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丹波の

山野口(やまのくち)
京都府福知山市山野口


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京都府福知山市山野口

京都府何鹿郡佐賀村山野口

山野口の概要




《山野口の概要》

加佐郡側からなら、室尾谷の観音寺からすぐ奥のトンネルを丹波側へ越えた所、丹波側から言えば私市円山古墳の西を流れる相長川を遡った一番奥。
烏ヶ岳の東麓になり、当地一帯は古くからの鉱山地帯、当地も地名の通りの鉱山と関係した地と思われる。元禄年間を中心に銀山が栄え、鉱坑が残っているそうである。
ヤマと言うのは、今でもそう呼ぶが鉱山のことであり、鉱山口の意味であろう。鉱山そのものは「山の先」と呼ばれるが、記録は残らないがそうした鉱山あっての私市円山古墳であり、私市郷であったと思われる。
山野口から由良川方向を見る
山野口集落から南方(由良川方面)を見る↑、地図によれば、このあたりが小字銀山(ぎんやま)、瓜生迫(うろざこ)、麻谷と何やら鉱山めいた小字の所のよう。

山野口村は、江戸期~明治22年の村。はじめ福知山藩領、天和2年から陸奥湯長谷(やながや)藩領、のち幕府領代官万年長十郎支配、上総勝浦藩領、幕府領代官小堀氏支配を経て、明治2年篠山藩領となる。山野口村は江戸初期には何鹿郡報恩寺村の枝村であった。独立村としてみえるのは「寛文印知集」が早い。「元禄郷帳」「天保郷帳」には「報恩寺村枝郷」と付される。
貞享・元禄期頃に隆盛を極めたという山野口鉱山は、鉱山奉行所の支配のもとで諸国の山師・金掘師などが流入し家屋も密集、「山野口千軒」とまで称されたという。主に銀を産し、地内若松・大切山・石山などに鉱口があった。鉱山は宝永以降衰えた。のち嘉永7年・明治9年・大正7年の3度、再掘を企てるが効を奏せずに終わった。明治4年篠山県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年佐賀村の大字となる。
山野口は、明治22年~現在の大字。はじめ佐賀村、昭和31年からは福知山市の大字。


《山野口の人口・世帯数》 59・28


《主な社寺など》
山神社
゜村社 山神社
所在地 佐賀村大字山野口小字出口
祭神 大山祇命
創立年号 不詳
祭日 陰暦十月九日
(『佐賀村誌』)

阿弥陀堂旧跡
山野口鉱山が栄えた頃の代官は塩見姓で、塩見大膳の子孫と称していたらしい。今もその旧地を御屋敷とよぶ。旧阿弥陀寺境内には、元禄時代の様式の巨大な墓碑があり、塩見大膳の名が刻まれている。


《交通》


《産業》

山野口鉱山
山野口の若松山・大切山・石山などで採掘されていた鉱山で主に銀を産出した。当地東田家に、天正16年(1588)閏5月11日、本多中務少輔が発布した「諸国金銀山定法山例之事」という鉱山法および鉱山師保護法ともいうべきものの写が残る、これには「関東金山御奉行所ニ而写之」とあり、徳川家康が鉱山事業を奨励した頃のものであるという。
当鉱山の稼働年代・産出量などについては確認できない、「佐賀村社寺旧跡史考」は次のようにあるという。
 貞享元禄ノ頃最モ盛ンニンテ、亦口碑ニ伝フル所ニ依ルモ鉱山奉行所アリ、地頭ノ代官役所アリ、其他山師金堀師商業人等諸国ヨリ入込ミ、住居スルモノ幾千人、家屋モ従テ繁殖シ増栄日ニ盛ンナリト口碑ニ存スル所ナリ、今其証跡ヲ鑿ミルニ、金屑ノ堆積山ヲナシ、坑門所々ニ崩壊シ、或ハ古墳墓ノ散乱スルモノ、枚挙ニ遑アラス、(中略)然ルニ其后一時稍衰エ宝永年間再ヒ工事ヲ企テタルモ、功ヲ秦セス
その後嘉永7年(1854)に再発堀が企てられ、京都町奉行から山野口村川筋の鉱害の有無について問合せがあり、村役人は現在は支障がないとしながら、もし田地に差支えが起こればいつでも営業停止することについての一札を町奉行から取っている、この時実際に掘ったかどうかは明らかでない。大正7年(1918)諸谷(もろだに)鉱山が再び発掘されたが永くは続かなかったという。


山野口の主な歴史記録


『何鹿郡誌』
゜佐賀村字山野口小字若松山、大切山、石山に於て鉄鉱を発見し、(発見時代不詳)已に貞享、元禄の頃盛に採掘せしものゝ如く又「鉱山奉行所あり、地頭の代官所あり、其他山師、金掘師、商業人等諸国より入込み居住せし者幾千人、家屋も従って増加し繁栄日に盛なりき」とは従来口碑に伝ふる所なるも、何等文献の徴すべきなし。今其の跡を探るに金屑と思しきもの積んで山をなし、坑門は到る所に崩壊し、古墳墓亦散乱して転た往古の盛時を偲ばしむるものあり。
其後一時衰退せしが、宝永年間に至りて再び採鉱を企てしも効なくして遂に明治に及べりと。
 筆者は、之に関する古文書、佐賀村東田徳治氏方にありと聞き、就て借用を請ひ通覧せしに、天正十六年閏五月十一日本多中務少輔の手になれる金銀山定法式山例之事てふ鉱山法及び鉱山師の保護法の写にて、之に依て推測するに、恐らくは此鉱山にも該鉱山法と、鉱山師保護法の適用せられたるものなるべく、一時は相当殷盛を極めしものゝ如し。
 東田氏方古文書の写を左に録して参考に資せん
   諸国金銀山定法式山例之事

山野口鉱山にして右の山例を適用せられたるものとすれば、其採掘を始めしは徳川時代に入りてよりの事なるべく、而して徳川氏中最も鉱山事業を奨励せしは初代家康なれば、已に此頃より採掘せられたるものに非ざるか。

゜佐賀村の鉄鉱
  嘗て一時隆盛を極めし山野口鉱山は宝永以来一向振はざりしが明治九年に及び石川県士族山原冨久借区願済開坑に従事し、更に又兵庫県川辺郡肝川村西久保光藏及本郡中上林村川北勇等探鉱を企てたるもいづれも遂に其効を奏せずして終れり。然るに大正七年頃に至り日本鋼管株式会社なるもの諸谷鉱山採掘権を得て附近の田畠を高値に買収し、石原駅迄高架索道を架して極めて大規模なる経営振を見せたるも其の事業は期年ならずして中止し、高架索道のみ獨り空しく空に横はり居たりしが、今は之も取毀たれて複た手を出す者なき状態にあり。


『佐賀村誌』
山野口鉱山
所在地は大字山野日小字若松出、大功山、石山等あり。発見時代は往古に属するも敢えて記する由なし。
天正十六年閏五月十一日関東御金山奉行所本田務小輔達書にいわく、
諸国金銀山定法式山例文事
山例五十三条の儀は駿河日陰澤山において東照宮家康公より仰せられ候。御定法の儀は山師は野武士と仰せ付けられ、諸国御関所にても見石計り御政を御通しされたく候
とありその他数々の条記録謄写を見る。元禄四年辛正月とある。(古事録東田徳治所有)
是に依って考え来たらば、貞享元禄の頃最も盛んにして、また口碑の伝うる所に依ると鉱山奉行所あり。地頭の代官役所あり。その他山師、金掘師、商業等諸国より入込み居住する者幾千人、家屋も従って繁殖し増築日に盛んなりと口碑の存する所なり。
今その証跡を鑑みると、金属の堆積山をなし、坑門所に崩壊し、或は古墳墓の散乱するもの枚挙に遑あらず。これに依って一端該山の繁栄する事往時を想うに足る。然るにその後一時やや衰え(宝永年間再び工事を企てたるも功を奏せず)、百数十年を経て明治九年に至り、石川県士族山原富久なる者借区願済開坑に従事し、尚又兵庫県川辺郡肝川村西久保光蔵及び本郡中上林村川端勇等開坑を企てたるも終にその功を奏せざるなり。   大志万重?氏「佐賀村社寺旧跡更」より





山野口の小字一覧


山野口(ヤマノクチ)
浅谷 石原口 瓜生迫 枝ケ谷 上浅谷 銀山 朽ノ木 小谷 竿折 段 段ノ尾 段ノ谷 地蔵ケ谷 出口 中ノ坪 八石 福田 深田 向福田 崩 朽ノ木 崩 竿折 清水ケ谷 段 地蔵ケ谷 福田 的場 八石 浅谷 荒堀 瓜生迫 枝ケ谷


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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『丹波志』
『天田郡志資料』各巻
『福知山市史』各巻
その他たくさん



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