丹後の地名

細井和喜蔵
(ほそいわきぞう)


お探しの情報はほかのページにもあるかも知れません。ここから検索してください。サイト内超強力サーチエンジンをお試し下さい。


京都府与謝郡与謝野町加悦奥





 丹後が誇るキラキラ星、与謝野町出身の作家。
  (同町の観光パンフより↓)



 私としては、↑このように紹介したいと考えていたのだが、そうしたものは何もない。与謝野町で生まれたことは間違いがなく、全国、世界的にも知らぬ者とてない不朽の名著『女工哀史』の作者である、これほどの人がこの町にはほかに多くいるのか、生地の同町などはさもや誇らしげに紹介されているものとばかり思っていたのだが、立派なものをたくさん作っておられるよい町であるし、碑は当時の知事や町長はじめ、町議も全員1ヶ月分の歳費を醵金、そうした町内外の多くの人々の協力あってできたもの、毎年行われるという和喜蔵祭は京都の三大労働祭といわれる。そうしたことまでをまったく無視して何の紹介もないとは、いかに簡単な「ミーハー向け」パンフ類とはいえ情けないではないか、何とも残念なことで腑に落ちないことである。絶対にありえないと思われる人が生まれた地とか死んだ地とかまでして宣伝する時代にこれはまたどうしたことであろう。
モダンの町並みと大宣伝中のようだが、しかしそれは光の側だけである、そのメタルの裏側、大きなカゲ側が必ずある、金持ちと貧乏人は公平平等ではありえない、階級社会である以上はそうなる、ごくごく一部の金持ちのだけのうわべを見ているだけでは、その社会の日の当たらない多数者の本当の姿は理解できないし、本当の郷土を歴史を知ることにはならない。
レベル低いことに夢中になったり、流行に左右されり、そうした知恵くらいしかない若い人たちでもあるまいし、それくらいはよく知っていようが。知っていても知ってるというだけでは何もなるまい。どこぞの町の赤煉瓦大宣伝のごとく、それを生んだ豚小屋同然の貧農農家を見ない。自分の趣味で自費でやっているのではなかろう、バカほどの税金を投入するならそれらしくまじめ公平に取り組んでもらいたいものである。
予言者故郷に容れられず、か。この世の人ならぬ美や真実に目覚め、世をまどわす言葉を吐く者は、深く問いただすこともない「良識」社会からは村八分にされる、という。彼は故郷に容れられず墓も長くなかった、そうしたことは大昔からのことで覚悟のうえであったろうか。
故郷の支援なしの金メダリスト、そんな故郷を誇りと思っただろうか。メダリストが誇らないような故郷を誰か観光に訪れるだろうか。
まあ別に文句を言おうというのでもないが、今ですらそう無理解であるとすれば、当時彼がどんな苦労の中で書き上げてきたかが、いくらかしのばれる話である。




明治30(1897)年.5.9に与謝野町加悦奥駒田、写真の鬼子母神社のすぐ近くで生まれている。「ちりめん街道」からなら、旧役場前の交差点を加悦小学校の方へ行って広い直線道路を500メートルばかりの突き当たりである、石段を登ると「鬼子母神社」がある。このあたりで幼少年時代を過ごした。↓
和喜蔵碑

和喜蔵碑
↑鬼子母神社。右に細井和喜蔵碑
和喜蔵碑
↑正面 ↓裏面 
和喜蔵碑

岩波文庫版『女工哀史』『女工哀史』の自序に、
婿養子に来ていた父が私の生れぬ先に帰ってしまい、母は七歳のおり水死を遂げ、たった一人の祖母がまた十三歳のとき亡くなったので私は尋常五年限り小学校を止さなければならなかった。
そして十三の春、機家の小僧になって自活生活に入ったのを振り出しに、大正十二年まで約十五年間、紡績工場の下級な職工をしていた自分を中心として、虐げられ蔑しまれながらも日々「愛の衣」を織りなして人類をあたたかく育くんでいる日本三百万の女工の生活記録である。地味な書き物だが、およそ衣服を纏っているものなれば何びともこれを一読する義務がある。そして自からの体を破壊に陥し入れる犠牲を甘受しつつ、社会の礎となって黙々と愛の生産にいそしんでいる「人類の母」− 彼女たち女工に感謝しなければならない。
その『女工哀史』は、大正14(1925)年7月初版が上梓され、たちまち版を重ねたという。しかしその8月18日に和喜蔵は、自らの書と入れ替わるかのように亡くなってしまった、わずか一月のちであった、『女工哀史』を書くためだけに生まれてきたような人であった。20年も以前でも岩波文庫版では2万部売れているとか、そういえば私も2冊あるはず、一冊は40年も前に買って読んだ、ガクシャセンセの書などはウソばかり、歴史とはウソだと知った。それはどこにいったか見当たらないのでもう一冊を買った。2005年版で58刷。
生前に出た物は「女工哀史」だけ、死後に小説「奴隷」「工場」「無限の鐘」が出版された。私は読んだことがないが、奴隷、工場は女工哀史の小説版、無限の鐘は、加悦の伝説に取材しているという。和喜蔵は郷土に非常な愛着をもっていたが、帰らずに死んでいる。作品には郷土色が豊かに盛り込まれれ、全作品は郷土の影が背後ににじみ出ているといわれる。

 「妻たちの女工哀史」(八木康敞)『郷土と美術』88号によれば、
細井和喜蔵は、明治三十年五月八日、京都府与謝郡加悦町字加悦奥七九番地に細井市蔵(通称 幸はん)母りきの長男として生れた。市蔵二十八才、母りき十九才の時である。
 細井和喜蔵にとって不幸なことは、父市蔵と和喜蔵の祖母うたとの折り合いがうまくいかず、父市蔵は和喜蔵の生まれる前に細井の家を出ていった。
 父市蔵は京都府天田郡上夜久野村板生小字現世の松原勘六の三男として生まれ、丹波から加悦に働きに出てきて、機織工、細井りきと結ばれた。戸籍の上では、明治三十年五月九日入籍、同年同月同日、和喜蔵出生となっている。市蔵は、離縁後、但馬阪津の先夫の 子のある人に入夫している。…
細井和喜蔵の容ぼうは父親そっくりで、おでこのところだけが、母親似だったと村の古老はつたえている。

 母なきあとは祖母の手で育てられたが、その祖母もなくなり、尋常5年生で退校を余儀なくされた。隣の機屋・通称駒忠の小僧となったのを皮切りに、そのころできた三丹電気会社の油さし工になるなどして、いくつかの仕事場を転々としたようだというわれる。不遇な貧しい辛酸をなめた少年時代であった。




 19歳のころ、意を決して大阪に出たようで、約4年間、鐘紡その他の紡績工場で織機の機械工として働いたという。自序はつづけて、
初めの程は唯だ漫然と職工生活を通って来たに過ぎない。言葉をかえて言えば社会制度や工場組織や人生に対して何の批評限ももたぬ、ほとんど思想のない、一個の平凡な奴隷として多勢の仲間と一緒に働いていたのであった。鉄工部のボール盤で左の小指を一本めちゃくちゃにしてしまったとき、三文の手当金も貰わぬのみかあべこべにぼんやりしているからだとて叱り飛ばされたことを、当然と肯定して何の恨みにも思わなかった。
 その圧制な工場制度に対して少しの疑問をも懐かずに、眼をつぶって通って来た狭隘な見聞と、浅薄な体験によって綴ったものがすなわちこの記録である。私は大工場生活にはいった初めから、これを書くために根ほり端ほり材料を蒐めて紡績工場を研究したのでは決してない。しかるに、、それですらなおこの通りな始末だから、事実はもっともっと深刻を極めたものと思惟されるのである。
小指を飛ばしてしまった和喜蔵に愛想をつかして彼女は去り、和喜蔵は絶望して海へ飛び込もうと自殺未遂事件を起こしている。
 ちょうどロシア革命の頃である、父親が言うように「頭のいい子」まじめな子だったようで、工場の現状の疑問に気づきはじめる。資本自らが現場教育をしてくれて、彼が好むと好まざるに拘わらず、その墓堀り人へと一歩をしるしはじめる。
 金持ちや社長というものは大変な努力家が苦労に苦労を重ねて蓄えたのだろう、などと考えてはならない、それくらいのことではあの兆円単位の大資本は間違っても蓄積できない。ウソと思うなら自分でやってみればわかるだろう。そんな美しい品位高い連中から生まれたものではない。マルクスの有名な 「資本は、頭から爪先まで、あらゆる毛穴から、血と汚物とを垂れ流しながら、この世に生まれてくる」の言葉がある。超ド汚いヤツである。資本の原始的(本源的)蓄積過程を広く分析して彼はこう言った。生まれ落ちた時だけの期間限定ではなく、生涯の変わらぬ性格である、そのようにのたうち生きて成長し、やがてはそのように血と汚物と放射能をたっぷりと垂れ流しながら死滅していく。月が昇り沈むような話で、止めようもないものだが、人類史上のある時期に発生してそれが全世界を支配していくことになる。
 『女工哀史』は何も過去の物語ではない、もう終わった話ではない、資本主義社会ある限りは、特に日本資本主義の特徴として形こそ若干違え本質的には変わらずよく見られる野蛮性、半封建制、反近代的な性格である、何も自身やその太鼓持ちどもがのたまう「世界に誇る世界先頭の最先端技術」を特徴としているのではない、そのまったく逆の血が流れている、目先の儲けこそが最優先のために、キタナイ手などはヘーキ、安全などはよくよくよく無視され、よほどのド真剣な抵抗がない限りは安全投資などはしない。最近では原発など見られればよく納得されるのではなかろうか。

資本は儲けのために自己膨張し続ける運動体、そうとはいえ、人として許されない犯罪行為を隠れて行っていいというものではない。資本があつかう物質はいよいよ巨大になり危険性も強めている、もし何か起これば、当該資本だけでなく、全世界に深刻な被害が及ぶまでになっている。内部から周辺からのより厳しい監視と規制がどうしても大切になっている。保安院だけがダメなのではない、日本の政治や官僚、メディアなど一国全体が「アホの保安院」体質を強く持っているわけだが、日本企業自体には自己規制して安全を守り、利益を独り占めせずに周辺と分け合いながらやっていくだけの資質も能力も覚悟も戦略もない。口先はべつとして−
『女工哀史』はそうしたことで、日本に資本主義が続く限りはずっとずっと読み継がれねばならない古典的名書の位置を占めることになる。いつまでも読まれて不思議だなどという人もあるが、そうした事情によろう。
「…ある時、その大きな歯車に糸屑が、まきついているのであわててとろうとした時に、右手が大きな歯車に食いこまれ、あわてて命がけの力で引きはなしましたが、右手首が二銭銅貨ぐらい、皮も肉ももぎとられ、骨が見えていました。」監督がやって来て「このばか者、糸がみんな切れてしまったぞ。手が痛い、あたり前だ。おまえがぼんやりしているからだ。会社にえらい損をさせて申しわけない」と骨が見えるほどのけがをしても、手当もしてくれなければ、医者にもつれていかず石灰酸をかけて、ばんそうこうだけはっておく等人権無視の大正始めの「女工哀史」さながらの実態を彼女は克明にえがいている。(「妻たちの女工哀史」(八木康敞)『郷土と美術』88号)
彼女というのは和喜蔵の妻である。今の東電とかいう企業もその体質は同じと気づかされる、安全対策は事前に十分にしてありました、事故は想定外でした、まさかあんな危険な所へ手をやろうなどとは、こんな危険な発電所にまさか大地震大津波が来ようなどとは−。危険なところにぼんやり住んでいる住民が悪い、ボヤとした馬鹿者のために大損害だ、何も手当てなどはしない税金でやってくれ、心配なら絆創膏でも税金で貼っておけ、今後も安全なしで再稼働させ電気代あげてまだまだまだまだ大儲けしてやそぞ、と。まだ哀史時代の企業の方が可愛いくなるくらいである。
 資本が生まれる原蓄過程から資本の最終段階と呼ばれる帝国主義段階まで、日本はわずかな間であった。イギリスでは200年ほどもかかっているが日本は人の一生くらいで到達した、超「高度成長」てある、「成長」などと呼べばカッコいいすばらしい奇跡のように見えるが、それは超強欲資本がそうであったということであって、その富を生み出した労働者や農民など、あるいは植民地などもそうであったわけではまったくなく、今では考えられないような辛酸をなめさせられ、命まで収奪されていった。
当然強固な抵抗が生まれる、日本でも労働運動など現代の日本につながる大衆の諸運動がいっせいに高揚期を迎えつつあった。資本の発展よって皮肉にもその墓堀り人が大量に生み出されてきた。

 彼は大正8(1919)年3月19日、友愛会大阪伝法支部発会式をかねた労働問題演説会に参加して、友愛会に入会したと推察されている。友愛会は名からも元々は労働組合ではないが、やがてはそうした性格を強めていった。今の労組は資本と暗に結託し、資本の労務管理組織に成り下り、あんなもんはない方がいい、高い組合費取られんでよいわ、などとたいていで言われているが、この当時草創期の労組は命がけであった、資本は即クビにできたし、ゴロツキを雇い監視し、警察なども目を光らせている。捕まれば闇に殺される危険があった。それでも彼は労働組合運動にもかかわるようになったが、たびたび失敗し、会社側のブラックリストに載せられ、関西では就職できにくくなる。
また同時に、文学に目覚め、文筆によって労働者の置かれた過酷な実態を描き、「次の時代に来る、輝かしい愛の人間社会を作るための礎となろう」と決意したという。




 自序は、
関西で実行運動にたびたび失敗した私は黒表がついて容易にその地で就職が出来ぬまま、関東方面の事情を見聞しながらこの記録でもまとめて、暫く実行的な運動から遠ざかって時機の到来を待とうと思い立った。そして大正九年の二月に上京して一先ず亀戸の工場へはいり、猫を冠って当分のあいだは何ごともなくいたのであったが労働のかたわら筆を執るということは、時間がないのでなかなかむずかしくて出来なかった。ところがたまたまその工場に争議が起って止むを得ず手を出したあげく、美事に労働者側の勝利を贏ち得たにもかかわらず後になって幹部の党派争いからして無理解な仲間たちに散々排斥されたり、また永年の工場生活から来た痼疾のために到頭そこをも罷めてしまった。

大正9(1920)年2月、23歳の和喜蔵は上京する。同じ加悦町出身の永井米蔵氏をたよったという。東京モスリンと東京キャラコを合併して、東京モスリン亀戸工場を創設した工場長の永井米蔵氏である。
翌年(1921)5月には、この時すでに東モスの紡績女工であった岐阜県揖斐郡出身の後に妻になる「堀としを」と出会う。9月開校の日本労働総同盟の「日本労働学校」第1回卒業生となる。夜は昼間の疲れで眠くなるので、ときおりキリで膝を刺しながら勉強した、と伝えられる。
 すでに妻もまた雄叫びすざましい女闘士に鍛え上げられていた。
堀としをは、ふるえながら寄宿舎内の大広間の演だんにのぼっていく。
「みなさん私たち女工も日本人です。田舎のお父さんやお母さんのつくった内地米をたべたいと思いませんか。たとえメザシ一匹でも、サケの一切でもたべたいと思いませんか。街の人たちは、私たち女工のことを「ブタ」だ「ブタ」だといゝますが、なぜでしょう。それは「ブタ」以下の物をたべ、夜業の上がりの日曜日は、半分居眠りしながら外出して、のろのろ歩いているので「ブタ」のようだというのです。私たち女工も日本人の若い娘です。人間らしい物をたべて、人間らしく、若い娘らしくなりたいと思いますので食事の改善を要求いたしましょう」 十八才の彼女の話は、全員の大拍手でむかえられた。(「妻たちの女工哀史」(八木康敞)『郷土と美術』88号)
労働苦、生活苦などとはまったく無縁な今の貴族かの如き大労組の大幹部ではこうした迫力はなかろう。労働者をではなく、資本を援護して、せいぜい大増税大賛成を叫ぶくらいであろうか。

 大正11(1922)年3月ごろ、亀戸工場で労働争議がまた起こる、それまで「ネコをかぶっていた」和喜蔵もこれに参加して労働側が勝利。しかしその後「幹部の党派争い」から「無理解な仲間たちに散々排斥」されたり、「長年の工場生活から来た痼疾」のために退社。このころ堀としをと結婚。
同じくこのころから文筆活動に専念し始め、『種蒔く人』に短編小説やエッセイをを発表する。また藤森成吉氏を訪ね、『女工哀史』の「何十枚もの目録」を示して出版について相談する。藤森氏は「1日も早く実行するように勧め」、和喜蔵も「石にかじりついても『女工哀史』をまとめようと決心」している。藤森氏はのちに和喜蔵碑の碑文を書いている人である。

 和喜蔵には結核性の痔があったそうだが、そんなことで寝込んでいた、そこへ「堀としを」が訪ねる。後に再婚されて高井姓になる。
「海芋」の花をもって、お見舞いにいった、彼女に「あなたが堀さんですか、めずらしい花ですね。これは洋風の花だ。あなたは女工らしくないハイカラさんだ」と細井は彼女に礼をいった。高井としをさんは、この時の印象が強烈で、ベーベルの婦人論をかりたお話をよくされる。
  この時、細井は「痔ろう」でねていた。「色気のない病気ですね」といったら「まったく結核、肺病のつづきらしい。僕は長生きできないだろうから、女工哀史の仕事だけはなんとしてもやりあげたい」と高井さんにいった。『わたしの女工哀史』の中で「そんな友情が一年つづき大正十一年二人は友情結婚したのです。なによりありがたく感じたのは、男女は世界中に半分半分生れている。そして男女は同権であるといって、それを実行してくれたことでした。三年間の同棲生活で一度もけんかしたことはなく、私が仕事に行っている間に洗濯をすまして、夕食の仕度もしてくれましたが、実に上手でした。きれい好きだったので、室内はいつもぴかぴかにしていました。私が深夜業を十二時間働いて、ふらふら疲れて帰ると冬はふとんをあたゝめ、夏は窓をあけて、うちわであおいでくれて、〈すまん、すまん〉とあやまっていたのでした。だから貧乏ではあったが平和な毎日でした」母を早くなくした細井和喜蔵は、たいへんな「フェミニスト」であった。
 道をあるいていて重たい荷物をもった女の人がいると、いつでもだまって荷物をもってやるようなことは、しばしばだったといわれている。(「妻たちの女工哀史」(八木康敞)『郷土と美術』88号)

『女工哀史』和喜蔵の著ではあるが、女工の世界でもあり男では入り込めない部分もあり、こうした豚小屋同然といわれた女工寄宿舎で生活してきた妻との合作である。彼女がいなければ、今のようには成ってはいない。




 自序に、
生活に追われ追われながら石に噛りついてもこれを纏めようと決心し、いよいよ大正十二年の七月に起稿して飢餓に怯えつつ妻の生活に寄生して前半を書いた。そこへ、あの大震災がやって来たのである。
 妻が工場を締め出されてしまって、たちまち生活の道は塞がれた。と、どんなに気張っても石に噛りついても書けないことが判った。そこで避難列車の屋根に乗り込んで兵庫県能勢の山中へ落ち延びて小やかな工場へはいり、一日に十二時間労働したかたわら後半を書き、再び翌十三年一月帰京してやっと全部まとめ上げたのは四月であった。それから同年の秋になって『改造』 に一部分が掲載されたやつと残りの原稿を合せて、今一度十三年の十一月に手入れしたのである。
「妻たちの女工哀史」(八木康敞)『郷土と美術』88号に、
関東大震災の初動は、はじめは、ゆるやかにおそってきた。やがてそれははげしくなり、いままで経験したことのない無気味な鳴動をくりかえした。九月二日、戒厳令がしかれた。
 当時十九才だった伊藤圀夫は演劇すきの早稲田の学生で千駄ヵ谷にすんでいた。
 九月二日の夜、神奈川方面で不逞鮮人集団と交戦中という、流言蜚語をきいて、登山杖をもって警備についた。
 「鮮人だ鮮人だ」という声に、はさみ打ちにしてやろうと思って走ってゆくと、いきなり、ガーンとやられて朝鮮人とまちがえられて、殺されそうになった話を「テアトロ」にかいている。「アイウエオ」をいわされ、「教育勅語」を暗誦し歴代の天皇の名をいって九死に一生を得た経験が、「セングガヤのコレアン」千田是也の芸名の由来である。
 細井和喜蔵夫妻も例外ではなかった。友人の山本忠平(陀田勘助)がやって来て「君たちこんなところでなにをしているのか、早く逃げないと殺されるぞ、南葛労働組合の執行部は全員殺された。僕も今から田舎へ行く、とにかく早く逃げろ、下宿に荷物をとりに帰ったら殺されるぞ」といっておわかれにやってきた。

戒厳令は逆効果で、ようやく収まりかけた人々の不安をかえってあおり、火に油をそそぐがごとく、敵前戦場の兵士のヒステリー状態にしてしまったという。デマは広まり、人々は「自警団」を組織した、朝鮮人狩りをし、間違えて日本人や中国人も殺した、その数は不明だが5000人にもなったようである。日本人の男も女もよってたかって無抵抗な朝鮮人を殺害していく、そのすさまじい狂気の殺害現場を見、彼自身も危うく誤殺されそうになった折口信夫は、もう日本人でいることが嫌だ、朝鮮人になりたいと書き残している。
南葛労働組合の執行部が全員殺されたというのも本当で、「亀戸事件」のことである。「9月3日、関東大震災直後の混乱の中で、東京府南葛飾郡亀戸町(現・東京都江東区亀戸)で、社会主義者の河合義虎、平沢計七ら10名が、以前から労働争議で敵対関係にあった亀戸警察署に捕らえられ、刺殺された事件。この事件の事実は発生から1ヶ月以上経過した10月10日になってようやく警察により認められた。犠牲者の遺族や友人、自由法曹団、南葛飾労働協会などが事件の真相を明らかにするため糾弾運動を行なったが、「戒厳令下の適正な軍の行動」であるとし、事件は不問に付された。」という。
和喜蔵の親友・山本忠平氏は後に和喜蔵の死をみとる。その7年後検挙され、やがて獄中自殺となっているが、たぶん殺されたのだろうと言われている。そうした暗黒の時代であった。次の関東大震災が迫っているといわれる、普段から中国朝鮮ボロクソ知事の元に、あわてて自衛隊などを出動されると、次もこうしたことが起きない、であろうか。
故郷に容れられないどころではなく、官憲に殺される、まだしも故郷はやさしいのかも−
 同書はつづけて、
細井と高井としをは、着のみ着のまゝで上野から直江津をへて名古屋にでた。細井は汽車の屋根へ上っての旅だったが止まる駅でのお百姓さんのおにぎりや、ジャガイモが忘れられないとよく話していたそうである。
 岐阜の姉の家へ一泊したあと、大阪にいき、知人の紹介で、猪名川製織所に就職した。
 和喜蔵は機械直し、高井としをは機織と一ヶ月働いて二人で三十円ほどの安い給料だった。
猪名川製織所での仕事は、「ヤール掛け」であった。
 十二時間の労働であった。彼は帰宅後『女工哀史』を書きつづけた。細井はこの猪名川製織所の工場生活を「猪名川」にかいている。高井としをにさゝえられながら「女工哀史」の後半は必死でかきつづけられた。

細井は『女工哀史』の原稿をもって大正十三年一月、上京し、藤森成吉のみちびきによって大正十三年の秋、雑誌『改造』に発表した。細井が、常に「これだけは石にかじりついても書きあげるのだ」といゝつづけた、『女工哀史』は大正十三年十一月についにかきあげた。ついに血と汗と涙の結晶が完成した。大正十四年七月十五日、改造社から刊行された。社会的に予期せぬ大きな反響をよびおこした。とぶようにうれ版をかさねた。





 そうした持病をかかえ、体重も12貫(45キロ)に足りなかった。
出版から一月ののちの8月18日、急性腹膜炎で世を去った。
突然苦しみ出して、へソから下へのふくれが、風船玉が破裂したときのような音響とともに腹部一面にひろがった。臨終の言葉は、
「残念だ、仕事が残っている!」

和喜蔵が博愛病院に収容されたとき、妻は23歳、妊娠9ヵ月だった。彼女は和喜蔵が入院する日まで、杉並で働き、和喜蔵の腹痛がひどいという連絡で駆けつけてきた。入院中の徹夜の看護、死後の過労が重なって、9月初めに予定よりひと月早く男の子が生まれた。名を「明」とつけたが発育不全で一週間で死んだ。としをは産後間もない身だったが、一人で「明」の骨あげに火葬場へ行った。

『女工哀史』を引かせてもらえば、
女工の子供は実によく死ぬる。すなわち千人中三百二十人はその年中に死亡してしまうのであって、一般死亡率の二倍という高率になっているのだ。独逸における富裕階級の乳児死亡率が出産百に対し僅々八であったなどに比較して、貧児のあわれを痛切に感じる。かくのごとく資本主義の無情は罪なき幼な児にまでふりかからねばならなかった。

 それからまた女工には流産や死産が甚だ多い。これは説明するまでもなく母性保護の行き届かざるによるのであって、最少限度を示した工場法の規定も、労働組合が活動して職工自身厳重な監督機関とならざる限りは到底実行を期し難い。
 流産および死産は農村において総妊娠中の二割、女教員が三割以上だと言われている。これより推定すれば女工は四割以上にも当たるだろう。

 紡績工の児童にはまた発育不良、醜児、低能児、白痴、畸形児、盲唖などがかなり多い。私の歩いた大小工場でその保育場を見廻わるに、いずれへ行っても強く賢こそうな美しい児供は一人としていず、胎毒で瘡蓋だらけな頭のでっかい醜児ばかりであった。そうして社宅から出る学齢児童中には屹度低能児が数人まじっており、そのほか通学さえも出来ぬ白痴や盲唖がいるのだった。現にいま本稿を書くため生活を支えている小工場中にでも、跛で白痴なる少年一人、唖の少女一人、生後一ヵ年にて体は生後二ヵ月にも足らぬ大きさしかなく、頭は大人より大きいところの福助一人、低能児が数人いるのである。
 普通統計によれば畸形児や白痴は千人に対して二人くらいしかいない。しかし紡績工の児童は尠くともその三倍以上だと推断することができる。
資本はかくのごとく、次の世代まで喰い物にして、成長する。和喜蔵の一人息子もその犠牲となった。次の世代という人類の大課題に対する基本姿勢は今もこれと同じか、あるいはさらに悪い、次の次の世代も、何十、何百世代でも喰い物として、儲かると見ればヘーキである。もう人類とは共存できないところへきている。


 一人残された妻も生きていかねばならない、夫と息子の骨壷を重広虎雄宅にあずける。やがてそこから藤森成吉宅へ移され、さらに千葉県のある寺の東京出張所へ預け料を払ってあずかって貰ったという。
骨を埋める墓地一つもない。日本の解放軍無名戦士には墓もない。
 「細井和喜蔵遺志会」に贈られた『女工哀史』の印税の一部をもとにして青山墓地の一角に「無名戦士墓  細井和喜蔵遺志会」と彫った自然石が置かる。昭和10(1935)年でひそかに建てられた。戦後になって「解放運動無名戦士墓」と4文字が加わり、細井をはじめ戦前・戦後に平和と民主主義を守るたたかいのなかばで一命を失った人々が合葬されている。毎年、パリ・コミューンの記念日の3月18日に慰霊合葬追悼会が盛大に行なわれているという。
今ではその数3万人以上、二つから推薦があれば誰でも合葬してもらえるとか。与謝野町はどうか知らないが、舞鶴からも何名か立派な方があるようである。

 この合葬墓に似せて作られているのが、生家近くに立てられた「細井和喜蔵碑」である。




細井和喜蔵の主な歴史記録

『丹後路の史跡めぐり』
加悦奥駒田の鬼子母神祠の右手に細井和喜蔵の記念碑がある。和喜蔵はみずからの体験から「女工哀史」を書いて、急激な資本主義の発達のかげに低賃金の中で過酷な労働を強いられた悲惨な女子工員の実態を世間に訴えて大きな反響をまき起こした。その功績をしのぶ同志たちの手によって昭和三三年十一月に建てられたものである。
 和喜蔵は明治三十年五月九日、天田郡夜久野村板生小字現世より入聟となった市蔵を父とし、りきを母として加悦奥に生れた。父は通称「幸はん」と呼ばれていたが、祖母うたと不仲で、和喜蔵の生れる前に離縁となって夜久野へ帰って再婚している。母りきは和喜蔵が六才の時、家の上のため池で入水自殺をしている。機屋の主人の子を宿して世間態を恥じたためである。母なきあとは祖母の手で育てられたが、祖母がなくなってからは機屋の小僧、電気会社の油差しなどをやり、大阪へ出てモスリン会社の工員となってストライキの指導などをした。この間同じ職場の堀としをと結婚、労働のかたわら著述に励んだが、大正十四年五月、永年の念願であった「女工哀史」を二年ぶりで完成させ、改造社から出版されてがぜん世間の注目をひいた。しかし永年の無理がたたって同年の八月十八日東京の博愛病院において、僅か二八才の若さで病没した。友人たちによって「南無無産大居士」と戒名がつけられ東京の青山墓地に葬られた。昭和三一年八月二三日には加悦町実相寺で未亡人としを招き「細井和喜蔵さんを偲ぶ会」を催している。


『京都新聞』(98.5.16)
*ふるさと第3部まちかどの記録〈14〉*細井和喜蔵碑*「女工哀史」の思い後生に*
 加悦の町並みを望む鬼子母神社(加悦町加悦奥)。静かな境内の一角に、「女工哀史」の著者、細井和善蔵(一八九七−一九二五)の顕彰碑が建つ。
 和喜蔵は、二十歳前後に大阪へ出て紡績工場などで働いた後、上京。著述活動を始め、紡績工場の過酷な労働条件の下で働く女性の悲哀を描いた「女工哀史」を発表した後、二十八歳で病死した。
 プロレタリア文学の作家として知られているが、毎年十一月下旬に、労組などが、同碑前で「和喜蔵祭」を開くほかには、地元であまり話題になることはない。「短命で、生前の写真が少ないために、和喜蔵をイメージできないのでは」と同祭事務局は言う。
 だが、生誕百年を迎えた昨年には、新しい動きも。功績を再評価、研究する「細井和書蔵を頻彰する会」準備会が発足し、今年十一月の設立に向けて、準備が進む。同町内の郷土史家、杉本利一さん(七二)は「働くことの尊さや過酷な労働の様子を訴えた功績を語り継いでいきたい」と静かに話す。
 〈メモ〉1958年11月、労働組合や地元関係者らが建立。碑は高さ1b弱、幅2b、奥行き1b。「女工哀史細井和喜蔵碑」と刻まれている。


関連情報

細井和喜蔵を顕彰する会



資料編のトップへ
丹後の地名へ


資料編の索引

50音順

丹後・丹波
市町別
京都府舞鶴市
京都府福知山市大江町
京都府宮津市
京都府与謝郡伊根町
京都府与謝郡与謝野町
京都府京丹後市
京都府福知山市
京都府綾部市
京都府船井郡京丹波町
京都府南丹市

若狭・越前
市町別 
福井県大飯郡高浜町
福井県大飯郡おおい町
福井県小浜市
福井県三方上中郡若狭町
福井県三方郡美浜町
福井県敦賀市






【参考文献】
『角川日本地名大辞典』
『京都府の地名』(平凡社)
『加悦町誌』
『加悦町誌資料編』
『丹後資料叢書』各巻
『郷土と美術』88号(86.10)、ほかの号にもあるが、私は読んだことがない。
その他たくさん


Link Free
Copyright © 2012 Kiichi Saito (kiitisaito@gmail.com
All Rights Reserved