丹後の地名

波路(はじ)
宮津市


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京都府宮津市波路

京都府与謝郡宮津町波路

京都府与謝郡城東村波路

波路の概要




《波路の概要》
宮津市街地の東部山麓および、神子(かみこ)川流域に位置し、海岸沿いを国道178号とKTR宮津線が並行して走る、海岸沿いで、天橋立も見えはじめる舞鶴側から行くなら、栗田トンネルを抜けたところ、宮津の入り口になる。
西部は江戸期には家中屋敷地であった。

波路村は、江戸期〜明治22年の村名。慶長検地郷村帳に「下宮津之内」として「波路村」とみえる、その後個別に高付され延宝3年郷村帳に「下宮津波路村」高206石余と記される。はじめ宮津藩領、寛文6年幕府領、同9年宮津藩領、延宝8年幕府領、天和元年以降宮津藩領。明治22年城東村の大字。
波路は、明治22年〜現在の大字名。はじめ城東村、大正13年宮津町、昭和29年からは宮津市の大字。
城下武家屋敷地の波路はややこしいのだが、江戸期〜明治22年の地名で、外濠駒の爪橋から東、神子川までと、その東の波路町を越えて波路口足軽屋敷の分を合わせていうという。これは東西に分かれて二つがあり、村の波路と武家屋敷地の波路と都合三つあった具合であろうか。
享保2年「青山大膳亮様御入国御家中屋敷割の事」に「波路筋屋舗」「波路御組長屋」と見えて、前者は神子川西の波路、後者は波路町東の波路と考えられるという。明治22年宮津町の大字。その後大正13年宮津町と城東村とが合併し、旧城東村の大字波路とあわせて宮津町の大字となり、昭和29年からは宮津市の大字。

ハジというから土師かとも考えるが、それらしい記録はまるでない。やはりクシフル系の地名かも知れない。土地の歴史はずいぶんと古いように思われる。府中中野の大乗寺は中興開山を寛印供奉とするが、「宮津府志」は寛印供奉が丹後国に下る途中、丹波国桂川の辺りで婦人に会い、破戒して婦人は波路まで来て女子を産んだ。その後寛印は悟って婦人と離別したため婦人は与謝の海に身を投げた。遺児は成長して巫女となり、日本梓巫女の初めとされ代々当地で巫女を業としたが、近世には絶えて但馬国に子孫が残る。波路付近には「神子屋敷」などの伝承地があると記す。(下の引用参照)


《波路の人口・世帯数》267・101

《主な社寺など》

鍵守大明神
鍵守神社とその岩倉石(宮津市波路)
臨済宗妙心寺派妙徳山戒岩寺、本尊は鎌倉期の文珠菩薩。古くは文珠奥の院と呼ばれたこともある。
永禄12年(1569)閏5月都を立った連歌師里村紹巴は、その「天橋立紀行」の6月23日に栗田から宮津に向かう途中、同寺を通った旨を記す。という。
戒岩寺(宮津市波路)


浄土宗道本山清運寺
道本山清運寺
 清運寺 城東村字波路小字寺ノ下にあり、本尊阿弥陀如来開山宮津新町見性寺二世貞誉南岸上人延寳二年二月の創立といふ、丹後寺帳及び宮津領寺社名前帳みな宮津波路町清運寺とあり、因と城下なりしもの今城東村地内に属せり焚鐘にも宮津町とあり。
  鐘銘曰
   維之享保四亥年卯月八日
   丹後與謝郡宮津波路町
   道本山清連寺十世
      中興 印誉代
      治工 興三左衛門
                                               境内寳徳有銘の板碑形地蔵像あり幅一尺二寸高三尺五寸火風空三輪屋根形となり中央地蔵像半肉浮彫に仕立て下に「十一月十九日十一人」「寳徳元年」寳徳は後花園天皇の紀年にして文安六年七月二十八日改元二十九日以後寳徳元年にて今茲大正十三年を遡る四百七十五年なり。大正十三年七月二日橋立新聞第八百五十六號清連寺の板地蔵と題し、
 波路の清運寺は寺傳に依れば延寳二年二月宮津新町見性寺二世松蓮社貞誉南岸上人の開基と云ひ、寳暦九年前宮津城主青山侯から新城主本荘侯へ引継いだ丹後国拝領地寺社名前取調帳に浄土宗京都智恩院末寺城下波路町清運寺とあり、現在同寺の梵鐘にも享保四亥年卯月八日丹後與謝郷宮津波路町道本山清運寺十世印誉代云々の鐘銘かある、当時は無論御城下の町であったらしいが今は城東村に属して居る、当寺の境内に四百七十五年前の古地蔵が半ば土に埋もれ落葉に隠れて寂然として一基在りし昔を物語って居るも哀れである。幅一尺二寸高約三尺五六寸、火風空の三輪全く屋根形となり水輪該當の部に地蔵像を彫み下方地輪該当の部に宝徳元年十月十七日十一人の刻銘がある、寳徳は後花園天皇の紀年で文安六年七月二十八日改元二十九日以後が宝徳元年である、丁度足利の室町幕府時代の中頃で先づ此の地方では珍なものである、府中村の妙立寺に寳徳二年二月記録の名號碑が一基あるより外には未だ見受けぬ、兎も角貴重なる遺物であるから何とか保存の方法が講じたいものである。
(『丹後宮津志』)

【道本山清運寺】(浄土宗波路町)。
(『丹哥府志』)

道本山清運寺
城東村字波路にあり。本尊同、延寳二年二月貞誉南岸開基。
(『与謝郡誌』)

臨済宗東涌山宝泉寺
東涌山寳泉寺 寳泉寺は城東村字宮ノ下にあり、本尊釈迦如来、創立年代詳かならず慶長年中舜公和尚中興すといふ、境
内地蔵堂あり天保六未年八月小谷仙庵外四名信徒の建立なりと、境内紅梅あり中春花を賞するもの多し、工作物三界萬霊塔一基あり、二尺角高八尺三段積台上に立てり。
 銘 三界萬霊等 天保六乙未年八月 伊豫州宇和島前大隆?伸建焉
(『丹後宮津志』)

【東湧山宝泉寺】(臨済宗)
(『丹哥府志』)

東涌山寳泉寺
 城東村字波路の宮下にあり、本尊釈迦如来、慶長年中天暦舜会和尚住す。
(『与謝郡誌』)


《交通》


《産業》


波路の主な歴史記録

《丹哥府志》
◎波路村(波路町の東)
【鍵守大明神】(祭九月十日)
鍵守大明神の下四間四方の石櫃あり、種々俗説あり今之を略す。
【妙徳山戒岩寺】(臨済宗)
【文珠堂】(戒岩寺境内)
【東湧山宝泉寺】(臨済宗)
 【付録】(岡部荒神、下岡荒神)


【鉾立山大乗寺】(浄土宗)
寺記云。鉾立山阿弥陀院大乗寺は清和帝貞観五年利生上人の草創なり、其後一百余年を経て寛弘年中寛印供奉伽藍を重修す、よって利生上人を開山と称し寛印供奉を中興開山と称す。元享釈書に寛印供奉の伝あり、其伝に寛印供奉の丹後に来るを載る。又舜昌法印述懐抄云。寛仁年中寛印供奉執行恵心僧都来迎会儀式或於国府天橋立云。宮津府志云。土人の説に寛印供奉丹後に来るはじめ山城の国桂の里に於て婦人の丹後に帰るに逢ふ、寛印供奉其艶色に迷ひ遂に戒を破り其婦人を携へ與佐郡波路村に来り住す、寛印供奉後に其非を悔ひ偽て病と称し穀を絶す十余日、一日婦人に告て曰、予の病殆ど危し今服せんと欲するものは唯枳□(木篇に貝)ケンバナシのみ、其枳□といふもの黒崎山といふ處にありときく、よく吾為にとり来れといふ。婦人喜んで黒崎山に赴く、寛印供奉其不在に乗じて懺悔を語り村の人に寛印供奉既に死したりと偽はらしめ、□(魚篇に祭)魚を焼き火葬の躰をなす。寛印供奉は是より遁れて竹野郡等楽寺といふ寺に隠れ居る、後に大乗寺に来て伽藍を再建す。かの婦人は黒崎より帰りて寛印供奉の既に死したるを怨み遂に與佐の海に溺れて死す。一説に其婦人は與佐の海の悪龍なり其龍婦人に化して寛印供奉の障碍をなせりといふ。始め波路村にありし頃女子を生む、其女子成長の後巫女となる、是梓巫女の祖なりといふ、子孫続て巫女なりしが近世に至て其家亡ぶ、却而但馬国に余裔残れりとす、今波路村の辺に神子屋敷、神子川などいふ處あり、蓋其名の残るなりといふ。元より此説妄誕なりといへども国俗の伝ふ處には據なきにもあらず。よって記す。

《宮津府志》
鉾立山 大乗寺   在同郡府中中村
 浄土宗 宮津大頂寺末
 本尊 阿弥陀 開山利生上人
 寺記ニ曰。清和天皇貞観年中 一云五年 開基云々。寛弘年中寛印供奉執二行ス葵恵心僧都来迎会儀式於国府天橋立二云々。載タリ二舜昌法印ノ述懐抄一云々。 天橋記引レ之縁起曰。山号を鉾立と云ふに二義あり、往古国府に毎月六斎日市町立、其時文殊堂の南龍穴池水より龍神出現し、右手に鉾を持来て市町に立ち、害を為せる悪魔疫鬼を払ひふせぎ豊年の祭を爲し玉ふ所故此號あり。又一説に籠の明神龍に乗り空中に安座し、終に天蓋を捧げて異香芬々として此地に降り止る所を天蓋峯と云ふ、此寺の奥の院大谷寺是也、于今毎年四月午日一ノ宮の祭に白傘蓋を捧げ鉾剱を振りて共年の悪魔疫神を払ふと云々。
 右縁起は天和年中備唯称なる者識す所也。
 一書云。當寺中興開山は寛印供奉也、中古当寺大破に及び叡山の命に依て寛印当寺に来ると云云。又後の山を阿弥陀峯と云え事寛印より始る 出二古跡之部一 又国俗の説に寛印供奉当国に下る時丹波国桂河の辺にて一婦人に逢ひ、其艶色に迷ひ途に破戒して此婦人を伴ひ当国與謝郡波路村に来住す、此婦人女子を生む。後に寛印悟り侮て偽て疾ありと称し床に臥す事数日、婦人に語て曰吾命危き事旦暮にあり医薬治すべからず、唯枳木+貝(けんぼなし)疾を治せん、傳へ聞く黒崎山に枳木+貝多しと、婦人吾爲めに取来らんやと問ふ。婦人喜び諾して出づ寛印其出行しをうかゞひ里民等をかたらひ其身死せしと偽り魚+祭(このしろ)魚を焼て火葬の躰を爲す。寛印は夫れより当国竹野郡等楽寺に隠れ居す、後遂に当寺再興す。後婦人は山より帰り来りて大いに悲泣して與謝の海中に身を投げ失しとなり。或ひは云ふ與謝海底の悪龍名区の再興を妨げんとて、婦人と化して障碍を爲せしとぞ。又波路村にて出生したる女子は生長の後巫女と為る、此れ日本梓巫女の始めなりと、其子孫代々波路村にありて巫女を産業(すきわい)とせしが、近世に至りて當所には断絶して但馬国に末孫残れりとぞ、波路村の近に神子屋敷神子川抔云名今に残れり。
 以上の説怪妄なりと雖も、国俗の説に云ふ所也。寛印供奉が傳元亨釈書に見へたり、寛印が当国に来る
事は有て大乗寺再興の事は載せず、寺記を按ずるに寛印当国に来る時は寛弘八年辛亥なりとぞ。
当寺其後星霜を経て又大破に及ぶ、天和二戊年当国久美邑本願寺唯称と云沙門、衆人を勧めて再興し常念佛を興行す今に至て絶へず。)、164、
『丹後与謝海名勝略記』(貝原益軒)→《【大乗寺】常念仏寺也鉾立山といふ。寺記に清和天皇貞観年中利生開基云々寛弘年中寛弘供奉恵心僧都来迎講会儀式執(横付の二)行於国府天橋立(横付の一)云々舜昌法印述懐抄に載たりと云々鉾立は篭宮の神事に笠鉾を此寺より出す故なるへし。

《与謝郡誌》
惣、波路、文殊の関係
 宮津に伴ひて消長ありしは宮村、惣、波路、文殊等接続の村落にて、宮村はもと猪ノ岡の地下なりしものゝ例の細川侯以来八幡宮を弓矢の神として尊崇ありしより著名となりしものゝ由なり。其の端郷に辻の谷あり宮津日記に村田記を引きて天正八年庚辰八月細川義孝忠興等宮津に入部ありしときのことを記し
「山城築ク其處ハ八幡山トイフモトヲ辻ノ谷トイフ元来八幡山ニ小塁有此ヲ攻ル時城中飢ニ?へクト察シ辻番ヲ徴之所故ニ辻ノ谷ト名付」と為す。慶長検地百五十石六斗五升四合寛文延高八十二石九斗○六台都合二百三十三石五斗六升なり。
 又惣村は文殊門前山内村を含み波路は侍屋敷と錯雑せり。抑も文殊堂は往古波路の戒岩寺より兼管せしことありと云ふことなれば其の寺領も波路村より支配せしことあるは珍とすべきにあらずと雖も後世惣村の枝郷となせるは聯か異とすべし。天正九年八月十一日附米田宗堅在判水帳には「九世戸文殊領三十七石四斗三升波路分十三石須津村の内合五十石渡守給貳反宮津之内以上」と奥書ありまた慶長七年八月六日附細川公在封水帳には田方合二町九反五畝四歩但此分文珠近所に在之、畠方合一町一段六畝十一歩但し文殊近所に在之分、宮津下波路村の内に在之分田数合一町二反六畝中畠一畝十歩田畠合米惣都合四十一石七斗一升八合七勺八才」また同帳須津村の分には文殊領田合一町一反二畝十二歩文殊分云々」の条見え波路村二百六石六斗○六合須津村八百十六石七斗四升の外に文珠領五六十石ありしものゝ如く、延宝延高以来波路村三百四十二石七升六合須津村千二十九石二斗○八合、然るに文珠門前村は天和年間阿部侯初入以来文珠領五十石を復た須津村にて十三石惣村にて三十七石村高を減じて之れに引充て、波路は無関係となりし代りに惣村は文珠を支配するに至れり。尤も當時は住民も僅少なりし爲の村役人を置くの要なかりしならんも其後幾多の不便に際会して三役人を設けんとせしも組頭以下に限られて庄屋を置くを許されず自然惣村の枝郷と見倣され、明和九年両村異議あり天保十五年辰九月文珠より分離を出願せしも之れ又聴かれず遂に皇政維新に至る。


妙徳山戒岩寺
 城東村字波路にあり本尊文殊菩薩、本寺創立の年代詳らかならざるも頗る古刹たる事は蓋し疑ひなきものゝ如し。抑も当寺は最初所謂文殊出現の地として九世の渡文殊の奥の院たる事は顕著なるも當初何宗なりしか詳かならず。寛文年中宗悟禅師住持中興す比の時より妙心寺派に属す、惟ふに往古当山より九世の渡文殊智恩寺に移時荘田薪于を添へ其の維持に充つると云ふ俗に是を文殊田と称す其田現に本寺の堂前にあって今尚ほ文殊の所有なるを以て考ふれば如上の事確実なるものゝ如し。本寺の傍に文殊石と云ふものあり龍神の献ぜし真珠化して石となれりとの口碑あり。

鍵守神社(宮津市波路)
鍵守神社
 城東村字波路.村社、祭紳、天手力雄命、由緒不詳、氏子八十戸、境内末社竈神社、開耶姫紳肚、祭典四月十五日。
 外に無格杜稲荷神社あり城主本荘公遠州濱松城にありしを移封の際茲に遷すと云ひ博ふ。

《丹後宮津志》
邨岡良弼の日本地理志料理に宮津郷の区域を次の如く云へり。…宮津志云与佐宮阯在文珠村、郷名取此、…丹後旧事記如願寺在宮津市場一条帝時剏之本洲七大寺之一也、…今宮津町領二三十四坊一亘宮村、惣村、文珠、皆原、山中、脇村、中村、小寺、上司、波路、獅子崎、中津、矢原、田井、今福、小田村富久地、旧阯在普甲山云、久理陀ノ神社在上司、多由ノ神社在田井村ノ田井谷、杉末ノ神社在宮津杉末町、伊侶波字類抄、普甲寺延喜中建、在丹後ノ普甲山、普甲山一名与謝ノ大山又呼千丈ケ嶽以界二丹一。

城東村=惣・皆原・波路・山中・滝馬・宮村・獅子崎・鍛冶町・猟師町。世帯数284、人口1020。


戒岩山
 城東村波路小字附地にあり、本尊文珠菩薩を祭る。寺伝によれば神代開闢の古跡本尊文珠菩薩の尊像は梵天帝釈化人となり作り給ふ所の瑞像にして九世戸文珠の古道場なるも寛文頃まで住僧不詳寛文五年覚翁宗悟和尚住寺中興すと

鍵守神社
 祭神手力雄命蓋し社側巨石怪石起伏して自然の巌窟を為せるより俚人天の岩戸を連想し窟前に手力雄命を祀りしなるべし。氏子八十戸例祭同日(四月十五日)


《丹後の宮津》(橋立観光協会・昭33)
戒岩寺の文殊菩薩
 この売間九兵衛翁の生れた波路村には、古来俗に文殊の奥の院といわれた妙徳山戒岩寺がある。この寺、現在はあまりこれという目だつものもないが、心ある人はここの秘仏本尊文殊菩薩を一見するとよい。道はさきの栗田峠を宮津の方へおりると鉄道のふみきりをこえて、さらに宮津の方へ二三百メートル、左の山手に人家のあるところが波路村である。 この文殊菩薩は藤原期の作といわれ、多少いたんではいるが立派で、さいきん重要文化財に指定されるよう手続きをするとのこと。智恵の文殊の奥の院といえば、その有難い智恵のほども、いっそうに有難いことであろう。ただしこの寺、一般人がおまいりするには外見あまりに魅力を欠き、足をはこぶにはだるいところである。

案内板戒岩寺案内板
戒岩寺  宮津市字波路

 妙徳山と号す、臨済宗。天橋立周辺は古くから文殊信仰の地である。対岸に九世戸の文殊智恩寺があり、戒岩寺はその奥の院とよばれた。本尊は文珠菩薩で、智恩寺本尊と同じく獅子上の蓮華座に坐しているが脇侍ない。近世荒廃していたのを寛文五年(一六六五)覚翁宗悟和尚の中興という。
 本尊文殊菩薩坐像は木造一木塗で像高八九センチメートル、前後に割りはぎ、手に如意を持っている。胎内に永徳三年(一三八三)時衆の臨阿弥陀仏の記した墨書銘があって興味深い再建の事情を知ることができる。すなわち、戒岩寺は天照大神の創建、本尊は行基菩薩の作。文永二年(一二六五)仏壇から出火、その時本尊も堂も焼失を免かれる不思議があった。永らく無住の寺で荒廃していたのを領主たちに寄進を訴えながら再建の思案が決らずいたところ、応安六年(一三七三)三月廿六日夜、天照大神の霊告があって再興に着手、永徳三年に免成したという。この時の臨阿弥陀仏は、橋立西岸の妙立寺の厨子銘によって、文和四年(一三五五)時宗の浦明の道場(久美浜)から橋立道場万福寺に来て、ここでも炎上した道場の再輿に尽したことが知られている。戒岩寺再輿の翌年遷化した。その後の戒岩寺の歴史は中興の開山を迎えるまで明らかでないが、文殊信仰の聖地としての命脈は絶えることはなかったと思われる。
  宮津市教育委員会
  宮津市文化財保護審議会




波路の小字


波路
寺ノ下 向畑 クボ谷 森 家ノ下 宮ノ前 波路浜 附地 松下 縄手 和田鼻 ヲンバ ヲンバ浜 高浜 一本松 シキ浜茶水 前田 深田 上町 塩谷 町裏 薮ゾヘ 杉ケ坪 五反田 杉ケ坪河原 小山河原 小山 尼ケ谷 和田 橋詰 田町 町裏川淵 中深田 南塩谷 新地 塩入 ドベ 深田組裏下町 深田組裏 カゲスエ モリ 半田鼻 段ノ坂 西岡 コツトリ谷 寺ノ前 ヒシヲリ 家ノ下中ノ切 家ノ前 和田知 糀屋 和田浜 ヲンハ奥 高畑 森ケ谷 ヤケツラ 高畑小谷 クラ谷 タテクリ タテクリ奥 小ハンダ ハンダ浜 小ハンダ浜 小ハンダ南側 ハンダ 南谷 半田 峠 半田岡 峠岡 峠ノクゴ 峠小谷 峠川向 赤松 百町 赤道 六万部 峠ノ浜 半田浜 苗代谷 壱ケ坪 シキ浜 茶水 地別当 地別当奥 シキ 天上ケ鼻 一町坪 宮越 ハリガキ ハフノカキ上 苗代 薬師 ヒシリ 宮ノ腰 宮ノ下 古堤 八反田 波路 坪屋 南谷口 カツシウブ スクモ塚 坪屋鼻組裏 ヲガ口 大グロ ハシハ ヤケツラ小谷 石ゴメ 大セ田 八割鼻 滝ケ谷 峠奥 駒ケ谷 ヲルスダ 赤道 山崎浜 苗代谷浜 山崎 黒松 シキ浜西側 茶ノ木 一町坪上浜 苗代山根 一丁田 長浜 獅子崎 獅子庵ノ下 平尾 左惣尾 コクゾウヲ 北ケ谷 入道 大畑 カツシウラ 坪屋鼻 坪屋段ノ坂 トンビガ鼻 段ノ下 清水場 ロクロ口 河東 西岡河原 西岡河原西 シラメ谷 シラミ谷奥 ウスガ谷西 火ノ口 コウトイ谷 城ツカ 八郎ケ谷 半田奥 大畑 峠小谷 半田鼻上 前滝ケ谷ロ マガリ 入道 ヒナダ キシカ尾 戈鳥ケ鼻

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【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『宮津市史』各巻
『丹後資料叢書』各巻
その他たくさん




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