地の地名が採られている。額田の奥という集落のまだ奥に多く見られるという(勝手に掘ってはいけない) 私はどこかでアンモナイトの化石を見た覚えがある、玄関先に置かれていて「夜久野ですか」と問うと、「いや北海道やそうです」とのことであったが、それは下のような形状をしていて、見ただけでそれとわかるものだったが、夜久野の化石は凹面の方で、ちょっとわかりにくいし、小型の感じがする。(これは↓モロッコ産) 「タンボのタニシの大きいヤツが固まったものかと思ってましたが、息子が言うには、そうでないそうで、何億年の前のものだそうです」と笑っておられた。どう見ても巻貝、タコイカの祖先とは見えない。 北海道は白亜紀のもので、夜久野は三畳紀のものだそう、夜久野の方が古く、2億数千年前のものという。 舞鶴の金剛院の奥からもアンモナイト化石が発見されている、夜久野へ続く同じ細長い地層で、舞鶴帯と呼ばれている。夜久野からさらに山口県の方へ続くという。北西側がたぶん大陸で舞鶴帯はそのへりにあった浅い海だった、その南東側に深い海があった、と見られている、私が住んでいる所も舞鶴帯、掘ればアンモナイトがザクザク出てくるかも… 夜久野の化石は二畳紀のウミユリが最も古く、史上最大の生物大絶滅時代を経て、三畳紀のアンモナイト時代なり、その後が恐竜のジュラ紀、白亜紀となる。 時代とともにこの一帯の陸化が進んだのか、南の篠山の辺りでは前白亜紀の陸上恐竜の化石が出てくる。 夜久野町化石・郷土資料館↓(「道の駅・農匠の郷やくの」内) 入館料100円、子供無料。 田倉山(宝山)火山と夜久野ヶ原 夜久野ヶ原は総面積300haの台地で、うち2分の1が当町域になる。この高原は田倉山(宝山)の噴火によりできた溶岩台地で、地層の表面は火山灰でおおわれている。主として宝山の南麓、夜久野町の小倉・平野、兵庫県朝来市山東町金浦・田ノ口、同市和田山町久田和に拡がっている。標高約150~200メートル、南北約1キロ、東西約5キロ。 表層は噴出した溶岩(玄武岩)が風化した黒色の土壌で覆われ、下層は赤褐色である。平坦部は耕作地として開墾も進み、陸稲・玉蜀黍・大根・蕎麦・桑・桐・柿・茶などが栽培されてきた。近年は甘藷・西瓜の産も多く、浸食谷には水田もみられる。傾斜部は牧草地として利用される。 夜久野ケ原は階段状に3層に分れる。これは噴火が3回にわたり、その都度流出の規模・速度・方向が異なっていたためであろうとされる。 一層は口小倉から平野の水坂に通じる谷間から東部の標高170メートルの地帯で、東端は高さ30メートルの断崖をつくり、みごとな玄武岩の柱状・板状節理がみられる。 次の一層はこの谷以西、金浦に及ぶ高原の中央部にあたり、標高200メートル内外。残る一層は山東町田ノ口の北部一帯で、同じく200メートルほどであるという。 そのおうちの後の山が田倉山(宝山)(349.7m)。府下では唯一の火山というが、火山のような姿ではない。スコリアという火山灰や軽石が積もったものという。火口はこの下にあるのだろうか。 このあたりは小川もない、降った雨はみんな溶岩が吸い込んでしまう。お陰で表土が流されず、古い地層がそのまま残されているという。40~30万年前に3回噴火したといわれる。新人誕生以前のネアンデルタール人の時代である。景観は丹後の函石浜などの砂丘の農地に似ている。何が取れるのか、近くの「やくの高原市」でも売られている。 夜久野ヶ原は丹波但馬の国境になり、古戦場である。 応仁の乱では、丹波守護細川勝元と但馬守護山名宗全の勢力の境であった当地は合戦場となり、「応仁記」にもしばしばその記述が見える。小倉にはその時戦死した八木城(船井郡八木町)城主内藤孫四郎の首塚があり、また直見城は直見大膳が居城したが、応仁の乱により没落した、などの話が残る。 応仁元年(1467)6月、東軍細川勝元配下の守護代内藤備前守孫四郎と、丹波での巻返しを図る西軍の但馬国竹田城城主太田垣新兵衛尉がこの地で合戦したという。 「応仁記」は、 但馬ニハ垣屋、八木、昇庄、太田垣ガ与力被官出張ノ用意不日也、因幡ニハ伊達、波多野、八部、山口、伯耆ニハ小鴨、南条、進、村上、備後ニハ江田、和智、山ノ内、宮ノ一族等、但馬国ニ馳集テ、六月八日丹波国ニ打入ケル、丹波守護代内藤備前守此由ヲ聞テ、兼テ用意ノ事ナレバ、国境夜久郷迄打出廻、天ヲ憤防戦ケレドモ、多勢ノ敵二不叶而、内藤孫四郎貞徳ヲ始トシテ身二不替一族若党数十人討死シ、打散サレタリ また同2年二月にも同様の一戦があり、同書に「長モ内藤モ暫戦シカドモ、一所ニテ討死シケリ」と記されるという。 「応仁記」はそのままが史実とは考えられてはいない。 《交通》 《産業》 旧・夜久野町の主な歴史記録『夜久野町史』
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【参考文献】 『角川日本地名大辞典』 『京都府の地名』(平凡社) 『丹波志』 『天田郡志資料』各巻 『夜久野町史』各巻 その他たくさん |
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