別所と鉄と俘囚

丹後の地名:元伊勢・華浪・普甲峠
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別所の概要



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別所という地名がある。舞鶴にも大字・小字など現在でもいつくもあるし、全国には500箇所以上はあるだろうと推測されている(もっともっとありそうだが)。何か全国共通の歴史的意味があるのだろうが、詳しくは不明である。別所とは何なのかと、少し取り上げてみよう。

舞鶴の周辺だけを拾い出してみると、

京都府綾部市小畑町(小字)別所
京都府綾部市別所町(小字)
京都府綾部市星原町(小字)別所
京都府宮津市小寺(小字)別所
京都府宮津市成相寺(小字)別所阿弥陀ケ峯
京都府宮津市成相寺(小字)別所池ノ坊山
京都府宮津市成相寺(小字)別所一ノ地蔵
京都府宮津市成相寺(小字)別所入ロ
京都府宮津市成相寺(小字)別所大町
京都府宮津市成相寺(小字)別所大町下
京都府宮津市成相寺(小字)別所牛尾ノ下
京都府宮津市成相寺(小字)別所尾元吉祥院光
京都府宮津市成相寺(小字)別所樫木ノ段
京都府宮津市成相寺(小字)別所樫木段大町下
京都府宮津市成相寺(小字)別所長者ノ切
京都府宮津市成相寺(小字)別所苗代
京都府宮津市成相寺(小字)別所苗代切下
京都府宮津市成相寺(小字)別所長畑
京都府宮津市成相寺(小字)別所東八束
京都府宮津市成相寺(小字)別所東八束ノ下
京都府宮津市成相寺(小字)別所東八束ノ東
京都府宮津市成相寺(小字)別所本堂上切
京都府宮津市成相寺(小字)別所元稲木場
京都府宮津市成相寺(小字)別所元稲木場下
京都府宮津市由良(小字)別所
京都府熊野郡久美浜町海士(小字)別所
京都府熊野郡久美浜町海士(小字)別ソウ(上と同じか)
京都府熊野郡久美浜町鹿野(小字)別荘
京都府熊野郡久美浜町平田(小字)別惣
京都府船井郡瑞穂町井脇(小字)別所
京都府船井郡瑞穂町井脇(小字)別所段
京都府竹野郡網野町生野内(小字)別ソウ
京都府竹野郡網野町生野内(小字)別ソウ奥
京都府竹野郡網野町生野内(小字)別ソウ奥小谷
京都府竹野郡網野町生野内(小字)別ソウ奥地
京都府竹野郡網野町生野内(小字)別ソウ上地
京都府竹野郡網野町生野内(小字)別ソウクゴ
京都府竹野郡網野町生野内(小字)別ソウ口
京都府竹野郡網野町生野内(小字)別ソウ小谷
京都府竹野郡弥栄町等楽寺(小字)ベツソウ
京都府中郡大宮町奥大野(小字)別正
京都府中郡峰山町久次(小字)別所
京都府中郡峰山町久次(小字)別曽
京都府天田郡三和町菟原中(小字)別所
京都府舞鶴市観音寺(小字)別所
京都府舞鶴市大俣(小字)別荘
京都府舞鶴市大俣(小字)別荘坂
京都府舞鶴市大俣(小字)別荘下
京都府舞鶴市田井(小字)別所
京都府舞鶴市別所(小字)
京都府舞鶴市余部下(小字)別所
京都府福知山市上天津(小字)別所
京都府与謝郡伊根町亀島(小字)別所
京都府与謝郡伊根町平田(小字)別所
京都府与謝郡伊根町平田(小字)別所上切東山添
京都府与謝郡伊根町平田(小字)別所谷
京都府与謝郡伊根町平田(小字)別所東小谷
京都府与謝郡伊根町平田(小字)別所東山添
京都府与謝郡伊根町平田(小字)別所道ヨリ西
京都府与謝郡伊根町平田(小字)別所道ヨリ東
京都府与謝郡伊根町平田(小字)別添
京都府与謝郡加悦町滝(小字)別ソウ口
京都府与謝郡岩滝町男山(小字)別惣
京都府与謝郡野田川町岩屋(小字)別荘


これらは今現在の地名で、古くはもっとあったのかも知れない。

『鉄と浮囚の古代史−蝦夷「征伐」と別所−』(柴田弘武・1989)には、
 〈 …文献上の初見がやや下ることも問題があるかもしれない。菊池(山哉)は康和四年(一一○二)の「大毘慮遮那経疎巻十八」(東京博物館蔵)に、丹後国普甲山別所御房とあるのを初見としている。
しかし『歴史地名大系・奈良県』によると、延久二年(一○七○)の興福寺雑役免帳の式上地に「小南別所」(現天理市槍垣町)とあり、更に『日本の神々 神社と聖地4 大和』によれば、都祁村甲岡の国津神社は、「天延三年(九七五)甲岡に寺を建て、十一面観音を置いて甲岡別所の観音寺と称した」とあり、これを当時からの称号とすれば、別所の初出は十世紀に遡る。  〉 

大江山の普甲寺廃寺には別所御房があったというのだが、私の不完全なデータベースでは、とてもやそんなことまでは調べられない。まして記録にまったく残らなかった別所がどれだけ実際にあったのかはわからない。上の表の64件は偶然に現在まで残った別所地名でしかない。これよりは少なくとも1〜2割は多かろうと推測はできる。
別所はだいたい10世紀、平安初期あたり、あるいはもう少し遡れるかも知れない地名と、考えられているようである。
本所があってその別所ではないのかと、誰もが考えると思われるが、本所という所があるのかと調べるとまったくない。本庄とか本城とかが、上と同じ地域内にぐっと少ないが9件あることはある。


さて同書は、別所は産鉄地であり奥州俘囚の移配地だとの説を立てている。
 〈 別所という地名については、…、私は故菊池山哉の唱えた「俘囚の移配地説」が最も妥当だと考えている。簡単にいえば、それは山間僻地に多く、そこに東光寺、薬師堂、白山神社(本地仏十一面観音)を祭り、また慈覚大師円仁の伝承を伝えるなど、多くの共通要素を備えているということである。特に白山信仰は奥羽において一般的なものであり、奥州俘囚長藤原基衡建立の毛越寺吉祥堂の本尊は、京都大原の別所にあった補陀落寺の本尊を模したという事実(『吾妻鏡』)などからみて、別所と奥羽俘囚の関係は明らかであるというのである。
…さて菊池はこの「別所と俘囚」という論考で、全国二百十五か所の別所を挙げて別所が俘囚移配地であることを実証しているのであるが、私はその二百十五か所を地図上で確認するとともに、さらに国土地理院発行の五万分一地図や、角川書店発行の各県別『日本地名大辞典』(一九八六年八月現在三○都府県のみ−以下『地名大辞典』)、平凡社発行の各県別『日本歴史地名大系』(一九八六年八月現在一七府県のみ−以下『歴史地名大系』)などを利用して、さらに二七八か所の別所地名を析出した。この合計四九三か所(一大字にいくつもの小字別所がある場合は一別所と数えた)のうち、現在までに東北、関東、北陸、畿内、山陰を中心に約半数にあたる二五一か所を実地踏査し、さらに文献等によって調査した結果、私は菊池の論断は動かし難いものだと考えるに至っているのである。  〉 


 〈 …大和朝廷の蝦夷「征伐」もまさに東北の鉱産資源、なかんずく鉄資源、製鉄技術、産鉄労働力の確保にあったといえるのである。  〉 
として、蝦夷征伐と呼び俘囚と呼び、奪ってきた産鉄労働者を産鉄作業に従事させた地が別所だという。

丹後・丹波の別所についても、
 〈 …京都府与謝郡野田川町の小牧進三氏(丹後の地名と神々の研究家)からは、丹後・丹波の別所について多くの情報を提供して戴いたばかりでなく、現地を隈なく御案内して戴いた。そして丹後・丹波の別所がすべてと言っていいほど古代の産鉄と関係していることを明らかにすることができた。これらの詳細をここに書く余裕はないが、御興味をお持ちの方は「月刊 状況と主体」誌で見て戴ければ幸いである。  〉 

全国を調査されてそう言われるのなら、この辺りもそうであったかも知れない。確かな証拠らしきものは残らないが、「ヨソはそうかも知れないが、ワシとこだけは違う、例外だ、共通ではない」とは一般には言いにくい。菊池山哉も『月刊 状況と主体』も入手できないので、『鉄と浮囚の古代史−蝦夷「征伐」と別所−』だけに頼って考えてみる。


丹後・丹波と蝦夷については、
雄略23年紀に、

 〈 是の時に、征新羅将軍吉備臣尾代、行きて吉備国に至り、家を過れり。後に率ゐたる五百の蝦夷等、天皇崩りましぬと聞きて、乃ち相謂ひて曰く、「吾が国を領制めたまふ天皇、既に崩りましぬ。時、失ふべからず」といひ、乃ち相聚結みて、傍の郡を侵寇ふ。是に尾代、家より来りて、蝦夷に裟婆水門に会ひて合戦ふ。而して蝦夷等を射るに、或は踊り或は
伏し、能く箭を避り脱れ、終に射るべからず。是を以ちて、尾代、空しく弾弓弦し、海浜の上にして、踊り伏す者二隊を射死す。二ヤナグヒの箭、既に尽き、即ち船人を喚びて箭を索む。
船人、恐りて自ら退く。尾代、乃ち弓を立て末を執りて歌して曰く、
 道にあふや 尾代の子 天にこそ 聞えずあらめ 国には 聞えてな
といふ。唱ひ訖りて、自ら数人を斬り、更に追ひて丹波国の浦掛水門に至り、尽に逼め殺す。一本に云はく、追ひて浦掛に至りて、人を遺して尽に殺さしむといふ。  〉 

丹波国浦掛水門は久美浜町浦明とされる。現在も別所の小字が残る、鹿野、平田は隣の聚落であるし、海士もさほど離れてはいない。

弘仁6年(815)に、

 〈 摂津、美濃、丹波、播摩等の夷俘、身に五品を帯び、節会を見んを願ふ。国解を与へ之を放つ。自余放つ例に在らず  〉 

これらの「蝦夷」なり「夷俘」が、何物かは詳しくは不明だが、何かそう呼ばれる者がいたことは確かなようである。

他国を侵略し、その地の人々を俘囚として連れ帰り、つらい労働に従事させ、過労死しても知らん顔している、記録も何もない。勝ったら何をしてもいいんだと日本人は考えている、恐ろしい野蛮集団だが、これは最近でも南京事件はなかったとか、強制連行(拉致)や慰安婦はなかったとか言っているように、日本はこうした普通には考えられないような血塗られた思考伝統を持つ国なので、被侵略国の軍人だけに対してだけでなく、一般市民でも何でもおかまいなし、首刈り族も顔負けの何をするかわからんメチャクチャ暴徒の面を残している、現在でも他国の人々でない本物の日本人の労働面ですらメチャクチャで何も経営側ばかりでなく、労働者までが己の首を絞め合うということはあちこちで見られ、過労死や過労自殺などはおかまいなし、それはワルイことでなく日本人のスンパラシイ美徳なのだと見ている、21世紀に至っても国際的に通用するようなまともな感覚がない種族である。
ましてやこれほども古い侵略の歴史は正しくは伝わっているわけはない。支配者どもの権威には都合が悪く、そうした過去はなかった、ということに「教育」しているようである。スバラシイ、ツヨイ神軍なのだ、と。
伝わっていないからと言って、なかった、と考えるのはヤバイ話である、南京虐殺はなかった、というような事になってくる。
特に東北の蝦夷国ばかりでなく、国内でも「反乱」や「騒擾」は腐るほどもあったので、そのつど「俘囚」が発生して、こうした「別所」につれてこられて鉱山などで強制労働に従事させられた、そうした過去があったと見てもよいであろう。歴史は何もたいしたことは語らないが、地名が隠された過去をあばきだしている。全国には無数に「別所」と呼ばれた強制収容所があり、鉄を独占しようとする大和権力によって、製鉄鍜冶に従事させられていたように思われる。平安初期には「別所」と呼ばれていたようだが、その歴史はさらに古く、「別所」以前のその当時は何と呼ばれていたかはわからないが、同種の施設があったであろう。






俘囚長・安倍宗任の子孫の地


安倍晋三元首相の父の安倍晋太郎氏(故人・元外相)は「ワシは朝鮮人」と言っていたそうであるが、また「もとは奥州俘囚の長」とも言っていたという。歴史的自己認識はなかなかにシャキッとしておられたのかも知れない。稚児ヶ滝(真倉)
さて、その同じ俘囚の一族の祖に繋がる安倍宗任(あべのむねとう)の子孫とする地が、舞鶴市別所や綾部市別所町の近くにある。舞鶴市真倉(まぐら)や隣の綾部市の黒谷や八代(やしろ)である。なにぶん伝説上の話なので、どこまでが史実かは明確ではないが、二つの別所地名のある近く、中間地に俘囚に繋がる伝説が残るというのだから、あるいはまんざらデタラメでないかも…
なお、安倍晋三氏はこの安倍宗任の子孫と名乗っているそうである。

舞鶴市真倉のもう綾部市との境に近い所に紫竹山稚児ヶ滝不動尊がある。稚児ヶ滝のある所である。
現地の案内板に、(一部読めない)稚児ヶ滝案内板

 〈 紫竹山稚児ヶ滝の由来について
平安時代の奥州における豪族安倍頼時と長男の貞任は奥州平定の後三年の役で討たれ次男で武人として有名な宗任はその仇を報いんと機を狙うも身の危険を知り遠く丹後に来り当不動堂に身をかくした。
 この時宗任がつれてきた稚児が千世童子???不動堂に在つて再起をはかったが追手の近付いたのを知りこの堂を逃れ立つに際し手足まといとなる千世童子を敵に渡すに忍びず涙を呑んでその場で刺し殺しこの堂の小脇に埋め碑を立てる暇もないため自らが愛用の紫竹の杖を碑の代りに押し立て山一つ越えた奥黒谷へと逃走し厳影に身をひそめている所を追手に見つかり最后を遂げたのである。
よってこの滝は紫竹山稚児ヶ滝と称するようになったと伝えられている。  〉 
宗任は薬師仏を守り本尊としていたというが、真倉の下の方には東光寺がかつてあって、それは恐らく薬師が本尊だったと思われる。また俘囚の名の中には確かタクリというような人があったと記憶するが、田造郷はあるいはこんな俘囚名から発生したかも…。

さて、稚児ヶ滝の谷(真倉川支流)の一つ上の谷が綾部市の黒谷・八代の谷になる。和紙漉で有名な所である。
上の引用でいう奥黒谷が今でいう八代町である。ここに八代神社があるのだが、
八代神社(綾部市八代町)
「松本節子の舞鶴・文化財めぐり〈433〉」(『舞鶴市民新聞』95.10.27)に、

 〈 西地区の古伝承
「真倉・稚児ケ滝不動」その2

″和紙の里″口黒谷はよく知られていますが、黒谷川をさらに二キロさかのぼる奥黒谷が、安倍一族の子孫によってひらかれた紙漉き発祥の地であることは、あまり知られていません。
いまも宗任を祀る八代神社の周辺にはコウゾが自生し、この季節には、家々の軒下にコウゾの樹皮「かご」が干され、秋深い山里の風物詩として、遠い先祖の抵抗の歴史を語りついでいます。

稚児ケ滝にわが子を刺して埋め、目じるしに紫竹の杖をさして逃げた安倍宗任は、紙漉谷をさかのぼり、ひと山越えた奥黒谷の地にひそんだといいます。
 奥黒谷では、この伝承を事実として伝え、氏神の 「八代神社」には、安倍宗任を先祖神として祀っています。
 安倍宗任が隠れ住んでまもなく、詮議の手は黒谷の奥にまでおよびます。
 宗任がついに発見されたようすを「地元では今もなまなましく伝見ています。
 −ひとりの老婆が黒谷川のほとりで飯かごを洗っていた。と、鎧武者があらわれて宗任はどこかときいた。老婆はいずれ逃れる道はないと観念したが、口を閉ざしたまま手にした杓子で川上を指した−。
 こうして宗任はとらえられたと伝えますが、だまって杓子で指すのみであったという老婆の姿に、この黒谷の人ひとの宗任へのあつい思いが伝えられています。  〉 
浦島神社(綾部市八代町)八代神社の境内社に聖神社があり、ここは鉄と関係のある地とわかる。
おもしろいことに、八代神社の向かいに浦島神社がある。たぶん浦島太郎を祀ると思われる。聞けば「浦島の神」を祀っているというのだが、浦島神社も八代神社も由緒がもう一つはっきりとしない。郡誌や市史にはなぜか何も書かれていない。

京都府南丹市日吉町と京都府北桑田郡京北町を結ぶ峠を貞任峠といい、安倍貞任や宗任に関した伝説が残る。

黒谷は「黒谷話」「黒谷者」と呼ばれる笑話群が、丹後・丹波のあちこちにいっぱい伝わっている。正確に言えば、いっぱいいっぱい伝わっている。これらは黒谷住民を超田舎者あつかいにした話として伝わるのであるが、地理上では特別に黒谷や八代がそんなに田舎とも思えないのである、確かに山中だが国道27号線が村中を走る所であり、そうした要路脇の聚落である。地理上の超田舎なら他の地の方に、はるかにそれにふさわしい在所はほかにゴロゴロとあるし、己が住む在所をロンドンパリ級大都会とでも勘違いしている人もあるかも知れないが、舞鶴あたりならどこであれ黒谷八代級の片田舎である。
それらをさしおいて何故に黒谷が笑いものになるのであろうか。
何かちょっと風俗が、そのほかの多数の村々とは異なっていて、それが何か超田舎者のように見えたのではなかろうかと私は想像しているのである。
ちょっと様子が違う、私はこれらの村に知り合いがないので、実際に違うのかどうかはまったく知らないのであるし、違っているというようなウワサも聞いたことはないのだが、しかしそうでも仮定でもしないと、村人たちの様子が少しばかり違わないと、本当はかなり違わないと、強く印象づけられるほどに、大きく違わないと、こうした笑話の発生した原因、伝播し、他の在所の人々に広く受け入れられ、何とはなく納得をもって受け入れられた背景が理解できないのでなかろうか。
かつてはおそらくかなり違っていた、それは大和文化とは違う蝦夷地文化の遺風であったのかも知れない。−などと私は勝手に想像してみたりもするのである。
あくまでも私めの勝手な論理的作業の想像仮説であって、実際にどうだったのかは、別に何も資料がないようである。頭蓋骨の寸法でも測ると何かわかるかもしれないし、わからないかも知れない。
どんな話かといえば、たとえば『大江のむかしばなし』に、黒谷の入り口にある黒谷和紙会館

 〈 水瓜のずうは食わん  尾藤奥 稲上重次郎

 綾部市の黒谷っていうところは、舞鶴の境んとこで、今、和紙の盛んなとこです。そこの者は、これは山ん谷じゃったんで、それで何にも世間のことがわからなんだって。親類へ行ったら、蚊帳をつってくれる、って。夏じゃったんで。どうしても蚊帳の中へ入る場所がわからなんだ。まんぐるり回ってみたけど、どっこも下までおりとんで、入れなんだちゅう。そいで、ここいらでは田舎者のことを黒谷者と言うて、
「お前は黒谷者のようなことを言うのう」言うて、わからんことやら、何やら知らなんだりしたら、親やらお爺さんらから、そんなことを言われよった。
 それで、その時分でも水瓜があったもんか知らんが、水瓜を出してもろたんです、夏ね。そしたら、皮の方ばっかり食て、中の赤いとこだけはみなほかあてしもうて。
「なんでお前は中のうまいとこくわんじゃやあ」ちゅうたら、
「黒谷者でものう、水瓜のずうは食わんわい」。中をずうって言うでしょう。
「黒谷者でも水瓜のずうは食わんでよ」っちゅうって言うたっていうようなことやら。それで、何でもよう慣れていかなんだらあかんでって、まあ、年寄りらが言いよった。  〉 



伝承地
舞鶴真倉・紫竹山稚児ヶ滝不動


別所(舞鶴市池内)










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