丹後の地名

真倉
(まぐら)
舞鶴市真倉


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京都府舞鶴市真倉

京都府加佐郡中筋村真倉




真倉の地誌

《真倉の概要》


真倉は舞鶴市の南部。西舞鶴市街地から南へ続く国道27号線沿い。JR舞鶴線真倉駅(無人)がある。伊佐津川の上流に位置し、綾部市との境になる。舞鶴へのメーンルートの街道筋に位置する。古くは京街道における田辺領最南端の村であった、茶屋があり、磔場もあったという。賃持人足もいた。
国道バイパス工事のため民家が下近(しもちか)踏切の南部に集団移転した(四十田(しじゅうだ)団地)。新興住宅もある。
中世までは十倉と一村をなしていたと伝える。真倉村は江戸期〜明治22年の村名。同22年中筋村の大字。昭和11年舞鶴町、同13年からは舞鶴市の大字。
稚児ヶ滝不動の入り口
以上は一般的な「歴史」であるが、私は真倉こそが田辺発祥の地と考えている。そしてその真倉の発祥の地は、というと、たぶん真倉不動のある小さな谷間ではなかっただろうか。

《人口》281《世帯数》98

《主な社寺など》
紫竹山稚児ヶ滝不動

真倉の滝
←真倉の滝(稚児ヶ滝)























真倉不動の祭典
『わが郷土まぐら』が抜群に詳しい、そのまま引かせてもらう。
(途中の画像や動画は私の写したもの2013.7.28)

真倉不動 (ハシ谷)
 正式には、紫竹山稚児ヶ滝不動明王、通称”真倉の不動さん”で通る。
真言駅の名所案内板に、
 「稚児の滝不動明王 南西二、五キロ。
  史跡、安倍宗任の子 千世重子を祀る。」とある。例祭日、七月二十八日。
不動の鳥居前広場
 綾部市黒谷町との境手前、伊佐津川にかかる一ノ瀬橋のたもとより右へ入る山道は、不動さんへの参道でこの谷を橋谷という。三○○メートル程進むと短かい石橋がある。これが稚児ヶ滝の清流をまたぐ稚児橋で、この上流約五○メートルに滝がある。この橋を渡った所が広場になっていて右に第一の鳥居がある。この鳥居は昭和四十九年までは国道から見える参道に立っていたものである。
石段を登らず、右手の川沿い道からでも行ける。
鳥居をくぐり石段を登るとすぐ第二の鳥居で、登りきった所が一番高く、そこから杉、桧の根のはう参道を下りると境内でお堂がある。このお堂、昔は滝の流れと平行に建っていたもので、昭和三年、今の向きに建て替えられた。信者の籠堂として使われる。
籠堂
 境内には、手洗鉢・石灯籠。小宮があり、こま犬一対と小さな鳥居をくぐると滝で、その右側一段高い所に「不動尊」が祀られている。また、お堂の前には大杉、小宮の前には槻の大木があり神木とされている。手洗鉢は昭和十一年、橋谷のニガヲ口から修羅で運んだものである。
三の鳥居だろうか、これは新品、滝の手前にある。こんな軸が…
 「不動の滝」および「稚児ヶ滝不動明王の史蹟について」は、「舞鶴町誌」および、区文書に次のように紹介されている。
真倉不動の境内

 《不動滝》

 舞鶴の南凡そ二里中筋村字真倉の里、丹波丹後の国境にある一ノ瀬橋を右折して五六町の山径を辿り入ると老杉古松枝を交へて蔭深き處一宇の堂があって不動尊を祀ってある。そのかたわらに懸崖十数丈の銀箭倒まにおち来る一爆布がある厳角を掠めてとうとうの響物凄く山嵐一陣吹き下ろして樹葉おのゝくとき飛沫球と散り霰とたばしる。之れを不動の滝と言い暑さを避け俗腸を洗ふ別天地として盛夏の頃集ふ人が多い。
 《稚児ヶ滝不動明王の史蹟について》
 この不動堂は其の昔、安倍宗任の隠れ屋であり、其の一子千世童子が葬ってあるので有名である。即ち平安時代の奥州に於ける豪族・安倍頼時に八子があった。長子は盲目で井殿と言い、二男を貞任、三男宗任、四男僧官照、五男正任、六男重任、七男家任、八男則任と称した。境内の案内板
 就中、貞任宗任は武人として歴史上有名である。当時の将軍源頼義は、八幡太郎義家に令して奥州を平定すべくその挙に出でた。即ち前九年後三年の役がそれであって此の戦により安倍頼時は討たれ、その子貞任宗任は義家の身辺に附き纏いその仇を報ぜんと機を狙ってゐたが遂に見破られ貞任は討たれ宗任は身の危険を知り弟正任等を具して遠く京都に逃れたり、時に後冷泉天皇の御代康平七年三月なり。
 京都に逃れ来りたる宗任等は都に入るを許されず逐に追放され、四国の伊豫に渡りたるもひそかに京都に舞い戻りたるを発見され又もや逃れて丹後に来り当地真倉の山奥に在る不動堂に身をかくしたのであった。
 此の時、自分が連れて来た稚児千世童子と共に暫時、此の不動堂に在って祀れる所の不動明王に祈願を込めて再起を希ったが追手の近付きたるを知り此の堂を逃れ立つに際し手足纏になる稚児千世童子を敵なる追手に渡すに忍びず涙を呑んで、その場に刺し殺し不動堂の小脇に亡躯を埋め碑を建つ暇もなき為、自分の愛用し事紫竹の杖を碑の代りに押し立て後日の目じるしとし不動明王にその子の冥福を祈願して自分は急ぎ近辺なる通称紙漉谷に逃れ之れより山を越へ奥黒谷と言う所へ到り巌蔭に身をひそめて居る所を追手に見つかり遂に最後を遂げたと言い伝へられてゐる。今、その氏神八代神社は元八大荒神と称し八毘古命即安倍宗任を祀れるものであると伝説されてゐる。
 尚、此の不動堂の境内を紫竹山と称へられるに至ったのは安倍宗任の一子千世重子を埋めその墓標代りに後日の目じるしに紫竹の杖を挿し立てたのに始まり、尚、此の竹に根を生じ芽を出し、その付近に紫竹(黒竹)薮が出来て居た跡はあるが今では竹は絶へて残ってゐない。又紫竹を倒に立てたのに根を生じ芽を出しその所に薮が出来て居た事は真に不思議であって安倍宗任がその子千世童子の冥福を祈願したのに対する不動明王の霊顕であると地方人に不思議がられて居る。更に稚児ヶ滝の名称の起りは稚児千世童子を境内に埋めたので、それより此の名称が附せられたのである。と言い伝へられてゐる。
次に歴史書より関連年表を示す。伝説との相違が指摘できる。
一○五一(永承六年) 前九年の役。陸奥の俘囚安倍頼時反す。
           源頼義を陸奥守に任じて追討させる(〜六二)
一○五七(天喜五年) 七月、頼時殺される。頼時の子貞任・宗任ら抗戦。
           十一月、頼義、貞任に敗れる。頼義の子義家奪戦。
一○六二(康平五年) 八〜九月、源頼義、清原武則の援をえて安倍貞任、
           宗任を衣川・鳥海・厨川柵に敗り、貞任を殺し、
           宗任降伏。(前九年の役平定)
一○六四(康平七年) 三月、源頼義凱旋、宗任を伊予に配流。
               (「日本史小年表」小川出版社より)
 源義家(八幡太郎義家)は降参した宗任を家来にしたが、宗任は折あらば父や兄の怨を晴らそうと心掛けていたが、後、心を改め忠実に任えるようになった。宗任は後に坊様となり、九州に下って一生を終えたという。
 綾部市八代町(「奥黒谷」を改称)の氏神・八代神社には、宗任が祀られ、宗任の弟は、同市高槻町で討たれたので、その地の神社に祀られている。この二神社の例祭日は、兄を祀る八代神社を早く、十月十三日。弟を祀る神社は十月十七日(神なめ祭の日)とされている。という。
《信  仰》
 真倉の不動さんが今のように各地に信者を持つようになったのは、昭和初期、神戸の行者・田中真栄師が広められたものという。現在、第二鳥居左上方にこの方の”塚”があり、「故神戸行者田中真榮師塚」(昭和七年四月建之)とある。昭和七年の区文書に「神戸行者田中真栄師塚建設の為酒宴」とある。また、その敷地代として「舞鶴駅前の不動講より五拾円」の寄付を受けている。
 行者田中師の没年は明らかでないが、死亡するまでの三年間を不動さんで修行し、参拝者への祈祷などにあたり、「稚児ケ滝不動明王」を近隣各地に広めた。
 古老から聞いた話であるが、「ある日、稚児ケ滝で修行していると、目前に大白竜が現われたので、田中行者が「お前は何者か!力の程を見せよ!」と大喝一声。その瞬間、大きな樫の木が倒れ、お堂がつぶされてしまった。それ以後、田中行者は病気となられ、後に他界された」という。区文書に昭和三年「不動社新築工事始メ」「不動宮移リ」とある。この話との関連は定かでない。
 昭和六年から十三年までの参籠者を記録した「籠者名簿」によると、籠られた方の職業欄には、信者・行者・僧呂・法主・農・修行・病人・病気治癒祈願等が書かれ、籠日数は一日から四十六日、平均七日〜十日間である。二、三紹介すると、昭和六年に鹿児島県の二十七才の行者が一週間、八年には岡山の行者、香川・大分の法主が一日、十二年には桑飼下の女性が病気のため四十六日間籠っている。この他、住所を見ると、舞鶴町・新舞鶴町・中舞鶴町・京都・奈良市・福井県青郷村・同小浜・天田郡・竹野郡・峰山・綾部町・東八田村・西八田村などがみえる。
 現在は、参籠帳の代りに「参詣帳」があるが、住所のみの記載で詳しい事は分らない。が、平日の参拝者は勿論、月の二十八日には欠かさず参られる信者もあり、例祭日が近くなると籠られる方もおられる。
 不動尊は、山伏が参られるように「水火に動せず」ということで、土木建築関係者で祀る人が多く、信者に韓国・朝鮮の人が多いのは、このためと思われる。しかし、境内には不動信仰とは別の信仰対象であろう高宮稲荷(昭和七年建立)、文銭像(昭和九年建立)その他、各所に信仰の対象が祀られているが、これは、不動の聖域を借り併祀しているものと思われる。後述する朝鮮の祭りも同様であろう。
 不動の祭典は、今は区社寺部が中心となり、一・二組(隣組)が協力し運営されている。昔は「不動講」という信仰集団があり、その講員が祭典を担当していた。
 昭和七年、区集会に於いて、
 「不動講・行者講ヲ寄講ニ合併ノ件。不動例年祭当日ハ元請者ハ不動堂ニ於テ酒宴随意、当日護摩焚キ等ノ世話ハ元請者ニ託ス。但シ恒例寄講ニ合併。」と決議している。しかし、同九年には「不動講設立ノ件。字中講員トシテ不動講ヲ認ム。」として復活したようであるが、現在は無い。
 不動尊の”お使い”と言われる大きな白ヘビは、祭典準備の日や、例祭日などに滝にある洞に現われる。昔から、不動さんに願をかけ、おかげをもらった人は多いと言われ、その人達は必ず白ヘビを見るという。また、不動の滝の水と小石を持ち帰り、その水をイボに塗り小石でこするとイボが治るといい、現在もこれらの事実を語る人は少なくない。
 昭和以前に不動尊の御神体として白サヤの刀剣があったが、当時はお堂にはカギもなく浮浪者などの宿代りにもなっていて、浮浪者がこの刀の持ち出しを計ったことが度々あったが、いずれも参道途中で体が動かなくなり、刀のたたりと分り通りがかりの人に刀を預け逃げ帰ったという。この刀も昭和初期に無くなったという。
斜めなのが神木・槻の木

 境内の槻の木について、舞鶴市史に次のように紹介されている。ツキの案内板
「現在、真倉の稚児の滝不動にあるツキは、古くから各地の俳人が杖を曳き句材となることが多いが、ケヤキとの見分けは困難である。ただ、中井猛之進博士が樹が高くても枝が横に広がる気味のものが、ツキであると記しているところから、しめ縄の張られたこの木の横枝が広がるあたりを唯一の拠りどころとして区別している。」とある。しかし、「昔はケヤキのことをツキと呼ばれていたもので、万葉集その他の古典には「槻」の字ででています。欅の名は、室町時代中期の「節用集」にはじめてでています。ツキとケヤキは全く同じものです。九州では材質によってイシゲヤキとツキゲヤキを区別している所かあります。ツキゲヤキは赤い良材、イシゲヤキは白い材であまり良くない。」(府立植物園の話)ということである。
《不動尊の絵ハガキ》
 昭和十年、真倉不動宣伝のため、絵ハガキ(五○○枚・高砂写真館製)が作られた。実際に郵便として使われたためか、残っているものはわずかである。
《不動参道落成式》
 参道が今のように広くなったのは、橋谷林道造成工事(総工費、一三、五二○円七十九銭)によるもので、それまでは、人一人が通れるだけの細い道であった。昭和九年八月十六日、第一期工事に着手。同十三年三月二十一日の第四期工事完成により、全区間開通した。第二期工事で不動さんまでが完成したが、この工事と並行して不動さんの鳥居・石段、その他が整備され、同十一年十一月二十八日、不動参道落成式が盛大に挙行された。
次に、その案内状を紹介する。
  謹啓
   天高ク馬肥ルノ好期卜相成申候高堂御揃益々御多幸ノ段奉賀候。
   陳者、當稚児ケ瀧不動明王へ御信仰ニヨリ多額ノ御寄附被成下候御蔭
   にテ区民ノ多年宿望ノ参道モ本年三月完成致シ今ハ坂下迄自動車ニテ参
   拝スル人モ多ク御寄附ニ依ル石ノ鳥居モ一時ニ三個建立完成致シ社標・
   石灯籠・大幟・吹流幡・境内トシテ田畑、山林其他種々御寄附被成下候
   段係ノ者始メ区民一同大ニ喜ビ厚ク厚ク御礼申上ル次第ニ御座候。
   左記當日落成式挙行致シ度存候間萬障御繰合セノ上御参拝被成下度、
   御礼ノ意味ニ於テ乍失礼粗酒飯差上ゲ申度準備仕リ居リ申候。
                              敬具。
   右御案内申上度如斯ニ御座候。
      左記
  一、日時  十月十一日(日曜)
  一、御開帳 午前十時
  一、大護摩修行
  一、餅蒔キ
  一、宴会  當善通寺内
  一、除興  午後六時ヨリ
              区長  後野徳之助
                  亀飼荘太郎
              社寺係 嵯峨根惣太郎
                  上野弥三郎
《不動八百五十年祭》
 昭和二十五年七月二十八日、真倉駅開設の宣伝も兼ね不動明王八百五十年祭を聖護院総本山管長を迎へ実施した。
《例祭の模様》
 例祭日は、七月二十八日である。約一週間前に一・二組の人達で境内・お堂などの掃除、祭典準備が行われる。この同じ日、三組〜九組の人は不動参道・善通寺・公会堂などの掃除を分担する。この日、村中から護摩木を持ち寄るが、一戸から出す数は家族の人数分である。普通は薪(割木)で代用している。この護摩木に”願い”をこめて家族名を書く人もある。この時期には、既に信者が籠っておられる。



 例祭当日には、地元はもちろん遠くは京都・大阪などから参拝される。
 お堂では「御札」や「御守り」、家門安全などと朱書された「護摩木」 が売られている。この護摩木には、祈願人の名や家族の名をその場で墨書きしてもらい火に投ずるのである。
  祭典は昼十二時ちょうどに開始される。滝右上の祠の灯明から大松明に点火、その火を境内中央に積み上げた“護摩”に移す。燃えあがる護摩に向って善通寺住職が正座、お経を唱えながら参拝者が“願い”を託した護摩木を次々と火に投げ込む。参拝者は、燃えさかる護摩を囲み各々お経を唱え、煙に身を寄せたり、手にした護摩木で自分の体の工合の悪い所をさすったり、たたいたりして病気治癒・健康・安全など思い思いの願いを込めて火に投ずる。火が消えるまで約二○分間続くのである。この間参拝者には、お供へもののお菓子やお酒がふるまわれる。火が消えると後の灰をいただく人、御幣の燃え残りをいただく人、これで祭典は終了である。短かい時間であるが、子供達の売店も開かれ、真倉最大のお祭りである。
 《朝鮮の祭典》
 旧正月と二月二十七日は、在日韓国・朝鮮人信者による”お祭り”が境内で行われる。境内中央に積まれたたくさんのお供え物を前に先達の太鼓に合わせて参拝者全員でお祈り。その後、半紙のような薄い紙を細かくちぎり、火をつけて舞い上がらせる儀式も行われる。




上檀神社
曹洞宗桂林寺末高峯山善通寺
『丹後国加佐郡旧語集』
 〈 桂林寺末  〉 

『加佐郡誌』
 〈 高峰山善通寺、曹洞宗、承応元年創立、中筋村  〉 

『丹哥府志(巻之八)』
 〈 【高峯山善通寺】(曹洞宗)  〉 

『わが郷土まぐら』
 〈 善通寺(上ノ段)
 …善通寺は、もと寺ヶ谷にあって火災で焼失したため、今の上ノ段に移った。と言伝えされている。次に善通寺について記されている古文書を紹介する。
 府地誌に「善通寺、境内東西八間南北二十間面積百六十五坪、村ノ西南ニアリ禅宗、舞鶴紺屋町・桂林寺末。承応元(一六五二)年壬辰正月、僧鑑?開基創建ス。」とある。しかし、元和元(一六一五)年に記された 迫田家文書には「(惣(葬)谷、此所谷ロニ善通寺あり。」とある。鑑?和尚の創建前にすでに善通寺はあったのである。屋敷あとは葬谷口の寺ヶ谷にあるが、火災にあい現在の上ノ段に再建したと伝えられていて、寺あとから何体かのお地蔵さんが出土したといい、その内の一体は屋敷あと近くに祀られている。
 享保五(一七二○)年の「真倉村田畑改之帳」(区文書)に、
「さう谷
  一、畑弐畝    新開  寺元屋鋪。
  一、畑三畝拾九歩 新開  同  所。
  一、畑拾弐歩   新開  同  所。
  一、畑弐畝拾弐歩 新開  寺元屋鋪。
とある。これは、計八畝二十五歩の元屋敷を畑として新しく開墾して地目替えをした記録である。
 また、鑑?和尚の創建後四十一年たった元禄六(一六九三)年に記された、綾部市の安国寺(禅宗・臨済宗東福寺派)所蔵の文書(同寺二十五世、桂厳令昌和尚の記述)に、「他派に奪取されし寺」として「善通寺、丹後田辺領真倉村在之自往古安国寺末派而支配シ来リ候也]とあり、もと安国寺の末寺であった事を示している。「これは事実と思われます。」(安国寺・古田敬道住職談)。この奪取が何年であったかは記録されていないようであるが、桂林寺末寺としての善通寺が創建された一六五二年が奪取年あるいは、曹洞宗への改宗年と推考できる。
 なを、この寺ヶ谷の善通寺とは別に「下ノ段のナルには尼寺があって、そのあと地と思われる場所から五輪塔・お地蔵さん・墓石がたくさん出土(大正中頃)した。この尼寺と善通寺が同時代にあったかを考えてみると、(1)江戸時代には一村一ヶ寺という政策がとられた所も多いようであり、その観点から見れば、真倉のような小村に二ヶ寺は多い。(2)寺ヶ谷とナルの位置が余りにも近い。(3)迫田家文書に「善通寺」以外記されていない。これらの事から寺ヶ谷の寺とナルの尼寺が同時代にあったのではなく、尼寺が廃寺となり、寺ケ谷に新寺善通寺が建立されたものと考えられる。
 明治末頃の善通寺は「三宝荒神さんの下に位置し、中筋小学校真倉分教場、雀ノ鼻、鉄道と京街道を見おろす一段高い所にあり。道路から三尺巾の石積の溝を渡り石段を登りきった所に門(明治末期まで)があった。粗末ではあったが観音開きの門であった。本堂を左に行くと突きあたりに観音堂があった。このお堂を右に折れて進んだ所に人工洞穴があって、その穴から清水が流れ出ていた。」(「我がむら」より)この洞穴は子供がやっと入れる程の奥深い穴でカツラヘのぬけ道といわれた。昭和五十六年の災害復旧工事で埋められた。
 丹後田辺領寺社間数帳(年代不詳・「糸井文庫」)に建築物の規模を次のように一記している。
 一、高峰山善通寺 四間半ニ七間半 茅葺
 一、簀戸門    壱間ニ壱間半  杉皮屋根。
 一、観音堂    壱間半四万 茅葺。
 この簀戸門が石段を登りきった所にあったものであろう。観音堂は昭和元年頃、老朽のためつぶされた。
 葬谷の寺山(寺ヶ谷と横津)には茅山があり、毎年、茅刈りが行われ、その茅で寺屋根の葺替えが行われた。葺替えは一年で全部せず、何年かに分けて行われた。が、昭和九年には区集会において瓦葺にすると決議している。
 「昭和九年度ニ於テ、善通寺萱葺ヲ瓦葺ニ屋根替及座敷修繕、炊事場等模様替費中へ納税奨励金中ヨリ支出スルコトヲ全年一月十一日、初総会席上ニ於テ満場一致可決。」
 また、昭和三十四年度には、善通寺屋根総葺替が行われた。
 現在の寺の行事としては、一月一日の新年互礼会と八月十六日の施餓鬼法要がある。施餓鬼には檀家がお参りして先祖の霊を慰め、浄仏されることをお祈りする。その後、参拝者全員による《数珠ぐり》が境内で行われる。この数珠は輪の長さ、三○メートル程もある大数珠である。数珠玉は桐で作られており、小珠・大珠・特大珠でできている。大部分は小珠で径四センチ位で二、三メートル間隔に大珠(径七センチ位)があり、麻縄が通され輪になっている。大珠の内の二個は特に大きく一個づつ対照位置にある。この大数珠を全員が輪になって左回りに三回まわし、特大珠がまわってきたら額(ひたい)にあてて拝み無病息災を祈るのである。
 次に、善通寺(曹洞宗)が創建されてからの歴代住職、また、当寺での修業期間中に亡くなられたお坊さんを前住亡僧としてお祀りしているので記す。
  《歴代住職》…  〉 

『中筋のむかしと今』
 〈 高峰山善通寺の本尊は釈迦如来、承応元年(一六五二)正月桂林寺十一世鉄堅鑑?の開闢と伝えられ、天保十一年(一八四○)桂林寺十八世香邦叶蓮が伝法し、真倉出身の明詮慧鏡が幕末に中興しました。現在は公国寺の兼務です。
 元和元年(一六一五)には、寺ヶ谷に綾部安国寺末の善通寺がありましたが、火災で退転したらしい。
 牧野の殿様が参勤交代で帰国のおりは、善通寺に仮の湯殿と雪隠を建て、ここで威儀をととのえてから城に帰りました。  〉 


須賀神社
大森神社

《交通》
国道27号線
JR舞鶴線

《産業》


真倉の主な歴史記録

《丹後国加佐郡寺社町在旧起》
 〈 真倉村(山崎)
龍谷山善通寺、桂林末禅宗なり、三宝荒神宮あり
  〉 

《丹後国加佐郡旧語集》
 〈 定免七ツ一分
真倉村 高百三拾九石一升六合
    内弐拾壱石弐斗八升二合四勺 万定引
    三拾三石御用捨高
 善通寺 竜谷山 桂林寺末
 三宝荒神  〉 

《丹哥府志》
 〈 ◎真倉村
【三宝荒神】
【高峯山善通寺】(曹洞宗)  〉 

真倉の小字


真倉 岩渕 サミ田 マムシ迫 中河原 新田 下近前 清水ノ下 ニツヤ サイセン 鯉玉 大山 サイセン谷 二ツヤ谷口 二ツヤ谷 堤ケ谷 四十田 柿ノ木迫 宮ケ谷口 宮ケ谷 下近 下近谷 小橋 大森 ミヨトク谷口 森ノ向 小路ケ谷口 小路ケ谷 沢田 笹ケ谷口 笹ケ谷 沢田ノ向 フセカ谷 ハカ谷 荒堀 上ノ段 下ノ段 葬谷 トトナリ トシリ 土地ケ原 千人カクシ 白メカ迫 ハシ谷口 天野 ハシ谷 サミ田谷 カツラ ハシ谷キトコ 西上地 東上地 ナル ミヨトク谷 上ノ山 タニ谷 小山谷

関連項目

別所・阿倍宗任







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資料編の索引

50音順

市町村別
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京都府宮津市
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京都府与謝郡与謝野町
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京都府福知山市
京都府綾部市
京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市









【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『舞鶴市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん





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