丹後の神社

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青葉神社(舞鶴市松尾)


鎮座地は松尾寺の寺地内。本堂に向かって右手。大きな杉の木があるが、その山手に六社(ろくしゃ)神社がある。
旧村社。祭神は、笠津彦・笠津姫。相殿に白山神・富士山神・熊野神・金崎神。金峰(蔵王)神も祀られている。
旧祭日十月十七日。現在は十一月三日。崇敬者戸数32。


『丹後風土記残欠』神名帳に、青葉社。加佐郡卅五坐の最初に書かれている。本文にも記事がある。
 〈 青葉山は一山にして東西二峯有り、名神在します、共に青葉神と号つくる。其東に祭る所の神は、若狭彦神、若狭姫神、二座也。其西に祭る所の神は、笠津彦神、笠津姫神、二座也。是れ若狭国と丹後国の分境にて、其笠津彦神笠津姫神は丹後国造海部直等の祖也。ときに二峯同じく松柏多し、秋に至りて色を変えない。(以下一行虫食)
  〉 
青葉山の西峰に祀られていたのが青葉社で、祭神は丹後国造海部氏の祖・笠津彦(うけつひこ)笠津姫(うけつひめ)であった。

他の文献によれば、
『丹哥府志』(天保・19世紀)は、六社権現(松尾寺の隣に鎮座)
 〈 【禰加宜神社】(延喜式)
 禰加宜神社今彌山と称す、青葉山の上に在り、松尾寺より廿八丁登る、俗に青葉山権現といふ。富士、浅間、白山、熊野権現を合せ祭る、松尾寺の奥の院なり、汚穢不浄の者参るべからず。頂に大なる岩あり其岩に瘤の如き小石處々に出る、小石によりて岩に登り数千丈の下を臨む、凛漂乎として留るべからず、之を上の坊といふ。


◎松尾村(吉阪材より北へ入る)
【六社権現】
  六社権現は蔵王権現、白山権現、熊野権現、富士機現、大川大明神、田口大明神を合せ祭る。
  〉 

六社神社(舞鶴市松尾)山頂は溶岩で、頂上には確かお堂のようなものがあった。お堂と呼ぶのか山小屋と呼ぶのか、10名でも人が中に入って休憩できるような小屋のように思ったが、祠か何かのお堂であったかも知れない。何も祀ってなかったと記憶するが、これが山頂の青葉権現の社であるのかも知れない。大きな溶岩のかたまりのあちこちには何か建ってあったのか廃材のような古びた木材が散乱している。


『舞鶴市内神社資料集』(渡辺祐次編)所収の「郷土教育資料−志楽尋常高等小学校」には、六所神社
 〈 〔青葉権現像〕
 青葉上頂に青葉明神を祀る。初め神祠山嶺にありしに、旧時若州国境の争議を生じ、社祠は若州の為に破壊さるるに至りしを後遷して現在の地に祀ると云ふ。而し旧時祀る所の神体を現今は松尾寺宝庫の裡に安置しあり、昔時より深く秘龕の中に収めて衆人の容易に拝するを得ざりし霊像なり。
 像は青葉明神の本地仏なるべく尊容は即ち十一面観世音菩薩なり本彫にして其高を一尺七寸五分、もと彩色を施せる如くなれども雨露に晒されし為か剥落し木理峻立したれども尚ほ背面衣褶の陰には朱色又は黒色の処々に残存せるを見る。腰衣纏衣にも?彩の状を認め得べき部分あり、而して衣文彫法の雄?相好の高雅にして端麗なる明から藤原時代に属すべし。  〉 

同書所収の古書取調書には、青葉山(西峰山頂)
 〈 (古社取調書−明治二十九年一月一日)
村社 六所神社  大字松尾小字千本松鎮座
 右社ハ往昔(年代不詳トイエドモ丹後風土記ニ曰ク)丹波国造海部直等ノ祖神ニシテ笠郡春日部村青葉山ニ鎮座則チ旧跡ハ仝郡志楽村大字松尾小字青葉山第四四〇番地壱町五反四畝歩也
(祭神)笠津彦
    笠津姫
  (相殿ノ神)
          白山神 冨士山神
          金峰神 熊野神
 当六所神社ハ祭神、笠津彦・笠津姫二座ニシテ往昔青葉山ニ御鎮座社号ヲ奉称青葉社ト(二柱ハ天ノ火明神ノ末裔丹波国造ノ神ナリ)以来松尾氏神ト奉崇ナリ 又(古老伝ニ云フ)白山神 冨士山上ハ養老年中高僧越智泰澄大士相殿ニ鎮祭シ給ヒテ諸人崇敬ノ社タリシカ青葉山社ハ仝山ノ頂上ニ座シ殊ニ深山大雪ノ際ハ参拝営繕等行届カサルヲ歎キ天和年中ニ至リ氏子協議ヲ遂ケ或時御神託を奉伺(千本松)今ノ地ニ新宮ヲ造営シ御體并ニ左右相殿ノ御體ヲ奉戴シ奉遷新宮ニ時ニ熊野神金峰神ヲ合祭シ六柱ノ神ヲ鎮座しわ六所神社ト奉崇即今ノ御社ナリ
 人王五十六代清和天皇貞観元年笠津彦・笠津姫二柱ノ神ニ恐モ神階従二位ヲ賜リ亦青葉山社ハ仝山頂ニ坐。  〉 
西峰にはこんな祠もある。何かわからない。
『元初の最高神と大和朝廷の元始』(海部穀定著)は、
 〈 青葉社は、風土記に、「共号青葉神其東而所祭神者若狭彦神若狭姫神二座也其西而所祭神者笠津彦神笠津姫神二座也」と見えて、元、青葉神として一社であったものが、国内神帳では、東の神は松尾明神となり、西の神は、加佐比売、同比古二前の明神となっている。
  〉 

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 青葉山の土蜘蛛
以上は丹後側からの話である。青葉神社の古代信仰は、丹後よりも本当は若狭に中心があったのでなかろうかと思われるのである。松尾寺本堂(舞鶴市松尾)
 いつの頃からか青葉神社は丹後側にはない。古代の青葉社信仰の伝統を受け継ぐものは、普通に考えられているように小さな忘れられたような六社神社でなくて、その隣の西国29番札所、真言宗の青葉山松尾寺そのものであろうと思われるのである。青葉社の神宮寺のようなものが松尾寺の前身ではなかったか。
 古来から青葉山の周辺はその帰属をめぐって丹後・若狭の間に争論が繰り返されている。東峰は若狭、西峰は丹後、その鞍部が国境というのは私が中学生の頃の地図にはそのように書かれていた。これは残欠と舞鶴鎮守府の力によるものでないのかと私は考えているのだが、しかし若狭は承知しないのではなかろうか。現在の地図によれば東西の両峰とも若狭になっている。若狭は青葉山は全部が若狭だといいたいのではなかろうか。
青葉山登山道 さらに恐らく元々は若狭のもの、というか、土蜘蛛・陸耳御笠(くがみみみかさ)のものでなかったのかと思われる。青葉神社はそんな古いものと繋がるのかも知れない。祭神は笠津彦と笠津姫とある。漢字の通りにカサツヒコと読めば、まさに御笠そのものでなかろうか。青葉神社は陸耳御笠が祭神かも知れない。
加佐郡をウケ郡と読むとかなり無理な主張をしたりするのは案外に御笠の存在があるのかも知れない。
 松尾寺の本堂の裏に登山道入口がある。ここから1.8キロばかりで山頂(西峰)に着く。写真のおじいちゃんは87才だそうであるが、私を追い越してスイスイと登っていかれた。ここからそう1時間くらいでしょう、ということであったが、ここからがキツイ。重い機材を背負い、さらに日頃の運動不足と朝飯も食わずがたたり、私は2時間かかった。われも早老いたり。



『高浜町誌』は、
 〈 青葉山の土蜘蛛(青葉山麓)
 青葉山は、丹後と若狭との国境にあって若狭富士ともいわれている。
 崇神天皇のころ、この山に「土蜘蛛」が住んでいて、その頭を「陸耳の御笠」といった。山から下りて来て田畑を荒らしたり、家にはいって物を盗んだりするので、天皇は御弟の日子坐の王に、討ち捕えるようにとお命じになった。王が青葉山のふもとにお着きになると、地面や山々はごうごうと音をたてて揺れだし、天からは御光がさして、土蜘妹たちは目もあけていられないので、頭の陸耳は驚いて山を下り逃げ出した。王は方々追いかけまわして遂に、これらのものをお退治になったという。
  〉 

丹後風土記残欠は、
 〈 甲岩。甲岩ハ古老伝テ曰ク、御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)ノ御代ニ、当国ノ青葉山中ニ陸耳御笠ト曰フ土蜘ノ者有リ。其ノ状人民ヲ賊フ。故日子坐王、勅ヲ奉テ来テ之ヲ伐ツ。即チ丹後国若狭国ノ境ニ到ニ、鳴動シテ光燿ヲ顕シ忽チニシテ巌岩有リ。形貌ハ甚ダ金甲ニ似タリ。因テ之ヲ将軍ノ甲岩ト名ツク也。亦其地ヲ鳴生ト号ク

志託郷、本字荒蕪。志託ト号ル所以ハ、往昔、日子坐王官軍ヲ以テ陸耳御笠ヲ攻伐ノ時、青葉山ヨリ墜シ之ヲ遂ヒ、此地ニ到ル。即チ陸耳忽チ稲梁中ニ入テ潜匿レル也。王子急デ馬ヲ進メ其稲梁ノ中に入テ、殺サントセントキ、即チ陸耳忽チ雲ヲ起シ空中ヲ飛ビ走ル。南ニ向テ去ル。是ニ於テ、王子甚ク稲梁ヲ侵テ荒蕪シタキ為ス。故其地ヲ名ツケテ荒蕪シタカト云フ(以下十四行虫食)
  〉 
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 若狭の青葉山信仰
中山寺山門青葉山から東側には古い大寺院がいくつもあったと伝説は伝える。一乗寺・中山寺・牧山寺・宝尾山寺。丹波側の国宝の山門を持つ真言宗君尾山光明寺(京都府綾部市睦合町有安)も含まれると思う。この三国にまたがる高山地帯には古い大寺院が分布している。分布していたと過去形かも知れない。

青葉社は軽く見てはなるまい。若狭側の東峰に祀られる青葉社は、麓に拝殿があって、中山の場合はそのすぐ下が真言宗の大寺・中山寺(高浜町中山)である。この中山寺も青葉社の神宮寺が前身ではなかったのかと思われる位置にある
。『福井県の地名』(平凡社)は、青葉神社(中山拝所)(高浜町中山)
 〈 中山寺(なかやまじ) (現)高浜町中山サマゴ
 青葉(あおば)山の東南麓にあり、西南麓の丹後国松尾(まつのお)寺(現京都府舞鶴市)と相対する。山号青葉山、真言宗御室派、本尊馬頭観音(坐像、重要文化財)。
 創建時は中山寺、再興後は一乗(いちじよう)寺といい、近世以降再び中山寺となった。享禄三年(一五三〇)成立の縁起(当寺蔵)は「泰澄大師栖此山(青葉山)、経星霜間、麓建立精舎号中山寺、本尊者釈迦・阿弥陀・観音安置、自尓以降中絶良(ママ)久矣」と泰澄開創伝承を記し、続けて「爰本願覚阿法印、不思議以寄端、再興之名一乗寺、特本尊者、馬頭明王尊像」と記す。一乗寺の史料上の初見は康永二年(一三四三)三月二二日付の源惟綱一乗寺免田遵行状(当寺蔵)である。文永二年(一二六五)の若狭国惣田数帳写の国領青(あお)郷の項に、除田として「妙法寺二町七反二百歩」がある。青郷内の有力寺院としては一乗寺しか考えられないことから、これを中山寺にあてる説もあるが、古く青葉山南麓、高野(たかの)付近に真言の大寺が存在したという伝承もあるので、決めがたい。
 一乗寺は南北朝以降守護所の祈祷所となり、延文四年(一三五九)八月一一日付の但治光政田畠寄進状(当寺蔵)によれば、北朝方の但治光政が当寺に田畠ならびに山野を寄進して、天下安全の祈祷を行わせている。また国領青保代官大草氏などとの関係も寺蔵文書からうかがわれる。大草氏は寺領形成に深く関与したようである。戦国期には若狭守護武田氏の崇敬を受け、永正三年(一五〇六)四月二二日付の武田元信願文が伝わる。これは武田氏の丹後一色氏に対する戦勝祈願であった。永禄六年(一五六三)四月一〇日に本堂修理が行われ(棟札)、江戸時代には小浜藩主酒井忠勝が再興檀越となって本堂の再興を図っている(棟札)。
 一乗寺として再興後、最盛期には一五坊を数えたと伝える。今残るのは正寿(しようじゆ)院(杉本坊)のみで、中山寺の塔頭として本堂の脇にあり、当寺を管理している。昭和初期まで地蔵院(大門坊)があったが小和田(こわだ)に移転した。本堂内の脇侍毘沙門天・不動明王は、大田和(おだわ)にあったという天台宗大宝(たいほう)寺のもので、大宝寺廃寺後中山寺へ移されたと伝える。その縁で毎年屋根材の萱を大田和から中山寺へ届けるならわしが続いたという。
  〉 

『高浜町誌』(昭60)は、中山寺本堂(屋根の後にかすかに東峰が見える)
 〈 真言宗御室派 青葉山中山寺

   一 所 在 地 高浜町中山
   一 開  創 泰澄大師
   一 開  基 覚阿法印
   一 檀家数   五五戸
   一 本  尊 馬頭観世音菩薩
   一 由緒沿革 当寺は天平八年(七三六)聖武天皇の勅願所として、泰澄大師の創建になる由緒ある寺である。享禄三年(一五三○)の、当寺縁起によれば「泰澄大師弥山(青葉山)の麓に精舎を建立、一乗寺と号す本尊は釈迦、阿弥陀、観音を安置それより以降中絶良久し」とあるように、創建より程もなく中絶したようだが、南北朝のころに至り、今の高野のあたりに、『一乗寺』となって再興された。当時は七堂伽藍二十五坊を構えて隆盛をきわめたという。その後延喜二十二年(九二二)に覚阿上人この寺に入るに及び、本来は天台宗であったが、改めて真言宗となった。更に長徳年間(九九五頃)に、『中山寺』を称することとなり、今日に至っている。
 現本堂は、室町初期の建立で中世は茅葺きであったものを、現在の入母屋槍皮葺きの旧建当時に復して重要文化財に指定された(昭和三七・六・二一)
 本尊馬頭観世音菩薩像は、これまた国指定の重要文化財(昭四三・三・三○)であり、山門である仁王門は、三間に一間半の八脚門で、由緒についてはわからないが、昭和六○年四月修復改建が行われた。その門にある金剛力士阿・吽両尊像は、鎌倉期の作といわれ、昭和五五年六月国指定重要文化財となった。
 そのほか、堂内安置の阿弥陀如来像は行基菩薩の御作と伝え、曽ては境内阿弥陀堂の本尊であった(県指定文化財)。
 なお更に町指定の文化財多数を蔵し、往時の殷盛時代を偲ばせている。  〉 



高浜町の今寺や神野浦にも、資料によれば青葉神社があり、それらはそれぞれ、幻の一乗寺、松尾寺創立にかかわる叟太夫伝説に関連しているのではなかろうかと思われる。





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