丹後の地名

温江(あつえ)
京都府与謝郡与謝野町温江


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京都府与謝郡与謝野町温江

京都府与謝郡加悦町温江

京都府与謝郡桑飼村温江




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温江の概要


《温江の概要》



加悦谷のまんなかあたり、東側の大江山側、西流する温江川に沿って耕地が開ける扇状地。古墳公園のすぐ南側である。
地名は、与謝郡謁叡郷のアチエの転訛であるが、『地名辞書』も、按に謁叡阿知江は其言義より推せば温熱の意あるごとし、然れども此地今鉱泉あるを聞かず地変の為に古温泉の湮滅したるにや、再考を要す、としている。湯の谷といった小字もあるが、温泉の湯ではなく、鉄や銅の溶けたものを湯と今も呼んでいる、ここの古墳からは坩が出土している。
あるいは渡来人漢氏の祖・阿知使主(あちのおみ)にちなむともいうが、こちらの方にワタシは興味引かれる。
岡山県には阿知という地名もある、備中国窪屋郡阿智郷、備中国浅口郡阿智・河智郷。訓注に阿知とある。この阿智郷があったところと思われる。
勘注系図に海部直阿知。墓は余社郡謁衣(あちえ)郷亀尾山とある。
『三国遺事』の有名な一節、
金閼智(アルチ) 脱解王代
 永平(後漢の明帝の年号)三年庚申〔あるいは中元六年ともいわれているが間違いである。中元は二年しかない〕(六○年)八月四日、瓠公が夜、月城の西里をとおっていると、大きい光が始林〔あるいは鳩林ともいう〕の中からさすのを見た。紫色の雲が空から地面に垂れさがっており、雲の中に黄金の櫃が木の枝に掛っていて、光がそこから発し、また白い鶏が木の下で鳴いていたので、このことを王に申しあげた。王がその林にお出ましになり櫃をあけて見ると、中にひとりの男の児が横になっていたが、すっと起きあがった。あたかも赫居世の故事そっくりなので、その言葉にちなんで名前を閼智(アルチ)とつけた。閼智とは朝鮮語で子供のことである。子供を抱いて宮殿にかえってくると、鳥や獣もいっしょについて来ながら喜んで飛びはねたりした。王が吉日を選んで太子に立てたが、後になって婆婆に譲り王位にばっかなかった。金の櫃から出たというので姓を金氏とした。閼智は熱漢を生み、漢は阿都を生み、都は首留を生み、留は郁部を生み、部は倶道〔あるいは仇刀〕を生み、道は未郷を生み、鄒が王位にのぼった。新羅の金氏は閼智から始まっている。
閼智はアルチ、あるいはアッチとも読まれていて、それがアチとなったものか、本来の意味は子供のこととある。
『青銅の神の足跡』は、
閼智は小童の形相で天界から降臨したと伝説されている日の御子を意味する。
としている。ナニも日本の天皇さんだけが、天から降ってきた日の御子なのではない。金閼智(きむあるち)は新羅王だが、別に新羅だけでもなく、このありたから北にいるヤツらは皆そうだし、日本でも天皇氏だけが天から降ってきた者でもない。地方にもゴロゴロいた。そうしたゴロゴロのなかから現代まで生き延びつづけた唯一の幸運の子孫ということである。
兵庫県朝来郡和田山町寺内には、佐伎都比古阿流知(あるち)命神社がある。原発でゆれる敦賀の都怒賀阿羅斯止(つぬがあらしと)は亦名を阿利叱知干岐(ありしちかんき)、このアラシト・アリシチとも関係があろう。人面付き土器(温江遺跡)
アリ・アラとも関係があり、卵とか穀霊、日の光などとも関係する語と思われる。当地から谷を挟んだ向かいの算所に安良山がある、ヤスラとか呼んでいるようだが、アラ山が本当ではなかろうか。光明を意味する渡来語と思われる。
アチをさかのぼっていけば、このあたりにいたのであろう天日槍集団の首長、このあたりの天皇さんのことになるのではなかろうか。
このあたりに古里があるワタシの知り合いは「ワシは天皇の子孫や」とよくいうが、彼の一族ではそう信じられているのだろう、ホンマにそうなんかも…
あるいはそんなアホな、と考える人も多いかも…
右の顔をよく見てほしい、目が細くあごが張っていてホリがなく唇も薄い。渡来人の様相をしている。これはここの温江遺跡で出土したもので弥生前期のものという。(はにわ資料館蔵)
ワタシの近所にもこの顔によく似た人が住んでいるが、彼の苗字は渡来氏のものである。10センチもない像だが、バカにできないもの。
こうした日常品土器は女性が作ったといわれているが、もしそうなれば、自分の夫か恋人かを思い浮かべながら制作したものだろうか。学者先生は豊作を祈って制作したものとか、そんな事を言いたがるが、別に特にそんな意味はないと思う。なかなかにイケメンのいい男、ちょっと作ってみたいような気分になっただけなのかも…。2000年後の皆様の奥様は誰の顔をつくるのでしょう、近所のオトウちゃんだったりはしないでしょう。縁もないタレントの顔を作ったりもしないでしょう。

温江は古代の謁叡郷で、奈良期〜平安期に見える郷名。「和名抄」丹後国与謝郡七郷の1つ。高山寺本の訓は「安知江」。平城宮跡出土の貢進札に「与社郡謁□郷□原里土部古□□□三斗丹波直竹冠に隶手□合五斗」と見え(平城宮跡出土木簡2-2256)て、すでに奈良期の存在は確認されるそうである。本当はもっと古く弥生から古墳の時代の地名ではなかろうか。
温江には大虫神社(名神大社)・小虫神社(名神大社)・阿知江神社(小社)の式内社3社が集中する、名神大社が2社もある地区は丹後では当地しかない、ここが古代丹後の心臓、「丹後王国」のヘソである。なお西になる岩屋には阿知江峠(府道18号線)があり、式内社阿知江イソ部神社もある。この地も古くは謁叡郷の郷域であったかも。
中世は謁江郷で、室町期に見える郷名。「丹後国田数帳」に「一 謁江郷 廿二町一段百八歩内」と見える。
温江村は、江戸期〜明治22年の村名。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年以降宮津藩領。明治4年宮津県、豊岡県を経て、同9年京都府に所属。同22年桑飼村の大字となる。
温江は、明治22年〜現在の大字名。はじめ桑飼村、昭和29年からは加悦町の大字。平成18年3月からは与謝野町の大字。


《温江の人口・世帯数》

《主な社寺など》

縄文からの複合遺跡である中上司遺跡、温江遺跡、湯ノ谷遺跡、鴫谷遺跡など。

古墳、古墳群、横穴なども多く集中する、リストにあるものだけを、主に『加悦町誌』『加悦町誌資料編』より
丸山古墳(温江丸山古墳・加悦丸山古墳)
小字谷垣、丘陵を切り取った円墳あるいは楕円墳で、50〜80メートル。2段構築。前期中葉、4世紀中頃。
内部に花崗岩製組合式石棺が残り、出土品として、剣片、変形方格規矩鏡、三角縁神獣鏡片などがある。現状は全壊。一九六○年(昭和三十五年)調査、出土品は京都大学に所蔵。

小虫神社のすぐ下側で土取されて、山側半分はサラチの資材置場になっている様子、下側の半分は残っているようで、竹藪になっている。↑「方格規矩鏡」は径28.8センチあり、府下最大のサイズ。
←三角縁神獣鏡。径22.2センチ。
丹後では唯一の三角縁神獣鏡である。







大塚古墳(温江大塚古墳) 4世紀後半〜5世紀中頃。
地図でみれば、丸山古墳の少し上側。小森谷。台地上の楕円墳で、東西48メートル、南北39メートル、周濠がある。竪穴か横穴かわからないが、花崗岩製の石棺のよう。開墾されていて、どこがこの古墳なのかわからない。
小森谷古墳 小森谷にあり、丘陵の中腹の円筒埴輪の出土地で、両端に扇平な石をもってブタをしていた。高さ九二センチ、片方の直径が四五センチもあり、臥葬されていたことから円筒棺である。

尾上一号古墳 丘陵の頂の円墳。 径二○メートル、高さ三メートルもある三段式のもので、横穴式石室。
尾上二号古墳 丘陵の頂の円墳。 径五メートル、横穴式石室。現状は全壊している。

鴨谷一号古墳 湯ノ谷にあり、丘陵の頂にある円墳、葺石、埴輪列をもつ三段式で、径八二メートル、高さ一六メートル。出土品は高坏、坩など。
鴨谷二号古墳 湯ノ谷にあり、丘陵の稜線上にある径七メートル、一号墳の陪塚。現状は半壊。

鴫谷東(しぎたにひがし)古墳群・尾上(おのえ)古墳群
      (所在地 京都府与謝郡加悦町字温江小字尾上)
 立地 野田川右岸に派生する尾根上に立地する。野田川の支流である温江川の形成した小谷の南を限る尾根で、温江川を挟んだ対岸には小虫古墳群が存在する。また、この尾根は中位段丘へ連続しているが、この西側中位段丘上には後野円山古墳群が存在する。
 現状の遺跡地図では、鴫谷東古墳・鴫谷西古墳群・尾上古墳群とそれぞれ小尾根毎に呼称を変えているが、ほぼ連続して古墳は分布しており、全体として温江川左岸の墓域を形成しているものと判断できる。
 遺構 鴫谷東古墳群二一基、鴫谷西古墳群一一基、尾上古墳群二三基の合計五五基の古墳が、尾根上に連珠状に分布している。
 その内最大の古墳が鴫谷東一号境で、直径七九b、高さ四bの基壇上に営まれた直径五四b、高さ一一bの二段築成の大型円墳である。発掘調査の結果、埴輪および茸石が極めて良好に遺存している事実が確認された。
 茸石は墳丘の斜面全体に及ぶもので、大きめの石材を基底に据え、この基底石列を軸に縦方向の区画石列を置いた後、その内部をやや小型の石材で充填するという施工方法が確認された。
 埴輪は墳頂部、段築平坦面、墳丘裾部に樹立されていた。
 段築平坦面では、四・二二b間隔で三二本の木柱が建てられ、その木柱間に一一本の円筒埴輪を樹立することで、陸橋部を除いた部分の埴輪列を全周させる。埴輪の間隔は〇・一bと密で、円筒埴輪は普通円筒埴輪三本、朝顔形埴輪一本、普通円筒埴輪三本、朝顔形埴輪一本、普通円筒埴輪三本の配列順を基本とする。ただし、墳丘裏側では、朝顔形埴輪は中央の一本のみで、他は普通円筒埴輪となるようだ。
 墳丘裾部では約四分の三の範囲に八・八b間隔で一六本の木柱を樹立し、その木柱間に一一本の埴輪を樹立する。そのため埴輪の間隔は〇・五b程度に広がる。また、二号境と連続する背後部分には埴輪は樹立されていない。普通円筒埴輪とともに朝顔形埴輪も使用されるが、詳細は不明である。
 墳頂部の埴輪列は〇・一b間隔で樹立され、蓋形埴輪を含むようであるが、その配列など詳細は明らかではない。その他、埴輪類では盾形、短甲形、草摺形、蓋形、鞆形、靭形、冑形、家形、水鳥形、鶏形などの多彩な形象埴輪を伴う事実も確認されている。また、南裾部の埴輪列外側からは土師器壷類三個と高坏五個からなる土師器の集積が検出され、供献儀礼に伴うものと考えられる。
 埋葬主体は、墳頂部で並行して二基存在する。ただし、重複関係が確認され、同時期に埋葬されたものではない。先行する第一主体は、過去の乱掘によって完全に破壊されていたが、割竹形木棺を直葬した可能性が強い。後続する第二主体は墓境を確認したのみであるが、長さ六b、幅二・六bであり、これについても割竹形木棺が直葬されているようだ。
 二号境は、二号境の南西に接して存在する東西二三b、南北一六b、高さ四bの楕円形項である。茸石は有さないが、墳頂部と墳丘裾部には埴輪列が存在する。墳頂部の埴輪列は盗掘によって破壊されていたが、普通円筒埴輪、朝顔形埴輪のほか、家形、盾形、蓋形、水鳥形などを伴う。墳丘裾部の埴輪列は、一号墳および三号境と接する部分には埴輪を樹立せず、北東側のみに、一・三b間隔で朝顔形埴輪が樹立されていた。埋葬主体の状況は盗掘のため明らかにされていない。
 三号境は、一号境の南に営まれた、東西一一b、南北七・五b、高さ一・七bの不整方墳で、一号境とは長さ三b、幅二bの陸橋によって繋がっている。一号境の埴輪列は、この陸橋部分で途切れ、また、茸石も一段控えて茸かれている。さらに、この部分からは壷、高坏、坏から構成される土器群が検出され、三号境に伴う儀礼に用いられたと推定されている。三号境は茸石は有さないが、墳頂部には東西六・六b、南北三・三bの方形埴輪列が形成され、普通円筒埴輪、丹後型円筒埴輪、冑形埴輪、家形埴輪、蓋形埴輪、盾形埴輪、壷形埴輪、水鳥形埴輪など二六本の埴輪が配置される。主体部は四・一b×二bの墓壕に、二基の組合式木棺を並行に直弄する。南棺からは棺内に鉄剣一、棺外に鉄鏃三、棺上に鉄斧一、北棺からは棺上で鉄斧一が出土している。また、墓壙内では何本かの丸太材の存在が確認されており、埋葬に関連する構造物が存在した可能性が考えられる。
 その他の古墳は二〇b強を含みつつ、一〇b内外の規模である。
 遺物 一号墳出土の埴輪は、外面調整にB種ヨコハケを用いるものと、これを省略するものの二者が存在し、前者が大型、後者が小型の傾向が見て取れる。しかし、基本的は規則性の高い埴輪群で、今までの丹後にない新たな技術を導入して製作された。二号墳および三号墳出土の埴輪も同様で、大きな時期差は認められない。
 鉄器類では数は少ないが、いずれも形式が微妙に異なる点が興味深い。110〜114は鉄器のミニチュア品と理解できる。
 まとめ 鴫谷東一号項は五世紀前半に築造された大型円墳で、二号項はほぼ同時期、三号墳はやや遅れるが、巨視的にはほぼ同時期に築造されたと理解できる。
 つまり、鴫谷東一号境は、丹後において大型・中型の前方後円墳が築造を停止した後に営まれる、本格的な古墳の一つと位置づけることができる。そこでは大型円墳という墳形の採用とともに、従属性の強い三号墳を除き、基本的には丹後型円筒埴輪の使用を停止し、畿内的なB種ヨコハケを用いた埴輪や、豊かな形象埴輪群を使用していた。技術や思想を含め、埴輪の新たな導入であり、畿内との関係に新たな局面が生じていたものと理解できる。また、こうした新たな社会状況を反映する古墳が、丹後型円筒埴輪を用いるなど伝統的な古墳(三号墳)を従え、さらに、五〇基を越す巨大な墓域の中に営まれている意味も考慮する必要があるだろう。いずれにしろ、鴫谷東古墳群は、五世紀代の丹後地域を考える上で無視できない、重要な古墳群である。京都府指定文化財。(細川修平)
(『加悦町誌資料編』)


大虫神社(名神大社)(温江虫本)
大虫神社(温江)
もとは東の大江山中腹の池ヶ成に鎮座していたが、中世現在地に移されたという。旧府社。明治14年に式内社・阿知江神社と床浦(とこうら)神社をここに合祀した。床浦はトクラとも聞こえるようである。
阿知江神社はかつて温江の小字湯の谷にあって少童命を祭神とした式内社。床浦神社は大田命を祭神とした。大田命は倭姫命に、五十鈴川上を天照大御神の鎮座の地であると教示して、土地を献じた。五十鈴川上の地の地主神であり、宇治土公の祖。興玉神の別称とも猿田彦神の別名ともいう。
実際の祭礼のノボリには「大虫神社」「床浦大神」「阿知江大神」「小虫神社」「鬼人見大神」「広垣大神」の名があった。
丹後には男神がいない、女神ばかりなのだが、そうしたことはあり得ない、ナニも生まれないではないか。浦島太郎さんや当社の大国主命は、たぶん名が変えられているが、たぶん太古からの丹後の男神であり、たぶん豊受大神と男女一対の神様になるのではたぶんなかろうか。想像でしかないが、祭神は大国主命という出雲の神様でなく、丹波国主命とかいう丹後の男神ではなかろうか、それはだいたい丹波道主命のことではなかろうか、その根拠地が大虫小虫の地ではなかろうか。雄略も手が出せなかったようだが、その後制圧されたのか、この丹後の偉大な男神は「虫」にされてしまっているが、しかしどちらも名神大社だし、蛭子山古墳などに葬られたのであろう、かつての当神の神威のすごさを残している。丹後の隠された栄光の古代史がたぶん当社あたりに秘められていそうに思われる。
大国主命は腐るほど異名があり、あちこちにいたようで、大穴持命・大己貴命として、残缺には志楽・二石崎・枯木浦・凡海郷に登場する。広く丹後一帯を領知していた神なのかも知れない。出雲の神様、素戔嗚尊の子ということになっているが、大和だって大物主神として三輪山に祀られている、天皇権力発生以前にはもっと広く日本のほとんどを領知していた神なのかも知れない。


当社の祭礼は加悦谷祭に合わせて四月の最終の土日、下側に鎮座の小虫神社と合同で行っている。神楽と太刀振りが奉納される。
小虫神社に奉納されるのが14:00くらい、当社は16:00くらい(年によって奉納順が 交代することもあるという)
神楽(大虫神社)
伊勢太神楽系かと思われる、「ツルギ」「スズ」「オコリ」↑の3曲。


ホンブリの最も難易度の高い部分↓
太刀振り(大虫神社)
太刀振り(大虫神社)
小3から中3までの男の子達、昔は青年達が奉納したという。籠神社葵祭の太刀振りと同じよう。女の子達は囃子方を受け持つ。↓
笹囃的雰囲気があるが、笹囃しはない様子である。
囃子方(大虫神社)

参道をフリながら進む「ミチフリ」、石段を登る「ダンブリ」と社頭で奉納される「ホンブリ」がある。「ホンブリ」は5つ、後になるほど難易度が高く、小さい子にはムリ。



与謝郡
一 大虫社 十四町七段二百卅六歩 御免
(『丹後国田数帳』)

斉衡二年(八五五)正月、丹後国大虫神、従四位下を授けられる
 『日本文徳天皇実録』斉衡二年(八五五)正月  国史大系
 廿五
 丙午、伊勢国阿耶賀神、丹後国大虫神並加二従四位下一、
   ※『類聚国史』巻十四神祇十四に同文あり。
(『宮津市史』)

大虫神社 名神大
○【文実】斉衡二年正月壬午朔丙午丹後大虫神加従四位下 ○今云山王社在宮津山上 ○越前国大虫神社佐々牟志神社 ○伊勢儀式帳朝熊社苔虫神

田数帳大虫社十四町七反二百卅六歩御免【道】温江虫本村【式考】同【豊】温江村字虫本祭日十月卅日【覈】温江村ニマス【明細】同祭神大巳貴祭日九月廿一日)(志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志)
(「丹後国式内神社取調書」)

府社大虫神社
 桑飼村字温江小字虫本鎮座、府社、祭神大巳貴命(一曰大山咋命)由緒六國史現在社にして文徳実録齋衡二年正月二十五日加従四位下とあり(図版参照)延喜の制名紳大に列せられ大川、籠、小虫、大宮売神社二座と共に臨時祭に預る(延喜式三古事類苑)大日本神祇史に「延喜の制天神地祇の名紳大社に列するもの三百五座就中二百八十五座は定まりて名神祭に預れり丹後大川、籠、大虫、小虫、大宮売神社二座」と載す。往古は大江山の池ケ成に鎭座ありしを中世今の地に遷すといふ。尤も神祇志料には神社覈録、宮津藩神社調書、豊岡縣神社調書などを引きて「温江郷温江村温の谷にあリ」と爲せるが如何にや、田教帳当社神田十四町七反二百三十六歩御免とあり。明治六年二月十日豊岡縣より村社に列せられ、十四年八月再建同四十一年四月十日神饌幣帛料供進神社に指定せられ、大正七年十月二十四日昇格府社に列せらる。当社安康の朝履仲の皇孫億計弘計二王御避難の傳説あり、氏子六十五戸崇敬者二千四百四十一戸。
 府社に昇格以後毎年例祭、祈年祭、新嘗祭には京都府より神饌幣帛料を供進せられ其都度知事代理ごして郡長を参向せしめらる。
 境内床浦神社阿知江神社あり後者は延喜式所載の阿知江神社なりと云ふ。
(『与謝郡誌』)

大虫神社 温江小字虫本

 大己貴命、少童命(おわらべのみこと)、大田命を祭る。
 延喜式の名神大社で『文徳実録』には、八五五年(斉衡二年)正月二十五日「丹波国大虫神社加従四位下」とある。もと大江山の池ケ成の地に小虫神社と共に鎮座していたが、中世室町時代の初期に現在地へ移されたと伝えられ、旧社地には、今も御手洗の池が残っている。
 当社は古代から朝廷はもちろん、貴族や武士に至るまで、崇敬が厚く、成相寺の国宝『丹後国郷保荘田数目録帳』に当社領一四丁七反二三六歩と記され、今も御供田、灯明田、油田等の地名が残っている。昔阿知江郷一六か村の鎮守で、加悦町後野地蔵堂付近に一の鳥居があったが、一八八七年(明治二十年)頃その礎石が取り除かれた。
 当社には用明天皇の第三皇子麻呂子親王(聖徳太子の異母弟)が大江山の鬼賊土蜘蛛征伐の時、自ら神像をつくって納め立願されたという伝説があり、また、億計、弘計王が滞在したともいわれている。一八七三年(明治六年)に豊岡県から村社に指定された。一八七七年(明治十年)四月社殿再建中失火のため、社殿や古神像(麻呂子親王作という。)をはじめ、境内社に至るまで全焼、一八八一年(明治十四年)再建、その後数回にわたって増改築されて今日に至っている。
 現在の神像は、法量四七センチ、一八二六年(文政九年)の制作で、江戸時代の神像彫刻の一端を知ることができる。
 一八八一年(明治十四年)に床浦神社(祭神大田命)と式内社、阿知江神社(祭神少童命)が合祀された。
 一九〇八年(明治四十一年)神饌幣帛料供進神社に指定され、ついで一九一八年(大正七年)十月二十四日府社に昇格した。
 一九二九年(昭和四年)四月六日、境内の経塚が発掘され、経筒(陶製一、銅製二、)直刀残欠、経文紙片一○枚等が出土した。
また、境内に宝篋印塔と層塔、一四七〇年(文明二年)の作がある。
境内社に現皇稲荷神社(祭神倉稲魂命)、若宮社(遷座祭用仮殿)がある。

少彦名命と宝鏡 大国主命を祭る大虫、少彦名命を祭る小虫、両神社の由来で、大国主命が沼河姫と当地に住んでいた頃、槌鬼という悪霊が姫にあたったので、たちまち病気になってしまった。大国主命があまり嘆くので、少彦名命が八色の息を吐いて槌鬼を追い出したので、姫の病気は全快したが、その息のために人や植物が虫の病にかかって苦しむようになった。そこで、少彦名命は「私は小虫と名のってあなたの体の中に入り、病のもとになる虫を取除きましょう」と言ったので、大国主命とちぎりをかわし、大国主命は「私は人の体の外の病気をなおそう」と言って、鏡を二つつくって、一つは少彦名に与え、一つは自分が持って大虫と名のった。これが現在大虫神社、小虫神社の社名の由来となったと伝えられる。
(『加悦町誌』)

…麿古親王が三上山の賊を退治に来た時、一人の老翁が頭に鏡を頂いた白毛の犬を献上して道案内をさせたので、鏡に賊の姿が写ってたちどころにそのありかがわかって誅せられたという話があり、加悦(かや)の温江(あつえ)にある大虫神社の境内には犬鏡大明神を祀り、鏡山という地名も残っている。
 また親王に宇都木(うすぎ)の鞭を献じたという石川の鞭氏(この鞭は如来院に納められている)旗をもって従ったという与謝の勢旗(せはた)氏、家臣であったという金谷(かなや)氏、公庄(ぐじょう)氏、竹野神社の神官である桜井氏はいまでもその姓や土地名として残り、与謝には宇豆貴部落、桜内部落、宇豆貴神社等がある。
 大江山の鍋塚は麿古親王が死んだ乗馬の鞍を埋めたと伝え、墳らしいものがあるし、大虫神社は鎌倉の頃まで大江山の池ヶ成にあっても親王もここに身を寄せて賊を退治したといい億計、弘計の二皇子もこの社家にかくまわれたと伝えられている。

大虫神社
 温江の虫本にある大虫神社は大己貴命(大国主)を祀り、加悦谷きっての名社で元府社であり、また延喜式の名神大社でもある。このことから、この地方に進出した出雲族の勢力をうかがい知ることができる。同じ温江にある小虫神社は少彦名命を祀り、もともとこの二社は大江山池ヶ成にあったものを、嘉禎二年(一二三六)頃(国司足利泰氏の代)現在地へおりて分神したもので、麿古親王、二皇子をはじめ数々の伝説が伝わっている。
 頼光が鬼退治のために祈願して納めたと伝える神像があったが、明治十年四月の出火で焼失した。
 境内に麿古親王の先導をした犬を記る犬鏡大明神、文明二年(一四七〇)銘のある宝篋印塔、経塚があり、経塚よりは室町期の経筒と経文が出土して同神社に保存されている。
 大虫神社の鳥居の所に「礼厳法師の碑」が立っているが、与謝野礼厳は与謝野晶子の夫鉄幹の父であり、文政六年(一八二三)温江の虫本に生れて出家したが、俳人でもあり政治家でもありまた事業家でもあり、京都にあって大いに活躍した。特に明治五年九月植村正直知事の応援を得て療養院を建てたが、これがいまの府立病院や府立医大の前身である。
 明治三一年八月十七日七六才で京都に没し大谷廟に葬った。
    与謝郡阿知江の村に鍬とりて
      世の笑いより逃れなんかも
(『丹後路の史跡めぐり』)


床浦明神のはなし (温江)
 昔、丹後の大江山の麓、温江村という処に源助という力の強いお百姓がおりました。夏になると、毎日大江山へ田の肥料にする草刈に行きました。
 今日も大虫神社の横の道を登っていつもの床浦の谷の上の休み場へ上り草を刈りはじめました。一把刈って休み場へ置こうとすると、一匹の小さな蛇がとぐろをまいておりました。源助が二把目を刈って来ると、前の草把の上に、さっきとは大きくなって蛇が坐っています。三把目を刈って来ると、又、大きくなっています。四把目を刈ると、ずっと大きくなってとぐろをまいてかま首をあげてじっとにらんでいます。
 源助は蛇がからかっていると腹がたって来ました。「貴様あ、わしに喧嘩をしかけるのか。よし、そうなら勝負しょう。明日の昼過ぎ此処で会おう」
と叫びますと、蛇はすーと草叢の中へ去って行きました。
 あくる日の昼過ぎ、源助は約束通り床浦の谷を上ってゆきました。途中で長さ四メートル程の榁の木を伐り、枝を途中から払ってとがらし、蛇との闘いの用意をしました。
 床浦の休み場へ来てもまだ蛇は来ていません。「おーい。まだ出て来んのか」と源助が言った時です。ゴーという音をたてて風がサーと吹いたかと思うと、草叢の中から大きな大きな大蛇が、カーと口を開いて今にも源助を一呑みにしょうと飛びかかって釆ました。
 源助はさっと身を除けて、持っていた榁の木でガーンと大蛇の頭を打ちました。大蛇は一瞬ひるみましたが、又、飛びかかって来ます。源助は逃げながら、頭といわず、胴といわず、ところかまわず榁の木で大蛇を打ちました。大蛇も負けずに源助を呑みこもうとします。何時間闘ったのでしょう。源助は力つきて倒れ気を失ってしまいました。
 それから何時間たったのでしょう。源助が気が付くと周りはすっぽり夜の闇に包まれていました。星明りで横を見ると、あの大きな大蛇がとぐろを巻いて血まみれで倒れています。源助は夕方からの大蛇との格闘を想い出し、自分が勝ったのだとやっとわかりました。
 源助は、大蛇の首をかついでどんどこどんどこ山道を引きずって温江の村まで降りて来ました。そして、虫本と本村の中ほどにある道はたの稲架に大蛇をかけました。八段の稲架の一番上から二つ折りにしてかけると、頭から尻尾までがまだ地面についたということです。
 翌朝、村の人たちはこの大きな大蛇の屍体を見て大騒になり源助の話でいっぱいでした。
 ところが、その夜から源助は高い熱にうなされて床についてしまいました。二日たっても三夜すごしても一向に熱は下らないどころか命もあやういばかりになりました。村の人が見舞に行ってもうわ言ばかり言っています。
 四日目の夜のことです。源助がうっすらと眼を覚すと、闇の中に真白い神主さんのような衣裳をした老人が枕元に立っているのです。老人は静かに坐ると、白い長いあご鬚の口を開いて、「源助よ。わしは床浦の谷の主じゃ。お前との勝負で負けたのは仕方がない。しかし、わしのあの姿を大勢の者の見せ物にしたのは残念じゃ」 と言うのです。
 源助は思わず起き上り平伏して、「これはこれは申し訳ありまへん。きっとあなた様を床浦明神様としてあの谷の奥にお祀りしますで許しておくんなはれ」と、頭をすりすりして頼むと、白衣の老人はすっと消え、同時に熱はさっと下りもとの元気な体になりました。
 源助は約束通り村の人を頼んで大蛇の死屍を丁寧に葬り、床浦の谷の奥に小さな洞を建てて祀りました。床浦明神さんはその後農作物の豊作や村の人々の安全の守り神として信仰されました。明神としてお百姓を守っているということです。
 尚、それから温江村では、八段の稲架をせずに九段にするようになったということです。
床浦明神は今、大虫神社に合祀されています。(古老より聞取)
(『加悦町誌資料編』)

土蜘蛛退治 大江山に土ぐもという山賊が住み、この地域を荒していた。土ぐもとは、穴の中に住み、しばしば朝廷の命に服さない未開の民であった。
 用明天皇第二王子、麻呂子親王は、この山賊を退治するため丹後へ征討に向った。親王は、温江から大江山に登り、途中「サガネ」で休憩、その時カブトをとり、ある岩に置く、その後この岩をカブト岩と称し、現にその地名が残っている。その「サガネ」から「横百合」という土地を経て、休み石のある場所に着いた時、首に鏡を掛けた犬が現われて、山賊の住む巌窟に案内をした。
 こうして土蜘蛛は滅ぼされ、大江山がもとの姿になった。犬の現われた場所を犬つくといっている。
(『加悦町誌』)


床浦の谷というのがどこなのかわからない、今の小字にはない。たぶん鬼の岩屋にいたる大江山山麓というか稜線近くのどこかではなかろうか。蛇谷が池ヶ成までの途中にある。合祀されているといっても別個に社殿が用意されているのではない。
こうした伝説を聞くと、大虫・小虫の虫とは、ウンカやアブや蚊のたぐいの害虫のことではなく、蛇のことなのでないかと疑うのだが、さてどうか、誰もそうした説を提示していない。虫とは蛇のことである、大虫・小虫とは大蛇・小蛇を意味する説を出しておこうと思う。大蛇・小蛇は大江山の金属の神であり、やがて池ヶ成の池に住む蛇、水の神となり、農業の神となっていったと思われる。
温江側にも、古代大江山はこちら側が正面のように思えるが、ツチグモやオニがいたことは間違いないようで、どうやらサガネやユリは金属に関係する地名のようだし、イヌあるいはイネとなるかも知れないが、それも金属に関係がありそうに思われる。

元大虫神社跡 温江虫本の池ケ成にあったもと宮の跡で、南北一○○メートル、東西七○メートルにまたがり、御手洗池(径一メートル)があり、大雨にも濁らないという。
(『加悦町誌』)

与謝野礼厳碑
参道入口に与謝野礼厳追念碑が建っている。


小虫神社(名神大社)(温江小森谷)
少彦名命・火産霊命・大山祇命を祀る。大虫神社と同じく池ケ成に鎮座していたのが、中世現在地に移されたという。
小虫神社(温江森谷)

小虫神社 名神大
【明細】温江村祭神少彦名命九月廿一日【道】虫本村ノ少シ北方【式考】温江村ノ小谷ニアリ大虫小虫ノ両社ハ往古大山ノ池成ト云處ニ鎮座ノ由古老ノ傳ナリ今ニ社地ノ旧跡御手洗等アリト云リ宮本池臣ノ考ニ此山ノ神霊ヲ祭シナランカトアリ【豊】同字小森谷例祭十月三十日)(志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志)
(「丹後国式内神社取調書」)

小虫神社
 桑飼村字温江小字小森谷、村社、祭神少産名命、火産霊命、大山祇命の三柱なり、延喜式内名神大に列し元大江山池ケ成にありしを中世今の地に遷すと。明治六年村社に列せられ十年村社廣垣神社無格社鬼人見神社を含殿に合併し十二年社殿再建、氏子七十戸境内末社若宮、小森、猫宮あり。外に百合に愛宕、秋葉、疋田稻荷、尾上に新井稻荷虫本に稻荷、粟谷に湯船、湯之谷に巣狩等あり皆無格社なり。
(『与謝郡誌』)

小虫神社 温江小字小森谷
 少彦名命、火産霊命、大山舐命を祭る。
 延喜式の明神大社で大虫神社と同じく、もと大江山の池ケ成の地に鎮座していたが、中世室町期に大虫神社と同じ頃現在地に移されたと伝えている。
 この主神少彦名命は、大己貴命と共に出雲地方の国土開発に尽くし、また、まじないをよくし、医薬の祖神ともいわれている。また、余社の国造の神であり、温泉の守護神ともいわれる。
 境内に猫宮社、小森社がある。
「註大虫、小虫神社の社名の由来については伝説の項参照」
(『加悦町誌』)


大虫さんと小虫さん (温江)
 大虫さん、小虫さんと呼ぶ二つの神社があります。
 大虫さんには大己貴命が、小虫さんには少彦名命が、それぞれお祀りしてありますが、その大虫・小虫には、こんな話があったのです。
 大己貴命とは、大国主命のことで、はるばる出雲の国からこの地へ来られた時のことです。
 大国主命は沼河姫という奥さんと一緒に住んでいました。二人の仲は大変むつまじく、ある時、槌鬼が、沼河姫に邪気を吹きかけると同時に姫の体内に入りこんで病気にしてしまいました。
 槌鬼のせいで病気になったとは知らない大国主命は、いろいろ手当てをするのですが、一向に病気はよくならず、日ごとに悪くなるばかりです。
 そこへ、姫が病気と聞いて、与謝の国造りの神である、少彦名命がお見舞にやって来たのです。
「どんなに手を尽くしても、病気は重くなるばかり…。私にはわからない…」
と嘆かれる大国主命に、医薬の神でもある少彦名命が、
「よろしければ、私がみましょう」
といって、姫の体に手をおき様子をうかがいました。しばらくすると、
「これは、姫に槌鬼がついています。そのせいで病気になられたのです」
といい、さらに、
「ご安心ください。私の息を吹きかけて、槌鬼を退治しましょう」
といいおわると、
「ふうーっ」
と力いっぱいに七色の息を姫に吹きかけました。すると、姫の体から、ようよう槌鬼が出てきて、その場で息とだえ消えさりました。
 姫がもとの元気な姿になったのをみて、大国主命は大変喜び、少彦名命の手をとって礼をいいました。
 ところが、困ったことが起こったのです。
 少彦名命が吹きかけた七色の息によって、山の木や、稲などの作物にたくさんの虫がついて、枯れだしたのです。
 槌鬼を退治するために、力いっぱい吹いた七色の息は、草木や作物には刺激が強すぎたため抵抗力がなくなり虫に食い荒されだしたのです。
 大国主命は、少彦名命に相談されました。その結果、少彦名命は、作物などの病気のもととなる体の内の虫を退治し、大国主命は、体の外の虫を退治しょうということを決め、草木や作物の内外の虫をすべて退治されたのです。
 野山の緑や、田畑の潤いを見て、ほっとされた大国主命は、鏡を二つ作り、一つを少彦名命に与えられて小虫と呼び、もう一つは自分が持って大虫と名乗り、人や作物を守っていこうと、堅い契りを結ばれたということです。
 そして、今なお、小虫は人や作物の内にすむ心の虫を退治し、大虫は体の外の虫を退治して、この地の人や木や稲が、すくすくと育つように守っておられるということです。
 大虫神社は、温江の虫本にあり、又、そこから約一キロ離れた小森谷に小虫神社がありますが、以前は、大江山の中腹の池ケ成に祀ってあったということです。
   (『丹後の民話』を一部改変)           (杉本利一)
(『加悦町誌資料編』)

阿知江神社(式内小社)
湯の谷(温江)
元々はこの「湯の谷」に鎮座していたという。この阿知江神社が鎮座した「湯ノ谷」あたりが本来の謁叡なのだろうが、耕地が整理されすぎていて、古い時代をしのぶことはもうムリか。右手手前側の山に鴫谷古墳群があり、そのままその先がイナナキと呼ぶところで、七面山古墳などがある、左手の山の先には白米山古墳がある。

阿知江神社
【道】今温江村アリ大虫小虫ノ大社アリ温江虫本ト云フ又阿知江峠ト云アリ岩屋村ナリ又加悦町ニ天神社アリ尤宜キ地ナリ扨又加悦谷ト云事トモ抄ニナシ若此加悦谷謁叡郷カ考フベシ然ラバ此天神社名コソ違ヘ阿知江ナラン【式考】地名ニヨルニ往古此辺温泉ナドアリ 少彦名神ヲ祭レルナラン【豊】温江村字湯ノ谷ノ例祭九月廿八日【覈】温江村ニマス【明細】同様清瀧権現祭八月十八日)(志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志).
(「丹後国式内神社取調書」)

阿知江神社跡 温江湯ノ谷にもと宮の跡があり、社格は「御社」、現在は大虫神社に合祀される。
(『加悦町誌』)

福知山市夜久野町直見宮垣の天満神社に伝わる「谿羽野見縣主尾崎旧記(天満神社記録)」には、
人皇四十二代文武天皇慶雲三年(七〇六)四月より大旱魃にて天下人民多く苦しみける。丹波、但馬、若狭、大和近国まで山焼けて村里近き處悉く焼失、人民多く死にたり。則ち糧尽き農夫住み難し。ここに大虫、小虫の神守、道主王孫阿知恵小見と野見縣主と都に上りて、由緒あれば土師の宅に止宿し、丹波、但馬山焼の一件奏聞しければ天皇神守小見と野見縣主を殿上に召し給ひて委しく山野、人家焼失の事を尋ねたまへば、両人委曲奏上す。ここに於て天皇戯れて曰く、小見の言上誠に委しく見るが如し、野見は弁舌なりとて直見に従五位下職田八丁を賜ひ慶雲四年(七〇七)十一月朝廷より皈らしめ給ひけるに途中にて細見は死にたり、其所を細見村という。
丹後王家の血筋を引く、大虫・小虫神社の神主であった阿知恵小見(謁叡臣か)は神守臣とも呼ばれて、たぶんこのあたりにいたようで、それは文武天皇の頃だという。当時は丹後国主のような存在であったのかも知れない。


鬼の岩窟
温江地域東南端、大江山山中というか稜線近くに源頼光の酒呑童子退治伝説にまつわる「鬼の岩窟」がある。
鬼の岩窟(温江)
今の岩窟はこのように小さな入口で人一人がなんとか入れる程度の大きさしかない。なかをのぞくと少し広くなっている。写真の赤色はストロボ色。地震で崩れて狭くなったとかいわれる。鬼の岩窟とされるが、もともとはずっと古い温江人たちが神を祀った祭祀場ではなかろうか。

『加悦町誌資料編』(図も)
「鬼の洞窟探検記」
   明治末期の「鬼の洞窟探検記」                           小牧進三
 昨年の秋、鬼伝説の謎に迫る手だてとして初めて鬼の岩屋にいどんだ探検隊がある。
 加悦町にある大江山観光開発推進メンバーのリーダー故市川浩団長が率い、洞窟学の権威者京都大学名誉教授・吉井良三博士をまじえた一行で、洞窟内は、従横穴混合の不定形で約四十米の奥行きをもつ、石灰岩質の全分布と一部蛇紋岩層の自然洞窟であることがこの日の調査でほぼ明らかにされた。
 このようすは九月六日付毎日新聞紙上で「初の本格探検隊数々の収穫」「大江山鬼の岩屋のナゾに迫る」の見出しでいち早く丹後一円のニュースとなって流れ、加悦町民の奥深くいまなお鮮明な記憶として宿っている。(中略)
 洞穴の口は漏斗状に開き、左右の石壁さながら人工を加へたるが如く、頭上を圧する岩の光りに首筋ちぢめて窟の中を窺うと、ほのかに日光のさし込む明り窓、真下には一抱へにも余る大岩が横ざまに穴を塞いでいる。地震か何かでくずれ落ちたものらしい。一行は手に手に用意し来たれる百目掛けの大ローソクをたよりに、シャツ、ズボンの下構へして腹這いしつ、くの字なりにすぐりもぐりして奥へ奥へと手探り寄る。清水の滴り、赤泥のぬめり、ローソクの光は力なければ四肢の感覚ひとつにて斜に一丈ばかり滑り下ると、背と胸とがギッシリ岩間に狭まれて身動きもならず。高さ二間ばかりの岩間をよじ、天井石のブラ下ったところをまたもや斜に二間ほど奈落の底へ引き入れられた所に枝つきの木の幹が梯子にしてある。枝を足場に下りてはまた岩角に取りつき二丈ばかりも突立ちたる二本の丸太に足をかけると左手の穴の下はローソクの光の及ぶ限り底知れぬ深みの恐ろしさ。向うの岩角へ手をかけると馬の背のような三文ばかりの岩に木口の四角な橋が架っているが、穴の狭いのと身内の冷えまさるのとで身動きもならず。この橋さへかろうじて渡り尽くせるものならは、その奥の方は少しは広く窟の中へ出られるらしく思はれた。僕も中ほどまでは入って見たが、そこまでは足が届かず、お先へご免蒙りて洞穴の口に休んでいると、跡からでてきた一行の人々は、頭の先まで泥だらけになりて皮膚には血さへにじんでいる。そのさま今福の爆発騒ぎを目撃した遭難者よろしくの体たらく。
   (中略)
 この記録から受けた私の感じは、今から約七十年前明治四十年頃の探検記と推察し、探検家「好尚」は日本各地の洞窟探検の先師としての想を深くした。他日好尚という人物の足跡を追ってみたい一念である。(後略)            (『土塊』第8号)


鬼の岩窟より温江集落をのぞむ


池ケ成を中心に、用明天皇第3王子麻呂子親王の大江山鬼賊退治伝説にまつわる「かぶと岩」「馬かくし」「千町岩」「御手洗いの池」などの地名が残っている。
大江山の西麓になる加悦町側もツチグモやオニの本場で、『加悦町誌資料編』に、
加悦町に残る麻呂子親王伝承
一、犬鏡大明神。麻呂子親王鬼賊退治に鬼の姿が見えず、神仏に祈った処、鏡を頭につけた犬が来て照らされ退治する事が出来た。犬と共に鏡を温江の池ケ成に犬鏡大明神として祀る。後、温江大虫神社へ合祀している。
二、温江大虫神社には麻呂子親王が戦勝を祈り自ら神像を造って納めたと伝えられる。後に火災で焼失した。
三、与謝の二ツ岩神社には大きな岩が二つ祀られている。鬼が大江山から投げたのを親王が刀でくいとめて切ったという。
四、与謝の供御の六兵衛の家は麻呂子親王の膳部役をつとめ、勢旗家は旗手をつとめたと伝えられる。
五、鳴滝不動明王。麻呂子親王が大江山へ登ろうとすると、鬼が上より土砂を流して抵抗したので、不動明王に祈願した処、ぴたりと止まって進む事が出来たので滝に社を建て祀った。
六、親王が三上が岳へ登ろうとすると草や木に虫が一杯着いていて上れなかった。鞭家が宇豆貴の鞭を差上げ、これで払うと一匹も居なくなり山へ登る事が出来た。後に鞭を宇豆貴神社へ祀った。
七、温江の池ケ成は麻呂子親王が都から来て丁度千町になると言い千町岩がある。又親王が「兜」をかけたという「かぶと岩」がある。

『加悦町誌』
大江山 源頼光と酒呑童子の伝説で名高い大江山は、標高八三三メートル、赤石ケ識、千丈ケ獄、鳩ケ峰、鍋塚を経て鬼の岩屋への山峰は、丹後アルプスの名にふさわしく、眼下に宮津湾、そのはるか向こうに能登半島、伯耆大山、愛宕の連峰を望み、雲海は見渡すかぎりはてしなく続き、花々たる草むらには奇岩怪石が点々と立ちならび、夏は渓谷に鴬の声を聞き、秋は萩、すすきが風になびき、冬はスキーヤーが乱舞し、春は緑の香りにむせかえるがごとく包まれ、足もとには花が咲き乱れ、その景観は筆舌につくしがたいものがある。酒呑童子が住んだという岩窟は、いまはくずれ落ちてせまくなっているが、元はもっと深く広かったものである。岩窟から下った池ケ成は、もと大虫神社のあったところで、広い敷地の跡や御手洗の跡が残っていたが、いまはすすきが一面に風になびいている。…
一七二一年(享保六年)には快尊上人が登って、
 治まれる 君が御代にはおそろしき 鬼ケ岩屋も住めずなりぬる。
とうたっているが、もうこのころ(江戸中期)には岩窟もそうとう崩れ落ちていたことがわかる。また一七五七年(宝暦七年)の春には、俳聖与謝蕪村が登って、
     雲の峰に 肘する 酒呑童子かな
     岩に腰 我頼光の つつじかな
とよんでいる。さらにまた、幕末の一八五五年(安政二年)六月二十一日、維新の志士、清河八郎が母を奉じて登山したことはあまり知られていない。彼の日記「西遊草」に、
 「大江山の入口謁叡村に至る、小さきお宮あり、この神を、大教えという。(犬鏡)これ謁叡神社の神犬となって、頼光を導びきなされたという。大江山の頂近く、道のかたわらにとくら明神(床浦)あり、力を祈る神といえり」と載っている。
 すでに丹後風土記に、「与謝の大山」と呼ばれた大江山は、丹後を訪れた数多くの人達の心をも引きつけずにはいられなかった。


藤田左衛門氏輝の谷垣城址
谷垣城跡
常栖寺の裏山(木積山)が谷垣城跡
温江城、谷垣城、尾上城
 桑飼村字温江疋田孫四郎一書孫太郎の居りし處と云ふ今稲荷神社あり水道の跡もあり丹後旧事記京極高知出張を此に置き爾来京極といふよしを載す、同村谷垣城には藤田左衛門之れに拠りしと云ひ其姓今に残れり城趾に木積祠あり、尾上城新井住吉郎城趾今茶園となるも遺跡存し新井の姓あり或時代は佐吉を姓とせしことありし以上三城とも天正十年九月廿七H有吉の爲めに戦死す。
(『与謝郡誌』)

谷垣城跡 温江の谷垣にあり、木積山城とも称す。城主は藤原氏の末孫で、(藤田と改姓)左衛門氏輝、代々左衛門を襲名する。城跡には木積の祠があり、藤田の姓も当地に在する。
(『加悦町誌』)

新井佐吉郎の尾上城址
尾上城跡 温江の尾上にあり、城主は新井氏で、城跡には稲荷社がある。本丸のあとが残っている。現に新井姓がある。
(『加悦町誌』)

匹田孫四郎の温江城址
温江城跡 温江の本村にあり、城主は疋田氏で、城跡には稲荷社がある。一五八二年(天正十年)細川氏のため落城、一六○○年(慶長五年)京極氏の宮津入城後この場所に「出張り」を設けた。
(『加悦町誌』)

稲貝豊後守の稲葉城址

虫本集落の小字土山(堂山とも)には七堂伽藍の寺院があったと伝え、一蓮坊の地名と若干の遺構が残る。
堂山の寺跡 温江虫本の土山にある台地の寺跡で、南北約一○○メートル、東西約三○○メートルの範囲にまたがり、礎石が残る。
(『加悦町誌』)

臨済宗雲頂山常栖寺
常栖寺

雲糸+永山常栖寺
 桑飼村字温江の百合にあり、本尊釈迦三尊、実仲禅師開山元禄五年養室和尚中興天明二年再興。
(『与謝郡誌』)

雲頂山常栖寺(じょうせいじ)  温江小字百合
 一三九四年(応永元年)天田天寧寺の実中秀禅師によって開山され、当初は天寧寺派に属していた。一七一七年(享保二年)太素和尚の時焼失し、一七六九年(明和六年)から一七九二年(寛政四年)にかけて再建された。
本尊は釈迦如来。寺宝は、達磨図一幅(伝、雪舟筆)、十六善神、観音図一幅(伝、白隠筆)、大蔵経、大般若経、無常の図一幅(伝、兆殿司筆)、大槃若経百巻、伝法良の袈裟、竜虎の襖絵(伝、狩野山雪筆)、唐画の山水(伝、雪清斉筆)、山岡鉄舟の書などがある。
今の本堂は一七八二年(天明二年)、庫裡は一七七二年(安永元年)山門は一七九二年(寛政四年)に建てられたものである。谷垣城主藤田氏の菩提寺であった。過去帳に、
慈徳院殿楽殿一道大居士
  元久二年(一二○五年)正月廿六日
           藤田左衛門尉氏輝
昭徳院貞室妙法大禅定尼
   建永元年(一二○六年)三月三日
           藤田左衛門尉内室
とある。境外仏堂として、今は本寺に統合されたが寵谷の延命庵(本性禅尼開基)、谷垣の観音堂などがある。檀家は約一〇〇戸。
(『加悦町誌』)

《交通》



《産業》




温江の主な歴史記録


『注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録』
一 謁江郷 廿二町一段百八歩内
  八町八段二百五十五歩  飯尾大和守
  十三町二段三百廿四歩  雲居庵領
         此外領家無下地


『丹哥府志』
◎温江村(大江山の西麓)
温江村は和名抄に謁叡といふもの是なり。是より東大江山にそひて二瀬川へ道あり。
【大虫神社】(延喜式名神大)
【小虫神社】(同 )
【犬鏡大明神】(犬鏡大明神の伝は与謝郡栗田の庄成願寺条下に出す)
【雲詠山常栖寺】(臨済宗)
【藤田左衛門城墟】
【付録】(清滝権現、荒神社、阿弥陀堂、地蔵堂、妙見堂、観音堂、寿福寺跡)




温江の小地名


温江
中上司・小森谷・ヲサ・岡田・谷垣・堀池・石郡・中島・鴫谷・組ケ岡・川向・檜谷・百合・京極・笛吹・粟谷・粟峠・段垣・湯舟・牛ケ谷・カニケ?・瀧ケ谷・赤尾・棒付・柳谷・椎ノ木谷・中田・土山・一連防・ホツロ原・蛇谷・西谷・中村・尾白山・茶臼畑・虫本・ホリ・家ケ坪・宮ノ谷・百合山・ミグミ・奥手・スカリ・ヒヤケ・温ノ谷・山ノ神・峠ノ谷・荒神ノ下・尾ノ上・城・久ノ木・分田・下町
山林
尾上・湯ノ谷・奥手・虫本・土山・大江山・小峠・粟谷・百合・谷垣

関連情報






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京都府福知山市
京都府綾部市
京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市









【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『加悦町誌』
『加悦町誌資料編』
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん


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