元伊勢(加佐郡のみ・つづき) |
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元伊勢さんともなれば、謎だらけ、検討を加えるべき課題が山とある。前のページが一杯になりましたので、こちらにその「つづき」を続けます。街道編です。 このページの索引 穴石神社(野田川町四辻) 是社神社(福知山市下天津) 切腹伝説 苦無神社(野田川町上山田) 宝積山金剛寺(加悦町与謝) 算所 丹後国府 華浪(丹波国天田郡) 花浪(前浪)駅(山陰別道) 花波神(近江国) 花浪の里(丹後国与謝郡) 花波山(播磨国) 日出(白出)駅(山陰別道) 普甲峠 細井和喜蔵 勾金(丹後国) 牧正一古墳(福知山市牧) 弥刀神社(野田川町上山田) 山田断層(丹後半島)
古代の山陰道に設けられた駅であるが、和名抄や延喜式によれば、次のようになっている。 〈 第一章 大江山伝説 一 はじめに 三岳・金山地区の北東にそびえる大江山(別名 千丈ヶ岳、八三二b)は酒呑童子退治伝説の舞台として、夙に知られている。大江山伝説は、平安時代末には数々の武勇譚が語られていた、摂津源氏の祖源頼光とその従臣(藤原保昌、渡辺綱、卜部季武、碓井定光、坂田公時)が、大江山に巣くう酒呑童子を首領とする鬼賊を退治するという説話で、その原型は十四世紀末には成立していたと考えられている。そして、近世にかけて絵巻・謡曲・御伽草子・奈良絵本・浄瑠璃・歌舞伎等の題材にたびたび用いられ、広く民衆の知る物語となった。 本来この伝説の舞台は、山城・丹波の国境にある大枝山(老ノ坂、現京都市西京区)であったことが、早くから指摘されている。老ノ坂の峠には、酒呑童子の首塚とよばれる供養塔が建てられているが、老ノ坂に伝わる事跡はこれのみである。これに比べると、千丈ヶ岳の周辺には、数多の伝説地が遺されている。御伽草子「酒呑童子」には「この国の千丈ヶ獄は何処ぞや」の一節のあることから、この物語が広く民衆に受け入れられた中世末には、千丈ヶ岳を舞台としていたは確実である。そして、この地に根を下ろした大江山伝説は、独自の成長を遂げ、中央では語られることのなかった地方伝承を創造していったのである。表○は今回の調査で採集することのできた大江山伝説の一覧である。 報告者はかつて大江山周辺の伝説地は二つの伝承群からなると説いたことがある。一つは大江山の東麓、二瀬川沿いに分布する伝承群(表○、参考b〜f)である。その中心は藤原保昌が酒呑童子の霊を鎮めるためにはじめたという伝説を有する鬼茶屋である。鬼茶屋は江戸時代には桝屋と号し、酒呑童子退治の様子を描いた襖絵があり、さらに、弘化二年(一八四五)に版行された『酒呑童子由来』と題する読本の版木を所有している。その読本の末尾に「右名所、一覧被成度御方者、御案内可申候」とあることから、鬼茶屋では宿泊客や旅行者の求めに応じて鬼退治の物語を語り、読本を頒布していたものと考えられる。これらの伝承群は、大江山伝説が広く知られる国民説話に成長し、旅客たちもそのいわれの地を求めたことが契機となって形作られたものと考えられる。つまり、主として外的要因によって形成された伝承群である。 第二の伝承群は、今回の調査対象地域である、三岳山周辺に分布する伝承である。この伝承群の特徴は、三岳蔵王権現や御勝八幡・堂城家など神社や家の由来を説くものが多いことである。さらに、祭礼や芸能の起源伝承を伴っている。その意味で、この地の大江山伝説は村落の精神生活にとってなくてはならないものとなっている。ここでは大江山伝説は国民説話を離れた独自の発展を遂げている。… 〉 さも大昔から大江山伝説があったかのようにいわれ、何やらいろいろなものが本当らしく作成されていますが、どうも…、というわけのようである。がんとしたさも科学的学問的そうな歴史書だってそうした所が多々あり過ぎて我々の判断を大きく狂わせてきたのだから、伝説ならましてや…。時代が下るほどにそうした傾向は強くなるそうで、あちこちでその地の伝説にちなんで本当に根拠があるのかと首をかしげたくなるようなものを観光用にどんどん作る。日本史上の最盛期なのではなかろうか。道路を作って観光スポットを作って…。学問的根拠や文化やウソかホントかは何も関係がございません。観光客が来でゼニを幾らかでも落としてくれればそれでいいのではありませんか。国でも府でもよろしいが要するにその地域にゼニが落ちればそれでいいのであります、地域の活性化とはこのこと以外にはないではないですか、ゼニですよゼニ、元気な地方とはそういうことです。活力ある地域とはそれです、すべてゼニ、それ以外の、ブンカ、レキシ、阿呆らしい問題ではありませんな。信じて来る観光客がバカなのですよ。伝説なんかどうせそんなもんですよ。あんまり堀り繰り返したらあきまへんな。あんまりやらんとって下さい。『丹後の地名』さんもええかげんにしといて下さい。などと言われるかも知れない。夕張を先頭に全国でやっております。何も大江山だけではございませんので…。 〈 国家があって教育があるのでなく、教育があって国家がある。国家という建物を支える鉄筋に相当するものは教育しかない。 教育があって人間は「人間」になれる。その「人間」あって国家が成り立つ。 「人は石垣、人は城」。昔も今も、国を守れるのはカネや鉄砲ではない。志をとり返す教育だけが日本を守ってくれるだろう。(衆議院議員、元出雲市長) 〉 さがしてみると上のようなページがあった。何も政治的意図はもたないが引かせていただく。
さて一般論として「花浪」という地は何か大変に神聖な特異な場所のように思われる。丹波の華浪からすこし離れてこの地名をみてみよう。 〈 託賀郡・ 法太とよぶわけは、讃伎日子と 花波山(はななみやま)は、近江の花波の神がこの山に鎮座しておいでになる。だからそれによって名とした。 賀毛郡。川合の里《土は中の上である。》 右、川合とよぷのは、端鹿〔川〕の下流と鴨川とがこの村で会う。だから川合の里とよぶ。 腹辟の沼 右、腹辟とよぶわけは この記事は花波という地名よりも日本人のしかも女性の切腹第一号の伝承としてよく知られている。川合里は兵庫県小野市に河合という所があるがそこのことだろうか。 〈 いたば 板波<西脇市> 加古川と野間川の合流するあたり、鳴尾山の北東麓に位置する。地名のイタは崖を意味するもので、地内北部は野間川の段丘上、東は加古川に臨み、南西に鳴尾山が迫る地形から板場が板波になったものであろう。鎮守は地内にある石上神社で、その勧請は正暦3年とも、永承5年とも伝える。祭日は10月10日、氏子の板波町・野村町の人々によって伝承されている鯰押さえの神事がある。ほかに大歳社がある。… 〉 軽い考えの地名研究者の言いそうな話であるが、当たってはいないと思われる。板波はイタバと読まずに本来はハンナミと読むのだろう。従ってこの板波町の西側の鳴尾山というのが風土記の言う花波山であろうか。芳田校の校歌には甕坂はあるが花波山は歌われていない、忘れられているのであろうか。この地で一番高い角尾山も歌われている、カグ尾であろうか。何か金属のにおいのする地のように思われる。 女性も切腹した歴史を持つ、いうか或いは女性から切腹は始まったのかも知れない 。女性の社会進出は大変結構なことである。これで女性にも社会的責任がつくことになる、家庭の中で甘やかされているような華やかな甘いものではない。時代が悪くてどんな分野で仮に出世しても周囲の男どもは基本的には社会責任の自覚もなければ取れない超頼りないつまらないクズばかりと思われる。本来の人間社会からはズレた方向に社会が進んでいるので、人間ではないような人間ばかりが偉い人間と勘違いされ出世していくのである。何でワシが腹を切らんとあかんのじゃ氏ばかりであろう。ええかげんにさらさんかい氏ばかりであるが、そんな者どもに染まらぬように、ましてや遊び半分気分を捨てて、社会責任の自覚のある、腹を切る覚悟のあるリーダーに成長してください。これはなかなか大変ですが、そうでないと社会進出の意味は何もない。
花浪という処は何かそうした神聖な恐らく創世神話の舞台の地なのではなかろうか。池と川の神様のようだからハナナミは蛇神かも知れない。言うまでもなく昆解宮成が白鑞を見つけた山の名でもあるから金属と特別に関係深い地名でもある。 〈 【花波里】与謝郡○宮津府志、今里波見村のよし、「花波の里とし聞けば物うきに君ひきわたせ天の橋立」和泉式部。○今、養老村と改む。 〉 和泉式部の花波の里は丹後の養老村(現宮津市)の 庄など書也里にはあらず日置の郷より西の方府中七ケ村岩滝の地迄を云ふ。… 〉 『丹後与謝海名勝略記』(貝原益軒)は、 〈 【里波見村】 是花波の里といふ名所なり。 はななみの里とし聞は住うきに 君引はたせ天の橋立 (和泉式部) 〉 ハナナミ→ハミだというのである。これはおかしいと丹波のほうからハナナミ里は丹波だと異論が出るのであるが、しかしこの丹後説はそう間違いとは言えないのである。『丹後旧事記』がほぼ正解と思われるが、ともかくその当否は別として丹後ではこれで大きな異論はない。ついでながら成生にもハミの小字がある。 面白いことではあるが『岩滝町誌』を私はまだ見ていないのであるが、次の話が書かれているという。「一色テキスタイル社」のHPによれば、 〈 …言い伝えによると、昔は波見・日置・府中(今の宮津市)から岩滝までの範囲を華浪里(はななみのさと:花浪里とも書く)と言った。また、華浪里の中に男山・岩滝・弓木等の「保」があったのではなかろうか。 昔は、どこでも地名を神社にしたが、岩滝に奉ってあった神様を華浪神社といった。ところが昔の人は皆無学であったからハナナミのあて字を板列・板並・板浪等と書いた。 醍醐天皇の延喜年間(901)に日本国中の神社の戸籍調べを行い、延喜式神名帳に「板列神社」と登録され、この時から、板列の字が使われるようになった。また、「石清水文書」「足利義詮御教書」には板浪の文字が使われている。 〉 「奈良時代(4)板列神社と里・保」 〈 言い伝えによると、昔は波見、日置、府中、(今の宮津市)から岩滝までの範囲を華浪里(はななみのさと)(或は花浪里とも書く)と言った。枚列里の中に男山、岩滝弓木等の「保」があったのではなかろうか。 昔は、どこでも地名を神社にしたが岩滝に祀ってあった神様を華浪神社といった。ところが昔の人は皆無学であったからハナナミのあて字を板列、又は板並、或は板浪等と書いた。 今から千年許り前、醍醐天皇の延喜年間(九○一)に日本国中の神社の戸籍調べを行い延喜式神斜帳に登録した。この時から板列神社、即ち板列の字が使われるようになった。 「石清水文書」、足利義詳御教書」には板浪の文字が使われている。 奈良時代には「拝師の郷」という伊根から弓木までの広い範囲の里や、板列の里や、男山、岩滝、弓木というような「保」があったものと思われる。 式内社の板列神社は板列稲荷(上写真)よりもすこし東に鎮座する板列八幡神社(下写真)とするようだが、どちらにしてもこの男山と呼ばれるあたりにあったのであろうと言われる。 〈 丹州与佐縣板浪里 ○宮津人云此社橋立ヨリ半里アマリ男山村ニアリ板列ヲハンナミト唱フト云ヘリ 〉 とあるそうである。 〈 延喜式所載板列神社ノ考已ニ本書ニ載ス。一説ニ板列神社ハ石川村稲荷大明神ヲ云フト、社ハ石川ノ端郷亀山ヨリ五町餘東ニアリ、道ノ中間ニ華表ノ跡トテ石六ツアリ、近来稲荷社ノ柱礎ニトリテ残リ一ツアリ此所板列ノ社華表中古マデアリシト云傳フ。 (永浜宇平註) 板列庄が物部郷なる石川村の端郷亀山まで届いて居ったか否やは考へものであるが、板列といふ地字は存在してゐるし、茲に所謂稲荷大明神は今稲崎神社といふ、亀山から五町も離れて居るぬ、すぐ裏の山の手である。 〉 稲崎神社は「室尾山観音寺神名帳」にも従二位と記載がある古い神社であるが、その鎮座地を『与謝郡誌』は、 〈 石川村字亀山の板列に鎭座 〉 としている。この社があるいは式内社であるかも知れないと拾遺は書いている。板列という所はずいぶんと広かったと思われる。 亀山の板浪という所は小字地図によれば、右写真の正面の山の真北になる。写真でいえば麓の竹藪のあたりではなかろうか。 この山の後ろ側が 須代銅鐸の出土で知られる須代神社は式内社である。「室尾山観音寺神名帳」(与謝郡国内神名帳)には従二位・坂代明神とある。坂代は国史現在社でもあるが、それと須代は同じと一般には考えられているわけである。坂代は何と読むか。サカシロなどと読めば誤りであろう。おそらく 〈 須代神社 桑飼村字明石小字宮ノ越、村社、祭紳須瀬理姫命、天明玉命、天太玉命、倉稻魂命、三代実録元慶四年十月十三日丹後國板代神に從五位下を賜る由見ゆるも當社なりや否や不明なり延喜式には竝小社に列す。元鹿之谷に鎮座ありしを寛保三年八月今の地に奉遷再建せしといふ、當社に賓物として銅鐸壹個あり史蹟編に詳録すぺし。明治六年村社、祭八月二十八日氏子百三十九戸。 〉 この山は何という名なのかと問うてみると、名前ですか、何かあるかも知れませんが、私は知りませんな。ということであった。裏側の加悦町の方では城山と呼んでいる、この山頂に枝ヶ城というのがあったからそうよぶのであろう。亀山という所だから亀山あるいは神山なのではなかろうか。 では古代の名前は何であろうか。記録にはないようだけれども、これをお読みの皆さんならもう復元できるのでないだろうか。 ハナナミ山でしょう。ハナナミの神山と呼ぶ聖山でなかったかと思う。稲崎神社は地図には写真の右手あたりに書かれているのだが、探せども見つからなかった。 香河川の流域で花崗岩の山である。この谷の向かいの西禅寺の山号は金湯山という。鬼山という小字もある所だから金湯山は鬼山といったかも知れない。その隣には如意尼の創立と伝わる真言宗の神宮寺がある。前身を慈観寺という。田数帳に名のある大寺である。このあたりに式内社があったとしても何も不思議でもない。石川は石川五右衛門の出身地という話もあるが、文政一揆のリーダーを生んだ村でもある。この村を流れる さて、伊根町蒲入に母坂の小字もある。ハハ(母・カカ)も蛇である。ハハ(母)というのは蛇というのか、原義的には生命の木・世界樹を言っているのだろうかと思う。母は生命を産み出し育てる木という意味なのではなかろうか。アダムとイブのイブは生命の意味だという。ババ(婆)・ウバ(姥・乳母)・オバ(姨・叔母・伯母)などもやはり蛇であり、本来は生命樹・世界樹を意味した言葉なのではなかろうか。現在は人を生み育てるという機能がマヒした枯木樹社会である。何もごく一部の母親だけが子殺しをするのではない、われわれの住む島はよってたかって子殺しをしている美しい国になってはいないか。人を育てようという気持ちが本当にあるのか。飢え死にする子供をそしらぬ顔して見殺しにしていないか。「誤爆」で殺されているのに黙っていないか。子殺しどもの共犯者になってはいないか。もしそうならばここは文明国ではなく野蛮の狂気の国である。生命樹が勢いよく青々と幾重にも生い茂る本当に美しい国に早く戻そうではないか。 伊根町と丹後町の境、カマヤ海岸のものすごい断崖に 勘注系図は、海部直勲尼の葬地を葬二于余社郡板波波布地山一としている。ハブチと読むのであろう。 主として天橋立の北側一帯の海岸部、国府の置かれた丹後の心臓であるが、そのかなり広い範囲をハナナミ・ハンナミ・ハナミ・ハミあるいはハハ、ハブとも呼んでいたことがわかる。ハミはハナ・ハンともなることも覚えておこう。ハナナミは蛇のことのように思われる。 『丹後御檀家帳』(天文七・1540)には、 〈 一 いたなみ 一城の主也 かはた佐渡殿おい子 林左衛門太夫殿 蒲田源左衛門尉殿 〉 とあり、ハナナミ・ハンナミは古く16世紀にはもうイタナミとも呼ばれていたようである。 板列の山々からの天橋立は絶勝である。日本三景との一と言われるだけのものがある。丹後人であることが嬉しくなってくる。 大内峠一字観は少し南によっているため、二本松の山に隠れて文珠方向(写真で言えば右手の付け根)が見えないが、縦貫林道を北へ行くほど全体がよく見える。このあたりからずっと写真でいえばこの左右方向が丹後のはななみの里である。ハビと言うくらいであるからこの山はマムシがいるので注意をして下さい。 板列山から天香具山にかけては花崗岩である、車から見えた範囲はすべて風化の進んだ花崗岩であった。金属が出たのはまちがいないと思う。 手前から左手に伸びていく板列山から阿蘇海の方へ突きだした支脈の先端に与謝海養護学校が建てられている、上の写真でいえば、山腹が少し白く見える辺りであるが、そこには法王寺古墳(5世紀中)があった。『丹後路の史跡めぐり』(梅本政幸・昭47)は、 〈 男山の養護学校建設工事中の昭和四三年八月発見された法王寺古墳は、全長七四メートルの前方後円墳で、後円部の径五五メートル、長持形石棺、埴輪棺、石枕が出土している。石棺内より安良彦、安良媛と伝えられる男女二体の遺体が出ており、墳腹に二人を祀る小祠がある。 全山葺石に覆われ、造られた当時は真白な葺石が阿蘇海に映えてすばらしい眺めであったろうと想像される。 〉 「宮津湾沿岸の前期古墳」 伝被葬者の安良彦・安良媛の「安良」はアラと読むのでなかろうか。arである。加悦町の蛭子山古墳の向かいの山は安良山と書くがヤスラ山と呼んでいる。本当はアル・フル系の地名なのではなかろうか。彼らは加悦谷の人なのかも知れないしあるいは野田川流域はすべてarの地だったのかも知れない。古代丹後の心臓のような所であるが、そうした古い優れた文化発祥の地は渡来系文化を濃厚に残すようである。加悦町 宮津市畑の有坂神社。まさにアリラン峠神社。左手の山が鼓ヶ岳(成相山)で峠を越えると大宮町五十河の方へ出る。 同市今福に荒木野神社。人名では有吉将監、この写真の安良山城の大将である。伝説では宮津市田原のあたりを在原の里と呼ぶ。同じく『丹後路の史跡めぐり』(梅本政幸・昭47)は、 〈 伊根から丹後半島へ出るには、田原峠から筒川を経て本庄へ出る道と、朝妻を経て才ノ木峠を越して本庄へ出る道と二つある。田原峠を登りきると田原という小部落につくが、ここは平安時代在原の棟梁 春待てど花も匂わぬ山里は 物憂かる音にうぐいすぞ鳴く 在原業平 〉 『丹哥府志』は、 〈 ◎田原村(伊根浦の庄小坪村より入る) 【田原権現】(祭七月十六日) 【田口山龍燈寺】(曹洞宗) 【在原棟梁】 丹後旧記曰。陽成天皇の御宇に在原棟梁丹後の国司となりしばらく与謝の田原に居らるるといふ、古今和歌集に出る春立の歌は其頃の歌なりと伝ふ。 歌集に出る春立の歌は其頃の歌なりと伝ふ。 春まてと花も匂はぬ山里は 物うかる音に鴬そ鳴く 宮津府志云。在原棟梁丹後に来るは国司にあらず左遷せられて与謝に来るといふ、されども棟梁の左遷せられし事はいまだ正史に見当らずいかがの謂にや。 〉 『宮津府志』は、 〈 在原棟梁旧地 與謝郡田原村に在原棟梁の歌とて里民家につたふ はるくれど花も匂はぬ山里は 物憂かる音にうくひすそなく 棟梁は左中将の子なりとぞ、飛鳥井栄雅の抄に云棟梁丹後国田原に勅勘にて龍り居し時よめる歌なりとあり。 〉 そうすると田原の奥の なお、 在原業平は平城天皇の皇子・ 〈 穴憂ノ里 今輪の崎といふ所のよし。 宮津記に云ふ。内海和野崎の辺なり、三角五輪くずは崎など云も此辺なり。 おとに聞くあなふの里やこれならん 人のこゝろの名にこそありけれ 頼圓法師、 〉 〈 加悦の町(かや) 加悦は間人と同じく、日本でもよみにくい町名の一つといわれているが、大伴金村が支配した五三○年頃、朝鮮の任那(みまな)の中に加那(かや)という国があった。また加悦の安良(やすら)は昔安羅と書かれたが、これも任那の都市に安羅(あら)という町があった。いまの威安(かんあん)である。 もう一つは野の神のことを「萱野媛」(かやのひめ)というところから、広々としたこの加悦谷盆地にその名がつけられたとも考えられる。加悦の武内社吾野神社には萱野媛が祀ってあることもつけ加えておこう。 古い文書には「賀悦」「加屋」「賀屋」などの文字が使われているが、南朝の忠臣といわれた名和長年の臣嘉悦氏が一色氏の支配になる前に領主となっていたのでこの字が使われるようになったという。嘉悦氏は熊本と東京に現存する。…. 〉 洛東江流域の古い加羅諸国の 『和名抄』の与謝郡 日置は日置氏がいたからそう呼ばれると思われるが、何をしていた氏族かはもう一つ解明されてはいない。花波の神は近江の神と『播磨風土記』は記すが残念ながらこれ以上の伝えは残らない。その通りだとすればこの丹後・丹波のハナナミ地名の辺りに住む人々もかつて近江から来たことになる、何のためだろう。あるいはハナナミ地名はもしかすると日置氏によるものかも知れない。たぶんこの氏族も金属と深い関係があると思う。 拝志郷あたりには鬼がいたようである。「国分寺の鬼面・鬼石」 ハナナミ神を祀るという播磨の託賀郡(多可郡)は加古川の流域で西脇市のあたりであり、丹波の氷上郡や多紀郡と接している。その下流が加毛郡(加東郡・加西郡)である。丹後人にも近いところでなじみ深い地である。私はこのあたりに知り合いはないが周囲の人がよく話題にしているのを聞く。いつか機会があればもう少し探求してみたい。 HとKはよく入り替わるのであるいはハンナミとカンナミ(神奈備)は同じ事かも知れない。しかしその神奈備も何のことかはよくわかってはいない。
しかし野田川流域・古代丹後の心臓地帯はどこも鉄である。たとえば西隣の山田郷は同じ続きの花崗岩の山裾であるが、ここもいろいろと残っている。 丹後では最も危険といわれる山田活断層に沿って、というかその線上に丹後一宮・籠神社あたりから但馬一宮・出石神社あたりまで東西に直線に点々と並ぶ神社群もすべて鉄でないのかと私は考えている。 この断層が動くと震度7、死者は1800人とか予想されている。怖いが面白い断層である。『角川日本地名大辞典』は、 〈 昭和2年の丹後大地震では当町域(野田川町−引用者注)幾地から四辻・上山田・下山田を経て岩滝町男山に至る山田断層ができ、被害は死亡者数438で、当時の人口の約23%にあたる。特に市場村の被害は大きく、死亡など被災者数は全人口の約33%にあたり、四辻・幾地ではほとんど全壊したという。 〉 「山田断層帯の長期評価−地震調査委員会」 山田断層はこの時に出来たというものではなく、ずっと古く地質時代からあるものだが、この時も動いたということである。将来のX年Y月Z日にもまた動くことは間違いがない。偉そうに自分では思い上っているが人間サマの知能水準では予知はできない、一秒先もわからないアホタンばかり、地殻にエネルギーが蓄積されれば必ず山も動く、不断から備えてもらうより手がない。 まず 〈 穴石神社由緒 祭神 大山祗神(山を司り給う神) 神徳 心願成就・災厄削除・家内安全 当社の創建は不詳なれど元亀三年(一五七二年)に書写された丹後の国神名帳伝本に阿梨明神と記載されており、相当古くから存在した神社であることは明かである。明和六年天保十二年再建の棟札が現存し、明治十九年に鳥居が再建されている。 伝説 往古上山田尾崎の辺りに古沼があり、大蛇が棲み里人を困らせていた。そこで少名彦命が大蛇を退治したところ、その尾尻から刀剣が出、その刀剣を祀ったのが彌刀神社であり、少名彦命は苦無神社に、蛇体は穴石神社に祀ったと言う。 例祭 九月第一日曜日 平成八年三月吉日 宮司謹書 〉 穴師は 少彦名を祀ったと言われる苦無神社(野田川町上山田)はどうであろうか。 これは何と読みますかと問うと、「クナシ。苦労無しです」ということであった。何の神社でしょう。「鍜冶の神サンといいます。そこの裏山で鉄滓が出てます。そこ、神社の右手の今は畠になってますが、そこには鍛冶屋ありました。左手には鍬ブリャ屋があったんです」。クワブリャヤですか。「クワは鍬でしょうな。ブリャと言うてましたが、何のことかわかりません。木で鍬をこさえまして昔は、その縁に鉄を付けたんです」。地面に絵を描いて教えてもらったのだが、木製の鍬に鉄製の縁や刃先を取り付けるところのようである。何か弥生時代の話ではないのかと思えるようなことであった。「木では農業できませんで、そうした鉄を取り付ける仕事をしていた所」だったそうである。小牧進三氏の地元だけあって何でもないような通りかがりの人でもおっしゃることがずいぶんとしっかりしている。地域に偉大な先人を持つことは大事なことだと考えさせられる。 クワブリャヤというのは丹後弁だろうが、丹後弁は「貝で鯛を釣る」は「キャーでタァー釣る」となる。鍬フル屋あるいは鍬フルヤであろうかと思われる。舞鶴辺りでも同じ呼び方をしたようで、『田辺・道しるべ』(安田重晴・平10)は岸谷の項で、(小吹き)峠の近くに住んでいた人は鍬の木枠である「フロ」を作って生活していた。この人達のことを地元では、「フルヤ」(フロが訛ってフルヤになる)さんと呼んでいた。とされている。 さて『野田川町誌』(昭44)は、 〈 上山田小字尾崎 祭神 少名彦命。 神彦巣日命の子で、朝鮮の国土を治め、帰国して出雲国で大国主命を助けて国土を経営し、畜産のため療法を定め、鳥獣昆虫の災厄に対する禁厭法(マジナイ)を制した。大祭は旧九月六日、現在は四月二十五日である。 伝説として、小字古宮(享保以前の社地)付近に沼があり、大蛇が住み、日夜民を苦しめた。少名彦命は、ただちにこれを斬って住民を救った。その蛇体より刀剣が出てこれを弥刀神社に奉斎し、蛇体は、幾地穴石神社に祀ったという。現在、享保二年十二月六日に社殿を建立した棟札がある。 また、古くから「笹ばやし」の民俗芸能があり、四月二十五日の大祭には、芸屋台や子どもの楽屋台が出て色を添える。 なお、境内には狂言舞台があったが、昭和二年の丹後大震災のため倒壊した。石造物には、一八二一年(文政四)の石灯篭、樹木として大銀杏がある。境内に尾崎稲荷の祠がある。なお、小字薬師に秋神葉社、小字東に愛宕神社、四郎大夫に蛭子神社がある。 〉 『与謝郡誌』は、 〈 苦無神社 山田村字上山田小字尾崎、村社、祭神少毘古那命、往昔天神山に鎮座ありしを寛政八年今の地に遷座せしといふ、明治六年二月村社に列せられ氏子九十戸祭九月六日境内尾崎、稻荷神社あり、又小字藥師に秋葉、東に愛宕、四郎太夫に蛭子神社あり皆無格社なり。 〉 苦無神社は「室尾山観音寺神名帳」の正四位上の久奈世明神であろう。アナシはアナセともなるので、クナシもクナセも同じことである。苦無神社の本来の呼び名はクラ穴師神社なのでなかろうか。 人磨のうたう 〈 【山田郷】和名抄、与謝郡山田郷。○今山田村及び三河内市場ならん、延喜式弥刀神社は山田の 〉 『野田川町誌』(昭44)は、 〈 祭神 速秋津日子命。 水戸を守る、水戸で祓除けをする。妹の速秋津姫と共に速力の早い瀬の間にあって、罪けがれを祓い清める神である。湊には多くこの神を祭る。水戸明神と呼ばれた記録がある。日本地理志料に「祀典所レ秩弥刀神社在二上山田村一称二水戸明社一云々」とあり、宝永四年九月再建したことも残っているが、現在の社殿は、明治二十五年建立のものである。大祭は旧九月六日、現在は四月二十五日。行事として往昔はささばやし、神楽、担い屋台などがあったが、現在では、太刀振りがあり、振子たちは精進潔斎を行ない身を清めるため、滝水にうたれて参加をした。また、江戸時代から弥刀神社講があり、現在までつづいている。明和七年からの講帳があって、月番により講の運営を行ない、その月の当番宅では会食がある。また、子供中の組織として、大仙導(おおせんど)、宮寵り、宮掃除などの行事があったが、現在はつづいていない。境内には、若官、稲荷など、また小字城山には城山稲荷の祠がある。 〉 この辺り野田川町は
播磨風土記のいう、「近江の花波の神」はどのような性格のどこの神様なのか何もわかっていない。坂田郡伊吹町に 〈 と見える。『古事記』開化記には、 〈 息長日子王は吉備の品遅君、 〉 と見える。針間の阿宗は、龍野市誉田町広山に式内社の阿宗神社が鎮座、その少し南の兵庫県揖保郡太子町に阿曾・下阿曾の地名がある。どうやら播磨にも広く息長族かいたと思われる。 「阿宗神社」 花見とかハナビという地名はいろいろと全国に見られる。これらもあるいは関係があるかも知れない。 綾部市上杉町小嶋の八坂神社は 「八坂神社」(綾部市上杉町) 兵庫県城崎郡香住町柴山の 近江のイタナコ川からは磯砂山が連想されるが、あるいはここもハナナミなのかも。
丹後がそうなら花浪・華浪は波美ともなるのではなかろうか。大江町河守の 〈 由良川が福知山盆地を出る出口の左岸一帯に位置する。当地には十五・十九・下十九・丁田・八ケ坪・石ケ坪などの小字名があり、古代条里制の遺名と推察される。古代川口郷(和名抄)、中世の河口庄の地 〉 『福知山市史』には、 〈 例えば市内上天津に八ケ坪とか(単に十五とか十九という小字名もある)綾部市の高津、市内戸田の一ノ坪のように、数詞のついた坪名が現存するのは、あるいは古代の坪割の名残りかとも思われるが、ただ残念なことに、こういう坪名の地が少なくて、それらの位置と番号により、もとの条里の規模を復原し兼ねるのである。 〉 とある。これだけ一ケ所に残る地は他にはない。ここは川の合流点であるし、各地からの道もここで合流する、古来水陸の交通と金属生産の要衝であったことは間違いなさそうである。この辺りに花浪駅か何か官衙のようなものがあったとしても何の不思議もないと思われる。 是社神社(福知山市下天津)。コレコソと読む。国道のすぐわきに鎮座している。なにぞ所以ありげな古社と思われる。『丹波・丹後の伝説遍歴』(00・岡井主税)によれば、この社には是社大明神縁起が伝わるそうでその末尾に、「村は華浪駅天津庄と号す」とあるそうである。この地が華浪駅だというのである。 コレは何かよくわからないが、コソは神社のことである。ここでも社と書いてコソと読んでいるとおりである。『日本の朝鮮文化』(1982・中公文庫)は、 〈 金達寿 …一つ、コソというものについていいますと、朝鮮で最初の神宮は新羅の初代王朴赫居世を祭った祖神廟なのです。赫を除くと居世(こせ)になりますが、これが問題で、例えばこちらに比売許曽(ひめこそ)神社というのがあります。他にも阿麻美許曽神社とか波牟許曽神社とか、許曽=居世で、朝鮮語では尊称なんです。 司馬遼太郎 日本の古語でもそうですね。比売許曽といえばお姫さまの「さま」です。社と書いてもコソと読みますね。村社(むらこそ)さんという運動選手がいらした。 金達寿 ええ。伴信友は「神社を許曽と云ふ事」といっていますね。ところがその居世(許曽)の神官・神社は、朝鮮では仏教がはいってくると同時に、ほとんど全滅状態となります。しかし、日本ではこれが残ってきているばかりか、神仏習合したりしてますます盛んとなる。… 百済とか新羅、高麗といった地名が日本にはある。ずっと昔に滅んだ国々の名は本国でももう失われているが日本には残っている。一体の地なのだろう。 〈 ○昆解氏.百済帰化族也、天平神護二年七月紀に散位従七位上昆解宮成、得似白鑞者、以献、言曰、丹波国天田郡 華浪山所出也ト見ユ、此氏、後宿禰姓ラ腸フ、又承和二年五月紀ニ右京人丹波権大目昆解宮継、内豎同姓河継等、賜姓広野宿鱒、百済国人夫子之後也トアリ。 〉 これはよくわからないが、これはたぶん太田亮を引いているのだと思う。あの大辞典が手元にないので確認はできない。 是社神社には次のような伝説が伝わる。『角川日本地名大辞典』は、 〈 地名の由来については崇神天皇の頃、丹後国の内宮外宮に奉仕した皇女豊入姫命が、その帰途当地で入水、蛇に化身して当地に住するようになったと伝え、同命は天津彦瓊瓊杵尊に奉斎した勅使であったから、当地を天津村と称するようになったという。また考徳天皇の皇子兵米親王(有間皇子とも)が謀叛をはかって丹波へ流されたとき、契を結んだ天津姫が、その後を慕って当地に至り絶命した。その姫の魂が当地に留っているため天津村と称するようになったという。 〉 『天田郡志資料』(昭11年)は、 〈 同村字下天津鎮座 祭神 比賣神 社殿 梁行六尺七寸、桁行七尺六寸 境内 六十二歩 末社 氏子 六十五戸 祭日 十月十七日 (傳説) 孝徳天皇の皇子有間皇子斎明天皇の御宇に謀叛を住て給ひしに由り白雉五年(一三一四)三月丹波国に流されたまふ時に皇子と深く契り給ひし天津姫といふあり。皇子を慕ひて此所まで来り終に病起りて薨じ給ひき。その御霊を祭りて是社明神とひ、其御名に由って天津村といふ云々。此未だ考へ得ざれども有馬皇子の事は(大日本史)に見ゆ。即ち皇子性黠猾齋明帝の時非望を抱き帝を欺き奉って紀伊国牟婁の温泉に幸せしめ、其虚に乗じて蘇我赤兄と事を挙げんことを議す適々皇子の椅脚故なくして折る.以て不詳となし互に盟ひて止む。而して其夜赤兄、人をして皇子の邸を囲み、使を牟婁に馳せて此状を聞し皇子を執へて行在に送る。皇太子面り叛状を問ふ。皇子答へて曰く、唯天と赤兄とのみ知る。吾は知らずと、遂に死を藤日阪に賜ふ、時に年十九。 〉 『福知山市史』は、 〈 市内字天津に是社神社という宮がある。その祭神は比売神となっている。(天田郡志資料)もちろんそのまま信じられない話ではあるが、天津に伝わっている「丹波国天田郡天津村始里より由来之事」(以下略して「天津村由来記」とする)に次のような説話が載っている。 崇神天皇の十年に四道将軍派遣の事あり、その中の一人丹波道主命は丹波路に遣わされたが、右は将軍の始めで、その支配地は天田郡三ツ川口村であった。同天皇の三十九年に当国与佐郡に天照皇太神を始めて祭りその地を内宮といい、又同年同国同郡真名井ヶ原に豊受大神を祭り外宮と称した。右の両宮を鎮座するに当り大和国瑞離ノ宮より宮使として天津豊根命、天津姫命の二人が来、四ヶ年の間斎き奉ることとなった。その来るみちで当所天津において休息した。その際天津姫命は急に同所付近の河中に身を投じた。豊根命初め数多の人々大いに驚き、どうしたことかと悲哀落涙止めあえず、ようやくにして水練に秀でたものが船を用意してその死骸なりとも引上げんとしたところ、いか程尋ね求めてもついに知り得ず、不審なことでもあり、いかにも不忠不義無念のことであると悔み入ったが、豊根命はなお悲しみ今一度姿を見せよといって右の淵に向かったところ姫命は水中から蛇身と化して上って来た。人々これを見てはなはだ恐れた。命はこの蛇身に向かって言い残すことがあらぱ語るようにといったところ、蛇身ながらも歌を詠んだ。 立別れ都ははるか遠くとも 是社(これこそ)われが住家なるかな 読み終ってそのまま小さい姫蛇となって消えていった。そこでその山に塚を築き石塔を立てその霊を祭った。豊根命は是非なく思って又歌を詠じた。 丹波路の波江に姫は誘われて 淡と消え行く名残惜しけれ さきの歌から古来村号を万代に伝えており、その時より久しい間、外宮豊受皇太神宮の産子として祭礼を勤めて来た。かくて豊根命は瑞離宮に帰ったのでその後両方の霊を祭った。 以上の通りで前の歌から社号が起こったといわれると、後の歌と字波江(旧下川ロ村内)の地名が連想される。あるいは、天津・是社・波江等の地名の起源は別のところにあるかも知れないが、後世これを説明するために以上の説話を形づくったものであろう。しかし天津の地名と天津姫との関係を認めた伝説として、山口加+米之助氏はやはり是社神社の解説の項に、孝徳天皇の皇子有間皇子云々という伝説を掲げ、それについての参考文を掲げている。 〉 こんなことでコレコソの意味を説明しているが、当たってはいないと思われる。是社の意味は忘れられているようである。 コソはわかるがコレとは何だろう。コソが渡来語ならばコレも渡来語だろうが、もしかすると蛇かも知れない。丹後町に 〈 是安村(吉永村の次) 【松枝大明神】(祭九月九日) 松枝大明神は麻呂子皇子の皇弟を祭ると語り伝ふ、斎宮祭下に弁ず。 【白照山神宮寺】(曹洞宗) 本尊薬師如来は七仏薬師の一なり。 〉 としていて金属と関係があるのではと思われる。日本語で説明できなければ、渡来系の言葉でなかろうか。遠所遺跡の近くのニゴレ古墳のコレかも知れない、油碁理のコリかも知れない。ここで取り上げるのは天津の対岸の筈巻にも七仏薬師があるからである。 「金福寺」(福知山市筈巻) 西伯郡淀江町の上淀廃寺の後の山は孝霊山(751M)だったし、孝霊天皇の鬼退治伝説というものもあるという。何か鉄と関係がある名と思われる。『鬼伝説の研究−金工史の視点から−』(若尾五雄1981)に、鳥取県日野郡日野町宮内の 〈 『日野郡史』を開いて、楽々福神社に関するところを読んでみると、色々なことが書いてあるが、「伯州日野郡楽々福大明神記録事」というのがあり、これが楽々福神社の古い由緒書らしい。細字で細々と書かれている。全文を示したいが、簡単な内容のことを長々と書いてあるだけだから、その概略を述べることにする。 その昔、孝霊天皇が米子に近い 要するに、孝霊天皇が鬼退治に来て、日野郡で鬼を退治したというのが、その大要である。同天皇の話は『記紀』にはあまり記載がなく、鬼退治の話ももちろんない。 〉 ササはこの近くだと佐々木のササで鉄のことであろう。コレもそれに似た意味を持つものと思われる。また楽々福神社の神様は片目だそうである。舞鶴市神崎の高麗山大明寺の高麗山は白杉鉱山の槙山であるが、あるいはこれも本来はコレ山と読むのかも知れない。 アリマというのは有間皇子とは関係がなく、どうもこの辺りの地名ではなかろうかとも思える。ar系の地名がたくさんある地であり、アリジがあり、アリタがあるのだから、この辺りにアリマがあっても何も不思議ではない。アリマ津→アマ津かも知れない。あるいはここの首長がアリマ彦・アリマ姫で、是社社は彼らを祀るのかも知れない。 西隣の牧には吉備神社がある。こんな神社があるからには、鬼退治の桃太郎の吉備国・まがね吹く吉備国と何か関係があるのではなかろうかと思われる。 吉備国でコレという所は一ケ所ある。岡山県赤磐郡吉井町 「吉備の八岐大蛇」 「赤磐市石上布都魂神社」 牧正一古墳と吉備神社(福知山市牧)。 古墳の境内に神社があるという方がいいようなあり方である。吉備神社はもともとは今の牧一宮の地にあったとも伝えられる、後期古墳が30基ばかりあるというからそうかも知れない。正一と呼ばれるように、今はホコラでしかないが、本来は神階の高い大きな神社であったと思われる。『京都新聞』(960315)は、 〈 府内初の1墳丘3石室*福知山の牧正一古墳*新たに1基確認*代々の首長か 福知山市牧の前方後円墳、牧正一古墳(六世紀後半)を発掘調査していた福知山市教委は十四日、これまで確認されていた横穴式石室二基に加え、さらに一基の石室が見つかったと発表した。一墳丘に三基の埋葬施設を持つ前方後円墳は少なく、京都府内では初めて。市教委は、石室の規模が大きいことなどから「被葬者は中丹地域の有力な豪族で、三基の石室には代々の首長が埋葬されたのではないか」とみている。 現地は由良川と牧川の合流地点近くの「正一位吉備神社」境内で、後期古墳分布地帯。全長三十五b、前方部幅二十三b、後円部径二十一bの中規模の前方後円墳とみられる。 墳丘を縦断するトレンチで調査した結果、南西の後円部の第一石室(推定全長十三b)と北東の前方部の第二石室(同十b以上)は北部では最大級であることを確認したほか、これまで見つかっていなかった第三石室の天井石部分と側壁一部が、後円部側で発掘された。第三石室は先の両石室の中程に位置し、大きさは推定で全長七b、幅一・二b、高さ二・二b。市教委は、墳丘土層の断面から、第一、第二がほぼ同時期に構築され、その後第三石室を設けたとみている。 近畿で三基の石室を持つ前方後円墳は奈良県北葛城郡の二塚古墳、滋賀県八日市市の八幡社46号墳など数例しかなく、京都府内で復数石室を持つ例は京都市の天塚古墳の二基まで。 牧正一古墳は一九三五年の府道拡幅工事で第二石室が見つかって以来、二回の調査が行われ、等高線などから北東に面する前方後円墳と推定。石室二基が見つかっていたほか、第二石室から直刀、馬具、子持台付壷(つぼ)など約三十点が出土している。福知山市教委は来年度、引き続き、石室や墳形の形態確認調査を行う。 〉 この古墳の『案内板』に 〈 福知山市指定史跡 牧正一(まきしょういち)古墳 この古墳は、福知山盆地の北端、由良川と牧川の合流点に近い福知山市字牧に在ります。 人名のような遺跡名は、この古墳が「正一位 吉備神社」の境内地に位置し、古墳部分を含めて「しょういっつあん」と呼び親しまれていることに由来します。 昭和十年、偶然に掘り当てられた石室から須恵器や土師器、金銅製馬具など貴重な品々が多数発見され、福知山の著名な遺跡の一つとして守り伝えられてきました。平成六年から平成八年にかけて福知山市教育委員会が行った発掘調査の結果、古墳時代後期(西暦六〇〇年代の後半)に属する全長三十八mの前方後円墳であることが確認され、後円部・前方部・くびれ部のそれぞれに横穴式石室を持った、極めて珍しい古墳であることがわかりました。 石室の内部は未調査ですが、第1石室が会長十二・〇m(玄室長四・七m、.玄室幅三・Om、羨道長七・三m)で両袖式、第2石室は全長一〇m(玄室長四・六m、玄室幅二・六m、羨道長五・四m)で左片袖式、第3石室は全長七m、幅一・五mで無袖式と推定されます。このうち第1石室は京都府下でも最大級に属し、全国的に見ても有数の規模を誇ることから、ここに埋葬された人物の生前の強大な力を想像することができます。 平成一二年八月一日 福知山市教育委員会 〉 上天津には小字勅使という所がある(昔の天津小学校の位置)。鋳物師と関係がありそうな伝説が伝わる。「勅使の鋳物師」 南の兵庫県氷上郡市島町にも勅使という所がある、勅使神社という神社もあったそうである。勅使田という開発田があったのだろうとも言われる。何か金属と関係がありそうな場所でもある。 話が横道にそれてばかりであるが、官道はどこを通っていたかである。由良川沿いが通行困難とすれば、是社神社の裏山の裏をとおればいい。下大内から上大内を越えて大呂へ出られる。 入り口になる立原は国道9号線から一歩北側の路地へ入れば、今でも街道筋の宿場町らしきたたずまいを残している。実際江戸期はここは宿場町であった。『大日本地名辞書』は、 〈 【立原タツハラ】今上川口村と云ふ、福知山より但馬出石及び和田山へ通ずる駅路に当る、慶長年中立てて一宿と為す、出石へ赴くには三岳村を経て、登尾峠を踰ゆべし。 補【立原】天田郡○丹波志、川口郷に在り、福智山を去ること一里半、但馬国の往還なり、其比旅泊の便なかりしに依て旅人の助ともなるべき由を以て、慶長年中福智山領主へ願ひ、有馬公之を免さる。之れより漸く町となりしなり。 〉 『福知山市史』は、 〈 〔立原を宿駅として諸役を免許する〕 有馬豊氏は慶長年中に立原村の諸役を免許した。その間の事情は『丹波志』に次のように出ている。 其比(頃)旅泊ノ便ナカリシニ因テ 旅人ノ助トモ可成由ヲ以テ 慶長年中福知山領主ニ願 有馬侯被免之 漸町卜成リシ 其時役ヲ被免タリ 村高トハ民家多シ 云々 この事は次の領主岡部・稲葉・松平の諸侯の時もつづけられた。. 〉 『天田郡志資料』(昭11年)に、 〈 立原 幅知山から山陰街道をたどって、和久市をすぎ下豊富村の荒河で宮津街道と分れる。狭間峠を越へ下川ロ村の牧に出て、牧川橋を渡り少し西すると立原に出る。これより山陰街道は牧川に沿うて本村を東西に貫通し、金谷、夜八野を越えて但馬方面へ通ずるのである。 立原は昔から旅客の宿泊地とし、又商業取引の中心地として近在に知られていた。又製絲業に従事する者が過半を占め.之が興廃は当部落の運命を左右するとまで称えられ、養糸は遠く福井、横浜の市場へ出され、其の総額五千萬貫に達していたのである。所が現今では製絲業者も激減して僅かに四五軒となり、従って商業の取引も昔日の俤なく一方山陰線の開通と共に旅人の数も少くなって、一層にさびれた感がある。立原のためにも又上川ロ村のためにも大いに惜しむべきことである。 〉 もっとも古代もそうであったかどうかはわからないが、写真でいえば真っ直ぐに行けば大呂へ出て丹後へ。左へ行けば国道426号線になり但馬へ出られる。右へ行けば福知山である。この付近の大きな家々は旅館のような感じがしたのであるが、誰もいなくて確認はできなかった。鉄道ができる以前は賑わった町ではなかったろうか。古い栄華の跡を留めている町筋である。 それでは福知山から宮津までを官道に沿って歩いてみよう。天津の難関をさけて大内から入る。地名を考えながら歩いてみよう。私は車でビューと行ってしまうが、歩くのが一番いいと思う。古代地名だと仮定しての話だが、立原はタツだから蛇、大内のウチはフル系の言葉で『福知山市史』のいう由良川筋のAR系地名の一つ、蛇の意味もある、由良川のユラがそもそもフル系でないか。下大内・上大内から大呂へ越える峠道は金山街道と呼ぶ。三吉神社は金山彦神を祀る。蔵王権現もあった。角川日本地名大辞典は、 「丹波志」によると、古くは十二村枝郷とされ、高312石余、「此村ヨリ大呂村エ越嶺ヲ判坂ト云牛馬通」 という。 としている。現在は高速並のすごい道である。判坂は今は半坂と書くようである。ハンナミと同じでハビ坂で、ここもおそらくはハナナミ峠なのであろう。 『京都新聞』(06.11.22)によれば大呂の子供はこの3キロの峠を越えて学校へ通うそうである。写真で見ると10名たらずが歩いて越えていく。古代の官道であるが雪が降る。熊が出る。周囲に人家のない道である。低学年の子は大変だろう。しかしバスはない。3キロくらいなら舞鶴だってゴロゴロとある。私の嫁さんの里・奥城屋は4キロ(家の玄関から校門まで正確に計ると3.8キロ)ある。ちょっと信じられないかも知れないが本当である。もちろんバスはない。道だけよくなってもダメなのである。交通手段がなければ何の意味もない。さすがに教育大国である、文明が発達するほどに不便になる。低学年の子があえぎながら懸命に歩いていくのを見ていると泣けてくるゾ。ヨメハンはお陰で早くて長くて美しいカモシカの足になったと自慢しているが、政治の超貧困の思わぬ効用であろうか。謝礼付きのやらせのインチキ公聴会で教育基本法云々の前にまじめになすべきことは山とある。福知山市の話によれば4キロ以上をバス導入の目安としているそうである。クソ役人は涼しい顔してそんなことを言うが、手前の子を毎日歩かせてみろ。現在でもスクールバスには2700万円もかかっておりとても無理だそうだ。お前さんの年俸は幾らだ。三人ばかりの首をきればすぐ浮かせる金額である。雪の中を小さい子供達が3キロ以上も何人も毎日歩いて往復しなければならないような貧困自治体にしては官僚どもに支払われる報酬が良すぎると思われないだろうか。減らせばいいというものでもないがしかし身の丈にあったというか自治体の甲斐性にあった数と賃金としなければなるまいし、私の賃金で何人の子供が歩かずに済むのかとよく考えてもらいたいものである。そうした意識がなければ首を切れという話もでるかも知れない。官僚どもに支払われる高額の報酬と引き替えに子供は歩いているのだ。そう言われないような応対をしてもらいたいものである。 大呂はオロチのオロで蛇、オロというのは井で、古い高句麗語であるが、蛇の意味ももつ。このあたりも渡来系の地名ばかりである。蛇神を信仰する人々であったと思われる。鬼だの渡来人だのと言えばあまり気に入られないかも知れないが、どうやらそうなのだから仕方もない。しっかりと過去に向き合うことが将来を開くことになる。それ以外には未来への道はない。 大内峠を越えると右上写真の位置へ左手から出てくる。左へ行けば大呂の中心地・蛇が棲んでいたと伝わる天寧寺のある方で、御勝八幡・上野条・下野条へ続く、こちら側からでも丹後へ行ける、華浪駅はたぶんこの写真の位置のあたりにあったのかも知れない。右へ少し下るが行くと瘤木で、そこからはななみ峠を越えて長尾・行積・下野条と行くというのが官道の推定コースである。 下野条のどん尽きに坂浦トンネルがある。これを越えると雲原で、もう丹後である。 雲原は現在は福知山市に含まれているが、もともとは丹後国与謝郡に属した地であったようにも思われる。しかし古代は丹後だったか丹波だったのかは史料がなくわからない。明治35年から天田郡に属した。それ以前は与謝郡であった。 ずいぶんと高い所で丹波の軽井沢とかも呼ばれ、雲がたなびくから雲原だと言われる。しかしそれは何か遊び人の発想的に思われる。クモは別に意味があるのではないのかと思う。もう少し古代の生活に関わった意味があろうかと思う。 角川日本地名大辞典は、 〈 〔丹波国天田郡〕文書の上で、天田郡がはじめて登場するのは、天平19年(747)に東大寺の封戸「丹波国天田郡五十戸」(東大寺要録)とあるのに始まる。これの具体的比定はなされていないが、「続日本紀」天平神護2年(766)7月の条に、丹波国天田郡華浪山に白臘を産し、それをもって鏡を鋳て献上した記事が見える。この華浪は、市内大呂から長尾へ越す現在の花浪峠付近と想定されるが、この付近から北部にかけた地方は、鎌倉期から近世までは 雲原は与謝郡に属していたから書かれていないが、一体の地である。金属と関係がある地名なのではなかろうか。 雲原から与謝峠を越すと加悦谷に出る。この現在の国道筋のように与謝峠を越えたか、あるいは東側の登尾峠を越えて加悦谷与謝の 次の勾金駅でみてみよう。
官道は国府と連絡するための道路である。ではその丹後国府はどこにあったのであろうか。普通一般には宮津市に府中という地名や国分寺跡(左写真。先に見える礎石は塔跡)、 〈 いくつかの書物が各国の国府所在郡を書き上げているが、丹後国府の場合、『和名類聚抄』や『伊呂波(色葉)字類抄』などでは加佐郡と記し、『拾芥抄』は加佐・與佐二郡の郡名を並記している。「和名類聚抄」は源順によって承平年間(九三一−三八)に編纂されたもので、国郡部については九世紀ごろの状況を伝えていると考えられている。また、『拾芥抄』は鎌倉時代の一三世紀末から一四世紀初めごろの成立であるとみられる可能性が高い。したがって、単純にみれば、九、一○世紀ごろの国府は加佐郡にあり、一三世紀末には與佐郡に所在していたとみられることになる。しかし、事はそれほど単純ではない。一つの理由は、これらの書が、いずれも百科辞典あるいは有職故実書などとして実用的な目的のために使用され、写本として伝存しているものであり、後世の書き込みや訂正が含まれている可能性を否定できないことにある。 国府所在郡の推定 加佐郡に国府が所在したとすれば、由良川沿いであったであろうとする考えがある。大江町河守遣跡では、平安時代初期の須恵器や墨書土器・布目瓦などが検出されていることから、その付近に所在したと想定する考えである。現在までのところこの想定をこれ以上展開し得る資料が存在しない。しかも、後に述べるように『延喜式』が記載する駅路からみると、少なくともその時点での加佐郡における国府の所在にはむしろ否定的にならざるを得ない。 一方、與佐(以下、与謝)郡では、図側の中にA・Bの記号で示すように、阿蘇海北岸の岩滝町から宮津市府中にかけての二、三か所が候補地として指摘されている。これらの考えの中でもっとも重視されている根拠が、「府中」という地名である。ただし、府中の呼称は古代の国府に直接関連するというよりも、中世に多用された用語であると近年では考えられている。 ところが、丹後の府中については、小川信氏が一二世紀末ごろの用例を指摘し、比較的古い事例としている(『中世都市「府中」の展開』)。建久元年(一一九○)十一月七日に書写された文書の奥書に、「丹後府中今熊野之辺において書写了」(『金沢文庫古文書』)とあるのがそれである。小川の椎定のように、遅くとも平安後期以降の丹後国府は、この府中の地のどこかに所在したものとみてよいであろう。… 〉 右下の写真は板列八幡神社の境内から見たものである。この神社のま下あたりに国府があったとする(A地点)。この神社の現在の参道は後世つけ変えられたのでないのかと思う。ご覧のように参道の先に道らしいものがないので、本当はもう少し東側(写真でいえば左側50メートルばかりに海へ続く道がある。左下の写真はその道を阿蘇の海側から見ている。ほぼほぼ真っ直ぐな道でこの道を行けば八幡宮に突き当たる)にあって、官衙の並ぶ中央通りの突き当たりに参道入り口があったのではなかろうか。 左の写真は印鑰社。現在は飯役社と書かれている。この辺りがB地点である。 古代の三文献が全国の国府の所在郡を記しているのであるが、それらはそろって丹後国府の所在郡を加佐郡と記しているのである(一つ併記も含めて)。たとえば『和名類聚抄』巻第五 山陰郡第六十四 丹後国は、 〈 国府在二加佐郡一、行程上七日下四日、和銅六年割二丹波国五郡一置二此国一、管五 田四千七百五十六町百五十五歩本穎四十三万千八百束 加佐 与謝(与佐) 丹波 竹野(多加乃) 能野(久万乃). 〉 こうしたしっかりした文献である以上は、そう簡単にたぶんこれは書き間違いでしょうとも考えられそうにもないのだが、しかしその文献資料を裏付ける証拠らしきものが現地加佐郡からは現在のところは見つからず、ここで取り上げている官道や駅の推定からも、むしろ与謝郡府中の地が有力視されている。 しかしそれは文献とは合わないので留意が必要とされる。今も河守辺りでは遺跡の発掘が行われているが、あるいはもしかすると国衙が出でくるかも知れない。『加佐郡誌』は、 〈 …丹後の国府は、初め加佐郡に置かれたのであったが、後に与謝郡拝師郷に徙されたもので、初めは丹波の国司の兼領となっていたが、間もなく国司を置かれ、順次交替して国府に治したのである。其の国司に関する記録は無いではないが、信を起き難いものであり、又年代の明かでないものもある故に、今は先づ国守といはれるもの以後に於ける、(比較的正確と思はれる時代以後)名あるもののみに就て記し、後に丹後設置後の歴代の国司国守を列挙する事にする。… 〉 丹後国府(国衙)は言うまでもないが、丹後国に置かれた律令制国家の出先官衙である。ここに中央政府から派遣された国司がいたわけである。丹後国は最初からあったわけではなく古い丹波国から分割されて生まれた国である。続日本紀に、 〈 和銅六年夏四月乙未(713年4月3日)丹波国から、加佐、与佐、丹波、竹野、熊野の五郡を割いて、始めて丹後国を設置した。 〉 とある。しかし丹波国の丹波というのは亀岡や篠山にあるのではなく丹後にある。丹波郡丹波郷は現在の峰山町のKTR駅がある付近である。近くに丹波小学校があり現在も峰山町丹波である、丹後の峰山に丹波小学校がある、なんでやろという声があるが、丹波というのかタニハは本来はこの辺りを呼ぶ地名である。扇谷環濠集落遺跡のある地であり古い丹波国の中心がこの辺りにあったと推定して間違いはなかろうと思われる。だから正確に呼べば丹後が丹波で今の丹波は丹前とか呼ぶのがいいような具合である。丹波から丹前を分割したと書くべきようなことになる。 地名から考えれば古い丹波国の中心はここにあり、中央の出先ではない、現地の首長がこのあたりにいて丹波国を治めていたと思われる。『網野町誌』は、 〈 丹後国の成立 和銅三年(七一○)に奈良盆地の北端に唐の長安城を模した平城京が造営されて間もない同六年(七一三)四月、丹波国から加佐・与佐(与謝)・丹波(のちの中郡)・竹野・熊野の五郡を割いて丹後国が成立した。(『続日本紀』和銅六年四月三日条)この時、ほかに備前国から北部の六郡を割いて美作国、日向国から南部の四郡を割いて大隅国が成立している。 この時代を代表する丹後国の豪族に、竹野郡に丹波大県主由碁理、丹波郡に丹波直、与謝郡海部直らがいる。このうち『古事記』によれば、丹波大県主由碁利は竹野郡竹野の里を国府にしたと伝えられ、その娘の竹野媛は開化天皇の妃となって比古牟須美命を産んだとされている。また、丹波直については、天平一○年(七三八)に但馬国司が中央政府に進上した「但馬国正税帳」には「丹後国少毅无位丹波直足嶋」の名がみえ(『正倉院文書』)、延暦二年(七八三)には「丹後国丹波人正六上丹波直真義」が令制で一国に一員と定められた丹後国の律令国造(新国造)に任じられている。(『続日本紀』延暦二年三月一三日条) 丹波直真義はここでは丹後国丹波郡人となっているが、いうまでもなく丹波国から丹後国が分かれる和銅六年以前は丹波国丹波郡人であったわけであり、後の丹後国のほうに律令国造が存在しているということは、いわゆる大化改新以前からの氏姓国造である丹波直が、後の丹後国にいたことになり、丹後国が成立する以前の丹波国の中心が丹波郡にあったということのなによりの証左となっている。しかし、その子孫は平安時代になると、貞観八年(八六六)に「丹後国丹波郡人左近衛将曹従六位上丹波直副茂」という人物が丹後国の本拠を改め、山城国愛宕郡に移住している。(『三代実録』貞観八年閏三月一七日条) 〉 古い丹波国の現地首長がどこに中心を置いて大丹波国を治めていたのかはよくわからない。たぶん丹波郷ではなかろうかとは思うが、『丹哥府志』に、 〈 【磯砂山笛原寺】(真言宗) 神服連海部直(人皇七代孝霊天皇の御宇に熊野郡川上の庄に国府を造る)の子笛連王、母を節媛といふ、人皇八代孝元天皇の仕へ奉り丹波与謝郡比治の里笛原に国府を造る、比治は今丹波郡比治山の麓五箇の庄なり。順国志に云。比治山の麓比治真名井ケ原の辺りに磯砂山笛原寺といふ大伽藍あり、伽藍の後山を比治山足占山といふ、豊宇賀能売命の天降り玉ふ處なりといふ。元亀二年将軍信長公延暦寺を焚焼せし時其僧遁れて丹後に匿る、於是丹後の寺院これが為に廃寺となる挙て数ふべからず、笛原寺の破壊せるもの蓋此時なり、今其跡に一堂あり行基以来の薬師観音の二像又弘法大師の像を安置す、堂の傍に坊あり僧徒一両人住居せり、其坊より四五丁斗の隔てて山門の跡あり礎石残る、其傍に古碑あり今読べからず。 【笛の浦】(一に府江原と記す) 笛連の府跡なりとて山中に海部の名あり、海部は其父直の姓なり。 〉 丹波国造・海部氏の伝承
与謝という所は加悦谷の一番奥に位置しているが与謝郡の郡名ヨサの発祥地であろうかと思われる。由緒あることは間違いがないと思われる。ヨサの意味はここから解かねばならない。
菜の花や月は東に日は西に、の 〈 【蕪村】蕪村名は寅字は長庚一の字は春星蕪村と號し、又四明山人と號す。図画に於ては大雅と並ひ称せらる。元京師の人なり、明和の頃より与謝に来り久しく宮津に居る。与謝の風景を愛して自ら与謝の人と称す。遂に姓を謝と改め、謝寅、謝長庚、謝春星などといふ。始め宮津に来る頃一人も其画の工みなるを知るものなし。是以蕪村を尋常の人となす、蕪村も亦尋常の人となりて彼是となく交を結ぶ。画を求むるものあれは則画きて之に与ふ。元より潤筆の有無に拘はらず相添の家に至て自ら紙を求めて書画を試み、十枚、廿枚に至る。是以蕪村の画く所宮津に尤多し。一日見性寺といふ寺に遊ぶ、其寺に白張りの襖あり、和尚の不在に乗じて其襖に墨を以て鴉〈カラス〉を画く、既にして和尚他より帰り来り其画を見て大に怒り、再び蕪村の来るを許さず、今其襖宮津の重器となりぬ、斯の如き活説往々少からす。其弟子に甫尺といふものあり宮津の人なり、よく蕪村の筆意を伝ふ。 〉 丹後でも人気があって彼についての多くの文献がある。またいつか取り上げてみたいと思う。パタンパタンと縮緬を織る音が聞こえる。縮緬街道の入口の集落である。 さて与謝である。角川日本地名大辞典は、 〈 大江山(832m)・赤石ケ岳(736m)・江笠山(728m)などの山並みに囲まれる。与謝(余社・余佐・与佐とも書く)の語源は、伊奘諾命が余社宮で子神等に依事(ヨザ)をしたことによるとも、豊受大神が天吉葛(アマノヨサカヅラ)に真名井水を盛って皇大神の神饌を調えたことによるともいう。地内西部の二ツ岩地区の柴神社伊奘諾命、二ツ岩社に伊奘冉尊命を祀り、同地を地名発祥の地とも伝える。東部の大江山すそを古代山陰道が南北に走り、勾金駅が小字山河(サンゴ)にあったと伝え、地名が残る。沿道に式内社宇豆貴神社、山河に菊部神社がある。また、億計王(のちの仁賢天皇)が弟弘計王(のちの顕宗天皇)とともに当地に流されたと伝え、峠地区の上宮神社(上王子神社)に億計王、小字北の下宮神社(下王子神社)に弘計王を祀る。近くに素戔鳴命を祀る武神社がある。南部の赤石ケ岳中腹、通称寺屋敷には麻呂子親王創建という根本寺の広大な廃寺跡がある。応永10年元哉和尚開山という臨済宗宝積山金剛寺の本尊地蔵菩薩像は、かつて根本寺にあったが、同寺火災の際に飛び去って金剛寺に降臨したと伝える。大江山登山口として鬼嶽稲荷新社の一の鳥居が通称黒見山にある。なお、古来与謝の海(浦・湊)は枕詞として著名。 〔中世〕余佐郷。鎌倉期に見える郷名。丹後国与謝郡のうち。「元亨釈書」巻18願雑三尼女の項に「丹州余佐郷」と見え、53淳和天皇次妃で、体より芳香を発し「不沐浴、体無垢、天香自然、不用薫染」という如意尼は、余佐郷の出身とされている。比定地未詳だが、加悦町香河(カゴ)゙には如意尼にまつわる地名伝承がある。 〉 大変な所である。ここでは官道との関係だけで他は後回しにするが麻呂子親王創建という根本寺なるお寺が赤石ヶ岳の中腹、寺屋敷にあり、これとの関係で官道は山河を通っていたというのである。与謝峠ではなく福知山市天座から登尾峠を越え山河に出たのかも知れない。式内社の宇豆貴神社が鎮座している。この神社は古くは平という所にあったという、菊部神社もその辺りにあったというが、その平という所はどこだろう。官道を探る上で参考になろうかと思う。その場所を私は知らない。 上の写真が丹後に越えてきた官道が通ったかも知れない峠である。右に赤石ヶ岳、左に千丈ケ嶽の鞍部である。このあたり今はキャンプ場になっている。もう高山で高い樹木はない。しかしここは冬の雪は通行できないと思われる。下の写真は丹波側の登り口。台風で壊れていたというが今は通れるという。行けますけど何がおりよるかわかりまへんで。鉄砲を買って出直したほうがよさそうなことであった。 『加悦町誌』は次のように伝える。 〈 宝積山金剛寺 与謝小字北 一四〇三年(応永十年)天田郡天寧寺の元哉和尚によって開山され、一五七三〜一五九二年(天正年間)兵火にかかり、一八四二年(天保十三年)二月に再建した。 本尊は地蔵菩薩像で、藤原末期の作であり、加悦町では最も古い仏像である。本尊は赤石ケ嶽にあった根本寺から移したものと伝えられている。文化年間のものといわれる地蔵菩薩縁起がある。境内に砂野家寄進の観音堂があり、境外仏堂として、与謝小字出口の観音堂に観音菩薩を祭り、小字阿弥陀堂に阿弥陀堂がある。 金剛寺の由来 赤石ケ嶽の中腹に根本寺なる大寺があり、この寺が焼失の時、僧侶が牛に乗り大江山から下りて金剛寺を開いたという。小字牛のつめという地名がある。 つりがね堀り 与謝・赤石ケ獄の中腹に根本寺があったが、現在その寺跡が残り、上下段になっている。その上の段に、金のつりがねが埋っておるということで、一九二一年(大正十年)頃五日間ほど毎日これを堀るが、いつも先端の竜頭が見えたところで夕暮となり、作業ができず、翌朝見ると再び下に沈んでいる。こういうことで堀り出すことが不可能であったという。. 〉 勾金駅。マガリカネと読む。マガリはカリ・カルの事で銅とか金属、あるいは金属製の利器を呼ぶ言葉である。カネは金属のことでありマガリカネは重語である。勾金五疋とある。『宮津市史』は、 〈 丹後国勾金駅は、三岳山西麓から与謝峠を越えて丹後国側へ下りた加悦町後野付近と考えられている。 近年発見された名古屋市博物館本には、加佐郡に「志楽・椋橋・大内・田辺(造)・餘戸・凡海・志託・有道・津守・神戸」の郷が、与謝郡に「宮津・日置・拝師・物部・山田・謁叡・神戸・駅家」の八郷が記されている。加佐郡については、記載順に違いがある点と従来の諸本に見える「川守」が「津守」になっている点を除けば、ほぼ同様の内容とみなされる。ところが与謝郡の場合、従来の諸本とまったく同様の七郷に加えて「駅家」郷が加わっていることが注目される。 駅家郷とは、その名の通り、駅の設置にかかわる郷であり、駅の所在郡にはしばしば駅と同名の郷があったり、そうではなくとも駅家郷が設置されていたりする。したがって、名古屋市博物館本の『和名類聚抄』は、明らかに与謝郡に駅が所在したことを示していることになる。とすれば、丹後国の駅とは勾金駅にほかならず、勾金駅は与謝郡内であったことになる。 〉 『丹後路の史跡めぐり』(梅本政幸・昭47)は、 〈 丹後国勾金駅 延喜式二八兵部に、丹後国勾金(まがりがな)の駅の駅馬は五匹と定めてある。 双峰から山郷管(さんご)へ下った四ノ町附近がその駅址と伝えられているが、ここからは天田の前(花)浪駅へ通じていた。前浪駅はその場所がはっきりしていないが福知山市瘤ノ木附近といわれている。また但馬国府へ通じる道には春野駅がおかれていた。 勾金駅は養老六年(七二二)初代の国司小野馬養がはじめて入国した時に置かれたもので、勾金とは与謝と縁の深い大伴金村が安閑天皇のために建造した勾金橋宮の名である。金村は金屋の国守神社に祀ってあり、鏡山古墳は金村の墓といい伝えられてきている。 ここから府中の国府までは、その道中に十七の辻堂がおかれていた。 〉 どこだと駅のあった点を見つけ出すのは遺跡でも出ない限りは無理のようである。大江山北麓の加悦谷は金属だらけである、どの地もマガリカネの地である。銅鐸が二個出土しており、遠く弥生の時代から金属文化の発達した地と思われる。 加悦に 〈 散所 さんじょ この語は、現在知られているかぎりでは奈良時代の747年(天平19)の文書に初めてあらわれており、当時より平安時代初期のころまでは、だいたいにおいて直接的な支配・管理の系統には属さない場・人を意味する語として用いられていたようである。平安時代中期ごろから室町時代にかけては、荘園領主の領地の一部、および、そこに定住することを認められて年貢の代りに雑役を務めた人をさす語として用いられるようになり、以降江戸時代にかけては、とくに賤視された人々の一部、ならびにその集住地をさす語として流布・定着し、近代におよんだものとみられる。このように、律令制のもとに発した散所の語は、長い歴史をもち、最終的には被差別部落の一部をさす語として定着したのであるが、その間の歴史的変遷を、各時代・時期の特質との関係からどのようにとらえるべきかについては、語源論、身分制論、職能論、賤民論、被差別部落形成史等々の見地に立って諸説が出され、さかんな論議がかわされている。… 〉 算所というのは奈良期に遡れる古い地名である。その意味内容が今もよく解明されたとはいえないが、当時の支配システムに組み込めないような職業にあった人たちである。当時の税システムでは税金の取りようがない人々であった。田も持たないような者を賤視するという風は現在でも田舎に行けばある。税がとれないから腹立ちまぎれに賤視したのは支配者のイデオロギーである、支配されている者が同じように支配者にでもなったようなつもりでそのマネをすることは何もないのである。21世紀になっても残る差別というのはこうして作られたものである。お互いに差別させ合って大きなものを細かく分断して抵抗できない小さなものにして支配するというやりかたである。支配者は数が極めて少ない、被支配者は数が多い。もし団結されればイチコロにやられる。団結させないが支配者の戦略であるし、団結が被支配者の戦略である。 この地は『女工哀史』の細井和喜蔵の生誕地(近くの加悦奥駒田)なのでしらずしらずに何か労働運動のような事を書いてしまいそうになる。わずか27歳の無学な労働青年が資本の原蓄過程を克明に描いていく、ブラックリストに載せられ警察に追われながら寸暇をさいて書いているのである。子供の時に故郷を離れ、この書を書き上げてすぐに他界している、地元でも彼は知られているとはいいがたい。官憲の目から身を隠す生活なので世間によく知られた人であるはずはない。しかしすごい仕事をしたものである。いまどきの多くの資本いいなり権力いいなりの経済学者社会学者どもも、活動家と呼ばれる左側の人たちもこの書の前には深く羞じねばなるまい。『女工哀史』(大正14)の自序に、 〈 婿養子に来ていた父が私の生れぬ先に帰ってしまい、母は七歳のおり水死を遂げ、たった一人の祖母がまた十三歳のとき亡くなったので私は尋常五年限り小学校を止さなければならなかった。そして十三の春、機家の小僧になって自活生活に入ったのを振り出しに、大正十二年まで約十五年間、紡績工場の下級な職工をしていた自分を中心として、虐げられ蔑しまれながらも日々「愛の衣」を織りなして人類をあたたかく育くんでいる日本三百万の女工の生活記録である。 〉 私の若い頃の左側の先輩達というのは確かによく勉強していたし、よく書いた。ずば抜けていた人が多かった。片手に本の山、片手に謄写版だった。アレは今はあんなモンやけど、子供の頃は学校で一番やったんやで。と周囲のものは言っていた。ちょっと目立つ気になる先輩といえばこんなのばかりであった。私の先輩の年代あたりまではそうであった。このごろはどうなのだろう。いつの間にやら質がかなりかなり低下しているように感じられる。本は読まないし書けないし、読まないのだからまともなものが書けるわけもない。きっときっと立派な社会活動をされているのであろう。この世界も一般の社会から隔離されているわけでもなくやはり人間社会からはズレてきているのであろうか。 資本はありとありとあらゆる毛穴という毛穴から血と汚物を垂れ流しながら生まれてくる。とマルクスは言う。『資本論』を読みふける先輩はいなかった、これはさすが彼らにも難しかったかも知れない。剰余価値のあたりは難しいぞといっていた。別にマル経でなくともいいが、貧乏人や年寄りや弱い者いじめをして経済がよくなったなどと得意になっている「経済学」は何とかしようではないか。あんなものは人間の学ぶような経済学ではない。あれは腐った大資本のウソ学問だと思う。 生まれたときから非人間的でド汚いやつなのであるが、しかしまた和喜蔵のような己が墓堀人も多量に産み出しながら生まれてくる。この世の何物もそうであるが生まれると同時に死も用意される。この労働者という死神がいなければ資本は生き肥え太ることはできない。皮肉なことではある。何物も死神から逃れるすべはない。核も軍隊も警察も役には立たない。自分の傀儡にオマエがしっかりせんからじゃと言うどこぞのオン大将のようなこととなる。全世界が大笑いしたことであろうが、傀儡がしっかりするわけもないが、仮にしっかりしていてもダメだろう。国防長官をすげ替え、傀儡をすげ替えしても死神からは逃れられない。お前はもう死んでいる。何かそんなマンガのセリフがあったが、その通りである。オン大将を第一番に支持した美しい国にもまもなく敗北が訪れよう。もう訪れているのだが、そんな論議すら聞かれない。ナンとも美しく無責任な国。 何とかゆえなき差別という負の遺産をなくしようとするのは人間社会である以上は当然なのだが、制度をつくるとそれを悪用する者がいるし、さらにそれを止められない政治や行政も今も問題になっている。何をしとるんじゃ自分で自分を差別しとるやないかと市民は言う。天平の甍ではないが天平の算所は21世紀も生きている過去である。天平人と現代人はさして変わらないのかも知れない。簡単にいえば田仕事以外の「雑務」の人々の地である。そこの大将を三庄太夫と呼ぶのであろう。 加悦谷の三庄太夫は何をして飯を食っていたかを考えればいいだろう、まさか塩ではなかろう。金属と交通であろうかと思う。マガリカネと駅そのものの地なのではなかろうか。 大江町の上野も元は算所といったという。こうした古い被差別のような村なのではなかろうかと思われる所については何とも素人は書きにくい。算所などは時代が古いので現在には関係が無くまだ書きやすいのであるが、現在にまで被差別の意識が生きていそうな所については正直書けない。鉄と関係ありそうな所などはよくそうした問題に出会うのであるが、詳しく聞けない。オマエ何を調べに来たのかと思われそうに感じる。 穢多村というのが江戸期には確実に史料には残されているが、市史だって何だって基本的には勝手に削除している。素人としては仕方がないとしても市史ともあろうものがそれでいいのかとなると考えてみなければなるまい。江戸期となれば歴史的史実も時には抹殺されている。郡誌時代にはそのまま残している所もあるが、現在の市史時代になるとほぼどことも確実に消されている。官製地方史は歴史書として厳しく見ればよいかげんな箇所がいくつもある。 原史料には差別的な箇所があります人権尊重の都合よりここでは一部抹殺しましたと書き添えておかねばならないと思う。史料をそのままに再現しても悪用されることの方が多いとは私も考える。有用に使う人は多くはないかも知れない。しかしその道を進まないと本当は差別問題は社会からはなくならないのではなかろうか。『舞鶴市史』は通史編で江戸期のものについて触れている。一緒に村人と飯を食うと不届きとして領外追放となったという。さて『朱の伝説』(邦光史郎)は、 〈 楠木正成は散所の大夫であったといわれている。散所というのは、年貢米の代りに、労力や技術を提供してすませる荒蕪地であって、人々は海辺で塩をつくり、あるいは鍋釜をこしらえて暮している。そり里長なり、製造集団の長なりを散所の大夫と呼んでいた。森鴎外の『山椒太夫』ももとは散所の太夫であった。『山椒太夫』の場合は、汐汲みによる製塩がその産物であった。それが土地柄によって蓑笠であったり、鉄製品であったりする場合もある。河内の豪族・楠木正成は、散所の太夫として河内の交通路を押さえ、赤坂、千早の山地で採れた水銀を集めて京都へ運んでいた 〉 柳田国男に「山荘太夫考」がある。 〈 … 掛川広安寺の例でもわかる如く、博士と云ひ 丹波氷上郡春日部村大字小多利字産所上 丹後與謝郡市場村大字幾地字算所繩手 但馬朝来郡奥布土村大字迫間字産所 上総君津郡佐貫町大字佐貫字産所谷 伊勢一志郡八ツ山村大字八対野字算所 同 同 川口村字算所 の類が多い。竹葉氏報告に依れば、同じ伊勢の一志郡中原村大字田村は特殊部落であるが、今より二百年程前に同村大字算所の松ノ 多くの産所には地味肥沃の野に住着いて元の業を廃し、傳説の次第に幽かになる者が多い。近江などにも産所村は稀で無かった。曾て大橋金造氏の報ぜられた神崎郡木流村の産所には産所弥太夫等住し、竃祓祈祷家相方角などを見て活計としたとあるが、此外にも高島郡青柳村附近にあった産所村などは、邑内に 賎者考に依れば、紀州では伊都郡相賀庄野村(今の山田村大字か)、同郡官省符庄浄土寺村(今の応其村大字)及び日高郡茨木村(東内原村大字か)の内などに、サンジョと呼ぶ一区があった。野村のサンジョには陰陽師居り、浄土寺村のには巫女が住んで居た。或説にはサンジョは山陵の転訛かと云ふが、紀州には著しい山陵も無いから従ひ難い。やはりもとは産所の意であったのが、後に陰陽師巫女など入込んだものだらうとあるのは、是亦前の近江のと同説である。 又紀州で産所は 京都附近に多数の唱門師が住んで居たことは、段々記録にも見えて居るが、あまり長くなるから稿を更めて述べるつもりである。只一つ此が別称のサンジョであった例を挙げると、以文會筆記の中に、山城葛野郡梅津村大字西梅津の西南に、近世迄一溝を境して五六戸の唱門師が住んで居たとある。飲席集會本郷と分別する所は無いが、唯婚禮の席には参曾を許されぬ。後這々に市中に移住して纔かに一軒が残った。此家或時本郷と出自を論じて訴訟を爲し官裁を乞うた節、本郷よりは彼はもと山所と称し餌取にも近き者の由を申すと、彼は又其母のやもめなるが、嘗て郷良の家に居を同じくせしことあるを以てその否なることを理る云々。山所は又産所とも三條とも書いて用字は一定で無いとある。 此等の材料を綜合して考へると、社會上の地位は地方によって区々であったが、要するに山荘は自分の所謂ヒジリの一種である。サンショのサンは「占や算」の算で、算者又は算所と書くのが命名の本意に当って居るかと思ふ。卜占祈祷の表芸の他に、或ひは祝言を唱へ歌舞を奏して合力を受け、更に其一部の者は遊芸売笑の賎しきに就くをも辞せなかった爲に、其名称も国々になり、且つ色々の宛字が出来て愈々出自が不明になったものと考へる。… 〉 網野善彦氏によれば、本所に対する散所だそうで、もともとは卑賤視される集団ではなかったという。南北朝あたりで意味がかわ変わってきたという。『日本中世の民衆像』(岩波新書)に、 〈 散所 同じような例をもう一つあげますと、「散所」という言葉があります。戦後すぐに林屋辰三郎氏がその研究のなかで、「散所」こそ中世賤民の基本的なあり方であると主張されて以来、この見かたはいままで通説となってきました。しかし最近、この方面の研究が非常に発展してまいりまして、その結果、「散所」という言葉そのものには、少なくとも中世前期には、卑賤視の意味は全くないということが明らかになってきたのであります。 たとえば、ごく卑近な例をあげますと、よくご承知の「鎌倉殿御家人」という身分がありますが、丹生谷哲一氏の「鎌倉幕府御家人制研究の一視点」(『大阪教育大学歴史学研究』一六号)という論文によりますと、鎌倉時代に「散所御家人」という用例があって、そこにはなんらの賤視の意味はない。また、そのほか「散所」は、「散所随身」とか、「散所召次」とか、あるいは「散所雑色」「散所神人」とかいろいろな役職に結びついた形で出てくるのでありまして、おそらく「本所」に対する言葉で、当時の用例に即してみれば、それ自体は賤視を意味する言葉ではないと思われます。 ところが、鎌倉時代をこえまして室町時代になりますと、たしかに「散所者」という言葉には、卑賤視の意味が入ってくる、そうとしか理解できない用例が出てくるのです。この場合もやはり言葉の意味がこの時期に変化したと考えざるをえない。鎌倉時代の「散所」のなかで「散所非人」「散所法師」といわれた人々もおりますが、おそらく中世後期の「散所」の語は、多くはそうした人々について用いられ、「非人」に対する賤視の定着とともに、それ自体、卑賤視をこめた言葉になったのではないか。いまのところ、脇田晴子氏が「散所論」(『部落史の研究』前近代編)でのべておられる説にしたがって、このように考えておりますが、ともあれ、この言葉も明らかに中世の前期から後期に入ると意味が変ってきます。 〉 「算所考」
〈 …そしてこうしたころ(平安初期)には布甲山に寄世上人が普賢菩薩を本尊とする布甲寺をひらき、あるいは加佐郡西大浦に薬師如来を本尊とする医王山多禰寺がひらかれるなど、寺伝によればさらに古く狭谷山に成相寺、また青葉山には松尾寺といったように、山々に大寺がいらかをそびえさせる時代となった。ここで特に布甲寺について注意したいことは、丹後から京都への国道ではないが、いわば裏国道ともいうべき交通路として、宮津谷の東側を奥へ進み、古来与謝の大山(杉山)として有名な山麓を「元普甲峠」から布甲山を越える道、いま一つの道は加悦谷の物部郷(今の石川村)の日晩寺から香河の谷を東へ登り、関ヶ淵から金山へ出て「元普甲峠」で一緒になる道、これらはいずれも国道ではなくても、古くから諸人に利用された道であった。従って寄世上人はこの山陰を辿る重要路の要点、かつ難関に当時流行の山獄道場としての一寺をひらいたもので、西の国道に沿う山河には根本寺が、またここには布甲寺が建てられて、それぞれ時の政府からも公認の喜捨を受けたことであろう。 〉 『丹後路の史跡めぐり』(梅本政幸・昭47)は、 〈 天田の河守の里は昔与謝郡の内でもあった。 豊鍬入媛が天照大神の神体を準じて吉佐宮へ入ったのも、和泉式部が夫藤原保昌に従って丹後へ入っのもこの峠であり、宮津藩主が参勤交代で江戸への行き帰り通ったのもこの道であった。 〉 河守→ 上写真は辛皮を普甲山の普甲寺跡あたりから見ているが現在は京都縦貫道(左の高速)、真ん中の真っ直ぐなのが北丹後鉄道、これらもこの古来の元普甲道の下をトンネルが抜けていく。一番右が元普甲道である。中央の黒い森があるところに辛皮駅(右写真)がある。ここは宮津市である。舞鶴市の続きのような場所であるが、舞鶴側斜面に普甲寺があったからなのであろう。 『京都府の地名』に、 〈 普甲峠より一・五キロほど南東にある平安時代創建の寺院跡。いまは寂れた弁天堂と普賢堂のみが建ち、普賢堂の前には仁王門の礎石が残る。 「宮津府志」の普甲山の項に「古へ普甲寺とて大刹有り、それゆゑ山をも普甲と名付けしと云読も見えたり」とみえ、また「丹後与謝海図誌」の同項には次のようにある。 嶺に宮津より二里の碑あり、其東に普甲寺の旧跡あ り、是れ普賢の道場にして、開山は棄世上人といふ、 今辻堂のやうなり、普賢堂あり、荊棘生ひて路も断、 尋る人もまれなり 「拾芥抄」に「普甲(割注・普賢 ・本(々)美世上人)」とみえ、「沙石集」の「迎講事」に「丹後国 「黄薇古簡集」に収める貞治四年(一三六五)二月日付の文書に、 普甲寺 金堂 奉安置教主世尊涅槃仏像壱鋪 夫以開法随喜之結縁者、併為済渡苦海舟、一乗無二 之値遇者、偏報土得生直路也、然者帰遺勅之金言、 而擬十号之即身、渇仰綵面尊像、号観四八相之粧、 何不為当来之資量、豈無報恩謝徳之思慮哉、依茲励 自他筋力、令然形像図絵之功、縦雖為芥爾毛端之作 善、哀愍求願之懇志、令垂冥助給、仰願酬仏果広海 四恩、法界速疾頓成無差平等利益、敬白、 貞治四年乙巳二月 日 金剛仏子性盛敬白 大絵師洛陽住中務丞、于時道号常調、 とあり、金剛仏子性盛なるものが金堂に涅槃像を安置したことが知られる。 丹後国田数帳には、所在を加佐郡に入れて、一四町九段余のうち当知行は五町三段で九町六段余はすでに不知行としている。そのほか与謝郡石河庄に四町三段御免地、丹波郡(現中郡)末次保のうち一町七段余、久延保一町三段余、光武保のうち八段余、以上合計知行分で一三町四段余に及んたが、この後の普甲寺については「丹哥府志」に次のように記す。 元亀二年将軍信長故あつて延暦寺を焚焼して将に余 類なからしめんとす、於是住僧遁て西岩倉及善峯寺 に匿る。将軍信長之を追て又西岩倉善峯寺を焼く、 是以住僧都下に匿ること能はず、遂に丹後普甲寺に遁る、将軍信長其丹後に遁ると聞てよつて又人を丹後に遣し普甲寺を焼く、是時普甲寺廃寺となる。 〉 この寺は文学でも有名である。今昔物語には丹後国の聖人とあるだけでフコウ寺の名は記されていない、しかし普光寺のことであろう。沙石集は『宮津市史』にあるのでそれらを引かせてもらうと、「北の高野山・普光寺」 〈 元普甲越 昭和五十六年十二月、本稿を取材する為この旧道を確認してみた。宮津市字小田から元普甲橋を経て教えられた山道を行くこと、二時間。約二キロメートルを登って引返したのであるが、土地の人の話ではこれは絶頂までの七分通りというから、いかさま「与佐の大山」を実感させる規模である。 道幅約四尺、狭いながら山側に側溝がしつらえられ、路面はさのみ崩れていない。要所要所には見事な山石を畳んだ敷石があり、石だたみは時に二、三十メートルもつづく。ここに掲出した写真がその一部である。この旧道がずっと近年まで往還として利用された証拠に、大変な山奥まで田畑が開かれた跡があり、現状ではそこに杉が繁っている。この峠は大江山スキー場裏の鞍部へ出てさらに辛皮へ出(この道は今荒廃がひどい)栃葉へ続く。 〉 さてそのフコウとは何のことであろうか。与謝郡式内社に 〈 【丹後但馬神社道志留倍】未考布甲峠ハ与謝那加佐郡ノ間ニアル高山ナリ沙石集ニ布甲寺ノ僧ノ事ミエタリ考ベシ扨今宮津ノ奥ニ宮村八幡ト云アリ二丁バカリ山ニ上リテ社アリ式社ノアリサマナリ 【丹後国式内神社考】普甲峠ノ中間ニ普甲寺ノ跡アリ夫ヨリ少シ隔リテ鳥居アリ普甲神社ナル事疑ナシサレド寺ハ廃絶シ分散セル時神社モ何地ヘカ遷セシナリ今之ヲ考ルニ小田村ノ内字富久ト云地ノ神社是ナルベシ或書ニ布甲神社ハ天之吹男命今云温江峠ヲ吹尾越亦吹尾峠ト云又旧記ニ岩窟内有風気云々俗謂風穴云々トアルヲ考フルニ吹尾峠ハ普甲峠ノ旧名ナルをフカウト呼ナラン布甲ト書ルナラン冨久ノ地ニアル社中古来妙見宮ト称シテ太シキ古社ナリ 【覈】布甲山ニマス 【明細】小田村祭神迦具土命祭日七月廿四日 【豊岡県式社未定考案記】同村富久能神社最モ古社ニシテ氏子モ多シ是ナランカ 〉 『丹後旧事記』は、 〈 布甲神社。布甲山。祭神=富久能大明神 天吹男命。延喜式竝小社。 〉 普甲・布甲は吹尾か吹男の転訛ではなかろうかと考えられる。フコウ寺というお寺は全国あちこちにあるようで、それらのお寺はわからないが、大江山のフコウは銅を吹くのフク尾根かフク男なのではなかろうか思われる。地名が金山というのだから。もう一つ北側のバス停が小香河である。銅山があったとしか言いようがないような場所である。 布甲神社に比定説もある 〈 富久能神社 上宮津村字小田小字金山寺屋敷、村社、祭神大直毘命、延喜式布甲神社、丹哥府志には普甲神社と載す。神祇志料には小田村富久にあり、按本郡北向峠之を普甲峠といふ。嶺に岩窟あり、神社の旧跡也云々と。天保十二年四月再建、明治六年村社に列せらる、例祭九月廿四日、氏子四十三戸。 〉 . 生野神社・法光寺・有(布)徳神社・今福・盛林寺 |
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