有道郷

有路

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大雲橋と大洪水常襲の大河

大雲橋と由良川(大江町有路)
大雲おおくもおおくもおおくも橋(大江町有路)を下流側から見ている。下を流れるのが由良川(古名・大雲川)。右手(西側)が北有路、左手(西側)が南有路である。その名の通りにいつも大きな雲がわいている。正面奥の雲間にかすむ山は鬼どもが棲むと伝説のある大江山である。『和名抄』の加佐郡有道郷(安里知の訓注)はここである、この橋のあたりが有道郷の真ん中あたりになる。郷域は下の志託郷境から、由良川左岸(北岸)は河守郷境(金屋までか)、右岸は全域を有道郷とするようである。よくお世話になる「室尾山観音寺神名帳」の観音寺(大江町南山)はこの郷のもっとも南寄りの地にある。

洪水の水位を示すワラくず(北有路)
台風が来ると「大雲橋の水位」がよく使われる指標となる。この地点の由良川の水位が平常値よりどれくらい上昇しているかという数字である。5メートルが警戒水域だそうで毎年のようにある、洪水の時には10メートルはよくある話、14.5メートルにも水位が上昇することがある(51年前の台風13号時。平成16年の23号では11メートル)、この橋の一番左側(北側)の低いところの高さを越える。
阿良須神社文書に17メートルの記録が残る(藩政期だろうがいつのことかわからない、大雲橋の現在の高さはこの記録を基に決めたのではなかろうか。もし17メートルならこの橋一杯)そんな場合は加佐郡内の死者は400名にも登ることがあったそうである。

昭和28年の13号台風では同年の同町予算額の35倍にも達する被害が出た。壊滅的な破壊とか被害と呼ぶのであろうか。莫大な借金財政をかかえながら、賽の川原の石積みのような復興が進められてきた。ここに書き写していても涙が出てくる。

上の写真は大雲橋北詰の交差点手前(福知山寄り)である。左手の民家、黄色のひさしが出ているが、その上の屋根の一番下に藁クズがひかかっているのが見えるであろうか。これは先の23号台風のものが今だ一年にもなるが残っているのである。ここまで水が来た証である。175号線の向かい写真のなかほどに水位計が見える。一番上昭和28年の13号台風のもの、14m40とある。その下が平成16年の23号台風、12m98。同じバーなのだが、昭和34年の伊勢湾台風、12m90。その下は昭和47年の20号、11m40。昭和40年の24号、11mである。

『大江町誌』は記録に残る有名な由良川洪水を拾っている(挿図も)。
 〈 …享保二十乙卯年の大水が、後年「卯年の大水」といわれるもので、藩政期最大の洪水とされる。奇妙なことに、この水害記が大江町資料で未だ発見されない。覚書牒の筆者はこの時交代しているから、記載もれになったのかもしれない。ただ歴世誌にいう「享保二十年川筋大水 郡中人死四百余 丹波より川口へ流れ来る牛馬其他言語に及ばず」は、簡にして要を尽したものである。綾部藩内山崩二万六九九か所、綾部市梅迫安国寺の仏殿は、この時の豪雨と山崩れで倒壊流失した。

由良川水害の実況(日出 明治29.9.6『大野ダム誌』)
慶応二丙寅年は五月十五日に四丈六尺五寸(約一四メートル)と、八月七日五丈六尺五寸(約一七メートル)と、同月十六日四丈五寸(何れも亀井家文書)と、年内三回の洪水に見舞われた。いわゆる「寅年の大水」である。
 翌々四年(明治元年)七月十八日には再び四丈七尺の洪水に襲われる。


…要するに藩政の頃、由良川下流の住民は、三~四年に一度(慶応二年の如きは年内三度)一二メートルの高水に見舞われてきたとしてよいであろう。

明治二十九年洪水(明治二九・八・三一~九・一)
 八月三十日朝から降り始めた雨は、当初日照り続きの農作物には慈雨と喜ばれたが、夕刻に至って俄然豪雨に転じた。由良川は不気味なうなりをあげて増水し、最高水位福知山七・九メートル、大江町で一三メートルに達し、慶応二年以来三○年ぶりの大洪水となった。
 このときの府下全域の被害は、死者三四一人、負傷者三一二人、行方不明一八人、流失家屋一、七一二戸(府誌)であったが、そのほとんどが由良川流域に集中していた。

明治四十年洪水(明四○・八・二五~二六)
 明治四十年(一九○七)八月二十三日は耐え難い蒸し暑さで異変の到来を予感させた。二十四日より降雨が続き夜に入ってますます烈しくなった。二十五日は、一時雨は止み洪水も漸次減水の兆候を見せたが、午後二時ごろ俄然雷を伴い大地も鳴動する大豪雨となり、二十六日午前四時ごろまで続いた。この間の総雨量は、河守で五三六・二ミリを記録した。由良川は再び増水し、最高水位一五メートルという古今に類例のない大洪水となった。
 全府下の被害は、死者七三人、傷者一八五人、家屋全壊一、五四八戸、流亡一、一八一戸、半壊一、五八三戸と記されている。

大正十年洪水(大一○・九・二五~二六)
  大正十年(1921)九月二十五日、朝より大雨となり二十六日午前零時頃より台風豪雨となる。総雨量二一七ミリに達し、由良川筋は二十六日風雨の止んだ後も刻々増水して、河守町・河西村で三○尺(九・○九メートル)、有路上村で三六尺(一○・九メートル)(以下略)(加佐郡々制史)

(最近の-引用者注-)過去八○年の出水記録から判断すると、その洪水頻度は次のようである。
 五~八メートル  一年半ごとに
 八~一○メートル 四年半ごとに
 一○メートル以上 九年目ごとに
 手を供いておれば五年ごとに国道にのるほどの氾濫を予想せねばならぬわけである。
 大野ダム構築は有力な治水策とされるが、反面下流域の滞水時間を長引かせており、上流各地の堰堤や護岸は、下流域の水禍を増加する結果を生み兼ねない。

このダム(大野ダム-引用者注-)は洪水調節専用のダムではなく、発電も行う多目的ダムであるので、洪水の調節に使用可能な容量は、総貯水容量の七五%である。また、大雲橋の計画高水流量を毎秒六、七○○トン(福知山毎秒六、五○○トンとすると、ダムの洪水調節効果毎秒九○○トンは、わずかにその一三%である。(由良川計画高水流量配分図参照)
  「大野ダムの建設だけでは治水問題の解決にはならない。……ただ長い間停頓していた治水事業の第一段階を実現したというに過ぎない……。」(昭和三四・九高宮府議議会発言)のが、下流域の実情である。  〉 


としている。特別に大江町だけがそうであるわけではない。由良川流域はみな多少はそうであるはずなのだが、すぐ下流の舞鶴市の由良川流域の方はこんな経験式がある話をきかない。福知山水位の2.5倍が阿良須水位だそうで、この狭い勾配のない谷間に入ってくると水位は一気に高まるようである。事情は下流の舞鶴部分とて同じはずである。
 たぶん舞鶴市にとってはこんなことは所詮は片田舎のどうでもいい事件なのであろうか。この地で市政に対する強烈な批判、特に洪水対策に対して聞くことがあるが、わかるような気持ちもする。合併して町が大きくなればいいというものではないことがわかる。由良川流域が舞鶴市となるのは昭和32年だったか、13号台風時は舞鶴市ではなかったといえ、その洪水記憶は引き継がれるものであろう。04年のバス事件をいい教訓に、全世界の注目が今だに集まっているところである、真剣な対応を強めたいものである。由良川治水は今世紀に課せられた大課題である。これは細川忠興の瀬戸島掘削以来の、府による大野ダム建設以来の久々の歴史に残る大事業となることであろう。なかなかの名将でも難事業であり、完璧な事業は無理であった。タヨンナイとささやかれる舞鶴市さん、全世界が頼りにしてますよ。
昭和57年の洪水・河守付近
 大江町について言えることは、こんな貴重な洪水の記録を作って、よくよく洪水の怖さを知っているはずなのに、なぜにその洪水に浸かる場所に新役場を建設したのかということであろうか。何のために『大江町誌』はあるのだ。この書の口絵には、ちょうど新役場のある場所が濁流に呑まれている写真が載っている(上写真)。これは昭和57.8.2の台風10号の時のものに新役場の位置を加えたもの(もう少し右か)。水位は8.63メートル上昇したという。この程度の洪水で水没する。この程度の水害は上の経験式からは4年半ごとにある。.
 駅前の一等地で便利か。昭和62年に1~2メートルかさ上げして現在地に建設したという。それくらいのことでは駄目だということは、古い神社仏閣のある所を見ればわかろう。いずれもずいぶんと高い場所に建てられている。そしてまたその新庁舎一階に命より大事な無線室を置いていた。これが最初に水没して肝心の時には何の役にも立たなかった。32年目にしてあの大被害をきれいさっぱりと忘れてしまった。
最近は避難勧告に応じない住民が多いというが、行政が率先して逃げないでは笑い話にもならない。村作りや町行政どころか、自分たちの住む郷土に対する基本認識が根本的に疑われる。思想が基本的に誤っているのでないのか。高齢者を多く抱えてどう大洪水に対処していくのだろう。人間とはかくも愚かで頼りないものなのであろうか。ド真剣な再検討が必要であろう。「大洪水記念館」でも建設されて恐ろしい洪水をよく人々の記憶に残す措置が必要なのではなかろうか。
右の写真は大江町役場、一階のカウンターの上30センチまで水は来たそうである。机の上のバソコンなどは頭まで水がくる。だいたいこのカメラの目の高さである。前に駐車している車の屋根を越えるほどの高さである。大江町役場(河守)

 人間はたとえば適当に3桁の数字を10個ばかり書いて、電卓やソロバンを使わずに合計をだせ、と言われれば理解されようが、まず間違うものである。
ひとりひとりの人間もそうだし、そんな頼りない者が集まった巨大組織もそんな程度のことでも間違える。
情けないほどの脳味噌しか持っていない。いかに事前調査をしていても間違えることはある。ここはしかし事前調査をして、いやしなくても、都合の悪い現実や歴史から目をそむけなければ、防げたことである。自然相手に傲慢に、か弱い人間が思い上がった、思考の省略と過去の省略、近頃の憂うべき風潮とはいえども郷土の実態からまったく離れた町作りの水上楼閣建設を子孫達は笑うであろうか、泣くであろうか。自国民相手ならまだしも自然相手や他国相手にはこれらの省略は成り立ち得ない。町の危機感であろうか閉塞感であろうか。焦りがあった。焦って思考を省略した。キレてしまった。町作りはあわててやるようなものではない。人間の知性を結集して作ってゆくべきものだろう。砂の上に家を建てる者は愚か者なり、岩の上に家を建てる者は…、何かそんなキリストの教えがあったようだ。ましてや水ノ上に家を建てる者や、火の車の上に家を建てる者にいたっては、…。ひょっとすると全体としてヘンジン・キョウジン社会へと成り下がりつつある現在日本社会への警告かもしれない。キリストが教えたように岩の上に、強固な地盤の上にこそ家を建てよう、せめてそれくらいは理性のある社会にしていこう。

 小泉人気も故なしではない。政治は何もわからん選挙にも行ったこともないバカ者が単純な男の単純な叫びに同調して投票したとも言われる。それも当たっていようが、それだけではない。こうした血税の使われ方、そうした神経の蔓延が背景があるのであろう。これに少しは目を向け「殺されてもやるゾ」の決意を見せた政治家や行政官は、彼以外にはないようにも見えるようだ。
もっとも彼がそうした国民の期待に本当に答えてくれほどのものであるかどうかは別ではある。
郵政民営化について言えば、本当はこれを国民は否定したのである。選挙制度が民意を正確に議席数に反映しないので、何か誤魔化されているが、本当は国民は民営化を否決している。国会も否決し民意もこれを否決した。『朝日新聞』(9.26天声人語欄)は、

 〈 自民、公明両党の候補者の得票数を合計すると、ざっと3350万票だった。一方の民主、共産、社民、複数の新党や無所属を全部合わせると3450万票を越えている。なんと、100万票も与党より多いではないか。  〉 

これは300小選挙区の票の話である。比例区はどうなのか知らないから、調べて下さい。
票が正確に議席数に比例しないという、議会制民主主義の根幹部分、選挙制度がおかしいので選挙の結果は御存知の通りである、投票数が正確に議席数に反映されない、一種の民主主義の粉飾決算が行われる、商法ならサギで有罪だろうが、自由な政治の世界はおとがめなしらしい、マジックの世界のようである。何も小泉が大勝利したのでもない。郵政民営化は民意というのは大ウソである。本気に民意を言うなら、半数を上回る反対表こそ言うべきである。
 郵政民営化ですべてがよくなる。そんなサギ商法のような宣伝文句が本当であろうはずはない。それをよく有権者は知っていた。国家公務員としては郵政公社職員は27万人で確かに最も多い。しかしさてその次が自衛官25万人である。これはどうするのであろうか。郵便局は仕事をして国民のためになっているが、自衛隊は別に何をしているわけでもない、大仕事をしてもらっても困るわけだが、次の改革は自衛隊の民営化であろうか。もともと憲法に反したものにこれだけの無駄遣い、これは改革しないほうがおかしい。自衛隊こそが改革の本丸。自衛隊民営化ですべてがよくなる。こう彼が言っていたなら本当に彼は勝てたであろう。しかしそんなことは一言もいわなかった。

 コンビニがない、パチンコ屋がないとこの町の高校生は嘆くんですよという。そういえば確かにありまへんな、しかしそんなものはなくてもいいやないすかという。公衆電話が消え、バスが消え、農協が消え、信金が消えた。まもなく役場が消え、郵便局が消え、林業が、農業が消えるだろう。病院が、鉄道が消える、そしてやがて住めなくなった郷土から人が消え、村が消え、町も消える。このまま30年もすれば何もかもがきれいさっぱりと消えてなくなる。そうなるのかも知れない、そんなことにならぬよう気張って勉強してくれ。町の未来は諸君にかかっている。

「23号台風時の大江町をふりかえる」(両丹日々新聞記事)。
この記事をそのままコピーさせてもらいました。「丹後の伝説16」

大雲橋やこの写真の右手には「大雲の里」とか「大雲記念館」とかいった施設が新しく作られているので、「大雲」という古代地名と何か関わりのある地なのかと調べてみたのだが、関係はないようである。外宮(大江町天田内)のある地について次のように書く書もある。『磯砂山の昔ばなし』(松本寅太郎・H16)に、

 〈 『丹後国古事記傳』によりますと「景行天皇御宇壬申二年比治真奈為之原ヨリ同国大雲原引遷候事」の記録があります。
 大雲原は大江町の外宮のことですが、茂地の真名井原から一旦この地へ移して祀られ、その後伊勢へ遷られたとなっているこの説なら、茂地は元伊勢の更に「その元」となります。
 豊受大神が伊勢へ遷座された時の伝承として、大正十四年十月の橋立新聞及び、『村誌』には「岩滝より中郡に越える右(左)坂峠は、大内峠や水戸谷が開裟される前は、唯一の中郡街道として利用されていましたが、その峠を別名「大荷坂(おおにさか)」というのは、豊受大神が伊勢へ移られる際の多大の荷物が此処を越したから」という、由緒を掲載しているそうです。  〉 

茂地は峰山町五箇から磯砂山へ入った所の地名である。『丹後国古事記伝』という書がどんな書なのか私はまったく知らないのだが、それによれば河守の地(天田内だけかも知れないが)、そこを大雲原と呼ぶという。
有路は太古より渡しがあったであろうが、明治28年にここに板橋が架けられ、公募でその橋を「大雲橋」と命名したということらしい。それ以後の新しい地名であった。『大江町誌』にくわしい、、
 〈 工費2053円余… 明治二十七年十二月に着工し、翌二十八年(一八九五)四月十一日竣工の渡初式を挙行した。橋名は村民から公募し大雲橋と命名された。公募の中には、有路橋・南北橋・大雲川橋などがあったが、この写真(略-引用者注-)もその一つで、大雲橋架橋の意義が簡明に記されている。まさに由良川本流最初の大橋であった。渡初式の祝詞で、郡長石田真平は、「本流上下の渡し場も、年を追い橋梁架設の企てあるを見るに至るべし。先鞭嚆矢 他を誘発する 亦徳とすべきなり」
 と、そのさきがけの意義を強調している。渡初式は、あたかも日清戦争勝利の直後で、軍国調の色濃いものであったという。
 この時の橋は、水面より数メートルの低いもので、少しの出水にも冠水するので、橋桁に乗せた橋床の板は取りはずせるように置かれ、責任を持つ人夫が決められていて、流失の危険が近づくと橋板を片付けたという。
 産業革命に伴う鉄道・港湾その他の建設がさかんになり、流域の山林が濫伐されて洪水が頻発してきた。
せっかくの橋も再三再四流失破損を受け、そのつど巨額の消費と苦労が重ねられた。明治三十七年流失のあと、本格的な高い橋に架け替え、さらに昭和五年流失のあと、七年、位置を郵便局横に移して、橋脚を鉄筋コンクリートの永久橋に改良した。この橋も大洪水には冠水し大江町が孤立するというので、昭和四十五年、現在の大橋に改良されていったのである。  〉 
大雲橋(大江町有路)
こうした橋、国道や府道以外の架橋費は半分は地元が負担して建設したようである。巨額を投じた橋がせっかく完成しても次の年の洪水で流失することもあった。
『大江町誌』.は、
 〈  架橋に要した地元負担は、村民の経済・村財政を長く圧迫し、昭和大恐慌の深刻さも、他村以上であったと伝えられている。  〉 

これは過去の物語なのか、それとも今日か明日の物語なのか。太古よりの原始河川、名うての暴れ川、橋も堤防もない川に、悲願のはじめての橋らしい橋が架かった。




大雲橋のあたりは舟運や渡しと陸上交通の交差する場所であり、来寿森神社の鎮座する 九日ここぬかここぬかここぬか町(南有路。この名のバス停がある。右下写真の左手の少し高いところ)のあたりは、大正末期から昭和初期のころは、たいへんにぎわった町並みがあったという。ここにはタクシーもあったという、ゴッツォをごっそりとつめた重箱をかかえて村人が集まる朝日座という劇場まであった、三味のつま弾きも聞こえたという何と文化的な大都会だったのだろうか。そんな立派なものは今の舞鶴にもあるだろうか。市民の交流と連帯、それに基づく生き生きした町にしよう、私などが若い時代に夢見たものなどは夢のまた夢と消えた。
 いつぞや大雲橋を夜越えたときに、橋の下の川原の方で「水無月祭」をやっていたようだ、うかれた村人が道路上をうろうろしていて危なかった。水無月=水着き、遠い昔の川港のまつりだろう、何か今にも雨が降り出しそうな夜だったが、あれあたりが、この華やかなりし当時のなごりなのではなかったろうか。九日(南有路)

 小学校もある。ワシはここの小学校やった。小学校四年生の時が終戦やった。という人から少し話を聞いたことがある。
「ビンタな、ようどつかれたで。何回どつかれて、床の上にひっくり返ったかわからんくらいや」。「喰物なんか何もあらへんしな。まともに喰えるようになったんは高校生くらいになってからやな」という。こんな田舎の年端もいかぬ低学年までもドツイタようである。そうなのだろう。沖縄では小学六年生は応召して戦争へ行ったという。あの大機械化部隊を相手に小学六年生が素手で戦った。誠によい教育をなさったものである。事情は何も有路の学校(有仁小学校)だけのことではあるまい、どこでも似たり寄ったりと思われる。各小学校の百年誌などがよく発行されるのだが、こんな話はたいていの学校誌がまったく触れていない、史実は抹殺されている。おかしな話である。戦争によって完全に学校教育が崩壊した痛恨の学校史であるのに、それについては何も書かない。ご立派な姿勢で、何を考えてお作りかと疑いたくもなる。教科書にもこんな実話はしっかり取り上げ火の文字で書き込んで、学校にも戦争が来たのだと子供達にしっかりと教えるべきである。この年代はもう70歳前後であり、今急いで証言を集め保存しないと完全に地上から記憶が消える。彼らの記憶が消えたときまた「よい教育をして戦争でもはじめるか」となるかも知れない。
『伊根町誌』は、
 〈 御真影の拝戴と奉安殿の建設
 昭和三年(一 九二八)十月二十六日、京都府庁において各小学校ごとに天皇皇后の御真影が下賜され、各学 校の校庭には、校門附近に児童が毎日登下校の際に奉拝できる場所に、コンクリート製の特徴のある一定の形をした「奉安殿」が建設され、「教育勅語」と共に奉置され、校門を出入の際には必ず敬礼をなした。また御真影は四大節(一月一日-四方拝、二月十一日-紀元節、四月二十九日-天長節、十一月三日-明治節)等のおりには講堂正面に安置され、奉拝させ、忠君愛国の思想をやしない、皇室に対する敬虐の念の徹底がはかられた。  〉 
これが「学校」であった。ほんの60年前まではこんな明るいすばらしい学校であったことを百年誌よ忘れずに必ず書いてくれ。何も過去のことではない。愚か者が必ずまた繰り返す。国旗だ国歌だ。もう少し『伊根町誌』を引きたいくらいに.近づいてきた。次は何だろうか。
(沖縄読谷村、米軍海兵隊大機械化機動部隊が上陸した村だが、村役場は「村史戦時記録編」を編むにあたって、6人で14年をかけて全生き残り村民2800名のその時の様子を聞き取り調査したという。一家族一家族、各字(舞鶴あたりの小字)のあの時を一つ一つを復元してゆく。痛恨の念の鬼気迫る迫力である。
これらはWeb上にも公開されている「読谷村史」
偉い、偉すぎる。それと較べるとき、われらは何をしているのであろう。××町は少し目は向いてはいるが町民の聞き取り調査をした形跡はないようである。××市ももちろん何もない一般市民に向ける目は弱すぎる。そんなモンはどうでよろしいがな。ということであろうか。何の為の誰のための歴史を編んだのであろうか。情けない、情けなすぎる、ハナクソでも貰ってきて呑もうではないか。こうした当市の精神理念が「赤レンガ倉庫群」(旧海軍倉庫)も観光で使おうなどいった発想が右からも左からもヘッサラで出てくる背景なのであろうか。やはりこれは狂っているのではないか。私は一人でも半分でも言い続ける。そんなものを観光化するなと。
村といえば舞鶴あたりではだいたい小学校区の範囲である。行政の単位はどれくらいが住民にとっては望ましいかを示してもいよう。)有路郷のトップへ



有道郷と式内社・阿良須神社(大江町北有路)


アリヂや当地の式内社・阿良須あらすあらすあらす神社の名の意味についてはすでにいくらかは書いた。
「丹後の伝説4」の「丹後の金工地名」
「朝来・志楽」の「有路」

式内・阿良須神社(北有路)
 阿良須神社の社頭を国道175号線が、現在はバイパスができてこの神社の裏山を通るが、以前はこの前を通っていた。この辺りを「阿良須の坂」と呼ぶ。大江町金屋にある大江高校は舞鶴市岡田地区も校区に入っており、ずいぶんと遠いと思うがここまで自転車通学をする。雨の日、雪の日はこの坂は特に難所で、高校時代の思い出話はまずこの坂道になる。


阿良須神社本殿
 さてその阿良須神社のその意味であるが、意外にも「偽書・風土記残欠」が正解を伝えていた。読みようによっては意外にも正解である。もうそろそろ真面目に偽書呼ばわりはやめよう。これまで見てきたように、いたる箇所で偽書説は崩壊した。我々は残欠を信じよう、そうしてはじめて加佐郡の思いもよらぬ真実の古代が本当によみがえる。残欠にはまことに驚く記事が残されていた。まことに有り難い書であった。もっとも残欠を『大江町誌 史料編』はそのトップに掲げている。
 こんな大事な箇所に大学者大先生たちは気が付かなかったようである。彼らとて意外と頼りないもののようである。丹後の小牧進三氏を除いては。
 加佐郡とは鉄だ、と私は叫んでいる。荒野に一人吠えていたのであるが、強力な援軍かあった、残欠もここだけであるが、なにやら鉱山と関係がありそんな記事を残してくれている。
『丹後風土記残欠』に、

 〈 有道郷 本字蟻道
有道ト称ル所以ハ、往昔、天火明命ガ飢テ此地ニ到ッタ時。往ニ随ヘテ、食ヲ求メテ螻蟻ニ連行サレタ所以ニ、穴巣国ニ在ル土神ヲ見タ。天火明神ハ食ヲ請フタ。土神ハ歓喜テ種々盛饌ヲ奉饗シタ。故ニ天火明命ハ土神ヲ賞シ、且、爾後ハ蟻道彦大食持命ヲ以テ称ト為スベシト詔シタ。故ニ蟻道ト曰フ也。亦、蟻巣ト云フ神祠ガ有ル。今、阿良須ト云フハ訛レルナリ。(以下七行虫食)  〉 

この記事から、これらの地名や神社名が鉱山名らしいことがわかる。また丹後海部氏の祖神の火明命も、ここではどうやら鉱山神らしいと思われる、海神が土穴の中に入ったりするだろうか。海部氏とは意外にも本来は鉱山と関わる氏族らしいことがほのかに見えて、有道の地も後に海部氏と呼ばれる鉱山採掘一族の拠点の一つらしいことがわかる。阿良須神社案内板(クリックして下さい)
 昆虫の蟻が穴の道を掘っていくように、鉱山師たちがここで蟻の道を掘っていた、よって有道・蟻巣だというのである。深く鉱山とかかわる地であったことが知られる。現在でもこの地には多くの鉱山跡が知られている。現在稼働した所はないようであるが、残欠の記事通りの意味であっても何も不思議でない地である。
 残欠の有道郷にこのように記事があり、残欠の神名帳にも由良川筋のグループのなかに阿良須社と見える。同名の神社は舞鶴市にもあるが、式内社はこの有路の社と見なければなるまい。「室尾山観音寺神名帳」の正三位有栖明神とあるのもここであろうと思われる。しかし江戸期にはこの地の阿良須の社名は失われていたようである。
 『丹後史料叢書五』所収の「丹後国式内神社取調書(京都府社寺課)」は、明治10年代の中頃のものらしいが、それによれば、
阿良須神社
 〈 【明細】北有路村祭神十倉大明神祭日九月九日
【道】同 
【式考】祭神ハ吾田津姫命ト傳フ今モ安産ノ社ト里俗ノ云フヲ聞ニ阿良須ハ令生(アラス)ノ義ナランカ、サレド丹後風土紀ニ所以號有道者往昔火明命飢到于此地之時云々土神云々奉饗種々盛饌存天火明命賞土神且詔曰爾後汝須以蟻道彦大食持命爲称焉故蟻道也云々今云阿良須者訛矣トアレバ安産ノ神ト云モ後人ノ私説ナラン
【豊】所在同上字呵良須祭神神吾田津姫命九月九日 

【明細】というのは、府が各神社より徴したものだろうという。【道】は、岩滝町板列八幡社の社家による書らしい。【式考】は籠神社の大原美能里氏の書という。【豊】は豊岡県式内神社取調書。皆明治初期のものである。
明治のはじめのころは十倉神社と呼ばれていたものである。有路には十倉神社が五社あって十倉五社明神とも呼ばれるが、ここはその二宮である。安産の神様と信じられており、元気な子が生まれるという。

しかし阿良須の意味は残欠が有路と同じで穴巣(あるいは蟻巣だろうか)のことと書いているのだから信じるより手はない。生まれるの意味のアラスではない。「生まれる」の意では残欠にも後の十倉という社名とも合わなくなる。舞鶴や大宮町のアラス、全国のアリスなどの地名とはどうであろうか。祭神の神吾田津姫命というのもどうであろうか。ここは残欠の述べるとおり蟻道彦大食持命が本来の祭神だろうと思われる。ウケモチは普通は食物の神であろうが、ケには金属も含まれるというのが私見である。地上の生活の豊かさをもたらすものすべてがケなのではなかろうか。そうでないとウケ郡=カサ郡(ケサ郡かも知れない)が成り立たなくなる。ウやカは接頭語で発音上のものくらいでたいした意味はない。ケ郡=サ郡なのではなかろうか。ここのケもサも金属を指すのではないかと考えている。古墳があるという。『大江町誌』は(図も)、

 〈    阿良須神社境内古墳 大江町字北有路阿良須神社古墳出土物
 〈  阿良須神社は式内の名神として尊崇され、その前方に拡がる田圃は条理制地割が確かめられた由緒の古い神社である。かつてその境内から古墳に随伴する土器(瓦偏に泉…何と読むのであろうか。漢字辞書にもない-引用者注)一福知山高校保管。蓋杯一椀一、大江高校保管)の出土が報告されたため、府遺跡地図では境内古墳として登載された。しかしその出土地点は不明で永年の謎であった。最近のききこみ調査で得られた証言次のとおり。
 イ 昭和五十七年土器発見者真下愛治その他の証言で確かめ得た点は、・出土地点 境内西北隅堰堤のつけ根にある凹地。・昭和三十年ころ祭礼用のぼり棹の格納小屋 の壁土を取った時発見した。土器は地表に近くほとんど表採である。・土器は硬質 須恵器(長頚壷)は大江高校へ持参した(図)。(現在所在不明)
 ロ この半年以前に壷の破片を石段下の広場で拾った。須恵器?(河口)
 ハ 府が古墳と認定した資料は次頁写真の椀や杯である宝出土地点時期状況等不明) 拝殿後方に低いマウンドの盛り上りがある。本体はこれかもしれない。  〉 

横穴とも縦穴とも、いつの時代の物とも書かれていないようだが、この須恵器からだいたい推測できよう。古墳から神社ができたらしいというのも興味が引かれる。もっと古いのがあるのではと感じは持つが現在の所はない。
「瓦+泉」はハソウと読むのではなかろうかと思っていたが、そうであった。これは何をするための容器であろうか。
『世界大百科事典』は、伝世鏡論の小林行雄の説明を載せている。
 〈 須恵(すえ)器の器形の名称。胴部に小さい円孔を一つあけた壺である。円孔の周囲に短い管状の注口をつくることもある。頸(くび)の広いものや狭いものがあって、狭いものは指がはいらぬほどで、液体の容器であることを示している。竹の管を円孔に挿入して、注器として使用するものであろう。竹の管に口をつけて内容物を吸い上げるとか、孔に口をあてて吹き鳴らす楽器であるなどというのは俗説である。須恵器にこの器形が現れたのは朝鮮の影響によるもので、日本では土師(はじ)器にもまれにこの器形がある。ただし、〈延喜主計寮式〉に見える瓦+泉は容量5升の須恵器で、〈つちたらえ(〈土手洗〉の義)〉の訓がついているから、広口で浅い器形かもしれない。また〈延喜造酒司式〉では〈はそう〉に〈厭〉の字をあてているが、このほうは酒の容器であり、陶厭の口をつくる料として篦竹(のだけ)を計上しているので、考古学用語としての瓦+泉に近い器形を連想することができる。     小林 行雄
 〈 世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス  〉 

『由良川考古学散歩(36)*酒壺ふたつ』(舞鶴市民新聞97.5.6)は、
 〈  古墳時代の後半に使われた容器の一つに (瓦偏に泉)(はそう)と呼ばれるものがある。
壷(つぼ)の形をしてはいるが、胴体には穴があけられている。底は丸く、置いてもすぐに転がってしまう。のままではなんとも使いようがない。ではどうやって使っていたのだろうか。
 胴体の穴には竹のような管状のものを差し込み、手に捧(ささ)げ持って、液体を注ぐ容器として使ったという見方が一般的だ。それでは中に入れた液体とはなんだろうか。
  (はそう)は人生最終の儀式を行うお墓から出てくることがとても多い。お葬式で使われる特別な溶器なのだ。人の死を悼む場面で飲まれる液体といえば、酒の可能性が高い。今も昔も嬉(うれ)しいにつけ悲しいにつけ、酒はなくてはならないからだ。簡単にいうと、 (はそう)は酒壷ということになる。
 昭和五十七年(一九八二)、綾部市小西町にあった中山古墳第三主体部から数点の杯身(つきみ)や杯蓋(つきぶた)とともに大小二つの酒壷が出土した。この大小の容器にはどのくらいの酒が入るのだろう。こばれないように穴の位置までの容量をちょっと量ってみた。小さい方は約一五〇cc、コップ一杯分だ。大きい方は約一〇〇〇㏄、コップ七杯分になる。このことから、小さい方は一人用の酒壷で、大さい方は多人数で使える酒壷だということがはっきりと分かる。
 中山古墳第三主体部では、酒壷の置かれ方が興味深い。小さな酒壷は棺の中に、大きな酒壷は棺の上に置かれていたのである。この状態から中山古墳での別れの場面が浮かび上がる。小さな酒壷を持ち、ひとり旅立つ王の姿。嘆き悲しみながら大さな酒壷を捧げ持ち、そして傾ける参列者たち。よく見ると大きな酒壷の口の部分は打ち欠かれている。参列者が酒を飲み干したあと、棺と一緒に埋めるため、決別の意味を込めて割ったのであろう。
 生命の貴さに今も昔も変わりはない。この二つの酒壷は千五百年前の計り知れない悲しみを今に伝えてくれている。     (三)  〉 

ハソウは明器ではなく本来の用途は何かの蒸留装置なのだろうが、これを水銀の蒸留器だと考える人もいる。松田壽男氏である。『丹生の研究』でも書かれているが、ここでは雑誌に発表されたものを引いておこう。『東アジアの古代文化13』に、(図も)
 〈 丹生と地名    松田壽男

    一 丹生

 同じテーマは、私の若『古代の朱』(昭和五十年、学生社刊)で取扱ったことがある。ここではもちろん筆を簡略にするが、委細はこの書物へあるいはその典拠となった私の『丹生の研究』(昭和四十五年、早稲田大学出版部刊)を見てくだされば、幸甚に思う。
 さて、日本人は縄文土器の流行した古代から、赤色を染料ないし塗料としていた。赤色には水銀系(朱砂、硫化水銀)と鉄系(酸化第二鉄、ベンガラ)とがある。前者は「ニ」といわれ、後者は「ソホ」と呼ばれた。「ニ」は「丹」である。丹字を「ニ」の助詞として使った場合が古典に見られる。しかしもともと丹字の音はタンであって「ニ」の音をもたない。私の判定では、それは、日本人のいう「ニ」が中国人のいう
「丹」と同一物であったからであろう。丹生すなわちニフ(ニウ、ニュウ)は「丹が生まれる」または「丹が発生する」ところという意味だから、丹生は古代の水銀産地でなければならない。私はこう考えている。
 丹は辰砂・朱砂・丹砂で、赤色の土壌である。「ニ」はいうまでもなく丹砂(朱砂)であるが、この丹砂(朱砂)からどうして水銀を採っていたか。それは化学方程式を使って説明すれば、
  HgS+O2=Hg十SO2ハソウ
となり、工程ではエア・リダクションと呼ばれる。もちろん逆の場合も可能で、水銀から容易に朱砂(丹砂)を採っていた。朱砂を熱すれば水銀が得られ、逆に水銀に硫黄を加えて熱すると朱砂となるわけである。こういう丹砂(朱砂)の処理を行なったのが、考古学でいうハソウ(瓦+泉)であろう。だいいち胴が球体をしており、口縁が広い。その上に蓋をして、シッカリと胴に密着させたことを思わせる。上部にのせた蓋には下部の球体で気化したガスを水中に導く装置があったにちがいない。胴体には小孔があけられ、もちろん空気孔として役立った。福井市本堂町から出土したハソウは明らかに実用品として再三使用されたもので、高熱をもって作製され、胴体の内側には朱砂が残留している。ハソウは全国にわたって出土するが、多くは祭事用だ。このことはむしろ逆に太古代にハソウが実用品としてさかんに使用されていたことを語る。もちろんこれらは低熱で作製され、装飾的要素も加えられ、転ばないように下部に台をつけたのもある。祭事用が長く伝わったのに対して、実用品は壊れたら捨てる式になりがちだから、いま残っているものがすぐないのであろう。
 丹砂(朱砂)が染料として使われたことは『日本書紀』の丹裳(にも)を思うがよい。塗料として用いられたのは、『万葉集』の丹塗(にぬり)の船、また奈良の枕詞とされている「青丹(あおに)よし」を思うがよい。そのほかに、顔料としても使われた。これに対して水銀は「丹薬」として用いられたばかりでなく、アマルガム精錬に使われていた。『万葉集』の時代に水銀を金・銀・銅などと任意の割合で合金するとアマルガムになることが知られていた。金のアマルガムを青銅に塗りつけて、木炭で焼くとアマルガム鍍金(奈良の大仏を参考するがよい)ができ、金・銀・銅とのアマルガムは熱を加えると諸金の粉末ができる(これをコナガネといった)。こうして七・八世紀の日本では後代に思いもかけないほど鉱物処理が進歩し、そしてりっぱな技術をもっていたのである。『万葉集』から引用しても「まがね吹く、丹生の真赭(まそほ)の、色に出て、言はなくのみぞ、我が恋ふらくは」とか「仏造る、真赭(まそほ)足らずぱ、水溜る、池田の朝臣(あそ)が、鼻のへを掘れ」とか「何処にぞ、真緒掘る岡、こもたたみ、平群が朝臣が、鼻のへを掘れ」の三句が残っている。当時の正史には見えないにもかかわらず『万葉集』のなかではこれほど記念すべぎ歌が遺っていたのである。「まがね」は黄金であり、真赭は赭すなわち酸化第二鉄(ベソガラ)と区別するために「ま」をつけたもので、丹砂(朱砂)を指し、水銀系の赤色である。
 水銀は青銅鏡の磨研にもさかんに使われていた。鏡は日常生活に密着している。これの磨研がなければ曇るという事実に注意しなければなるまい。さきに私は水銀が「丹薬」として使用されたことを述べたが、これには少々説明が必要だ。水銀は悪い細胞を殺す。この性能が延命薬として、不老長寿の薬(丹薬)として使われたわけだが、外用としても役立った。シミやソバカスを消し去って、「色白くなる」のは、悪い細胞をとり、新しい細胞に代えるからであろう。「黒竜」なんて銘を打った「水銀おしろい」が最近まで存在したのはそのせいである。またわが国では仁丹とか宝丹とか清心丹とか名づけられた口中に含む清涼剤がある。商品名の最終に附けられている丹の字は、丹砂つまり朱砂の意味であって、丹とか丸とかいう球体を指してはいない。これらはむかしの丹薬に系統をひく薬品で、丹砂(朱砂)でコートされていた。それが明治の初年に水銀の薬用が禁止され、現在のような色になったと聞いている。弘法大師(空海)いらい、真言修験の道者はそれを販売することによって生計を立てていたのではないか。…  〉 

加悦町古墳公園中の『はにわ博物館』にもこのハソウが一つ置いてあった。展示してあるのではなくテーブルの上に置いてある。直径が10センチ足らずくらいか、上の口は欠けてないが、丸い容器の横手に何とも不可解な穴があいた厚手の須恵器で、どうみてもハソウのようである。
ここにはえらいベッピンさんの事務員さんが一人いて、その彼女がこれを摘んで持ってきて、「これは何に使った物でしょうね」と問うのであった。
ドキッとしているところへ、よりにもよってこんな難しい物をつかんでくるとは、さては彼女は事務員さんではなく学芸員さんなのだろうか。コヤツめはただものではないぞ。と思い大汗かきながら松田博士の受け売りをしておいた。
「とてもアタマのいい方なんですね。」
と褒めていただいた。(もう息絶え絶えの状態だったため、勝手に都合良く誤解しているかも知れないが)
火に掛けたような跡がないから古墳の明器ではないかと思ったのだが、どこから出土したものとも聞き忘れてしまった。今度行くことがあったら聞いてみよう。ハソウから採れる水銀は不老長寿の薬として使うごく少量のもので、ハソウが明器となっていても理解はできる。

さて下図は『大江町誌』挿図の「大江町鉱山分布図」に若干の情報を加えた。加佐郡有道郷はだいたいは由良川の南側の一帯である。川守郷の大江山が鉱山の山であることはよく知られているが、有道もかように鉱山地帯である。特に鬼ケ城山の麓あたりは少なくとも中世以来の鉱山として知られる。他の地域にも古代に遡るともっと古い鉱山があったものと残欠からは推察できるが、現在はそうした古い鉱山跡は知られていない。

鉱山分布図

『大江町誌』は、
 〈かつて町内には福知山鉱山、仏性寺鉱山及び河守鉱山(日本鉱業株式会社河守鉱業所)の三鉱山があった。福知山鉱山は大正九年に、仏性寺鉱山は昭和二十年ごろそれぞれ閉山して廃鉱となった。大江町発足後も町内唯一の大手企業として操業を続けたのは河守鉱山であるが、この鉱山も昭和四十八年には閉山となった。  〉 

有路(有道)が残欠が書くように蟻に基づく鉱山地名だとは、現在は一般には認められてはいない。蟻だからアリヂだは、まああまり信用できそうにもない話にも思えるが、アリの本来の意味がわからずに蟻とそう理解しても、そう誤解しても無理からぬというこの地域の実態があったのではなかろうか。蟻と呼ばれ土蜘蛛と呼ばれ、鬼と呼ばれるが呼び方の違いだけで実態は同じものを指しているのであろう。鬼は中国の概念で日本社会に定着するのは平安末期といわれる。鬼は新しい概念である。土蜘蛛は侵略者から見た呼び方で、己の不法な侵略を正当化するためにそのように呼んだということであろう。文化の違う異国人をみればテロ集団と呼ぶどこぞの国々と同じである。どちらがテロ集団かまじめに反省をしてみるのもいいだろう。蟻と呼ぶのがこの三者のなかでは最も偏見のない呼び方ではなかろうか。蟻とは何のことであろうか。
 本当は何を意味する地名であろうか。アリチもアリタも同じ意味と思われるが、まずそこから見てみよう。
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在田川鬼ケ城と室尾谷山観音寺(大江町)

有路の南方、もう丹波・福知山市と接するあたり、在田ありたありたありた川が北流して由良川にそそぐ。
アリタとアリ地名である。ここは和田垣とも呼ばれたそうであるが、今はアリタである。やはりアリチと同じ意味で蟻がいたのであろうか。
 大正7年から日本鋼管が福知山鉱山と名付けてここで操業していた。不況で3年で休山となったというが、一時は小学校が必要となるほどの坑夫がいたという。鉄であるが、銀山や古くは金山もあったらしい。江戸期以前だろうと推測される古い鉱山がこの周辺には口をあけている。これらの一つ一つの坑道に入り、大江高校が調査している。高さ幅とも50センチといったような坑道にも入っている。詳しくは『大江町誌』を読まれよ。誠にすばらしい調査である、しかし大変に危険である、坑道には周囲から大変な地圧ががかかっている。いつ崩壊しても不思議ではない。いかに郷土史研究のためとはいえ安全第一でやって下さい。
 こうした鉱口が流れ出る鉄気で在田川は鉄気川であり、鉱毒の川であった。魚が今も住まないという。
『大江町誌』には、
 〈 在田川
 鬼ヶ城に源を発し、南山西部・在田の集落を経て由良川に注ぐ、流路延長三・六キロメートル、流域面積六・一四平方キロメートルの川である。在田川には十支川と、旧福知山鉱山の排水が流入している。この鉱山排水には多量の鉄気(かなけ)(水酸化鉄)を含んでいるので、ヒモン谷の排水流入地点から下流は、沈殿した水酸化鉄が川床一面に付着して黄赤色を呈している。いわゆる鉄気川である。
 藩政時代、古坑を赤土と石灰を使って厳重にふさぎ毒水の流出を止めたので、全川魚が住むようになっていたが、明治になって宝満山鉱山が開かれて、再び鉱毒水が流れだしたのだという。(南山古老の証言)
 明治十五年の南山村記録(皇国地誌編輯例則ニ據リ一村景状調査)には、
 「日モン谷、光(みつ)ヶ谷にある古銅鉱の水抜穴より湧き毒水出る。金気(かなけ)川という。毒水真紅にして紅綿の如し、(稲)植付後赤 くなる。これを「カエル」という。甚しきは株絶となる。水を落し、白く乾かし、石灰木灰にがり等を潅ぎ数日で元に 返す。九年に一度も豊熟得難し」
 と、ある。
 福知山鉱山は、大正六年に操業を開始したが、同九年には操業をやめ閉山している。閉山に際して鉱毒防止対策を行わなかったので、鉱毒の流出はますますひどくなり深刻な鉱害をまねくこととなった。
 鉱毒の根源は、赤色の鉄気水ではなく、その中に含まれるカドミウムや砒素などの有害金属である。昭和四十六・四十八年度の二期にわたって、鉱毒の流出防止工事が行われ、その後下流域水田の客土もなされた。昭和四十八年以降は、府衛生公害研究所等による農作物・土壌・水質・飲料水に対する総合的な検査が続けられ、鉱害対策が講じられつつある。


  この鉱山産出の主な鉱石は磁硫鉄鉱で、その他に黄銅鉱・鉄閃亜鉛鉱・硫砿鉄鉱・黄鉄鉱・方鉛鉱などを産した。鉱山跡には坑口四個が現存するが、それらは互いに内部で連絡しており、第三坑が搬出坑であった。鉱害の原因である汚染水は、主としてこの第三坑及び廃石堆積場から流出していた。被害地域は、この水の流れ込む在田川(室尾谷川)及びその流域であり、この地域の農家戸数(昭五三)は、南山西部四四戸…  〉 

福知山鉱山坑排水処理場現在は右のような「福知山鉱山坑排水処理場」が稼働している。まだ新しい施設のように見える。鉱毒がまだまだ発生するのであろうか。府道からよく見える。手前の赤い池が沈殿池であろうか。人がいそうにもないので勝手に中を覗いてみると、赤レンガのカケラのようになって、沈殿物が積み上げられていた。これにカドミウムがあるのだろうか。カドミウムといえば、神岡鉱山のイタイイタイ病の原因となった。いたるところの骨が折れてイタイイタイと患者が叫ぶためにそんな名が付いたという。
『福知山市史』は、
 〈 鬼ケ城鉱山
 市の北東鬼ヶ城は金属鉱物の鉱脈を多く含む。昔から鬼ヶ城鉱山というが、周囲からたびたび採掘し、すべてが大規模とならずに終っているので、明確に一ヶ所を指定し得ない。鉱石は黄銅鉱・方鉛鉱・閃亜鉛鉱・黄鉄鉱・磁硫鉄鉱等で、閃緑岩を母岩として産出するが鉱量も少なく品位もよくない。昭和十三~四年ごろ、同山ろくから石英脈中の金銀鉱を採掘したこともあったが永く続かなかった。この山を東へ回れば福知山市字山野口で、美麗な飛白岩(斑?岩〔石材])を産出し、またよほど古い鉱山稼行跡があり、明治の終りごろには新しい鉱山を開き、鉱石は索道によって石原駅に搬出した。大正九~十四年には索道が室生谷、山野口方面から山を越え、この平地を横断して石原駅にのび、盛んに鉱石を運んでいたものである。鬼ヶ城は福知山地方での有用金属鉱物の産地ではあるが、惜しいことにまだ大鉱脈は発見されない。  〉 

室尾谷観音寺(室尾谷)

福知山市の報恩寺の方からは高速道路のような道になっていて、高速と思い違いしたのかブンブンと車が来る。中世の神名帳を伝えた行基開創とされる古刹「室尾谷山観音寺」がここにある。
 ご本尊は秘仏でわからないらしいが大和室尾寺の仏像を譲り受けたともいわれる、そのムロ・ウロ・フロやフルなどの地名が鉱山と関わりありそうだということ、観音寺のカンノンとは鉄生という意味が隠されていそうだとわかる。
また「朝寝の観音様」ともいってアサネの伝説がある。ここの観音様は朝寝して点呼に遅れたために西国三十三箇所に加われなかったと伝わる。朝寝したからアサネではなく、背後の聳える鬼ケ城山か烏ヶ岳がアサとも呼ばれたのではなかろうか。舞鶴倉谷の朝禰神社のアサネと同じであり、このアサは鉄を意味しているのではなかろうか。観音寺案内板(クリックして下さい)

 また尾藤奥にも古い鉱山があったという。有道郷で現在知られているのはこんな所であろうか。しかし現在は知られていないが、残欠が伝えるように阿良須神社の周辺にも数多くの鉱山があったものと思われる。
 写真は室尾谷の真言宗の古刹・観音寺、山門の後の右手の山が鬼ケ城。ここから登ることができる。茨木童子の岩屋があったという、鬼が登場する所には鉄がある。

 鬼ケ城(540)・烏ヶ岳(536.5)は加佐郡・天田郡、丹後・丹波の国境であるが、加佐郡・何鹿郡境の私の住む与保呂谷の奥の三国山・養老山あたりからずっと続く山脈である。弥仙山や千石山なども同じ地質に属すると思われる。たぶん根は夜久野岩類よりなる山々である。あまり多くは含まれないようだが、各種金属を生む、古来よりの鉄の山脈である。東は若狭の大島半島まで、この地には香山神社や野尻銅山がある。西へも続いて粟鹿山・朝来山はまちがいなくそうであろう、たぶん生野銀山や明延鉱山も続くのではなかろうか(資料がなくわかりません。ここはまったくのカンです。間違いのようでした。ここは熱水鉱脈鉱床で、花崗岩質の地質だそうです。下はそこの銀塊。重さ30キロ。値段にすると山元値で150万円くらいだそうである。何と安い。もし金がこれくらいあれば、1億円を超える、重さも倍になる。)。生野銀山の銀塊
この山脈の北側の丹後側をずっと見ているのであるが、南側の丹波側でも金丸親王(麻呂子親王)の土蜘蛛退治伝説が多い。鬼や土蜘蛛の山々であただろうと思われる。いつか取り上げてみます。

 生野銀山は観光客500万人達成と書いた幟がたててあったが、それにしては世の中こんな事にはあまり感心がなく、たとえそこに多量の鉄滓があってもロクに調査もしないようである。金属などというと驚いたような顔をする。鉄がなければ水田だって耕作できない。文明の根底を支える重要な資源であるが、物好きな人々によって少しずつ歴史が解明されるより今は手がないようである。この山脈には有名な舞鶴鉱山(舞鶴市別所)もある。調査された方があるのでそれも引かせてもらう。

 夜久野岩類は3億年前の太平洋の海底でできた硬い岩であるといわれる。このあたり地震が少ないのはあるいはこの岩脈のおかげかも知れない。しかし安心はできない。考えてみれば元々は-4000mとか、あるいはそれ以下の海底の下にあった物が今は何100mの山になっている。それは地震が何度も何度もあって上へ持ち上げられたためである。仮に一度の地震で2m持ち上がったとしても3000回くらいは地震があったことになる。3億÷3000とすると荒っぽい計算だが10万年に一度は大地震があった計算となる。短い人類史上に過去の記録がなくても、将来は10万年もすればここでも必ず大地震は起こるだろう。それまで人類ははたして生存しているのだろうか。上杉の石灰工場(稼働してない様子)
所々上に石灰岩が乗っている所もある、国道27号線の上杉だろうか、ちょうどこの山脈の真ん中の山の中で石灰を作っている工場が見える。あたりの山が真っ白になっているからすぐわかる(近頃は休業の様子である)。石灰岩は3億年ほど昔の暖かい浅海の珊瑚礁であるといわれる。

『京都府の地名』は、

 〈 鬼ケ城 (現)大江町字南山
 南山の南方、丹波との境にある標高五四四メートルの山。「丹哥府志」に
 観音寺より坤の方に当りて山に登る凡十丁余丹波の界なり、此処に鬼の岩窟といふものあり、口の広サ五尺斗り、縦七八尺、昔茨木童子といふもの爰に住居す、蓋大江酒顛童子の一類なりといふ、されども 実説慥ならず、一説に、平将門の子丹後に遁る、恐らくは此人ならんか、後に赤井悪右衛門又内藤尾張守の一族城塁を構へしと語り伝ふ、とあり、酒呑童子伝説をもつ山であった。
 明治中期には山麓に宝満寺(ルビ・ほうまんじ)鉱山が開発され暫時採鉱した。硫化鉄を主とし銅・銀も含有していたが品位が悪く、第一次世界大戦後の不況と相まって大正九年(一九二〇)閉鎖された。大正期には鉱毒問題が発生している。この地の特産とされる南山梨の栽培は、鉱毒問題を契機として始まったといわれる。
 なお場所は不明だが、南山村では古くから採鉱が行われていたとみえ、土目録の南山村の項に「高八石六斗九升 同村銀堀跡」とある。  〉 

「質志鍾乳洞」
 観音寺のすぐ近くがサオリ峠でこれを何鹿側(今は福知山市)へ越えた所がまたすごい。サオリ、ここで聞くと何かソウルという感じがしてきそうだが、報恩寺の奉安塚古墳を載せておくので見ておいて下さい。「奉安塚古墳」
サオリとかイオリという地名は何か金属と関係があるのでないかと、昔から気にはしているが、いまだによくわからない。
「佐織歴史民族資料室」には、佐織町には「カナクソ」という地名も残されており、製鉄の工房を連想させる地名が残されています。

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アリ・アラ等の地名の再考

アラスという地名や神社名はここだけではなく、舞鶴市や大宮町にも見られる、それらもそうした意味なのであろうか。アリチのアリの地名が各地に見られるがここでもう少し見てみよう。出雲国風土記の神門郡に阿利社が二社見える。これは延喜式の阿利社と阿利社坐加利比売神社だという(出雲市塩冶町。祭神・阿遅須枳高日子根命。加利比売命だそうである)カリは銅のことだろうか。

アリラン峠という5000年前からとかいう歌が伝わっているが、たぶんこのアリ・アラだろうとまあ見当をつけておくほうがいいかも知れない。
好太王碑(5世紀中頃)に、王威赫怒、渡阿利水。仲哀紀に阿利那礼河、これは慶州の閼川アルナリアルナリアルナリだそうである、ナレは川のこと。このアリは日とか光明のこととされている。卵の意味もあるそうである。綾部市のアヤは、安耶(安羅・安那)国のアヤだが、元はそうした意味であるという。
角川日本地名大辞典は、
 〈 由良川沿岸に阿良須・有路・荒河・荒倉などのarで始まる発音の地名が多いことから朝鮮語の影響とみる説もある。(地誌編・福知山市)。  

中国語の影響とみる説のある地名はなぜないのだろう。朝鮮語か何かの影響によって地名ができたりはしないだろうけれども、朝鮮語の影響という地名しかないということは、そのものズハリが来たということであろう。地名はそれ一つだけを見ていても正しく理解できない、その周囲の一定の広がりの地名や神社群のなかから決まってくる。森が理解できないと木も理解できないものである。有路だけなら蟻かも知れなくなるが、たくさんあれば、他の意味かも知れなくなってくる。先の文書をもう少し詳しく引くと、

 〈 …古墳はきわめて豊かで、牧・奥野部・和久寺・大門・拝師・正明寺・堀・土師・前田・石原・報恩寺・川北・猪崎・中・筈巻など、周辺の段丘上に数多く見られる。そのうち前田の宝蔵山古墳は4世紀の甕棺が出土し、猪崎の稲葉山古墳は5世紀の前方後円墳で、人物・鳥・馬・琴・鞠などの形象埴輪の破片も発掘され、報恩寺の奉安塚古墳からは、鏡・刀・玉のほか、金銅製馬具なども発掘されるなど、朝鮮文化との近縁性を思わせる遺跡も多い。由良川沿岸に阿良須・有路・荒河・荒倉など、arで始まる発音の地名が多いことから朝鮮語の影響とみる説もある。  〉 

由良川をさかのぼって来たのであろうか。『福知山市史』は、
 〈 …なおまた由良川筋に有路・在田・荒河・荒倉・有岡等と、いわゆる朝鮮系の地名と思われるものが極めて多いことも一考すべきことであろう。
…由良川沿岸には有路・阿良須・荒河・荒倉などarに発する朝鮮系の地名が多い。

…丹後の海岸に漢代の遺物が発掘されたことや、わが国の古代神話に見える新羅の王子天日槍が帰化したという伝説などは、あるいは銅鐸文化をもった秦・韓人の渡来土着の事実が物語化されたものではなかろうかともいえる。また加佐郡大江町の元伊勢のような奇岩洞窟等を宗教的な対象とすることは、朝鮮系の原始信仰形態の一つであるともいわれる。なお、北丹後海岸の一邑、間人の地名を「タイザ」と呼び、中郡には「アラスの森」があり、大江町上有路及び舞鶴志楽にある神社の名を阿良須といい、そこから奥地へ入って、荒倉・嵐山・有栖川なども、朝鮮系の発音から来ているという説があることは傾聴すべきことであろう。  〉 

『記紀萬葉の朝鮮語』や『天皇と鍜冶王の伝承』などからだいたい整理してみると、だいたい次のようなことらしい。アル←バル。バルは(発・伐・弗・不・夫里・白・佰・百・貊・朴。火・原・平・坪・評・赫・昭・明・瓠などと書くという)という、倭人伝の巴利国、己百支国などがそれだという、国とか村とかいった意味である。夫余が原義だという。アルは日とか光明とか卵の意味だそうで、広く北方の夫余系の種族が、ずっと南下してきて日本までやって来た、その証の地名である。ソフルの「ソ」と「フル」上でいうバルと「アル」はそうしたものとよく指摘される地名である。ソは金沢庄三郎のいう新羅の民俗名ソであるが、新羅ばかりでなく、朝鮮チョソンチョソンチョソンのソであり、倭もそうだという。ここのソの原義は東方・曙国・新地といった意味だという。徐伐、所夫里、沙伐、東原京、鉄原、東州、葦原など、古い辰国もそうである。日本国内にもこうした地名は一杯ある。アイヌ語地名が残っていれば、アイヌ人が残したのであろうし、朝鮮語地名が残っていれば、それはたぶんユダヤ人が残したのであろう。豊葦原中国とか日本という国名からして何か北方系を感じさせられるように思う。我々のご先祖様の渡来の歴史を今に残す地名群である。古墳を掘ったら朝鮮人の骨ばっかりやってなあ、とか、医者に言わしたらなあ、日本人は朝鮮人より朝鮮人ですよ、とかいいよるで。と巷では話されているわけである。顔は同じやしと、うすうす皆が知っていることである。
 もっとも来たばかりでもなく、こちら側からも行っているようである。新羅の四代王・脱解王は多婆那国の人だという、この多婆那はあるいは丹波かも知れないとも言われる。
 こうした歴史認識は何もそんなに新しいとかいうほどのものではない。古くからあった認識である。
たとえば『氷上郡志』(昭和2)は、
 〈  太古の世、山陰地方は古朝鮮氏族の移住せし處なるべしとは既に唱道せられたる所なれば、当国丹波地方へも多く移住せしものなるべく、殊に氷上の地は但馬と境を接し、古より交通の便も開けたれば、但馬地方より漸次此地に移住し、開拓せしならし、且固より蝦夷其の他の先住民も古くより棲息せしものなるべければ、是等先住民と雑居せし者ならむとは推想するに難からず、…  〉 
アルとフルは関係のある語と思われる。似たような言葉を探してみるとナル(古代朝鮮語の太陽)、イル(現在の朝鮮語の日)、ヒル(古代日本語の日・現代の昼)、テル(照る)、ニルヤ(沖縄の言葉・何と説明したらいいのかもわからないが、神の国)、フルとかバル(村という意味と日・火の意味がある)。何かこれらの言葉には皆アルという言葉が元にあるのでないかと思われる。ソーラーとかソーレとかラテン語系にもあるしホルスという太陽神やアラーの神、ずいぶんと古い言葉でアルとかアラは太陽を意味する人類の共通語なのではなかろうかと思ったりしている。たぶんひょっとすると古い古い我らの先祖は太陽をアルと呼んでいたのではなかろうか。
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十倉神社(有路の各地)と来寿森神社

コルは朝鮮語で谷を意味するそうである、そんなことから地名学ではクラ地名は谷と説明されることが多い。しかし谷をクラと呼んだりするだろうか。谷は丹後ではタニで少し古くはタンである。古くはというのは私の親の代くらいで、その同年代同士ではケブリタンなどと呼んでいる。若狭もそうで福谷はフクタン、丹後の日ケ谷はヒガタンと古い人はそう呼ぶ。クラとは言わない。私の住む与保呂には(だん)とか福知山には(だん)とか、あるいはこれらもタンで谷のことともいわれる。谷をタンと呼ぶのは古くは高句麗語であろう、『三国史記』の高句麗の地名では谷は旦、頓、呑とか書かれている。「ダンという地名」
 現在の登山用語のコルはフランス語らしく、稜線上の鞍部、古い日本語でいうタワに当たる。しかしそこは谷を登り詰めた所だから谷でもあるだろう。朝鮮語とフランス語は似ているのであろうか。単に偶然の一致かも知れないしあるいはひょっとしてそれとも全人類共通の祖語から出ているのであろうか。茶や珈琲といった言葉は新しいだろうが、その感があるし、古いのではなかろうかと思われる村という言葉なども全人類共通語があったのでなかろうかなどと想像できるほど各言語がよく似ている。(もっとも私が知っているのは全人類語の中のごくわずかな言語に過ぎないが…)
『ふるさと泉源寺1』(平18)は、
 〈 泉源寺では古来タン(丹)とよんでタニとは言わない。倉谷、毛味谷、但馬谷、百姓谷……等々みなタンである。
  金達寿著〝日本の中の朝鮮文化〝六に
   「中島利一郎氏の日本地名学研究にもあるように丹波、丹後の丹(タン)とは古代朝鮮語の谷ということであった……」
また今村鞆氏の朝鮮の国名に因める名詞考によると志楽郷設楽庄志楽村があり新羅の転化……愛知県の設楽郡武蔵(埼玉県)のもと新羅郡のあったところに志楽志木がある……
こうした点からも谷はタンまたはグンと言わねばならない。  〉 

 それは置くとして、私は刳るという語から刳った穴をクラとよぶのではないかと考えていた。もう一度朝鮮語コルを確認すると、コルには谷のほかに、洞と邑の意味があるという。だからホラアナをクラと朝鮮語でも呼ぶととってもよさそうである。ホラ→クラかも知れない。穴といっても当時は横穴を掘る技術はなく、立穴だったろうと思われるが、要するに地面にまっすぐ下向けにあけた穴をクラとよぶのだろうと思われる。
アナグラという言葉がある。穴を掘って食物等を貯蔵する藏に利用したものをアナグラとよぶのだが、単なる穴、自然の穴か人工の穴かは関係なく私どものところではアナグラとも呼んでいる。アナ=クラなのではなかろうか。たぶん現在我々が目にする家の形をした藏はこのアラグラのクラなのではなかろうか。ヤグラとか本来は呼んだのではなかろうかと思う。これはアナグラより後の時代のものである。藏は本来はアナグラであったと思う。漢字の「倉」は高床式倉庫のようなものを呼ぶそうで、「藏」は密閉された暗いように倉庫を呼ぶのだそうである。地名に使われる倉はたいてい当字であろうかと思われる。
ネグラとかカマクラとかだいたいそんな言葉からクラの意味を考えてみるのもいいだろう。
 こう考えると穴巣神社が十倉神社であることが理解できる。どちらもその穴を祀ったものと思われる、問題は何のために掘った穴だったのかだけである。食物を貯蔵するための穴か、それとも地下資源を得るための穴だったか。
 雀をイタクラと呼ぶという。紀州や四国の山中に今も残る方言だという。ツバクラとか四十雀とか、山雀とかクラというのはこうした鳥のことではないかとも柳田国男は述べている(「雀をクラということ」)。南島に伝わった炭焼長者伝説にも登場し、柳田が引用した文章によれば、イタクラが…炭やちぐらかい…と呼びかける。岡山の吉備津神社のあたりは板倉郷(備中国賀夜郡)という。そんなことで若尾五雄氏は板倉のイタクラは金工に関連が、倉庫の他にもあるように考えている(『鬼伝説の研究』)としている。炭焼のあのカマをクラとも呼ぶようである。クラは要注意の地名である。たぶん鉄と関係がある。

 有路には十倉五社明神と呼ばれる五つの十倉神社がある。いずれも祭神は神吾田津姫神(木花咲耶姫)で安産の神様とされている。式内社に比定されている阿良須神社(北有路高畑)は二の宮である。
 私の説明ではたよりないので、吉野裕氏を引いておく。(「古代における鉄と地名と」『東アジアの古代文化13』)
 〈 …日本古典文学大系『日本書紀』の補註(1の五四)では「クラは谷・朝鮮語のKol(谷)満洲語のholo(谷)と同系語」として言語学的に裏づけられているのだが、これが製鉄集団によって移入され、この時点で日本語のタニとは意味ニュアンスを異にし〈産鉄場の谷〉として特殊化されたと考えられる。…いささか頼りないところがあると思うが、このように見てくると、クラという名辞を含む地名が、鉄産とかかわりをもつものとして新しく照射されてくるだろう。もちろんクラには蔵・倉・鞍・座などの意味があるからクラ(谷)一本だけにしぼるわけにはいかないけれどもサクラ(佐倉・桜川等)タカクラ(高座郡・高倉下)アサクラ(朝倉)カマクラ(鎌倉)などは、こうした点から考えて見ると適当とするものがあると思う。  〉 
風土記に詳しく金属生産にも詳しい吉野氏でも、こうした説明になるのであるから、私にはとてもこれ以上の説明はできそうにもないのである。有路郷のトップへ



来寿森神社(南有路九日)

来寿森神社はどこかでもふれたが、南有路の大雲橋のたもとにある。社前はちょっとした公園になって広くなっている。このクルスという神社名が気になるらしく切支丹と関係があるのではないかの説もある。『大江町誌』も、来寿森神社(南有路)

 〈 …この社名は古人も些かの関心を寄せたらしく、
  「くる主森 文字しらず十倉五社大明神の御母なりと云傳里(ママ)」(享保十六年書写「寺社町在旧記」)
  「クルス森五社明神、御母神」(享保十九年刊「丹後旧語集」)
と、他の寺社に比して特異な表記にしており、来歴も必ずしも明確とは言えない。あてるべき文字が解らぬ
とする用字の例をみると、
 「暮巣森」(文政二年南有路村庄屋文書)
 「暮?(そカ)森」(文政五年 同書)
 「来栖森神社」(現用の幟に使用)
 「黒須森」「来須」「来寿」等さまざまに表示されている。
 そこで以下にはなはだ不遜な推測をつけ加えて将来の課題としたい。それはそのかみの切支丹との関連
を示唆するものではないかという素朴な疑問である。文字しらずという「くるす」とはポルトガル語の十字架(くるす)を連想させるし、「御母神」は聖母マリアを偲ばせる。同神社拝殿の木札(高さ八○センチ、下端のホゾから判断すると嘗て台上に安置されたらしい)には、次の神託が記されている。
 今此三界皆是我有 其中衆生悉是吾子 而今此處多諸患難 唯我一人能為救護
 万有はわがもの、衆生は悉くわが子、その患難を救いうるものは吾をおいて他にない。天地三界唯一の主宰神という発想を、いきなり切支丹と短絡させるのは冒険であるが、底流で通じるものがある。藩侯をはじめ庶民の間に一種解明の風潮のある中で、キリスト教受容が容易であったころ、教義が弘められ、やがて禁教迫害のあらしがくると、土俗信仰的な神社に傾斜する可能性はないであろうか。(本稿「京極氏と切支丹」の関係資料は丹後資料館百田課長の提示を受けた)
 以上の推測の傍証となりそうな史料を補っておく。同神社の近所に田村姓を名乗る二戸がある、「滝洞歴世誌」を筆録した田村家から元禄末年分家入村しているが、同家保管の文書に次のものがある。
                  (この右切れてなし、四人の氏名不詳)
                                       次郎兵衛
                                       八兵 衛
                                       甚左衛門
                                       左 平 次
 右八人之者此度
 桂昌院様御法事ニ付為御追善追放帰参之儀牧野讃岐守殿江従方丈以使僧被申入候虚 重科之者ニ候得共御追善格別之御
 儀ニ候得ハ帰参申付侯由、去廿九日及御返答候。以上
                                               増上寺役者
  亥八月二日
 桂昌院は俗名光子、本庄宗利の養女となり将軍家光に侍して男子徳松(のちの綱吉)を生み将軍の母として大奥を支配した。性慈仁温柔、生類憐みの令が出た時一翼を荷った。
 右の文意はこの桂昌院追善供養のため、何かの罪を問われて追放されていた八人が領内へ帰参できるよう、増上寺方丈から牧野英成に申入れて許された。というものである。八人が終始連累であったか、その追放の原因は何かなどを証する手がかりは文面からは皆目得られない。第一、増上寺から宛名もなく出された文書がなぜ同家にあるのか。いっさい謎である、ただ素直に八人一連の所為の帰参を許したと解すると、一種の集団行事であったのではないか。例えば前頁にあげた「丹後キリシタンのサークル的礼拝」なども、これにあてはまるわけである。このことと「クルス森社は当初同家で管理していた」との伝承をかみ合わせると、切支丹信仰とのかかわりがあり得ると思われる。
 (注) 1 再言するがこれはあくまで一つの推測で解明は今後の課題である。
     2 資料提供その他両田村家の篤志を得たことを附記する。
     3 参考 切支丹信徒トナリ布教ノ世話致スモノ追放(公裁用鑑) 

 クリスとかクルスという名は切支丹よりもずっと古くからある名である。『万葉集』にだって歌われている。ささすみの栗栖の小野の萩の花…(970)。この栗栖は明日香の小地名だと注釈にある。大和国忍海郡栗栖郷、播磨国揖保郡栗栖郷、山城国愛宕郡栗野郷(クルスノと読む。金閣寺のあたりに栗栖町が現在もある)、山城国宇治郡小栗栖郷(オクルスと読む。現在も栗栖野という)…等々いくらでも古く見られる地名であって、クルスだから十字架だろうは簡単には成り立たないと思われる。
 来寿森神社はここは十倉五社の母神と信じられているのだから、アラスやトクラと関係のある名なのではないかと考えみるより方法はない。そう言っても大変ではあるが、大変を考えないと何も進歩はない。封建時代の歴史学者と大して進歩がないでは、コンピューターを駆使でき、情報社会の現代人は恥ずかしい。
 さて、顕宗紀の山城国葛野郡の歌荒樔田うたあらすだうたあらすだうたあらすだ。ここは宇太村といった所で現在は右京区宇多野のという地名が残っている。荒樔田のアラスは観光の名所として有名な嵐山や近くを流れる有栖川に名を残している。おもしろいのはここから先の北区の栗栖町はさほどには離れていないことである。5キロばかり東側になる。アラスとクルスは何か関係があるのではないかと思われてくるのである。
 阿良須=有路は誰でもわかるが、さらに=来寿=十倉の等式が成り立つはずなのだが、それがわからなかった。何でこんなもの同士が=となるのか。
アラスやアリジの先頭にkが着けばクルスとなる。トクラはさらに先頭にtが着いて語尾のスが脱落したのかも知れない。何か皆、似てきた。バラバラに考えていたためわからなかったが、これは皆同じことを言っているのではなかろうか。何でもないar地名、アル・アリということではないのか。私はこれらの地名でずいぶん悩んだが、こう解釈するのがもっとも正解に近いのでないかと思うようになっている。
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十倉一の宮(南有路森安)

阿良須神社をさしおいての一の宮なのだから、何か深い由緒があろうと思われるが、私の手元には何も資料はなく、その理由はわからない。十倉一宮(南有路森安)
本殿の後の姿のよい山が十倉山(216m)という。阿良須神社から見れば由良川の対岸に見えるが、その頂上に鎮座したという。

この神社の北側のすぐ由良川沿いの土手には、高川原遺跡と呼ばれる古墳時代の遺跡がある。『大江町誌』と『舞鶴市史』 から引いておこう。地図は『中丹地方史21』十倉一の宮の案内板(クリックして下さい)のもの。

高川原遺跡
 〈  大江町字南有路中野二一九五~二二○二俗称(ヤナバ)

 阿良須神社の真南、由良川右岸の河川敷地というにふさわしい位置にある。昭和四十九年夏、府教委の指導によって一五○○平方メートルが発掘調査された。六世紀末から七世紀末(古墳時代後期-終末期)の住居跡と考えられている。(高川原遺跡発掘調査報告書、一九七五)
以下、この報告書の要点を抜粋する。
イ 遺物包含層は表土から一五○センチメートル~一八○センチメートルの間にありその最下層に九基の住居跡が検出された。それは一辺六メートル前後の方形掘立住居であるが、それが同一時期に何戸あったかなどははっきりしない。(注) 藩政期に鮭漁の為ヤナが張られたのはこのヤナバだと考えられる。
ロ 主な出土品
  土師器。甕(かめ)、かまど、甑(こしき・食物の蒸し器せいろう)の破片など須恵器。杯(つき)、壷形土器、高杯、 土錘。石製紡錘車。(糸をつむぐ時のおもりに使用したもの)焼土跡。各層位に何か所も検出された。
ハ 以上の調査から推定して、住人はここに掘立柱の住居を営み、洪水の時は韓竃(からかまど)など身の廻りの日用品 をもって山手に避難し、水がひくと再びこの場所へ戻って漁撈に従ったのであろうと推測される。
高川原遺跡の地図(部分)


由良川河岸段丘上にある高川原遺跡(南有路)は7世紀代のもので、その当時は5戸ぐらいの集落を構成し、多数の土錘が出土することから人々は漁撈を主とした生活を営んでいたと考えられるが、この集落は何回も洪水を被ったらしく、遺跡の時期幅100年間に70~80㎝の粘土が堆積している。また、同遺跡からは移動可能な韓竃の破片が少なからず発見されているが、これは洪水のたびに運搬して使用したものと思われ、水との闘いで得た生活の知恵であろう(高川原遺跡発掘調査報告書)。  〉 

古墳時代だけでなく、縄文から弥生にかけての遺物も同じ所から出土する。
韓竈からかまどからかまどからかまど というのは文字からもわかるように渡来のものである。竈だけが来たのか、人と一緒に来たのか。少し前まではどこの家庭にも必ずあったものだが、七輪とか「おくどさん」のブロトタイプである、土師器の甑や鍋などとセットになる、そんな物も出土しているのであればはじめからセットの文化であってやはり人と来たのであろうか。あるいは由良川をさかのぼって。川の近くに居たからといっても何も漁撈とは限らないだろうと思う、彼らは漢人と呼ばれた新しい渡来文化を持った人たちである、あるいは由良川の管理者だったかも知れないし金属だったかも知れない。渡来人の足跡の一部が捕らえられたのであるが、これ以上のデータがない。近くに終末期の古墳があればいいのだが、それもなさそうで、これ以上は追跡できそうにない。地名しか残されていない。単なる地形地名なのかも知れないが、高にしても川原にしても何か気になる地名である。
「竃形土器の語るもの」


参考 平田市唐川町に式内社の韓竈からかまからかまからかま神社がある。参考までに、、ネット上の「韓竈神社」に、


 〈 …『風土記』に韓銍社と記されるこの神社は、由緒には「社名のカラカマは朝鮮から渡来した『釜』を意味し、これは祭神の素盞鳴命が御子神と共に新羅に渡られ、我が国に『植林法』を伝えると共に『鉄器文化』を開拓されたと伝えられることと関係があろう。また当社より奥部の北山山系が古くから産銅地帯といわれ金掘り地区の地名や自然銅、野たたら跡、などが見られることと、鉄器文化の開拓と深い関係がある」と記されていた。…  〉 

「韓竈神社」に、


 〈 …唐川には風土記の社で式内社が4社もある。中でも韓竈神社と並んで注目されるのが出雲大社と同社の韓国伊太氏神社だ(別所の諏訪神社)。祭神は社名からして素戔嗚尊の子イソタケル=イタケル=イタテで植林の神。産銅・産鉄に不可欠の薪炭を生み出す鍛冶神でもあった。 荒神谷出土の弥生銅剣製造地がどこであるかは定かではないが、弥生期から産銅の歴史があったのではないかという推論は大いに成り立つ。コンクリートの橋脚がのどかな風景の中で往事を偲ばせる。かつてはこの橋脚に鉄路が敷かれ河下港までトロッコで古くは銅を昭和中期までは石膏を積み出していた。ここ唐川町は古くは「辛川」と表記されている。唐・辛ともに韓の意味である。これはかつての加羅・伽耶の国に通ずる。また、唐川町の約60戸のほとんどが荒木姓だ。阿羅国からの渡来を表す阿羅来に由来するとも解釈できる。さらに、唐川地区には加賀羅、別所地区には加阿羅と称する屋号の家がある。また、唐川には鍛冶屋谷があって、鍛冶屋と称する4件が住まいしている。このようなことからも唐川には古代朝鮮の辰韓・弁韓・新羅諸国からの渡来人たちが重層して定着、産銅生活を営んでいたと考えることができる。…  〉 

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十倉三の宮(大江町南有路中矢津)

十倉神社(中矢津)
「才之神の藤」という名所のある古地谷より一つ北側隣の谷が矢津で、その中ほどに鎮座している。
 さて、その「才の神」について、『京都府の地名』は、


 〈 由良川が北に流路を変える辺りから東南方面に延びる古地谷に、町指定の天然記念物才の神の藤がある。欅の大木に山藤がからんで一見藤の森の観を呈し、欅の下部の洞穴に八衢比古命・八衢比売命・久名戸神三柱の道祖神(さいの神)を祀る。
 この藤から左手の小さな谷を福料寺といい、かつて尼寺があったといわれる。また藤棚から道を隔てて前方の小山付近を吉祥寺といい、西方にある吉祥山宝満寺(高野山真言宗)の故地と伝える。  〉 

宝満寺は現在は峠を一つ東側に越えた綾部市西方町にある。志賀里と呼ばれる地で、金丸親王の鬼退治伝説の伝わる地であり、このあたりも鉱山と関係が深かろうと思われる。宝満寺(綾部市西方町)
古地は南有路のすぐ隣の谷で、おそらくフルチというのもアリジと関係のある地名であろう、同じ意味なのではなかろうか。残欠や「室尾山観音寺神名帳」の正二位布留神社はここにあったのではないかと考えているのだが、そんな証拠は今のところ何もない。
 ここの十倉神社は立派な神社なのだが、何も手元にデーターがない。
矢津というのは福知山市のあつあつあつと同じと思う。アリ津かアラ津ののR音が脱落したのではなかろうか。

古地の才ノ神の藤を見ておこう。次のような案内が建てられている。

 〈 「才の神」の藤は、以前は目通り周七・九メートル、二千年を越えるけやきの大木にからまって、根元幹周り一メートルを越える六本の藤が立ち上がっていた。共にご神木として大切にしてきた。才の神の藤(南有路)
 幾度かの落雷によりけやきの枝は折れ、樹幹の根元は空洞化し、樹幹の一部が二本の枝を支えている。自然の藤棚のけやきの枝の代わりに、鉄骨に支えられて藤は以前の如く枝を張り、五月中旬長く美しい紫雲の花穂を垂らして芳香を漂わせている。この頃、盛大な藤祭りが行われる。
 ご神木にまつられる祭神は、八衢比古命・八衢比売命。久名戸神(別名猿田彦命)の三柱で、天孫降臨の道案内をした神である。

才の神の藤(南有路)
天然記念物「才ノ神の藤」
 「才ノ神の藤」の祭神は八衢比古命・八衢比売命・久名戸神です。伝えによると、大十代崇神天皇の時、四道将軍丹波道主命が当地を巡視されたとき、蟻が群がっているのをご覧になり、「近くに人里があるに違いない」とお供の者に村里の在りかを探させました。道のほとりの大木の根元に石を拝む老人がいるのを見て、不思議に思った供人が「どのような神様ですか」と問うと、老人は「才ノ神」と答えました・供人がこのことを命に申し上げたところ、命は驚いて「恐れ多い」とすぐにかけつけて拝まれました。これよりこの地を蟻道(有路の地名の語源)の里と呼び、この神をまつって「才ノ神」とあがめるようになりました。
 それ以来「才ノ神」は英知の神様として、何事によらず祈願すれば叶えられ、道を問えば行方を示され、道理を伺えば筋道を明らかにされる。常に深く崇敬しておれば、思い切って行っても失敗する事がないという。更に旅行航海の守護神・月経の神・婦人病・安産の神・子孫繁栄の神として有名です。神木は優に二千年を経た欅で回り約八・五メートルの巨木。その昔落雷にあったこともありますが、樹勢なお衰えることなく四方八方に枝を張っています。才の神の藤(南有路)
 これらからまる藤もまた神木と同じ樹齢で、根元周り二抱え余りもあり、これを降り取る者は必ず腹痛の神罰を受けたといいます。このため恐れて誰も手をふれなかったので、藤は東西約三二米、南北約二七米にまで広がり、五月中旬の花時には紫の房を垂れて咲き誇っています。(才ノ神の藤祭は五月中旬)
 昭和八年五月十八日(1933)我が国植物界の権威三好学博士(東京大学名誉教授)が視察して「天下第一」の折り紙を付けられ、同九年五月一日文部省天然記念物として指定されました。
しかしその後、地方的であるとして、昭和三一年天然記念物の指定を外されましたが、昭和四八年町に文化財保護条例が制定されると同時に町指定に、昭和五八年には京都府の天然記念物に指定された。  〉 

(5月の第二日曜日に「才の神の藤まつり」が開かれている。その頃が見頃になる。色といい香りといい、きっと圧倒されます。)
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十倉四の宮(北有路五日市)

十倉神社(五日市)ここも何も手元にデーターがない。弱った。
とにかく何もないので、由良川筋の特異なARとその関連、縁のありそうな地名でも考えてみよう。
…由良川沿岸には有路・阿良須・荒河・荒倉などarに発する朝鮮系の地名が多い。
と『福知山市史』も指摘するように、大江町に限らず由良川筋には大変に多い。先の矢津や古地もそれだと思われる。
とりあえず検証はなしにして、A音やR音が含まれるものはすべて片っ端から下流の方から拾ってみよう。
由良、石浦、和江、丸田(式内社・麻良多神社)、志高(志託郷)、原、式内社・伊知布西神社、高津江、市原、河守(川守郷)、蓼原、千原、在田、…(以上加佐郡)
天田郡へ入って、筈巻・高野神社、是社神社、安井、立原、庵我(奄我郷)、庵我神社、荒河、厚、式内社・荒木神社、式内社・阿比地神社…
何鹿郡にいくと、
高津郷、栗郷、漢部郷、有岡…。まだまだありそうだが、ほぼ間違いのない推測もあるし、間違いかも知れないものもあるだろう。
しかしAとRだけではないのである。これらは転訛するし略されるし消滅もする、さらに縁語というものもあって、とんでもない地名になっているが意味は同じようなことである場合もある。
たとえばアラとフルは同じものだということは舞鶴の阿良須神社のところでも触れておいたが、こうした語もある。
由良川筋は川の方からというのか海の方からというのか、こうした地名を見ているとそうした方向から開発された地が多いのではなかろうか。山を越えてやってきたのではなく水上から来たのではなかろうか。
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十倉五の宮(大江町二箇)

十倉神社(二箇)











大雲川(=由良川)

由良川はこの有路辺りで本当に川となる。これより下流は海である。半分は海である。試みに釣り糸を垂れるとタコが釣れるという。それはオーバーな話だろうが、この辺りまで海の塩分が登ってくるのは本当である。舞鶴市の水道水はこれよりもう少し下手舞鶴市と大江町の境目よの少し上手で取水しているが、そこまでは塩分が登る。取水口に海水の塩分が入らないように、上写真のように幕を張って対処している。逆流がきつい場合はもう一つ張ることもある。四角い物は水位計で一番上が10メートル30センチである。舞鶴市民はほとんどが由良川の水を飲んでいることになる。これも海軍の遺産である。水位計と防潮幕(舞鶴市桑飼上)
 下写真は二箇下にある舞鶴市の水道取水口付近である。ここから水道水をくみ上げている。電柱の水位計測板は写真の一番上で13m30㎝である。こんな所まで川は増水する場合もある。何百年に一度くらいは起きるかも知れない。先の23号台風では有路水位で13メートルであった。
 有路から河口までは20キロ、落差6メートルという。勾配なしくらいのたいへんなゆるやかさであり、舟運に利用されるが、洪水にも悩まされる。海抜6メートルは西舞鶴なら公文名の城南中学校あたり、東舞鶴なら国立病院あたりの海抜であるが、それが大雲橋地点の海抜である。『大江町誌』は、

水位計(ここは大江町の一番しも)  〈 このため由良川の感潮域は、河口より一七キロメートルの高津江地点にまで及んでおり、更に上流の三河、二箇上でも満潮時には水位が上昇し、チヌ・コノンロ・サヨリ・シノハなどのかん水魚が遊泳する。また河口部の砂礫堆積は河口閉塞をおこし河水の流れを著しく停滞させている。  〉 


由良川と呼ぶのはいつの時代なのか知らないが、古くは大雲川である。残欠に「大雲川(以下八行虫食)」とある。
『大江町誌』は、
 〈 町の中央を由良川が貫流して日本海に注いでいる。大陸から渡来した古代文化も、この由良川を遡って内陸へ運ばれたであろうし、舟便中心の時代には、丹波丹後を結ぶ交易路として重要な役割を果たしてきた。…
この川は、最も古くは「大雲川」次いで「大芋川」、「於くも川」、「おくも川」と呼ばれたが、江戸時代には「由良川」である。…
古由良川は、福知山から南流して土師川、竹田川と流れ、石生の谷を通って加古川から瀬戸内海へ注いでいたといわれる。…  〉 

古福知山湖の湖底だったのか南米の大河・アマゾン川ははるかな昔には、今とはまったく逆に西に向かって流れていたというが、由良川も昔は瀬戸内海側へ流れていたという。
福知山盆地は満々と水を湛えた大湖だったというが、それは本当だろう。ずいぶんと高い位置で工事しているその山の斜面に粘土層が挟まれているのがわかる箇所がある。現在の由良川の水位と較べるとずいぶんと高い位置であるが、あそこも湖底であったのだろうから、ずいぶんと広い湖があったのであろうと思われる。上写真は楞厳寺(綾部市館町)の近くの丘に現れていた地層。白いのは白い円い小石である。近くには古福知山湖の残りなのか小さい池がいくつもあってカモが泳いでいる。このあたりは以久田野台地と呼んで少し高い所であるが、ここも湖底であった時代があるのであろう。この白い小石は丹波ではよく見かける石なのだが、私は何なのかわからない。他の場所で一つ拾って調べてみようと車に積んだままなのだが、今以て調査できていない。
大雲川(宮津市栗田)
ところで、宮津市栗田にも大雲川がある(右写真)。
畑井弘氏によれば、雲の朝鮮語はクリ(銅)に通じるという。ここはクンダと呼ぶが、式内社の久理陀神社があり、クリタが本来の呼び方であろうと思われる。この辺りもずっと花崗岩の地であり、そんなものがあっても何も不思議ではないように思われる地である。
 このあたりまで筆が進んだ時にまた取り上げてみたいと思う。

大蜘蛛神社(=聖大明神)(綾部市老富町大唐地)。胡麻峠(大唐地より)

 私の住む与保呂の谷をどんどん奥へ入って丹後・丹波国境の胡麻峠(右写真)を越えて上林の谷に入った所にこの社がある。今はずいぶんと荒れ果てている。地域格差の話ではないが、どう見ても立派すぎるほどまでにド立派になっていく神社と、…本当の信仰とは、本当の地域社会の発展とはそうしたことであろうか。一方ではこんな面白そうな神社なのにもう今にも消えて無くなりそうな神社がある。数え切れないほどの多数になろう。
ここにもやはり蜘蛛と鬼がいた。『京都府の地名』は、
 〈 大唐内村 (現)綾部市老富町大唐内
 栃村の北、若狭街道から西北に分れた谷間に位置する。北方の三国岳は若狭・丹後との国境。三国岳の西方胡麻峠を越えて丹後国加佐郡多門院村(現舞鶴市)に至る。村の西方木和田峠を越えて畑口谷の市志村に通ずる。
 中世は上林庄の地。地名は天文年間(一五三二-五五)の勧進奉加帳(光明寺文書)に「大唐内」とみえるのが早い。
 江戸時代は山家藩領。公的には於見谷村のうちに含まれるが、正保二年(一六四五)の江戸表差出控(「菅沼謙蔵手控」木下家蔵)では高四六石余、貞享検地によれば二一七石余。
 「丹波志」は市茅野と大唐内の奥の若狭境に「サントウ山」があると記す。「丹波負笈録」にいう「サントラ山」「三俵山」のことと思われるが、同書はこの山に鬼の穴があると伝えている。また村の奥には鬼の洗濯場の伝承がある。現在地元に「サントラ山」とよぶ地名はないが、鬼の穴は三国岳東方の丸山とよぶ尾根にあると伝える。
 村内に聖(ルビ・ひじり)大明神(通称大蜘(ルビ・おおくも)神社)がある。「丹波志」は次の伝承を記す。
 当社ノ謂、往古奥ノ山ニ人ヲ取大蜘住ケル由草ケ部
 村ニ高野聖リ住シ当山ニ来リ祈リ退治ス、今其谷ノ
 名大蜘谷ト云、其聖リヲ祭ト云、并藤ノ森ト云社ア
 リ、近江国佐々木郎等住シ其先社也卜云、
 寺院は徳雲寺(臨済宗妙心寺派)がある。
 明治七年(一八七四)市茅野・栃・光野と合併し老富村となった。  〉 

角川日本地名大辞典は、
 〈 …当村の小字に湯屋谷・湯屋内があり、温泉の跡という伝承がある(丹波誌).村の鎮守に大蜘蛛神社(聖大明神)がある。同社は往古大蜘蛛一族を近郷有安村の藤元氏が退治し祀ったところという(奥上林村誌)。  〉 

大蜘蛛神社(綾部市大唐地)サントウ山、サントラ山、三俵山、どの山なのか今ともなれば不明らしいが、似たような山をさがせば、三峠山が和知町にある、その山の麓がタングステンの鐘打鉱山。若狭佐分利の野尻銅山は別名を三光鉱山と呼ぶ(江戸時代は産銅高で全国屈指の銅山であった)。京北町の細野にも三頭山がある、この麓に芦見峠、芦見谷川が流れている。京都市山科区にも千頭山がある、この麓には大塚鍛冶遺跡がある。どうも申し訳ないが不勉強で、これらの山の正確な読み方は知らないが、本来はサントウ、サンコウ、セントウと呼ばれるのが正しいのでないだろうか。サは鉄、トウなどはタタラの転訛かも知れない。
上林かんばやしかんばやしかんばやし 上林という所がだいたい鉄の谷だと私は考えている。
何鹿郡拝志はやしはやしはやし郷というのは、上林川の奥の方を呼ぶのでないのかと私は一人そう思っているのだが、そのハヤシとは何か、与謝郡の拝師郷(速石郷)は丹後一宮のある府中のあたりであるが、これはアナシかも知れない。
『播磨国風土記』の揖保郡、林田里に、「もとの名は談奈志いわなしいわなしいわなし」とある。備前国磐梨郡があるが、イワナシとは磐穴師のことだろうと吉野裕氏は書いている。(東アジアの古代文化13)。揖保川の支流に林田川があり、その上流の兵庫県宍粟郡安富町安志(あんじ)。播磨国宍粟郡安志郷で吉田東伍はアナシと読んでいる。このあたりでは林田川は穴師川と呼ばれるそうである。『角川日本地名大辞典』は、つぎのように書いているが、さて、柳田の文のような書き方であるが、どうであろうか。

 〈 あんじ 安志<安富町〉
 林田川上流域の谷平野。地名は「和名抄」の安志(あなし)郷に始まるが、原義には諸説あるも北西風をいうアナシに語源を求めるのが最も妥当で、冬期西方の鞍部安志峠から激しく吹き下ろす北西風に由来すると解される。「風土記」 安師里の地名起源説話に出る安師(比売)神は風神であり、アナシが転訛してアンジになった。播磨内陸を横断する東西道と林田川沿いの南北道が交わる交通の要地。集落の東に条里遺構が見られる。平安末期に加茂別雷社領安志荘が立荘され、分社安志加茂神社が創建された。地内字竜宮は竜神、才ノ元は才(塞)神の小祠、宮ノ谷はカロ茂明神社、市場は中世の市場であったこと、字当田は藤田とも書き遠田の当て字で遠い所、大栗の栗は割の当て字で川岸が大きく剥れていたこと、高良谷は谷に石が多いのによる地名。…
拝志にしても水梨にしても市志にしても何か気になる地名である。
奥母(おくも)通り(舞鶴市余部上)とか福知山市の雲原(くもばら)や、大江町天田内のあたりは大雲原と呼んだという。このクモは何だろう。蜘蛛かも知れないが少し何か地名としては不自然に思われる。
雲は火葬の煙を言うことがある。火葬場の煙となって果てる…とか誰か書いていたが、その煙を雲とも呼ぶのであるが、しかしこれらの地名は火葬場を指すのでもなかろうと思われる。舞鶴市吉坂には煙谷という地名がある。ケブリダンと読む。ずいぶん古い地名かも知れないが、ここはあるいは火葬場かも知れないが違うかも知れない。。
 火葬場の煙でなければ何の煙であろうか。ゴミを焼却する煙か。
雲は鉄を作る溶鉱炉の煙だと吉野裕氏が書いている。これが正解なのでなかろうか。それを引かせてもらうと、





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